(25.04.20)メイン日記(週記)更新。ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』の話・後篇。色々と横道に逸れつつ、今回はわりとキレイにまとまった気がします(自賛)。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、または
こちらから。
(同日追記)で現行のiPhoneの壁紙、ここ数年ずっと銀閣寺の苔の庭なんだけど、こんな緑を見てなぜAIはコンクリやアスファルトばかり薦めてくるのかね…

(25.04.23/小ネタすぐ消す)自分が今ひとつAIを信用というより理解できないのって、iPhoneのカメラ機能が「これを壁紙にしませんか」と提案してきた写真、そりゃあたしかに気になったから撮ったんだけどHTB(北海道テレビ放送)のマスコット
onちゃん、待ち受けにしたいほど熱愛はしてないぜ?

いや、こうして見ると本当にAIの気持ちが分からない…
当面存置。署名:
「国保料が高すぎる!国の責任で払える保険料にしてください!」(中央社保協/24.6.19/Change.org/外部)
【電書新作】『
リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、
こちらから(外部リンクが開きます)

サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、
こちらから。
扉絵だけじゃないです。
side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「
愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「
お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『
読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、
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書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)
税・病原菌・奴隷制〜ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』(後)(25.04.20)
人類の営みを狩猟・採集・遊牧・農耕に分けるのは農耕で天下を取った者の視点であって、「国家」の外にいる人々にとって四者に区別はない・必要に応じて全部するものだったとスコットは言う。工芸や交易を加えてもいいのかも知れない。
* * *
とりあえず、
クラストルは(一応)知ってる前提で話を進めよう。彼が中米の先住民を(文明度が低くて)国家を形成するに至れなかった「遅れた存在」ではなく、権力が集中する恐ろしさを知るがゆえに敢えてそれを回避するよう共同体を小さくした「
国家に抗する社会」と位置づけたのは、もう半世紀も前のことなのだ。
しかし国家を形成したことも、それが出来るほど権力を集中させたこともないうちから「権力は恐ろしい」「国家を作ってはならない」と分かるものだろうか。侵略・支配・強制収容…国家や権力の負の側面を、イヤというほど知ってる現代人の吾々ならともかく。

ここ半世紀の哲学者はアナキズムから多くの富を得ている(そしてアナキズムにも多くを与えている)くせに色々と言い訳して自身をアナキストと名乗りゃしないと哲学畑の
カトリーヌ・マラブーは盛大に嘆いているが(
先月の日記参照)、国家を持たない社会を研究しがちな文化人類学者はまた別なのだろう。
それにアナーキーの語源はアン(=非)アルケー(=起源)。原初の人類が国家の危険性をアプリオリに(=経験する前から)本能で察知し回避できたと理想化するのも主義=イズムに反するのかも知れない。堂々とアナキストを名乗り、オキュパイ・ウォール・ストリートを主導したりもした(そして『負債論』や『ブルシット・ジョブ』で知られる―未読なのですが)
デヴィッド・グレーバーは大先輩のクラストルを手厳しく批判しているようだ。
・
片岡大右「コロナ下に死んだ人類学者が残したもの デヴィッド・グレーバーの死後の生(下)」(「コロナの時代の想像力」岩波書店・note/22.10.28/外部リンクが開きます)
いわく、クラストルが研究した中米先住民は「国家に抗する」狩猟採集を中心とした生活と、国家に近い農耕・集団社会を季節によって行き来していた。ならば権力の集中や国家の危険性は知ってて当然ということになる。
反国家と国家を行き来するサイクルは、ある種の粘菌がバラバラになって生きる時期から集合し一体となって移動・新たな芽を出し胞子となってふたたび放散していくサイクルを彷彿とさせる。その一方だけを切り取り、かつ滅びゆく過去の知恵とロマン化することで、クラストルは別の選択肢=反国家を回復不能な過去に押しこめ、現在の体制をかえって強化したというのがグレーバーの批判の骨子だ。
* * *
やはり未読だけど(これから読む準備は出来てます)『実践・日々のアナキズム』なんて著書もある、そして東南アジアで「国家を逃れた」人々に取材した大著『ゾミア』が地味に話題の
ジェームズ・C・スコットもまた「国家に抗する社会」は国家のデメリットを熟知するがゆえの、ポステリオリな(経験に基づく)選択と考えているようだ。
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(原著2017年/立木勝訳・みすず書房2019年/外部リンクが開きます)が説くのは、
古代メソポタミアなどに生まれた初期国家の、形成されては滅亡する、短命で脆弱という意外な姿だ。
とゆうか、初期の国家は支配する者にしかメリットがない。そのメリットとは、ずばり「税」だ。
貨幣も文字も徴税のために発明された―という話は
前々回にした。メソポタミアで楔形文字が(簿記のために)発明されてから、それらが神を讚えたり詩文を表したりするまでに五百年のタイムラグがあったとして左記の説を裏づけるスコットが、ダメ押しで指摘するのは穀物自体、徴税に適していたから採択されたということだ。
なぜ麦や米の国家はあっても、タロイモ国家やキャッサバ国家・バナナ国家や大豆国家はなかったのか(
「バナナ共和国」はあったけど意味が違う←反植民地主義ジョーク)。それは(地中に埋まった不定形なタロイモやキャッサバと違い)同じ大きさの小さな粒を地上で収穫でき(年中いつでも収穫できるバナナや豆類と違い)収穫の時期が定まっている
穀類は数え(メネ)、量り(テケル)、その一部だか大半だかを取り上げる=分ける(バルシン)、つまり徴税に適していたからだとスコットは暫定的に結論する。(※粒で収穫でき成熟期も決まっているヒヨコ豆やレンズ豆で国家は発生しなかったこと・逆に成熟期が決まっていないトウモロコシでも新世界にはマヤやインカなどの国家が生じたことが
「まだよくわからない」例外として挙げられる)。
話は逸れるが+もう10年以上も前なんだけど『銃・病原菌・鉄』のジャレド・ダイアモンドの
顔が好きすぎてモデルにした学者先生を自作のまんがに登場させたことがあって
・本サイト内
「RIMpack'13 ペーパーまんが総集編2013」所収「サイン」
モデル同様に壮大な文明史を探究してそうな著作の題名を『
麦の世界史』として

あ?いや?『
塩の世界史』のほうがグローバルで良かったかなぁと描いた当時から実は気にかけていた(
そんなん誰も気にしないって)のが、まあ『麦の世界史』でも良かったかなと思い直すことが出来た。『反穀物の人類史』とは、逆にいえば今まで支配的だったのは「穀物の世界史」だったということだから。
話が逸れるついでに大急ぎで言うと、現状、
穀物は美味しい。水洗トイレが整備され、こんなにも本を読め、映画もアニメもインターネットもある現在の世界のメリットと同様、炭水化物の美味しさは認めざるを得ない。米価の高騰を消費者と生産者・双方が助かるように政府が何とかしろと訴えるデモなどを「でも穀物を選んだことが人類の間違いじゃん」と否定するつもりも全くない。

そうしたデモの一部参加者が日の丸を掲げ外国人排斥を謳ったり、あるいは渡米して好成績をあげている野球選手が
「僕は、おむすびが美味しい国に生まれた」と広告でおにぎりを頬張ったりしてるのを見ると、やはり穀物はナショナリズムと親和性が高いのではと思わないでもないが、
こじつけな気もする。穀物に関係なく、国家をアプリオリ=当たり前として育った人たちは生活が安定しているかぎり国家を支持する、その安定が脅かされると余計にナショナリズムや排外主義が煽られるもの、なのだろう。
話を戻すと、ナショナリズムや排外主義より前に、国家=穀物そして徴税である以上、やはり弊害の第一は税なのだった。
「王がいてもかまわない。領主がいてもかまわない。けれど怖いのは徴税官だ」(強調は引用者)という格言は古代シュメールの昔からあったという。本書で最もインパクトがあるのは、
万里の長城は外敵を斥ける以上に、国民を逃がさず閉じ込めるためだったという説だろう。専門家=20世紀の中国学者
オーウェン・ラティモアがそう唱えているという。
そのうえで。
スコットによれば初期の国家には、とゆうか集住と穀物の栽培・牧畜には、もうひとつ致命的なデメリットがあった。疫病と、全般的な不健康だ。
「現状、穀物は美味しい」と先に書いた。けれどそれは、スナック菓子やジャンクフードの美味しさと同じで、身体には必ずしも良くはないものかも知れない…とは、スコットではなく僕の見解だけれど、脚気や壊血病の例もある。単一の穀物栽培に特化した農耕よりも狩猟・採集(それと焼畑など専門化しすぎない耕作)のほうがコスパ良く、バランスのよい食生活が出来そうでもある。徴税分を取られることでの栄養不足もあっただろう。
かてて加えて、家畜や穀物めあてに寄ってきた害獣がもたらす感染症がある。集住は感染の温床でもある。なぜか人々がバタバタ倒れはじめる「国家」の悲惨は、周囲の非定住民に国家を忌避させるに十分だったはずだ。
そして画一的な耕作地に縛りつけられ、集住を強制された「国家」の臣民たちは、周囲の非農耕民より小柄でもあった。これは化石で証明されている。ブタも犬も、人に飼い馴らされた動物は、祖先の猪やオオカミより小型化する。「万里の長城は逃散の防止用だった」と並ぶ、本書のパワーワードは「
家畜より前に国家は人間を飼い馴らした」というものだ。第二の生産革命=
近代の資本主義は「蒸気機関よりも前に人間を機械化した」という
シルヴィア・フェデリーチの台詞(
23年10月の日記参照)を彷彿とさせる。
ちなみに(
これが今回さいごの余談になるといいなあ)フェデリーチの話。近代的理性とイノベーションが資本主義を生んだという神話に激怒する彼女は、人々が入会地を共有していた14〜15世紀のほうが、エンクロージャーで共有地を奪われた(そして資本主義が萌芽期にあった)16〜17世紀より明白に庶民の食生活が豊かだったと『
キャリバンと魔女』で書いているけど、この主張には多少の留保が必要らしい。というのもフェデリーチが「近代のせいで食生活が貧しくなった!」と主張する時期は世界が寒冷化した小氷期(14世紀半ば〜19世紀半ば)にもあたるからだ。
ただし「ミニ氷河期」とも呼ばれる小氷期が収穫の低減をもたらしたことは、30年戦争からナポレオン戦争に至る同時期の(世相を荒廃させた)戦乱や、ひょっとしたらルターなどの異議申し立て=宗教改革、さらにはエンクロージャー=収奪の強化によるヨーロッパの資本主義化の近因遠因であり、結局は天災に対し人類が破壊や収奪で臨んだことが食糧危機につながった、と言えるのかも知れない(これは僕の臆見)。
なんでこんな余談をしてるかと言うとスコットは、その小氷期じたいヨーロッパ人の「新大陸」侵略(とくに病原菌がもたらした災禍だろう)によって先住民が死に絶え、彼ら彼女らの焼畑農業が途絶えたためCO2の排出量が減り温室効果が緩和されたせいで起きたと「少なからぬ気象学者」が唱えている、と紹介しているからだ。まわりまわって人災。フェデリーチやスコットが現在進行形で要約している、人類や歴史に関する見直し=新しい所見は、かくも恐ろしく、恐ろしいがゆえに面白い。
話を『反穀物の人類史』に戻すと、飼い馴らされて小型化し、狩猟や採集に比べると創意工夫に乏しい単調な集団労働を強いられた初期国家の「国民」たちは、言うまでもなく奴隷だった。いや、「農耕と定住で人々の生活は安定して豊かになり、やがて富が蓄積され貨幣や文字などの文化・ひいては国家が誕生した」という国家に都合のいい神話に飼い馴らされた吾々は、古代ギリシャの民主制やローマ帝国の時代まで、穀物を作っていたのは奴隷だったという指摘に驚かなければならない。
アリストテレスは奴隷を人間よりも動物のほうに分類していた。本気でそうしていたのだ。
だもんで、古代の戦争は捕虜=奴隷の確保が主目的だったとスコットは言う。万里の長城は蛮族の侵入より奴隷の逃亡防止だったと言う。近代においてすら
「19世紀半ばの衛生革命(上下水道の敷設)まで、およびワクチンと抗生物質の登場まで、一般に都市の死亡率はきわめて高く、都市の成長は田園部からの大規模な人口流入によってのみ可能だった」と彼は説く。
飼い馴らされ、無力になったことは支配には便利だったかも知れない。途中からは規模の利益が生じて、現在のように国家なしの生活は考えられない段階に至っただろう(
いや現在も多くの人々が難民や移民という形で国家の軛を離れた生活をしているのだが)。問題は「最初」だ。現に最初期の国家は短命で、何度も滅びてもいる。
逆になぜ、感染症のリスクもありコスパも悪く人々を小柄にする定住と農耕が、狩猟や採集に優越し、国家を孵化させるまでに成長しえたのか。
その答え(仮説)も本書では
明確に用意されている(これが2017年だ)。あまりに意表をつく「犯人」なので流石に伏せるけど、そこだけ気になるひとは
77〜78ページ・そして107〜108ページだけ読んでみるといい。びっくりするし、納得もさせられる、そして恐ろしい気持ちにもなる。現代の人類学・考古学・歴史学は科学であり、残酷な数学でもあるのだ。
* * *
そんなわけで今週の結論:『反穀物の人類史』は、半世紀にわたり積み上げられてきた反国家・反農耕・反定住の学説を手際よくまとめたうえで、自身の新説も加えて構築された2017年の最新成果なので、この問題に関心があるひとは本書から手に取るのが一番手っ取り早くてオススメです(でないと僕みたいに
長年かけて遠回りすることになる)。
すぐれてエキサイティングな本なのですが、初期の農耕国家において畑の穀物が・飼い馴らされた家畜が・そして飼い馴らされた人間が、いかに害獣や害虫・病原菌に対して脆弱で食い荒らされてばかりいたかをコレでもかと語る第三章は、話の流れ上「反穀物・反国家」モードに洗脳されかかっていてもなお「ざまあ」を通り越し「なんて哀れな…」という気持ちになり胸が塞ぐ。
そして1000年代(千年紀)の半ばまで定住国家を苦しめつづけた外部からの略奪=「蛮族」戦闘的な遊牧民族との交渉を描く最終章は、最後になって関心の重心がズレて別のテーマに移行しつつある「出口」のような感じもして少し統一感が薄れるのと、やはり内容が暗くてカタルシスに乏しい…というのは個人の感想。税から逃れれば虎に遭う、みたいに、やはり世界に残酷でない「外」はないのかも知れないと悲しい気分になってしまうのだ。
さんざっぱら初期の国家はダメだった・無理があった・そっちを選ぶべきではなかったという説を紹介してきたけれど、けっきょく集住は・農耕は・国家は初期の不利を克服し(または先進国の住民には見えないところに押しこめ…というのはウォーラーステインの説)今の吾々は「米が高い」「税金が、保険料が高い」と文句は言いながら、ウォシュレットやスマートフォンを手放した生活すら想像するのが難しい。相当な完成度で出来上がってしまった監獄を「そのうち滅びろ」と呪詛する以外の出口・突破口はあるのだろうか。とりあえず、そのへんはスコットの別の著作に期待してみるしか(それも勝ち目は薄いけど)なさそうだ。『ゾミア』と『実践 日々のアナキズム』も読んでみることにしました。

ちなみに『ゾミア』は邦題で、英語の原題は
『The Art of Not Being Governed』(統治されない技術)というようです。巻頭の引用文(エピグラフ)は、がっつりクラストル。
サスペンスとレヴィナス〜デレク・B・ミラー『白夜の爺(じじい)スナイパー』(25.04.13)
昔プライベートでもやらかして痛い目に遭ったのを忘れてた、今の職場で左右に並べたデュアルモニターでの仕事を余儀なくされていたら肩〜首に激痛が走るようになり(参考記事;
「姿勢に気をつけよう - デュアルディスプレイで首に激痛が」odaryo/noto/24.1.8/外部リンクが開きます)
あわててストレッチなど始めているのですが、んー職場のモニタを縦並びのように調整できるか考えどころ。自宅で通常モニタと液晶タブレット(兼サブモニタ)を縦方向に並べてるぶんには、それほど苦しくないのですよね…

いわゆるストレートネックというやつで、さらに通勤時間が長くなり、うつむいて本を読む・またはスマートフォンを操作する時間が増えたのもよくないのでしょう。
というわけで(?)予定していたジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』の話(後篇)は先延ばし。今週は少し軽めの?話をします。
*** *** ***
軽めといえば日曜朝の戦隊ヒーロー番組。軽めといえども一昨年度の王様戦隊キングオージャー・昨年度の爆上(バクアゲ)戦隊ブンブンジャー、二期つづけて相当クォリティが高かったんだなぁと(まあブンブンジャーは
「みんな大真面目に演ってるのに妙な笑いが止まらない」とも思っていたけどな)今季の新番組
『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』(公式/外部リンクが開きます)を観て、あらためて納得している。
10話くらい続いて(
でももう二ヶ月以上つきあってるんだ…)ようやく世界観もキャラも整ってきたというか、伸び代がある(婉曲表現)のも大部こなれてきて、もうしばらくは視聴を続けるかと思ってるところ。そんな『ゴジュウジャー』スタートダッシュ時の個人的目玉だったのはグリーン属性の
ゴジュウイーグル。チーム最年少の高校生という触れこみで登場した彼が、実は最年少どころか『ゴレンジャー』以来50年にわたるスーパー戦隊の歴史でも最年長かと思われる
87歳のジ…後期高齢者が若返った姿で「二度目の青春をパーリーピーポーとして謳歌する」と言いながら
具体的には若い役者さんが中身は87歳という設定を嬉々として演じていらっしゃる(今季のノリ、お察しいただけたでしょうか)。ちなみに87歳、来月米寿を祝う
うちの父と同い年ですよ…

そんな矢先に図書館で目にした小説のタイトルが「爺」。じじい、とルビまで振られて、そんなの読まないわけにいかないでしょ(?)
デレク・B・ミラー『白夜の爺(じじい)スナイパー』(原著2012年/加藤洋子訳・集英社文庫K2016年/外部リンクが開きます)

