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言ってはならんこと〜『チョコレート・ドーナツ』『60万回のトライ』(14.06.06)

長いうえ、文章がまとまっておらず、しかも最後は大阪の首長の悪口で終わっています。どちらかというと自分のケジメをつけるための日記なので、無理に読む必要はありません。映画そのものはオススメです。予告だけでも見てってください。

【夜中のTVでやっていた政府広報。こんなコピーでした。
 外国人だから、身体障害者だから、差別地区出身者だから、女だから、子供だからといって差別をするのをやめましょう」
 私は、自分が差別されているなんて、それまで知りませんでした。
 これによると、差別されていないのは、「日本国籍のある差別地区出身ではない健常な成人男子のみ」ということになります。
 自ずと、差別をしているのはこの人達なのだと解ります。】
(吉野朔実『眠れない夜には星を数えて』大和書房)
いや実際には差別地区出身者を差別する女性や、在日外国人を排斥しようとする同性愛者だって居るんじゃないの、という揚げ足取りは、僕にとっては(あまり)意味がない。他ならぬ僕自身が「日本国籍のある差別地区出身ではない健常な成人男子」に該当するからだ。それが今の日本社会で、どれだけ恵まれたことかは日々痛感している。そのうえで、以下の日記を綴る:

横浜のミニシアター「ジャック&ベティ」で上映終了ギリギリ前々日に『チョコレート・ドーナツ』と『60万回のトライ』、二本の映画を観てきました(後者は7月に再上映があるそうです)。いずれも
・マジョリティの無理解や偏見・差別や(暴力と言っていい気がする)圧力に晒されるマイノリティという構図で
・けれどいざ話が始まってみると、そうした被害者である以上に彼ら自身がいきいきと彼らの生きる目的を謳歌している、その輝かしさに打たれる
・けれどそんな彼らの喜びをマジョリティが圧迫していることは、やっぱり重くのしかかる、そんな作品。

 まずは『チョコレート・ドーナツ』。
映画『チョコレート・ドーナツ』予告篇(YouTube)
身寄りのない少年を養育することになったゲイのカップルの物語。パワフルでチャーミングなドラァグ・クイーンとして話を引っ張る主演アラン・カミングは言うまでもなく素晴らしい。法律家として手堅く成功を目指す相方が、最初は腰が引けていたのが少年への父性愛にぐんぐん目覚めていくさまも魅力的で、彼が恋をきっかけに遅ればせに大人になっていく成長譚として見ることも可能かと。そして、誰もがこの二人に感情移入して「この子、かわいいよなあ!」と思うだろう少年の演技。
 けれど実話に基づくという物語の舞台は1979年。アメリカといえど同性愛者への偏見は根強く、二人は親代わりとして不適格と訴えられる。
性は誰でも持ってるものでしょう?私は児童の両親の性なんかに興味ありません、経済状態のほうがよほど気になります
と証言する担任教師や、少年と面談して二人こそ親に相応しいと判断するカウンセラーなど味方も現れるが…

