ニヤンコポンと踊る黒猿〜山口昌男『アフリカの神話的世界』(1)(09.11.20)
たぶん皆様も御承知のとおり今のタイの国家元首は「
プミポン国王」(2026年追記:2016年に逝去)。じっさい平和主義者で政治的手腕にすぐれた明君でおいでらしいですが、
なんだか名前だけで「
悪いこと出来なそう」と思ってしまうのは日本語圏の人間だけか。だって「
おのれ許すまじ、暴虐非道の悪魔プミポンめ!」
とか、あまりにも似合わない…
今月はじめ神田の古本まつりで買ってきた岩波新書の青版・
山口昌男『
アフリカの神話的世界』を、そろそろ読み了えるところ。中西部アフリカはアシャンティ族の神話に伝わる造化神の名が
「ニヤンコポン」というので、うかつにも笑ってしまった。小さなャの「ニャンコポン」まして「ニャンポコリン」でなかったのが、まだ救いというべきか。それでもどうにも「
妖怪ネコダヌキ」みたいな姿しか思い浮かばない。
同書によれば(念の入ったことに)ニヤンコポンは別名
「オドウマクマ」また尊称として
「オニヤメ・パンイン」「アナンシ・クロコン」を持つというのだがー猫だかタヌキだか馬なんだかクマなんだか、どれもが少し脱力系のユーモラスな語感に思えてしまうのは、繰り返しになるけど日本語圏の人間だけなのでしょうか。いやいや分からんぜ、「フランス語のどこがお洒落だよ、
かわいいを
ジョリとか言う言語だぜ」という意見もある(
四方田犬彦『
待つことの悦び』)。中西部アフリカあたりの言語感覚においては「
ニヤンコポン」
が、その語感だけで畏怖の象徴・かたじけなさに涙あふるる、荘厳の極致のような字並びかも知れないではないか。
…
すまん、嘘だ。どうやら当のアシャンティ族においても、造化神ニヤンコポンが畏れや崇敬の対象であるかは怪しい。それが証拠に、同書で続いて紹介されている人類創造のエピソード。もう旧い本だし、けっこうな名調子なので長く引かせてもらいますが:
「はじまりの時に至高神ニヤンコポンは、彼に属する鍛治師のムブソを、二ダースの人間と動物を造るために降臨させた。人間を造るのは動物を造るのよりはるかに難しかったので、ムブソは人間を一ダース、動物を二ダース造っただけであった。それでも、それには造化神が考えたよりはるかに時間がかかっていた。
「待ちくたびれたニヤンコポンは、彼の伝令長のイフ(黒猿)を送って様子を見させることにした。イフは出発したが、アクリクレウで彼の友人達がオダンサムという戦争踊りを踊っているのに出遭った。彼自身が陽気な若者だったので、彼はここで一緒に踊り出して、ムブソのところへ行くこともニヤンコポンの所へ帰ることもなかった。
「ムブソもイフも何時まで待っても帰らないので、オドウマクマは自分で様子を見に行くことにした。途中でニヤンコポンは、イフが戦争踊りを踊っているのに出遭った。「どうしてこんな所でお前と出遭っちゃったのかね」と神は聞いた。イフは自分の名前だけは後世に遺して下さいというだけでひたすらに恐縮して、弁解することすらできなかったので、神はこれを大目に見て、鍛冶師のところへと先を急いだ(以下略)」
けっきょく鍛冶師ムブソが造った都合3ダースの動物や人間に神が生命を与え、もろもろ地に満ちるのだけれど…あえて言う、
「どうしてこんな所でお前と出遭っちゃったのかね」…
こんなユルい創世神話いままで聞いたことない。ニヤンコポンにせよ、オドウマクマにせよ、おそらく現地の人たちの語感においても緊張感うすい単語なんじゃないかなあ、と邪推する次第。
ただ、念のためWikipediaをあたったところ、タイのプミポン国王は正式名称
プーミポンアドゥンラヤデート王で「
大地の力・並ぶ事なき権威」という意味になる由(タイ語では略したりしないらしい)。けっこう畏れ多い御名前なのだ。ニヤンコポンだって分かりませんぞ。
十字路と、悪魔に魂を売った男〜山口昌男『アフリカの神話的世界』(2)(09.11.25〜29)
山口昌男の岩波新書青版『
アフリカの神話的世界』読了しました。面白かったです。わけても興味ぶかかったのは、タイトルであるアフリカ的世界が西欧文化と接しての「その後」を論じた終章。