ジャンルとしてはサスペンス。ノルウェーで暮らす孫娘夫婦のもとに身を寄せた元米軍の狙撃兵が、悪党どもに狙われる少年を逃がすべくボートを盗み、川を下り、反撃の拠点になる国境のキャビンをひたすら目指す―
主人公シェルドン82歳。「舐めてたジジイが海兵隊の殺人マシーンだった」みたいなノリではなく、ニューヨークのダイナーでコーヒーとブルーベリー・マフィンを楽しみに生きてきた時計職人が、言葉も通じない異国で、さらに言葉も通じない少年を連れ、時には不法侵入した別荘で持ち主の人生の機微に触れたりしながらの道行き・ロードムービーのような趣きで北欧の旅情も楽しめる小説(ただしバイオレンスあり)でした。
最初ちょっと意表をつくのは、朝鮮戦争でスナイパーとして鳴らしたがゆえに、今もピョンヤンからの報復の刺客を警戒しつづける彼の経歴が、家族には長年「いや俺は後方で事務をしてたんだ」と偽っていたため「本当は狙撃兵だった」と後から明かした真実のほうを信じてもらえず、アルツハイマーが出たと思われているところ。小説の読者には早々に事実だった(らしい)と明らかになるのだけど
「信用できない語り手」をもう少し引っ張りつづけたら、それはそれで面白かったかも知れない。いや最近ではありふれてるか。
本人はヒーローのつもりで少年を連れて逃げていた主人公が、終盤になって自室から本当にただの事務方だった経歴証明書と「舐めてたジジイが殺人マシーン」系のペーパーバックがどっさり出てきて「やばい…本当は虫も殺せぬ一般人なのに悪党に立ち向かう気だ」という展開や、あるいは逆に従軍時の戦功をしめす勲章なんかが出てきて「やばい…本当に殺人マシーンなんだ」みたいな場面があっても良かった気はするけど、
まあそういうのが本当に見たい人は自分で創作すればいいんです。
もうひとつ、ちょっと意外かも知れない見どころは主人公ホロヴィッツの信仰、というか信仰への疑い。
ユダヤ人の彼は…まあアウシュヴィッツなどは動機でもないんだけど…正義を信じて従軍し、お前もかくあれと教育した結果、息子をベトナムで死なせてしまう。現在のノルウェーでの新生活と降って沸いた逃避行・過去の従軍経験・除隊してからのニューヨーク暮らし・そして少年を追う悪党どもと彼らを追うノルウェー警察、頑固な祖父を案じる孫娘夫婦―時間も視点も自在に行き来する(読みにくくはないです。現在の主人公を「シェルドン」、過去の彼を愛称の「ドン」と書き分けることで自制が分かりやすくなってるのも「盗めそうな」工夫)物語の中で。
ユダヤ教の贖いの日(ヨーム・キップール)について孫娘と語り合う場面は、サスペンスのクライマックスとは別に展開するシェルドンの人生の核心に迫る、もうひとつのハイライトだ。彼いわく、ヨーム・キップールに人は
「二種類の赦しを乞う」。
「神に対して犯した罪の赦しを神に乞うことがひとつ。
それに、人びとに対して犯した罪の赦しを人びとに乞うことがひとつ。(中略)
われわれの教義によれば、神にもできないことがひとつだけある(中略)
人がほかの人に対して行ったことを、神は赦すことができない。罪を犯した相手に直接赦しを求めねばならない」
「殺人が赦されない理由がそれなのね(略)
死者に赦しを乞うことはできないもの」
(強調は引用者)
そののち彼は、孫娘にとっては
「おまえの父親」・彼自身の息子をベトナムで戦死させたことについて謝ってほしいとシナゴーグで神に問いかけ、神の謝罪を得られなかったがために信仰を捨てたと語るが、それは今回の本題ではない。
「人が人に対して犯した罪を、神は赦すことができない。罪を犯した当の相手(=人間)に赦しを乞うしかない」という主人公の「思想」には、同じくユダヤ人の哲学者
エマニュエル・レヴィナスが説く「倫理」の(僕が考える)エッセンスが詰まっているように思える。
アウシュヴィッツのような暴虐を、なぜ神は直接に罰しないのかという問いに対して、そんなことが出来てしまうなら神が人を創造し、自由を与えた意味がないという主旨のことをレヴィナスは語った(はずである)。その葬儀で
ジャック・デリダが読み上げた弔辞(岩波文庫『アデュー』所収)によれば、生前のレヴィナスは「人格」こそ「聖なるものより聖なるもの」で
「侮辱された人格を脇においたままでは(中略)
聖なる約束された地―も裸の荒れ地にすぎず、木と石の山にすぎない」と語ったという。旧約聖書の最初の殺人者カインは
「死を無と考えたはずである」という別の引用は、「殺人が赦されない理由」を裏側から提示したものだろう。
ユダヤ教から派生したキリスト教を信仰する人たちが時に「いや、そこは人に謝れよ」という場所で神の赦しを乞うこと、なんなら「
ここで神を恐れる俺のほうが信仰のないお前らより余程おのれの罪を感じているのだ」と誇る傲慢を目の当たりにして釈然としなかったことが「僕が」ついには「あの神」を信仰は出来ない理由のひとつかも知れない。まあ、それはそれとしてだ。
新旧つうじて聖書には「人を裁くな。罰は神が与える(復讐するは我にあり)」という真逆の思想があることも踏まえて。人に対する人の罪を神に裁いたり赦したりしてもらえると思うな、と取れる点で、レヴィナスと小説の主人公ホロヴィッツ、二人の思想が一致しているように見えるのは、彼らがともにユダヤ人でありながら、唯一神への絶対の帰依からは逸脱した異端者の立ち位置にいるせいかも知れない(いやレヴィナスの立ち位置はよく分からんのですが)と思ってしまった。
つい先月の日記で書いた、やはりユダヤ人だった・けれど無神論者で進化論者だったフロイトが「でもそんなユダヤ人の伝統に逆らう自分みたいのが、むしろユダヤ人の粋なのだ」と語っていたという話を(前回はスピノザなど引き合いに出したけれど)また思い出したりしたわけです。
結局ホロヴィッツは自身が北朝鮮の兵士たちに対して犯した罪とどう折り合いをつけたのか、少年を救うためとはいえ再び殺人という「赦しを乞えない」罪を犯そうとしていることをどう考えているのか、今かの国で赦されえない罪を重ねに重ねているホロヴィッツの同胞たちは、またムーミンの国らしいペーソスをたたえたノルウェー警察(
違う違う、ムーミンはフィンランド…後日補記)の視点を通して著者が描く移民=犯罪者という概念は、などなど留保をつけたいところは多々あれど、総じて楽しく読める小説でした。
それにしても、訳者は映像化されるならトミー・リー・ジョーンズをキャスティングしたいと書いてて、僕は晩年のクリストファー・プラマーを脳内で当ててた(
お察しください)主人公ホロヴィッツ、少年の手を引いて逃げる不屈の元スナイパーを、
もうじき米寿の父で(ついでに少年を幼い頃の甥っ子で)想像しようとはどうにも思えなかった自分が親不孝なのか孝行息子なのかは、ちょっと迷わされるところでした。おしまい。
数える・量る・分配する〜ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』(前)(25.04.06)
旧約聖書・ダニエル書によれば栄華に驕るバビロニアの滅亡は、虚空から現れた手が王宮の壁に書きつけた三つの単語で告げられたという。誰も読めない未知の言語を読み解いた智者ダニエルいわく、三つの単語は
メネ・テケル・バルシン―すなわち
数える・量を計る・分ける。(数えてみたら)この国の覇権は長すぎた・(量ってみたら)今の王には治めるだけの徳がない、だからこの国を分けるという神の思し召しだと。その晩、王は殺されメディアとペルシアが王国を二分する。
2025年現在この三語に最も相応しいのは、むしろ他ならぬ…という呪詛は別の夜にとっておこう。30年以上も前に
ギー・ドゥボールはエルサレムどころか(←
言っちゃった)広告プロパガンダに支配された
現存の都市「すべて」に終焉を告げる三語が既に刻まれている(はずだ)と断罪し、「分ける」の一語に支配層から「分けられた」持たざる者たちの蜂起を切望した(
『スペクタクルの社会についての注解』(原著1989年/木下誠訳・現代思潮新社2000年/外部リンクが開きます))。けれど、それも今回の主題ではない。
賢者ダニエルの、そしてドゥボールの「分ける」の解釈とは別の意味でも、この三語が「バルス」ばりの滅びの呪いであるのは妙というか、言い得て妙ではないか―という話をする。「数える、量る、分配する」こそ人類に多大な災いをもたらしたと唱える声は、近年ますます大きくなるばかりなのだ。
* * *
こんなジョークがある。
「わぁ、すごい御馳走!なんのお祝い?」
「坊や、今日から弥生時代なのよ」
かつて原始人と呼ばれる人々がいた。棍棒か、せいぜい尖った石をヒョロ長い木の棒の先に結びつけた貧弱な槍を片手に(それだって立派なものだ、道具を使っているのだから)獲物を求めておろおろ歩く狩猟・採集民族。迷信ぶかく、文字も持たず、落雷やサーベルタイガーに怯えて暮らす。ちゃっぷいちゃっぷい、カイロがポチイい(古い)。
しかし人類は農耕を始める。牧畜も始める。もう逃げまどったり、乏しい食物を求めてさすらったりする必要はない。
to be a rock, and not to roll。安定した、豊かな食糧を確保して、人は豊かになる。富が生じる。文化が、国家が、文明が生じる。古代の生産革命は後に、産業革命として再演されるだろう。蒸気機関が、紡績機が、人類の豊かさをさらに飛躍させる。迷信を打ち払ったデカルト的理性は海を越え新大陸も眠れるアジアも席捲して、政治・経済・法律・文化…西欧で生まれた近代文明は世界の共通プロトコルになる。
冷戦の終結による「歴史の終わり」・インターネット以後のグローバル化を三度目の革命に数える必要はあるのだろうか。科学者たちの共有財産とされた南極大陸を除けば、
もはや地上にどこかの国の領土でない土地は存在しない(たぶん)し、そのうちWi-Fiの電波が届かない場所も、スマートフォンのタッチ決済が使えない土地もなくなる。
まとめて言うと数千年の歴史を通して人類は文明化の度合いを進めつづけてきた。農耕文化に適応できなかった狩猟民・文明の外にいる蛮族・バルバロイは徐々に同化され、あるいは滅び、今となっては各々の国家という大きな枠組の中に設けられた居留地で細々と存在を「保護」されているに過ぎない…
…
本当だろうか?
たとえば昔のSFや未来予想図では、未来(ひょっとしたら今くらいかも)の人類は世界政府を樹立しているものだった。村落から国家へ・国家から国連やEUのような国際共同体へ・そしていずれは地球がひとつの国家にという進歩史観は、経済やインターネットのグローバル化によって一面的には達成されてると言えなくもない反面「世界がひとつに」というイマジン的な(
あるいはオルテガ的な)夢は、一向になくならない国家間の戦争・それどころか国内での分断や内戦という現実によって、いわば未来から「そうはいくものか」とNOを突きつけられている。
一方それと歩調を合わせるように・あるいは未来からの問い直しに先んじて、過去だってどうなんだ:人類が豊かに・文明的に進歩してきたという「正史」も体制に都合がいい作り話ではなかったかという異議申し立ても続発している。
本サイトでも折りにふれ…といえば聞こえはいいけれど、要は散発的に取り上げてきた話だ。
いわく、原初の「万人の万人に対する闘争」は国家の出現で初めて抑止された
って本当かぁ?(これについては「原初の社会は万人の万人に対する闘争じゃなかった」「国家が出来てからも逆に支配者と被支配者の闘争が常態ではないか」と両面からダメ出しが出ている)
新大陸を発見したと言うけれど、その土地にはずっと前から先住民がいて帝国すら築いていたではないか。
万人の平等を真に法として整備したのは植民地支配を棚に上げたヨーロッパではなく、制圧されていた側=植民地の独立勢力だったはずだ。(
『ブラック・ジャコバン』『ヘーゲルとハイチ』『ハイチ革命の世界史』)
資本主義は産業革命やイノベーションではなく、村落共同体の破壊や先住民の虐殺・奴隷制など搾取と収奪の賜物ではなかったか。(
『キャリバンと魔女』)(
『史的システムとしての資本主義』)
現代的な経営マネジメントはイギリスやアメリカ北部の工業地帯ではなく、奴隷のコスパな「運用」を求めるアメリカ南部やカリブ海のプランテーションで生まれたらしい。

異議申し立ての多くは近代の「正史」に差し向けられている。いま行き詰まっている世界システムが近代の産物なのだから当然とも言える。
だが、さらに遡って産業革命ではなく農業革命・文明の曙まで差し戻し請求する声もある。

やはり自分の場合、大きかったのは「ただの交易なら貨幣は必要なかった・
貨幣が発明されたのは徴税のためだった」という
ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』の発言だった。(今まで挙げた諸説もそうだけど)
今は個々の真偽を問う場ではない。
『千のプラトー』経由で知ったピエール・クラストル(1934〜77)は、農耕せず定住せず小集団で生きる狩猟民たちは国家形成に至れなかったの
ではなく、むしろ権力の集中が危険と知るがゆえに意図的に「進歩」を忌避した「
国家に抗する社会」だったと説いた。
真っ赤な帶に白抜きで
「君は国家が幻想だと気づいているか?」と大書された角川文庫版の吉本隆明『共同幻想論』は自分には正直サッパリ理解できない難書だったけれど、古事記が詳らかにする神話時代の日本の法は天孫降臨を受け容れる側だった社会の「国つ罪」がレヴィ=ストロース的なインセストタブー(近親婚の禁止)なのに対し、天孫降臨でもたらされた「天つ罪」が水田の畔を壊すな等の稲作を守るための禁令だったという話だけは憶えている。
そのレヴィ=ストロースは構造主義人類学の古典
『悲しき南回帰線』で
「文字による伝達の第一の役目は、隷属を容易にすることである」という仮説を提出している。
現存する解読可能な最古の文字=メソポタミアの楔形文字は神や王を讚えるためでも、もちろん個人の心情を綴るためでもなく、徴税の帳簿をつけるために発明されたという話は何処で知ったんだったろう。
桃源郷という言葉の語源と思しき「桃花源記」は学校の教科書で習ったけれど、その別バージョンとも言うべき、虎の出る山奥に隠れて暮らす人々を訪ねた語り手が何故こんな危険なところにと尋ねたところ「
虎よりも税吏が恐ろしい」と答えたという逸話を知ったのは、いつだっただろう。
桃源郷か虎の竹林か、国家に属さぬ人々が東南アジアに形成した一大生存圏に取材した大著『ゾミア』(
未読)の原題は、クラストルの系譜を継いでるとしか思えない
「The Art of Not Being Governed」(統治されない技術)であるらしい。
中国の細民が虎よりも税吏を恐れる話は教科書に載らなくても、(税を取り立てる)
「里長が声は寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ」という山上憶良の長歌は載っていた。それでも、貨幣も文字も(人々の自由な交易や表現のためでなく)国家が税を取り立てるため発明されたのだとしても、それで全体の生活が底上げあれ、皆が豊かになったなら何の問題もないではないか―
―という反論は、『千のプラトー』が用意した、もう一枚の切り札=マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』(
未読)で覆される。サーリンズの名を挙げなくても、
定住した農耕民より非定住の狩猟採集民のほうが労働時間は少ないという説は、今なら誰もが何処かで耳に目にしているのではないか(
してなかったら「今」したんですよ)
* * *
ちょっとだけメタな話をさせてもらうと、ここまで羅列してきた「異論」が書いてる自分以外の人たちにとって、どこまで目新しいか見当もつかない。
文字の話も貨幣の話も、ハイチの話も魔女狩りの話も、僕自身は知ったとき目からウロコだった(
もしかしたら目にウロコが貼りついたのかも知れないがと危ぶむ程度には公正を期したい気持ちはある)。けれど新説は、特につるべ打ちで食らっていると、まるで最初から常識だった・ずっと昔からそう思っていたように思えるものだ。
だからここまで書いてきた、僕の場合は時に他の目的で手にした本から偶然に拾うような形も含めて、あっちへフラフラ・こっちにフラフラしながら少しずつ形成されたきたことも、他の人にはSNSで浴びる大量の情報や引用・オピニオンを通じて・つまり別ルートを通してではあるけれど、やはり「そんなの常識じゃん」という話ばかりだったかも知れない。
それはもちろん危険なことでもある。アメリカでも日本でも、大量のフェイク情報を浴びてフェイクが「常識」になってしまった人たちが沢山いる。その一方でクラストルが、サーリンズが(未読ですが)、レヴィ=ストロースやドゥルーズ=ガタリが説いてきた異説・新説が、「何処で知ったか分からないけど」という形で「常識」になることも、あるのではないか。
それで本当にいいのかと思わなくもないけれど、それはそれで救いかも知れない。
実際、羅列してきた異説・新説には出版年が2010年代と本当に「新しい」ものも少なくない。当然、それらを基にした言説もネットに流れ、増幅されている最中だろう。世界は本当に変わるかも知れない。
ジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(原著2017年/立木勝訳・みすず書房2019年/外部リンクが開きます)も、そうした「新しい」オピニオンの一つだ。ここまで述べてきた異説・異議申し立てを総合し、さらに新たな目ウロコを付け足す、「この問題」に関するスタンダードになりうる一冊だと思う。なんなら(僕みたいに遠回りせず)
最初に読めばいい一冊。
来週は、この本の話をします。(
出来ませんでした)
小ネタ拾遺・25年3月(25.04.02)
(25.03.02)毎年3/2は
ルー・リードの誕生日を祝って「一年に一度くらいはね…」とロック史上最大の駄作と言われた『メタルマシーン・ミュージック』を聴くのですが(実は慣れるとそれほど苦痛でもない。むしろ個人的には『警鐘』なんかのが拷(
それ以上いけない))。レコードだと二枚組・黒板を引っかくようなギターノイズが1時間延々つづく本作、でも
リズム=ビートを入れたら案外もっとふつうに聴けるのでは?と今さら気づいて試してみました。
(1)
Lou Reed - Metal Machine Music (Official Audio Excerpt)(1:33の試聴版/YouTube/外部リンク)
(2)
Acid - Tech loop samples by Liquid Limbs(1:00の試聴版/外部リンク)
(1)のほうが30秒ほど長いので先に15秒くらい再生して「うげー」と思ってから(最初はそうでしょう、いいんですよ)メインギターみたいな音が入ってきたところで
おもむろに(2)のリンクを開くと、
ちょっとオウテカっぽい(適当)インダストリアル・アシッドテクノに変身。それでも(2)が先に終わるので最後また(1)が残響してイイ感じです。ヘッドフォンを使用するなど
周囲の迷惑に配慮したうえで、お試しあれ。
※YouTubeのルー・リード公式、上に挙げた試聴版だけでなく『メタルマシーン・ミュージック』全曲聴けるの
「本気か?」と思うけど、聴きたい人は聴くがいいよ。
※※ルー先生「反省してます…」とばかりに『メタル…』の次には『コニーアイランド・ベイビー』、『警鐘』の次には『都会育ち』とメロウな名盤をリリースして失地回復を図る処が可愛い。
Lou Reed - Charley's Girl (Official Audio)(YouTube/外部リンクが開きます)
(1)で
「俺の一週間はお前らの一年に勝る」と豪語した人が次に出す楽曲じゃないでしょ、これ…
(25.03.03)25年春のJR青春18きっぷは昨年末と同様、
大幅に機能を制限された改悪仕様(JR東日本/外部リンク)につき、
西への旅をあきらめる前提なら同時期発売の北海道&東日本パス(同)
のほうが上位互換で断然有利です。具体的には(使用日を指定する必要だけありますが)・指定日より連続7日間使用可で・18きっぷ(5日12,050円)より安く(11,330円)・しかも盛岡ー八戸間の第三セクター青い森鉄道線・いわて銀河鉄道線にも乗車できる(北越急行ほくほく線も。18きっぷだと別料金)。実は昨年末にこの切符で北海道まで行ったのですが(青森→函館間は別料金で連絡船。札幌から帰路は飛行機)仙台から八戸方面の同じルートを18きっぷで旅してる人を見かけ「この時期は18きっぷ」と決めつけないほうがラクなのに…と思ったので(逆にまあ東海以西から18きっぷで来て旅も終盤だった猛者かも知れなかったけど12/10の使用初日だったので可能性は限りなく低い)老爺心にて。
(25.03.04)大船渡には2018年、一度だけ訪れたことがある。気仙沼からBRTで陸前高田を再訪して、さらに奥まで足を延ばした感じ。震災からの復興もかなり進んだ段階で、きれいに完成された商業施設
「キャッセン大船渡」をそぞろ歩き。タイミング的に食事などは出来ず書店で本だけ買って戻ったのですが

風景を撮るときフェルメールの『デルフト』を意識して空に大きくスペース取りがちなのはいいとして(こう並ぶと少し恥ずかしい)当時お金を落とせなかった分、ちょっといい海鮮丼でも食べたつもりで・
2025年岩手県大船渡 山火事緊急支援(ピースウィンズ・ジャパン/Yahoo!募金/外部リンクが開きます)ささやかながら寄付しました。理不尽に生活を奪われ、また脅かされた方々に、心の平穏が戻ることを願う。
※上記「キャッセン大船渡」から進んだページにも、地元密着型の募金受付があるので、より細密な支援を望む人は御検討。
(25.03.05)昨年12月の東北〜北海道旅行は例によって車内での読書を楽しむ「読み鉄」旅行だったのですが、長万部で1時間半ほど列車待ちが生じたときに丁度
フーコー『監獄の誕生』が終盤の佳境で「これは」と忘れないようiPhoneのカメラに収めた箇所が
「監禁網は同化しがたいものを雑然たる地獄のような世界に投げ出しはしない。それは外部の世界を持たないのである。自らが一面では排除するかに見えるものをそれは一面では吸い上げる(中略)
この一望監視施設(パノプティコン)的な社会にあっては、非行〔=前科〕者は無法者(アウト・ロー)ではなく、法の中心そのものに、(支配という)
機構のまんなかに位置している」(第四章/強調は引用者)
権力は逸脱者を「追放」という形で自由にしてはくれない・むしろ逸脱者を罪人として監獄に閉じこめ監視することが(パノプティコン的な)処罰社会にあっては法の・社会機構の中心にあるのだ…という書きぶりは、
当時リアルタイムの日記でも書いたとおり「おお、ドゥルーズ=ガタリが書いたレイシズムの定義=
レイシズムは差別の対象を他者として追放するのではなく、自分たちの秩序の最底辺として逃がさず押しつぶす(『千のプラトー』)と呼応してる、さすが心友」という感動があった。
※これが最終的には「差別こそ資本主義のエンジンだ」というウォーラーステインの批判と符合する(
昨年4月の日記参照)
何度も何度も蒸し返した話だけど、差別は「差別じゃなくて区別だよ」などと言いながら
「外部を持たない」序列化だという気づきは自分にとっては社会の「解像度が上がった」記念すべき契機で、ちょうどその模範的(皮肉)な実例を示してくれた(皮肉)のが
「(介護職などに就かせるために)移民を受け入れ、人種別で居住区を分ける」ことを提案した曾野綾子だった。今ごろはクリスチャンに相応しく
「すべての希望を捨てよ」の扁額を見てる頃だろうけど、改めて追悼文とか書く気はない。当時の文章にリンクを張るに留める。
・
差別のメカニズム〜曽野綾子氏の発言をめぐって(2015.2.12)
擁護したい者は擁護すれば良かろう、少しは居ないと可哀想だ。「人を人と思わないことの何が悪いんだ・差別なんてたいした罪じゃないよ」と主張することになるけれど。
(25.03.15)フロイト最晩年の問題作『
モーセと一神教』
自分も昨年読んでるんですけど、
E.W.サイードの『
フロイトと非-ヨーロッパ人』』(原著2003年/長原豊訳・平凡社2003年)は
本当に同じ本を読んだの?ってほど解釈の支点も力点も作用点も違って、
もしかして自分、自分で思ってる以上に基礎的な読解力がないのではと結構真剣に途方に暮れる。

19世紀〜20世紀初頭「反ユダヤ主義」という意味で流通していたanti-semitismは直訳すると「反-セム主義」つまりユダヤ人もアラブ人も一緒くたに差別していたはずの言葉で、自身もユダヤ人として迫害されながら、(すでに勃興していた)シオニズムには批判的だったフロイトはモーセ=エジプト起源説に、アラブとユダヤが宥和し非ヨーロッパを共有する「セム人」像の確立を期していたのでは、という読解(
いいのかコレも誤読じゃないのか←疑心暗鬼)。無神論者でシオニズムにも批判的・そんなユダヤ人らしからぬ自分こそ(破門されたスピノザ同様)逆にユダヤ人らしさの粋(スイ)ではないかと自負するフロイトの姿には、時にパレスチナ人らしからぬパレスチナ人だった(らしい)サイード自身の姿も重なるようで…
…にしても、かつてセム人の名で迫害された民が、今やヨーロッパ人よりヨーロッパ人のように「セム人」への迫害を誇っている悲劇…『モーセ』が実質遺作だったフロイトも、実は本書が生前最後の著作となったサイードも、今のパレスチナ問題をどう捌(さば)くのだろう…
(25.03.05)『
ノー・アザー・ランド』横浜では
kinoシネマみなとみらい(外部リンク)で…え?金曜まで?アカデミー効果で延びないかな…結果的に駆け込みで観てきました。

観ながらおそらく多くのひとが一度は憤怒を抑えきれず、そしてその何百倍・何千倍もの憤怒とやるせなさを耐える主人公≒当事者たちの姿に打ちのめされ、また少なくない人が沖縄・辺野古のことや、ついこないだ=3/1のことなどを思わずにはいられないだろう95分。主人公たちの片方=同胞からは裏切り者のように揶揄され、パレスチナ人からは時に厳しい言葉を投げかけられながらも、後者に寄り添いつづけるイスラエル人ジャーナリストの郷里はベェルシバ。旧約聖書ではユダヤの民とアラブの民の和解の地だったはずの町。つらい。
(同日追記)や、旧約はキチンと読んだことないんだけど、母校だったM学院大学(プロテスタント)の歓談用酒場「ベルシバ」の由来だったので憶えてるのよ…※下戸&非社交民だったので利用したことはない。
(25.03.12)
カトリーヌ・マラブーの『
泥棒! アナキズムと哲学』本論と直接は関係しないんだけど脚註の挿話に「!」となる。いわく、19世紀半ばパリの周囲には城壁で囲まれた幅250mの建築禁止「ゾーン」が設置されたという。ところが目論見とは逆に「ゾーン」は無許可のバラックや大型馬車、小さな耕作地に占拠され「
これはひどい(c'est la
zone)」という慣用表現まで生まれたと。
…英仏海峡を隔ててはいるけれど、これと『
ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』に登場する、破滅を意味するウサギ語「ゾーン」は関係したりは、しないのだろうか。
「ゾーン!ゾーン!」絶望的な奸計にはまり、信望厚い闘士ビグウィグ(別名スライリ)に救援を求めるモブウサギたちの悲しい叫びがこだまする。
「スライリ、ああ、スライリ!」

もちろんタルコフスキーの映画『ストーカー』の「ゾーン」の水音も反響して、アレもつながる・コレもつながる…オタク人生の後半生は怒濤の伏線回収(
別に伏線じゃなかったんだけど)で楽しいぞというお話。
(24.03.13)王様を殺せ、王様を倒せと連呼する「王様」、お元気そうで何より。
・
Kill The King(王様を殺せ)Rainbow 直訳ロッカー王様 CDデビュー29周年ライブ・イン・ロック食堂(YouTube外部リンクが開きます)
レインボーの原曲、自分の中ではTHE ALFEE「ジェネレーション・ダイナマイト」の元ネタって認識だったんだけど久しぶりにアルフィーのほうを聴き直したら、言われなきゃ気づかない(?)くらい換骨奪胎しつつ、同じリッチー・ブラックモアの「BURN」もサビでチャッカリ取り入れてる(?)あたり、いかにも確信犯で好い
・
THE ALFEE- ジェネレーション・ダイナマイト「46th Birthday 夏の夢-2020.8.25-」(外部リンクが開きます)
先行シングル「メリーアン」でブレイク、ロック路線を打ち出したアルバムのオープニングナンバーだったのじゃよ(古老の語り)
(25.03.14)困憊(コンパイ)ワンツースリー,フォー,ファーイブ 出勤だー♪…太古の昔から同じ替え歌が何度となく歌われてきた気はする。
(25.03.16)JAIHOで配信中・韓国発のホラーコメディ映画
『オー!マイゴースト』(外部リンクが開きます/開いただけでは料金は発生しません)、
チョン・セランの小説『
保健室のアン・ウニョン先生』(
23年5月の日記参照)みたいな人情モノだとイイなという期待はドンピシャ。成績不振のTV局が「ショッピング番組に幽霊が映りこむと売り上げが伸びる」という謎迷信のため霊媒をやとって厭がる幽霊を無理やり召喚・お札で操りタレントとして酷使―という展開に、そういえばゾンビも元々は奴隷として使役するため呪術で甦らされた哀れな死者だったような…と思い出すなど。

