(26.04.13)出羽守?舶来上等?そうかも知れない。でも「夜郎自大」よりはいいんじゃないのか。約1か月ぶりのメイン日記(週記)(もう月記ですね)更新。台湾で買ってきた、日本には来ないかも知れない「タイ版《百年の孤独》」と呼ばれる小説その他について書きました。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、または
こちらから。
【
戦争反対】
ふだんづかいできる反差別Tシャツがあると自分が便利なので作りました。
【電書新作】『
リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、
こちらから(外部リンクが開きます)

サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、
こちらから。
扉絵だけじゃないです。
side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「
愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「
お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『
読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、
こちらから。
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)
これが「別の話」〜ウィーラポーン・ニティプラパー『仏暦の終焉と黒薔薇猫の記憶の記憶(仮)』(26.04.13)
今回5度目の台湾旅行の話は、また別の機会に(つまり「それは別の話」)ねっとり開陳するとして、また向こうでしか入手できなさそうな本を、今度は二冊ほど贖ってきました。
台北駅のすぐ南・学習塾や予備校が集中し(
24年11月の日記参照)それを当てこんだ早餐−朝食を供するお店(近くの銀行・官庁街も見込んでいるのだと思う)が集中、参考書など扱う書店も点在する区画の
執土(一文字で「執」という字の下に「土」)
脚石圖書文具百貨廣場書店。踏み石=Stepping Stone=(読者が)上に登るための足がかり的な意味を持つこの、若者向けの?軽い書物が手に取りやすい本屋で

全3巻で完結の
醉琉璃『我的室友 陳小姐是幽鬼』の一冊目を入手。

我的室友(私のルームメイト)・陳小姐・是(すなわち)・幽鬼(ユーレイ)。「My Ghost Girlfriend」と英題が添えられた本作、限界社畜女子の主人公が家賃安さに飛びついた(台北は世界有数の平均居住空間の狭さを誇る超過密都市でもある)事故物件には幽霊の陳小姐がいたが、
二人とも腐女子(しかも最初は息を潜めていた陳小姐、主人公がでへへへと鑑賞していた赤裸々なBL画像に
「そのカップリングはA×BじゃなくてB×A!」と介入して存在発覚)と意気投合するんだか解釈違いで揉めるんだか分からない冒頭。男同士の恋愛に夢中な女子ふたり(うち一人は幽霊)に百合を期待する自分(外国のおっさん)…

自虐ははさておき、たぶんありふれ過ぎて、わざわざ日本語に訳出され紹介されなそうな題材。逆に言えば、こうしたシチュエーションを台湾はすでに自家薬籠中にしており、もちろん日式ライトノベルの流入も需要も圧倒的なれど、自国内での自給自足が不可能ではない状況になっていた2026年。

スマートフォンのカメラ・文字認識機能で文章を把握→そのまま自動翻訳で「ん?」と思うところだけ重点的に確認。かなりスムーズに読み進められそう。今回の旅行を機にGoogle翻訳の、ネット接続なしのオフラインでも使える辞書ファイルをダウンロードしたんだけど、音声なしの文字ベースで中国語(繁体字)でも100MB足らず。iPhone自体の翻訳機能もあるみたいだし、いつのまにか便利な世の中になっていた。
主人公たちに愛着が出れば、残り二冊は日本からの取り寄せを考えるかも知れません。
ああ本の話は楽しい。
* * *
国立台湾大学の近くにある
聯経書房 上海書店LINKING BOOKHOUSEは今どきだと大谷翔平の関連書などミーハーな取り揃えも手抜かりない一方で、ライトなオタク向けの執土(←本当は一文字)脚石書店とは対照的に、大学生向けの?渋めな選書が光る本屋で、ここで見かけた本が気になる→だいたい台北駅の近くに取りがちな宿に戻ってネットで内容を確認→宿に近い最大手の誠品書店で購入というルートを取ってしまう(申し訳ない…)

今回ここで平積みされていた本の帯文が
「泰國版《百年孤寂》」…20世紀文学の流れを変えたガルシア=マルケスの傑作『
百年の孤独』。それに対抗できると謳うタイの小説(の翻訳)、持って帰れる荷物の重量を試合前のプロボクサー並みに気にしつつ、持ち帰らずにおらりょうか。いやまずは邦訳がないとしての話。しかし宿に戻り落ち着いた環境でネット検索したかぎり、いや大いに穴がありがちな僕の観測範囲でということだけど、著者
ウィーラポーン・ニティプラパーの作品は、世評の高い第一作『迷宮中的盲眼蚯蚓(迷宮の中の盲目のミミズ)』も含め、邦訳での紹介はまだない。
この書名をUnicode使用でない本サイトで記載するのは困難なので間違ってるかも知れない機械翻訳の日本語で紹介させてください―
ウィーラポーン・ニティプラパー『仏暦の終焉と黒薔薇猫の記憶の記憶(仮訳)』(向こうのオンライン書店「博客来」の紹介ページ/外部リンクが開きます)
台北駅と地続き・MRTの路線沿いに細く延びた地下街の、ゆうに200メートルは続く中山地下書街(かつてはそれこそ執土[一文字]脚石やLINKINGのような個人書店がひしめいていたが、十年ほど前から誠品の寡占となっている)の、つまり誠品で購入(
本当に申し訳ないLINKINGさん…)・重量もクリアして無事日本に持ち帰ってきました。
もうこの三つの書店に、とゆうか本サイトを見てる誰かひとりくらい台湾に行かせてやろうという悪い下心(円安と原油高で今はオススメできませんが、この先もっと大変になるかも知れないので行けるうちに、かも…)みなぎる今回の日記(週記)ですが、
※あーちなみに台湾の小説はA4サイズで日本のようなハードカバーはなし・日本に戻って量ったら陳小姐は350g(これは想定内)・黒薔薇猫は500gで帰国楽勝でした。
※そして黒薔薇猫を取り扱ってくれた誠品のレジ係さんの胸元の名札には「陳小姐」の三文字が。(こっちで本の『陳小姐』買えてたほうが面白かったかなー)とも思ったけど、まあラノベ売り場はレジが別でございましたよ+名前ハラスメントいくない。
本サイトに長くおつきあいのかたなら、なんとなくお察しとは思いますが、改めて思ってしまった。(日本、やばいかも…)と。いや円安や原油のことではなく(そっちも心配だけど)。
* * *
本サイトで、あるいは昔やってたTwitter(現X)で、たぶん何度となく言ってきたことだけど、改めて書いておく。
純然たる事実として、人口1/5の台湾で繁体字版の翻訳が手に入る外国書籍が、日本で邦訳がないのは初めてではない。
いちおう言っておくと逆に邦訳があって台湾版がない本だって沢山ある(だろう)。日本ではクラシックに属するJ.P.ホーガン(イギリス)のSF『
星を継ぐ者』(原著1977年)は、自分が書店の店頭で見かけた大々的なポスターが「新訳(とか再販とか)成る!」というものでなければ、台湾で紹介されたのは、ようやく2017年のことだったと思う。たとえばミシェル・フーコーの著作なども、日本に比べると台湾での繁体字訳の出版は相当に遅れているのではないか(断片的な目撃に基づく不確かな推測)。

台湾だけではない。
これは以前(
21年3月の日記で)書いたことだが、七つの性をもつブタや、三種のオスと二種のメスがいるトカゲなど男女二元論・他の生物だってそうという観念をくつがえす
ジョアン・ラフガーデン『進化の虹』が、韓国語訳があるのに二倍の人口を有する日本で邦訳が出ていない(今も)。
ジュディス・バトラーの著作の一部でも、日本は韓国に遅れを取っているらしい。
このときの日記では僕が、日本では『ライラの冒険』以後は翻訳がないファンタジイ作家
フィリップ・プルマンの作品が(それこそ『ライラの冒険』ことHis Dark Materialsの続編も含めて)、日本の1/5の人口しかない台湾で訳出され書店で平積みになってるのを見たときの焦燥とともに
少なくとも「日本は各国の本を翻訳で読める、世界でも稀有な国」みたいな自負は、昔だけのことか・あるいは実は一度も真実でなかった幻想だった可能性がありはしないか…というのは、また別の話。
と書いている。つまり、
今その「別の話」をしている。
韓国に話を戻すと、日本では『
キャリバンと魔女』以外に翻訳がないらしい
シルヴィア・フェデリーチ(何度も何度も言及してるけど
23年10月の日記参照)の他の著作も韓国では翻訳があると最近SNSで仄聞している。
たまたまそういう領域が重なっただけと考えたいが、ラフガーデン・バトラー・フェデリーチ…どれもLGBTQやフェミニズムに縁のある著者の紹介が日本で遅れている可能性がありはしないか。と言ってもLGBTQ(性的マイノリティ)とフェミニズムは必ずしも一枚岩ではなくて、これも仄聞だから
取り扱い注意(
「そうなんだ」という軽信や・安易な拡散は控えてください)な情報だけど、フェデリーチには反トランスに対して脇の甘い言動があるという批判もあって、いやむしろ彼女も与するペイガニズム(魔女的な知の復権)を唱えつつ依怙地な反トランス言動をしているTwitter(当時。現X)のアカウントを日本で見たこともあって−この話も前にしましたっけ−そのへんを確認するためにもフェデリーチの他の著作も確認したいのだけど。
彼女たちの言ってることなら(それを紹介した)他の著作や、(同じような主張をしている)SNS・まとめ動画でも知れるよ…とはならない。(ラフガーデン・バトラー・フェデリーチ)それぞれ己の分野の第一人者的な存在でもあるので、オタク的な言いまわしをするならば「元の著作を読むことでしか得られない栄養がある」。
改めて言うけれど、少なくとも「日本
だけが各国の本を翻訳で読める、世界でも稀有な国」みたいな自負は、昔のことか・あるいは実は一度も真実でなかった幻想だった可能性がある。『となりのトトロ』や『もののけ姫』のジブリ映画を引き合いに出し、日本「だけ」が自然に精霊を見出し・自然と共存する知恵を欧米社会に提供できる、みたいな(
そんな思い上がった言説が、しかもリベラルを自称する論客の口から、実際になされたことがあったのだ)幻想が、思い上がった幻想でしかないように。

