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オスの報い〜『キッズ・オールライト』(11.06.03)

 月に一度の映画ファーストデイ。先月すでに気になってた『THE KIDS ARE ALRIGHT(邦題キッズ・オールライト)』が、まだ上映されていたので有楽町で観てきました。予告編はこちら
 以下ややネタバレあり(本当に核心はタタミます)
 物語の主人公となるのは20年くらい連れ添った女同士のカップル。それぞれ精子バンクから(同一の男性の)精子の提供を受け、18の娘と15の息子の二児をもうけている。そこへ書類上でしか知らなかった精子提供者=子供たちの遺伝上の父親が現れ、やがて事態は三人の親たちの三角関係へ…という話。えー、語弊がなければいいのだけれど、「SFじゃないんだ、これ」というのが、けっこう衝撃でクラクラきた。40年前いや、つい20年前にアーシュラ・K・ル=グィンや大原まり子さんがSFのフォーマットでやろうとした・SFでしか出来なかったことが、もはやアメリカ郊外の現実なのだ。あらためて、今はもう21世紀なんだと思い知らされたのである。
 そんな感慨はよそに、お話も面白かったです。
 「二人のママ」は役割上、夫と妻を分担しているのだけれど、それだけでは足りない父親分・オトコ分みたいなものを(お株を奪われ、いじける夫役のママ以外は)息子も娘も妻ママも、見知らなかった精子提供者の男性に求める。自分が提供した精子の行方など気にもかけてなかった男は、急に二人の子供が現れ、持ち得なかった家庭の夢を見る。が…。
 物語はSFのように未来的に新しい三人親の家族関係を作り出しはしない。面白うて(あ、コメディです。会場けっこう笑いの声)やがて悲しき、苦い結末。でも題名のとおり「子供たちはだいじょうぶ」。
 二人の子供、かわいいです。あと長女(もうじき大学に進学するインテリ少女。ブロンドだけど戸田恵理香似のミア・ワシコウスカさん)のダメ友娘がいい。カタブツの長女ちゃんがあきれ怒るくらい頭の中がセックスセックスなのだけど、最後いろんなことで疲れ果てた長女が逃げ込む処も、そんな彼女をただ「よしよし」するのも、そのダメ友娘だという最後の最後のワンカットだけで大逆転。あれは巧い。
 精子提供者の男性のガールフレンド(エチオピア系だったかな?)もセクシーでキャラが立っている。
 そして生物学上の父親。大学生のとき「献血より好いかなと思って」60ドルで精子を売ったみたいに(冗談半分でも)言うだけあって、良くもあしくも考えなしで調子がいい。でもそれが男性という性自体が不可避的に持つ哀れな愚かさというか、その特性でしか出来ない役割を果たしつつ、その特性にふさわしい報いを受ける。つまり
★ここから作品の核心なので記事をたたみます。(クリックで開閉します)。 ★たたんた部分ここまで。
 生物のオスって悲しい存在だなあと思ったのでした。もちろん他の視点からみた感想・感慨もある。男女とりまぜ観に行って、わいわい話し合うのに好い素材かも知れません。
 ちなみに映画全編70年代ロックの宝庫で、そんだけで好きな人は楽しいはず。肝心の「THE KIDS ARE ALRIGHT」は最後のほうで愛らしくアレンジされたインストゥルメンタルになっていたような、なってなかったような。
 

PG12(パトリシア・ゴッジ12歳)〜『シベールの日曜日』(11.06.06)