 一方の『60万回のトライ』は韓国出身の監督が2010年春、花園の全国大会で準決勝に初進出を決めた大阪朝鮮高級学校ラグビー部に密着取材したドキュメンタリー。
映画『60万回のトライ』予告篇(YouTube)
 長い歴史を持ちながら、日本の高校大会への出場は1994年にようやく認められたという同ラグビー部。映画は開始早々に、彼らが今まで借りていたグラウンドが市の一方的な通告で使用許可打ち切りとされる危機を描き(回避された)、例の、吾々がよく知る高校無償化の朝鮮学校除外への反対署名を募るラグビー部員たちの姿を映し出す。
 とはいえ、こちらもまた、そうした構図自体なんと馬鹿げた…と言いたくなるほど、ごくふつうの・とゆうか高校時代の自分などよりずっとコミュ力があって、真摯で、社会性のある体育会少年たちが、とにかく奮闘するさまが活写される。
 学業と部活のかたわら署名も募り、日本学校に通ってる同胞をキャンプに誘い(うまくいかない)、ラグビーで全国級のカッコイイお兄さんとして朝鮮初級学校で歓迎され小学生ズとキャッキャウフフし、北朝鮮への修学旅行ではかつて日本から帰国した人々と交流し…もう一度言うけど高校時代の自分が恥ずかしくなる活発さだ…なんてこともあるけれど、
 バックスとフォワードが対立して気まずくなったり、キャプテンが靭帯痛めて試合に出れなくなったり、頼りないキャプテン代理が次第に実力をつけたり、エースが脳震盪で試合に出れなくなったり、そのあたりはもうふつうのスポ根だ。ちなみにクライマックスで強力なライバルとして立ちはだかる常総学院のエースが「うわあ…」と嘆声が漏れる強さ。
 だもんで、こちらの映画でも、こんなに生き生きしてる少年たちが、マイノリティだからという理由で圧迫されるのが本当に馬鹿らしくなる。異性愛者で、日本国籍の日本人というマジョリティの立場でも「これは馬鹿らしいよ」と言いたくなる。試合中の怪我で花園に出られなかった大阪朝高のエースのために、後日、日本の高校の選手たちがドリームチームを組んで練習試合を行なう。高校無償化の朝鮮学校除外にあたって記者会見に連座したキャプテンはラグビーでは試合後はノーサイドで敵味方なく交流するのに、ここではサイドが、サイドでと言葉を詰まらせる。
 マイノリティだ何だ関係なしに、彼らの生き生きしていること!と単純に言えるものなら言いたい。だが、彼らを圧迫しているマジョリティが関係なしになどとは、やはり言ってはいけないように思う。仮にイジメに耐えることで成長したひとがいたとしても、いじめた者が「成長の役に立った」と言ってはいけないのと同様にだ。

 と、まとめたとこで、以下余談、というかイヤミ。『60万回のトライ』は花園への挑戦そして卒業から二年後、成人式を迎えた彼らの姿をエピローグに紹介する。大阪朝高ラグビー部の主要メンバーは二年後、大学のラグビー部で、日本選抜のユース部門で活躍している。
 一方、同ドキュメンタリーには大阪府知事・市長の橋下徹とかいう人物が出てきて、無償化除外で揺れる朝高を訪ね、歓迎するラグビー部員たち・自分たちが活躍すれば考え直してくれる可能性もあるかもと精一杯に歓迎するラグビー部員たちと笑顔で握手し応援すると言い、その同日に無償化除外を正式に決定したり
 二年連続で準決勝進出を果たしたラグビー部に大阪は勇気をもらったと記者会見で語った次の瞬間には無償化除外は当然と言い切ったりして、まるで虚言症者のようなのだが
 さて、無償化を求めて街頭に立っていたラグビー部員たちが二年後に日本の大学や代表チームとして活躍している一方、あの橋下徹とかいう人は二年間で何をして、二年後の今、何をしていると言うのだろう?

「それは私が何とかするから」〜『R.O.D TV』(14.06.09)

 映画『チョコレート・ドーナツ』追記。
 先の日記に記したとおり、また各所で評判になっているとおりチョコレート・ドーナツようやく80年代になろうという頃・まだ社会に同性愛者への差別と偏見が堂々とまかり通っていた頃のアメリカで、ゲイのカップルが庇護する者のない少年を引き取り育てようとする話である。主人公の二人が惜しみなく少年に愛情を注いで、それがカップルの互いの愛と理解も深めていく。
 思い出したのは、むかし観たTVアニメの台詞である。『R.O.D TV』という、超能力者や影の組織が暗躍するタイプのアニメ。暗躍する超能力者は三姉妹なのだが、血はつながっておらず、いわば桃園の誓いばりに契りを交わした義姉妹であることが過去の回想で明らかになる。
 廃墟のような街で、それぞれうらぶれた状態で、三人の娘は出会う。寄る辺ない者同士、一緒に生きてみないか。そう誘ない、かき口説く年上の娘たちに、もっとも幼く絶望も深い少女は悲嘆をぶつける。食べ物や衣類、住むところはどうするのだ。弱り果てた年上の娘は、なだめるように言う。それは私が、何とかするからと。
 作品自体のエスピオナージュっぽい本筋とは、あまり関係のない台詞だと思う。たぶん名台詞として一般に記憶されるようなモノでもない。けれどもそれは自分には、強い印象を刻んだ。沢山を持ってる者が、惜しみなく与えるというのですらない。自身も何も持たない頼りない者が、自分より幼く困窮した者にかけるそれは私が、何とかするからという言葉には「血の繋がらない者が家族たりうる根拠」無償の愛とか言うよりずっと人間的な、心を動かすものがあったのだ。
 『チョコレート・ドーナツ』で率先して少年を引き取る、アラン・カミング演じる主人公は自身の家賃払いすら綱渡りの暮らし。まあ相方は堅実な法律家だったりするのだが、細かな帳尻あわせはいい。ゲイのカップルが周囲の偏見や法律と戦いながら、どうにか自分たちの子供を守ろう・取り戻そうとする姿の気高さと力弱さに、何年も前に観たアニメの、たぶん誰も顧みないだろう台詞を思い出したのだ。
 ちなみに三姉妹のなかでは、ボーイッシュなのにヘタレ系の次女がとくに萌えキャラだったように記憶しています。関係ないか。