繰り返し言うが、日本と韓国と台湾、それぞれ得意分野が違うだけならばいい。けれど何かにつけ悲観的な僕は、日本が(もしかしたら「日本だけが」)海外の著作や創作物・文化に関心をもち、取り入れていくチカラを急速に失ないつつあるのでは、という疑念を新たにしてしまう。
今年はじめ、世界最大手ハンバーガーチェーンの日本法人が打ち出したキャンペーンの、まさに「落ちぶれた」としか言いようのない貧しさは「今さらこんなことで驚かない」とは思うものの、なかなか暗澹たる気分にさせられるものだった。
・
これであなたもニューヨークに行った気分に? マクドナルド新TVCM『行った気になる!N.Y.バーガーズ』篇(YouTube/外部リンクが開きます/
音声ONにすると人によっては吐き気を催すので注意)
分かってワザとインチキぽくしてるんだよ、冗談だって分かれよと言われるかも知れないけど、インチキの真似をして大路を走らばすなわちインチキなり。そのうち「ワザと程度低くしてるんだよ」と言い訳したインチキの「多様性」しか手に入らない国になっちゃうかもよ…とは思わないのだろうか。
「世界中が驚嘆し賛美するニッポン」「世界の中心で輝く日本」などと自賛する声は喧(かまびす)しいが、日本を見てくれ(
リガルデ・モア)・日本は愛されていると認めさせることばかり必死で、他地域を知ろうと認めようとしない文化・社会が世界の中心で輝けるものだろうか。
* * *
国立台湾大学のすぐそばに貼られたポスターは、都合4枚・騎楼の柱たった2本を占有しただけの全く局所的なものだった。けれどそのたった4枚、台湾製品のプライドを意味する近年のキャッチフレーズ「MIT(Made In Taiwan)」の真ん中のIを落下する爆弾の形にしたロゴで「Genocide Made In Taiwan」=台湾が自国のテクノロジーをパレスチナ住民虐殺の道具としてイスラエルに供与することを批判するメッセージを台湾の島のシルエットの上に大書した、そのたった4枚(3枚しか撮れませんでした)の、特に「台湾(Taiwan)」という国名を示していたと思しき箇所が執拗に削り落とされているのを見て、

(覇権国家としての)アメリカに追随することが、おそらく日本以上に国家存続のため切実な問題であろう台湾では、それを批判する言動・への拒絶もまた、日本で同様の意図によるデモや集会への参加・SNSなどでの意見表明が「忠告」という名のもと中傷されることの比ではない・もっと徹底した拒絶かも知れないと慮られた。

(もちろんこのポスター、自分が見たのが・見た時には4枚だけで、もっと大々的に展開されていた可能性はございます)
これも2026年4月現在の台湾・誠品書店が中山地下書街で猛プッシュしていた
『馬里・艾密達的七天七夜 The Seven Moons of Maali Almeida』(誠品書店公式/外部リンクが開きます)はスリランカ発のミステリ小説。ミステリなら早川書房か東京創元社が飛びついてるかな?とも思うが−

たぶん日本以上にアメリカ追随を余儀なくされており

日本の影響や文化流入を、日々の豪雨のように受け続けている台湾。

けれど同時にそこは、日本にいる僕にとっては、タイや(今後の展開によっては)スリランカに向けて開かれた窓でもある。
出羽守?隣の芝生?舶来上等?そうかも知れない。
でも「夜郎自大」よりはいいんじゃないのか。
昔の(戦後)日本だったら、ホルムズ海峡を封鎖したイランとも、もう少し上手く交渉が出来たかも知れないと思うことはある。エビデンスはないけれど「日本を取り戻す」「世界の中心で輝く日本」「世界中に尊敬される日本」と叫ぶ声が大きくなればなるほど、この国は、かつて世界に持っていた交渉のチャンネルを細らせているように見えはしないか。
世界の広さを垣間みることが出来た嬉しさと、それが目の前で閉ざされていると知る失望感。こんな僕を「邦訳を待てばよかった」と悔しがらせるよう、日本の出版社が奮起してくれることを願えるだろうか。黒薔薇猫に迷宮のミミズ、スリランカのミステリ、ラフガーデン、フェデリーチ。それらを日本語で読める日を待ち、希望することは出来るのだろうか。

台湾大学の構内で咲き誇っていた、向こうでは流蘇という名がついたナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)の花。雨上がりのアスファルトに白く散らばった花弁を見下ろして脳裏に浮かんだ
「散ったところもいいね」というフレーズは、ずっと昔、ニューヨークを舞台にした
成田美名子さんのまんがで(マグノリアの花を見下ろして)主人公が言っていたもの。だいたい散った花が美しいとき、このフレーズが頭に浮かぶ。物語や書物で知った言葉・フレーズが、その後の何十年も、物を見るときの感受性にまで残りつづけることがある。あるいは、そういうタイプの人間がいて、僕はそうなのだろう。
そういう人間にとって、より広く言葉の世界が開かれていくことは、このうえない喜びであるし、言葉をとおして享受する世界が狭められ縮められ、それを苦とも思わない人たちが狭さを誇りさえすることには、たまらない寂しさを感じたりもするのです。ご静聴ありがとう。
小ネタ拾遺・3月(26.04.01)
(26.03.01)シェリー・カリー(Vo)の下着姿と
「チチチチチチチ、チェリー・ボム!」という代表曲でイロモノ・キワモノ扱いされてるかも知れない
ザ・ランナウェイズ、
「たぶん舞村さん(仮名)は好きだと思う」と譲ってもらったファースト・アルバムはなるほど極めて真っ当な(早すぎた?)ガールズ・バンドの先駆者だと分かる佳品だった。
5歳にして退屈に絶望しきっていた少女がラジオから流れてきた曲にぶっ飛んだ・たまらず踊りだした彼女はそう、ロックン・ロールに人生を救われたのさ―と歌う
ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド「
Rock & Roll」のカヴァーは、原曲がヴェルヴェッツの本拠地だった「NYの」ラジオ局
(New York station)と歌ってるのに対し、自分たちの本拠地である「ロサンゼルスの」ラジオ局
(LA station)と歌い替えているのが「らしくて」泣かせるのでした。
ランナウェイズの解散後、リーダー格だったソングライターの
ジョーン・ジェット(g。ちなみにリードギターのリタ・フォードもソロで成功しています)は自分名義のバンドJoan Jett & the Blackheartsで、これもカバーだけど今度は「
I Love Rock'n'Roll」をヒットさせる。
で、こちらの「(アイラブ)ロックンロール」も歌詞をよく聴くと「
ロックンロールが大好きさ だからジュークボックスに次のコインを入れて一緒に踊ろうよ」またしても、あくまでもリスナーとしてロックを愛する幸せ(救われ)を演奏する側になっても忘れない心意気が好きなんです。
というわけで、明日3/2はLAのロック少女を退屈から救ったのかも知れない
ルー・リード(ヴェルヴェッツ)の誕生日←
そっちかとお思いでしょうが、すまん、ジェット先輩(
誰がジェット先輩だ)の誕生日は存じ上げないのでした+今年は変化球で祝ってみました。ちなみにVUの元祖ロッケンロールはこちら。まあパンキッシュなランナウェイズ版に比べると、こっちのが先と思えないほど洗練されててアーティストって感じがすると思います→
・
The Velvet Underground - Rock & Roll(外部リンクが開きます)
(同日追記)
先週のメイン日記で「キライな歌の話をする時なんだか嬉しそうな自分」と書いたのは戒めのためで、好きな歌の話だと十倍くらい嬉しそうなことも自覚している。尻尾ぶんぶん。
(26.03.02)てひひ、買っちった。嬉しくて本屋の店主さん(?)に「今日この人の誕生日なんです(それで買いに来ました)」と話すと
「高額なんで売れないかなあと思ってました」と笑っておられました。はい、高額です。今月の残りは卯の花とか食べて暮らすぞ!

(26.03.03)【
まだ生きてるひとも褒めよう】
先月の小ネタで「晩年、太極拳に傾倒していたルー・リード」と書いちゃったんだけど、昨日買った
『ルー・リード 俺の太極拳』(国書刊行会/外部リンクが開きます)のサワリだけでもと開いたページで「1980年には太極拳を始めてた。まだ見るからに初心者だったけど」という目撃談を披露してました、「私も武道経験でね」(!)と語る
ボブ・エズリン(!!)が。
もうこれだけで4100円の元は取れた(大袈裟)。
ボブ・エズリン、最初の名声を確立したアリス・クーパーとの仕事には疎いのですが(宿題?)ルー・リードの『ベルリン』やピンク・フロイドの『ザ・ウォール』で知られる伝説のプロデューサー。
・
Lou Reed - Lady Day(YouTube/外部リンク)
・
Pink Floyd - Comfortably Numb(同上)
ルー・リードの『ベルリン』も手がけてるけど
ベルリンの「愛は吐息のように」も手がけてるので「ほら、ベルリンをプロデュースしてる人」っていうと「どっちだ?」てなる。どっちもだ(笑)←貼らないけど。独特のアトモスフィアはデフトーンズのような激しいバンドを手がけても健在なのでした。
・
Deftones - Rats!Rats!Rats!(外部リンクが開きます)
そんなエズリン先生、ちょうどほぼ(どっちだ)一年前に
「米国の激しい政治的分断を理由に米国籍を放棄 母国カナダに帰国」(amass/25.02.28/外部リンクが開)していたそうな。多くは言わないけど、まともな人だってことですよ。そして彼のようには去れない人たちの安寧も願う。
(26.03.04)有言実行の卯の花。でもこういうものチョイチョイっと作れる心のゆとりが先月までなかったと思えば(今月はこじあけていく所存)これはこれで豊かな生活。発色と隠し味にカレー粉ふってます。