 名画リバイバル企画「午前十時の映画祭」で『シベールの日曜日』を観てきました。いつものとおりネタバレ+なのに分かりにくい等は御容赦。1962年フランス制作。白黒作品。今回の再上映ではPG12(12歳未満の観覧には親又は保護者の助言・指導が必要)で、それはそうだよなーとも、それはなぜ?とも思う。
 というのも、戦争で心に傷を負った青年(ちゅうても30前後だが)と、孤独な12歳の少女の交流を描いた物語。そんだけで見た目が怪しいです。12歳の女の子が30男に「結婚しましょう」とか言ってチューとかするし、最初は主人公が本気でストーカーにしか見えない。
 でも話が進むにつれ、主人公はお金の使いかたも忘れたほどの記憶喪失者で、純粋な魂の交流であることが分かってくる。というか主人公、世界全体に心を閉ざしていたのが、開く先が子供だったため、内なる子供の部分ばかりが開花して、どんどん幼児化していく感じ。いわば戦わないレオン』。というか、ヒロイン12歳特集として『レオン』『キック・アス』と並べたら、主人公が常識人なだけ『キック・アスが一番まともに見える脅威
 しかも「純粋な魂の交流だから周囲に迷惑じゃない・とは限らない(むしろ大迷惑)」(あと余談だけど「この映画の青年が純粋だからって、不純な目で少女を見るロリコンが免罪されるわけじゃない」)。主人公は嫉妬と独占欲のカタマリだし、少女は少女で、子供っぽく死のイメージをもてあそび、それが悲劇的な最後をほのめかす。むしろそのへんのが12歳未満には不適切な映画なのかも知れません。
 ともあれ、まずは「大の男と少女」という見た目がよろしくない。でもそれをロリコンよくないと短絡して糾弾したり(逆に喜んだり)するほうがヨコシマなんじゃない、そういう表面的な見方が最後の悲劇を呼んだのよ!という話です。でもやっぱり見た目が遺憾。そして中身もタナトス。
 でもその中身の不安定を映し取るようなカメラワークが素晴らしいです。主人公を描くのに鏡ごしの描写を多用したり、空のワイングラスごしの歪んだ視界で主人公に見える世界をほのめかしたり。白い壁を背に所在なくたたずむ主人公の手前で黒い扉が閉まり、扉に空いた丸い覗き穴が彼だけをすっぽり切り取る処。水辺(たぶんセーヌ川のほとり)の森で少女が主人公に「ここが私たちの家よ」と言うとき、きまって画面に映るのは、揺れる水面に逆さに映った二人の姿。今のようにCGこみで何でも描ける(だからこそイマジネーションが問われる)時代じゃないころに、これだけ表現として挑戦的で実験的な作品があったことに、なんとも言えない感慨を憶えるのでした。
 心の壊れた主人公に終始好意的で、なんとか理解しようとつとめる大人の恋人と老芸術家の二人がいることが物語の救い。でもその手が行き届かない処が悲しくて、よい映画です。クリスマス映画でもあるので、(リバイバルのスケジュールで)そのころ上映される九州近辺の人には、とくにオススメなのでした。暗いクリスマスになりそうだけど

ヨコシマな目で観る映画ではない、と思う。

意外にもドストエフスキー入門にアリかもしれない〜死の家の記録(11.06.25)

 有名な「囚人を一番苦しめ発狂にさえ至らしめるのは、穴を掘っては埋めさせるような無意味な作業(だろう)」という話の出どころ、本作だったんですね(だろう、なのでシベリア時代のドストがさせられたわけではない)