アジア映画多いめのJAIHO、今なら『ドラゴン・マッハ!』『おじいちゃんはデブゴン』『暗戦』など活きのいい香港映画も配信中。『姿三四郎』にオマージュを捧げた『
柔道龍虎房』ラストというかエンドロールの伏線回収(?「
妙に不自然なシーンだと思ったらコレのためか!」)がスゴいので観れるひとは観てアゼンとしてほしい。
(25.03.18)「来るぞ来るぞ衝撃受けなきゃ打ちのめされなきゃ」と身構えず読めるティプトリー、
というと語弊がありますが『
すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』(原著1986年/浅倉久志訳・ハヤカワ文庫FT)はSFでなくファンタジー。いや、破壊されたマヤ民族と汚される自然を老グリンゴ(合衆国の白人)視点で描く三つの短篇は彼女のSFにも通底する「植民地主義の加害者側」という苦い自覚を基調低音としているのだけれど―何の気なしに手にした同書の舞台=ユカタン半島は、ちょうど(グダグダだった)(すまん)(
今週のメイン日記(週記)で名前だけ触れたサパティスタ勃興の地・チアパスの近隣で「持ってるな自分」とゆうか、(ティプトリーが哀惜したマヤ族の夢が蜂起となって回帰したような)(とは言いすぎかも知れないけど)あの地域の近現代史、もう少し突っ込んで勉強したくなった。

と言いつつ次に読む本は、また台北に逆戻りなのですが…
(25.03.19)翌日、もう流石に別モードに切り替えたつもりで読みだした台北が舞台の小説で終盤いきなり主人公が香港まで足を延ばし、出向いた先が
チョンキンマンション(
メイン日記末尾参照)でギャッとなる。「持ってる」とか超えて、怪しい追っ手に待伏せされたか、同じパーツを使い回す夢の中に閉じ込められたようで怖い。

まあマラブーの『泥棒!』最後の最後に台湾のオードリー・タンを「閣僚になったアナキスト」として取り上げていたので、どのみち逃げられない掌の上ではあったのですが?
(25.03.22)読書の話ばかりしてるのは往復2時間くらい電車に乗ってる―冷静に考えたらまともじゃない近況のせいなのですが(なんで「通勤可能です」って言っちゃったんだろう…)
だいぶ前に反町の月例古本市で買った
ティム・スペクター『
双子の遺伝子 「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける』(原著2012年/野中香方子訳・ダイヤモンド社2014年)は、同一のDNA配列をもちながら人生を違えた双子たちの事例(反例)を導きに「(かかる病気や寿命・性的指向や犯罪傾向まで)遺伝子が全てを決定する」という20世紀の行きすぎたドグマを覆す。鍵は副題にもあるエピジェネティクス、すなわち遺伝子があってもソレが発現するかは別の要素で決まるという21世紀の理論。
驚くべきは祖母の妊娠中のたとえば栄養状態が、子宮の中の胎児(娘)だけでなく胎児(娘)の中でもう分化している卵母細胞(孫)にまで影響を及ぼし、孫の代になって影響が顕在化する例もあるという→かつてラマルキズムとして葬られた「獲得形質の遺伝」の予想外の形での再評価。
そして各人の将来かかる病気やら何やらを知るには人体だけでは話半分で、人体の中でヒトの遺伝子の4倍も「情報」量がある腸内細菌群のゲノム解析も必要という気づき。
遺伝子の命令は重要かも知れないけれど、それ単独で生涯が決まるわけではない・生命現象は多様な要素が絡みあうオーケストラなのだと説く一冊でした。
(25.03.23)元々ゲストユーザーというかビジターというかアウェイというか、現世のあらゆる局面で「ホームじゃない」感が強い自分だけど、ついに「お前は世界の敵」認定された気分に陥ってしまった、長らく通っていた地元カレー屋のスタミナカレー950円。昨年900円に値上げしてはいたのだけれど「苦渋の決断で720円→750円」なんて頃も記憶してるので、しみじみ崖っぷち(えらい処まで来てしまった)気持ち。

もう少しマイルドに言い替えると、もはや毎日が「こんなになってしまった世界を訪ねる観光旅行」で外食も観光地価格といった按配か。このスタミナカレーと東京に二ヶ所残ってる冷やし排骨担々麺、それに「なぜ蕎麦にラー油を入れるのか」だけは値上げしても(年に数回は)つきあっていきたいと思っているのですが。
そろそろ人生からコーヒーが消える覚悟もしなきゃいけない(かもだ)し、今年は正念場な気がする。
(25.03.27)今日は支出ゼロデーだったので街頭で案内板を掲げた宣伝のひとを見かけても「ふーん(また機会があれば…)」と通り過ぎた「
たぬきは飲み物。」、名前で察せたとおり「カレーは飲み物」「なぜ蕎麦にラー油を入れるのか」の系列店みたい。
・
【飲み物。新業態】池袋東口に「たぬきは飲み物。」がオープンへ(池袋タイムズ/25.3.17/外部リンクが開きます)
ラー油蕎麦も太麺に揚げ玉かけ放題だから、あまり変わらないのでは…と思ったけれど、あ!もしかして温そば?(冷たいかも知れません。機会があれば確かめます)
(25.03.24)大阪万博に比べると1/5くらいの規模らしい?のだけど?なんだろう、わが横浜市には伊勢神宮の式年遷宮みたく20年周期で、胡乱なイベントに予算を焼尽する儀礼でもあるのかしら(それは式年遷宮じゃなくてポトラッチ)いや、あきれてるんです。
国際園芸博の建設費、97億増 横浜市が警戒する「万博から飛び火」(朝日新聞/25.03.11/外部リンクが開きます)
※あまり知られてないかも知れないけれど2009年にもY150開港博という大惨事がありましたのさ…
※かく言う自分もGREEN EXPO27については倍々に増える水草が池の半分を覆うまで(地味すぎて)目を背けてた反省はあるます
(25.03.30)今さらなんだけど大阪万博のポスター、ビジュアルの中心になる真ん真ん中の女性がタコ焼きを食べてて、本当に何がしたいんだ?万博じゃないの?…と悲惨な気持ちになってしまった。350万人は来ると見込まれている国外からの来訪客が「このポスターにある食べ物は何処で食べられるんだ」とパビリオンそっちのけで右往左往したらどうするのか、それとも用意してるのか、目玉なのかタコ焼きパビリオン←でも
タコ焼きパビリオン、本当にあったらどうしよう(知りたくない気持ちで一杯)

比べると横浜のグリーンエキスポ2027、よくもあしくも如才ないというか
言質を取らせない・綺麗な印象だけで何をするのかサッパリ分からないデザインで(実は公式ホームページを見ても具体的に何があるのかよく分からない)大阪とは真逆なんだけど真逆すぎて、これはこれで上手くいく気がしない。肝心のイベント(博覧会)自体に訴求力がないのだけは共通してる気がします。
(25.03.28)ある小説書きさんが小説書きのお師匠さんに「小説書きのいいところは、いつ辞めてもいいし、いつまた始めてもいいところだ」と教わった、という話が(うろ覚えなんだけど)好きで、もしかしたら小説書きじゃなかったかも知れない、創作や表現活動すべてに言えることだと思う。
七詩ムメイさんがHOLOLIVE卒業ということで「I Miss You」のカヴァーは好きなんだけど
前にも貼ってるし中のひとがいつでも望むままに飛べるよう、今日はこちらを。
・
Mumei Sings "Defying Gravity" from Wicked | Karaoke(YouTube/外部リンクが開きます)
電車の中でムーミンを見たら思い出してほしいこと〜ジョルジョ・アガンベン『目的のない手段』(25.03.29)
イギリス発祥の
Refugee Weekは6/20の世界難民デーに前後する一週間(6/16〜22)、世界中で自発的にアート・イベントやお祝いを開催しましょう、というものらしい。包括する(支配はしない)公式ホームページによれば、昨年は15,000以上の催しが行なわれた由。
・
About;Refugee Weekって何?(Refugee Week公式/英文/外部リンクが開きます)
今年は絵本デビュー80周年になるムーミンが催しに協力し、作者トーベ・ヤンソンのオリジナル・イラスト(たぶん児童書の挿し絵)を使用したアートワークが公開されている。
・
Simple Acts(同上/外部リンク)
と題されたページで
「Simple Acts(簡単な行動)は、難民を支持し、私たちのコミュニティに新しい絆を作るためにできる日々のアクションです」というヘッドラインとともに、ムーミン一家のイラストをあしらい提示された「アクション」は:
・
MEET YOUR NEIGHBOURS (隣人に会おう)
・
SHARE A FILM (一緒に映画を観よう)
・
EXPLORE OUTDOORS (アウトドアを探索しよう)
・
READ AND LISTEN (読み聞かせ・朗読会をしよう)
・
SHARE A MEAL (食べ物を分けあおう)
・
LEARN SOMETHING NEW (新しいことを学ぼう)
・
GET CREATIVE (クリエイティブになろう)
・
GET ACTIVE (アクティブになろう)
・
JOIN THE MOVEMENT (ムーブメントに加わろう)
それぞれのイラストはリンクボタンになっていて、クリックすると詳細な説明(英文)を読むことができる。こちらのページ:
Moomin 80 x Refugee Week 2025 (同上)では各々のメッセージつきイラストをXやFacebookで―たとえば
#RefugeeWeek #SimpleActs といったハッシュタグとともに―シェアできるようだ。
XやFacebookが差別や排斥をもシェアする(側面もある)ツールなのは一旦措く。Refugee Weekを主導するイギリスや、英語圏の国々が、国というか社会の単位では、同様に差別や排斥を唱え実行している(側面もある)ことも。評価の天秤に載せられるべきは個々の行動(Act)であってプラットフォームや国籍といった属性まるごとを「これだから○○は」と非難するのは「雑」というものだろう。
と、断ったうえで。
そうかそうか、ムーミンかと少し暖かい気持ちで電車に乗ると(車両によっては)目に入るのは、同じムーミンのキャラクタが使われたスマートフォンの広告だ。あくまで個人的な趣味の問題だけれど、一気に体温が下がる思いがした。
・
Google Pixel 9 Pro ムーミンコラボ特設ページ(外部リンクが開きます)
上記ウェブサイトによれば
「あなたはどの民(ミン)?こんなあなたに」(弊社のスマートフォン)という触れ込みで、車両の半分くらいを埋め尽くした広告の宣伝文句は
・
充電忘れたまま寝落ち民(ミン)なら…(弊社製品は急速充電)
・
撮ってばかりで写れない民(ミン)なら…(弊社製品は集合写真アシスト)
・
今日の献立どうしよう…民(ミン)なら…(弊社AIがレシピ提案)
・
大事な日ほど天気悪い民(ミン)なら…(弊社AIが写真補正)
・
写真への(他人の)
写り込みが気になる民(ミン)なら…(弊社AIが同)
上に予防線を張ったとおり「これだから日本は」とくさすのは
「雑」なのでしない。あくまで焦点は個々のアクター、この場合は広告主(スマートフォンの販売者)に絞られるべきだろう。
絞ったうえで、同じキャラクターと、それが背負ってる物語の、使い方の落差よ。
もちろん誰もが幸せになりたいのだ。スマートフォンが手早く充電されてほしい、せっかく撮った写真の写りが悪いとガッカリする、極端な話、それは「難民」と呼ばれる当事者だって変わりはない。
そう理解したうえで、AI搭載スマートフォンの広告が(ムーミンを起用した今回より以前から)拡散する幸福のかたちには、どうにも薄っぺらい、人間のクリエイティビティを舐めてかかってる、そして誰かの排除や搾取を少なくとも問題にはしていない・むしろ積極的に特権として売り込む冷淡さがある気がしてならない。
ムーミンとかけて語呂がよかったから以上の意図が積極的にあったとまでは思わないが「○○民(ミン)」「○○民(ミン)」の連打は「帰宅難民」「ランチ難民」「カフェ難民」「スマホ難民」…世間一般での「○○難民(ナンミン)」の乱発と韻を踏んでいるようで心が沈む。
一方で、同じムーミン一家が難民と共存するための行動を促していると思えば、なおさら皮肉だ。
以上、ひとことで言えば「
あなたがたが気が利いてるつもりで出してる広告、僕にはぜんぜん愉快でないし、あなたがたが提示する幸せもぜんぜん幸せに見えないんだけどなあ」で済む話かも知れないけれど(ひとことと言いながら「ふたこと」になってることは措く)
「○○民(ミン)」ならぬ「○○難民」について多少くどく説明すると、人には(スマホで撮った写真をAI加工で「盛る」ように)「キャベツが無限に食べれるレシピ」とか「300円の洋菓子が270円、神!」とか形容を盛りたがる傾向がある。半世紀くらい前の英語圏では「すごーい」の最上級を「それって
ダイナマイトだな!」と表現したらしいから、ことは時代や地域を問わないのだろう。
そして「盛る」ための誇張は、しばしば社会的にきわどい・当事者にとっては笑い事でない事象を取り上げがちだ。障害(とくに精神的あるいは知的な障害)や性的指向・犯罪や人権侵害にかかわる用語や概念が、ちょっと気の利いた誇張表現をするために借用される。自分だって「という妄想」「という幻覚」等ついカジュアルに使ってしまいがちなので、他人事ではない。自分はオタクなので、オタクの人たちがBLだの百合だの性的マイノリティを扱ったコンテンツを好んで取り上げながら、LGBT差別にあたるような語彙やネタを無神経に使いつづける様子をうんざりするほど見てきた。体育会系には体育会系の、パーリーピーポーにはパーリーピーポーの、同様な「ノリ」があるのかも知れないけど。
使用する・選択するくらいの意味で使った「取り上げる」という表現は、わりかし事実でもある。「唖然とする」「ゲリラ豪雨」「原作(以下略)」といった表現は、それぞれの語や当事者がもつ深刻かも知れない状況を、たかが「やー困った困った」と言いたいがために当事者から「取り上げる」。そうした借用は、本来の語や事態がもっていた深刻さを「そんな深刻なもんでもねーじゃん」とカジュアル化する・中和する「効能」もあるかも知れない。驟雨(にわか雨)を「ゲリラ豪雨」と呼ぶことで、実在のゲリラが有してる当人たちの情や理は切り捨てられ「突発的で迷惑」という意味だけが増幅される。「スマホ難民」「ランチ難民」といった亜種の濫造・濫用は、本来の難民が有する個別の状況を削り取り、軽んじさせる「効果」を発揮してはいないか。そうしたカジュアル化は実在の難民への軽侮を助長し…最終的には「偽装難民」のような差別ワードを社会に響かせはしないか。
「幸福というのは、精神の高いエネルギーが低いエネルギーによって煩されることのない境地、気楽というのは、低いエネルギーが高いエネルギーによって煩わされることのない境地」これは百年以上前の社会学者・哲学者ジンメルの言葉(ゲオルク・ジンメル『愛の断想・日々の断想』岩波文庫)。
いちいち目くじら立てるなよ、お前だって気を抜きたい・気楽に行きたい時はあるだろう―それはそうだ。けれどその「気楽」が差別や排除・搾取や簒奪への積極的な加担や、消極的な容認(問題にしない態度)と表裏一体ならば、話は別だ。
そんなわけで電車に乗って、急速充電を謳うスマートフォンの広告に「○○民(ミン)」として動員されているムーミン一家を見て「なんか感覚的にヤだな」と思ったら、Simple Actsを推奨するムーミン一家のもうひとつの顔を思い出してほしい。
Yes, there are two MOOMIN FAMILIES
you can go with
. But in the long run, there's still a time to change the road yout're on.
*** *** ***
以下は完全な余談。
そんなこんなでモヤモヤしていたら、また丁度あらたに読みはじめた本に「難民」をめぐる考察があったので(
だからさ「持ってる」んだよ自分(笑))簡単に自メモです。
ジョルジョ・アガンベンの初期の時評集で昨年改訳が出たばかりの
・
『目的のない手段』(原著1996年/高桑和巳訳・以文社2024年/外部リンクが開きます)
に収録された「人民とは何か?」「収容所とは何か?」は「人民」と「国民」を分けて考えることで、1798年のフランス人権宣言に始まる
「権利の諸宣言」は国家権力を制限し、すべての人民に基本的人権を保障するスーパーパワーだ・と・いう建前・が・欺瞞だと告発する。現実には近代の人権とは「すべての人民」ではなく「国民」に与えられるもので(フランス革命は植民地の奴隷たちには「自由・平等・博愛」を適用しなかったという
23年10月の日記など参照)
「難民が大衆現象として最初に出現したのは第一次世界大戦の終わりのことである。ロシア、オーストリア-ハンガリー、オスマン各帝国の失墜と、平和条約によって作られた新秩序によって(中略)
わずかのうちに、一五〇万の白系ロシア人、七〇万のアルメニア人、五〇万のブルガリア人、一〇〇万のギリシア人、数十万のドイツ人、ハンガリー人、ルーマニア人が自国から移動している」
彼ら彼女らが再編された諸国家に自身を再統合させることを拒否し
「祖国に戻るよりもむしろ無国籍者になるほうをはじめから望んだ」一方で、国家も20年代に
「自国民の国籍剥奪および帰化国籍剥奪を可能にする法」を次々に導入しはじめる。
自らも亡命ユダヤ人だった
ハンナ・アーレントを引用し、難民を(国家に帰属しない)
「人民の前衛」と捉える一方で、アガンベンは
「出生を書き込むという原則(略)
に基礎づけられている」国民国家が市民(人民)を完全な市民権を持つ者と持たない者に二分し(ドイツ・ニュルンベルク法・1935年)前者の純粋化のために後者の絶滅をめざすのは必然であった、近代国家は(国民のみに人権を保障すると決めた時点で)終着点としての絶滅収容所を避けがたく内包していたと厳しく断罪する。アウシュヴィッツに至るドイツの絶滅政策はユダヤ人だけでなくロマや性的マイノリティ・障害者まで排除の対象にしていたのだ。
絶滅収容所は最初から近代国家の基礎に埋め込まれているという、アガンベンのラディカルな論旨に賛同するかは兎も角。
「国民」国家が多数併存し、いくども「組替え」が行なわれてきたヨーロッパや他の地域では、不安定さゆえに明らかにもなりやすい「国民」国家のかりそめさ・虚構性が―地理的・歴史的な条件から日本では疑われにくいこと、の、デメリットについて考えてしまう。もちろん西欧諸国にも差別や迫害・排除はあるだろう。けれどこの列島で「国家は自明なものだ」と信じることのハードルの低さは、「フルスペックの人権」を有さない人たちへの「差別じゃないよ区別だよ」と言わんばかりの区別(差別)も、また容易にしてはいないだろうか。いや、「これだから日本は」と言うのは「雑」な把握になりかねないと、繰り返し自省は必要なのだけれど、
明治維新から80年弱の帰結が(未遂に終わったとはいえ)「一億総玉砕」だったこの国は、近代国家はシステム上「致死機械」に行き着かざるを得ないというアガンベンの仮説の最も雄弁な実例候補かも知れないことを、少しは考えてみても好いのかも知れない。
* * *
自ら賞を与えた『ノー・アザー・ランド』のパレスチナ人監督がイスラエルの軍隊に拉致され拷問された事件に抗議を表明しなかった米アカデミー協会には「これだからアメリカは・西欧は」と言いたくなるけれど、
ユーリズミックス時代の代表曲「スウィート・ドリームズ」の歌詞を最初に手書きしたノートをオークションに出品し、落札価格の10万ドルをガザに寄付した
アニー・レノックス(スコットランド人)のような人もいる。ちなみにこのニュースは差別やフェイクニュースの温床でもあるX経由で知った。
ミャンマーの軍部独裁に対しては容認できない思いが強い(
23年8月の日記参照)一方、地震のニュースには落ち着いていられず、
まあ自分は馳浩が知事をしている石川県にだって動ければボランティアに行ってしまうタイプなんだけどね、(自国を離れた人こそ「人民の前衛」だというアガンベン≒アーレント説の影響もあって)さしあたり日本でミャンマーの人がやってるミャンマー・レストランの売り上げに貢献という迂回路を試してみた。

韓国料理でチゲや純豆腐が盛りつけられるような黒い厚手の小鍋で供された魚介だし(具体的にはナマズだそうな)のスープを、おそうめんみたいな細麺にたっぷりかけていただく
モンヒンガー(モヒンガー)、初めて食べました。
んまい。別料金(100円)でトッピングした冬瓜の揚げ物も。ミルクとバターで甘く濃厚なミャンマー式紅茶も。
しかし今日になって地震の死者は報じられただけでも昨日のニュースの十倍になっており(いや、そっちのほうは「親日」ミャンマーが大好きな人たちや政府がジャラジャラ宝石を鳴らしてくれるだろう、
鳴らすよね?)と思っていた気持ちは、改めて乱れるのだった。
そのありかたを容認できないプラットフォーム(あるいは国家・社会)への反感と、そこに定義上は分類されながら属性でなく生きている人たちへの連帯感を、どうしたら上手く両立させられるのだろう。
たったひとつの〜レッド・ツェッペリン「天国への階段」(25.03.23)
「天国への階段」は名曲、「天国への階段」は名曲と皆が言うのに、うんうん名曲だよねと頷きながら
フォーク・クルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」を思い浮かべてたという話が大好き。
いやたしかに登るけどさ階段!長い階段をさ!
*** *** ***
たぶん昔は、原盤となる海向こうのレコード自体、歌詞に重きを置いてなかったのだろう。(特に非英語圏の顧客あたりを想定して)英語の歌詞を印刷してつけておこう、なんて慣習自体なかった・少なくとも無くても非難はされなかった・のかも知れない。
昔の日本版LPに(あの大きなジャケットと同じサイズの紙で)ついてきた歌詞カードには、今では信じられないだろうけど
「……の部分は聴き取り不可能」と匙を投げたモノや、特に聴き取りが難しい特定の一曲あるいは全曲まるまる歌詞が抜け、日本人のロック評論家による解説だけになったモノなどあった。
その一方、輸入して売る側もテキトウで?ミュージシャンやレコード会社が出した正式なアルバムでなく、勝手に編集された「ベスト版」と称するカセットが
「本人の歌声で収録」なる謳い文句つきで(たぶん勝手に)廉価で販売されたりしていた。ひょっとしたら今も高速のサービスエリアなんかで売られてるのかも知れない。ちなみに「本人の歌声で収録」は洒落じゃなくて、かつて(洋楽ではない日本の歌手の)勝手編集版カセットだかCDだかで「本人の歌唱じゃない」物件をつかまされた知人がいる。私たちはすでにアナキズムを生きているのだ(笑)
…
レッド・ツェッペリンの「
移民の歌」は、最初そういう勝手編集(
つまりは海賊盤か)のカセットで聴いた。でんでけでけっ・でんでけでけっ・あああーあっ!というイントロで有名なアレだ。いちおう丁寧に全曲の歌詞(邦訳はなし・英文のみ)が小さく折りたたまれた紙に印刷されていて、北大西洋の厳しい氷雪をわたるヴァイキングはサビのキメ台詞をこう叫ぶのだった:
I wanna go (俺は行きたい)
where there are rest and show (休息とショーがある場所へ)