(26.03.05追記)シモーヌ・ヴェイユが書いた
「飲食の快楽は、一見そう思われるよりもはるかに社会的である」(
先月の日記参照)は、むろん卯の花にも当てはまるわけで、ましてそれをネットで吹聴すれば完全なパフォーマンス【私は慎ましいが健康にも環境にも配慮し充実した生活を志しているアピール】だと自分でも分かっててやってるわけです。仮に観客がいなくて一人でも、スタバでラテを注文するのも、PADMA(ハラル食材メーカー)の豆を買うのも、それぞれ己の社会的威信を賭ける行為で、今の自分の言葉で言い直せば、きわめてすぐれて政治的。「
それ、政治です」舞村(仮名)のひとりごと。(また読んでない本を元ネタに…)

そう考えたとき、食そのものを拒絶して死に至ったヴェイユ自身の振る舞いは、彼女が心から軽蔑した力や威信からの撤退だったのか、それとも(心から力を軽蔑しながらも)彼女にできた最大の力・威信の行使だったのか、残酷な問いだと思いながらも少し考えてしまう。じっさい同時代の哲学者も偉人も、なんなら彼女が命を賭して精神的な闘いを挑んだ独裁者さえも、彼らが何を好んで食べたかなど、彼女が「食べなかった」ことほど後世に伝わってはいない。
(26.03.07)台湾文学セレクションと銘打たれた
陳又津『霊界通信』(原著2018年/明田川聡士訳・あるむ2023年/外部リンクが開きます)は「持ち主が死んだあとも残りつづけるSNSのアカウント」という現代あるあるに「
えっ待って更新も続いてる」というひねりを加えて(死者にとっては)死後も続く生・(生者にとっては)死者とともに在り続ける生を描く。若者のリアルな生活感と異世界の交錯は韓国作家で個人的に好きな
チョン・セランと通じる感じで、日本にもこういう作風のひとっているのかしら、いるんでしょうね(ゆる募)。

身寄りがいなくなり、自身の記憶すら失なわれる不安と対峙し、肉体が衰え死を迎える前から「忘れられる」という形で社会的な死を先取りする高齢者たちが現実とどう折り合い受け容れるか。また死よりも前にまだ人生の前で立ちすくむ若い世代との交流は可能か。可能なのではという希望が提示できるのは物語ならでは、なのだろうか。自身の性別に違和を感じ「どんなに頑張っても身長170センチの男の肉体では」と苦悶する「男の娘」が、「この歳になると性別とかどうでもよくなるんだよ(
本当かしら)君はかわいいなあ」と己を認めてくれるヤバいお爺さんの喪を通して自身のセクシュアリティを受け容れていく「美少女体験」の章は全編の白眉かも。ただし前章からの設定や登場人物を引き継ぐ連作長篇なので最初から読むこと。
(26.03.11)
小野不由美『十二国記』に登場する聖獣「麒麟」は獰猛な妖怪どもを自在に使役する代償に、己が死んだら(妖怪にとっては)すこぶる美味だという遺骸の肉を貪り喰われる契約を結んでいるという。翻って一般に、現代の日本人が亡くなると遺体は葬儀までドライアイスで腐敗を抑えられ、葬儀の後はすみやかに荼毘に付されるのだが(焼け残った白骨は
それはそれで貴い)どちらかというと「事故物件」になる可能性も低からぬ独居者の自分は、これまで腸内などで仕えてくれた常在菌たちに己を与えるのも悪くない気がしないでもない。でも実際はむしろ、人菌一体で外敵として斥けてきた悪玉菌や虫や
禰豆子ちゃん(婉曲表現)の哀れ餌食という方が正しいのだろう。どう頑張っても生物学的には、死は敗北であるらしい。
…そんな縁起でもないことを考えてしまったのは
「われわれの口のなかには、六百種の嫌気性バクテリアが生息し、すべての植物が敵を追い払うために生成する毒素を無毒化している。腸内には四百種が生息するが、その助けなしには摂取した食物を消化吸収することはできないだろう」という指摘とともに、修行者が悪鬼どもの餌食となる(ように見える)チベットの幻覚儀式を叙述した※
一冊まるまるソレではなく他にも合わせて20の逸話がちりばめられてます(重要)アルフォンソ・リンギス『信頼』(原著2004年/岩本正恵訳2006年青土社→2026ちくま学芸文庫/外部リンクが開きます)のせいらしい。
ここ二・三年で自分の読書歴に猛然と割りこんできた異色の哲学者(1933-2025)の、たぶん初の文庫化。日本での代表作と思しき『
何も共有しない者たちの共同体』(
23年5月の日記参照)
というタイトル(元はバタイユの言葉だそうです)
に痺れるほどの魅惑を感じた人、あと「事故物件」になる可能性が高い人(
縁・起・で・も・な・い!)は心の積ん読棚に。
(26.03.13)最高スペックより「廉価で中くらいの性能」に惹かれるタイプ+最初に持ったMacがメモリ8MB・ハードディスク80MBのPowerBook145Bだった自分、ほぼ同じ値段の
MacBook Neo(Apple公式/外部リンクが開きます)で久しぶりに著しく物欲を刺激されたのだけど
「おまけにコンパクトだし」と思ったのは店頭マジックで帰宅して確認したら今もってるMacBookAirと縦横ほぼ同じ。危ないところでした。
そして灰色の強化プラスチックだったPB145Bすら(入門機の100や上位機種の170・後継機種の150と比べても)「なんだかデザインに可愛げがある」と勝手に思っていた=デザインに可愛げを求めがちな自分、

家でメイン機として使ってるMac miniのモデルチェンジの「何故そっち方向に」感は未だに拭えていない。

今うちにあるbefore2023のデザイン(二代目)は気に入ってるんですけどね。
(26.03.16)二輪のことは全然分かんないけど四半世紀前に仕事で3年ほどスーパーカブに乗ってたことがあって、同じホンダから出た22万円の電動スクーターにまたしても心を揺さぶられております。買わないけどね。
・
ICON e:(HONDA公式/外部リンクが開きます)
三色それぞれの名前が
「パールスノーフレークホワイト」「キャンディラスターレッド」そして
「ポセイドンブラックメタリック」なのは御愛嬌。
1回の充電で81km走れる、ということは理論的には
東京から札幌まで15回くらいの充電で行ける(なんですぐ
世界じゅうを僕らの涙で埋め尽くそうとするのよ)と思うとスゴイ…何処かで充電場所に巡りあえず詰みそうな気もしますが(繰り返し言うとEVも含め、その方面のことは全く分かっておりません。)…自動車を延々と押しながら歩いて進む大昔のCMみたいな姿が浮かばなくもない…
参照→
【昭和のテレビ】Mobilガソリン 「気楽に行こう」【懐かしいCM】(YouTube/外部リンク)
僕も乗ってた50ccのスーパーカブは25万くらいか。PowerBook145Bを買ったのと同じくらい前に読んだ本に「
ガソリン価格によっては、人力で自転車を漕いで人間がカロリー消費して食べ物で補うより、スーパーカブのほうが"燃費"がいい時もある」とあってウヒャーと思ったこともありますが、あれは初期費用(カブと自転車それぞれの代金)は度外視なんでしょうね。
(26.03.14)最近読んだ本によれば、生き物には植物→動物→人間と階層があって「善く生きる能力」は人間にしかないとしたアリストテレスに対し、とりわけ植物を愛していた新プラトン主義の創始者
プロティノス(205?−270年)は
「すべての生き物に幸福への性向がある」そう考えないのは
「善く生きることを生命以外のなにものかのうちに(たとえば理性のうちに)置く」点でおかしい(命を測るのに、いつのまにか命より理性のが基準だと取り違えてんぞ?)と唱えたらしい。(ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』)。
たしかに動物で「私はなんで生きてるんだ」などと悩むのは宮澤賢治の「よだか」くらいだと考えるとき、吾々もアリストテレスと同じ陣営にいるのだけれど、それだとたとえば東アジアの(?)
虫やケダモノも徳を積めば人間に輪廻転生できる的な教え(昨年5月の小ネタ参照)も「でも人間以外は徳の積みようがないじゃん」となってしまう。アリストテレス的な生命観を受け容れたとき、吾々は世界の、もしかしたら半分以上を占めていたかもしれない認識の巨大な大陸をごっそり失なったとも言えそうだ。

振り返って頭上の高台を眺めれば、近所の小学校の、これは梅の木?小枝をきれいに切り詰められて、ずいぶん憐れな姿になっていましたが、構わず花は咲くのでした。善き生。
(26.03.15追記/これも一項目たててメイン日記にすべきだったか?)とはいえ。むしろ原始仏教でも草木は有情でない(心を持たない)とされ、植物まで救済の対象に広げるのは中国の華厳宗とか比較的あたらしい(?)着想だったという話から、わりとよく聞く
「山川草木悉皆成仏」に至っては近年も近年、今となっては批判される事のが多い気がする梅原猛氏の造語だったという記事→
・
「山川草木悉皆成仏」の由来(1)(「宮澤賢治の詩の世界」/2020.3.1/外部リンクが開きます)
だいたい植物を仏性から排除した原始仏教すら「新しい」都市的な発想だったとも言えるわけで(上記の記事が依拠している論文
「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」岡田真美子2002年/外部PDFが開きます・など参照。とくに肉食戒の浸透と同時に「植物は食べていい
'cause they don't have any feelings(←byニルヴァーナ=
涅槃だけに!←うっせえわ)」で仏性否定に傾いたという指摘が面白い)、、逆に新しいから悪いとも言えないのだが、少なくとも
「何に対して何のがより古層・オリジンだ(から正しい)」的な考えかたは時に判断を誤らせる。剣呑剣呑。
(26.03.17)酷い世の中の口直しに自分的には結構よく出来たと思う茄子の揚げ焼き(甘酢和え)でも見てくれ。

