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灰になるまで〜ベン・H・ウィンタース『地上最後の刑事』(2022.02.01)


僕は灰になるまで僕でありつづけたい
―坂本真綾「ヘミソフィア」(作詞・岩里祐穂)

 コロナ禍は続いている。しかし社会の崩壊のほうが先に来てしまったようだ(面倒なので詳細は省略します)。
 パンデミックのはしりの頃には、アルベール・カミュの『ペスト』などが広く読まれたらしい。自分も末世の心構えに『サラエボ旅行案内』やポール・オースターの陰鬱な『最後の物たちの国で』など再読したいと思っていた矢先

出会ったのがベン・H・ウィンタース地上最後の刑事』(早川書房)。原著の刊行が2012年だからインターネットもある、フェイクトゥルースもある、カミュやオースターに比べるとリアルタイムの実況に近い感覚のある終末の物語だ。
(いや2012年て十年前ですけど…一昔ですけど…)

 半年後の小惑星衝突が不可避と判明し、人類滅亡が決定的となった地球・アメリカの田舎町。本来の主はとうに撤退し、別の誰かが勝手に「居抜き」で食堂にした「元」マクドナルド、その洗面所で中年男の死体が見つかる。ベルトによる縊死。でも何かがおかしい、どうしても自殺と思えないと不審を抱いた若い刑事が捜査に乗り出す。解決したところで世界が救われるわけでもない、些細な事件の真相を求めて…
 すでに説明しすぎかも知れない。言い方を変えよう。もうじき世界が終わるなら、好き勝手に生きたいのが人情だろう。いつか夢が叶ったらと先延ばしにしていた冒険に飛び出す。仕事も家族も捨てて、愚かな恋に走る。享楽や麻薬に溺れ、あるいは法を破って、滅亡の時を待たずに命を落とす者も山ほどいるはずだ。それでも自分に正直になれよ、お前の本当の望みは何だ?と問われ、灰になるまで、この世の最後の瞬間まで刑事でありたいと決めた男が本作の主人公なのだ。
 三部作です。第一作の『地上最後の刑事』はアメリカで探偵小説に贈られるMWA賞を受賞、二作目の『カウントダウン・シティ』はSF小説に贈られるP.K.ディック賞を受賞というのも面白い。第一作でギリギリ機能していた警察組織は二作目で解体され、主人公は刑事ですらなくなる一方、その妹が加担しているカルト組織=小惑星の衝突は回避できるのだが政府はそれを秘匿しているという陰謀論を信じる集団との確執がしだいに比重を増してゆく。
 とは言うものの、完結編にあたる『最後の七日間』までミステリとしての悲しい興趣は尽きることがない。悲しい、というのは主人公が関わる事件のどれもこれもフーダニット(犯人は誰だ)やハウダニット(どんなトリックで)以上にホワイダニット(何が動機で)の謎解きで、そのいずれもが「なぜだって?小惑星が地球に衝突するせいに決まってるだろう」という答えに帰着するからだ。世界が滅亡するというのに、些細な事件を追いかける皮肉な話ではない。といって逃避や自棄のような暴力犯罪を相手にするわけでもない。主人公が破滅の瞬間まで刑事でありたいと決めたように、どの事件の犠牲者も(それは被害者であったり加害者であったりするのだが)末世に人間でありたいと願うがゆえに破滅する。人類の終末というSF要素と、個々人の終末を描くミステリ要素は、最後の謎解きまで不可分に絡みあい続ける。
 なので作中で、主人公が最後から二番目にする決断―真相を求めることを放棄して、赦しを選ぶ場面は心に沁みる。赦しではなく幻滅や諦めなのかも知れないが、心に沁みるのだ。その感慨は、主人公が最後にする決断―真実を知る者の手をとる結末の感慨と、不思議に矛盾しない。破滅を思え、死を忘れるなと説く物語としては、重すぎず軽すぎず、ちょうどいい(ちょっと軽い)塩梅の話かも知れない。それでも末世を、終末を生きるための心構え(どうせなら最後まで人でありたい)を押しつけがましくない加減で示唆する、よい物語でした。
 
 月に一度くらいは生存報告をかねて、何かしら書けたらと考えることにしました。『失われた時を求めて』は一冊読むごとに別の本を一冊挟む形で読み進める予定で、今は別の本を読んでます。

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2203  2201→  記事一覧(+検索)  ホーム