a.「語られない物語」の影
 トルストイの『戦争と平和』。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。19世紀ロシアを代表する、この二大長篇小説には、よく知られた、ちょっと変わった共通点がある。それは、それぞれ圧倒的なスケールと文量を誇るこの二作が、しかしそれぞれ、もともと作者が書こうとした小説の前日譚に過ぎないということだ。
 かたや『戦争と平和』は本来、デカブリストの乱に連座しシベリア送りとなった貴族の老夫婦を描くつもりが、彼らが結婚に至った若い頃の話になったらしい。実際に小説は、ナポレオン戦争が終結し、紆余曲折の末ナターシャと結ばれた夫ピエールが、なにやら不審な客(政変の首謀者?)を屋敷に迎え入れる、思わせぶりなエピローグで幕を閉じている。
 そして一方『カラマーゾフの兄弟』は、実際に書かれた本篇では天使のように純真だった三男アリョーシャが不実な結婚に傷つき、ついには皇帝暗殺未遂犯として処刑される物語として構想されたというのだ。
 僕の年代だと新井素子の『グリーン・レクイエム』を同様の事例として思い出す人も少なくないだろう。現存する物語の背後にこうして、実在しない「真の物語」がある(と主張される)こと自体、興味深い現象なのだが(『グリーン・レクイエム』は後に作者によって「本篇」が書かれた)
 シベリアに流された貴族の獄中記の体裁を取る『死の家の記録』も(形は違えど)「語られざる起源」を隠し持っている。もともと彼は妻殺しの罪で流刑の身となったのだが、貴族の彼がどのように、なぜ、妻を殺害するに至ったか。その前日譚は当初は併せて書かれる構想でありながら、結局は語られることなく、流刑後の日々のみ描く半身のままで小説は上梓されたというのだ。
 『死の家の記録』新潮文庫版の訳者解説(工藤精一郎)は、この語られなかった妻殺しのテーマは、後に『白痴』でロゴージンによるナスターシャ殺しとして実を結んだとしている。野獣のようなロゴージンより、僕が連想せずにいられないのは、むしろ先に紹介した(このために紹介したのだよ)アリョーシャ・カラマーゾフの語られざる愛と破滅の物語だ。
 『死の家』で描かれなかった罪。『カラマーゾフ』の語られなかった後日譚。両者が同じもので、同じテーマに作者が二度挑んで二度とも書き得なかったと想像するのは、こじつけが過ぎるかも知れない。だが…ええい面倒くせえや、要するに重なって見えたの!
 もともと、作家が心の中で暖めているキャラクタやエピソード=物語の大半は「上手く話にまとまらない」ために語られず終わるものだ。
 かつ、物語の予感・「本当はこんな物語が」というほのめかしは、しばしば実際の物語より強く人を魅了する。
 「ドストエフスキーが生涯、気にかけつつ語れなかった幻の妻殺しの物語という幻。それは存在しないボーナストラックのように、『死の家の記録』を読んでついてきた、思わぬ余録だった。

