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本を読め。いいから読むんだ。〜読書週間2016(2016.11.01)


今年は出遅れました。そしてこんなポンチ絵…

 ミシェル・フーコー『性の歴史III〜自己への配慮』(田村俶訳/新潮社)を読んでいる。古代ギリシャ・ローマ社会を舞台にした前作『II〜快楽の活用』(自サイトでの感想はこちら)では伸び盛りの若者があふれる精力をコントロールし有効に活用することが、主人として家庭を・支配者として社会を運営することと同列に捉えられ推奨された事情を描いたのに対し、本作では「(下品な言い方になりますが)溜めすぎても身体に悪いし、出しすぎても虚脱する」弱い自己への配慮として性のコントロールが推奨される、時代の微妙な変化が示唆されている…ようだ。それはそれとして、本書を88頁目まで読み進めたところで「あっ」と思った。

…お前、お前ーっ!!先月の日記で書いた、ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』でサッパリ意味不明だった謎単語ヴォルプタス
 きらびやかで美しく、そしてサッパリ意味が分からない。
 〔ヌーメン〕て何?〔ヴォルプタス〕って、〔器官なき身体〕って何??
 再挑戦してみた。やっぱり、よくは分からない。
 ヌーメンて何だ。ヴォルプタスも器官なき身体も、相変わらずサッパリ意味不明だ。
(先月の日記より)でおなじみの、あのヴォルプタスに、こんな処で再会するとは。やっぱりドゥルーズとフーコー、仲いいな?
 分からんものも色々読んでるうちに分からんまでも親しくなる・読書は孤ならず((c)池澤夏樹)なんてことを思ったりするのでした。そうか逸楽か。まだよく分からんが。

 お金より大切なものはない、なんて言うひとがいる。理由を聞くと(いや、訊かずとも向こうが勝手に吹聴するのだが)お金で買えないものはないから、と言う。
 でもそれはお金で買えるアレやコレやに価値があるのであって、お金じたいは逆に一番つまらんとも言えるわけだ。お金で買える事物(健康や命まで含まれる)を軽んじてるわけではない、そうした事物が買えるなら、たしかにお金は大切だ。だが、それは「いざというとき価値のある事物に変えられる」可能性の大切さ・ありがたさで、お金そのものに価値があると取り違え、お金そのものを崇拝し愛でるのは逸脱というものだ。
 本も同様で、積み上げた蔵書は「いつでもこれを読める」可能性の価値であって、その価値は読んで初めて意味を持つ。でも積み上げた本そのものに価値があると取り違え、威張るひともいる。「お金より大切なものはない」「お金で買えないものはない」と豪語する人と、積ん読を誇る人は、どこか似ている。

 もうひとつ。身銭を切って買った本でないと、(教養は)身につかないなどと説教する人が時々いる。若い人はそんな寝言、真に受けなくていい
 本を買えば著者や出版社・出版業界が潤う。それは本当だ。
 出版業界が潤えば、もっと沢山、いい本が出るかも知れない。それも正しい。
 逆に本を買わなければ、著者や出版社・業界は干上がる。それも確かだ。
 本を買うべきだと、もっと読みたければ買うべきなのだという訴えには心を留めるべきだろう
 (そういう風に言う人たちが、たとえば買う側の最低賃金を1500円に上げろといった訴えに概ね冷淡で無関心なのもどうかと思うが)。
 けれど、身銭を切って買った本でないと、(教養は)身につかないは真に受けなくていい。本を買わせたいがためのウソならば、そんな脅しみたいなウソに耳を貸す必要はない。もしそのひとが本を買うのが好きで・あるいは本をもっぱら買う人生を送ってきて、そんな自分を肯定したいがために、自分のような生き方だけが正しいのだと主張してるなら、その人の誇る教養なんざ、たかが知れている。
 真に受けなくていいのだ。
 なんなら、大英博物館の図書室にこもって『資本論』を書いたマルクスに訊いてみるといい
 それで足りなければ、同じ大英博物館の図書室で本を読みまくった南方熊楠も連れてくればいい
 さいきん知ったのだが、コリン・ウィルソンも同じ図書室で本を読みふけって『アウトサイダー』を書いたのだそうだ