たとえ外れた予言でも〜シリーズ古典を読む『賃労働と資本』(14.06.10)

(1.古典を読む 2.マルクスの要点 3.批評の終末論 4.むすび)

1.古典を読む
 やべ、もう人生後半じゃんと思いあたって以降、わりと意識的に古典を読むようにしている。言い替えると今まで洒落にならないくらい、古典を読んで来てないのである。(まあ新しいものだって、そうそう読んではおらず、全方位的に不勉強で物知らずというだけなのだが、それは措く)
 古典を読まない理由と「やっぱ読むべきであった」理由は当然ながら表裏一体だ。
古典を読まない理由1:現代人の目から見ると古めかしく難しく読みにくそうだ
そんなことはない1:大体の場合、むしろ古典は読んで面白い
昔だって読者はいたのだ。昔のひとが読んで「面白れぇー」となったものが現在まで古典として生きているわけで、実は古典はたいがい面白い(注:極論です)。とくに小説は19世紀の終わりくらいに一旦ジャンルとして完成の域に達してしまい、もう面白くて深く考えさせもする、一番いいところまで言ってしまった→これからどうしよう→で、かえって抽象絵画みたく難しくなってしまった印象すらある(抽象絵画だって見方が分かれば楽しいものであるが、それも措く)
 そして、これは1よりは狭い=共感するひとの少ない理由かも知れないが
古典を読まない理由2:現代人の目から見ると、すでに無効な用済みの内容ではないか
哲学や思想・方法論といった分野では、しばしば「Aなんて古いと説くBの先を行くCを克服したDに引導を渡すE、ただいま発売中!」みたいな状況があって、実はそれは先達のAやBやCを積み上げたうえで更にその上に立つ営為なのに「なーんだ、E以外は無価値か」と斥けてしまう。そんな馬鹿なと言うひともあろうが、まさに自分がそんな馬鹿だったのだ。とくに自分が本を読み始めた頃は(もしかしたら、いつの時代でもそうだったのかも知れないが)文化大革命なみの古典否定の嵐が吹き荒れており−なにしろ「そもそもプラトンがいけない」という状況だった−おのずと古典から自分の足を遠ざけた。
 でも実際には
わりとそうでもない2a:実際には過去の上に積み足している。(承前)
わりとそうでもない2b:むかし問題だったことは、そうそう過去になってない。
 ニュートンの万有引力論の後にアインシュタインの相対性理論がそれを乗り越え、さらに量子力学やらヒッグス粒子やらM理論(最近どうなってるんでしょうね)やらが出てきたとしても、万有引力の法則はおおむね有効であるように。たぶんプラトンやルソーやアウグスティヌスが言ったことだって(このへんまだ読んでいませんが)いま読んでなお痛いほど分かる・現在の自分に突き刺さる問いや答えがあるに違いないのだ。