なんだか伊東か熱海の温泉ホテルみたいだが、ショーを見ながらゆったり休息、まあ気持ちは分かる…と思ったら数年後、こちらはレコード会社から公式に発売されたベスト版・知ってるひとは知ってると思うけど一時期UFOの仕業かと騒がれた麦畑のクロップマークをあしらった二枚組・四枚組CDについてきた歌詞は、まったく別の代物だった:
I only go (俺が行った場所といえば)
where there are less than shown (外見に劣る場所ばかり)
まあ「ショーと休暇」もまだ「行きたいよぉ(泣)」なので現状「行く先々で失望ばかり」と大して違いはないとも言える(?)
さらに後年、この二番目の英詞すら間違っている・本当の歌詞はこうだという風聞を目にしたけれど、さすがにもうどうでもよくなってしまい(
もういいじゃんless than shownで)この件は放置している。
・
Led Zeppelin - Immigrant Song (Live 1972)(YouTube/外部リンクが開きます)
後述するように、ツェッペリン三枚目のアルバムの開幕を告げる同曲には、そこそこ強烈な矜持とメッセージが込められている(推測)のだけれど…
* * *
しかし1972年に発表された四枚目のアルバム・A面ラストの収録曲「
天国への階段(Stairway to Heaven)」は意気込みが違った。例の大きなLPジャケットの内側に入った、レコードを納める内袋が紙製で、そこに擬古調のフォントで同曲の歌詞だけが直々に印刷されていたのだ。これだけは過たず伝わってほしい…と思ったかどうかは知らないが、少なくとも並々ならぬ自信と自負が感じられた。
それでいて、何を言ってるのかサッパリ分からない歌詞だった。分からないなりに家にあったタイプライターで歌詞を筆耕して、壁かなんかに磁石で貼って眺めたりして、数日後
ふいに意味が分かった(気がした)。あーコレは確かにすごいねと感心させられた。なので、その話をする。

もちろん今ではネットの何処かで「この歌詞の意味はこう」と、自分が書くより余程ちゃんとしたレビューがあるのかも知れない。でもまあ、同じ観光地やラーメン屋に行った人たちだって「ここについては他のひとが書いてるから自分はいいや」とは思わずに、独自のレビューを書くじゃないですか。逆に今どき「天国への階段」でもないだろうという気もする。正直、フォーク調で始まり終盤ハードロックをぶちかましつつ最後また抒情的に終わる曲調は、僕が初めて聴いた80年代なかばでも既に古めかしかった。いや、リリース当時だって「名曲っぽいのは分かるけど、ちょっと古くさくね?」と思われていたかも知れない。けどまあ昔はロック史上に残る名曲みたいに言われていた。そして、そう言われるだけの、ふてぶてしいまでの歌詞ではあった。
・
Led Zeppelin - Stairway To Heaven (Official Audio)(同/外部リンク)
メランコリックなフォークギターのイントロに続いて、歌が始まる。
There's a lady (一人の貴婦人がいて)
who's sure (彼女は確信している)
all that glitter is gold (輝くものはすべて黄金だと)
And she's buying a stairway to heaven (そして彼女は天国への階段を買おうとしている)
この歌詞が自分に(数日後ふいに)「分かった」気がしたのは「輝くものはすべて黄金だ」というフレーズに憶えがあったからだ。ただし否定形で「輝くものすべて黄金
ならず」(All that glitter is
not gold)という。
シェイクスピア『ヴェニスの商人』に登場する台詞だ。
第二幕第七場、美しい貴婦人ポーシャは求婚者たちに金・銀・銅いずれかの箱を選ばせる。結婚の証となる指輪が入っているのは銅の箱で、金の箱を選んだ者には上記「輝くものすべてが黄金とは限らない(見た目に惑わされた求婚者さん残念でした)」というメッセージが入っている。元々この「箱選び」はラテン語の元ネタがある話で、それをまた別にあった「血1ポンド」の話とマッシュアップして沙翁は戯曲化したらしいけれど(Wikipedia調べ)その話は措く。輝くものが黄金とは限らないという格言は逆に、沙翁の時代のヨーロッパが急速に「金で買えないものはない」的な貨幣経済のエートスに侵略されつつあった反動かも知れないけれど、その話も措く。
要は「輝くものが黄金とは限らない」という慎み・抑制に対し「いいや、私は輝くものは全て黄金だと信じる」=金で・力で・あるいは意志によって獲得できないものはないと信じる貴婦人がいて、その信念のもと彼女はまさに天国に至る階段まで「買おう」としているわけだ。
When she gets threre (そこに辿り着いた時)
she knows (彼女は知っている)
if the all stores are closed (すべての店が閉まっていも)
with a word (言葉ひとつで)
she can get what she came for (彼女が来た目的のものは手に入ると)
…And she's buying a stairway to heaven (そして彼女は天国への階段を買おうとしている)
怖いものなしだった彼女の旅路に、けれど疑念が挿しはじめる。
There's a sign on the wall (壁には印がある)
But she wants to be sure (でも彼女は確信がほしい)
'cause you know (なぜなら君も知るとおり)
sometimes words have two meanings (時に言葉には二つの意味があるから)
In the tree by the brook (小川の傍らの樹に)
there's a songbird who sings (鳥がいて歌っている)
sometimes all of our thoughts are misgiven (時には私たちの考え全てが誤って与えられたもの=誤解なのだと)
最初は「彼女は」天国への階段を買おうとしている、と歌っていたコーラスの主語が
…It makes me wonder (それは私を彷徨わせる)
…(It)makes me wonder (私は彷徨う)
と一人称に替わると「彼女」はかき消え、歌はスルッと「私」の物語を歌いはじめる。
There's a feeling I get (ひとつの感覚が私を捉える―)
when I look to the west (―西のほうを見た時に)
And my sprit is crying for leaving (そして私の魂は出立を求めて泣いている)
この「西のほうを見て何か感じた」というフレーズは(のちに有名な『アメリカン・サイコ』-未読だし映画も未見だけど-を書くことになる)
ブレット・イーストン・エリスの小説『
レス・ザン・ゼロ』のエピグラフに使われていて、僕には分からない特別な意味があるのかも知れないけれど分かりません。あと自分の解釈として「私」は「移民の歌」のヴァイキング同様に西に行きたくて魂が泣いていたので、一応それには深い意味があるのかも知れないという話は後でします。
In my thoughts I have seen (想像の中で私は見た)
rings of smoke through the trees (樹々の中にいくつもの煙の輪を)
And the voices of (そして声を聞いた)
those who stand lookin (そこに立って見下ろす者たち(の声を))
…It makes me wonder (それは私を迷わせる)
…really makes me wonder (本当に迷わされてしまう)
正直このへんはサッパリ分からない。繰り返されるwonderが「僕はあちこちを彷徨ってしまうのだった」の、ワンダーラストのワンダーなのか、「とっても不思議」ワンダフルのワンダーなのかすら、英語ネイティブでない自分には判別できない。両方の訳を混ぜてみました。まさに「時に言葉には二つの意味がある」のです。上手いこと言ったつもりか。
けれどこの『指輪物語』みたいな?謎描写も、そう長くは続かない。実は今回あらためて歌詞を見直すまで「私」はもうちょっと長くこの、煙の輪がプカプカ浮かぶ謎の森を彷徨うのかと思っていたのだけれど、
せっかちめに歌詞は核心に入る。「立って見下ろす者たちの声」の内容が詳らかにされるのだ。
And it's whispered that soon (その声は囁いた、すぐにでも)
if we all call the tune (私たちが皆でその音を鳴らせば)
Then the piper will lead us to reason (笛吹きが私たちを理性へと導き)
And a new day will dawn (新しい夜明けが訪れる―)
for those who stand long (―長く立っていた者たちに)
And the forests will echo in laughter (そして森に笑いがエコーする)
たったひとつの「その音」を鳴らすことが出来れば、笛吹き(
ちょっと待て笛吹きって誰だ)が私たちを理性(reason)へと導いてくれる。冒頭の貴婦人のくだりでも(彼女は)言葉ひとつで欲する何でも手に入れられるだろうと示唆されてはいた。しかし言葉には二重の意味があり、時に全ては誤解かも知れない―けれど「音」は言葉より疑う余地がない。ダブルミーニングの言葉がもたらしかねない迷妄は打ち払われ、誰もが待ち望んでいた夜明けが訪れる。
はっきり銘記されてはいないけれど、歌詞が表明しているメッセージはこうだろう:
その「音」を鳴らすのは吾々(レッド・ツェッペリン)
だ。あるいはもっとハッキリ、この曲(天国への階段)がそれだ、と言ってるのかも知れない。
ここで宿題にしていた「西」の話を回収する。まず「移民の歌」なのだけれど、あれはショーを見ながら休みたい・または行った先でも失望しかない「だけ」の歌ではない(だろう)。イギリスにおいてアルバム『レッド・ツェッペリン』でデビューし、全米ツアー中に大急ぎで制作された『レッド・ツェッペリンII』はアメリカのチャートでビートルズのラストアルバムだった『アビイ・ロード』を一位の座から蹴落としたという伝説がある。
We are your overload―吾々がお前たちのオーヴァーロード(支配者)だとうそぶく「移民の歌」は、彼らのアメリカ征服宣言だという解釈はそう間違ってないと思う。「天国への階段」の「西」もまた、改めての全米(ひいては世界)制覇を示唆しているのかも知れない。いや、どちらでもいい話だ。歌詞の企図はすでに小さなアメリカを超えている。
たったひとつの音さえ見つかれば世界の混迷は打ち払われる(その「音」を鳴らすのは俺たちだ)という結論は早々に出たのだけれど、怒濤の終盤を前にして足踏み・歌詞はしばらく彷徨を続ける。まあ、つきあってもらおう。
If there's a bustle in your headgerow (君の生け垣に騒がしい音がしても)
don't be alarmed now (警戒することはない)
It's just a spiring clean for the May Queen (それは五月の女王に捧げられたただの春雨だ)
という一節は「そうですか、たいへん結構ですね」と雰囲気でパスするとして
Yes, there are two path (そう、道は二つある)
you can go by (君の進める道は)
But in the long run, (だけど長い目で見れば)
there's still a time (時間はまだある)
to chang the road yout're on (君が進む道を変えるための)
は、
国政選挙や知事選挙の前なんかに思い出してほしみが強い(本サイトでも前に引用してるかも知れない)。
(既に結論は出てるのだけど)歌詞は一気に核心に入る。
Your head is humming, (君の頭がブンブンとうなって)
and it won't go, (それが消え去らない時)
in case you don't know (君は知らないだろうけれど)
The piper's calling you (笛吹きが呼んでいるのだ)
to join him (彼に加わるようにと)
謎の笛吹きに続いて、ついに「彼女」が再登場する。
Dear Lady, (親愛なる貴婦人よ)
can you hear (聞こえますか)
the wind brows? (風が鳴るのを)
And did you know (御存知だったのですか)
your stairway lies on the whispering wind (あなたの階段は囁く風のほうにあると)
でででーん。でででーん。でででーんでーんでーん。
ここまで続いたフォーク調から一転、ハードロックの間奏が始まる。激しくドラムが打ち鳴らされ、ギターソロを経て突入するクライマックスの主語は一人称複数の「吾々」だ。
And as we wind on (そして吾らはよろめき)
down the road (その道を進む)
Our shadows taller (吾らの影はなお高い)
than our soul (吾らの魂よりも)
このwindはウインド・囁く「風」ではなくビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」=長く曲がりくねった道、と同じ動詞のワインド。正しいはずの「道」は曲がりくねって、「私たち」は自分の影に圧倒されそうになる。けれど、見よ:
There walks a lady (あの貴婦人が歩いている)
we all know (吾々みんなが知っている彼女が)
who shines white light (彼女は白い光を輝かせ)
and wants to show (示したがっている)
how everything (いかに全てのものが)
still turns to gold (それでも黄金に変じうるのかを)
さっきは仄めかしだった「あの貴婦人」が白のガンダルフのように輝く完全体で現れて、迷う「吾々」を先導する。それでも(still)あらゆるものは黄金に変わりうるのだ、不可能はない、手に入らないものはない―そう勝ち誇る彼女から、主語のバトンは「君」に渡される。
And if you listen very hard (そして君が懸命に耳をこらせば)
the tune will come to you at last (あの音はついに君に訪れるだろう)
When all are one, (全てのものが一つになり)
and one is all (一つが全てになる時)
分かった、分かった、すごいよ、エモいよと言わさんばかりに畳みかけたクライマックスの歌詞は、しかし最後の最後になって、
恐ろしいどんでん返しをする。
混迷は打ち払われる、圧倒する影は光に消し飛ばされる、すべてのものを黄金に変えることだってできる、不可能はない、君にも「あの音」が聞こえるはずだ、全ては1で、1は全てだと謳いあげた歌詞がなだれこむのは―以上の内容は初めて知ったよ・あまり深く考えてなかったよという人でも「あ、うん、そっちは知ってる」となるかも知れない有名な結語だ。
To be a rock, (一つの岩になる)
and not to roll (もう揺らぐことはない)
…もちろん歌は最後に再びフォーク調に戻って
「And she's buying a stairway to heaven…」と余韻を残して終わるのだけど、それにしたって
To be a rock, and not to rollだ。いや、ここまで積み上げられた歌詞からすれば間違ってはいない。揺るぎない一つの岩になる。けれど何でも手に入る・不可能はない・たった一つの音さえあればと謳い上げた歌詞の結語が
「ロックンロール(rock and roll)」という言葉の半分しか肯定できない・もう半分を容赦なく切り捨てるものだった皮肉はどうだろう。

* * *
この時「ロール」を切り捨てたことでハードロック・バンドの雄レッド・ツェッペリンは唯一無二の頂点をきわめながら固い岩のように硬直し、やがてロール=転がる初期衝動を体現したようなパンク・ロックの台頭に蹴落とされる…渋谷陽一氏などが唱えていたような気がする「史観」は、少し単純化が過ぎるだろうし話が無駄に広がるので省略する。ツェッペリンの全盛期は(ドラマーの急逝まで)以後も続くし、後半グダった前々回・終始グダグダだった前回の反省も踏まえて今週はロールしない・きっちりスジが通った話を書こうと思って、今となってはアンティーク感すらある「天国への階段」なぞ(失礼)を引っ張り出してきたのだ。
そのうえで。
「たったひとつの「音」なり言葉なり、概念なりが足りないがために吾々は混迷を強いられ、魂よりも大きな己の影に圧倒されているのかも知れない・たったひとつの「それ」さえあれば、森は笑いで包まれるのだ―という発想は、前回の日記でル=グウィンの言葉を引いたように、抽象的な思考・思索に慣れたひとは早晩どこかで巡りあうものだろう。もしかしたら自分の場合は、このツェッペリンの歌詞が最初の出会いだったかも知れない。
反面というか表裏一体というか「天国への階段」の歌詞は、そうして「たったひとつの」音なり言葉なりで混迷の世界をスパッと割り切れた…と思ったら、それはRock and RollのRollのように「スパッと割り切れない半分を切り捨ててしまう」限界まで(書いた当人の意図はともかく)示唆している点で、さらに含蓄が深い。
人は概ね言葉で思考する。えらく抽象的な「たったひとつの鍵さえあれば」とか「割り切ろうとすることの限界」みたいな概念を、最初はロックの歌詞を通して知るなんてことも、それが言葉である以上、あっておかしくはないのでした。
*** *** ***
(追記)その後も長く続いたツェッペリンの全盛期も、昔は「アルバムでいいのは8枚目まで・9枚目はちょっと…」みたいな意見が幅を利かせていて、鵜呑みにして聴くのが遅れてしまったのだけど9枚目のアルバム『
In Through the Out Door』も決して駄作ではない。
というか聴くのが遅れたせいで長らく知らなかったのだけど、同9枚目に収録された
・
Led Zeppelin - Carouselambra(Youtube/外部リンクが開きます)
の「ぱぱぱーぱぱぱーぱぱ」とパンチのあるブラスセクション(に模したキーボードだと思います)、80年代の日本の有名な有名なロック・バラードのイントロの元ネタ、これかー!と…いや、そっちは別に好きな曲でもないのだけど、逆に「よくココから拾ってきたなあ」と感心してしまった。JR仙台駅の発車メロディになってた気がします。
いつか目が鍛えられれば〜カトリーヌ・マラブー『泥棒!アナキズムと哲学』(25.03.16)
学生時代、あまり話した憶えのない先輩に突然
「舞村くん(仮名)ってアナーキストだったよね?」と問いかけられたことがある。
「
違いますっ」と即座に否定して数十余年。ようやく「自分はサヨクだけど、むしろアナキストかも知れない」と言える域に達しつつあるようだ(左翼の定義については
23年4月の日記参照)。少なくとも「いま自分が考えてることってアナキズムかも」と感じる割合は増えた気がする。
人が変わるには時間がかかる(こともある)。あるいは、時間がかかっても人は変わりうる。
* * *
カトリーヌ・マラブー『泥棒! -アナキズムと哲学-』(原著2022年/伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子 訳・青土社2024年/外部リンクが開きます)について書く前に「そもそもアナキズムって何だ?」から始める必要があると気がついた。マラブー先生(
前々回の日記参照)はプロの哲学者なので1・2・3あたりはスッ飛ばして軽く10くらいから話を始めてしまうのだけど、今回は1から足場を固めてみたい。
まずもってアナキズムは「無政府主義」と訳される。ネット検索で「アナキズム」を引くと
「一切の権威,特に国家の権威を否定して,諸個人の自由を重視し,その自由な諸個人の合意のみを基礎にする社会を目指そうとする政治思想(中略)
管理社会化が進展する今日的状況において,支配なきユートピアへの願望の表現であるともいえるが,それを実現する現実的基盤を欠くことが多い」(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典)
これはこれで簡潔にまとまっている。けれど19世紀〜20世紀前半に盛り上がったアナキズム運動(今の制度をぶっ壊せ!後は何とかなる!)がボルシェビズム(共産主義。今の制度をぶっ壊せ!そしてすべての権力をソビエトに!)との角逐に敗れ、「今の制度」国家と資本主義の結託も覆せなかった時点で認識が停まっているのが難だ…と、マラブー先生ならダメ出しする知れない。
実際にはアナキズムは過去ではない。現実化もしてきた。メキシコのサパティスタ運動、アメリカのオキュパイ・ウォール・ストリート、フランスの黄色いベスト運動、イスラエルのAATW(アナキスト・アゲインスト・ザ・ウォール)他にもギリシャやスペインで色々あったはずだ、冷戦終結後の世界で実践として・思想としてのアナキズムは息を吹き返している。けれどそれらの運動は、経済の動向や国同士の争いが気がかりの中心になる「今の制度」上ではニュースサイトの前面にピン留めされず、すぐ色あせ忘れられてしまう。
アナキズムは過去でも夢想でもない、現役バリバリの実践的な思想だよ!と説く本に、たとえば主に人類学からアプローチした
・
松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社2021年/外部リンクが開きます)
がある。入門者向けの好著ですが

アナキズムの現在性を説くために
「いまは国家が公共領域から撤退しつつある。日本でも過去数十年にわたり、国鉄や郵政など国営事業の民営化が進んできた。最近は図書館や児童館ですら民間業者に委託(いたく)されはじめている。
(中略)
政府の転覆を謀(はか)る必要はない。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、僕らは現にアナキストとして生きている」
と書き起こす冒頭は、なるほど見事なツカミだけど
何かおかしい。
いや、たしかに今、少なくとも日本で起きていることの一部は、言うなら政府主導の無政府状態だ。新型コロナや高額医療費問題、とくに昨年の米価高騰で噴出した物価問題、そして度重なる災害での支援の遅れ・あるいは無策。
昨年はじめ、能登半島が震災に見舞われたとき政府与党の自民党が何をしたか憶えているだろうか。国内のボランティアを閉め出し、海外からの支援を拒絶し、国家としての役割をアナーキーに放棄した政府与党は、こともあろうに自党の議員が日本赤十字社の募金の窓口になることを「震災対策」としたのだ。
有権者が本気(ガチ)で目覚めないかぎり数年後〜十数年後には順当に総理大臣になる小泉進次郎が、募金箱を手に子どもの前に腰を下ろし笑顔で「目線を合わせ」た写真が目に焼きついている。
・参考:
「地元で街頭募金を実施した小泉進次郎議員【写真】」(中日スポーツ24.01.08/外部リンク)
政府が何もしないから仕方なく皆が自発的に(アナーキーに)始めた子ども食堂を簒奪し「子どもの皆さん。皆さんには子ども食堂があります。頑張ってください。内閣総理大臣・安倍晋三」と恥ずかしげもなく自分の手柄のように呼びかけた先任者の、さらに愚劣なパロディだ。
なので「今の日本こそ
アナーキー・イン・ザ・JPじゃん」と中指たてたくなる気持ちは分かる。けれど政府なんて要らねえ・国家を廃絶せよと叫ぶアナキズムと、政府・国家じたいが「お前らのために働くなんてヤンピ・自分たちで助け合ってね」と責務を放棄する官製アナキズム(?)を一緒くたにしていいのか?

