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大人の夏期講習〜『ミシェル・フーコー講義集成』(2017.08.26)

 ホッブズは言った。主権者に権力を委譲する前の世界は万人の万人に対する闘争状態であったと。クラウゼウィッツは言った。戦争とは、別の手段で行なわれる、政治の延長であると。
 そしてフーコーは問う。互いが敵な無政府状態は、互いの力量に大きな差があれば一方的な制圧で終わるだろうし、大きな差がなければ(絶え間ない闘争ではなく)相互に牽制する闘争抑止の状態になるのではないかと。クラウゼウィッツの言う「戦争は政治の延長」は、先にあった政治は戦争の延長へのアンチテーゼだったのではと。ホッブズの言葉も、クラウゼウィッツの言葉も、それを独立したテーゼとして捉えると見えてこない、それが反論し否認しようとしたものとの関連を見るべきではないかと。
 何が真理か・真理とはどのようなものか、ではなく、人はどのように真理を扱うか・どう真理にアプローチするかを問い続けた、フーコーらしいフックではないか…

 コレージュ・ド・フランスの講義は公開制で、単位は与えられないが誰でも聴講できる。教授たちは年26時間の講義を義務づけられ、その内容は毎年新しいことが要求された。ヘーゲル研究の第一人者であったジャン・イポリットの逝去を受け、後任となったミシェル・フーコーは1971年に初講・1984年まで毎年1月から3月、聴衆が埋め尽くす水曜朝の教壇に立ち続けた。

 大人のいい処は、自分の好きなペースで勉強を続けられることだ。(資格を取るばあいは別だが)単位は取得できないかわり、単位が取れるか気に病む必要もない。万人に公開され、単位は無関係だったフーコーの講義は「ひとり夏期講習」にピッタリではないか。毎週=月4〜5回×三ヶ月の講義は通勤電車の行き帰りなどで1日一週分を読み進めると、図書館の貸出期限の二週間で読了するのに丁度よかった。
 いや、オススメしているのだ。1日一週分を目安に進めば、貸出期限で読める『フーコー講義集成』。不思議と著作ベースの著書より、読みやすく分かりやすい気がする。それは紙を相手に思考と表現を極限まで尖鋭化できる著作と違い、(もちろん草稿が用意され、それを講堂で読んでるわけだけど)目の前にいる聴衆に「聞いて分からせる」ことを想定した語り口や、時間配分のためではなかろうか。日本の新書で大ヒットした『バカの壁』が書き下ろしではなく聞き書きの形式を取っていたこと・同じような聞き書きタイプの書籍が受け入れられてるのも、同じ分かりやすさがあるように思われる。
 狂気・エピステーメー・近代・言表・監獄・規律・性・生政治・そして突然の古代ギリシャ・ローマ探究…常に考察の対象を変化させつつ、一貫して人と制度を問い続けたフーコー。それぞれの年代の講義録を追うのは、たとえばプリンスやデヴィッド・ボウイ、鈴木祥子さんなど、時代とともに作風をチェンジさせていくミュージシャンの軌跡を、アルバムで追うのに似ている。
 今夏、自分がチャレンジしたのは1976年の講義『社会は防衛しなければならない』、1980年の『生者たちの統治』そして1984年の最後の講義『真理の勇気』。

 冒頭に挙げたホッブズとクラウゼウィッツの再解釈は「社会は防衛しなければならない』からのもの。
 すごく大雑把に言うと、ローマ帝国崩壊後ヨーロッパに林立した中世諸国が、当初は自身の権力の源泉・正当性を「素晴らしい治世者だったローマを継承している」ことに求めていたのが、やがて(ノルマン・コンクエストに代表される)征服に支配の根拠を見出し「戦いに勝った者が統治する」史観に取って代わられた経緯を語る。闘争の担い手としての民族という概念の発明・市民革命や階級闘争の発生と時代を追って解説するフーコーの講義は、3月の最終日に突然「生政治」の出現を語り出す。
 生政治(Bio-Politics)。かつての権力は臣民に死を強制できる権力であったとフーコーは言う。死を命じるか、あるいは「生きるに任せる」政治。それに対し近代に出現した生政治は、臣民を人口として捉え、健康管理によって(おそらくは経済単位としての)生を強制する=生を命じるか、あるいは「死ぬに任せる」政治だと。それは分かる。でもそこに何の問題が?そしてなぜ突然その話をここで?という疑問は、すぐさまフーコー自身によって答えられる。
 本質的に生かすことを目標とする権力が、どうして」「殺せと命令を与え、敵だけでなくみずからの市民をも死に曝すことができるのか?
 そこに、人種主義が介入してくるのだと思うのです」「それは権力が引き受けた生命の領域に切れ目を入れる方法なのです。そうやって生きるべき者と死ぬべき者を分けるのです
国民の健康管理において先進的だったナチスが、同時に「死ぬべき人種(そこにはユダヤ人だけではなく障害者や性的マイノリティも含まれる)」を絶滅収容所に送り込んだ、そのメカニズムがここで暴露され、それまで語られてきた暴力の歴史にピタリと位置づけられる。むろんそこには自らも性的マイノリティーであったフーコーの、権力にとっての健康を・権力が望む形での生(そして表裏一体の排除)を強制されることへの鋭い問題意識と異議申し立てがある。と同時に、さすが毎年よく伏線を回収してオチをつけるなあと感心させられてしまう。
 逐一まとめるための日記ではないので詳細は省くけれど、1980年の講義『生者たちの統治』も、古代ギリシャ・ローマ社会における「真実は自分を突き詰めれば中心にある」という思想が、キリスト教社会で「真実は神にあり、自分の中心ほど信頼できないものはない」という服従の姿勢にシフトしたことを最終回で示唆する。
 大人になってする勉強のいいことに、もうひとつ、職に就いたり失職したり、家庭を持ったり持たなかったり、そして社会の矢面に立たされたりして、書物が語る哲学や思想を受け止める下地は19やハタチの若者より出来ていることが挙げられると思う。年を重ねてから読む人文書・社会書は「身につまされ度」が一味ちがうのだ。