2.『賃労働と資本』マルクスの要点
 と、いうわけで『賃労働と資本』(岩波文庫)を読む。100ページくらいの薄い本で主著『資本論』への最良の入門書であるらしい。
 いちおう言うと、多くのひとと同様、何が書かれてるかはあらかじめ分かっている。マルクスといえば「労働価値説」だ。物々交換にせよ、貨幣を介するにせよ、交換とは基本的に等価交換であるはずなのに、 何処から利潤が生じ・お金が増え・世界に出回るお金や物やサービスの量が増えていく(経済成長していく)のか。人が労働したからである。元はAだった原材料が人の労働でA+になり、世界の富が少しだけ増える。Aはゼロと言ってもよいのかも知れない。それだけでは価値のなかった土地から、人が耕し播種し労働することで収穫という価値が生まれる。
「どっかの土地とどっかの土地の価格の差異を利用して儲けたり、とつぜん天然資源が発見されて豊かになるのは、
 労働とは別の源泉から生まれた価値なんじゃないんですか?」
 うんにゃ、厳密に割り算してくと価値はすべて労働から生じる。そしてその労働で生まれた価値は資本家に収奪されている。よくは分からないが、それがマルクスの結論のはずだ。
古典を読まない理由3:そんだけ分かってたら、わざわざ原典を読む必要ないのでは?
わりとそうでもない3:や、分かってるつもりでもなお、読んでみると面白い。
これは
3a:分かってたつもりで分かってなかった、ということもあるし、
3b:要旨だけ聞くのと、それが実際に説かれてるのを読むのでは説得力が全然ちがう
こともある。だいたい『スターウォーズ』や『ジョーズ』だって、要旨だけ聞いて面白いものだろうか。娯楽映画と学問は違うよ、と言われるかも知れないが、学問だって文章として書かれる・読まれることを前提に書かれるのだ。アインシュタインの特殊相対性理論の論文や、DNAの二重らせんの論文は、文章自体が美しいという。世界と立ち向かい、今まで誰も知らなかった・自分が発見した世界の秘密を説き広めようという文章には、それだけで「書き手が夢中である」というオーラが付随する。
 ましてマルクスは、自ら新聞を発行するアジテーターであった。彼は言う。
「彼は生きるために労働する」
「生命の活動を彼は、必要な生活手段を確保するために第三者に売るのである」
「彼が自分自身のために生産するものは、彼が織る絹でもなく、彼が鉱山から掘りだす金でもなく、彼が建築する宮殿でもない。
 彼が自分自身のために生産するものは労賃であって、
 絹や金や宮殿は、彼にとっては、一定分量の生活手段に、−おそらく木綿の胴着に、銅貨に、また地下室の住居に、変わってしまう」
「こうした十二時間の機織り・紡績・穿孔・廻転・建築・シャベル仕事・石割が、彼の生命の発現だ、彼の生活だといえるであろうか?
 その逆である。
 生活は、彼にとっては、この活動が終わったときに、食卓で、飲食店の腰掛けで、寝床で、はじまる」
絹を織り金を掘り出し宮殿を建てても、労働者自身には木綿の胴着・銅貨・地下の下宿しか与えられない。このマルクスの、労働と資本家への怨念の深さはどうだ。あらためて確認しておくと、マルクスのこの呪詛の背景には、当時のロンドンなどの(児童を含む)労働者の置かれていた劣悪きわまる雇用環境があった。
 要は給料とは我慢代と同じ価値観かも知れないが、給料とは我慢代美輪明宏様が説いた時と同じような凄味と気迫が、マルクス自身の本文にはある。←もしその気迫が伝わらないなら、たぶんこのような抜粋だけではいけないのだろう。少なくとも、僕はシビれた。
 もちろん一方には「そうは言っても労働自体に楽しみや、やりがい・充実感はあるだろうし、労働=給与のための我慢では虚しすぎないか」という考えがある。それも分かる。でもたぶん、その考えを突き詰めていくと、ワタミの起業者のようになる気がする。一方の極点に労働は搾取だと呪詛するマルクスを置き、もう一方の極点に労働は夢で生きがいで喜びだ(からサービス残業で過労死しても本望ではないか)というワタミ氏を置き、その両極端の間に吾々の揺れ動く労働観をその時々で位置づけることが出来ると思うのだが如何か。

