記事:2013年12月 ←1401  1304→  記事一覧  ホーム 

夢やぶれて〜映画『冒険者たち』(13.12.04)

 歳を取るのも悪いことばかりではない。たとえば挫折や失意・失望、幻滅や諦めといった苦い体験を描く物語に「うん、分かる分かる(それならよく知ってる)」と共感できる割合が増える。…のっけから悲観的な話になってしまったが、久しぶりに観た『冒険者たち』は十年以上前にビデオで観て「こんなだったろう」と憶えていたより、ずっとずっと美しく、面白く波乱に満ちて、そして悲しい悲しい映画だった。
・新・午前十時の映画祭『冒険者たち』(上映終了)
 1967年フランス、ロベール・アンリコ監督。自動車メーカーをドロップアウトし、エンジンの独自開発に取り組む中年男ロラン(リノ・ヴァンチュラ)。その歳若い友人で抜群の腕を持つ小型機パイロットのマヌー(アラン・ドロン)。そして廃材を溶接した現代アート作家のレティシア(ジョアンナ・シムカス)。この三人が意気投合し、コンゴ沖の海に沈む5億フランの財宝を探す「冒険」に挑むが、やがて悲劇が…という物語。
 たぶん多くのひとが映画は知らなくとも耳にしたことがあるだろう・聴けば誰でも好きになってしまうだろう主題曲、叩きつけるような不穏なピアノの緊迫感と、甘く優しい口笛のコントラスト。パリの貧乏おしゃれファッションに身を包み、スクラップ自動車の部品を吟味するレティシアの瞳が本当に美しい(個人の感想です)。もちろんアラン・ドロンは素晴らしくハンサムだし(コンゴに渡ってからの無精髭モードが最高)、映画を観るときはオジサン好みな自分にとってリノ・ヴァンチュラは観てるだけで嬉しくなる被写体の一人。改めて、観てよかったなあ…と甘い話はこのくらいにして−いや、それも勿論ウソではないが−

 十年か二十年前に観た時より、ずっとハッキリ認識できたのは、前述のとおり三人の宝探しは悲劇に終わる・でもそのはるか手前=冒頭の30分で彼らは「終わった」存在だったということだ。
 若いマヌーはつまらない男に騙され、大金とパイロットとしての矜持を得られるはずの仕事で逆に飛行資格を剥奪される。スクラップ屋の親父に身を落としてロランが挑んだ新エンジンはテスト走行に失敗し、無残に爆発炎上した。
 そして、レティシアは。「宝探しに行こう!」とアフリカの太鼓の真似をしておどけまわり、いざ着いたアフリカの海で水遊びに興じる彼女は。「財宝が手に入り、大金持ちになったら故郷の島を買い取って移り住む」と言う。
そこでまた創作する。でも、もう作品は公開しない
貯金をはたいて自腹で開いた初の個展は、パリの新聞に酷評されていた。その失意は、けっして癒えていなかったのだ。
 若くハンサムなマヌーは、レティシアに「一緒に暮らそう」と持ちかける。「島を買っても、一人はきっと淋しいよ」。けれどレティシアが「一緒に暮らしたい」と打ち明けるのは、中年男のロランだ。
 彼らの願いがかなったら、愛は、失なった夢のかわりになっただろうか?
 映画では、その問いの答えは出ない。
 少なくとも分かるのは、大金は失なった夢のかわりにも、得られなかった愛のかわりにもならない、ということだ。財宝を得てフランスに戻り、白いベンツから降り立ったマヌーとロランは、見るからに上等のスーツで決まっているが(なにしろ天下のアラン・ドロンとギャング役で鳴らしたリノ・ヴァンチュラだ)、そのキメキメな姿は逆に彼らの空虚を際立たせる。絵になる、美しく、悲しい場面だ。
 若いマヌーはその足で飛行場に戻り、職業パイロットでなくクラブ員として再び空を駆け巡り、かつての仲間たちにシャンパンを振る舞うが「もう作品は公開しない」と語ったレティシア同様、もう彼の夢も取り戻せないのだと明らかになるばかりだ。そして、彼らが得た大金を狙って、夢など一度も観たことのないような暗い目の男たちが近づいてくる…。

 彼らは結局、いわゆる大人、になりきれない「いい年をした子供」だったのかも知れない。
 誰もが一度は子供であったがゆえに、そして多くの人が一度は「いい年をした子供」であったがゆえに、もっと言えば何人かのひとたちが、まだ夢を捨てきれない子供であり続けているがゆえに、必死で無邪気であろうとする彼らの姿はじれったく、いたいけで、そしてチャーミングで輝いて見える。もしかしたら、歳を取ればとるほど、この映画は悲しく悲しく、そして美しく見えるのかも知れない。(オレ/アタシは若いけど、この映画の素晴らしさは分かってるぜというひと、いたらすまん。自分みたく鈍感な人間は、それが分かるのに何十年もかかったのよ)