最近いろんな素材で作ってる「片栗粉まぶして大さじ二杯くらいの油で揚げ焼き→同量のお酢とお醤油と砂糖で味つけ」中まで上手く火を通せれば、片栗粉あたりをツナギに重ねて角切り肉ふうにした豚バラ(薄切り)で疑似酢豚が作れそうな気がしてきた。来月あたり試してみよう。
(26.03.22)近頃「肉のハナ○サ」で700グラム800円のボイル豚もつ盛り合わせを買うようになって。下処理で脂を落とすと500gにカサが減るので100グラムあたり160円は生活水準としてどうでしょう皆様。カレーに入れたり麺類に載せたりしてるのですが、串で焼いてもいいかなと思い、フライパンでタレと絡めながら火を通してこんな感じです。函館名物の焼き鳥弁当が「焼き鳥」と言いながら豚肉(鶏より豚肉が安かった時代の名残り)で、ボリュームとか全然ちがうけど、ちょっとそれを思い出すなど。つまり・人生を旅のように楽しんでいる・これはこれでしあわせであるってことです。

上機嫌だから世にたてつく必要ない・ではなく・上機嫌に過ごすという反抗。
(26.03.26/小ネタ/すぐ消す/月末に拾う)またモツを浸かって、老抽王という仕上げの色づけに使われる中国醤油で
言ったもん勝ち「神奈川ブラック」あ…やっぱ怒られるかな…むしろほんのり甘味のある味、ひょっとして牛肉麺なんかもこんな感じ?生姜と五香と七味でアクセントを。
朝食と昼食がカ■リーメイトだったとは思えない(簡単だけど)生活感ある夕餉。うましかて。

この後は明日の昼食用にこんにゃくを炒めます(
あ、さすがに副菜ですから!!)
(26.03.23)卯の花で過ごすと言いながら、けっこう外食にも走ってしまった。
倒産したチェーン「牛丼太郎」のスタッフが看板の一文字を消して、茗荷谷で今も続ける「丼太郎」の話は前にしたけれど(
昨年7月の日記参照)、今度は往年の洋食チェーン「キッチンジロー」の本社撤退後、お店のオーナーが独立して始めた(こういうお店を「
ジロー系」と言うとか言わないとか…)定食屋を大塚で発見、とゆうかこの看板のロゴを路面電車から見て「あれは…キッチンジローの
キッチンの書体!」と数十年ぶりでも余裕で思い出せた自分が怖い。
キッチンのとや(南大塚店)。日曜のみ定休でランチと、夕方は6時頃から。店主おまかせの三種ミックスも気になったけど、キッチンジローと言えば個人的にはホワイトソースのクリームコロッケだったので、間違いなくありつけるようチキン南蛮との盛り合わせを注文。もうスマホどころかデジカメもよう使わない時代以来なので実はよく憶えてないけれど、出てきたメニューは職人的なアウラがあって、今の自分にはオリジナルの「ジロー」より好ましいほど?つけあわせの豚汁も嬉しい1,180円。コンパクトな厨房では出前館やロケットナウの注文チャイムがひっきりなしで、生き延びて、今を生きてるお店なんだなと感じました。
昨年の暮れにも同じようなことを言ってた気がするけど、今度こそ(雇用契約が延びてました)そろそろ池袋近辺とはお別れ。あっという間に消えてお別れを言う間もなかったキッチンジローとも、気持ちよく訣別できたかも。近場に縁のある人は「宇野書店」とハシゴでどうぞ?

ところでずっと「大塚で洋食…大塚で洋食…
グリルオーツカって名前に記憶があるけど、あれは大塚じゃないよな…?」と悩んでたら、思い出した。石川県金沢市にある「ハントンライス」の名店でした。
(26.03.29)
先週の週記では聖書まで持ち出して「仕事はつまらんもの」と力説したものの、仕事を通じてこそ知れた面白もはある。職場のPCがWindowsで(自宅ではマカーです)世界の絶景が次々デスクトップに表示されるのだけど、先日表示された
「アルプスの青い宝石」(Bing画像ギャラリー/外部リンクが開きます)と題されたイタリア・モルヴェーノ湖の写真が、麓の湖が灯火きらめく夜景なのに、背景の山麓は青空=つまり
ルネ・マグリットの絵画
「光の帝国」(美術手帖/外部リンクが開きます)
現実版!?とびっくり。地球が丸いから、こうなるんですかねえ。人生(世界)(宇宙)は発見でいっぱいだ。

(26.03.31追記)今日は今日とて、サハラ砂漠の写真がPCに。アルジェリアはタドラルト・ルージュなる絶景の写真なんだけど、名前のとおり(?)鉄分を含んで赤い砂漠の真ん中に…人が??4WDのタイヤの跡が四方を走り、それに撮影者も存在してるわけだけど、それにしたって写ってる人影??をそこまで運んだ車の影は見当たらないし「黒いスポーツウェアに白いチノパン(に見えてならない)」という格好は、どう考えても砂漠に相応しくない。違うかなあ、でも左を向いてうつむき気味の人影に見えるんだよなあ…と思いつつ、帰宅後に掘り出した解像度が一番高い画像で確かめたら→
・
こちら(外部リンクが開きます)
あ…違う。これは(何だか分からないけど少なくとも)人影ではない、ないね、ないよね…左向きじゃなくて背を向けて歩み去っていく人影では…ないよね??
そんなわけで今日は一日、頭の中で
ZELDAの「
黄金の時間(とき)」がリピートしていました(
懐かしいな、おい)。
「あなたを見失ったのはサハラの砂漠 あれから私はずっと貴方を探し求めている」という歌詞は『星の王子様』がモチーフなのだと思います。また来月。
・
ZELDA - 黄金の時間(外部リンクが開きます)
仕事ぎらいの哲学〜ヤン・パトチカ『歴史哲学についての異端的論考』(26.03.22)
もうすぐ四月。新入社員に贈るにには一般的に不適切とは思うが、数十年前、他ならぬ僕自身が貰った、こんな助言がある。
「どんな仕事も、やってみたら
…つまらないものだよ」
いや普通は逆、面白いものだよとか言うもんじゃないのかと思ったりもしたが、
人を見ての助言だったのかも知れない。その後「まあ原則つまらないものだし」で乗り切れる時もあったし、乗り切れない時もあった。
というわけで今週の日記(週記)

(上の画像かココをクリックで少し大きめの画像が開きます)
「そんなあなたも仕事が楽しくなる哲学」みたいな話はしません。するもんか。
どうしても働くのが楽しいとは思えない、この気持ちを怠け心とかでなく正当化したい、そんな人と一緒に頑張ろう・頑張って仕事をイヤがろうがテーマです。
あと逆に、趣味や娯楽で時々「
自発的に楽しんでるはずなのに、なんでこんなにしんどいんだ(これじゃまるで仕事じゃないか)」みたいな状態に陥る人の、考えるヒントになるかも知れません。なるといいですね。