 最終的にナチスに帰着する生政治の誕生を『性の歴史』六部作で追究する予定だった70年代後半のフーコーは、途中で大きく方向転換し、古代ギリシャ・ローマにおける個の倫理に傾注する。
 1984年2月から3月の『真理の勇気』はフーコーの生涯最後の講義であり、6月に彼はエイズで死去する。フーコーは罹患に自覚的で、D.エリボンの浩瀚な伝記によれば、彼の学界入りを支援した恩師・宗教学者のデュメジルには自らの病を打ち明けていたという。2月の講義二週間分を、フーコーはこの年長の畏友の著作を敷衍し、ソクラテスの思想・とくにその最後の言葉の謎解きに割いている。いわばフーコーにおける「アビイ・ロード』とも言える(そしてその言い方はどうかと思う)同年講義のなかでも、2月22日の講義の締めくくりは、彼の死後30年以上が経過した今でも、胸を締めつけるものがある。
「以上のとおりです。今回で間違いなく、ソクラテスの話を終わりにします。
 哲学教師である以上、生涯のうち少なくとも一度はソクラテスとソクラテスの死についての講義をやっておかねばなりません。事はなされました。
(中略)
 次回はキュニコス主義についてお話しすることを約束しましょう」

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 ちなみにこの講義集成、一冊5000円とか6000円とかするので、図書館で借りて読みましょう。図書館で本を借りることが今なんだか色々言われていますが、図書館で借りて読むことを推奨します。なんとなれば、これをおいそれと買えはしない・図書館で借りるような人をこそ支え、救うかも知れない講義群だからです。(暴論かも知れんが、こんな値段の書物をポンポン買える人に、フーコーが代弁しようとする「強制される健康な生」からさえ爪弾きされる者の声が届くだろうか?)
 そしてついでに、まだ一介の講師だったフーコー自身、赴任先だったスウェーデン・ウプサラのカロリーナ・レディヴィヴァ図書館に通いつめ、その数万冊の蔵書を資料に博士論文『狂気の歴史』を書き上げたというエピソードも紹介しておきたい。マルクスだって熊楠だって、大英図書館に入り浸ってその博識をつちかったのだ。
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5000円の本をおいそれと買えはしないけど、2000円でお釣りが来るレベルなら時々えいやっと思い切って買えるぜという場合、ちくま学芸文庫から出ている『フーコー・コレクション』が役に立ちそうです。
 入門書・解説書も多く出ているフーコーだけれど、本人の肉声とも言うべき著作に触れることは、やはり違った理解や共感をもたらします。吾々はもう大人なのだから、フーコー自身の著作に挑んでもいいのです。

40年前の「現代」思想を今、読む意味〜國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(2017.08.27)

 東京都の小池都知事が通例を覆し、毎年9月1日の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断ったという。
 【東京新聞記事】
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/CK2017082402000130.html

 同知事による、先行しての朝鮮学校への補助金停止には、むろん北朝鮮を仮想敵国・脅威とみなすことで国内を統合しようという目論見もあったろう。だがそれ以前に日本人には、かつて朝鮮・韓国や中国を宗主国として支配していた成功体験と、彼らを劣位の人種・民族として蔑むという玩具だけは、何があっても手放したくないという拭いがたい願望があるのではないか。そんな風に思えて暗澹とすることがある。(そして春桜亭円紫師匠のドスの効いた台詞を思い出す:遊ぶなら、自分の玩具で遊ぶんだよ)