 もちろん、買って手元に置きたい本は、買えばいい。新刊を定価で買えば、著者も出版業界も潤う。なんなら新刊を片っ端から買っては積み上げ、読まずに死蔵してる人のほうが、世の経済を潤しているのかも知れない。
 だが読書週間くらい言ってもいいだろう。本は読んでこそだ。身銭を切る切らないは関係ない。読んだ本だけが教養になる。
 言い替えれば、本は読ませてこそだ。図書館なのに本を貸し出す利便を没優先にして、壁面に本の模型をしきつめ美しいだろうと誇る、そんな施設は滅びればいい…と呪うまでもなく、そうした施設はすでに命の鼓動を失なっている。
 読めない本の敷き詰められた伽藍より、ひと一人にとっては、その小さな掌の上で開かれた一冊の本のが大事に決まってる。いいから本を読め。本当とウソを見定めるために、読むのだ。

地上でもっとも高貴なものは〜オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(2016.11.09)

詩人のリルケがアポロンの像を眺めたとき、アポロンは詩人に語りかけました。
お前は生き方を変えねばならない
(アーシュラ・K・ル・グィン『夜の言葉』)

 社会は貴族的「でなければならない」なんて私が主張してると思ったら大間違いだからな。『大衆の反逆』で著者オルテガ・イ・ガセットは言う。私に言わせれば社会とは本質的に貴族的なもので、貴族的じゃなければ社会じゃないくらいなんだぜと。
 そんなオルテガ、自ら「歴史を徹底的に貴族主義的に解釈することで知れわたっている私」と名乗って誇らしげですらあるオルテガだが、彼の言う「貴族」とは吾々がふつうに連想するソレではない。先代が成し遂げた偉業にあぐらをかき、遺産を食い潰すだけの貴族階級は、彼の思い描く「貴族」から最も遠い「貴族主義の腐肉」にすぎないのだ。

シリーズ・古典を読む
 逆に「このへん読んでなかったの?」と怒られそうだが、『大衆の反逆』(寺田和夫訳/中公クラシックス)。今はちくま学芸文庫で出ているようだ。金色の表紙の角川リバイバル文庫で登場したこともあり、古書店などでも手に入れやすいと思う。むろん図書館で借りてもいい。読まれるに値する本だ。
 1930年の著作だが、驚くほど読みやすい。著者の「あやまたず理解されたい」という気迫がみなぎる丁寧な語りは文章そのものが面白いし、おそらく30過ぎたひとなら学識や教養というより社会経験や世間知で納得しながらスイスイ読める。それでいて「騙されてないかコレ、乗せられたらヤバい処に同意させられてないか」と怖い気分にもさせられる。とっつきやすいが危険な書物でもあった。
 そもそも題名から想像されるような内容ではない。自らも大衆でありながら大衆を蔑視するのが大衆の特徴、などと(また)大衆を蔑視する言い方があるが、同書はそうした特権的なポジションを読者に許さない。
 すでに見たように、貴族階級ですら腐肉扱いなのだ。多少なり恥を知っている人間ならば「今日の平均人は必要なものをすべて自分が持っていると慢心し、聞こうとはせず裁く側にまわる」「理由を述べて人を説得しようとせず、相手が何を考えているか調べようともせず、ひたすら自分の意見を押しつける」という痛罵を受け「自分は違う」とはいえないだろう。「自分がクズじゃないと慢心する奴こそクズだ」と言われて反論することは難しい。汚いトリックとも言えるが、それを駆使して著者は読者を「許さない」ことに全力を尽くす。
 なぜか。彼は今ここではない先に読者を導きたいからだ。「自分は著者のおメガネに叶っている」と慢心させず、彼が目指すさらなる高みへ読者の注意を向けたいからだ(と、勝手に考える)。それは何処か