* * *
○
基本的に仕事は嬉しくない(要素も多分に含む)
と認めること
映画監督の
伊丹万作(1900〜46)は「人生の意義は」と問われ「遊ぶこと」と即答したらしい。
「人生の意義は働くことではないのですか」と問うた取材記者に、さらに万作答えていわく「私はあなたのようには思わないのですが、なんなら炭坑の奥底で働いている人にも訊いてみたら如何ですか」
これを少々厳密に言い直すと、次のようになる:
「十二時間の機織り・紡績・穿孔・廻転・建築・シャベル仕事・石割が、彼の生命の発現だ、彼の生活だといえるであろうか?(中略)
その逆である。(略)
生活は、彼にとっては、この活動が終わったときに、食卓で、飲食店の腰掛けで、寝床で、はじまる」
(カール・マルクス『賃労働と資本』岩波文庫/強調は引用者)(
2014年6月の日記参照)
個人的につけくわえるならば、人生の意義は遊ぶこと・私の生活は趣味がメインで、給料をいただく仕事はあくまで(趣味を含めた)生活費のためと割り切っている人も、
こと正規雇用においては「なに言ってんだ、人生の意義は働くことだ」と全人格的な参与を強要されがちと思う。子どもの頃から将来の夢=就く職業であり、勤務が終わったあとの「食卓で、飲食店の腰掛けで」話すこと考えることは仕事のこと、仕事が趣味で生き甲斐という人は少なくない。伊丹万作に「更問い」した記者もそうだったのかも知れない。
それはそれで、幸福なことだ。
だが、そうではない人に向けた話を今はしている。
○
労働は罰かも知れないということ
ミシェル・フーコー(1926〜84)は歴史の発展が必然的に社会革命に帰結するという信念を拒絶した点で、たしかに非マルクス「主義」的だったけれど、マルクスと同様に、資本主義の成立が社会や人間を大きく変えたと認識して(も)いたようだ。
彼(フーコー)が着目したのは18世紀、工場労働の普及により、労働の価値は(農場で収穫した農産物や、マニュファクチュアで紡いだリンネルの量ではなく)労働者の数×労働時間で量られるようになったという変化だ。
※ちなみに
シルヴィア・フェデリーチは
「資本主義によって発展した最初の機械とは、蒸気機関でも時計でもなく人間の身体だった」その変化はエンクロージャーにより農村の自律が破壊された16世紀には始まっていた・それを18世紀だと捉えていた「フーコーは甘い」と批判している。
23年10月の日記参照。
ともあれフーコーに話を戻すと、労働の価値が(収穫物でなく)労働時間で量られるようになると、刑罰の形態まで変わる。それまで罪人を追放したり、八つ裂きにしたり、あるいは罰金を科したりだった刑罰が、量刑(期間)を確定したうえでの禁固・懲役に変わる。つまり肉体的苦痛(八つ裂き等)や経済的な償い(罰金等)ではなく
自由な時間を奪うことが刑罰になった。
だもんで、これを逆転する。工場で働いて労賃を稼げもしただろう時間を、監獄のなかでむざむざ奪われる刑→転じて、時間給で労賃を稼ぐ仕事も「時間を奪う」罰みたいなものでは。本サイトが提示する、もっとも仕事向けでない人のための労働観(その1)はこうだ:
なるほど、これは人生の時間を奪う刑に違いない。
では何の罪に対する刑罰なのか。
通勤電車で運ばれる人々(吾々)を鎖に繋がれた囚人になぞらえた
ザ・プリテンダーズ「チェイン・ギャング」(考えてみれば正に「労働=刑罰」観の歌だった)は「愛しあうことが罪だった」と歌っている。
ひゃー、ロマンチック!しかし
「私たちを引き裂いたかどで、いつかみんな滅びるだろう(They'll fall to ruin one day for making us apart)」という呪詛はクリッシー・ハインドの歌唱だとなおさら胸を打つ(
16年9月の日記参照)
そこまでロマンチックになれない吾々は「まあ反社会の罪だろうな」と思うのが妥当ではないだろうか。
だって罰を受けてるのに社会に反抗してないんじゃ割にあわないよ…というのは本末転倒な冗談として「仕事は生き甲斐」「労働は楽しい」と思えない時点で、すでに反社会的・反国家的とは言えるだろう。
オー・ヘンリーの短篇「
警官と賛美歌」は厳しい年の暮れ、なんとか刑務所に収監され飢えと寒さをしのごうと目論む無職男が、さまざまな犯罪を試みては失敗→教会の外で漏れ聞いた賛美歌に改心させられ「やっぱり働いてマトモに生きよう」と決意したところで警官に呼び止められ「何をしてるんだね」「見りゃ分かるでしょう何もしてないんでさ」→浮浪罪で収監される皮肉な話だった。これを中学生の頃、英語の授業で読んだ時は意味が今ひとつ理解できなかった。「教会に盗みに入るつもりだな」と誤解されたとかじゃないの?そうではなく、
賃労働に就かずフラフラしていること自体が犯罪という時代があったのだ。フーコーも書いている。監獄に収監されたのは働かない人たちだったと。フェデリーチも書いている。働かないことは反抗であり、群を為して移動し、そして働かなかったと。
○
これはSNS(マストドン)で読んだ受け売りだけど
言われてみるとたしかに
「勤怠」ってなんだよって思いますよね。
なんだよ「怠」って。
○
そもそも労働は罰であるということ
ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論IV』は
ゲオルグ・ジンメルの次のような指摘を引用している:
「(肉体労働にあっても)
その代価が求められているのは結局はむしろ労働の内面や、骨折りを厭う気持ちや、意志力をふりしぼることに対してである」(『貨幣の哲学』1900年/強調は本サイト)。
ベンヤミン自身はジンメルのこの見解を「プチブル的」と斥けているのだけれど(そしてベンヤミン自身は『ボードレール』で
「読者は詩人の汗を愛飲する」と書いていたように思う)、労働の労賃は骨折り自体ではなく
「骨折りを厭う気持ち」への報酬だというのが今回の文脈では興味ぶかい。
ものすごく基本的な、そして仕事向けでない人のための労働観(そのゼロ)として、たとえば
美輪明宏が説く「
仕事の報酬=我慢代」(『あゝ正負の法則』)という、これも仕事生き甲斐説のひとには怒られそうな価値観がある。
先々週の日記(週記)で少しだけ紹介したチェコの哲学者
ヤン・パトチカ。70歳にもなってハヴェルなど若い仲間を助けて当時の共産党政府に刃向かい落命するという、まるでフーコーが(盟友ドゥルーズに絶賛された)エッセイ「汚辱に塗れた人々の生」で書いた
「結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力のとの戦い、あるいはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか」(『フーコー・コレクション6 生政治・統治』ちくま学芸文庫)を体現するような末期を遂げたパトチカは、その著書『
歴史哲学における異端的論考』で、おそるべき事実を告げる。そもそも旧約聖書の創世記が書いているではないか、知恵の木の実を食べた原罪の罰に、人はエデンの園から追放され
「生涯食べ物を得ようと苦しむ」「額に汗を流してパンを得る」(新共同訳)を義務づけられたと。
あらゆる労働讃歌に反して(聖書の)
神が言っているのだ「罰として労働を与えた」と。はい解散。
…いや、まだ解散は出来ないだろう。もう少し引用と思索を続けます。
詳細に見れば原罪とは、神に逆らって「禁じられていたリンゴの実を食べた」ことではなく「神に逆らって」自分の意志を持ったこと自体である(
あくまで聖書の話)。ダメ押しとして、その実の効用は「善悪を知る」善悪を自分で判断する判断力を持つことであった。アリストテレスが言うように、動物は本能として生存や生存のための捕食に従事するが「何のために生きてるんだ」といった自意識はない(とされる)。自意識を有するのは、リンゴの実を食べた人間だけだ。
けれど人間は自意識をもった途端、その自意識で(動物と同じように)
生存や生存のための食糧調達を考えなければならない。せっかく得た自発性=自由を労働にしか使えないのだ。
人はエデンの園の安逸が素晴らしいものだと知るには知恵の実をかじる必要があったが、かじった途端あれは素晴らしいもの「だった」と失なわれた形でしか、それを知ることが許されなかった。まして自由については、そういうものがあると知ったとたん「それは手に入らない」と知ったことになる。知恵のかなしみ。
○
遊びすら労苦かも知れないこと
いちおう言っておくと「罰としての生であり労働」は世界のあくまで一部(ただし西洋的価値観という現代できわめて強力な一部)
の価値観で、それとは別の脱出口を探すことが、社会に逆らい労働は楽しくないと考える者たちの使命となるだろう。えー結局「使命」なのとボヤいてはいけない。
全力で労働を厭うのだ。
人は自発性を知った途端その自発性を生存(労働)に全振りしなければならない、だから労働はつらいというパトチカのテーゼ(
あるいはパトチカへの言いがかり)は「どうして遊びまでしんどくなるのか」という派生的な問いに答える手がかりになるかも知れない。ならないかも知れない。
『台湾文学コレクション1 近未来短篇集』(早川書房2024年/外部リンクが開きます)を読んで、地球がまるごと流浪したり(未読)都市まるごと何層ものレイヤーを物理的に入れ替えたりとスケールが大きな大陸(中華人民共和国)のSFと比べ、台湾のそれがAIやバーチャルリアリティなどの導入で変わる個々人の自意識のような(切実ではあるが)小ぢんまりした物語に収束しがちなのは小さな島国という事情のせいだろうか―
などと一般化するのは危険だが(でも伊格言『
グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』―
2018年9月の日記参照―も日本の3.11を念頭においた架空の原発事故をテーマにしながらも、事故で記憶を失なった主人公の自分探しが主軸であったように思われます…)
収録作のひとつ・
林新恵の短篇「
ホテル・カリフォルニア」も、そうした傾向が強く出た一作だ。イーグルスの同名曲を思わせる倦怠感と
「チェックアウトしても去ることは出来ない」という有名な歌詞そのままに、ヴァーチャル世界に閉じこめられた主人公(自覚あり)が興味ぶかい。もしかしたら、外の現実世界はこんなだったのだろうとAIが分からぬなりに推定したのかも知れない、主人公が起きてから寝るまで従事する「仕事」があって、それは画面の中のブロックを動かしては積み上げて消す「テトリス」だか「なんとかマッチ」みたいな「作業ゲー(ゲーム)」と判別がつかないのだ。
またも叱られそうな説ではございますが、仕事向けでない人のための労働観(その2)として、特に事務系の反復作業に従事している人は、書類を開く→処理する→しかるべく保管する作業の繰り返しが「これでは作業ゲーと変わらんな」と思うことは多少あるのではなかろうか。
逆に言うと(ものすごく醒めた目で見ると)吾々があんなに夢中でのめりこんでるゲームの数々も「報酬もないのに仕事と同じことをしている」営為に見えなくもない。実際「ノルマ」があり「スキル」を駆使して「ゲージ」を上げていく「作業」は、限りなく「仕事」に近い(かも知れない)。いや、ペースを守って同人誌即売会のための漫画を描きあげるのも、綿密に計画を立てて旅行を「楽しむ」のも、気がつけば作業=仕事と同じメソッドで行使されている・違うのは報酬があるかないかだけ、そう考えて吾に返り「スン…」となることも出来る。
ましてある種の作業ゲーは報酬がある「ポイ活」だったりする(それらの実体はクリア後に表示される動画広告を延々眺めることへの報酬だったりするのだが)。同人誌は儲け度外視の「持ち出し」に終わる人も多いだろうが「稼ぎ」を得ている人も少なくないだろう。今のようなデジタルゲームが普及する前に日本人の娯楽の代表格だったパチンコを「端から見ると終業後にまで機械を操作して、別の仕事をしているようだ」と評したのは、ロラン・バルトの『表徴の帝国』だったろうか、ヴィム・ヴェンダースの映画『東京画』だったろうか。
○
労働と仕事は別かも知れないこと
イタリアの碩学
ジョルジョ・アガンベンはその著作
『身体の使用』(原著2014年/上村忠男訳・みすず書房2016年/外部リンクが開きます)でハンナ・アーレントの議論を踏まえ「そもそも古代ギリシャ・ローマの語彙として
労働とは奴隷の労働をさす言葉だった(市民のすることじゃなかった)」という身もフタもない確認をしている。
諸説あるけれどパトチカと同じチェコ(チェコ・スロバキア)の作家
カレル・チャペックの造語になる「ロボット(robot)」の語源はチェコ語の「強制労働(robota)」およびスロバキア御の「労働者(robotonik)」であるらしい。前者robotaには、さらに古代教会スラブ語で「隷属」という意味もあるらしく(
Wikipedia調べ・外部リンクが開きます)、まあ「robotの語源は"万能"です」と唱える向きもあるようだけど(←これが諸説)、隷属やロボットであることが「労働」と直結しているのは面白い、いや笑えはしないが。こうした語源を踏まえて『機動警察パトレイバー』では同じ「労働」を語源とする「レイバー(labor)」をロボットに替わる呼称にしていた。
ハンナ・アーレントに話を戻すと、アガンベンが要約したとおり彼女(の研究)においても労働(labor)は元々奴隷のそれなのだが、それじゃ人生絶望しかないじゃないかと言えばそうでもなくて、アーレント『
人間の条件』においては労働とは別の「
仕事(work)」というカテゴリがある。同じworkという言葉が「成果物」「作品」をさすように(オタクに親和性の高い例だとイラストレーション・ワークスとか言うでしょ)「仕事(work)」は形に残るアウトプットのあるもので、本来「労働(labor)」は形の残らない家事労働(古代ローマではまさに奴隷の仕事―
2010年5月の日記参照)を言ったらしい。
では奴隷と聞いて吾々が思い浮かべちな(家事奴隷ではなく)綿花プランテーションの黒人奴隷が強制されたような生産に関わる工程は成果品が残るから「仕事(work)」か。そうではないだろう。作るそばから取り上げられる・もっと言えば生産工程も作業内容も自分でコントロールできない綿花奴隷たちの業務は・もっといえば現代アパレルの衣料品の縫製を実作業として担っている零細労働者の業務も・同じくらい薄給と言われる末端アニメーターの業務も、やはりロボットのような隷属という意味で労働(labor)だろう。それを成果・自分の仕事(work)と誇れるのは、綿花を「吾が農園」の製品として出荷できる農園主やファッションショーで「私の仕事(work)です」とお立ち台に立つデザイナー、「作家」として遇されるアニメーションの監督だけだろう。
※いや、アニメーションの制作に至ってはプロデューサーでさえ、スポンサーの意向の「奴隷」に過ぎないこともある―何度も蒸し返している
24年4月の日記参照。
そしてこれまた何度も何度も蒸し返している
ヴェイユ『自由と社会的抑圧』に言わせれば、自分の労働が流れ作業の一部分に過ぎず、「成果」を生みだす全工程に関与しコントロールできない限り、個々人にとって労働は苦役でしかない。
そこで今回の日記(週記)がようやく提示できる前向きな(?)提案は「自分で起業するのが一番じゃない?」である。小商いのすすめ。たしかに自分が立ち上げた醸造所を「
有頂天醸造」と名づけたり、大量生産品の「一生懸命営業中」みたいな看板の代わりに手書きで「
やってます」と書きつけた紙で済ませたりするのは、いかにも自由で楽しそうだ。

