地上には居られないほど〜シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』(26.03.08)
今週の日記(週記)にはb>シモーヌ・ヴェイユ
『前キリスト教的直観 甦るギリシア』(原著1951年/今村純子訳・法政大学出版局2011年/外部リンクが開きます)の核心?に踏み込んだ記述があり、これから読むので先に内容を知りたくないひとは(後半に出てくるヤン・パトチカも)スキップ推奨です。まあ自分ごときの上っ面の理解で原典の汲み尽くせない興趣がそう削がれることもないと思いますが。そしてむしろ「なんだ、この程度の本なのか」と誤解され読まれなくなるほうが心配ですが。
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近年は夏目漱石や澁澤龍彦の漫画化を手がけて評価の高い
近藤ようこ氏。自身も「最も好きな作品」と語る
『水鏡綺譚』(→ちくま文庫2015年/外部リンクが開きます)は狼に育てられ「(良い)人間になること」を目指す少年ワタルと、記憶を失なった少女・鏡子(かがみこ)、二人の「まだ(もう)人間でない者たち」の旅路を描く傑作だ。先取りして結末を言ってしまえば、鏡子の記憶は戻り、ワタルもどうやら人として生きていけそうな見通しを得て終わるがゆえに、もう共に旅をつづける理由はなく袂を分かつのが(えーナイスカップルなのにと)喪失感きわまりない。けれど元々は未完で、人でない状態の鏡子を愛おしく思ってしまい「このままでは自分は当人のためにならない愛(執着)で鏡子をダメにしてしまう」とワタルが歯を食いしばる場面で中断されていた、十年くらい経って加筆され大団円を迎えるとは思わず「なんて悲しい話なんだ…」と読む当方も歯を食いしばっていた作品なので、完結はまことに喜ばしかったのだが。
そんな鏡子の「人間でなくなってしまった」さまを雄弁に活写するエピソードは中盤あたりにある。
あ、言い忘れていましたが物語の舞台は戦国時代の日本です。大河ドラマや網野善彦の世界。寄る辺ない主人公たち二人は行く先々で貧民救済の施しにあずかって旅を続けているのだが、他にも施しを求める人たちが列をなす中、ワタル・鏡子・それに通りすがりの男という三人でひとつの粟団子を施される。受け取った鏡子は団子を二つに割り、ワタルと通りすがりの男に渡すのだが、二つに割ってしまったもので自分の取り分がない。それじゃダメだろうとワタルにたしなめられつつ童女のようにポカンとする鏡子。それは微笑ましくも気高いように見えて、しかし記憶とともに自分が人間であることも忘れてしまった鏡子の悲劇でもあった。
だが実は善意や施しとは、時に・しばしば「自分の取り分まで他人に分け与えてしまう」無私を、人に要求するものではないだろうか。端的に言えば、電車の中で人に座席を譲れば、自分は立つしかない。救世主と讃えられるイエスに、一人の青年が問う。どうすれば神の国に入ることができますか。イエス答えて
「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい(中略)
それから私に従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(マタイによる福音書19.16・新共同訳)。盗賊に襲われ傷ついた旅人を救けた「善きサマリア人」も、旅人のために全財産を差し出したわけではないだろう。それに比べると苛烈に過ぎるイエスの教えだが、それですら「そのあと私についてきなさい」というからには命まで他人のために捨てろと言っているわけではない。
ただしイエス自身は自分の命まで他人に分け与えてしまった。そしてイエスと同様に、自分の命まで他人に他人に分け与えてしまう人たちがいる。そのこと自体を責めているのではない。極限状況ではかかる事態もありうるだろう。だが(この国であまりに多くの人々が「天皇陛下のために」自ら命を投げ打ったように
間違った対象に命を賭けてしまうのは別としても)人のために座席ばかりか命まで譲るのは、事実として、もう人であることを失なった状態なのだと鏡子は教えてくれる。だからこそ、それは人にとっては「極限状況」=人間である条件すら剥奪された状況なのだ、とも言える。
ナザレのイエスは鏡子とは別の意味で人ではない(いや人でもあるんだけど)神の子であった。だから神としての彼は、己は命を投げ打ちながら(そして人間として「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と苦悶しながら)、救いを求める人間の命までは奪わず「すべてを捨てて、そのうえで(残った命ひとつで)私に従え」と言ったのではなかったか。