 それを知るために、まずは彼の大衆批判をまとめておこう。その主張は大きく二つに分けられる。
1)過去の伝統や教養と切り離された者はみんな大衆で救いがない。
2)創業者の遺産で食べてる者はみんな大衆で救いがない。
 1については割愛する。芸術など分かりもしないのに劇場を満員にするお前らは何だ?と罵倒するオルテガは、彼のいう芸術ですらなさそうなロックコンサートやサッカーの試合で劇場どころかスタジアムが満員になる現状を見たら失神するかも知れない。
 興味深いのはだ。オルテガ自身は使ってない言葉だが「イノベーション」という言葉がある。大衆や貴族といった誤解されやすい言葉を排して言えば、彼が主張しているのはイノベーションをその場で生み出してる階層・世代だけが貴いということだ。
 彼は基礎科学の重要性を説く。自分たちでは作り出せない自動車やアスピリンをただ成果として享受する層を、彼は大衆と呼ぶ。
 彼は市民社会が議会制や民主主義を「発明」した時代を称揚する。その成果として得られた民主制を既存の、当然の権利として主張する世代を、彼は大衆と呼ぶ。
 最初に戦功をあげ領地を征服し支配を確立したイノベイターだけが彼の言う貴族で、その利子で生きる後続者が貴族の腐肉であるなら、現代に生きる吾々は(彼自身はこうは言っていないが)先達が成し遂げた科学革命・市民革命の精神的遺産を食い潰す近代の腐肉なのだ。
 しかし重要なのは、かようなイノベーション主義・大衆を蔑視するエリート主義が「しかるに民主主義ほど気高い人類の達成はないという宙返りのような結論に帰着することだ

 古代ギリシャ・ローマ世界でオルテガが「たった二人の秀でた人物」と賞賛するのはテミストクレスカエサルだ。テミストクレスについては、名前以外は語られていない。彼のカエサル讃を見よう。
カエサルの解決策は、保守主義者の解決策とは全然逆である。それまでのローマ(中略)を正すためには、
 ローマの背負った激しい運命を徹底的に受けいれ、征服を続行する以外手のないことを彼は理解した」
 すでに爛熟し旧弊化した東方オリエントで既存のシステムに乗り、既存の王に取って代わるのでなく、今後あらたな脅威となりうる西方ガリア世界の征服をカエサルは選んだ。そのイノベーションは異民族をローマ化・文明化することであり、逆にいえばローマの文明や理念を異民族にも及ぶものとして拡げることだった。
 同様に著者はアラゴンとカタルーニャが融合してスペインとなったことを祝福する。イングランドとスコットランド、アイルランドが融合してグレートブリテンになったことも彼の良しとすることだろう。逆にいえばアーリア人だけが優生民族で他の劣等民族を支配するだけの第三帝国を、彼はおそらく認めない。外国人の観光客にワサビ大盛りの寿司で嫌がらせする国民などはもってのほかだろう。
 彼は言う。
文明はなによりもまず、共同生活への意志である。
 他人を考慮に入れなければ入れないほど、非文明的で野蛮である。野蛮とは、分解への傾向である。
 だからこそ、あらゆる野蛮な時代は、人間が分散する時代であり、
 たがいに分散し敵意をもつ小集団がはびこる時代である」
 彼の主張を敷衍すれば、民族や集団は孤立していてはいけない。異なる集団・異なる文化が融合し、融和すればするほど前進したと言える。アラゴンとカタルーニャからスペインへ。ヨーロッパ諸国からヨーロッパ共同体へ、そして世界へ。国家は、世界史は、そういう方向と目的を持っているのだという著者の信念は、読者をたじろがせ恐怖させる処がある。
 にも関わらず「他人を考慮に入れ、共に生きよ」という著者の諫言は胸を打つ。
 そこから必然として導き出される次の一節は、本書の最も美しい部分だろう。
政治的に共存への意志がもっとも高く表現される形式は、自由民主主義である。
 それは、隣人を考慮に入れる可能性を極限まで推し進めたものであり(中略)
 最強者、多数者と同様には考えず、また感じもしない人々も生きていくことができるように(中略)
 たとえ犠牲を払ってでも、余地を残しておくことに努める政治的権利の原則である」
自由主義は−今日、次のことを想起するのはたいせつなことだ−最高に寛大な制度である。
 なぜならば、それは多数派が少数派に認める権利だからであり、
 だからこそ、地上にこだましたもっとも高貴な叫びである。
 それは、敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する