 そしてリバイバル上映を観て改めて思ったのですが、せんだみつお演じる(ウソ。セルジュ・レジエニという俳優さん)第四の男。三人の宝探しに割りこんで入るが、三人の親密圏には入りこめず、やがて同情すべき理由で追い払われる彼もまた、しみじみと好かった。負い目を負った彼が、最後に彼なりの、かなり思い切った方法で誠意を見せる。でもそのスジの通し方も痛惜の念も、マヌーやロランには決して伝わることがない。それがまたせつなく悲しい。
 せめて画面のこちら側で彼の(悪党から見たらつまらないだろう)誠実さを観た吾々が、それを憶えておいてやりたいと思い、ここに記する次第です。
 12/13まで、北海道から鹿児島まで14の映画館でリバイバル上映中。お安い(千円)ので余裕のあるひとは是非。

全人類必見(級)。(13.12.15)

 いきなり大きく出ましたが、ウソじゃない。
 何事につけ褒めすぎな気はある自分だが(だって褒めるの楽しいんだもん)
 観る人を選ぶなら、観る人を選ぶという。「◯◯なひと観て損なし」ならそう言う。
 『ゼロ・グラビティ』。
 観る前は「アルフォンソ・キュアロン監督のファンなら」「SF好きなら」「2001年宇宙の旅が好きで、でもあの後半の意味不明がなければなー(もっとリアルな宇宙シーンをたくさん観たい)と思ってる人に」オススメ、的な内容を想定していた。
 とんでもなかった。
 小学生から90歳のおじいちゃんおあばあちゃんまで、年齢性別国籍問わず、おおよそ地球人なら、観て損しない。
 終わってからの後づけだけれど、主人公のサンドラ・ブロックが、まるで全人類の代表で闘ってるような、異様な緊迫感なのだ。
 じっさい何回何十回、画面に向かって「がんばれ、がんばれ、がんばれ、がんばれ」と心の中で叫んだか分からない。
※ちょっとネタバレっぽくなるけど、これがまた「ひょっとしてトンでもないドジっ子なのでは」と思うくらい、次から次に不運と危機に見舞われるのです。
※ついでに一つだけネタバレを許させてもらうと、終盤に無重力空間をフラフラしてる赤くて丸いアレ(見た人向け答えあわせはコチラ)は、きっとあそこでは何かやってくれると思ってた期待どおりで笑った。
 邦題は『ゼロ・グラビティ』だけど、原題はゼロのつかない『GRAVITY』。その意味がズン!と腹に響くラストで、しばらく椅子から立ち上がれませんでした。
 3Dに越したことはないけど、無理なら2Dでもいいと思います。とにかく大きなスクリーンで是非。

      *     *     *
※9ヶ月経った現在(2014年9月)「必見」はちょっと褒めすぎかなと思わなくもない(笑)。でも、「吾々はここまで遠くにいる者まで、吾々の一員として共感できる」という人類の到達点を実感するうえでも、やはり全人類だれにでも、一度は観てほしい。宇宙というものへの、個人的な思い入れ過剰かも知れませんが…

そして目覚めると、私はこの肌寒い丘にいた〜『かぐや姫の物語』(13.12.22)

 『かぐや姫の物語』については、すでに優れた鑑賞が出ており
(たとえば、これ:「『かぐや姫の物語』の、女の物語」〜戦場のガールズ・ライフ)
自分が余計ごとをつけ加える必要はない、とも思う。のだが、逆に、キチンと筋をとおした・それ自体が物語として成立するような批評が先行して存ずることに安心して、散漫な感想をつれづれに綴ってみようと思う。