* * *
昨年の読書旅行(
今年1月の日記参照)から続いていたギリシャ悲劇『アンティゴネー』(
しかしタイミングが取れず未読のまま)との縁。
ジャック・デリダが先立つ『コロノスのオイディプス』で父オイディプスが死に場所を明かさない行方知れずとして最期を迎えてしまったため、娘として嘆き弔う喪の権利を奪われてしまったアンティゴネーの悲嘆を語り、
ヴァージニア・ウルフは『アンティゴネー』で今度は造反者として埋葬を禁じられた兄の葬儀を遂行し、みずからも落命するアンティゴネーの悲劇をとおして(兄=自身にとっては甥の弔いを禁じた)テーバイのクレオン王を、女性の意志を抑圧する家父長制の権化として告発した。
この流れで実は
シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』(
先月の日記参照)にもアンティゴネーが登場していた。自分としては、この順番で良かった。クレオンが国家の法(≒家父長制)を、アンティゴネーが愛や親族の・あるいは大地の法を代表するという、デリダやウルフも踏まえている読解を究めた結果、またもヴェイユは極限まで進んでしまうのだ。
国の法に逆らった者の追悼を禁じる王クレオンに対し、ソフォクレスが描いたアンティゴネーはこう抗弁する。
「わたしは憎しみをわかち合うために生まれて来たのではありません。愛をわかち合うために生まれて来たのです」
「アンチゴネー(中略)
のこの最後の一文はすばらしい」とヴェイユは書く。だが続いて彼女はこうも書くのだ。
「だが、クレオン(略)
の言い返しはさらにいっそうすばらしい。」その台詞とはこうだ:
「それならあの世に行くがよい。愛する必要があるならば、あの世の者どもを愛すればよかろう」(強調は引用者)。
アンティゴネーが、というか人間が愛せるのは死者だけだと
「この世界で愛することは、許されてはいない」とヴェイユは言う。なぜなら真実も真の愛も、この世の外にしかないからだ。神の統べる天上も、死者たちとともに神が住まう地下の冥府も、本質(もうひとつの世界)に変わりはない。だからアンティゴネーは(つまり人間は)死者しか愛せないのみならず、真に愛するためには自らも冥府に去らねばならない。それを冷徹にあばき、かえって姪を導くがゆえに、ヴェイユにとってクレオン王の死刑宣告は
「すばらしい」ということ、なのだろうか。
それはあまりに苛烈が過ぎる。だからこそ彼女の思想は自分(を含めた読者を)惹きつけるとはいえ。
シモーヌ・ヴェイユの「悲劇的なほどの明晰さ」を最初に感じたのは、実際に彼女が女子高等中学(リセ)で講義した記録である
『ヴェーユの哲学講義』(原著1951年/渡辺一民・川村孝則訳・ちくま学芸文庫1996年/外部リンクが開きます)でのことだったと思う。以前まんがにもしている話を(もう忘れられてるか知られてもいない可能性が高いので)再び蒸し返すと

それより以前から「人間は三つの点の間に勝手に線を引いて『三角形』を見る」というゲシュタルト心理学の発見を梃子に「物語とはバラバラの点(事物)のあいだに線を引き、星座をつくる営為ではないか」という観点で僕は自身の物語論をあたためはじめていた。だとすれば現実の世界において「人は平等だ」とか逆に「世界の中心で輝く日本」とか言うのも、自分にとっては物語だ。そして正三角形を上下さかさに(上に点がふたつ・下の真ん中に点をひとつ)すれば、それだけで人の顔に見える→かつて一世を風靡した「恐怖の心霊写真」が大概そうした誤認であったように、
人は間違った線も引きうる等々。だがそれは措く。詳しくはこちらをどうぞ→
電子書籍『物語の話をします』試し読みページ

(外部リンクが開きます)
そこにも書いたとおり、それとほぼ同じことを
「人は二つの点の間に線を見てしまうよう呪われている」と書いたのがヴェイユで、三つでも良かった点を二つという最小単位まで切り詰める徹底ぶりと、それを
「呪われている」と呼ぶ彼女の悲劇的な明晰さに震撼させられた。

邦題では「甦るギリシャ」と副題がついた『前キリスト教的直観』は(不勉強で詳らかではないが、たぶんアリストテレスとキリスト教の融合を図ったのだろう中世ヨーロッパのスコラ哲学、とは別の仕方で)アリストテレスを飛び越え、もっと以前のギリシャ哲学を後に出現したキリスト教の本質を予言する(古代ギリシャはキリストの出現で初めて成就した)ものとして、両者を力業で結びつける試みだ。
