記事:1998年5月 ←0003  記事一覧(+検索)  ホーム 

味としか言いようがない〜吉田健一『私の食物誌』(98.05.09)

 取りとめがない。
 つかみどころがない。
 狐につままれるような。
 ひょっとしたら内田百間あたりに近いのかも知れない−残念ながら僕は何度かチャレンジしながら、どうしても百鬼園先生の文章には馴染むことができないのだが。伊丹十三を連想することもある。
 ある意味では役に立たない。夏炉冬扇というか、無益と言おうか。それでいて完全な無益ではなく、「無益の益」とでも言いたくなるような、不思議な有益さがある。でも役に立つとは言いたくない。斬鉄剣でも切れないコンニャクのように、吉田健一の魅力を的確に説明することは難しい。

 ところが本当に的確に説明できないかというと、簡単にできてしまうこともある。家族で本や何やかやの話をしていて、吉田健一の名前が出たときだ。吾が母上は即座に言った。
 ああ、あの酔っ払い。
 困ったことに、これはこれで健一の本質を一言で尽くしているのだ(とほほほ)。
 『新編 酒に呑まれた頭』(ちくま文庫)は一冊まるまる、ただ出かけて旅館に投宿し酒を呑み、また別のところに出かけては酒を呑みだけで構成されている大変な本である。

 『私の食物誌』もまた、取りとめなさの極みのような本だ。
 料理を扱った本である。風のうわさに聞きかじったところによれば、料理の美味しさを文章で表現するには二つの方法があるという。ひとつは「口に含んだとたんに(以下略)」「豊潤な芳香が(以下略)」など言葉の芸と贅を尽くして、その味を描写するやりかた。もうひとつは調理の過程を細かなニュアンスまで丁寧にトレスすることで、そこから立ち上がるであろう料理の素晴しさを暗示する方法だ。
 『私の食物誌』の健一は、いづれの方法も取らない。つまり、日本各地の一流や名物を紹介しながら、その味を具体的に説明するということを一切しないのだ。
 たとえば金沢の胡桃餅を取り上げ
先ず思ったのはそれが何とも旨いものだということだった
見事に説明になってない
 そのあと「胡桃を摺り潰して蒸してこの餅が出来上がるとも思えない」と書いたりもするのだが、では実際どう作るのかを語ることもない。「運ばれて来たのはお願いしてから一時間はたった後だった。それ程手が込んだものらしい」でこの話自体、消え入るように終わってしまう。
 あるいは「新潟の餅」。「日本国中の餅を食べて見た上で言っているのではないが、これだという何かが伝わって来る印象はこれも自分だけの経験からすれば大概は信用していい」。むろんこれにも、では「これだという何か」とは具体的に何なのかという説明は一切ない。
 他にも
「実に率直に鮪や烏賊やこはだ、これに加えてかんぱちや穴子はそのもの自体の味がする」
「ただめばるという魚は旨いものだということが記憶にあるだけで他には生姜が使ってあったこと位しか覚えていない」
「併しそのめばるを煮たのは旨かったともう一度繰り返して言いたい」
「柴漬けと菜の花漬けでは材料とともに味も違うが、それは林檎と梨の味が違うのと同じで旨ければ林檎か梨かということはない筈である」
これはただ旨い食べ物なのであって煩いことを言う位ならば食べない方が増しである

 圧巻はこれか。京都の蓴菜。
「その味のことになると、これは抽象的に味とよばれているもののその味という味しかしない
うれしいくらい何の説明にもなっていない。それでいて何だかおいしい印象が、移り香のように伝わってくる。なぜ伝わるのかと言われても、それが吉田健一の味なのだとしか言いようがない。

 『東西文学論・日本の文学』(講談社文芸文庫)は若い頃の著作なので比較的わかりやすく(笑)、はじめて読んだときには別の書き手のようだとすら思ったものだが、じっくり中味を確認するうち、見ている視線の方向は『私の食物誌』と同じなんだと分かってきた。
 たとえば、小説に社会の奥の真実を見せてくれることを期待するのはお角違いだと説く一節がある。いわく、そういうものを知りたければ社会で苦労した人か社会学者に聞くべきだ。不安でたまらないから小説を書くというなら、小説を書く前に不安と向かい合った方がいい。小説は現代の痛烈な諷刺でなければならないという意見もどこかおかしい。世の中に訴えたい憤りがあるとき、悠長にありもしない人物をありもしない場所に住ませて、或る日の天気がどうだったなどということに手間をかける余裕は残っていないはずだ…。
 こうした考えのベクトルの向きを保ったまま線を延ばし、洗練させれば「味とよばれているもののその味」とか「煩いことを言う位ならば食べない方が増しである」にしぜんと行き着くのではないか。『東西文学論・日本の文学』には他にも、物語は人を動かすときにのみ存在する(動かさない限りは全く存在しない)とか、あらかじめ構想しておいた人物の性格や家庭の事情を書き表すという方法では説明にはなっても小説にはならない、言葉を重ねるに従って次第に明確になる以外に小説で人物が生きる方法はない、といった主旨の文章があって、目の前に広い青空を見せられた思いがしたものだが、これも言っていることは同じなのだろう。
 ある作家は、たとえば名馬の俊敏さは尖った耳や美しい毛並と一体をなしているのだから、人は動物を愛するときにはその全体を愛するしかない、女を女として愛しながら霊魂に惹かれているとか性格だけを愛していると思いこむのは虚偽であり、動物に対する愛し方より劣っているという健一の文章にどれほど教えられたかわからない、と書いていた。別の作家は、本を読んだらその成果を役に立てなければならないという焦りを、本を読むのは愉しみのためでいいという健一の言葉のおかげで吹っ切ることが出来たと話している。これだって同じことだ。首尾は一貫している。

      *     *     *
 晩年の小説『怪奇な話』(中公文庫)の第一話は、魔法使いがドーバー海峡のこっち側と向こう側にある寺院をそっくり入れ替えてしまう話だ。弟子の小悪魔に薬草やら秘石やらを集めさせ魔力を高めて、えいやっと二つの寺院を入れ替え、そしてどうするか。
 誰も気づかないうちにもう一回えいやっと魔力を使い、元に戻してしまうのだ。
 騒がれると面倒だから。この無益さが、いかにも健一である。

(95年の文章に加筆/98.05.09upload/98.05.23一部改訂)
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←0003  記事一覧  ホーム