3.批評の終末論
 そんなわけでマルクス、いま読んでも刺さるし面白い(賃労働の休憩時間などに読んだら、そりゃあ刺さる刺さる)。時代遅れになった部分もあるだろうが、やはり古典は読むに値する。そこの処は押さえたうえで。
 岡目八目。かつてマルクスが執筆した時代・彼の思想が熱狂的に受け容れられた時代・そして熱が冷め逆に攻撃され否定されるようになった時代からも(今はもう攻撃対象ですらないと見なしての話)遠く離れた今だから分かる、彼の限界もある。経済学の難しいことは分からない。そうではなく、文章や物語を読んだり観たり自分でも描いたり書いたりする人間として「ああ、分かる分かる(それやっちゃうんだよねー)」と感じたのは
 たぶん自分などには及びもつかないほど精緻で厳密だろう彼の分析が「こうして、こうなって、こうなるから→今の経済システムは根本的に矛盾しており、もう破綻するしかない」という終末論に否応なく達しているのを目の当たりにしたためだ。ある対象について真剣に考えると「必然的にこの対象はもう臨界点であり世界は滅亡するしかない」という終末論に行き着いてしまう、ということは物を考えるひとには、しばしばありがちなトラップなのだ。
 なぜかは分からない。塚本邦雄の有名な短歌馬を洗わば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころみたいな処が批評する人間にはあって、自分が読み解く対象になぜか「これはもう臨界」と引導を渡したがるのだ。たとえば自分の知るかぎり、
 中島梓さんは、そういうタイプの批評家であったように思われる。デビュー評論である『文学の輪郭』から『ベストセラーの構造』『わが心のフラッシュマン』『コミュニケーション不全症候群』…彼女の評論は対象を愛して憎んで愛して憎んで、愛憎するゆえに最後には対象の可能性を灼き尽くし「この先は崖だ、もう飛ぶか落ちるかしかない」という極点まで読者を連れて行くように出来ていた。『コミュニケーション不全症候群』の続篇にあたる『タナトスの子供たち』では、その否定の強さ・希望のなさに困惑(という以上の苦痛)を憶えたし、実のところ、彼女がそうして予言した世界の破滅は起こらず、あるいは起こってもなお世界は問題含みのまま続いている。
 たとえば氏のJUNE・やおい分析では現在の、大量の百合萌え女子の出現は予測されておらず「そういう方向には行かない」とさえ、されていた。現状は見てのとおりである。それはなんだかマルクスが予言した「大恐慌による世界の破滅かさもなくば全世界革命」は起こらず、いろいろ資本主義も修正され現状は生きながらえている様子に似ている。

4.むすび
 けれども、そうと分かってなお中島梓にもマルクスにも、いま読んでも人の心を打つものがある。
 これはピエール・デュピュイという評論家のたとえなのだが、このままでは世界は破滅するぞと声を枯らして警告する予言者がいて、人が「お前の予言を信じよう、その破滅を回避しよう」と協力して破滅が回避されたら、果して彼の予言は嘘だったと言えるのだろうか、という話がある。まだここですべきでない話だったかも知れない。デュピュイ自身の終末論については、いずれ改めて書こうと思う。
 言いたかったのは、
批評家には自分の愛し憎む対象を破滅の方向へ、終末論へと追い詰める誤謬がある
しかしその(結果的には誤っている)終末論だけが、人の心につけられる火があるのかも知れない
ということだ。中島梓もマルクスも、結果としては間違っていたかも知れない。だが著者を間違った終末論に導く何か・切迫感や救済への希求みたいな何かだけが、読み手に火をつけ読み手を救えることもあるのではないか。少なくとも、マルクスが150年前につむいだ労働者収奪への憤怒の言葉は、笑顔でシステムへの奉仕を説く収奪者に対して今でもメラメラと燃えている。
 そして、その火や救済はきっと、要約だけでは伝わらない。なので今から見れば「外れた予言」も多いだろう古い書物を、これからも読んでいこうと思う。年内にはプラトンも一冊くらいは読んでみたい。って、文章のノリだけで今こうして宣言しちゃっていいのか自分。(ヤブヘビになりつつ、この項おわり)

プラトン年内に一冊は、果たせませんでした(神田の古本市で買うまでには至ったのですが…)

同性婚は憲法違反か?(14.06.14)