いくない、とマラブーは言う。
要するに、状態としてのアナーキー(無政府状態)と、理念としてのアナキズム(無政府主義)を峻別し、後者を救い出す必要があるのだ…というのは自分の言葉で、マラブーはこれを「
事実としてのアナキズム」「
目覚めとしてのアナキズム」と呼ぶ。専門家に敬意を表して今後は彼女の語彙で話を進めます。
そもそも「目覚めとしてのアナキズム」自体、19世紀後半くらいからプルードン、バクーニン、クロポトキンなどによって整備された新しい概念だった。それ以前にも、それこそ古代ギリシャの昔からあった悪しき無政府状態・国家なり行政なりが機能を停止し、ヒャッハーとモヒカンの暴走族が略奪をほしいままにする(
いや古代ギリシャでヒャッハーはないと思うが)カオスな状態を指す言葉だった「アナーキー」を、いいやアナーキーでいいんだ、政府がなくても
人々は相互扶助でやっていける(ここ重要)、むしろ積極的にアナキストを名乗りたいねと言葉を奪った・意味を書き換えたのが「目覚めとしてのアナキズム」だと言える。
しかし、いま世界を席捲しているのは「事実としてのアナキズム」」―国家が曲がりなりに持っていた国民生活の保護や人権の確保といった機能を放棄する一方で、資本と結びついた国家権力の支配・統制は強まる
「ハイブリッドな組み合わせ」「アナルコ・キャピタリズム」(無政府資本主義)だ。
「政治ジャーナリストの一部が冗談抜きにドナルド・トランプはアナキストだと主張するとき、ジャーナリストたちは言葉遊びをしているのではなく、世界中が重大な危機と感じているものを明確にしようとしているのだ」
危機は分かるが、これでは真面目なアナキズムの立つ瀬がない。
* * *
国家の統制なんて邪魔だと主張する意味では、リバタリアンも新自由主義も、なんなら古典的なレッセ・フェール(自由放任主義)から「表現の自由」に差別の自由まで含めろと主張する者(イーロン・マスクとか)まで含まれてしまう。
上からの統治や支配=垂直性を温存したまま「上」に居る者が自由放任を求める「事実としてのアナキズム」から、水平であれ・上からの(垂直に下りてくる)統治や支配を廃絶せよと求める「目覚めとしてのアナキズム」を切り離すために―
―
ここからようやく本題に入る。本書でマラブーが「泥棒!」と糾弾するのはドナルド・トランプやマスクなど「事実上のアナキズム」の先導者(煽動者)たち、
ではない。自身の同業者である現代思想のエースたちが「目覚めとしてのアナキズム」の標的である上からの支配=統治や支配、権力に対する分析や批判を通して、実践としてのアナキズムを理論面から側面支援しつつ、敵(統治)の敵ではありながら味方ではなかった、自身がアナキストであるとは決して認めようとしなかった不徹底を「泥棒!」自分たちだってアナキズムから思想的な恩恵を受けながら借りパクかよ!と次々(またしても)血祭りに上げる内容なのだ。
その俎板に乗るのは(不勉強な僕が初めて名前を知る面々も含め)シュールマン、デリダ、レヴィナス、フーコー、アガンベン、ランシエール…本書の半分は「泥棒!」とは言いながら現代思想のエースである先達が敵の敵=統治や支配・権力に対峙し、分析し、解体に挑んだ半世紀の闘争史であり、と同時に彼らが各々の闘いを詰めきれなかった・あと一歩で「敵」をスルリと逃がしてしまった・そして自身をアナキストに変成しえなかった・後世に残してしまった「宿題」を手際よく(?)整理する。
たとえば原著を読むたび難解さ・晦渋さに頭をかかえたくなる(けれど何か重要なことを言ってるらしいので力不足でもつい手に取ってしまう)ジョルジョ・アガンベンの思想の力点を知るのに「アガンベン入門」みたいな総論でなく「マラブーの問題意識からだけ切り取った」本書の記述は恥ずかしながら役に立つ。また個人的には「代表制が民主制の人口増大への仕方ない対応というのは虚偽で、その本質は寡頭制に他ならない」と厳しく指摘する一方(←
先々週の日記に繋がる話ですにゃー)「奴隷であっても主人の命令を理解するという意味では知的に平等で、上下関係を最終的には破綻させうる」などと書いてるらしいジャック・ランシエール(1940〜)など気になりはじめている。それでもマラブーの手にかかると(それぞれの達成や美点は評価されつつ)全員「泥棒」の落第点をつけられてしまうのだが。
これは多分に私見が入るのだけれど―そして何度か本サイトで書いてるように、多くのばあい思想や思考は(話がアナキズムでなくても)突き詰めると「これ以上考えると破綻してしまう」限界があるもの・なのではないだろうか。目が見えないまま象に触るのと同じは言いすぎかも知れないが、同じ問題意識を共有し、それぞれの問題意識で肉薄しながら、誰もが合意できる完全解には誰ひとり到達できない、そういうものではないか。
かつてのアナキズムがテロリズムの同義語であり、公然とそれに与することに誰もが躊躇した点もあるのだろう。
既存の権力を破壊して打ち立てられた体制が同様以上の抑圧者に変じたボルシェビズムの轍は踏めない一方、多くの蜂起が踏み潰され終わったことを「それでも蜂起は美しい」と肯定するのは敗者のナルシシズムではないかと、両側から切り立った崖に迫られる困難もあるだろう。
現代思想の先達たちは統治を強く批判しながら、真のアナーキー=統治なき世界は可能だと信じる勇気がなかったとマラブーは強調する。カオスな野放図=事実としてのアナキズムと、統治なき相互扶助=目覚めとしてのアナキズムの峻別が(なんなら世界で一番アタマがいい人たちにあってさえ)不徹底だった・自覚されてなかったとも彼女は言う。
アナーキーという言葉の語源がアン(非)アルケー(始原)であるように、アナキストは「原初の世界では人々は(万人の万人に対する闘争ではなく)権力がなくても相互扶助で平和を保っていた」という考えすら、そうやって正しい「原初」を説く時点でアルケーの罠にはまっているとさえ考える。
だからアナキズムは原初を、過去への回帰を求めない、
「アナキズムの過去は未来にしか存在しない」「アナキズムとは、いかなるはじまりにも命令にも依拠しないがゆえに(中略)
つねにみずからを発明し、形成しなければならないような唯一の政治的形態である」と説くマラブーの結論は、力強い提言だろうか。「夢はきっとかなう」的な耳あたりのいいキャッチコピーに終わる懸念もありはしないか。他の誰も哲学者としてアナキズムを理論づけ得なかった・だから自分がそれをやるという決意は、同時に他の誰も詰めきれなかった敵(統治という難題)を自分こそが…と
無闇にハードルを上げることにはならないか、とも思うのだけれど…。
* * *
今週のまとめ。
1)支配構造を温存したまま支配者(国家や資本)が自助や共助を説く「事実としてのアナキズム」と、支配=統治そのものの廃絶を願う「目覚めとしてのアナキズム」を峻別しなければならない。
2)現代思想のエースたちは敵(統治)の解体という形で貢献しながら敵を詰め切れず、また「味方」となるべき「目覚めとしてのアナキズム」の実現可能性をついには信じ得なかった。
けれど子ども食堂のように一部は「事実としてのアナキズム」に強いられてとはいえ「目覚めとしてのアナキズム」は実践として世界に遍在しているし、思想としても断片的であれば至るところで表明されてきた。ナオミ・クラインの「災害ユートピア」、クラストルの「国家に抗する社会」や、スコットの「ゾミア」などは(僕じしん未読なものも含め)検討に値する。
『泥棒!』の終章でマラブーが挙げる、
ジョルジュ・スーラの
「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(Wikipedia/外部リンクが開きます)が点描という技法的にも、公園で憩う群像という主題的にも
「人間のラディカルな平等性」をテーマにしていたという事実は、快い衝撃として読者を驚かせる。同じ新印象派の
ポール・シニャックは
「目が鍛えられれば、(中略)
つまり他人を食い物にして疲弊させる搾取者から労働者が解放され、思考したり学んだりする時間ができるとき」人々の芸術作品の見かたも変わるだろうと明言していたらしい。
アーシュラ・K・ル=グウィンが
「「正しいメタファーが見つけられるかどうかが、生きるか死ぬかの境目になるかも知れない」」と書いたように(
23年2月の日記参照)、ついに先達が見つけられなかった哲学と実践を取りむすぶ「正しい言葉」、目覚めとしてのアナキズムを徒花ではないと正当化する「表現技法」を見つけることに、マラブーは賭けているのかも知れない。誰もがアナキズムを吾がこととして受け止められる「言葉」さえ見つけられれば、実際には起きている運動が記憶に刻まれず、ニュースからすぐ消えてしまう現状も変わるのではないかと。
以下は個人的な余談。
ジョン・レノンの『イマジン』は言うまでもなくアナキズムの歌だ。宗教も、国家も、所有すら放棄して皆がみな今日のために生きればいいと謳う。「え?所有までは放棄できない
「I wonder if you can(君にそこまで想像できるかな)」ごめんちょっと無理、そこまではイマジンできない」と思った話は前にも書いた。なので僕は、あの歌を賛美する人たちを今ひとつ信用できない。あの歌が何を迫っているか本当に分かって、それを引き受ける覚悟があるの?それともただ、薄ぼんやりと「平和がいいよね」くらいの話だと思ってるの?
「君は私を夢想家だと言うかも知れないけれど、私は一人ではない」というフレーズの甘やかさを「私」=自分と勝手に掠め取って、いい気持ちになってるだけじゃないの?と。
それとも、それでいいのだろうか。
ビートルズ時代はどちらが書いた曲も連名でクレジットするほどだった(まあどちらが書いた曲かは特に「ヘルプ!」や「イエスタデイ」以降は明白だったけど)かつての盟友、ポール・マッカートニーは近年エコロジー推進のため「
一週間に一日ベジタリアンになるだけでもいい、そうした人が七人いれば一人の完全なベジタリアンがいるのと同じだ」と提唱しているという。とてもチャーミングな考えだと思う。
「イマジン」のイマジン(想像してごらん)という問いかけの、本当に自身が痛いところを突かれるような問いは聞かなかったことにして「平和がいいよね」「殺し合いは馬鹿げてる」「私は一人じゃない」みたいに口当たりのいい箇所だけツマミ食いでも、積み重ねれば世界を変える力を持ち得るのだろうか。数十年かけて、僕の自己認識が「少なくとも時々はアナキストかも知れない」と変わっていったように。
余談に余談を重ねて今週の日記(週記)を終えるなら、アナーキー(アン・アルケー)のくせに原初に理想状態を求めるのはアナーキーじゃないよと真面目なアナキストたちが考えるように、国家なんていらないよという歌が人々の「アンセム」になるのは矛盾だと思ったのか思わなかったのか「イマジン」の後年、別のアルバムでレノンは改めて何も持たない人たちのためのアンセムを用意している。ユートピアにさらに否定のNをつけた邦題「ヌートピア宣言」。たった四秒だし、イマジンより抜群に憶えやすい。そして何処にでも遍在している。
John Lennon - Nutopian International Anthem (Remastered 2010)(YouTube/外部リンク)
※リマスターとは…
*** *** ***
追記:
「目覚めとしてのアナキズム」の実在例として、
小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』(春秋社2019年/外部リンクが開きます)も挙げていいかも知れない。えらく面白いと同時に「こんな才気と根回しが必要な世界で自分は生きていけないかも」と思わされ、なるほど人類は安定した農耕や国家や既存の体制に頼るわけだと悲しい発見をしたりする好著。
お金じゃ買えない〜ポール・ヴェーヌ『パンと競技場』(25.03.02)
まいったな。
日本では「パンとサーカス」と呼ばれる古代のバラマキ(?)政策をテーマにした本文700ページ・脚注300ページの大著
『パンと競技場 ギリシア・ローマ時代の政治と都市の社会学的歴史』(法政大学出版局/外部リンクが開きます)なんですけど、三週間かけて本文700ページだけ(図書館の返却期限を一回延ばしてもらってるので脚注は諦めました)どうにか読み通したその内容は、著者のヴェーヌが亡くなった年に追悼で書いた文章の短い一節:
これで大体、言い尽くせちゃってる気がする。
(本サイト22年12月の日記(
「食えない理想家〜ポール・ヴェーヌ追悼」参照)
※もしかしたら既に忘れられてるかも知れないので念のため説明すれば「GOTO何々」とは新型コロナ発生時に医療施設やエッセンシャル・ワーカーではなく「感染を恐れて人々が旅行を避けることによる損失」を補填すべく旅行会社に公金をつぎこんだキャンペーンをさす。
…強いて解像度を高くすると、こうだ:ローマ帝国の「無料パン」は奴隷はもちろん、首都以外に住む地方の人々・それどころか(無料配布の対象になる)首都ローマですら食うや食わずの貧民を対象にしたものではなく、むしろ都の裕福な市民=特権階級へのサービスだった。属州まで含めた広大なローマ帝国で、その恩恵に与(あずか)れたのは人口の1%に過ぎないとヴェーヌは書く。
この「1%」が現存する資料に基づく本当の数字か「99%は○○」みたいな比喩なのかは分からない。ただ後述するようにカエサルの時代に無料のパンにありついたのは15万人という数字があるので、当時のローマ帝国の人口が1500万人なら「1%」は妥当と言える。
ともあれ(ヴェーヌにとって)確かなのは、この権力者による「パンや競技場(サーカス)」の大盤振る舞い=
恵与志向は他の何であろうと、現代的な意味での福祉=
「富の再分配」でだけはありえない、ということだ。では何なのか。
* * *
前提となるのは「政治は万人向けの仕事ではない」という彼の理解だ。
吾々は「吾々こそ主権者だ」「政治家は主権者の言うことを聞け」「吾々に主権を行使させろ」と言う。間違った主張ではない。
だが事実として、政治は面倒くさい。直接民主制を採用し、民主主義の心のふるさとと目されるアテネでは実のところ(参政権を有さない女性や奴隷を除いてなお)
民会に出席するのは有権者の一割か二割に過ぎなかった、というヴェーヌの指摘には思わず笑ってしまったし、そりゃそうかもねぇと納得せざるを得なかった。
「代議制の下では、市民の政治参加は市民にとって四、五年に一度、数分間の面倒ですむ。(中略)
直接民主制における政治参加は市民の重荷である」
原初には万人が万人と争っていたので、流血を避けるため皆で権力を王なり国家なりに委託した(ホッブズ)―というのは体のいい作り話に過ぎない。現実には「自分の生活で手いっぱいな人々が、余裕のある者に権限を譲った」と、ヴェーヌは考える。まして当時の「政治」は自腹である。道路を開いたり、何処かに植民地を築いたり、さらには何処かと戦争したり―そうした費用を捻出できる・そして勿論そうしたことに割く暇がある富者が政治を「引き受けた」。
なぜ彼らがそんなに裕福なのかは一旦措く。これが第一段階;貴族制・寡頭制・ひいては王制の起源だ。
第二段階。統治する暇も金もない者は、暇も金もある富者に統治を任せる。パンや競技場は、自らを統治する権利を手放した代金なのだろうか。
そうではない。すごく面倒なのだけど、そうではないとヴェーヌは考える。
一番わかりやすい喩えは(まあ僕はまんがでしか見たことないけれど)校内のスポーツ大会でクラスが優勝したら、担任の先生が生徒たち全員にジュースか何か「おごる」感じだろうか。あれはもちろん、勝利の報酬でも頑張りへの対価でもない。祝賀であり、祝賀をとおしてクラスの一体感・生徒たちに対する担任教師の庇護を確認する儀式だ。単なる経済的な交換・ゼロサムの取引ではなく、対価では量れない何かがやりとりされているのだ。
それを仮に威信とでも呼ぼうか。皆それぞれジュースを買ってお祝いしよう、ではなく先生が「おごる」のは「先生がえらい」からだ。「やっぱり、うちのクラスは先生あってこそだよな」と確認するため、生徒も「おごられてあげる」。
「恵与者は治めるのに(治めたいから)
金を払うのでなく、治めているから金を出す」とヴェーヌは書く。統治者として道路を敷設したいから道路を敷設するための金を出し、統治者として戦争をしたい・避けられない戦争では指揮を取りたいがために軍事費を出し、統治者として市民に「おごる」立場でいたいから神殿を建て、競技会を主催し、無料のパンを配る。
部族の豊かな首長が積み上げた富を惜しげなく皆に振るまい、最後には火をつけて燃やしてしまうポトラッチの儀式は、(対立する首長同士のポトラッチ合戦に発展するように)威信の誇示であり、もしかしたら財産の集中をリセットする「権力に抗する」システムであり、そして積み上げた財産を燃やすことで神に捧げる宗教的な儀式である。
古代ギリシャ・ローマの恵与もまた、神への捧げ物であることが前提だったという(競技会も本来、神に捧げるものであった)。
何の話かというと、第三段階として、根拠より功利性より「そういうものだから」という習慣・悪くいえば惰性によって恵与の内容は固定化される。会社が福利厚生ですと言ってスポーツジムの割引券を呉れるのだけど
図書券でいいのになぁという願いは聞き入れられない。スポーツ大会で優勝すると先生がジュースをおごってくれるけど
放課後にみんなで球技の練習より読みたい本があるのだがという願いも聞き入れられない。

市民だって皆がみな戦車競争が楽しいわけでもないだろうけど、とりあえず戦車競争であり、まして市民ですらない
「小作人が町に来て、田舎の恵与者は情け容赦もない大地主だと言ったら、「そんな小作人の話など、聞きたくない。われわれとしては、公衆浴場を暖め、オリーブ油を配給して欲しい」と言われるだろう」とヴェーヌは書いている。余談だけれど、最初に恵与で公衆浴場をつくった皇帝はネロだという。皇帝―市民―元老院の三角関係で市民と仲が良く元老院と折り合いが悪かったネロは今でこそ悪帝と伝えられるが、市民うちでは数百年も人気を保っていたらしい…たぶんキリスト教の公認(313年)や国教化(392年)までの「数百年」なのでしょう…
「パン」はそもそも首都ローマが食糧不足に陥らぬよう「市民すべてに一定量の小麦を廉価または無料で」提供する護民官グラックス(兄)が定めた制度であった。それがカエサルの頃には「無料の小麦を十五万人にだけ」給付する制度に変貌し、選ばれた者の特権と化した。
大事なのはポーズだから、それでも良かったのだ。
もとよりローマ史きっての善玉グラックス(兄)でさえ「市民」以外の奴隷や貧者は眼中になかった。それがカエサルの「改革」により、十七万人が無料あるいは廉価のパン供給を失なう。同時期にカエサルは帝国全土に植民地を作ったが、それが受け皿になり耕作地等を得たのは、せいぜい数万人だったという。
「パンも土地ももらえない十万人ほどの人はどうなったのか。かれらは栄養失調や悲惨のうちに死んだのであろう。他に打つ手があっただろうか。確かにあったと思われるが、カエサルとしては、そんなとるに足らない人々のために知恵をしぼるはずがなかった」というヴェーヌのくだりは、浩瀚な本書の中でも際立って光り輝く一節だが、それが問題だという認識は「パンと競技場」=皇帝と市民の持ちつ持たれつの円環の中にはなかった。円環=パラダイムの外で「貧者を救え」と説いたナザレびとの弟子たちは、ネロの人気が衰えるまでの数百年間、ライオンが待つ競技場に送られつづけた(これは僕による単純化)。
* * *
もう一度まとめます。
第一段階:統治という事業に暇と金を使えるのは富者のみであり、ゆえに富者が統治者となった。
第二段階:統治者は神に捧げる建物や競技会の形で自らの権威を示し、市民もそれを享受することで承認の証とした。
第三段階:前例は前例であるがゆえに踏襲され、制度は固定化される。富者を富者たらしめている富を市民の「外」に還元しようという発想の転換はなかった。
* * *
寡頭制も王制もパンと競技場も(なんなら資本主義社会も広大なイスラム帝国も)「こういうものを作ろう」というグランドデザインに沿って構築されたもの「ではない」とヴェーヌは考えているようだ。社会全体をどう構築するかというヴィジョンではなく、目先の関心・目の前にいる自分とほぼほぼ対等な相手への気遣い(自分と対等でない女性や奴隷・非市民の存在は棄却される)が、やがて当初の意図にはなかった大きな絵図を描き出すと捉えるのは、社会学的な発想だと言える。
もちろん
少し前の日記で先んじて書いたように、ヴェーヌは個々の出来事から法則を導き出す社会学者ではなく、社会学などの法則を個別の出来事を知るために使う歴史学者なので、本書が語ることを「法則」と見做して他の出来事や物事一般に(無条件に)適用できるわけではない。
けれど本書が繰り広げた恵与にまつわる考察は、たとえば今の世界で持ち上がっているベーシック・インカムの是非をめぐる議論を理解するのに(少しは)役に立つのかも知れない。
また、経済的な取引や対価でなく、権威とか威信とかいう金額化できない価値が決定的だという第二段階(仮)での議論は逆に「お金で買えないものはない」と言わんばかりの資本主義・金(カネ)本位制に、思った以上に圧倒されている自分を再認識させてくれる。
「お金で買えないものはない」裏を返せば「お金でしか買えないものしかない」「あらゆるものは、お金を出して買わなければいけない(か、長々と広告を見た「対価」として、ようやく「無料」で見せてもらえる)」すべては取引や経済効果として貨幣に換算できるという思考様式・
では説明できないものが古代ギリシャやローマ帝国を動かしていた。それは時に現代人には理解が難しいと思えばこそ、ヴェーヌはその説明に700ページも費やす必要があったのだろう。
だが多くの場合ひとを、社会を動かしているのは、少なくとも経済「だけ」ではない。たとえば大阪では維新という地方政党が他地域には見られない高支持率を集め、万博みたいな馬鹿なことをしている。その高支持率の理由にはメディア支配とかプロパガンダとか色々あるのだろうけど、とある大阪出身者が「自分は維新支持者ではないけれど、長いあいだ見下され続けてきた大阪府民の憤懣を(だから維新はあんなに支持されるのだと)見下し続けてきた関東民は知るべきだ」という主旨のことを仰有っていてビックリしたことがある。
「ローマの平民は投票を望まなかった。暴動を起こしてまでパンを要求しなかった」とヴェーヌは書く。
「平民は愛されたかったのである」

それ(お金で買えないもの)は突破口じゃなくて柵(しがらみ)だよ、という反論にも一理はあるのだろう。いろんなことを対価(お金)で解決できるからこそ「都市は(人を)自由にする」のだとも言える。けれどそれ(お金で買える)が進みすぎ(
あらゆることは当初の意図以上に進む)お金なしには日々の生存すら脅かされる弊害・桎梏に変じきった社会では、あらためて「にも関わらず、対価では説明できないものが社会を動かしている(側面もある)」と見直す意味はあるだろう。…
だんだんヴェーヌの回りくどい文章に似てきたので止めますが
* * *
追加のまとめ;
(1)最初から設計された大きな目的に向かって進むのではなく、小さな目前の利益追求が、当初は想定もしなかった大きな結果をもたらす。
(2)社会を動かす動因はしばしば、経済効果や対価では量れない威信や面子・相互承認といった心情的なものだったりする。
* * *
あるいは、豊かな者・貨幣を多く持つほど「お金以外の愛や威信や柵(しがらみ)」にも恵まれており、あらゆるものを貨幣で購わなければいけない・貨幣以外の「愛される」手段を剥奪された状態こそ「貧しさ」なのかも知れない。
「○○はプライスレス」「お金で買えない価値がある」がいずれも、たかだか後払いのシステム=純粋に「お金で買えるものしか売れない」クレジットカードの広告コピーだったくらい、自由は簒奪され、世の中はややこしくなっている。

けれど多くの人たちが対価のため(だけ)でなく絵を描き、動画を自撮りし、山に登り、ターミナル駅の地下に推しの誕生日を祝う広告パネルを出すのは、希望かも知れない。巧妙な搾取にまだ囚われているのかも知れない。吾々は無料のパンを得られない人々を打ち捨てたまま競技場で歌手きどりの皇帝ネロかも知れないし―「お金で買えないものはない」とうそぶく新自由主義のインフルエンサーに
「Fun is a one thing that money can't buy(楽しいという気持ちはお金では買えないけどね)」とうそぶき返すジョン・レノンかも知れない。
つまり今回もまた余談として、創作の話に着地する。自分で食材を調理する行為には「そのほうが安上がりだ」「いや、自炊できるまでに鍋とか金かかるべ」みたいな金額で量れる・以上の価値がある、なんてことまで含めた「創作」の話だ。買うのでなく自分で価値をつくりだす行為全般と言ってもいい。
古代ギリシャの民主制→同僭主制→民主制時代の古代ローマ→帝政ローマまで話が進んだ終盤、突然ヴェーヌは言う(こういう脱線をするから本が長くなる)。ファッションを愛する人は
「富を誇示するために粋(いき)
な服装をするのではない」「身なりをととのえても部屋から出ないこともあり得る」また
「詩人はメッセージを送ったり、他の者たちと交流するために詩を書くのでもない」だから
「難解な詩を書いても心配しないこともあり得る」
これらの言葉には(もちろん人に見てもらいたい側面もあるのだろうけど)僕みたいな人間の心を暖め、にんまりさせる処がある。
「作者は読まれるために書くのではないかと反論されるかも知れない。それは間違っている。つまり作者はむしろその本を存在させるために印刷させてほしいのだ」
邦訳700ページにわたる本をものして300ページもの註(未読)を書いた人の発言としては相当に大胆だけど、そして「
残念、ここにメッセージを受け取った者が一人いるんだな」と微笑みたくもなるけれど
「壁の落書き、党細胞の集会の政治報告の作者らは、無定見の者を説得したり、仲間に通知することよりも自分の信念を表現することのほうがはるかに大事である」
という言葉に勇気づけられる者もいるだろう。
…あらためて言うけれど、コミュニケーションの道具として、承認欲求を満たすために、書いたり描いたり自撮りをしたりすることもあるだろう。それであわよくば対価を得たいこともある。お金というより「自分の創作物が承認されたと確認するために対価を受けたい」こともある。
けれど私たちには全部が全部お金に換算できると思うなよ、
「I don't care too much for money - Money can't buy me love(お金なんてあまり気にしてないんだ - 僕の愛はお金じゃ買えないよ)」とうそぶく権利もある。
そう歌った者たちはイギリスで一番の大金持ちになったじゃないかとひっくり返す権利も。私はそれでいいとして貧しい人はどうなるんだと、(イエスやマルクスのように)人々の幸福を望む権利も。
・
The Beatles - She's Leaving Home(YouTube/外部リンクが開きます)
・
The Beatles - Can't Buy Me Love(同)

…それとも宝石を鳴らす?(笑)
小ネタ拾遺・25年2月(25.03.31)
(25.02.01)先月の冷蔵庫に続き、今月はネット回線の切替でバタバタ。今までの回線を1月末で解約したものの、新しい回線の開通が半月後で「それまで代用に」とハンディなWi-Fi接続機器が届いたのですが、よく見ると液晶画面に
「xxMB/7GB」の表示。あ、もしかして7GBまでしか使えない感じ?