ただしコレとて、楽しいのは創業者であるうちだろう。日々の作業が旧約聖書的な労苦でないかという問題は別にしても、事業がひとりで賄いきれなくなり、たとえば帳簿を税理士に委ねるなどはともかく、従業員を雇って使役するようになれば、個々の従業員にとってソレはもう工程の一部のみを命じられたままにこなす「労働(labor)」に他ならない。
創業者になって人を使役し支配するのが楽しいんだよ、みたいな話は
今回もっとも唾棄すべきなので捨象する。
逆に漫画家のような個人事業主ですら、それが商業出版となり編集者や出版社にある程度コントロールを奪われると「仕事(work)」の喜びは希薄になる。酷い(ひどい)編集者のせいで作家としての幸福を断たれたという酷い(むごい)話もネットには散見される。
まして支配される労働者(robotonik)でありながら自分の業務を仕事(work)のように思え・経営者マインドで自発的な創意工夫を成果(work)として献上しろという社員教育・まして零細労働者に強要される個人事業主化などは、成果はよこさず隷従を強化する、大いなる詐術だろう。
喜んで「仕事で自己実現」をめざす人もいるのだろうが、それに限界を感じた人を想定して今回の日記(週記)は書いている。
冒頭のマルクスに話を戻せば、かの『資本論』(
未読)は、自分たちの生活の範囲内で作って使うぶんには使用価値のみ問われていればよかった布や衣料などの成果品は、市場に出されるや商品として買ってもらえるか・もらえないかという「命がけの跳躍」をしなければならないと説いた(
らしい)(
未読)。そこらで自分の労働条件・いくら貰えるかと夢中で話している人たち・そんな人たちを焚きつける転職案内の広告など、あるいは「チャンネル登録・高評価をよろしくね」と売りこむことに余念がない個人動画主(いわゆるYouTuber)を見ると、自分を命がけで商品化しようとする味気なさに時々感じ入ったりしてしまう―だったらどうしろと言うのか、と問われれば現状では答えようがないのだが。
そこで急遽、今回の日記(週記)の結論ではないがオチに入る。
ハンナ・アーレント『人間の条件』の分類は(奴隷としての)労働・(事業主としての)仕事のほかに、もうひとつのカテゴリを設けている―公共・政治と言われる分野での責務(あるいは責務を負う権利)の行使がそれだ。
己のために利権を回すとか、そうゆう日本人が「政治」と考えているものとは別の、自分だけの利益ではないインフラの整備など公共の利益に関わる責務を果たす権利・義務は、古代ギリシャやローマでは市民だけに認められたもので(奴隷や女性には政治に参画する「権利」がない)その権利は兵卒として戦場で自らの命を危険にさらすことと不可分であったというアガンベン的(?)な由来譚は一旦措こう。
多くの人が言っていて・僕は
松岡正剛氏の文章で知ったのだけど、日本だと「カセギ」と「ツトメ」という分類があったらしい。「カセギ」はその名のとおり生活の資を稼ぐこと。それに対して「ツトメ」は、たとえば町火消し(消防団)に加わるとか御隠居として若い衆に助言をするなどの社会的責務を言ったらしい。
こうした「ツトメ」も、
ともすれば国家への奉仕みたいな強要に簒奪されかねない危険があることは踏まえたうえで、
ここまでつきあうくらい暇で物好き(
いつもすみませんねえ)・かつ
「労働がつらい」のみならず・趣味や消費ですら「カセギ」や「成果」を強要されてる気がして息が詰まってる人に、それとは違う「ツトメ」という別のカテゴリもあると。
それは面倒な責務の上積みかも知れないし、なんらかの脱出口かも知れない。脱出口でもあるといいですね。
*** *** ***
【追記】なんで今回いきなり漫画かというと、精神修養のために入手した中国の古典『菜根譚』(岩波文庫)をパラパラめくっていたら
「人心に一部の真文章あれども、都(すべ)てに残編断簡に封錮し了らるる(人間の心には、一冊のりっぱな書物が備わっているのに、古書の散り残りや切れ切れに、全く閉じこめられてしまっている)」という一節が目に入り、うわー図星=他人(ひと)が書いた本の引用や紹介ばかりしてる自分みたいだ、しかし自分の中に(それらを必要としない)一冊の書物なんてあったっけ→立派かは知らんけど借り物でない創作があるやんと久しぶりにペンを入れたくなった次第。あと見てのとおり今回の日記(週記)と内容(レトリック)がかぶるため、いま描いておかないと「前に文章で同じ言い回ししたからボツ」となり勿体ないと思いましたゆえ…
そんなわけで今週は頑張りすぎたため、来週はお休み。月末か月はじめに小ネタのサルベージをします。
【26.03.29追々記】途中うろ憶えでベンヤミンの(ボードレール論にあった)言葉として「読者は詩人の汗を愛飲する」という一節を引いたけれど、
やっぱりうろ憶えでした。大塚の宇野書店に当面行く機会がなさそうなので、お土産で買った『パサージュ論2』(岩波文庫)が一冊ほぼボードレール論のための覚書き集で