具体的にはプラトンのイデア論は「真実はこの世の外にしかない」という上述した『アンティゴネー』読解にも見られる思想を語り

同じ根を「持たない」数字どうしを結びつけ調和させる(
「似ているものや同じ根をもつものに、調和は必要ではない」)幾何学あるいは関数というピタゴラス派の発見を、人と人・人と神・人と「この世界にはない」真実を媒介するイエスの存在に結びつける。
ちなみに、この「媒介者としてのイエス」という着想は、アフリカの神話伝承からアメリカでのブードゥー信仰・ひいては「悪魔に魂を売ったギタリスト」ロバート・ジョンソンの伝説まで連なる十字路(クロスロード)の神話的位置づけにもつながるものだ。そのあたりを
山口昌男『アフリカの神話的世界』に基づき詳らかにした
2009年11月の日記を
サルベージし忘れていたので急遽サルベージしました(ダメな子…)。こうしてアフリカにも遡る・波及できる哲学が古代ギリシャまでしか掘り下げられず、西洋の哲学や現代思想においてまでギリシャがすべての起源のように扱われてしまうことへの不満・歯がゆさについては、別の場所で小出しにしているし、今後も小出しにしていくでしょう。
けれど話の核心はやはり、そうして「媒介者である神の子イエス」を古代ギリシャと(力業的に)結びつけたヴェイユの、人でない半神であるがゆえに成しえた(と僕には思われる)イエスの十字架での死を、人もまたなぞるべきだ・なぞるしかないという結論だ。
細かい論証は端折る。神も真実も愛も、この世の外にあるとするヴェイユの推論は、力が支配する現世では認められない真実や愛のためには(アンティゴネーがしたのと同様)人は命を投げ打つしかないという結論に至る。そして言うのだ、
「犠牲は人間の唯一の目的であり(中略)
人間がその凡庸さと傲慢さにもかかわらずその存在を許されているのは(中略)
神への愛のために、人間がその存在を放棄できるようにするためである」
大昔に大学受験のために紐解いて、結局あまり身につかなかった英文法の例文集に「
二人の恋は地上で成就するには純粋すぎた」という言い回しがあった。
身につかなかった証拠に英文でどう言うのかは全く憶えていないのだけれど、この言い回しが実は、ただ単に「二人の恋は成就しなかった」心変わりだろうがケンカ別れだろうが、恋人どうしが破局に至ったとき周囲が「ああ、地上で成就するには純粋すぎたんだね」と話をボカすためのフレーズだと知り、なんかちょっぴりガッカリした記憶がある(
身についてないので記憶違いかも知れません)。しかしこの「現世には存在できないほど純粋」という言いようは長く自分の脳裏に刻まれ、たとえば今こうしてヴェイユの殉教的な思想を垣間みた反応として自ずと出てしまう。
たしかに理屈として間違ってはいない。他の者が妥協してウヤムヤにしてしまう極限まで突き詰めた論理・倫理は、自分を(人を)強く惹きつける。だがその純粋さは人が現世に生き、現世を・現世で愛することを洞窟に映った影(偽り)として否定せずにはいられない、惹かれて近寄る者をそのままで焼き尽くしてしまう炎のような「正しさ」ではないか。
* * *
デリダ『歓待について』で紹介されていたチェコの哲学者
ヤン・パトチカ(1907〜77)もまた、ヴェイユと同様の慄きを読み手に与える思想家だった。
その主著
『歴史哲学についての異端的論考』(原著1975年/石川達夫訳・みすず書房2007年/外部リンクが開きます)はフッサール・ハイデガーの批判的継承からヨーロッパの哲学史を独自の視点で凝縮した一冊。読むと(こんな形で西洋哲学史を要約できるんだ)と感心しきり。あらためて、カフカがおりチャペックがおり、ムカジョフスキーのチェコ構造美学論(
24年12月の日記参照)があり、美術ではミュシャがおりと…あらためてチェコってヨーロッパ文化の奥の院・裏の首都くらい存在感あるんじゃないか…て24年12月にも似たようなこと書いてますが。少し抜粋すると
「魂の配慮は(中略)
ローマ帝国において(略)
法的な状況(法的な公正さ)
を求める努力という様相を帯びる」
すなわち
「自由はもはや、自分と平等な者たち(他の市民たち)との関係によってではなくて、超越的な〈善〉との関係によって規定される」
そのような形(正義や公正が人間同士ではなく神=超越的な善のための義務として遂行されるという形)で
「魂の配慮は、ヨーロッパを創り出したものなのである」
しかし
「西ヨーロッパの生活における大きな転換期は、十六世紀であるように思われる(中略)
魂の配慮、在ることの配慮ではなくて、持つことの配慮、外的な世界とその支配についての配慮が、優勢になる」
いいでしょお?