 1930年代に『大衆の反逆』を著したオルテガが、アメリカという国にほぼ期待しなかったのは、その歴史の無さを回復しがたい欠陥と判断したからだった。彼の目には新興の経済国アメリカは基礎科学が根づかない技術の国と見えたのだろう。
 現実にはアメリカは20世紀後半のイノベーションの牽引者となった。科学だけではない。あまたの移民を受けいれ人種間の平等・男女の平等・LGBTまで「国民」が示す意味を絶えず拡張しつづけている点で、またアメリカ的な民主主義を世界に広めようという拡大の意思において、かの国こそは現代のカエサル≒オルテガの指さした国家や世界史が向かうべき方向の体現者ではなかったろうか。
 (その拡大主義が世界にもたらした惨禍・弊害はオルテガの目的をもった国家観・方向性のある世界史観のもつ危うさの体現であるとも言える)
 だがそのアメリカも、オルテガが期待したヨーロッパ統合の理想も、急速に潰え、崩壊の危機にさらされている。先に紹介した『大衆の反逆』の自由主義論が次のようなペシミズムに引き取られるのを見る時、彼はやはり人々には期待しないと決め、心底世界に幻滅していたのかという悲しい疑いが頭をよぎる。
「人間という種族が、これほど美しい、これほど逆説的な、これほど優雅な、これほど軽業に似た、これほど反自然的なことを思いついたとは、信じがたいことだ」
だからこそ、この同じ種族がじきにそれを捨ててしまおうと決意したからといって、驚いてはならないのである。この地上で確立するには、これはあまりに困難で複雑な制度である
 それでも、この嘆きは1930年代に書かれたものだ。これから来る分断・彼が言う「非文明的で野蛮」な分断は、彼のスペイン・彼のヨーロッパを蹂躙したものに匹敵するか、それよりも酷いものかも知れない。けれどその後の数十年には、彼が想像もしなかったような(科学的な、そして社会的な)イノベーションもあったのだ。
 あきらめてはいけないと言うのは簡単で、ある意味で安易だ。けれど言うほど容易くないことは承知のうえで、あきらめてはいけない。「最強者、多数者と同様には考えず、また感じもしない人々」それは最初は、直接に吾々ではないかも知れない。吾々ではない人々に加えられる分断や抑圧に鋭敏であれるか。
 本は、書物は、物語は、鋭敏であれと絶えず吾々の目を覚まさせるだろう。あるいは願う。本や物語との出会いは、そのようであるようにと。とってつけたようですが(実際とってつけたわけですが)読書週間が終わっても、よい読書の日々が皆様に続きますよう。

誰がそのシャツを縫うのか〜アントン・コービン監督『誰よりも狙われた男』(2016.11.12)