果たして別画面を開くと「最大通信量:7GB」の表示。まあ超過してもいいのかも知れないけど何が起きるか分からないし、半月くらいネット依存を直せとの天啓かも。無聊な時間は本を読み、絵を描いて過ごすことにします(あと部屋の片づけ)。
(25.02.03)最近は逆に一目では奥歯と分からないよう、できるだけイメージを離すのが流行りなんだろうか―真ん中の横棒のせいもあって隣に「歯科」の文字がなければ見過ごすところだった看板。でもよく見ると黎明期(それこそ8bit時代)のパソコン文字みたいなドット絵で描かれた奥歯の
白いドットひとつひとつが小さな奥歯(ぎゃー)。歯科医たち・もしくは看板制作の依頼を受けたデザイナーたちをココまでマニアックにさせる、奥歯にどんな魅力があるというのか…←延々その奥歯絵を収集してる閑人に言われたくはなかろうて。
(25.02.04)またしても悲しい値上げの話。
昨年末に札幌で泊まったドミトリーでエシカルなのに値段もお手頃!と感動したトップ○リュのフェアトレード紅茶(ティーバッグ)、25包で税込200円が20袋で税込320円・
あっという間に価格が倍になってました。さりげにシュリンクフレーションも込みなので、ちょっと悲しくなっている。今後どうするかは考え中。
(25.02.05追記)いや、気が緩んでペットボトル飲料の一本も買っちゃえば吹き飛ぶ程度の差額で迷うこたないだろう。値段は実質2倍になりましたが(
まだ気にしてる器の小ささ)やっぱり当面フェアトレードで行きます<紅茶。個包装でもなくなったの、コストカットもあるんだろうけど出すゴミの少なさを考えると(風情はなくなるけど)良いことなんでしょう。

しかしイ○ン、昨冬は売ってたオリジナルブランド(つまりトップ○リュ)のシンプルなコートを今年はもう取り扱ってなくて、○オンやSEI○U(鶴見店は服飾フロアがゴッソリ家電量販店に変わってしまった)・○ーカドー(綱島店、昨秋閉店しててショックだった)などが廉価な自社衣料品を供給する時代がドラスティックに終わりつつあるのかもなあ。それがフェアトレードの紅茶同様、世界の何処かで衣料品を作ってる人たちの待遇改善になってるなら受け容れたいものだけど、あまりトップ○リュと変わらない素材に馬やらワニやらのマークがつくことで馬やらワニのブランド代を吸い上げてる人たちだけの得になってるならヤダにゃーんと思うのでした。
(25.02.06追々記)○オン・SEI○U・○ーカドー(後は○イエーなどか)を古き良きモノのように書いてしまったけど、あれらの大型ショッピングセンターが台頭時には地元の小さな商店を根絶やしにしていった(一方で消費者の利便とか夢もあった)二面性も踏まえておきたい、大店法とか、よくは知らないのだけど。ただあれらの大型店の隆盛時に物心ついて、その衰退・もしかして退場まで並走した世代として感慨と少しの不便感があるということ。今は同じハコに自前売り場の代わりにファーストファッションや大型靴チェーンなどが入るようになり・さらにそれらの店舗(や消えゆくリアル書店やCD・DVD店)を押しのけて「クリニックモール」が新しい大型店舗の1フロア2フロアを占める時代が到来しつつある(←後者を見ると、僕と同世代かそれ以上の世代のライフステージに合わせて「老化」してる・世代交替を停めてしまった懸念がなくもない)(←
しかしそれは「吾とともに世界よ滅べ」というエスカトロジーでないとも言い切れない)。ともあれ、御一新や戦前戦後ほど派手ではないかも知れないけれど、これはこれですごい社会の変化に立ち会っちゃったなと思っている。
(25.02.07)コンビニエンス・ストアが初めて「コンビニ」と略された時のことも憶えている。80年代の半ば、これも新しい事物だった若者向け男性化粧品(ブランドは忘れたけれど「資生堂UN○」とか、そのあたり)のテレビCM、まだフレッシュな若者のイメージで売っていた柳葉敏郎氏の決め台詞が
「(お買い求めは)
スーパーか、コンビニで」で「あ、そう略すんだ」明らかに新しい流行語にしていこうと狙った感じだった。※もちろん僕の知らないところで先例はあったかも知れないけれど。
これはまだ「コンビニ」でも「ファミマ」でもなかった頃のファミリーマートのCM。たぶん実物は一度しか観たことがなかったけれど、大貫妙子さんの歌が鮮烈に印象に残って、そんでこうしてネットに上げてる人がいるんですね。初めて観る、当時まだ生まれてない人ですら懐かしさと喪失感で狼狽してしまいそうな逸品をどうぞ:
・
ファミリーマート「ジオラマ 冬」篇 ♪大貫妙子「ひとり暮らしの妖精たち」(YouTube/外部リンク)
(25.02.08)JR蒲田駅のホームとゆうか停車した電車の中からも看板が見えて気になっていた「
臭豆腐麺」昨年末で閉店していました…しかも閉店理由がどうやら(「臭」豆腐を名乗るだけある)独特の臭気が周囲に隣接する飲食店やら何やらの理解をついに得られなかったと(泣)

しかし自分で撮ってあった写真↑再確認したら昨年6月撮影で、これは「余裕が出来たら」と先延ばしにしていた自分が悪い(
なんで能登や北海道に行く余裕があって蒲田に行く余裕がないんだよ自分)圧倒的に速度が足りなかった。臭豆腐のお店自体は逆に十年ほど早すぎたのかも知れません。セカンドチャンス、待ってます。
(25.02.11)横浜あん○んまんミュージアムの前を横切って小一時間も経ってないとはいえ、別の街角でコレを見て「こんなところにも?」と空目する己の誤解力を、逆にポジティブな才能かも知れないと誤解を重ねることで生きてこれたとも言える。

並べると似ても似つかないけど、概念とゆうかニュアンスで一瞬そう見えたんじゃよ。
(25.02.15)理想に燃える主人公のメンターだった後方腕組み見守り役が、実は宇宙からの侵略者とグルだったと判明「お互い辛いからもう逢うのはよそう」と刑務所の面会室でうなだれる(たぶん)
前代未聞の最終回(
いや戦隊物の歴史も半世紀くらいあるから分かんないけど)を迎えた『爆上戦隊ブンブンジャー』。でも歴代戦隊を見守る長官やら司令官やらを演じた俳優の現実世界での性的加害が相次いで判明した現状を鑑みるに、逆にこういう要素を盛り込むことナシでは子どもにウソをつくことになると考えたのかも知れませんなあ(だとしたら生ぬるいという批判は措く)。
とはいえ最後まで朗らかに笑わせる楽しいニチアサ。シリーズ中盤「
復讐のため憎しみで戦う私には、人々の笑顔のため戦う君たちの仲間でいる資格はない」と離脱したメンバーが

敵怪人の放った謎攻撃・一般人も敵も味方も強制的に数珠つなぎされてしまう「地獄の電車ごっこ」に巻き込まれて離脱中なのに元仲間たちの最後尾につけてしまい、おまけに
いつもの口癖で後ろにいるとバレて必死に顔を伏せるも「戻ってきてくれたんですね!」「い、いや、これは違うんだ…」というグダグダな仲直り(翌週正式に和解復帰)が特に爆上げでした。新作映画
『ブンブンジャーVSキングオージャー』(外部リンクが開きます)期間限定上映、お子様たちに紛れて(必死で顔を伏せながら)映画館に運んでしまうかも知れません。
(25.02.16)花が咲くより前から目を楽しませてくれる、時には桜より強烈に春の喜びを感じさせる者たち。(個人の好みです)

即売会に出てたころ三月の名古屋で開花のピークにあたった多幸感ゆえ、バラならぬ「木蓮のつぼみ」は名古屋につながる記憶のトリガーでもあり。(個人の感傷です)
(25.02.18)オタク用語といえば「
○○でしか摂取できない栄養がある」みたいなフレーズは今まで信用したことなかったけれど、
堤なつめ君(先週までレッドだった俳優さんが別キャラに扮してのゲスト出演)の爆上げのカケラもない「
ひっ」(悲鳴。1:42〜)もう24回くらいリピートしてる…
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新番組『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』第1話見逃し配信(外部リンクが開きます)
新レッドの吠(ほえる)君、赤貧描写の豆苗栽培がリアルで泣ける。二つ用意して時間差で育ててるところが。
(25.02.19)いかなる意図での発言か詳らかではないが、吾輩に不可能はどうとかでなく「
今の俺、エルバ島から帰ってきたあたり」という意味だとしたら、思いのほか冷静な自己認識ではないかと。
トランプ氏のSNS投稿が物議 自身をナポレオンになぞらえる(共同通信/25.02.17/外部リンクが開きます)
(同日追記)ナポレオンがエルバ島を脱出→いわゆる百日天下に返り咲いた時、最初は「
獣(ケダモノ)
が流刑地より逃走」と報じていた新聞が、彼氏がフランスに近づくにつれ「
ボナパルト氏、ヨーロッパに上陸」→「
ナポレオン将軍、国境入り」→「
皇帝陛下パリに御帰還」と徐々に掌を返していった逸話、本で読んだのかネットミームだったか思い出せないなあ。いかにも丸谷先生あたりが好きそうな話ではあるのだけれど、そしてたしかに今回の自称ナポレオン男の復活劇(と周囲の追従ぶり)を連想させはするのだけれど。
(2/20追記)というわけでお聴きください。
ABBAで「恋のウォータールー」です(YouTube/外部リンクが開きます)。ウォータールー=ワーテルローという、相変わらず回りくどい皮肉。
(25.0
2.22)にゃんにゃん・にゃーん♪…いや、それはいいとして
ずっと前から「なに言ってんだ、オタクはもう多数派じゃないか、いつまで日陰者のフリしてんだよ」と主張してるのですが(
昨年4月の日記とか参照)今は「自分はマイナーだ・異端だ・異議を申し立てる側だ・カウンターだ」と思う気持ちよさが、あまねく吾々全般に行き渡ってる時代なのは仕方ないとして―何しろ40年前すでに
栗本薫が喝破していた―
「現代において凡庸さは『ちょっと他から突出している個性』という形で現れる」(手元に原典がないので要約/『ゲルニカ一九八四年』)―いやいやいや、あなたたちまでカウンター気取りは図々しいよという多数派・主流派・ドミナント・ド権力ど真ん中の側まで「反体制」のつもりでいる逆転現象が、ついに極まったのがトランプ大統領であり、それに先駆けて日本の維新やら何やらであり、遡れば小泉純一郎の
「自民党をぶっ壊す」あたりを一つの起点・少なくともメルクマールと思ってもいいのかも知れない。都知事としての石原慎太郎も、現職の小池百合子も、反体制・異議申し立ての自意識をかぶった体制派だった気がする。気がするにゃんにゃんにゃーん(猫の日なので自分はネコをかぶる)。
(25.02.23)前回の「先週まで爆上げだった前作主人公、別人(メガネ)役でゲスト出演」に引き続き
先月まで丸いちねんプリキュア(8:30〜)
だった声優さんを契約終了後、すかさず別枠(9:30〜)
の敵幹部で再雇用するニチアサ、福利厚生がバッチリなのか容赦ないのか判断に迷う。
『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』(公式/外部リンクが開きます)二年続けて戦隊畑から養分を搾れるだけ搾り取ったので今年は土を休めようかとも思ってるのですが、もうしばらくは視聴を続けてみます。
(25.02.26)東急東横線・東白楽駅を出て直ぐの処にあるラーメン屋(兼居酒屋?)。2月中は毎日提供の限定メニュー「牡蛎ラーメン」を2月のうちにと思い食べてきたのですが…あー良かった。ここ数年は食べそびれてたけど、改めて自分、牡蛎という食材(そして生命。ありがとうございます。申し訳ない)が大好きだったなぁと思い出させられる美味しさ。きれいに焼き目がついて、しっかり味つけされながら大粒感を保ったイイとこ取りの牡蛎がごろんごろん。岩海苔たっぷり。磯の旨味が浸みわたったスープ。大変おいしうございました。地縁があって牡蛎が大好きな人はぜひ。

1380円。こうなると800円のふつうのラーメン(鶏)も気になるので、ほとぼりが冷めたころ(?謎の遠慮)再訪してみよう。
(25.02.27)渋谷といえども普通にオフィスなどありオフィスで働く人たちがおり、オフィスで働く人たち向けのお弁当屋があったりするんですね。それも諸事情で職場に持って帰って職場のレンジでチンして食べるとか出来ない人向けに電子レンジつきイートインがあるお弁当屋さんなんかが、渋谷にも。もちろん昼食も自分で用意できるのがベストなのですが、ちょっと無理という日には重宝でした(気温5℃ですが風が強いので体感0℃みたいな日とか)。遅い時間に行くと少し値引きもあったりする。

神田なんかだと魚のフライや煮着けの一品ランチがワンコインなんて食堂もあって、需要と供給の厚みがまた一段上なのかも。学食や社食というのもロマンだし、それすら横目にお弁当を持参するのもいい。なんというか、この台詞はパクリなんだけど(
元ネタ)みんなしあわせで居てほしい。また来月。
真ん中の○○・または抹消された○○〜カトリーヌ・マラブーとロラン・バルト(2021→25.02.26)
TwitterがXになるずっと前から、あのプラットフォームでの発信は停止・かつて自分がフォローしていた方々のタイムラインも見なくなって久しいのだけど、アカウントは削除せず残している。専らオタク的な趣味の情報収集のためなのですが、時折ずっと昔に自分が発した「つぶやき」を誰かがリポストしたり「いいね」をつけたりして「こんなこと言ってたっけ」と発信元の自分も(すっかり忘れてたので)面白かったりする。
カトリーヌ・マラブー(1959〜)はフランス出身(今はイギリスに居るらしいです)現役バリバリの哲学者。彼女に関する「つぶやき」を二つほど(多少手を加えて)採録します。2021年、ちょうど僕が本サイトでの日記更新じたい休止していた時期でした。
* * *
a.
【コテンパン】今日、電車の中に「日本人の心を一番熱くした自己啓発書」みたいな広告があったけど、自分の心を熱くした(?)読書はこちらでした。読了とかじゃない「
褒めてくれ、15ラウンド終わっても立っていた」みたいな感じでした。エイドリアーン!でも読んでよかった。分からないって楽しい(錯乱)
その本の名は
『真ん中の部屋 ヘーゲルから脳科学まで』(原著2009/西山雄二・星野太・吉松覚訳 月曜社2021年/外部リンクが開きます)。著者はカトリーヌ・マラブー。デリダの元に学んだ、と言いながら師匠デリダにも平気で刃向かう彼女が振りかざすのは、博士時代の研究テーマだったヘーゲル。いや本当に、カーンて鐘が鳴るたびにヘビー級の相手が「はい、ヘーゲルとマクルーハンです」カーン「ヘーゲルとデリダです」カーン「ヘーゲルとハイデガーです」って感じに相方を替えつつ二人がかりでボコボコに殴ってくるのよ…
コテンパンにされるのは読者だけではない。18〜19世紀の哲学界の巨人ヘーゲルを批判の対象とすることで20世紀の思想を作り上げてきた(それを「父親殺し」と呼んではいけないのだろうが)デリダ、ドゥルーズといった面々が今度はマラブーの俎上に載せられる。ヘーゲルを否定し、ヘーゲル否定の上に自らの哲学を築き上げたドゥルーズを「いやあなたの言ってること、ヘーゲルが先に言ってません?」…流行りの小説ふうに言うと「
現代思想パーティーを追放されたヘーゲルが21世紀のマラブーに転生してチートで無双な件」みたいな…すみません言ってみたかっただけです…それが「ヘーゲルから」の前半。

専門家でもないミーハーの徒にとっつきやすい(かも知れない)のはジュディス・バトラーを語るあたりから始まる後半「脳科学まで」のパート。神経生理学やIPS細胞などの話題と哲学をたたかわせる著者が興味深いのは科学観の(新鮮な)柔軟性。
科学vs哲学というと、科学を融通の効かない機械仕掛けと位置づけ、対して哲学は心の自由をアピールするイメージだけど(著者は挙げてないけど「利己的な遺伝子」論とか如何にもプログラム至上主義っぽい印象なのでは)、著者が着目する先端の「科学」はむしろ生まれてから外界と互いに影響を与えつつダイナミックに創発していく神経系の言うなれば自由・自発性を解明の課題にしているという。
(チェスや将棋を指すAIが「所詮は機械」というイメージを覆すような、想像性ゆたかな?と思わせるような飛躍した発想を示して「人間らしさ」に冷や汗をかかせている状況にも通じるものがあるかも知れない。違うかも知れない)
科学やデカルト的合理主義は機械仕掛けで非人間的なんだ、それに対して哲学は人間らしい自由の拠り所なんだ―みたいな図式はもう古く、いまや科学が自由や自発性・創発性をより進んだ形で捉えつつある。それに哲学は追いつき、そして批判しなければならないと著者は檄を飛ばす。なぜなら
哲学にあるのはポジティブで無邪気な科学が忘れがちな、粘り強く批判する力だから(と自分は受け止めた)(受け止めたというかボクシンググローブでグワーッと殴られ「あ、今のはそういうこと?」みたいな感じですが。頭のまわりをチョウチョみたいのがクルクル回ってますが)
以上、自由とか自発性・創発性と僕が言い替えてきたことを著者は「可塑性」と呼んでいて、ヘーゲルの読み直しにもつながる著者の重要なキーワード・概念なのだけど、その著者が「私にとって(私自身が依拠する)可塑性の批判は必要なことであった」と言い放つ場面は哲学者の哲学者らしさが炸裂しているように思えた。
「私にとって、可塑性の批判は必要なことであった(中略)
というのも、ひとはみずからが扱っている概念に対する警戒を怠ってはならないからだ。明らかなのは、あらゆる概念がそうであるように、可塑性がある時代を支配する精神に利用されうること(略)
真の危険がイデオロギー的なものだということである」
現にマラブーは著者は同郷の社会学者アランベールを引用する。
「企業において、人材を管理する(テイラーそしてフォード的な)規律訓練は後退している(略)
労働力の統制と支配の様式は、機械的な服従ではなくむしろ自発性―責任感、改善能力、企画立案能力、モチベーション、柔軟性などに支えられている。労働者に課せられる強制は、もはや反復労働を行う機械としての人間になることではなく、むしろ柔軟な労働の請負人となることなのだ」冷たい機械的な科学というイメージから、自由と創発性を追究する科学へ、というそれ自体は望ましくエキサイティングであるようなことが、早くも社会的な支配や搾取の様式に利用されている。ギグ・エコノミーもそう。「日本人の心を一番熱くさせる」自己啓発もそう(どうだ、つながったぞ)。
IPS細胞やクローニングをめぐる最終章も、著者の見解(進みたい方向)に同意するかはともかく、常日ごろ自分がああでもないこうでもないと考えているテーマの参考になり面白かったです。読書は楽しい。たとえサッパリ分からなくても(笑。いや泣)
* * *
b.
今回Xで「いいね」されたのは、こちらの中の一節でした。どちらかというと現役マラブーではなく、50年前の「現代」思想家
ロラン・バルト(1915-1980)の話。
日本では『真ん中の部屋』と同じ年に邦訳が出た
抹消された快楽 クリトリスと思考(原著2020年/西山雄二・横田祐美子訳、法政大学出版局2021年/外部リンクが開きます)。こちらの本の終盤で(やっぱり批判的にだけど(泣笑))言及されているのを読んだのと、JR大森駅前の本屋で「あ、バルトかぁ…」と中公文庫の評伝を手にしたの、どっちが先だったか。しばらく寝かしていたのだけれど
石川美子『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』(中公新書2015年/外部リンク)すいすい読める好著でした。