 標題とは9割がた関係ないのだが、先日「機械なり何なりが長時間ヒトと会話して、ヒトが相手を機械だと認識できなければ(相手もヒトだと信じえたら)その機械なり何なりは『知性』を持つと言える」というイギリスの論理学者チューリング(1912〜1954)の定義による「チューリング・テスト」に世界で初めて合格するコンピュータが現れた、というニュースがあった。
史上初のチューリングテスト合格スパコンが登場、コンピュータの「知性」を認定(GIGAZINE)
もっとも、その直後から「あれはパスしたとは言えない」という反論も出ており
史上初のチューリングテスト合格スパコンはテストに合格していないと著名な専門家が指摘(GIGAZINE)
最終的な判定は今後待ちだが、もし合格ということになれば、チューリングの没後60年にあたる2014年6月8日は、クローン羊ドリーが生まれた日と同様、100年後・200年後の歴史に残る日になるかも知れない。
1:そのとき「歴史」がまだ人類のものである保証はないが、と言わずにおれんSF好き(笑)
2:などと言いつつ、ドリーの誕生日など憶えてはいないのですが。
とボケつつ、ここからが本題。話は舟八艘ぶんくらい飛ぶ。
 もしかしたら歴史を変えるかも知れない、ある動きが日本でも起きている。青森の女性同士のカップルが、市役所に婚姻届を提出・市役所は結婚は「両性」の合意に基づくという日本国憲法24条第1項の規定を根拠に不受理としたのだ。
 市は「日本国憲法第24条第1項により受理しなかったことを証明する」旨の書類を公式に発行、婚姻届を提出したカップルは性的少数者の存在に目を向けてほしい、婚姻制度を使えない人がいることを知ってほしいと思い提出した。不受理の判断が出たここからが始まりと声明している。
 僕は同性婚の合法化に賛成だ
 周知のとおり、あるいは各自で確認していただけば分かるとおり、同性のカップルには男女のカップルなら結婚によって得られる法的なメリットが許されない。その障害は相続のことから、パートナーがたとえば危篤のとき「家族」ではないから立ち会うことさえ出来ないなど、多岐に渡る。それでもパートナー間で法的権利を確保したいと望む同性のカップルは、養子縁組の形を取るなどしか方法がないという。日本の現行の法律では。
 フェアではない。
 件の憲法による婚姻届の不受理については、ネット上で、そもそも「両性」とは男と女の一対だと言い切れるのか、という議論も出ている。むしろこんな時こそ「解釈改憲」で同性でも二人いれば「両性」と見なせばよいという(今の解釈改憲による集団的自衛権正当化の詭弁を皮肉る)声や、逆に「両性」を男女と決めつける自体が「解釈」にすぎないと主張する声もある。
 僕は法律の解釈については素人なので、分からない。ただ、同性婚に反対する人が「憲法で規定していないから」=憲法で禁じているから、と憲法を根拠にするとしたら、それは変な話だと思う。そもそも憲法とは国民に対する国の恣意的な権力行使を制限するものであり、また現行の日本国憲法は個人の自由の尊重をとくに基本理念としているからだ。
以下、あまり厳密でない喩え】言うなれば
「資源枯渇・環境破壊の危機を克服すべく省エネを推進する」を基本理念とする憲法が
「そのため蛍光灯の使用を励行する。白熱電球の使用は、これを最小限度とする」と定めているのに、
さらに省エネなLED電球が出てきたとき
「憲法でLED電球の使用は明言されてないから違法」はおかしいだろう。それは同じ解釈や改憲でも、ひるがえって白熱電球の使用範囲を首相の判断で広げるのではベクトルが違う。
厳密でない喩え終わり
 今は結婚「式」だけならば国内にも、お寺でも教会でも、ディズニーランドでも受け容れるところがあり、結婚式まで夢のまた夢という時代ではない。以前は同性で式を挙げたければカナダなどの外国にでも行くしかない時代があり、さらに以前には可能性すら考えられない時代があった。それを変えようと強く願う人たちが動きを起こして、まわりに賛同する人たちがいて、徐々に常識は変わってきた。
 今回の婚姻届提出の件も、当事者が「前に進めるための一石」と自認した、肚の座った行動である。もちろん、だから捨て石になっていいというものでもない。
 市役所としては現行のシステムの中では、にわかに受理できるものでもなかったろう。それも分かる。というか、それは今後、変わっていけばいいのだと思う。

 ただ「今後」とか暢気に言うてる今も、不平等に苦しむ人たちがいる。それは忘れていいことでない。最初にチューリングテストの話「9割は関係ない」と書いたが、書き始めた後で思い出した。チューリングは同性愛が違法だった時代に告発・逮捕され、さらにスパイの疑いをかけられ自殺したのだったと。
 あまり新味のない日記かも知れない。他の皆も言ってることで、たいして発見も独創性もないよと自分でも思う。ただ、賛成と声を出すことが、ほんの少しでも状況を変えることにつながるなら、及ばずながら声を出したいと形にしてみた。僕は同性婚の合法化・同性のパートナーに異性と同じ法的な権利が確保されることに賛同する。エゴイスティックな言い方をさせてもらえば、僕は賛成の組の船に乗っていたい。結婚したい人たちが結婚できる、素晴らしいことじゃないか。