(レナード・コーエンまで向こうに行ってしまい、すごく凹んでいます)
(それとこれとは関係ないのですが、2015年2月…ISによる日本人人質事件が最悪の結末となった頃、当時はあまりに生々しくてドアの外に出せなかったメモを久しぶりに読み返し、ほぼ原文のままサルベージすることにしました。この陰鬱な文章が、当の映画を観る人を増やすことに貢献できる気はあまりしないのですが…)
  *   *   *
 池袋の名画座でジョン・ル・カレ原作の映画『誰よりも狙われた男』を観てきました。ロードショー公開は昨年(2014年)11月。急逝したフィリップ・シーモア・ホフマンが主演した最後の作品で、監督はアントン・コービン。写真家としてデペッシュ・モードやU2などのアートワークを手がけ、また独自の(いびつな?)美しさをもつミュージック・ビデオ※を数多く作ってきた彼の劇場長篇が→
※たとえばこんな感じ:人の(男女の?恋人同士の?)分かり合うことの不可能性を無言劇のように描くマーキュリー・レヴ「Opus40」(Youtube)

→幻想性を完全に廃したリアルな諜報もの(エスピオナージュ)なのは意外でしたが、地味なものを地味なまま美しく捉える(山ほどの資料とメモが乱雑に積まれたデスクが絵になる、みたいな感じ)映像はさすがで見飽きない、とは先入観・贔屓目・プラシーボ効果のなせる業ですね、はい…。
 物語の舞台は9.11直後のドイツ・ハンブルク。ロシアでの迫害から逃れ、不法入国してきたチェチェン人・ムスリムの青年。迫害逃れは口実で、本当はテロを目論む過激分子ではないか…と監視を始めた対テロ秘密チームのリーダー(ホフマン)は、主イエスと同じ「イッサ」という名を持つこの青年を生贄の山羊に、さらなる大物を釣り上げようとする。
 (これも贔屓目かも知れないけれど)冷徹に抑えた気迫を演じきるホフマンを観ると切なくなって、役柄だし演技なんだけど煙草とかやめて…と思ってしまうのだが、その行動自体は悪辣で酷薄。人権派の若手弁護士や、善意の銀行家(ウィレム・デフォーがまた実に好いです)の弱みをえぐり、恫喝し、言うことを聞かせる。けれどその真意は…というストーリーで。

 以下、映画には何の責もない、勝手に結びつけた政治の話になる。
 同作を観ながら思わずにいられなかったのが、最悪の形で収束したイスラム国(IS)による人質事件のことだ。湯川遥菜・後藤健二の両氏に加えヨルダン人パイロット・カサスベ氏も殺害され、ヨルダン政府は囚えているISメンバーをこれから次々処刑すると報復を宣言した。
 むろん今回の誘拐・殺害に認められる正当性などない。彼らがとった行動は(綿密な計算に基づくというより)残酷と場当たりの混合に思われるし、そのほか伝えられる数々の蛮行に対しても共感や同情の余地はない。加えて言うと「イスラム国」を名乗る彼らと、大多数の平和に暮らすムスリム(イスラム教徒)は別のもの・むしろ後者こそ前者の最大の被害者であり、両者を混同したバッシングや排斥も厳に慎まれるよう注意しなければならない。
 こうした当然のことを踏まえたうえで−たぶん多くのひとが賛同せず怒るだろうし、僕じしんも間違ってるかも知れないと半分あやぶんでいることを言う。
 彼ら(IS)を共感も共存も不可能な絶対悪と規定し、いくらでも嫌っていい・憎んでいい相手とすることに落とし穴はないだろうか。
 今回の事件にあたっては、ISが公開した人質の写真を自ら「クソコラ」と呼ぶような嘲笑をもってコラージュした画像がネットに投稿され、それをテロなど鼻にもかけないという意思表示と評価する声もあがった。また、日本が中東各国に支援を約束していた2億ドル※追記参照と同額の身代金要求に対し「2億ドル払って、けれど他の国にさらに2億ドル払ってやればいい」という発言も目にした。こうした意見は「人質は自己責任だから救出する必要はない」とか逆に「日本政府は軍事行動で報復すべき」といった意見よりは穏健に見える。だが、そうした穏健そうな意見すら、テロリストにギャフンと言わせたい・突きつけられた悪意や嘲弄に報復したいという感情が、人質の救出のために必要なことを考えるより優先した結果ではなかったか。
 僕はそれは、人として自然な反応だと思う。心理的な脅威やダメージを押しつけられれば、人はもう物理として感情反応を返さずにはいられない。ただ嘆き人質の無事を願うのも、テロリストを憎悪し嘲弄し返したいと思うのも、逆に日本の現政権の不手際を責め国会前に詰めかけるのも、(半分は最善を考えた計算のつもりであれ)半分は感情の発散だ。そうしないと、自分がダメージで潰れてしまう
 だがそのうえで、最初から挑発に挑発で返そうとした人の多かったことに、僕は若干の不安を憶える。非常に悪辣な・死者に礼を失するかも知れない言い方になるが、挑発に対し「クソコラ」を送りつけた人たち・それを評価した人たちは、相手はその気になれば本物の死体を投げ返してこれると本当に理解していたのだろうか。
 ISにパイプがあるとされる日本人イスラム研究者の「身代金を払うが、中東で一定の尊敬を得ている赤新月社(赤十字社の中東版。十字がキリスト教のシンボルであるのに対し、ムスリムのシンボルとして月を象る)がIS支配地域で人道的活動を行なうための援助の形を取る」という提案は、今回の事件でなされた数少ない妥当で実現可能性のある提案だったと僕は思う。だが多くのひとは目立ちたがり・あるいはISの手先として彼自身もろとも、その提案を斥けた。