ちなみに『バルト』を購った大森の書店は、西友やキネカ大森(同じ建物だけど)のある開けた東口とは対照的に、昔ながらの住宅地に向かう感じの西口にある小さな本屋なのだけど、特に青版まで含めた岩波新書の充実ぶりがすごくて(児童書もソコソコあったと思う)実は隅に置けないお店なのではと当時Twitterでつぶやいたら
「あそこは知る人ぞ知る名店なんです。(官能小説の)
フランス書院文庫も揃ってたでしょ」とレスポンスを頂いて、あ、そ、そうでしたか…
話を戻す。
バルトは日本をテーマにした『
記号の国(L'empire des signes)』が『
表徴の帝国』という邦題で流通していた頃…つまり20世紀か…に読んだきり、なんとなく難解そうで敬遠してたけど、
東京が(皇居という立ち入り不可能なゾーンを中心にした)空虚な中心をもつ都市だという有名な(?)見立ては、バルト本人がかくありたかった姿=強い物語を拒否して散逸していく自己という理想に(自分などが思っていたより決定的に)かなっていたらしいと評伝『バルト』で知ったのだ。
マラブー自身はバルトを批判的に語っているけれど、両者の姿勢は似通ってもいたのではないかしら。つまり「かそけきものが支配的なものに反抗し対立し・対決に勝とうとすることで(敵対していたはずの)支配的なものと同じ権力の身振りに陥ってしまうこと」の拒否=別の道の模索。今の支配者が採用しているゲームのルールに乗ったまま支配者を打ち倒し・成り代わりたいのではない、そういうゲームを無効化する別の物語への希求という意味で。いや、素人の第一印象ですが。
それにしても東京の皇居を「空虚な中心」と捉えることは、60年代に訪日した異邦人だからできた芸当かも知れない。平均的な「普通の日本人」にとって、あれは強烈な磁場をもった・意味の横溢した中心だろう。しかしフランス人のバルトが自らの首都パリを民衆が集まり凝集する中心と捉えたろうことに対し、日本人が皇居を東京の・日本の中心だと、そこには日本らしさの意味が横溢していると考えながら、同時に「
そこに一般の日本人は入れない」それが日本らしさだと受け容れているとしたら、それはバルトが見たのとは別の奇特な事態ではないだろうか。
皇居だけではない。日本の公的な政治の中心である永田町の国会議事堂は、民主制を敷く他の多くの国々の議会と違い、その前面に広場がない・人々がその前に参集して声を上げることが公的には許されていない点で特殊な空間だと言われている。2015年の安保法制などで国会前に駆けつけ反対の声を上げた人なら、目の前の車道はカマボコと呼ばれる警察車両の並びに占拠され、人々は狭い歩道のしかも(歩行者の通路を確保する名目で)半分の幅に押しこめられた光景を憶えているだろう。人々が車道にまで溢れ「決壊」と呼ばれたのは、あの熱い夏でも、ほんの数回の僥倖ではなかったか。

公的には君主でなく公民権すら有さない一族が首都の中心に広大な居住地を有し、主権者たる国民はそこ(皇居)からも、公的には民主制の中心である国会前からも排除されている。「空虚な中心」は空虚というより二重にも三重にも主権というものが排除された空間なのかも知れない…
…
そろそろ分かんなくなってきたのでやめますが
バルトの死後、弟子が捧げた言葉を孫引き→
「言葉のなかに真実を見出すには、愛と信頼をもって言葉のほうに身をかがめさえすればよいのであり、言葉を正しく用いることによってこそ真実にいたることができる」。バルトは実は小説家になりたかったひとであり、しかも言葉や物語の支配的な力を忌避して絶えず迂回を試みながら(でも迂回しながら小説家になれるのだろうか?)と悩み続けたひとだったらしい、と石川氏の評伝が描きだす肖像は、創作を志すひとの、直に役には立たずとも土壌を豊かにする効能があるやも知れません。美しい書物でした。
*** *** ***
【追記】で、2021年の自分のツイートを読み返していたら「マラブーの次回作はバクーニンやプルードン・クロポトキンなどの視座からデリダやフーコー・アガンベンを俎上に載せる「アナーキズムなきアナーキー」(予定)だとか。楽しみですね」という一節が。確認したら、出てました。
カトリーヌ・マラブー『泥棒! -アナキズムと哲学-』(原著2022年/伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子訳/青土社2024年/外部リンクが開きます)
また、今回パラパラと拾い読みで読み返してみた『真ん中の部屋』には、本サイトでも
昨年10月の日記で取り上げた
フロイトの『
モーセと一神教』に割いた一章があり(逆に言うと、そういう伏線があって昨年えいやっと自分でも読んでみたわけです)それによれば、なんとあの
E.W.サイードも同書について『
フロイトと非-ヨーロッパ人』という著作をものしているらしい。一緒に図書館で借りてきました。

まずは『泥棒』から。黒はアナキストの色。読むのが楽しみです。
* * *
【追記の追記/25.03.01】
前回の日記、センシティブな話題なので少しボカしてしまったのと、急ごしらえで(あの部分は21年でなく今回の加筆でした)自分の文章が下手すぎて、言うべきことがキチンと伝わらなかった気がするので今いちどパラフレーズします:
(1)東京の中心(≒日本の中心)には、かつての絶対的な君主が主権を抹消されたまま、今も絶対的な権威として存在しつづけている
(2)形式的には主権者である国民は、実質的には東京の中心に(2)が有する広大な空白を絶対的な権威として仰ぎつづけている(つまり実質的な主権を抹消されている+(2)の空間に立ち入ることも出来ないという、これだけで二重の抹消)
(3)主権者であるはずの国民は、(2)に隣りあい形式的な国政の中心である国会議事堂前からも・広場を持たず(鬱蒼とした樹々に蓋された公園?はある)車道に立てず・歩道も半分しか占拠を許されず、形式的な主権すら抹消されている
つまり天皇→国民への主権の委譲が不徹底だったがために(?)この国には東京という首都の「真ん中」のさらに真ん中で皇居・国会議事堂という二つの中心があり(わぁお、バロックだ)、そのどちらからも(現在)主権者であるはずの国民は(地理的・物理的にも、政治的・実質的にも)排除されている。
すなわち「真ん中の○○・抹消された○○」とボカして書いた○○には、それぞれ「真ん中の空白・抹消された主権」が入るのが回答例。他の国でも君主制・立憲君主制を敷いていれば事情は同様なのかも知れないけれど、それでコレが「考えてみたら不思議」「かなり奇妙」でなくなる訳でもなく。
僕は与しないけど「現人神であらせられる天皇陛下に改めて、剥奪された主権を返せ」という立場だって理論的にはありえる。
また主権の剥奪は責任を取る者の不在でもあり、この何重もの抹消・剥奪は(かつて主権者だった天皇からも)現在形式上は主権者である国民からも、諸々の政治的責任を「免責」するmaneuver(マヌーヴァ。巧妙な手段)になっていないか…という話は前にもしてるし、今回は広げすぎなので省く。「日本の真の主権者はアメリカなんじゃないの」みたいな半畳も。

と言いつつダメ押しで話を広げると、亡き師匠(私淑)丸谷才一先生は12年ほど前の最晩年の著作にて(
昨年12月の日記参照)東京23区で他の区・たとえば目黒区なら「駒場東大・駒場野公園」「恵比寿ガーデンプレイス」など具体的に指名されている災害時の緊急避難場所が、千代田区のみ設定されていないことに着目し「
なぜ(災害時に)皇居を開放しないのか」とクリティカルな疑義を呈しておられた。日比谷公園さえ挙げられていないのはおかしい・話が皇居に飛び火することへの牽制かと。
この「災害時の閉め出し」は、昨年の能登の天災が人災と化した・どうして支援しない・させてくれないという国民(および国籍を有さない市民)の声が「閉め出され」食べて応援・観光で応援という「象徴」にすり替えられたことと微妙にシンクロしてはいないか。
考えるヒントは、あらゆる本に散りばめられている。
エフェメラとジョブチェンジ(25.02.16)
※ちょっとした都市怪談なのかも知れません。あまり不穏を演出しないよう注意しますが、メンタルが不安定なかたは閲覧に一応ご注意ください。
*** *** ***
と言いつつ最初は無毒な近況から。
どうも今年は「そういう年」らしい。先月は冷蔵庫が壊れて新しいのが届くまで10日ほど難儀したけど、今月はネット回線の切替(これは自発的な乗換)で新回線の工事まで半月かかり「つなぎ」にと渡されたハンディWi-Fi装置は通信量7GBまでしか使えず、これまた難儀しました(毎週配信で観てたドラマの最終2回は動画がどれだけ「食う」か分からないためネットカフェで観た(笑))。あとSNSって軽く眺めただけで500MBとか飛んでくんですね、ビックリした。ともあれ今日開通。

パソコンまわりを片づけるついで、いい機会と思い10年くらい使ううち天板の縁が削れ?めくれ?合板の中身が剥き出しになっていたテーブルを180度回転、これが(も)結構手間で、やれやれと思ったら今度は(何の拍子か)自宅の鍵が曲がってしまう。

借家の通例どおり?入居時に鍵は2本貰っているから差し迫った問題はないのだけれど、早め早めに対策と専門店で合鍵を作ってもらいました。
世の中もっと大変な人はいるわけで不平不満はないのですが、疲れたといえば疲れた、少なくとも週記と称して長文の考察など練る余力はない。今週は前から気になりつつ公開に踏み切れなかった「ネタ」を出してみます。
と言いつつまた長くなったのは気にしなくていい。
* * *
少なくとも関東の都市圏に居住する人なら、一度は目にしたことがあるのではないか。「集団ストーカー犯罪」被害は私たちに御相談をと謳う街頭ポスターだ。
まず大急ぎで書いておくけれど、アレは真に受けていいものではない・誘導されないでくださいというのが本サイトの基本的な立場です。弁護士ドットコムという、これ以上確実なところもなかろうという専門家のサイトが「あれは悪質」と明言しているのを参考に貼っておきますが
・
「「集団ストーカーは実在します」統合失調症の患者の不安につけ込む、探偵会社のセールストーク」(片岡健/弁護士ドットコムニュース/23.09.18/外部リンクが開きます)
+いわゆる「集団ストーカー」は怪しい・うさんくさいというのは前々からある話なのですが、今はソレが真だという主張のほうが検索でも上位に並んでしまう危うい状況なので、初めて知ったひとは「
アレ自体うさんくさいものだ」と承知しておいてください。
※ポスターを貼ってる店なども「断ると厄介かも」で仕方なく容認しているのでは…という観測もネット上にはあり、その当否は僕が判断できることではないけれど一応。
* * *
…などと予防線を張ったうえで、どうやら誰もしていない話をする。くだんのポスターで(集団ストーカーって実在するのかしら?とでも言うように)首をかしげてるイラストの女性、
それより何年か前、オタク向け婚活サービスのネット広告で「趣味の合う人と結婚できないかしら」と思案していたのと同じ絵ですよね?。
* * *
なんでそんなこと憶えてるかと言えば、オタク用語で言うところの
「好みの絵だったんで保存した、さらばじゃ」だったからだ。2021〜22年頃だったと思う。ところが前のMacが壊れて(どうも今週は壊れる話ばっかりだね)データの移行やらバックアップやらするうちに、
当該の画像を紛失してしまったのだ。だから証拠はない。
証拠はないけれど「集団…」ポスターのほうを初めて見たのは自分に限っては2023年9月。18きっぷ一回分だけ使って日帰りで新潟県三条市まで出向き、好きなアニメ(
24年2月の日記参照)に出てきたカレーを食べる「聖地巡礼」をキメた帰り、群馬県の高崎市で途中下車、こちらは個人経営のミニ書店が目当てだったのだけど臨時休業で空振り、すごすご帰る高崎駅の構内で「なんだコレ?」と目が行った。言うまでもなく「
貴女、同じ思案顔で婚活してたよね?」の「なんだ?」である。
ちなみにこの時は駅構内で人目もあり写真には撮れなかった。怪しい案件だと察してはいたので「見なかったこと」にしたかったのかも知れない。その後こんなに街なかに溢れかえるとは思っていなかった。
よく最初に見た場所まで憶えてるなと言われるかも知れないけれど、
憶えてるモノなんだってば。人目がなければ写真に撮ってたの?
撮るんだってば。実際、高崎では中学生が書いた火災予防のポスターのほうはキッチリ撮ってある。
まさか歯医者の看板しか撮らない人だと思ってないよね?

中学生が描いたので童顔なのだろう、最初お友達かなと思った(真ん中のセーラー服の女の子の)左右ふたりは両親で、後ろにいるのは祖父母らしい。いやまあ、それはいい。
なんだか集団ストーカーより自分のほうがヤバい案件に思えてきたが「毒をもって毒を制す」
誰が毒だ。
だからこういうの、マメに撮るし、ダウンロードしておく人なの。オタクなの。
そのオタクの自分にして迂闊にも消してしまった(集団ストーカーの広告塔にジョブチェンジする前の)首かしげ子さん婚活広告。自分が持ってなくても広大なネットの海に残ってないかと探してはみました。
結論から言うと見つからない。暇なひとは試してください、
いや、試す必要はないです。「オタク 婚活」で画像検索。さらに「オタク 婚活 広告」「オタク 婚活 広告 イラスト」さらには「
趣味の合う人と出会いたい」など、それらしい文言で検索しても出てこない。
そもそもオタク同士の出会い・婚活の仲介がビジネスとして注目されだしたのは、この十年くらいのようだ。同人誌販売の大手「とらのあな」が「とら婚」と銘打った仲介サービスを始めた他、縁談仲介業のほうでも楽天オーネットが「オタク同士で結婚したいなあ…」と溜め息をつく
巫女装束の女の子(
本職の巫女さんなのか、趣味の巫女コスプレイヤーかは不詳)の萌えイラスト広告をネットに出すようになり、その後AIイラストに取って替わられたらしいけれど、そんな経緯も含め「オタク 婚活 イラスト」関連では彼女ばかりがヒットする。
唯一「これは」と思ったのは、例の首かしげ子さんが元は婚活キャラだったとして、そのポーズに類似した実写広告が一件ヒットしたこと。

ちなみにこの画像は当然「このページに含まれる画像です」と元サイトへのリンクが張られていたのだけれど、それを踏んで飛んだ当該の(つまり業界最大手・結婚相談所の)トップページには現在、この画像じたいはない。そういうものなのだろう。さらに言うと、この女性の画像で再度検索をかけると、背景をさしかえ無関係なニュースまとめサイトのアイコンに使われてますよとサジェストされる・が・当のニュースサイトは現在この画像は含んでいない。そういうものなのだろう。「どういうものなの?」ネット検索は存外アテにならない+ネット上の情報は存外エフェメラ(かげろうのように一時的)だということです。
それにしたって、随分キレイさっぱり消えるものだという感慨ぶかく思う一方、意図的に消したのかもと思いあたる節もないではない。
いや「消された』とか不穏な話をしているわけではない。よーく考えて気がついたのだけど、今「集団…」のポスターとして使われている首かしげ女性のイラストが、かつてオタク向け婚活のネット広告に使われていたのと同一の「絵」だったとして、それは同じ「画像」を(もしかしたら無断で)使い回している・とは限らないのだ。
「絵」「画像」と言われて、すぐにピンと来る人ばかりでもないだろう、説明します。つまり「絵」は同じでも、それをネットに載せた「画像」は紙のポスターに印刷された「図像」より、ずっと解像度が低い。ネット用の小さな画像を拡大してポスターに使えば、絵はもっとボヤけてしまうはずなのだ。だからネットからポスターへの無断転用は、実は考えにくい。
もともと解像度の高い原画があって、それを縮小して婚活ネット広告に使った・そののち元原画から今度は「集団…」ポスターを作った可能性はないか。もしかしたら原画の著作権者が、首かしげ子さんの「転職」に同意したのかも知れない。でも、いちど別の広告に採用されたイラストの版権を、そう簡単に移せるものだろうか。そのあたりは正直、僕の手に余る。残るのは「でも彼女は元は婚活の広告キャラでしたよね」という自分の記憶だけだ。
ここまで来れば皆様、当然もう一つの可能性もお考えだろう。「そもそも本当に同じ絵だったの?」「その画像を一度は保存したけど紛失してしまった、ということ自体あなたの妄想ではないか…
とまでは言わないけど(怖すぎる)単に似てるだけのイラストを同一だと思いこんだのでは?」あなたそういう勘違い、ありがちでしょと言われてしまうとグゥの音も出ない…と言いたいところだけど「でもやっぱり同じ絵だったよなあ」と思うに足る、間接的な状況証拠が実はある。
「好みの絵だったんで保存した」と書いたのを思い出してほしい。実は当該の画像そのものは紛失してしまったけれど、そのイラストを元に
自分の絵柄でキャラ起こしした絵は残っているのだ。

特に左側の頬にかかる小さな髪のハネは「このキャラ」のチャームポイントとして別のカットでも拘って描いているよゆだ。2022年5月、実は一度、Twitterに上げている。期間限定で今は削除してネット上にはない。
だから言ったでしょ、ネット上のデータはエフェメラだって。
もちろん元モデルがここまで、それも自分の好みではない形で「バズって」しまった今、同じキャラ絵のまま再び世に出すつもりはない。彼女を使った掌篇まんがは機会があれば容姿を変えて出し直すことになるだろう。それでも一応この話について僕は「信用ならない語り手」のレッテルは貼られない資格があると思っている。
* * *
性は雌雄でキッパリと二分されるものではない、現実には性は100%オスと100%メスという両端の間に広がるスペクトラム(グラデーション)で、たとえば小さな子どもは性器をのぞけば身体的にほとんど差がないように、性差の度合は変わりうるし一つの個体の中でさえ性差や性の濃淡はあるのだ、という最新の学説を解説した
諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線』(NHK新書/外部リンク)を読んだとき「男女がキッパリと分かれていてほしい人たちの対抗運動もネットで確認できる。自分はこっちは違うなーと閉じたけど」とだけ書いた(
23年3月の日記参照)。
実はこのとき「違うなー」と思った理由の一つに、性スペクトラムは妄説だと主張するサイトに、画像の無断(?)転用があった。性スペクトラムのような考えかたのせいで心を傷つけられる子どもがいる、子どもたちを守らなければならないと主張するそのサイトは、メディアを通した妄説の脅威を訴える意図だろう、古いブラウン管式のテレビの画面が膨らみ、銃を突きつける手になって伸びている画像を「イメージ」として掲載していた。デヴィッド・クローネンバーグ監督のカルトホラー『ビデオドローム』の一場面だ。無論、クレジットなどない。
もちろん先に諸橋氏の本を読み、またその他の性的マイノリティなどについての文献や意見も読み知ったうえで、反・性スペクトラムは「違うな」という予断はあったのだけど「映画の1シーンを無断で流用するような主張は信用を損ねるのでは?」と思ったりしたのだ。『ビデオドローム』の主演俳優だったジェームズ・ウッズは、今やゴリゴリのMAGA(Make America Great Againの信奉者)で、おそらく「男は男、女は女、LGBTQや、まして性スペクトラムなんて認めない」という立場にも大賛成だろうから「オレの出た映画、使っていいよ」と「許可」したかもね…というのは、まあ冗談として。
何かを主張する時には、手段はフェアであってほしいという話。サヨクでもね。
もちろん『集団…』の件はイラストの来歴はルル述べたように「流用」まして「無断転用」
ではないけれどよく分からない不思議な「ジョブチェンジ」だった可能性が捨て切れない。でもそれ以前に、内容自体どうにも怪しい。街であまりに頻繁にポスターを見かけるので、予備知識のない人に注意喚起はしておきたい。
そして、くだんの画像が婚活広告で使われてるの見たよ、なんなら保存して持ってるという人がいたら、そっと教えてほしいなあと思う。いや、真相を確かにしたいと言うよりは「
趣味の合う人(こんなことになっちゃったけど、あのイラストいいよね)
と出会いたい」だけかも知れません。
結婚を迫ったりはしないから大丈夫。たぶん。
二人と5人(6人)〜ジン・オング監督『ブラザー 富都のふたり』(25.02.08)
監督は本作を通して
「日本の観客に、マレーシアで起きている現実を理解し…
てもらえることを願っています」とメッセージを寄せている。けれど本作が描くのは日本を含め、おそらく世界中で「起きている現実」だ。
*** *** ***
Center of the Earth is the end of the worldとは、アメリカを代表するパンクロック・バンド:グリーン・デイの一節だ。
Green Day - Jesus Of Suburbia [Official Live](YouTube/外部リンク/11分くらいあるので注意)
いや、Earth=地球でもあるので、地球という丸い球の中心≒芯のほうかも知れないけれど

Earth=大地と取れば大地=地上=人の世界の中心はこの世の果て。2010年代、一度は下野した保守政権が
「世界の中心で輝く日本」をキャッチフレーズにあからさまな反動として再び与党の座に躍り出たとき、ずっと(
お前らの言う世界の中心はこの世の果てだろうけどな)と脳内で異議を唱えていた。
逆に言えば、この世の果てこそが世界の中心なのかも知れない。それは同時に、人が作り出した地獄の最下層なのかも知れない。つづめて言えば
「もはや辺境にしかコアはない」。グリーン・デイの歌よりもっと前、『本の雑誌』の連載で評論家の
鏡明氏が、とある回の結語にした言葉だ。当時ほかならぬアメリカを題材にした著作を長く書きあぐねていた氏の言葉と思うと余計に含蓄が深い。地政学と名のつくものは大概インチキだと疑ってかかっている自分が、それでも(わりと地政学用語として知られている)「リムランド」を創作同人誌の個人サークル名にしたのは、この鏡氏の言葉が動機だった。それはさておき。
吾こそは世界の中心なりとドナルド・トランプが吠えるNYだかDCだかと、ガザ・パレスチナはどちらが世界の中心だろうか。あるいはかつて
「哀しい男が吠える街」(違ったかも)と詠われたTOKIOと、そのTOKIOをきらびやかにするために宮下公園を追われた人たち、世界の中心で日本を輝かせるため踏み台にされた福島、維新の会と吉本興業が合作(捏造)した「予想以上の万博」と能登半島、どちらが世界の中心か。
* * *
世界に冠たる大日本さまに比べたら、マレーシアなんざ辺境…
などと言うつもりは、さらさらない。十年近く前に一度だけ訪ねた首都クアラルンプール(以下面倒なのでKL)の尖端ぶりや公共交通機関の先進ぶり、多民族の共生(もしかして角逐)、皮肉な言いかたをすればグローバル資本主義に圧倒された同じドングリとして、かの国の栄華を誇る部分は、日本のそれと少なくとも遜色はないのだろう。

その一方で(有機LEDが夜も輝かせる)光にたいする影もまた際立つ場所でもあった。通りの左右にびっしり軒を並べたレストラン、店の前に張り出したテーブルが街路を埋めて夜をにぎわす食堂街で、行き交う人々の間を縫うように、身体障害者らしい上半身裸の少年が、地べたについた両手を足がわりに駆け抜けた。家族旅行の一行で、いちばん年齢が近かった甥っ子2号が「え?」という顔でショックを受けていたのも印象に残っているけれど、子どもの記憶は曖昧なものだから、いま大学生の彼はもう憶えてないかも知れない。