 昨日の日記で、はからずも、フーコー・ドゥルーズ=ガタリ・そしてジラールと、40年前のフランス「現代」思想を代表する(ジラールは早くに渡米しているが)論客が、それぞれ「差別」を糾弾している発言が出揃った。
・人は自分たちの肩書きや個性が無効になる状態に置かれると、まだ差異化できる『敵』を迫害することで自分が自分である根拠を取り戻そうとする
 ルネ・ジラール(2012年2月の日記)
・差別主義者は異分子を排除しているのではない。むしろ少数者が異邦人であることを認めぬまま自分たちの価値観に組み入れ〈劣った吾々〉として押しつぶす
 ドゥルーズ・ガタリ(2015年2月の日記)
・現代の権力(生権力Bio Politics)は、権力が望む形での生や健康を人々に強制し、それに合致しない者を異人種として排除する
 ミシェル・フーコー(昨日の日記)←new!
 繰り返しになるが、互いに立場も意見も異なり、中には不倶戴天の関係もあったりする彼らが、しかし異口同音に差別を批判・糾弾していることには打たれるものがある。そして日本で彼らの思想がさかんに輸入されていた80年代には(残念ながら)知的遊戯の玩具か消費社会の肯定とされがちではなかったか+彼らの有する社会悪への異議申立てという側面は、今こそ積極的に読み取られるべきではないかと思う次第ですが、どうでしょう。

 『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』などの著作で、また積極席な社会活動への関与や発言で知られる國分功一郎氏の『ドゥルーズの哲学原理』は、数あるドゥルーズ論のなかでも、おそらく異色のものだ。どう異色かというと、分かりやすい(笑)。
 あ、いや、分かりやすいだけではない。おそらくドゥルーズ(=ガタリ)を理解したい入門者が期待する「リゾーム」「ヴォルプタス」「脱コード化・超コード化」「戦争機械」「器官なき身体」などのキーワードに関する説明は、ほぼ一切ない。そのかわりに同書は帰納vs演繹・経験論vs合理論(超越論)といった近代哲学史のおさらいをしながら、その真理探究の歴史の終着点としてドゥルーズを活写し「なるほど、(リゾームや器官なき身体のことはサッパリだが)ドゥルーズという人が、ものすごく頭のいい人なのは分かった」と納得させる。ちょっとせつなくさえ、なる。オススメです。

 で以下は私的な余談。この『ドゥルーズの哲学原理』、著者が編集者にこのドゥルーズ論が面白くなかったら絶交ですと言われ必死で書いたと「あとがき」で明かしてるとおり独自の仕事なのだが、
「それゆえであろうか、第IV章の終わりが見え、末尾で『アンチ・オイディプス』からの一節を打ち込んでいた時には、なぜか泪が出てきた
と書かれている『アンチ・オイディプス』の一節、つまりこの本でドゥルーズ(=ガタリ)の一番のキモとして取り上げられている一節が、自分が昨年『アンチ・オイディプス』を再読して「この本の一番のキモって、ココなんじゃね?」と思った箇所と一緒だったのだ(2016年10月の日記)。
 自分の「ココ」は、言うたらカンで挙げた箇所だったのだけど、それと専門家の見解が一致するのって、無学な市井の素人の直感あんがい捨てたもんじゃない気がした(無学な市井の素人って自分だけど)。
 と同時に、この國分氏じしん積極的な社会活動への関与や発言でも知られていることが、おのずと思い出された。

 話は飛ぶが今年の都知事選前日、秋葉原の街頭宣伝に現れた安倍首相にたいし観衆から激しい非難のコールが上がり、首相の対応も含め大きな話題となった。(体調が許せば僕も行きたいと思えず果たせなかった)そのコールを上げた人々の中に『永続敗戦論』の白井聡氏も加わっていたという話が目を引いた。あの読むと目の前が真っ暗になる、この国の来歴とその意味する袋小路の帰結に全ての希望を失ないたくなる、シビアな著作の著者が、にもかかわらず自身は社会への異議申立てを諦めない。國分氏にせよ、あるいはフーコーやドゥルーズにせよ、かつてドゥルーズやスピノザを苦悶させた問いとは真逆に「どうして絶望し諦めるに十分なだけの知性と判断力を持った人たちが、それでも諦めず社会の正義を求めて声を上げられるのか」そんな感嘆に近い疑問を、僕に抱かせる。
 むろんその問いは、真逆の問い「なぜ人は進んで権力におもねるのか」と表裏一体だ。知性ある専門家(中にはドゥルーズ研究者もいる)から、市井の人々・その代弁者まで、あまりに多くのひとが差別と収奪をよしとする現在の権力におもねり、自ら加担していくさまを今の僕たちは目の当たりにしている。
 読書がこんなに抵抗そのものと密接に関わる時代は、充実してるかも知れないが、不幸でもあるだろう。だが不幸の原因をなんとかしない限り、無邪気な日々には戻れない(かも知れない)。

      *     *     *
 ちなみに2013年刊の『ドゥルーズの哲学原理』は、そのあとがきで「本書の問題設定はこれで完結するのではない。来たるべきドゥルーズ=ガタリの哲学原理』へと続いていく」と書いている。こういう仕事に5年や10年ふつうにかかるのは承知なので、諦めず待ってます!
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1711  1707→  記事一覧  ホーム