アウト・オブ・ダークネス〜レナード・ニモイ追悼(15.02.28)
ハリウッド映画でも、日本のアニメでも、最近の流行はリブート(再起動。昔で言うところのリメイク)と、主人公たちが同じ状況を何度も繰り返しスタートに戻されながらその状況からの脱却を図るループものだ。
J.J.エイブラムスが監督した新しい『スター・トレック』もまた、(旧シリーズでは描かれていない)カークやスポックたちエンタープライズ号のクルーが初めて出会った頃を描くリブートものだ。スター・トレックよりスター・ウォーズのファンであると公言するJ.J.によるリメイクは当初おおいに危ぶまれたが「コバヤシマル」「ヴァルカンづかみ」「スールーの特技」など旧ファンが躍って喜ぶ小ネタを随所に散りばめた第一作は、たちまち不安を払拭した。クリス・パイン、ザカリー・クイントはじめ若い俳優たちも魅力的で、すぐにカークやスポック、ウフーラやボーンズにしか見えなくなった。
その新スタトレにリメイク・リブートだけでなく、ループの属性を与えた(というか明らかにした)のがシリーズ第二作『
スタートレック・イントゥ・ダークネス』(以下
STiD)だった。感動的だった。
感動的?と訝しむ人は多いだろう。あれのどこがループ?と。
だがSTiDはループものだった。繰り返す時間に囚われた主人公たちが、何度も何度も列車事故を止めようとしたり、たった一人の親友を死なせないために徒労ともいえる努力を繰り返したりするように、STiDはループものだった。ただしそれは新作の映画第二作目の中にだけ収まることではなく、ウィリアム・シャトナーやレナード・ニモイが主演した旧シリーズまで含めた(つまり制作期間50年に渡る)壮大なループだったのだ。
そうと知ることでSTiDが、最近の映画としては異様なまでの緘口令を敷いて、
たった三文字の単語(英語だと四文字)をひた隠しに隠そうとした理由が分かる。結局はクチコミで早々に明かされてしまった、その三文字の単語とは
★以下、STiDのみならずテレビ時代からのシリーズ全篇に渡るネタバレになるのでたたみます。(クリックで開閉します)。
「カーン」。
ベネディクト・カンバーバッチが演じたゲストキャラは当初その本名を隠し、ジョン・ハリソン中佐としてカークたちの連邦宇宙軍に潜入する。それは映画の外のパブリシティでも謎の敵「ジョン・ハリソン」として彼を紹介し「カーン」の名を徹底的に伏せる効果を(ある程度まで)あげた。もちろん旧シリーズのファンは印象的なカンバーバッチのヴィジュアルを予告スチルやポスターで見た時から「ひょっとしてカーンなのでは」「カーンだったらいいのに」と内心思っていただろう。それでも「やっぱりカーンだった!」と劇場で最初に映画を観たときに思わせるのがベストだった。旧シリーズからのファンにとって「カーン」は特別な名前だった。
カーンと言う名はおそらく成吉思汗やクビライ・ハーンなどの汗=ハーン(KHAN)に由来する。現在(20世紀〜21世紀)と人類が宇宙に進出したスタトレ時代の間、封印された混迷の時代に優勢人類として生み出され・世界を支配しようと目論み冷凍睡眠の刑に処せられた反乱者、それが彼とその一党だった。テレビ版のカーンはリカルド・モンタルバン(旧『猿の惑星』シリーズで、シーザーを庇護する心優しきサーカス団長だった)が演じた。冷凍睡眠から解き放たれエンタープライズ号を乗っ取ろうとしたカーンはカークに敗れ、辺境の惑星に流刑となる。過酷な砂漠惑星で家族を失ない復讐鬼と化したカーンは旧映画の第二作『カーンの逆襲』で再度カークに牙を剥き−
攻撃で停止したエンタープライズ号の核融合炉を再起動させるため隔壁の内に飛び込んだスポックが殉職する。
それだけではない。死んだスポックを取り戻すため、続く第三作『ミスター・スポックを探せ』でカークはクリンゴン星人と死闘を繰り広げ、第二作で新しく生まれた惑星ジェネシスも、エンタープライズ号も、一人息子までも失なう。それらの災厄をもたらした元凶・カークをとことん苦しめたシリーズ最大の敵が、新映画の配給が徹底的に伏せようとした「カーン」だったのだ。