いちおうイチから(そして話を上手くまとめようとするあまり、恣意的にねじ曲げる部分や、こぼれ落ちる部分があることに注意していただきつつ)説明すると
同書で紹介されているアフリカ神話の主な主役となるのは「
トリックスター」と呼ばれる半神半人の英雄。ここで「
マギー審司や引田天功のことじゃないですよ」と
ボケるのもお約束。トリックスターは道化者・いたずら者にして秩序の撹乱者。日本でいうとスサノオの壮大さに彦市や吉四六のトンチを合わせたような感じ?西欧でいうと神から火を盗んで人に与えたプロメテウスがそれに近く(というか等しく。じっさいアフリカ神話でもトリックスターが人間に水やら食べ物やらを盗み与える話がある)つまり、その道化た振る舞いには神の世界と人界(あるいは王の権威と下々の者たち)の
区別をぶちこわしつつ
橋渡しし・
つなげる役割があり、なのでアフリカのトリックスターは各地の産物が橋渡しされつながる「市場」や、外と内を結ぶ「戸口」・道と道が交わる「十字路」などに像が置かれ祀(まつ)られる。
※くどいようですが、かなり話を簡略化・方向づけしています注意。
※あと為念ですが前の日記で取り上げた造化神ニヤンコポンや黒猿にはトリックスター的要素は希薄です。
さて、こうした世界観・神話をもつアフリカ世界はヨーロッパの列強に開かれることで文化的な浸透あるいは侵略を受け、さらに暴力的には奴隷として人々がアメリカ大陸に連れ去られるなどの形で、いやおうなく西欧文化と接触し、それに呑み込まれたわけです。
けれどキリスト教伝来以前のケルトの神々や風習が一方では悪魔や悪鬼として追放され、一方では地母神→マリア信仰・冬至祭→クリスマスと取り入れられたように(同書では日本において「
の浸透によって放逐された地祖神が逆に弘法塚などに変じて各地で祀られた」という
折口信夫の指摘が紹介されている)キリスト教的な世界に膝をついた後も、人々のなかでアフリカの神々や英雄への信仰・帰依はつづいている。
* * *
アフリカ神話の主人公たちを半神半人と書いたけど、正確には、さらに半獣でもある。「蜘蛛」「亀」といったキャラクタは蜘蛛であり亀だが同時に人としてイメージされている由。たぶん(前に取り上げた)黒猿も同様なのでしょうね。
話を戻します。新着の宗教に圧倒された旧来の神々は、あるいは悪魔や悪鬼として追放され、あるいは形をかえて新教の中に組み入れられる。西欧のキリスト教文化に呑み込まれたアフリカの土着の神々もまた、一方では(キリスト教会により)悪魔と認定され、一方では(民間信仰の中で)本来アフリカの神であったエシュが聖ペテロに・レグバが聖アントニオにと、キリスト教の聖人と同一視され、崇敬を集める事態ともなっているらしい。
中南米および合衆国南部で信仰されるブードゥー教は、アフリカの民間信仰に聖母マリアやキリスト教聖人崇拝のアイテムを取り入れたもので(という理解でよいのか?)『アフリカの神話的世界』は、その儀式で最初に呼び出される精霊
レグバが
「十字路と戸口の守護神」であり、その象徴となるヴェヴェ(呪物)が
十字架であることに着目している。
同書によれば
「この十字架は、形こそはキリスト教の十字架と似ているが、意味するところは大いに異なってい」て、それは天と「永遠の憩いの場」である深い海底の島を結ぶ
垂直の板(精霊の通路)と、この世のものである人間の地平を意味する
水平の板の交わりであるという。
「人間的な地平と神的な軸が交差する十字路においてのみ、神的なものとの接触が生ずるのであり、この十字路を守護するものこそ他ならぬレグバである」
そしてこのレグバと名のよく似た「
リバ」は、トリニダードやニューオリンズで「
十字路を支配する悪魔」をさす。という同書の説明に
「ああ」と思ったのは僕だけではないだろう。少し洋楽に詳しい人なら、1930年代のアメリカ南部で
「十字路で悪魔に魂を売ってギターの超絶技巧を手に入れた」と言われ、のちのブルースに多大な影響をあたえた伝説のギタリスト(当時のことだから言うまでもなく黒人である)
ロバート・ジョンソンの存在を知っているはずだ。『アフリカの神話的世界』はアメリカ南部の黒人たちが、キリスト教では否定的に捉えられている「悪魔」を畏れ崇拝しているという1900年ごろの報告を取り上げたうえで、