その断章のひとつにボードレール自身の言葉として、二流の作品でも作者の「意志」が
「一つの個性を与えるに与えるに足る」「意志とは、よほど立派で、常に実り多い能力であるに違いない」…どうやら皮肉なのだった。作品じたいではなく作者当人への(しばしば下世話な)人間的興味=ヒューマン・インタレストがベストセラーを生むというのは「そういう時代(タレントの書いた小説が売れるとか)」が日本で本格化した1980年代に中島梓氏が指摘(批判)していたように
思う(←本当は確信あるけど今が今なので少し謙虚になっている)。まあボードレールはそこまで踏みこんでるわけじゃないと思うけど、
作者がこんなに・こんなふうに頑張って作品を作り遂げたと勘繰るのは批評・あるいは単にそこまでいかない「観賞」でもかなりの部分を有する要素ではあるまいか。むろん努力が透けて見えるのは浅ましくていけない・天の衣に縫い目がないように「なんにも努力なんてしてませんよー私のはぜんぶ才能ですからー」みたいな顔でシレッとすごいことしなさいよという意見も世の中にはある。
つまりいつもどおり物語の話をしています。自分がうろ憶えていたボードレールの言葉は、正しくはこうでした:
「見る者は努力を味わい、眼は汗を飲む」
地上には居られないほど〜シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』(26.03.08)
今週の日記(週記)にはb>シモーヌ・ヴェイユ
『前キリスト教的直観 甦るギリシア』(原著1951年/今村純子訳・法政大学出版局2011年/外部リンクが開きます)の核心?に踏み込んだ記述があり、これから読むので先に内容を知りたくないひとは(後半に出てくるヤン・パトチカも)スキップ推奨です。まあ自分ごときの上っ面の理解で原典の汲み尽くせない興趣がそう削がれることもないと思いますが。そしてむしろ「なんだ、この程度の本なのか」と誤解され読まれなくなるほうが心配ですが。
*** *** ***
近年は夏目漱石や澁澤龍彦の漫画化を手がけて評価の高い
近藤ようこ氏。自身も「最も好きな作品」と語る
『水鏡綺譚』(→ちくま文庫2015年/外部リンクが開きます)は狼に育てられ「(良い)人間になること」を目指す少年ワタルと、記憶を失なった少女・鏡子(かがみこ)、二人の「まだ(もう)人間でない者たち」の旅路を描く傑作だ。先取りして結末を言ってしまえば、鏡子の記憶は戻り、ワタルもどうやら人として生きていけそうな見通しを得て終わるがゆえに、もう共に旅をつづける理由はなく袂を分かつのが(えーナイスカップルなのにと)喪失感きわまりない。けれど元々は未完で、人でない状態の鏡子を愛おしく思ってしまい「このままでは自分は当人のためにならない愛(執着)で鏡子をダメにしてしまう」とワタルが歯を食いしばる場面で中断されていた、十年くらい経って加筆され大団円を迎えるとは思わず「なんて悲しい話なんだ…」と読む当方も歯を食いしばっていた作品なので、完結はまことに喜ばしかったのだが。
そんな鏡子の「人間でなくなってしまった」さまを雄弁に活写するエピソードは中盤あたりにある。
あ、言い忘れていましたが物語の舞台は戦国時代の日本です。大河ドラマや網野善彦の世界。寄る辺ない主人公たち二人は行く先々で貧民救済の施しにあずかって旅を続けているのだが、他にも施しを求める人たちが列をなす中、ワタル・鏡子・それに通りすがりの男という三人でひとつの粟団子を施される。受け取った鏡子は団子を二つに割り、ワタルと通りすがりの男に渡すのだが、二つに割ってしまったもので自分の取り分がない。それじゃダメだろうとワタルにたしなめられつつ童女のようにポカンとする鏡子。それは微笑ましくも気高いように見えて、しかし記憶とともに自分が人間であることも忘れてしまった鏡子の悲劇でもあった。
だが実は善意や施しとは、時に・しばしば「自分の取り分まで他人に分け与えてしまう」無私を、人に要求するものではないだろうか。端的に言えば、電車の中で人に座席を譲れば、自分は立つしかない。救世主と讃えられるイエスに、一人の青年が問う。どうすれば神の国に入ることができますか。イエス答えて
「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい(中略)
それから私に従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(マタイによる福音書19.16・新共同訳)。盗賊に襲われ傷ついた旅人を救けた「善きサマリア人」も、旅人のために全財産を差し出したわけではないだろう。それに比べると苛烈に過ぎるイエスの教えだが、それですら「そのあと私についてきなさい」というからには命まで他人のために捨てろと言っているわけではない。
ただしイエス自身は自分の命まで他人に分け与えてしまった。そしてイエスと同様に、自分の命まで他人に他人に分け与えてしまう人たちがいる。そのこと自体を責めているのではない。極限状況ではかかる事態もありうるだろう。だが(この国であまりに多くの人々が「天皇陛下のために」自ら命を投げ打ったように
間違った対象に命を賭けてしまうのは別としても)人のために座席ばかりか命まで譲るのは、事実として、もう人であることを失なった状態なのだと鏡子は教えてくれる。だからこそ、それは人にとっては「極限状況」=人間である条件すら剥奪された状況なのだ、とも言える。
ナザレのイエスは鏡子とは別の意味で人ではない(いや人でもあるんだけど)神の子であった。だから神としての彼は、己は命を投げ打ちながら(そして人間として「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と苦悶しながら)、救いを求める人間の命までは奪わず「すべてを捨てて、そのうえで(残った命ひとつで)私に従え」と言ったのではなかったか。
* * *
昨年の読書旅行(
今年1月の日記参照)から続いていたギリシャ悲劇『アンティゴネー』(
しかしタイミングが取れず未読のまま)との縁。
ジャック・デリダが先立つ『コロノスのオイディプス』で父オイディプスが死に場所を明かさない行方知れずとして最期を迎えてしまったため、娘として嘆き弔う喪の権利を奪われてしまったアンティゴネーの悲嘆を語り、
ヴァージニア・ウルフは『アンティゴネー』で今度は造反者として埋葬を禁じられた兄の葬儀を遂行し、みずからも落命するアンティゴネーの悲劇をとおして(兄=自身にとっては甥の弔いを禁じた)テーバイのクレオン王を、女性の意志を抑圧する家父長制の権化として告発した。
この流れで実は
シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』(
先月の日記参照)にもアンティゴネーが登場していた。自分としては、この順番で良かった。クレオンが国家の法(≒家父長制)を、アンティゴネーが愛や親族の・あるいは大地の法を代表するという、デリダやウルフも踏まえている読解を究めた結果、またもヴェイユは極限まで進んでしまうのだ。
国の法に逆らった者の追悼を禁じる王クレオンに対し、ソフォクレスが描いたアンティゴネーはこう抗弁する。
「わたしは憎しみをわかち合うために生まれて来たのではありません。愛をわかち合うために生まれて来たのです」
「アンチゴネー(中略)
のこの最後の一文はすばらしい」とヴェイユは書く。だが続いて彼女はこうも書くのだ。
「だが、クレオン(略)
の言い返しはさらにいっそうすばらしい。」その台詞とはこうだ:
「それならあの世に行くがよい。愛する必要があるならば、あの世の者どもを愛すればよかろう」(強調は引用者)。
アンティゴネーが、というか人間が愛せるのは死者だけだと
「この世界で愛することは、許されてはいない」とヴェイユは言う。なぜなら真実も真の愛も、この世の外にしかないからだ。神の統べる天上も、死者たちとともに神が住まう地下の冥府も、本質(もうひとつの世界)に変わりはない。だからアンティゴネーは(つまり人間は)死者しか愛せないのみならず、真に愛するためには自らも冥府に去らねばならない。それを冷徹にあばき、かえって姪を導くがゆえに、ヴェイユにとってクレオン王の死刑宣告は
「すばらしい」ということ、なのだろうか。
それはあまりに苛烈が過ぎる。だからこそ彼女の思想は自分(を含めた読者を)惹きつけるとはいえ。
シモーヌ・ヴェイユの「悲劇的なほどの明晰さ」を最初に感じたのは、実際に彼女が女子高等中学(リセ)で講義した記録である
『ヴェーユの哲学講義』(原著1951年/渡辺一民・川村孝則訳・ちくま学芸文庫1996年/外部リンクが開きます)でのことだったと思う。以前まんがにもしている話を(もう忘れられてるか知られてもいない可能性が高いので)再び蒸し返すと

それより以前から「人間は三つの点の間に勝手に線を引いて『三角形』を見る」というゲシュタルト心理学の発見を梃子に「物語とはバラバラの点(事物)のあいだに線を引き、星座をつくる営為ではないか」という観点で僕は自身の物語論をあたためはじめていた。だとすれば現実の世界において「人は平等だ」とか逆に「世界の中心で輝く日本」とか言うのも、自分にとっては物語だ。そして正三角形を上下さかさに(上に点がふたつ・下の真ん中に点をひとつ)すれば、それだけで人の顔に見える→かつて一世を風靡した「恐怖の心霊写真」が大概そうした誤認であったように、
人は間違った線も引きうる等々。だがそれは措く。詳しくはこちらをどうぞ→
電子書籍『物語の話をします』試し読みページ

(外部リンクが開きます)
そこにも書いたとおり、それとほぼ同じことを
「人は二つの点の間に線を見てしまうよう呪われている」と書いたのがヴェイユで、三つでも良かった点を二つという最小単位まで切り詰める徹底ぶりと、それを
「呪われている」と呼ぶ彼女の悲劇的な明晰さに震撼させられた。

邦題では「甦るギリシャ」と副題がついた『前キリスト教的直観』は(不勉強で詳らかではないが、たぶんアリストテレスとキリスト教の融合を図ったのだろう中世ヨーロッパのスコラ哲学、とは別の仕方で)アリストテレスを飛び越え、もっと以前のギリシャ哲学を後に出現したキリスト教の本質を予言する(古代ギリシャはキリストの出現で初めて成就した)ものとして、両者を力業で結びつける試みだ。
具体的にはプラトンのイデア論は「真実はこの世の外にしかない」という上述した『アンティゴネー』読解にも見られる思想を語り