 もう一度まとめると、挑発にたいし挑発で、悪意には悪意で反応するのは人として自然なことだ。それを政府が公式見解としてやれば大変なことになるが、冷たい言い方をすれば「たかが個人」が意見として表明したところで、単体レベルでは何ごとかを大きく動かすことは(あまり)ない(いわゆる「クソコラ」が相手方の目にとまり、余計に態度を硬化させることはありうる)。
 また、実際に相手は交渉可能な相手だったかと問われれば正直「どんな交渉不可能な相手とでも交渉しなければならないのが現実だろう」と言い切る自信は僕にもない。サリン事件前夜のオウム真理教(※)と、あるいはカンボジアで粛清を繰り広げていたクメール・ルージュと、彼らISは同等のものではないのか?
※ただしこのようにオウム真理教を絶対悪とすることについても、たとえば森達也氏の辛抱づよい理解の試みを知る以上、留保せざるを得ない。
 そのうえでなお、相手がどんなに残虐で悪辣でも、たとえ救出の可能性が限りなくゼロに近くても、誰かが泥を飲むように交渉にあたらなくては、人質の救出の可能性はゼロなのだ。ISの挑発に挑発で、嘲弄に嘲弄で返していた人たちは、そうして自分たちは相手を拒絶しても、政府や外交の誰かは泥を飲んで交渉にあたってくれているとでも思っていたのだろうか。あるいは最初から人質は帰りっこないと思っていたのか。それとも何も考えていなかったのか。
 全力で人質解放のため努力するかのように宣言していた政府は、そのじつテロリストに接触さえしていなかったと自らコメントした。湯川・後藤両氏の拘束後すぐに設けられた外交チームの士気がいちじるしく低かったとする報道もある。もとより相手も悪かった(交渉が成り立ちがたい相手なのは事実だ)。総じていえば今回の件では、第三者の仲介など、交渉のルートを日本は構築できなかった。それはこの十年くらいをかけ中東の憎しみや暴力・報復がISというきわめて妥協性の低い鬼っ子として濃縮されてしまったためでもあろうし、その十年のあいだ日本が中東に十分な人道的コネクション・人脈を作れなかったということでもある。
 ISの行ないは非道で、同意の余地はない。だがISの残虐性にすべてを帰して「そもそも交渉不可能な相手だった」とすることで、日本の外交的な不作為や失策まで帳消しにされるのは、あやういことではないのか。