J.J.が監督した新しいシリーズには、単に今まで語られなかった主人公たちの青春時代を描くだけでない、さりげな「仕掛け」がある。それはレナード・ニモイ演じる老スポックが新シリーズの時代にタイムスリップしており「過去への干渉は許されない」と言いながらカークや、ザカリー演じる自分自身に助言を与えるという小ネタだ。彼の存在によって新シリーズは「ループ」の二周目となる。STiDで救いを求めたヤング・スポックに老スポックは告げる。
「君たちの未来を変える情報を私は明かすことができない。だがこれだけは言っておこう。
カーンはエンタープライズ号にとって最大の脅威となる。彼を倒すためには−多大な犠牲が必要だ」
それは老スポックにとって(復活こそしたが)自らの死も、親友の息子の死まで含む、あまりに大きな苦渋の犠牲だった。
そこまで踏まえたうえで、二周目のSTiDでは、若いカークがスポックの身代わりとなるのだ。
STiDでカーンの攻撃を受けたエンタープライズ号は墜落の危機に瀕する。それを救うため、若いカークが核融合炉に飛び込む。当人は知らないがそれは、スポックを死なせ船も家族も全て失なう「未来」を改変させる、ループを書き換える文字通り捨て身の献身だった。その「未来」は映画の外、50年に渡る(映画『カーンの逆襲』からでも30年)の「過去」である。新シリーズは単なるリブートではなく、ループの書き換え・ループからの脱出だった。そのために若いカークは自ら身代わりとなり、命を捨てる必要があった。
ここまでネタを割ってしまったので最後まで言ってしまえば、一度は捨てたカークの命は(トリブルという、またファンサービスの小ネタを使いつつ)皆の協力で取り返される。それでも一度は死ぬという行為によって、カークは未来を書き換えた。旧TVシリーズのスタート=5年間の未踏宇宙探査任務に戻った時点で、STiDは幕を閉じる。
他作品にまたがっての未来改変には実は前例がある。5部作の中盤で登場人物(いや、人ではなく猿だが)が過去に戻り、歴史を改変する旧『猿の惑星』シリーズだ。水爆によって世界が滅亡する未来から現代にタイムスリップしてきた猿たちは、幼な子シーザーに将来を託す。そのシーザーを育てる人間=ループ改変の要になるのが、スター・トレックで元祖カーンを演じたモンタルバンというのも、不思議な縁ではなかろうか。
(ネタバレ終了)
『スター・トレック』で改変の要となったのは、言うまでもなく老スポックである。50年に渡りスポックを演じてきたレナード・ニモイ氏の訃報を受け、この日記を急ぎしたためた。
若いカークやスポックたちが、長い暗黒のループを抜けたのをSTiDで見届け「任務完了」と満足して、本来の世界に転送され戻っていった(もちろん彼の仕事はスタトレだけではないが)、そう考えることにしたい。そちらのブリッジには、旧スコッティを演じたジェームズ・ドゥーアンも、そして宿敵モンタルバンも先に行ってスタンバっている。いつか僕じしん転送され、再会するのを楽しみにしている。
差別のメカニズム〜曽野綾子氏の発言をめぐって(15.02.12)
単刀直入に主題から入る。
ここしばらく読んでいる本に「差別」を思わぬ方向から考察した、興味ぶかい一文があった。
西欧で書かれた本で、必然的に自分たち西欧人=白人の差別意識を主題にしていることは、あらかじめ了解しておいてほしい。「分かる分かる、奴ら白人ってそうなんだよな」ではなく、同じ近現代を生きている者なら、どの国でも(吾々にでも)当てはまる・少なくとも検討に値する指摘だと思ったのだ。
「白人の主張するものとしてのヨーロッパ的
人種差別は、排除によって、特定の誰かを〈他者〉と見なすことによって成立したのではなかった。
異邦人を「他者」として捉えるのはむしろ原始社会であろう。
人種差別は〈白人〉の顔とのへだたりの幅を決定することによって成立する。
〈白人〉の顔は、自分に適合しない特徴を、遠心的な遅延した波の中に統合しようとし、
一定の場所、一定の条件のもと、つまりゲットーの中でならそれを受け入れたり、
いかなる他者性も受けつけない壁の上にそれを押しつぶしてしまったりする
(こいつはユダヤ人、こいつはアラブ人、こいつは黒ん坊、こいつは気狂い…等)。」