そのうち消えるべきメニュー〜今柊二『かながわ定食紀行』+α(14.06.17)

 ウナギの話ではない。ウナギもそのうち食べられなくなるだろうし、逆に昔からの老舗を極力残していく方向で、チェーンの牛丼屋やスーパーで安いウナギを出すのやめる・こちらも食べるの諦めるべきだと思っているのだが、ウナギの話ではない
 先月、同人誌即売会参加のため大阪に出向いたついで、一日たっぷり時間を取って歩き廻った。前々から行ってみたかった鶴橋のコリアンタウンでホルモン焼きを食べ、キムチを買い、そして日没ごろ堂島のオフィス街へ。川沿い、いやリバーサイドと呼びたくなるような洒落た喫茶店「パウゼ」で夕食にいただいたのが…
 トルコライスなる洋食。もともと長崎でカレーピラフにトンカツとスパゲティを盛り合わせたプレート料理として栄えたものが、なぜか飛び火+変容して、横浜ではケチャップ色のピラフにトンカツを載せた料理、そして大阪でも独自の発達を遂げた。
 というのは神奈川新聞での連載をまとめた今柊二かながわ定食紀行』(かもめ文庫)で知ったことで、題名のとおり神奈川のB級グルメを題材にしながら、著者の今氏、「横浜にもあるトルコライスが大阪にも!」ということで、同書で二度に渡り出張レポートを書いておられたのだ。

 実は2010年と11年の二度に分け、自分も足を運んでいる(笑)。
 一軒目は下町・九条の昔なつかしい感じの食堂「ゼニヤ」(2010年5月)。鉄板カレーピラフに、豚肉のカレー粉炒め卵とじと生玉子をトッピングした、他と比べると独自路線のトルコライス。
 二軒目は住宅街・千日大宮の「イスタンブール」(2011年5月)。とろふわオムライスのデミグラスソースがけにカツのトッピング。訪ねたのが、ちょうどテレビで紹介された直後で大行列に往生したのも思い出だが、もしかしたら、それでブームに火がついたのかも知れない。現在、大阪に「イスタンブール」タイプのトルコライスを供する店は何軒もあるらしいのだ。
 ネット検索で見つけた「パウゼ」は、その中で、デミソースでなくカレーソースが、オムにカツにかかる変わり種。そして店の入り口には

 その後も続いてる神奈川新聞の連載で、今さんが足を運んだ旨の記事が。わはは、当然のように先を越されていた。
 しかし豚肉をメインにしたメニューが「トルコライス」なのは、やはり好いことではないのだろう。すでに長崎のほうのトルコライスが、かの国の方々から難色を示されているという。正直、いらぬ摩擦は払拭するに越したことはないので、早々に改名されるべきだと思う。たとえば金沢にある洋食「ハントンライス」が、非なるが似てなくもないメニューなので、それをもじって「ハンシンライス」…いや、それじゃ長崎が黙っていないか。公募とか、どうでしょうね。

後記:武生(福井県。十年間「福岡」と誤記してたけど福井県。)で御当地メニューとして盛り上がりつつある「ボルガライス」が、形状として関西風トルコライスに酷似している気がする。伝統やらプライドやらあるのだろうが、最終的にこちらの名称に統一というわけにいかないのだろうか。

東江一紀氏を追悼する(14.06.21)