この「
悪魔」
がキリスト教のそれではなく、悪魔の名のもとに封印されたアフリカ本来の神々であることに注意を喚起している。ロバート・ジョンソンに十字路でギターテクを売りつけた悪魔も、大西洋を隔てて遠くアフリカ西海岸に起源をもつ神々の一柱だったと思えば、世間で流布しているイメージとはまた別の感慨がわいてこないか。
そう考えると、エシュやレグバ・蜘蛛のアナンシといったアフリカのトリックスターたちの音楽的な側面が、1971年の岩波新書ではあまり語られていないのが残念といえば、すこし残念だ。きっとあるだろうに。
* * *
『アフリカの神話的世界』は岩波新書のいわゆる
青版。戦前に起源をもつ岩波新書は赤版→青版→黄版→平成になるのに合わせてかな、現在の新赤版と推移しており(ちなみに新赤版の一冊目は大江健三郎の『新しい文学のために』)具体的には『
アフリカの−』
が出たのは1971年。それから今までの間に世に問われた、網野善彦や阿部謹也による中世史・社会史の成果を知っている人なら、アフリカの神が宿る戸口や十字路といった場所と、中世のヨーロッパや日本で「アジール」となった橋や路地といった場所の類似に気がつくと思う。
だが、そうした予備知識のない人でも(阿部氏も網野氏も亡くなった今、彼らの社会史やアジール研究が急速に忘れられ、とくに若い人がそれを知る機会すらないとしても、残念ながらあまり驚くにはあたらない)
アフリカやブードゥーの神話がもつ十字路や十字架の意味で、キリスト教の十字架を見直してみたら−とは誰もが自然に思いつくはずだ。
たしかに『アフリカの−』が指摘するとおり
「レグバ神の象徴(ヴェヴェ)である十字架は、形はキリスト教のそれと似ているが、意味するところは大いに異なっている」キリスト教の十字架はあくまで、イエスが刑死のためかけられた刑具・受難と犠牲の象徴である。けれどブードゥの十字架が
「人間的な地平と神的な軸とが交差する十字路」だという時、それは
神の子でありながら人の子として受肉し、神と人を橋渡しした救世主にもまたピッタリな「象徴」ではないか。
ユダヤ教ひいてはキリスト教が興ったパレスチナと、エシュやレグバを崇めるアフリカ西海岸とは、地理的にもそう遠くはない。しかし、わざわざ伝播の可能性を有無せずとも「十字路や戸口・橋など交通のある場所に、神と人の交錯も発生する」という発想は、それこそ日本をふくめ世界中で普遍的なものだ。現在では受難や、人々の罪を代わりに償った象徴とされる
キリスト教の十字架も、そのシンボルが選ばれた最初期には、十字路が持つ神話的意味を大いに意識していたと考えて何の不自然もないはずだ。
『アフリカの神話的世界』はヴードゥーのレグバ神・その十字架の象徴性について、起源であるアフリカの
「ヨルバ族のエシュ=エレグバが持っていたようなトリックスター的側面を欠落させたかのように見える」「しかしエシュ=エレグバの持っていた形而上学的可能性は一歩進められた」と述べている。トリックスター的側面=いたずら者のユーモアを欠落させた・しかし思想的には洗練された優等生という評価は、そのままナザレのイエスにも当てはまるだろう。結婚式の客全員に行き渡るパンを何処からともなく現出させたり、神殿の周囲の両替市場にいきなり乗り込んで破壊したりといった行為は、そして何より、愛(アガペー)という概念を使って、
神と人の絆をもういちど取り結ぼうとした彼の哲学は、山口氏がいうところの
「事物を固定させてついには死の論理を日常生活に定着させ、人間が人間を支配し、人間が事物を支配し、世界における創造的活力を枯渇させる秩序(中略)
に対する「反秩序」としてあらわれるエロス」そのものではないか。物語・逸話としての聖書が語るキリストの言行は、彼もまた、西アフリカのエシュや蜘蛛・日本のスサノオ(そしてブードゥのレグバや、ロバート・ジョンソンの魂を買った十字路の悪魔)の兄弟=トリックスターの末裔であることを示しているのだ。
そしてこの「かけはなれていたはずの二つの事物を取り結ぶことで、固定化し生命力の枯渇した世界をふたたび活性化させる」ことこそ、つねひごろ物語物語いうてる自分が夢みる「物語の理想」でもあるわけです、が、これは前にも書いたし余計かも。