そんなわけで「また台湾かよ!」とは自分でも思うのですが(
またフーコーと、どっちが好かった?)ただの台湾でなくマレーシア・台湾合作、クアラルンプールを舞台にした・しかも必ずしも光に満ちた内容ではない作品らしいと来たら、何か自分の中の負債を確認するように、足を運ばずにはいられなかった。
『ブラザー 富都[ブトゥ]のふたり』(リアリーライクフィルムズ公式/外部リンク)
その皮肉でしかない名前が岩井俊二監督の映画『スワロウテイル』が描いた架空の日本の街・イェンタウン(YEN TOWN)を思い出させる、けれど富都はクアラルンプールに実在する貧民街だという。いや、たまさか僕はイェンタウンを(そして自身が見たKLを)想起させられたけれど、それだけではない。
多民族国家の一員である華人として社会派映画を手がけてきた
ジン・オング監督はパンフレット冒頭で
「日本の観客に、マレーシアで起きている現実を理解し…
てもらえることを願っています」とメッセージを寄せている。けれど本作が描くのは日本を含め、おそらく世界中で「起きている現実」だ。
ID(身分証)がないため居住もままならず、足元を見られては搾取され、ブローカーに騙され、銀行口座も持てず、反撃する選挙権もないまま入管の摘発に怯える非正規の貧民たち。健常者向けに作られ障害者を存在ごとネグレクトするシステム。ミャンマーからの政治難民。トランスジェンダー。善意の奔走が空回りするNGOの屈辱的な無力。
センシティブな観客なら冒頭、市場で食肉用の鶏が絞められるシーンに食肉の問題・食肉の加工が社会の最下層に託され事実上「賎業」と化している構造まで見てしまうかも知れない。急転直下・怒濤の展開となる後半に提示される法制度上の問題は(伏せるけど)日本もまた他人事ではない。
いや、本作で監督が「知ってほしいマレーシアの現実」として列挙した問題は、どれも日本国内でも見られる「構造的不正義」ばかりだ。強いて違うとしたら、多くの「ふつうの日本人」は入管で収容者が死に追いやられてもネグレクトする側・むしろ積極的に不正義に加担する側だということだろうか。でもマレーシア社会全体でも事情は変わらないかも。

明確に違うので観る前に知っておくといいのは本作の場合、主人公の兄弟は外国からの移民ではなく、複雑な戸籍(?)制度によって生じさせられた、マレーシアで生まれたけれど両親の死亡や親の不認知によってIDが取得できなかった、いわば自国内難民のような存在だということだ。日本で生まれた日本人であることが、そうでないあらゆる者を「差別じゃなくて区別だ」と言いながら差別できる理由になると信じている人たちは、それが通用しない社会もある事実に多少たじろげばいいのにと思う(まあそういう人たちが本作を観る機会はないのかも知れないけれど)。
そして映画を観る前はあるのかなと思っていた、貧しい富都との対比として描かれる光々しいグローバル都市KLの描写が、ほぼほぼ皆無だったことも逆に気になっている。欧米ブランドのショーケースとしてのKL・多民族多宗教(かつて植民した西欧の手による建築等も含め)多文化が栄える観光地としてのKLの姿は、富都に生きる人々を捉えるカメラには「眼中にない」かのように映らない。逆をいえばNIKEのシューズやNIKONのカメラ・資本主義や新自由主義の繁栄を所与として受け容れている層にはKLの裏手にある富都も、各々の国に・当然のように日本にもある「それぞれの富都」もまた、ともすれば見えていない、ということではないだろうか。
そこで冒頭の問い再び:「世界の中心」は、本当はどちらだ。
またはどちらを「世界の中心」とする視点にこれから立つか。
一時的なものかも知れない。けれどこの数年で、特にハリウッドが作る映画への関心が自分のなかで急速に薄れつつある。数年前まではトム・クルーズ(主演)やクリストファー・ノーラン(監督)の新作を劇場で観るかスルーするか大層悩んでいた気がする自分ですらだ。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』でアカデミー賞を総なめにした中国系(アジア系)俳優たちが「昨年の受賞者=今年のプレゼンテイター」として登壇した翌年の授賞式で、傲慢な白人の俳優たちに公然とネグレクトされたという評判が「冷める」キッカケだったかも知れない。イスラエルによるパレスチナでの虐殺にアメリカが同調したこと・それに異を唱えるような人々が偽善者のセレブとして嘲られ、シルヴェスター・スタローンやジェームズ・ウッズらトランプ的なアメリカの賛美者が大きな顔をする界隈に、いよいよ失望がきわまったのかも知れない。
何も、暗く貧しく「可哀想な」人たちの救われない悲劇を観てションボリしろ、それが現在に生きる者の責務だ―
などと言うつもりはない。さらさらない。ただ、観るならば世界のコアを観たいのだ。それは台北の受験生たちが夢みる狭苦しい寝床かも知れないし、女人禁制の禁が破られ大騒ぎになる北マケドニアの田舎の村かも知れない。新作映画を作ることすら許されなくなったスーダンの野外自主上映会かも知れない。少なくとも、ドナルド・トランプやイーロン・マスクに唯々諾々と従うスーパースターたちがスーパーヒーローに扮して実写だかCGだか分からない大爆発とともに勧善懲悪を自称する場所・ここが世界の中心だと勝ち誇る場所に、いま世界のコアはない(30年以上前から、ずっとなかったのかも知れない)。
『ブラザー 富都のふたり』に監督を含め多くの人々が「これは愛の映画だ」そこに救いがあるのだと評価(自己評価)している。そう言いたい気持ちも分かる。でも僕的には、救いがあろうと無かろうと「ここが世界の中心だ」これが「私の」世界のコアだという体感だけで、本作はドニー・イェンの跳び蹴りのように、トニー・ジャーの肘打ちのように痛快に思える。
本作が描く「世界の果て」は「世界の中心」であり、また地球の中心≒地獄の最下層なのかも知れない。だとすれば「私の」この世界の本質は地獄なのだ。けれど絶対零度のはずの真空にも理論上エネルギーが潜在するように(←
このへんは未消化なので軽くスルーしてください)人間的な生をすべて剥奪されたと言われるような剥き出しの極北にも、勝ち負けや救いのあるなしに関係なく生が、人生が横溢している。『ガザ日記』がそのようなルポルタージュであったし、『富都のふたり』もまた、そのような映画だった。つらかったりアンハッピー・エンドだったりするものは観たくないという気持ちは分かるけど、観る価値のある映画だと思います。
世界の中心は世界の果てで、地獄の底でもある。この逆説は『富都のふたり』のように社会から排除される者たちの、排除される場こそが(問題の在り処としての・またそれに抗する生が横溢する場所としての)世界の中心・社会のコアなのだという理解にもつながる。しかし同時に、吾こそは世界の中心なりと勝ち誇るNYやDCやTOKIO・夢洲もまた地獄めいた排除の中心なのだろうと教えてくれる。
マレーシア固有の問題を指し出そうとした監督の(少なくとも表向きの)意図を超え、世界のどの国にも本質的に存在しそうな排除を描き出した『富都のふたり』は、言い替えれば吾々ひとり一人が感じている社会の歪みや現世のままならなさを恣意的に投影できる鏡にも似ている。
* * *
おそらく他の誰も連想しなかったと思うけれど、マレーシアの貧民街で身を寄せあう血の繋がらない二人の兄弟、それぞれハンサムと呼べるだろう青年俳優たちが額を寄せあうさまを観ながら、たぶん観客の中でただひとり、僕は考えていた。日本の(きらびやかなほうの)中心に長いことスターとして君臨し、君臨しつづけたからこそ性加害者に成り果て転落した、かつての青年のことを。
グリーン・デイが「郊外のジーザス」を歌うより、ずっと前にテレビ受像機を持たないようになっていた(それでかつて同人仲間に「私の知ってる一番の変人」の栄誉を頂いたことがある)僕は、彼が血の繋がらない五人の兄弟(いや最初は六人だった)の長男のように、おずおずとアイドルとしての、俳優としての評価を確立していった初期の頃しか見知ってはいない。だから、いけ好かない言動がイヤでも耳目に入り、とうに愛想が尽き果てていた(テレビ的なものに戻りたくない積極的な理由のひとつにさえなっていた)吉本芸人のボスとは違い、アイドルの彼がどのようなパーソナリティをテレビの中で構築していたか・あんな事件を起こすような人には…だったのか、さもありなんだったか知る由もないし、今さら知りたいとも思わない。同情とも擁護とも、かといって非難や罵倒とも僕は遠いところにいる。何しろ知らないのだから。
ただ、マレーシアの貧民街でIDを持たないがゆえに最貧の生活すら奪われ破滅していく青年と、語弊はあるが地獄であることには変わりない破滅、一人の青年がテレビ界という「世界の中心」で数十年の時間をかけて破滅していくさまを多くの人が視聴者として見守っていたことは、この「世界の中心」もまた地獄・この世の果てだった証左にはならないだろうか。彼が(「兄弟」たちとともに)キャリアの最初期に受けていたろう虐待については言うまでもない。
だからこそ。あるいは「それでも」。吾々・私たちという一人称が「大きすぎる主語」なら、「あなたたち」と言い替えてもいい。きらびやかな地獄にエネルギーを供給しつづけた、あなたたち視聴者それぞれ固有の地獄にもまた(変人の僕が、僕固有の地獄で希うのと同様)救いや、生の証がありますように。かなうものなら他の誰かをなるたけ踏みつけにしない形で。それがまた構造的に難しいのだけれど。
*** *** ***
途中から想定外の展開をした映画に負けじと(?)斜め方向の終わりかたをしちまった今回の週記ですが『富都のふたり』ヨコハマだといつもの
シネマ・ジャックアンドベティ(外部リンク)でしばらく続くみたいなので、近隣のかたは是非に是非にー。
外の世界に出る〜張國立『炒飯狙撃手』(25.02.02)
a.
良い本は他の本を連れてくる(ことが時々ある)。
せんじつ読了したミシェル・フーコー『性の歴史IV』の脚注で取り上げられていたのに興味をもって「後期フーコー」と親交があった(
22年12月の日記参照)歴史家
ポール・ヴェーヌの『
パンと競技場』を図書館で借りてきた。深く考えず閉架書庫に入ってる本を取り出してもらったら本文だけで700ページ・註も加えると千ページ位ある本でビビり散らかしたけど、それは別の話。

まず冒頭だけでもとパラパラめくったら、歴史学(者)と社会学(者)の違いについてサラリと触れる箇所が。いわく、社会学は概論(概念、類型、法則性、原理)を抽出するために出来事を利用するが、歴史学は出来事を説明するために(科学や経済学やそれこそ社会学の)概念を利用する。社会学者にとって歴史は実例(あるいはモルモット)に過ぎず、たとえば王制という概念を二・三の実例―たとえば古代ローマと近世フランスで説明できるなら、わざわざエチオピアにふれる必要はない。けれど歴史学にとって歴史とは個々の出来事なので「動物学者が全ての動物を、天文学者が星雲のひとつだって」取りこぼせないように、歴史家はエチオピアの王制も無視しえない。
「つまりエチオピアの歴史に関する歴史家がいるはずである」
学問を生業とはしなくても、人には社会学タイプと歴史学(動物学・天文学)タイプの別があるのかも知れない。つまり個々の出来事に関心が向くタイプと、そこから概念や法則を抽出しないと気が済まないタイプだ。他ならぬ自分が、たぶん後者だろう・近年ますます後者の傾向が強くなってないか、という話をしています。
先週の日記とか特にそうでしょ、この小説おもしろかったですで済んでもいいものを、何がこの小説を面白くしているか・そもそも小説にとって面白さとは何か・いま小説に求められている面白味とは…みたいに概念を、ちょうど本サイトのプロフィール欄にあるように「
どんなメカニズムが物語を駆動し心を動かすのか」エンジンを抽出したがる。よくないですよコレは。第一に、ただ楽しめばいい物語に、過剰な意味や意義を「盛って」しまう懸念がある。第二に、個別に存在するだけで味わい深い(けれど「意味」を抽出しにくい)事物の面白味を、上手に味わえない。自分がたとえば名勝や神社仏閣・なんなら美術や演劇なども上手に楽しめないのは、そこから意味やまして概念・法則を抽出しようとしすぎる(仏像やフィギュアスケートに法則を求めてどうすんのよ自分)・事物それ自体を味わえない鈍感さも一因なのではないか。

最近ようやく、世間から12周くらい遅れて、高校生女子がユルくキャンプする人気漫画を少しずつ読み始めているのですが(縦線スクリーントーンの多用と影のつけかたがスゴく大胆で目に映えますね)主人公たちが「この位置からだと神社の赤い鳥居と背景の青空・富士山のコントラストがとてもいい」とか「急な坂だけど階段がついてるから登りやすい」といったことを一つ一つ面白がってるのを見ると(
少しずつって、もう7巻まで読み進めてんじゃねえか)こういう楽しみを自分は鍛えてない・なおざりにしがちだよなと思ったりもするのでした←その反省もまた意味の抽出ではと考えてはいけない。
つまり、事物を説明するのに意味や意義・概念や原理を抽出しようとすると抜け落ちてしまう要素は存外に多い。「言語化」は時に、多くの要素を取りこぼす。
b.
ものごとを「それってどう面白いの」「どういう意義があるの」とメカニズムや概念・一般法則に還元したがる人は、還元主義者と呼んでもいいのかも知れない。ちょっと面白いのは社会学者(そう、まさに社会学者)のジンメルが、さらにそれを突き詰めた結果
「私たちは、自分が理解もせず理解も出来ぬもの−因果律、公理、神、性格など−に物を還元した時、初めて物を本当に理解したと感じる」
と書いていることだ(『愛の断想・日々の断想』岩波文庫)。分からないと・意味を抽出しないと安心できない心理は、「分からない」に行きついて最後ようやく安心する。何この逆転劇。
でも、そういうものかも知れない。物語を、あるいは世の中どうしてこうなんだと社会や歴史を分析して、分析して、因数分解のように割れる全てを割り尽くして、最後に残る「余り」は結局、この「外」に出なきゃダメだ・「外」の世界につながることが希望だ、となりがちではあるのだ、たぶん。その「外」を昔は神とか神秘(つまり世界の外)と呼んだし、今は他者(つまり外の世界)と呼ぶのかも知れません。
* * *
実は今週の週記では『性の歴史IV』の読書ノートをつけようと思ったのですが、
すでにマクラだけで長くなりすぎたので来週以降とします。
* * *
c.
良い本は時に、別の本の代わりに、美味しそうな飲みもの食べ物を連れて来る。
先週とりあげた『雨の島』では
甘蔗青茶(ガンジョーチンチャー)なる台湾の飲料の名前が目に灼きついた。甘蔗はサトウキビ。日本ではひとしなみに烏龍茶と呼ばれがちな半発酵の中国茶(青茶)を、サトウキビのジュースで割るんだそうです。
これは人さまにオススメいただいた(
そして良き人は、良き本をもたらす…ありがとうございます)
・
張國立『炒飯狙撃手』(原著2019年/玉田誠訳・ハーパーコリンズBOOKS・2024年/外部リンク)
は、えー、ストーリーの概要は後回し(こちらの紹介など参考になるでしょう→)
・
小説_華文ミステリ〔日本版刊行〕張國立『炒飯狙撃手』(太台本屋/外部リンクが開きます)
まずは読みながら、登場する食べ物を備忘にメモする手が止まらない一冊(笑)。北京ダックならぬ
南京板鴨(なんきんダック)、
栄養三明治(サンドイッチ)、
揚州炒飯、
赤豆鬆□(あずきケーキ、□は米偏に下棒が突き抜けない羊・「然」の下部と同様の点四つ)、
刈包、
豆干(干し豆腐)
のように折りたたまれた掛け布団、
キャベツを使わない韮餃子、
麺線は横浜中華街で買えるだろうか(自メモ)、
餡餠(中華おやき)。
たまらんなあ←こういうのでいいんだよ本の感想。

食べ物以外でメモを取ったのは水源市場・東南亞電影院(映画館)・寶藏巖・虎空山などの地名と「65式歩槍」これはアメリカのM16ライフルを模した台湾軍の小銃だそうです。要するに(最後の小銃を除けば)旅情をそそる。
最後の小銃にまつわる(そして懲りずに「意味」を抽出しようとする)話を少し。
ミステリと言うよりエスピオナージュ・スパイ小説に近いのかも知れない。台湾出身でイタリアに潜伏する凄腕のスナイパーが、炒飯の達人でもあって周囲の人たちから好かれてるという設定、そういえば昨年観た台湾ラブコメ映画の秀作『
狼が羊に恋をする時』(
昨年11月の日記参照)でも、去った恋人への未練を抱きしめながら生活のために始めた炒飯屋で人気者になってしまう青年が登場したけど、最初は何度も失敗するうち達人になっていく様子は『炒飯狙撃手』が語る「
炒飯はとにかく慣れだ」に通じるところがあるようだ。あ、いや、そこじゃなくて。チャーシューが手に入らないイタリアでは角切りにしたサラミを代わりに使うと、滲み出る脂で独特の旨味がつくのだとか。いや、そこでもなくて。
突然イタリアで自身が狙撃の標的にされたスナイパーの全欧を股にかけた逃避行と、定年退職を間近に控えた刑事が台湾で遭遇した未解決事件が、やがて台湾軍の(海外からの)武器購入にまつわる巨大な陰謀劇に絡めとられていく。少しネタバレしてしまうと、鄭成功とか明朝の時代に起源が遡る秘密結社・影の同盟が重要な役割を担う。
…そんな構図に改めて、日本の物語の幸福な不幸を考えてしまった。
台湾の作家が書いた本作でも、大陸・「本土」・中華人民共和国で書かれた警察ミステリ『死亡通知 暗黒者』(
昨年12月の日記参照)でも、もっと言えば韓流のサスペンス映画でも、ハリウッドのアクション映画でも、警察と軍隊そして反社会組織(いわゆるマフィアあるいは他国のスパイ組織的なもの)が反発しあい浸透しあい三つ巴の陰謀劇を成しがちだ。その癒着に立ち向かうのも、往々にして軍で特殊な訓練を受けたスーパーヒーローだったりする。
1945年の敗戦以来、正式な軍隊を有さない・また警察力も市民を護る以上の権力行使を(
建前上は)許されない日本では、そうしたスーパー元軍人・スーパー警察官のヒーローは制度上、存在できないことになっている。○○組のような暴力組織が警察や政財界に影響力を行使するさまを描いたとしても、それはハリウッド映画のマフィアの表象とはニュアンスが異るだろう。ましてそうした影の組織が江戸時代や戦国・室町時代まで遡ると言われたら、ギャグか清涼院流水・あるいは清涼院流水のギャグ小説にしかならない。
つまり日本において江戸以前と明治以後の歴史は改めて(名目上)(封建的な心性とかの継続は別問題とする)断絶が著しく、さらに戦前・戦後の断絶が加わった結果、軍や警察・反社会組織をエンターテインメントとして描く可能性は著しく損なわれている。んにゃ、サングラスの危ない刑事と広域YAKUZA○○会が自動拳銃でバンバン撃ちあうドラマは(観たことないけど何しろ本サイトの中のひとが住んでる横浜でも)ふつうにあるのだけれど、そうではなくて。『ボーン・アイデンティティ』のマット・デイモンや『イコライザー』のデンゼル・ワシントン、『アジョシ』のウォンビンや『戦狼』のウー・ジン、『暗黒者』『炒飯狙撃手』のような(元)スーパー軍人・(元)スーパー警察官のヒーローやアンチヒーローの活躍や暗躍を、この国の物語作家たちは指をくわえて見ているしかない。
大急ぎで言うならば、それは幸福な欠落なのだ。軍隊で特殊訓練を受けたヒーローの痛快な活躍(という物語・往々にしてフィクション)など、現実に徴兵や従軍で損なわれた人生の(大小さまざまな)悲劇とは比べ物にならないだろう。それが幸福であることを、譲ってはならない。
現在の日本では(まだ一応)警察官も自衛隊員も、たまさか役割として武器を貸与された一般人であって、階級としては一般市民と同等なことになっている。だから警察官・阿久瀬錠(あくせ・じょう)は異星から襲来した「ハシリヤン」が繰り出す怪人に一警官としては歯が立たず、荒唐無稽な「爆上戦隊ブンブンジャー」の一員・ブンブラックに変身し荒唐無稽な巨大ロボを操縦する(前にも言ったけど
何しろ四肢のある人型ロボを「自動車のハンドル」で操縦するのだ)ことで、ようやく初めてスーパーヒーローたりうる。現実に存在した「自衛隊で特殊な技能を身につけた元自衛官」が、現実の世界では何をしたか、蒸し返す必要があるだろうか。
もちろん現実の警官や自衛官は「着てる服が違うだけの一般人」ではない。警棒や拳銃・自動小銃や戦車がなくても、おそらく素手でも、警察官や自衛官と戦えば(特に非力な僕などは)瞬殺だろう。制度が公式に・その組織が自ら非公式に許した権力・強制力もまた、建前以上にえげつないものではあるに違いない。この建前と実力の乖離は、いずれは問われるべき問題なのかも知れない。この国が「平和」であることと、政治的な異議申し立てが「意識高い」と揶揄され(
意識が高くて何が悪いのだろう)忌避される現状は、もしかしたら関係があって、いずれ吾々はそことも向き合わなければいけないのかも知れない。
だが、そうした「問題」と「諸々の問題を解決するには日本も正式に軍備が持てるよう憲法を改定したほうがいい」とか、まして「徴兵制を復活させたほうがいい」みたいな短絡は、混ぜるな危険だろうと冷静に考えもする。「人々が真に市民・民主主義社会の主権者となるためには軍隊の存在・従軍の経験が必要なのだ」と説く者が現れたとしたら、そうした主張が(人々が主権者より従属者であるほうが好ましいと考える)国家をどう利するのか、先に考えたほうがいい。
他の国では元軍人や、特殊訓練を受けた公安警察官がスーパーヒーローとして活躍する映画やドラマがあって羨ましいから、日本でもそういう物語が生まれてほしい、というのも見ないほうがいい夢だろう。というか少なくとも「その夢には現実の責任が伴うよ」と思う。
世の中に、語られるべき物語は、他にも沢山ある。元軍人のスーパー格闘家がいなくても、政財界まで影響を及ぼす五百年の盟約がなくとも、環境が破壊され人とAIの区別がなくなり・いや人がふつうにただ生きるだけで絶え間ない暴力と被傷性があるのだとは、先週『雨の島』で確認したとおりだ。エスピオナージュを器にタップリ盛りつけられた台湾美食を堪能したり、静岡に原付バイクを走らせ山梨にテントを立て御当地グルメや熱々のおまんじゅうに舌鼓を打つのが、謀略や暗殺やまして戦争よりは語るに足らない無価値なものだと、誰に言えるだろう。

これは人気の某キャンプまんがに登場した富士宮名物・しぐれ焼き(
お好み焼きと富士宮焼きそばを合わせたご当地グルメ 鰯の削り節とウスターソースでさっぱりした味つけ 肉カスとモチモチした太麺のおかげで非常に食べごたえがあります)に触発されて作った、でも「焼きそばが太麺」以外は
似ても似つかない創作お好み焼き。いいのいいの。大事なのは美味しいこと、充実してること、
そして読書が本の外で何かしらの実践につながること…これは今週取り上げるはずだったフーコーの本を読んで受け取ったこと。その話は文案がまとまれば後日。
*** *** ***
(追記)麺線じたいは中華街といわず中国(本土・大陸)系の食材店でもソレらしい細麺が廉価で手に入るし、なんなら安めのおそうめんでも好いのではと(煮込むからおそうめんほど質にこだわらないはず)。むしろ魚粉だしとモツの味わいが出たスープを現地風に作れるか。あれは豚モツがふつうに(お安く)流通する食文化圏での庶民食な気がします。牡蛎が安く手に入ったら贅沢に牡蛎麺線とか美味しそう。
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