俗っぽい話
 高畑勲監督の新作『かぐや姫の物語』。ネットを眺め渡すと、興業的にはとても大ヒットとはいえない状況らしい(これについては最後に述べる)が観たひとは絶賛という感じで、逆に「これだけ事前に褒められたら感動しにくいのでは」と懸念して運んだのだが、
 まずは俗っぽい話をする。
 中盤に登場する姫に求婚する貴公子たち、そのなかに伊集院光がいて、ぜんぶ持ってかれそうになった
 彼のラジオのファンである自分は、その出演は事前に知っていて(でもアニメの声だと「これが彼だ」と判別できないかもな…)などと暢気に構えてもいたのだけれど…杞憂であった。というか喋りだす前から噴いた。火にくべても燃えない火鼠の衣を持ってくると請け合った右大臣、まず造形から伊集院光そのまんまなのであった。そして「伊集院光が平安貴族を演じたら」をアニメ化したような、いつもどおりの怪演。正直に言う。あの伊集院のためだけでも、かなうものならもう一度、劇場に足を運びたい。その出番(たぶん5分くらいだろう)だけ編集したシングルDVDが、ありえないだろうけど出たら買う。そんなにか自分。
 五人の貴族のうち筆頭に追い払われる橋爪功さんも、まあ怪演であった。そして、実際には金を出して(違うな、代金も踏み倒して)作ったニセモノの宝枝を探して獲ってきたと称して、ありもしない冒険譚を身振り手振りで騙る姿もまた、橋爪さん自身にしか見えない。
 …ジブリ映画を筆頭に、近年はいわゆるアニメ界の声優を使わず、実写俳優やタレントを声に配役する劇場作品があり、賛否を呼んでいる。批判として挙げられるのは声や演技がアニメに合っていない・集客のためにキャスティングしている、的なことであろうか。逆に褒められるときも「◯◯さんが演じてたなんて気づかなかった」が褒め言葉になりそうな感じもある。
 『かぐや姫の物語』は、いま世間の吾々がテレビや映画を通じて知っている俳優やタレントを、そのままのキャラで(造形的にも、性格的にも)アニメに登場させる逆転の発想で、そうした賛否の鼻を明かした感がある。ある意味で、えー、古い表現ですが「時代と寝る」試みなので、そのへんの面白さは今の吾々にしか分からないという危険さもある。けれど逆に
ああ、地井武男さんが動いてる、あんなに顔を真赤にして笑って、泣いて…
 最後に名演技を観られてよかったなあ
的に(※ときどき三宅裕司が憑依する)。むしろテレビじたい所有してない自分などより、『北の国から』や『ちい散歩』で地井さんに、『あまちゃん』で宮本信子さんに親しんでる人たちのほうが、この映画は絶対に楽しめる。どちらかというと愚直な感のある宮崎カントクより、高畑氏は相当したたかで戦略的・老練なひとだという印象を持った。
 そしてもちろん、主役の竹の子=かぐや姫を演じる朝倉あきさんが素晴らしい。
 いや、この人がどんな人かは知らないのだけれど、最初のいとけない子供時代から、終盤クライマックスの無言で館から連れ去られる場面まで、つまり喋らない場面まで含めて主人公の竹の子として生き生きと演じきっている。この女の子が素晴らしくて、逆にそこから映画を企画したのではと(ありえない)夢をみてしまうほどの闊達さ。躍るような笑い声が、とくに好い。

夢の物語
 ぎょっとさせられたのは、都で姫となった竹の子に付き従う女童(めのわらわ)である。
 あー、これはどうやら自分の誤読だったようなのだが、映画館で観たときは幼くて背丈の低い娘ではなく、成長してもあの背丈の、いわゆる王などに侍る侏儒かと思ったのだ。
 だとすれば、ミシェル・フーコーみたいな歴史学的意味で、この女童は貴族が人であるようには、あるいは逆に庶民が人であるようにも、いわゆる「人」ではないのかも知れないと畏怖の目で観たのである。もっとも、酒天童子の例などで分かるように昔の「童」とは年齢の少ないものを必ずしも指しはしないので(このあたりは網野善彦などをご参照ください)どうなのでしょう。ラストでの意外な振る舞いを観ても、このキャラは半分妖精か妖怪の役回りを、当時の社会で占めていたのかも知れないと思われた。
 ともあれ。
 細々した生活描写にせよ、姫に求婚する男どもの下劣さにせよ、基本的にリアリティとリアリズムが横溢する『かぐや姫の物語』だが、同時に吸引されたのは、ときどき挟まれる異形の・はっきり言えば理屈の合わない展開だ。
 求婚者の中でもとくに腹立たしくて男性としては身につまされる、蓮華の花を携えたナンパ皇子。たとえば彼を追い返す鬼のような形相の女性は誰が呼んだ、そもそも誰なのか。
 あるいは終盤につかの間あらわれる、空をとぶ夢。その夢を見たのは捨丸なのか。
 たしかに夢から醒めるのは捨丸なのだが、夢のなかでの彼の言動は、竹の子が彼に望んだそのもので、つまりは竹の子の夢なのか。あるいは竹の子の叶わぬ願いが夢となって、捨丸の心に憑依したのか。平安の時代なら、あっておかしくないことだ。昔は、誰かが夢に出てきたら、それを夢見た自分ではなく、夢に出てきた相手のほうが自分に逢いたがっていると解釈されたという。
 『かぐや姫の物語』には時折そうした夢の論理みたいなものがはたらいて、それは否定的に観る人には「どっちつかずで、キチンと筋を通してない」瑕(きず)と取られる可能性も高い。かくいう自分も正直、姫が「月に帰る」と言い出す展開には多少の飛躍と強引さを感じた。
 それを強引と取らず、さらなる深読みの契機と取れるのは、たぶん多様な物語(それはフィクションのジャンルだけでなく、それこそ中世ヨーロッパの侏儒など歴史的なことも含まれる)に親しんだ人か、そうした多様さに開かれた人だろう。
 この点で『かぐや姫の物語』は観る人を選ぶ作品、と言えるかも知れない。