著者の強い思い入れを背負わされた「顔」とか、小難しい表現を整理すると、こうなるだろうか:
「
人種差別は、特定の誰かを〈他者〉と見なし排除することではない。
差別は〈差別する側〉とのへだたりの幅を決定することによって成立する。
〈差別する側〉は、自分に適合しない者も〈中心から遠い者〉として世界に含め、
一定の場所や条件(ゲットー)の中でなら受け入れたり、壁の上で押しつぶしたりする」
壁の上で押しつぶされるのは「異邦人」ではなく「吾々の中の、吾々度が足りない劣った一員」なのだと、この著者たちは説いているようだ。原文の続きに戻ると
「人種差別の観点には外部というものはなく、外部の人々は存在しない。
自分たちのようでなければならぬ者たちだけが存在し、
そうした者たちの罪はそもそも自分たちと違っていることなのだ。(中略)
人種差別は決して他者の粒子を検出するのではなく、同一化を拒否するもの(もしくは
一定のずれを保った上でしか同一化しないもの)が絶滅にいたるまで同じものの波を伝播させる」
(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』河出書房新社)
この文章が書かれたのは今から35年前のフランスで、二人の著者とも既に亡いが、シャルリー・エブド事件に端的に現れた同国の矛盾は、死者の予言のように此処で告発されてはいないだろうか…と考えたのは最後になってからで、
日本に住む自分が最初に連想したのは、曽野綾子氏の
「(介護職などに就かせるために)移民を受け入れるのはよい、ただし南アフリカで実施していたように、人種別で居住区を分けるべきだ」という文章が新聞に掲載され、アパルトヘイトを支持する非常識な発言として反発を呼んでいる件だ。
わざわざ(彼女が考える)劣った異邦人を迎え入れ、そのうえで隔離するという氏の発想は
「差別主義者は異分子を排除しているのではない。むしろ少数者が異邦人であることを認めぬまま自分たちの価値観に組み入れ〈劣った吾々〉として押しつぶす」
という定義の悪しき模範解答のようだ、と思ってしまったのだ。
もちろん「◯◯は日本から出て行け」と街頭でシュプレヒコールする差別者もいる。そうした人々は、この定義が当てはまらない事例なのか、あるいは「出て行く」ことなど出来ないと承知で非道な言葉を投げつけているのか。それは分からない。
自分にとって大事なのは二つ。
ひとつは「
こういう角度からも、差別という問題について考えることが出来る」ということ。今回紹介したドゥルーズ+ガタリの考察は、たとえば前に挙げたルネ・ジラールの考察と似ている部分もあるし、一致しなそうな部分もある。(彼らは論敵同士だった…というか少なくともジラールは「お前ら全然わかっちゃいない」とケンカを売っている)
・
2012年2月の日記「迫害のメカニズム〜ルネ・ジラール『身代わりの山羊』」
同じものを違う角度から見ているのかも知れない。目を閉じたまま象の違うところを撫でているのかも知れない。しかしどちらの、あるいはどの物差しだけが正しくて、他はダメということではない。さまざまな物差しを使って、そのたび吾々は差別や侮蔑といった得体の知れない怪物の肉を、少しずつ削りとって行けないだろうか。そんな風に思った。
もうひとつは、35年も前の、どちらかというとインテリの知的遊戯みたいに扱われがちな著作が、戯れや遊びではなく真剣に「差別」のような社会問題にも向き合っている、そのことに(思い込みかも知れないけれど)少し励まされる気がしたのだ。
言ってることの半分以上は訳わからないし、あっちゃこっちゃに話が飛ぶけれど、著者名や書名を聞いて多くの人たちが思い浮かべるよりも、意外に、ずっと、彼らは怒っていたのじゃないか。一連の引用した文章は、文庫で全三巻(まだ折り返し点まで読んでません)の、ほんの一部にすぎないが、こんなふうに結ばれている。
「人種差別の残酷さは、その無能さ、愚直さと対である」
* * *
フランシス・ベーコン(画家のほうですよ)やジャクソン・ポロックなんかの展覧会を観に行って「よく分かんないけどスゴい気がする」…そんな読書もあっていいと思うのです。自分の理解を超えた世界を垣間見たいのよ。人さまに推奨はしませんが。