 『誰よりも狙われた男』は、その泥を飲むような仕事を引き受けた者の物語であるように、僕には思えた。彼は脅し、恫喝し、偽り、小悪を見過ごし泳がせすらして「よりマシ」な成果を勝ち取ろうとする。汚れたヒーローだ。実は間違っており、ヒーローですらないかも知れない。
 そのような彼の苦悶が、テロリストとの交渉可能性を非難し冷笑する今のこの国の善意ある人々に理解できるだろうか。あるいは映画を観れば主人公に共感し、その苦さを理解しても、いざ現実にテロリストの脅迫を受ければ、物語に共感するのと現実は違うとなるのだろうか。
 僕には分からない。ここまで書いてきたことが正しいのかさえも。

※追記:約二年前の当時は自明のことだったので書き落としていたけれど、そもそもこの二億ドル支援自体が失策で、それを挑発と正しく把握したISの報復が一連の事件だった。僕はそう捉えたし、そこを落としてはいけないと今でも思っている。

モーガン・フリーマンとマイナンバー制度(2016.11.13)


 手短かに行こう。まずはクイズだ。デヴィッド・フィンチャー監督の『セブン』とクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』二つの映画には、ある共通点がある。
 どちらも敵は邪悪きわまるサイコパス、そうだね。ダークナイト=バットマンが暗躍するゴッサム・シティのモデルは『セブン』の舞台でもあるニューヨークではなかったっけ?そう。いいや、もう日記のタイトルで示してるのに、思わせぶりはよそう。二作とも血気にはやる若いヒーロー(刑事ブラッド・ピットと、バットマン)を支える老練な善の守護者としてモーガン・フリーマンが登場する。
 問題は街を兇悪な犯罪者・秩序の破壊者から護るため、彼は何をしたかだ。
 『セブン』でモーガン演じる刑事サマセットとブラピが飯を食ってるダイナーに、一人の男がやってきて、こそこそとサマセットにメモを渡す。男はニューヨークの図書館の職員で、彼が渡したメモは利用者の貸出記録だ。サマセットは言う。たとえばヒトラーの著書・たとえばキッチンで原子爆弾を造る解説書を借りるような人間を、FBIは監視していると。本来は違法の情報提供をもとにサマセットたちは連続殺人犯の身元を突き止める。
 『ダークナイト』でモーガンが演じるルーシャス・フォックスは、バットマンの装備を造り上げた技術者。彼が主とゴッサム・シティの窮地を救うためにしたのは、市内すべての携帯電話の盗聴・傍受によって仇敵ジョーカーの居場所を特定する、禁断のハイテク技術の行使だった。
 違法と書いたし、禁断と書いた。誇張ではない。プライバシーの自由・私的通信の秘密・内面の思想良心の保護は、現代の十戒の最重要項目のひとつだ。
 それが証拠に、刑事サマセットは目の前でブラピを失ない、ルーシャスに通信傍受を命じたバットマンは『ダークナイト』で街を追われ、続篇で自らを抹殺するに至った。ある種の暴力は、それをもってしか悪を倒せない。だがその行使は「悪を倒すためには仕方なかった」だけで埋め合わせがつかず、行使した者も滅ぼして初めて帳尻が合う(もしくは、合わずに遺恨が残りさえする)。正義を名目にした暴力を戒める、それは寓話だ。そして二つの映画で、その「振るってはいけない禁断の剣」は通信の秘密・読書の秘密の侵害だった。二つの映画でモーガンがしたのは、作品の主人公を破滅させるに足る「罪」だったのだ。二作を作った社会(ハリウッド・ニューヨーク・アメリカ)が、いかにそれを神聖視しているかの証左だろう。