夢まぼろしの生
 けれど基本的には『かぐや姫の物語』は多くのすぐれた物語同様、観る側が手持ちの札の張りかた次第で、いくらでも興趣や感情の激動を引き出せる作品だと思う。
 個人的に連想したのはジェイムズ・ティプトリー・Jr的な意味での女性SFであった。ので(亡き)中島梓氏や藤本由香里氏など少女まんが評論の論客が、この映画をどう捉えるか読んでみたい(みたかった)という感想も持った。
 ティプトリーのSF小説では、この人間世界は私の居場所ではない、いっそ宇宙に「帰り」たいという疎外感と救済を求める心がよく描かれるが、『かぐや姫の物語』は、そうはいっても宇宙に帰ることが望みではなかった!という意味で、さらに断絶や絶望感が一段深く、しいてティプトリーにこじつけるなら「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」の途方に暮れ感に近いかも知れない。
 もちろんかぐや姫=竹の子の絶望は、ティプトリーのそれとは別のもの、ではある。
 生きたくてこの世に生まれてきたのに、そうと自分が生まれてきた理由を思い出す前に、人生はレールを敷かれ望まぬ型に嵌められている。そして、やっと思いどおりの生きかたを思い出した時には、それはすでに手に入るものではなく、またそうした喪失や苦悶も含めて生きるかけがえのなさだと気づいた時には、忘却のお迎えが戸口まで来ている−。
 月に浮かぶラストショットを観たときの悲しみは、(男どもが本当にクズばっかりだという諦念同様)多様な解釈や深読みを許す作品といえど、おおむね誰もが共有しうる、この映画の「答え」のひとつだと思われる。それ、いっこ前だから!いっこ前のジブリ映画の宣伝コピーだから!と思いながらも『かぐや姫の物語』を最後まで観て頭に浮かんだのは「生きねば」というフレーズだった。

俗っぽい蛇足
 あるいは「生きろ(もののけ姫)」「生きねば(風立ちぬ・未見)」に続けて三部作にするならば『かぐや姫の物語』は「生きたかった」「生きたかったのに」となるだろうか。あるいは「生きたいと願ってはいけないのか」「生きたいと望むことは罪なのか」。
 …わざと本当の宣伝コピーに近づけてみたが、正直「姫の犯した罪と罰」というフレーズは、この映画を適切に表してはいない気がする。冒頭に記したように、大規模な宣伝や公開館数の多さに見合うだけの大大大ヒットを、本作は収めていないようなのだが、その宣伝方法が集客につながらなかった・むしろ本来なら作品を好いたであろう人たちを遠ざけたのだとしたら、惜しいことだと思う。
 しかし。大声では言えないが、すべては確信犯で「すごいヒットしますよ。こんなに沢山の映画館で公開して、それが連日満員ですよ」というのは予算を獲得して、この贅を尽くした傑作を作るための方便だったのかも知れない。いちど世に出ちまえば、少なくともジブリブランドは世に残る。自分は映画館でいち早く観てよかったと思うけど、どうせ今後ジブリの新作が作られるたびに、それに合わせてテレビで放映されることだろう。そしてそのたび、ネット上で「すごいじゃん」「初めて観たけど号泣した」などと語られることになると、ちょっと強気の予言をしておく。今のうちに観といたほうが、よいかも知れませんよ。

サンタクロース・ライジング(総集編)(13.12.24)

 今年はとくにサイトで(ココでもSide-Bでも)クリスマス的な出し物は用意してないので、昨年の今頃つぶやいた馬鹿噺を再放送的にまとめておきました。リンク先を参照:
 サンタクロース・ライジング(総集編)

サンタクロースが来るひとも、サンタクロースが来ないひとも、サンタクロースになるひとも、サンタクロースになりそこねたひとも、皆様ハッピー・ホリデイズを!
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1401  1304→  記事一覧  ホーム