 翻訳家の東江一紀さんが食道ガンで亡くなった。死の直前まで仕事に打ち込まれていたという。62歳。早すぎる。呆然としているファンのかたも少なくないだろう。僕もその一人だ。
 伝わった訃報では「ネルソン・マンデラ氏の自伝の翻訳など…」と紹介されていたが。かつてグローバル経済とローカル文化の葛藤を説き明かす『レクサスとオリーブの木』という本を買い求めたら訳者が東江さんで「こんな仕事もしてるんだ」と思ったこともあった。(仕事の両輪としてどちらも大切にされてたと後日、知ることになる)
 けれどやっぱり、東江さんといえばドン・ウィンズロウ作品の翻訳だ。その主人公ニール・ケアリー花の都に男児あり。齢二十歳にして心朽ちたり(李賀)。貧困児としてストリートに育ち、興信所に拾われた少年ニールは文学研究者を志しながら、生きるため教えこまれ開花させた調査の才能ゆえ、探偵稼業から離れられない。才能といっても、それは書類をシュレッダーにかけたから安心?ゴミ袋を漁って、裁断された紙をつなぎあわせるくらい朝飯前ですよというたぐいの、卑劣で汚れた才能だ。
 同じように文学研究を志しながら大学を諦め、生きるため探偵にならざるを得なかったコーデリア・グレイ(P.D.ジェイムズ女には向かない職業』)よりずっと有能で口が達者な、けれど同じく傷つきやすい心を押し隠した、いわば魂の従弟。
 そのへらず口に隠した繊細さが、読む者の胸をキリキリ締めつける『ストリート・キッズ』。そして一転、謎に押し流されるまま中国奥地まで連れ去られてしまう『仏陀の鏡への道』の驚愕の展開。
 それはドン・ウィンズロウが、ニール・ケアリーが好きなだけと違うのか。そうでもあるが、そうではない。ドン・ウィンズロウの闊達な語り口も、ニール・ケアリーのナイーヴさも、火中で栗をわしづかみするような、東江氏の訳でこそ血肉を得たのだと思う。ニール・ケアリーの決め台詞ファック・イエス決まり◯◯と訳せたひとが、他にいただろうか。個人的には、東江さんのだいじょぶも大好きだった。命を狙われた少年が、髪の毛一本の差で助かるような危難に巻き込まれ、大丈夫かと駆け寄った主人公に、口ぽかーん状態で答えるだいじょぶ
 翻訳の遅れをネタにされながらも、ニール・ケアリー・シリーズが無事完結し、ドン・ウィンズロウと東江さんの訳から何年か離れ、また数年ぶりに読み出した処だった。中米・合衆国間の凄絶な麻薬戦争を題材にした『犬の力』『野蛮なやつら』。ドン・ウィンズロウは、より凶暴で血の味の濃い新たなステージに立っていた。もちろん訳は東江一紀。元々そう沢山の本を読める自分ではない。その狭く、たぶん残り割り当てもそう多くはない「これから読む本」の中で、ウィンズロウの開こうとしてる新しい世界は、やはり追いかけて行こう。そう思った矢先の訃報だった。

 部屋が片づかないもので、『仏陀の鏡への道』が本棚の中でにわかに見つからず(それで追悼文書いてんのかよ!)、本文を参照することができない。なので正確な引用が出来ないのだが、怒涛の展開で中国に拉致られたニール・ケアリーが(当時の同国の状況では許されないことながら)(それで思い出した、第一作『ストリート・キッズ』はアメリカの若造探偵ニールが仕事でロンドンに飛び、現地でパンク・ロック誕生の瞬間に立ち会うのだ)(話が逸れた)
 当時の中国の状況では許されないことながら、英文学が大好きという中国人青年と行動を共にすることになり『ハックルベリー・フィン』の話をするエピソードが大好きだ。あれがどういう話か知っているのか、問うニールに中国人のガイドは知ってます、権威に反発し自由と己の信念を貫く云々ですよねと教条的に答える。すると違うとニール・ケアリーは諭すのだ。あれは筏に乗って川を下ろうぜって話だよ
 …たぶん、上手く伝わらないだろう。ニールがどんな思いでそれを言ったか。ともに文学を志しながら阻まれている異国の仲間に、何を分かってほしかったのか。
 彼の訳したドン・ウィンズロウを読んだことのない、読んでも夢中になったことのないひとには、一部の人間が今どんなに苦しい、悲しい思いをしているか、ピンと来ないかも知れない。でも一部の人間は今夜、青春や人生の一部を葬るような、血と髄が詰まった骨を一本、もぎ取られたような、ひどい喪失感に襲われているのだ。
 もし当人に届くなら、もちろん「今まで本当にありがとう」と伝えたい。しばらく離れていて申し訳なかったとも。無念なのは本人が一番だろう。でもやっぱり、あなたをそっち側に持っていかれるのは早すぎたし、とても悲しい。もうこちら側で決まり◯◯だいじょぶも聞けないことが。落胆しているファンの皆様には、改めてお悔やみ申し上げる。僕も悲しい。とても、とても悲しい。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1407  1405→  記事一覧(+検索)  ホーム