 翻って、この国の社会では図書館の利用記録の秘密は、それほどの重大事と捉えられてはいない。
 学校図書館で自分の前に同じ本を借りた子が気になって追いかけ始め、恋に落ちる物語はいくつか思い当たるし、まあ微笑ましいのだけれど、それが許されたのはせいぜい20世紀頃までだろう。それが微笑ましいで済まなくなったのは、同人誌の奥付に作者の実の住所氏名が記載されなくなった時期と重なるかも知れない。
 だから一年か二年前、小説家(具体的には村上春樹)の在籍した中学だか高校だかの学校図書館の貸し出し記録が暴露され「なるほど、あの作家は青春時代こんな読書を」と、まるで好ましく微笑ましい話のように捉えようとされた件には「まずくない、これ?」と思ったし、
 総務省が図書館の貸出カードと、マイナンバーの統合を構想しているという話は本当にまずいと思っている。
嫌な予感しかしない、全国の図書館をマイナンバー個人番号カード1枚で利用可能にする方針が決定 (BUZZAP!・2016年11月11日) 】
http://buzzap.jp/news/20161111-library-mynumber/
 本来なら逆に、図書館のカード「なんか」に個人情報や納税記録まで分かるマイナンバーが紐づけられるなんて!と恐れるべき処だろう。でも、それは記事がやってくれている。ひねくれてる僕は図書館の貸出カードにマイナンバー「なんか」(笑)が関わるのは面倒だし「何かマズい」と言っておきたい。
 今の世の中は同人誌の奥付で身元が知れることはないけれど、通販サイトで何か買えば・あるいは閲覧しただけで「これもオススメです」と宣伝が押しつけられてくる。ある意味で便利とも言えるが、何かマズい気もする。そして、それが「マズい」となったとき、図書館の利用記録が侵害されるのが特に「ヤバい」と思われるのは、通販サイトやポイントのつく会員カードを使っての「売買」とは別の原理で動くアジール・聖域だから(図書館は)という意識があるから、かも知れない。
 少し前にネットでは「図書館の従業員は待遇を良くしたければ貸出を増やすなどの業績をあげるべき」と「売買」を業とする経営者がつぶやき紛糾したことがあった。レンタルDVDや書籍の「売買」をする企業(具体的にいえばTSUTAYAだ)が運営に乗り出した図書館が、貴重な史料をゴミに出したり中身のない背表紙を棚に並べたりして壊滅的な事態にもなっている。たぶん図書館は、「売買」の原理とは別の原理で動いているからこそ、「売買」の原理で動いてる社会が「ちょっとマズくね?」となったとき、それが如実に「ヤバい」こととして現れるリトマス紙・炭鉱のカナリヤのような存在なのだ。
 こんなに長く書くつもりはなかった。要するに「図書館と、そこを利用する人々を守れ」と言いたい。同じように売買とは別の原理で動いている「青空文庫」にも、その商標を売買の原理で乗っ取ろうという動きがある。So I ask you to focus on.(だから注意して見ていてほしい)。

追記:
 以上の主旨とは関係ないんですけど、ハリウッド映画の名バイプレイヤーだったモーガン・フリーマン、この日記を書いてから現在までに(というか最近)スクリーンの外・撮影現場その他でセクハラじじいだったと発覚しましたね…映画『RED』で元CIAの凄腕・今は養老院のセクハラじじいを演じてたけど、地もそんなだったという…
 名作もあれば凡作もある過去の出演作を直ぐに切り替えて「嫌い」と断罪はできないけど、たぶん少しずつ心が離れていくのでしょう。『RED』では(セクハラじじいだったこととは関係なく)劇中で死亡し「死なないでほしかったなー」と思ったものですが、今は「まあ、あそこで死んで妥当だった」と思ったり。
 なんなら一度「セクハラじじいとして横死する」役とか演じて、他山の石となってくれないかなあ。(18.07.02)

ライン。(2016.11.14)



 
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1612  1610→  記事一覧  ホーム