b.小説にストーリーは必要か?
 前半は余談・先出しのデザートみたいなもので、『死の家の記録』でドスト入門、アリかもと思った理由とは全く関係なかった。すまない。
 『死の家』がよいなと思う理由は、ストーリーが、ないためである。ないのだ。
 通常、小説には展開というものがある。この人物はこの先どうなるのだろう?この事件はどう終息するのだろう?犯人は誰?太郎さんと花子さんは結婚できるでしょうか?(古い)…そういったストーリー上の「引き」があるから、人は小説のページをめくる。あの『緋文字』だって××の×が××とか、えげつないサスペンスを盛りこんでいた。『ガープの世界』は言う。「なんで小説を読むかって、この後どうなるか知りたいからに決まってるじゃないですか」。
 『死の家』には、その「引き」がない。語り手の過去=貴族の妻殺しが語られないことは既に述べたが、のみならず、この主人公の現在にも、おおよそドラマというものがない。あっても語られない。途中、獄内病院棟に入ったりするが、たとえば「苛酷な日々に心身を削られ、ついに私は病棟行きを余儀なくされた」みたいな筋立てはない。貴族である私が平民の囚人たちと心を通わせるには時間がかかった、と述べながら、(普通なら一番の見せ場であろう)どんなふうに心が通い始め、どんなふうに私が変わったか、その出来事・その会話が語られることもない
 ところがその結果、『死の家の記録』はすごく読みやすいのだ。だってさあ、ぶっちゃけ読みにくいでしょ、ロシア文学
 …言うてはならんことを。
 や、慣れればどうにかなるし、楽しめるよ?でも食わずギライする人の気持ちも分かる。人の名前はややこしくて覚えにくいし、正直『悪霊』だって『戦争と平和』だって横道でうだうだしすぎと言われて否定はできない。主筋(○○はこの後どうなるのだろう)と関係ない△△や××の話が延々続いて眠くなる。そもそも最初は何が主筋なのか全然わからず、頭の中がほぐれなくて眠い。新潮文庫版『カラマーゾフの兄弟』の最近の帯には芥川賞作家・金原ひとみ氏の「前半を読むのに半年かかって、後半は一気読み」みたいな主旨の推薦文が載っているが、多かれ少なかれ「あー分かる」というのが実際に読んだことある吾々の感想ではなかろうか。
 『死の家の記録』には、そのストーリーがない。
 ないってことは、煩わされなくていいってことだ。憶えなきゃいけない何とかノフも何とかライエヴィッチもおらず、絶えず切れそうになる主筋を握ってる(うちに眠くなる)必要もない。あるのはただ、個別の、囚われ人たちの列伝のような描写だけ。読者は(面白いが面倒でもある)ストーリーに足を取られることなく、ひたすらドストエフスキーのお肉の一番か二番目においしいところ=いかにもアクの強い人物造形や極限状態、深い感じの省察・思弁を楽しめばいい。骨なしチキンみたいなもので、それは作家の真髄の半分かも知れないけれど、逆にだからこそ入門には最適と考える次第です。
 もちろん、小説すべてにストーリーは不要、なんて思ってはいない。なんというか、物語において、ストーリーというのは骨なのだ。本来は骨があって初めて、まわりに個々の描写というがつくものだ。あるいは骨があって初めて「何これおいしい」という感情のスープが取れる。
 創作同人の話になるけど(これがいわゆる面倒な横道です)貧相なカエルや形の悪いヘビでも、自分でつかまえてきた骨でスープを取りたい気持ちが一次創作のひとにはあるのだろう。逆に大事なのはスープで、よいスープが取れるならプロが用意した骨でいい・むしろそちらがいいという気持ちが二次創作の原動力となっているのだろう。冗談みたいな話だけれど、料理の世界では一番だしより二番だしのほうが味が濃い」とも言われている。(横道おわり)
 何度か書いたとおり、僕の小説の定義は「折り返し点をすぎて一気読みにならず『あ、○○したいから続きは明日』と中断できるものは小説とは呼ばない」という乱暴なものだが(気持ち的なもので、極端に長い小説は別ですよ?)ふつうこの中断させないチカラは、物語の骨=ストーリーのほうに依存している。いよいよ大詰め・誰それの運命は・犯人は誰だ・ここまで築き上げてきたプランは成功するのか失敗するのか。そうしたいわば下世話な知りたがりが、読む者の手にページをめくらせる。もちろん「ああ、このスープにずっと溺れていたい、食事とか睡眠とかいい」というエクスタシーもあるだろうけど、やっぱ基本は骨だろう。そう思う。思っていた。
 ところが『死の家』はその骨らしきものがないまま、肉のおいしさ・スープの味わいだけでページを繰る手を止めさせない。むろん例外ではあろうけど「小説にストーリーは絶対必要ではないんだなあ」という、個人的に面白い感想を抱いたのであった。

 …筋がないような『死の家の記録』にも一応、おわりのようなものがあり、骨なしとは言いながら最後はやっぱり「ああ、終わるのか」と感慨を抱かせる出来になっている。最初に「穴を掘らせて埋めさせる」の起源はここだったのか、という引用をしたけれど、最後にまた、じんときた台詞があったので引いて終わりたい:
長いあいだ隔離されていたことがわざわいして、自由というものが監獄ではほんとうの自由よりも、
 つまり実際にある現実の自由よりも、何かもっともっと自由なもののように思われていた
」。
 『死の家の記録』はドストエフスキー(もしかしてロシア文学全般?)入門としてオススメですが、とてもすぐれた小説なので逆に、読むと自分もまた、ある意味で監獄につながれた囚人なのだと気づかされて(思いこまされて)しまう副作用があります(今ずばり仕事がつらい人などは服用を避けたほうがいいかも)。
 また語り手は、その囚人たちの仲でもオミソにされている非力な貴族なので、自分が人の中で孤立してるなーと思ってる人は、その悲しい気分が促進される副作用もあります。おいしいスープおいしいスープと書いてきたけど、苦くないって意味じゃないからね。むろん、苦いからおいしくないってわけでもないスけど。

(c)舞村そうじ/RIMLAND 1111→  1011→  記事一覧(+検索)  ホーム