「生はもういいかげんに喜んで生きたいのだが(強調は引用者)
、しかし、戦争を生み出すのはまさに生自体なのであり、生は自らの手段によって戦争から身をふりほどくことができない(中略)
我々が〈力〉を支配して〈力〉の助けを借りた安全保障を期待すると思っている所で、我々は実際には(略)
狡猾に形を変えても終わっていない戦争に負けているのである。(略)
このような見通しの終わりは、どこにあるのであろうか?」
という慨嘆には、ヴェイユの「力」への軽蔑に通じるものがある。
しかしながら
「真理を持つこと」より
「真理を探求すること」に重きをおいたことでソクラテスは
「恐らく最大の哲学者ではないにしても最も真の哲学者である」としたパトチカもまた、ヴェイユとは別のかたちで「滅私を通じてのみ到達できる真実」という発想に与しているように取れなくもない。二つの世界大戦に立ち会った彼は、前線でぶつかる兵士たちに敵味方を超えた共感・魂の震えを見出していると読めてしまう―そして僕は、そのような形での戦争の称揚(とも取れかねない主張)に危うさを憶えてしまう。
実際ヤン・パトチカは70歳にもなって、後に民主化チェコの初代大統領となったハヴェル(
ああハヴェルも読まなきゃなあ)に協力し、まだ全体主義まっただなかの状況下で民主化を訴える「憲章77」に協力し、苛酷な訊問がもとで落命してしまう。ヴェイユと同様、それが自身の哲学や善にたいし忠実だった・誠実だった結果なのは分かる。ただまあ、真正直に究めたら本人が命を投げ打たざるを得ない哲学って…「何だ」とか「それでいいのか」とかは言えない。言えないけど、その苛烈さにたじろぐ自分がいる。
ちなみにデリダ『歓待について』の共著者であった
アンヌ・デュフールマンテルも、ちくま学芸文庫の訳者あとがきによれば2017年
「溺れかけた子どもを助けようとしてみずからが溺れ死去」したという。日本でも同様の亡くなりかたをした漫画家のかたがおられましたね…自作のキャラに安倍政権批判を言わせるイラストを投稿し「政治を持ち込むな」と批判されたりもしていたのではなかったか。それはまったく正しい・「溺れかけた人を助けようとするのは危険」といった常識とは別の次元で正しいとしか言いようがない行為だと「は」思うのです。けれど、それだけが哲学か、「善も愛もこの世の外にしかない」以外の善や愛はまやかしなのかと思う心情も(まだ)大事にしたい。
ヴェイユが選んだ衰弱死という末期より、生きて残した思索が後の人々に残した麦(一粒の麦もし死なずば…の麦ですよ)として劣るかと言えばそんなことはないと思うし、亡くなった漫画家さん(ものすごい商業的成功を収められた方だった)もそうでしょう。
こんなあたりで悶々うろうろとしながら、日々電車で座席を譲っております。
* * *
ヤン・パトチカについて、もう少し書きたいことがあるのだけれど(
本サイトあるある=実は今週の日記はその「マクラ」で納まるはずだった)来週は
確定申告の〆切があるので少し先になるかも知れません…

(追記)おおむね奇想に溢れ、おおむねサッパリ分からない現代宇宙論のなかでも、きわめつけの奇想かつ最強に意味不明なホログラム宇宙論。トマス・ハートッホとの共同論文に、より分量の多い解説を加えた
スティーヴン・ホーキング(およびハートッホ)『ホーキング、最後に語る 多宇宙をめぐる博士のメッセージ』(原著2018年/佐藤勝彦・白水徹也訳と解説・早川書房2018年/外部リンクが開きます)を読むと、相変わらずサッパリ分からないんだけど「ブラックホールが有する情報は(三次元の)内部ではなく(曲がってるけど面としては)二次元の表面にすべて現われている」という話が、漠然と(つまりホログラム宇宙論も同じようなもの?)とイメージを描く手助けになった感じ。
この分野には特別に不案内なので、間違ってる可能性も限りなく無視できないのですが。
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