同じ根を「持たない」数字どうしを結びつけ調和させる(
「似ているものや同じ根をもつものに、調和は必要ではない」)幾何学あるいは関数というピタゴラス派の発見を、人と人・人と神・人と「この世界にはない」真実を媒介するイエスの存在に結びつける。
ちなみに、この「媒介者としてのイエス」という着想は、アフリカの神話伝承からアメリカでのブードゥー信仰・ひいては「悪魔に魂を売ったギタリスト」ロバート・ジョンソンの伝説まで連なる十字路(クロスロード)の神話的位置づけにもつながるものだ。そのあたりを
山口昌男『アフリカの神話的世界』に基づき詳らかにした
2009年11月の日記を
サルベージし忘れていたので急遽サルベージしました(ダメな子…)。こうしてアフリカにも遡る・波及できる哲学が古代ギリシャまでしか掘り下げられず、西洋の哲学や現代思想においてまでギリシャがすべての起源のように扱われてしまうことへの不満・歯がゆさについては、別の場所で小出しにしているし、今後も小出しにしていくでしょう。
けれど話の核心はやはり、そうして「媒介者である神の子イエス」を古代ギリシャと(力業的に)結びつけたヴェイユの、人でない半神であるがゆえに成しえた(と僕には思われる)イエスの十字架での死を、人もまたなぞるべきだ・なぞるしかないという結論だ。
細かい論証は端折る。神も真実も愛も、この世の外にあるとするヴェイユの推論は、力が支配する現世では認められない真実や愛のためには(アンティゴネーがしたのと同様)人は命を投げ打つしかないという結論に至る。そして言うのだ、
「犠牲は人間の唯一の目的であり(中略)
人間がその凡庸さと傲慢さにもかかわらずその存在を許されているのは(中略)
神への愛のために、人間がその存在を放棄できるようにするためである」
大昔に大学受験のために紐解いて、結局あまり身につかなかった英文法の例文集に「
二人の恋は地上で成就するには純粋すぎた」という言い回しがあった。
身につかなかった証拠に英文でどう言うのかは全く憶えていないのだけれど、この言い回しが実は、ただ単に「二人の恋は成就しなかった」心変わりだろうがケンカ別れだろうが、恋人どうしが破局に至ったとき周囲が「ああ、地上で成就するには純粋すぎたんだね」と話をボカすためのフレーズだと知り、なんかちょっぴりガッカリした記憶がある(
身についてないので記憶違いかも知れません)。しかしこの「現世には存在できないほど純粋」という言いようは長く自分の脳裏に刻まれ、たとえば今こうしてヴェイユの殉教的な思想を垣間みた反応として自ずと出てしまう。
たしかに理屈として間違ってはいない。他の者が妥協してウヤムヤにしてしまう極限まで突き詰めた論理・倫理は、自分を(人を)強く惹きつける。だがその純粋さは人が現世に生き、現世を・現世で愛することを洞窟に映った影(偽り)として否定せずにはいられない、惹かれて近寄る者をそのままで焼き尽くしてしまう炎のような「正しさ」ではないか。
* * *
デリダ『歓待について』で紹介されていたチェコの哲学者
ヤン・パトチカ(1907〜77)もまた、ヴェイユと同様の慄きを読み手に与える思想家だった。
その主著
『歴史哲学についての異端的論考』(原著1975年/石川達夫訳・みすず書房2007年/外部リンクが開きます)はフッサール・ハイデガーの批判的継承からヨーロッパの哲学史を独自の視点で凝縮した一冊。読むと(こんな形で西洋哲学史を要約できるんだ)と感心しきり。あらためて、カフカがおりチャペックがおり、ムカジョフスキーのチェコ構造美学論(
24年12月の日記参照)があり、美術ではミュシャがおりと…あらためてチェコってヨーロッパ文化の奥の院・裏の首都くらい存在感あるんじゃないか…て24年12月にも似たようなこと書いてますが。少し抜粋すると
「魂の配慮は(中略)
ローマ帝国において(略)
法的な状況(法的な公正さ)
を求める努力という様相を帯びる」
すなわち
「自由はもはや、自分と平等な者たち(他の市民たち)との関係によってではなくて、超越的な〈善〉との関係によって規定される」
そのような形(正義や公正が人間同士ではなく神=超越的な善のための義務として遂行されるという形)で
「魂の配慮は、ヨーロッパを創り出したものなのである」
しかし
「西ヨーロッパの生活における大きな転換期は、十六世紀であるように思われる(中略)
魂の配慮、在ることの配慮ではなくて、持つことの配慮、外的な世界とその支配についての配慮が、優勢になる」
いいでしょお?
「生はもういいかげんに喜んで生きたいのだが(強調は引用者)
、しかし、戦争を生み出すのはまさに生自体なのであり、生は自らの手段によって戦争から身をふりほどくことができない(中略)
我々が〈力〉を支配して〈力〉の助けを借りた安全保障を期待すると思っている所で、我々は実際には(略)
狡猾に形を変えても終わっていない戦争に負けているのである。(略)
このような見通しの終わりは、どこにあるのであろうか?」
という慨嘆には、ヴェイユの「力」への軽蔑に通じるものがある。
しかしながら
「真理を持つこと」より
「真理を探求すること」に重きをおいたことでソクラテスは
「恐らく最大の哲学者ではないにしても最も真の哲学者である」としたパトチカもまた、ヴェイユとは別のかたちで「滅私を通じてのみ到達できる真実」という発想に与しているように取れなくもない。二つの世界大戦に立ち会った彼は、前線でぶつかる兵士たちに敵味方を超えた共感・魂の震えを見出していると読めてしまう―そして僕は、そのような形での戦争の称揚(とも取れかねない主張)に危うさを憶えてしまう。
実際ヤン・パトチカは70歳にもなって、後に民主化チェコの初代大統領となったハヴェル(
ああハヴェルも読まなきゃなあ)に協力し、まだ全体主義まっただなかの状況下で民主化を訴える「憲章77」に協力し、苛酷な訊問がもとで落命してしまう。ヴェイユと同様、それが自身の哲学や善にたいし忠実だった・誠実だった結果なのは分かる。ただまあ、真正直に究めたら本人が命を投げ打たざるを得ない哲学って…「何だ」とか「それでいいのか」とかは言えない。言えないけど、その苛烈さにたじろぐ自分がいる。
ちなみにデリダ『歓待について』の共著者であった
アンヌ・デュフールマンテルも、ちくま学芸文庫の訳者あとがきによれば2017年
「溺れかけた子どもを助けようとしてみずからが溺れ死去」したという。日本でも同様の亡くなりかたをした漫画家のかたがおられましたね…自作のキャラに安倍政権批判を言わせるイラストを投稿し「政治を持ち込むな」と批判されたりもしていたのではなかったか。それはまったく正しい・「溺れかけた人を助けようとするのは危険」といった常識とは別の次元で正しいとしか言いようがない行為だと「は」思うのです。けれど、それだけが哲学か、「善も愛もこの世の外にしかない」以外の善や愛はまやかしなのかと思う心情も(まだ)大事にしたい。
ヴェイユが選んだ衰弱死という末期より、生きて残した思索が後の人々に残した麦(一粒の麦もし死なずば…の麦ですよ)として劣るかと言えばそんなことはないと思うし、亡くなった漫画家さん(ものすごい商業的成功を収められた方だった)もそうでしょう。
こんなあたりで悶々うろうろとしながら、日々電車で座席を譲っております。
* * *
ヤン・パトチカについて、もう少し書きたいことがあるのだけれど(
本サイトあるある=実は今週の日記はその「マクラ」で納まるはずだった)来週は
確定申告の〆切があるので少し先になるかも知れません…
*** *** ***
(追記)おおむね奇想に溢れ、おおむねサッパリ分からない現代宇宙論のなかでも、きわめつけの奇想かつ最強に意味不明なホログラム宇宙論。トマス・ハートッホとの共同論文に、より分量の多い解説を加えた
スティーヴン・ホーキング(およびハートッホ)『ホーキング、最後に語る 多宇宙をめぐる博士のメッセージ』(原著2018年/佐藤勝彦・白水徹也訳と解説・早川書房2018年/外部リンクが開きます)を読むと、相変わらずサッパリ分からないんだけど「ブラックホールが有する情報は(三次元の)内部ではなく(曲がってるけど面としては)二次元の表面にすべて現われている」という話が、漠然と(つまりホログラム宇宙論も同じようなもの?)とイメージを描く手助けになった感じ。
この分野には特別に不案内なので、間違ってる可能性も限りなく無視できないのですが。
小ネタ拾遺・26年2月(26.03.01)
(26.02.02)春はココだぜ一足お先。

寒さ 寒さって何だ… 起きられないことさ…ま、こうして起きてるけどね。気を取り直して、2月です。
(こうして旧主題歌をもじって書いたものの、リブートされた新『ギャバン』は「…」な内容でした。下記02.22あたりを参照)
(26.02.16)【続報】そういえば、少し前の記事ですが・
諏訪湖の御神渡り8年連続で出現せず 戦国時代以来の最長記録に並ぶ(朝日新聞/26.02.04/外部リンクが開きます)悲しいけれど気象予報士・森田さんの分析どおりなのかも(
先月の小ネタ1/29あたり参照)。いずれにせよ上諏訪・下諏訪あたりをのんびり散策してみたい(下諏訪は再訪)気持ちは生まれたので、孵るか分からないけど大事にフトコロで温めていこうと思います。
(26.02.17追記)諏訪とか台湾とか、
お前はただ単に「ここに居たくない」「逃げ出したい」だけではないのかという疑惑が自分でも捨て切れない。別に名所でも観光地でもない(ただ単にかつて佇んだことがあるだけの)街角や交差点なんかが不意に恋しくなったりするからなぁ。
(26.02.07)
キュアアルカナ・シャドウ(『名探偵プリキュア』公式/外部リンクが開きます)の声をあてているのがアニメ版『ゆるキャン』しまりん(志摩リン)と同じ東山奈央さんと知りて描ける:

怪盗団ファントムの皆さん、お宝「マコトジュエル」を全てコレクションしたら氷漬けにされた愛しいひとを救出できると信じて、心ならずも悪事に手を染めてるのでなければ良いが(それ怪盗団じゃなくて「快」盗戦隊…)
(26.02.21追記)『名探偵プリキュア!』2027年を生きる主人公がタイムスリップして1999年の世界でプリキュアになる話なのだけど、現地?当時?で出逢ったショタ妖精のジェット先輩によれば「嘘で覆われた世界」を造らんとする怪盗団ファントムを阻止するのが、この時代のプリキュアの使命らしい。「でも
私の時代(2027年)
は嘘で覆われた世界じゃないし、ここ(1999年)
と変わらないよ?平和だよ?」(大丈夫なんじゃない?)と反論する主人公に先輩は
「未来は絶えず変わるんだ。僕たちが頑張らないと此処も、お前の時代も嘘で覆われた世界になるかも知れない」と奮起を促す…
いや、2027年を待たずして既に世界は嘘で覆われてるのだが?
ひょっとして今って、1999年にプリキュアが負けたほうの世界?
それこそ1999年より前に完結してる漫画なのでネタバレを許してもらえば、
清水玲子のSFサスペンス『
月の子』が人類滅亡の引き金となるチェルノブイリの原発事故を、主人公たちが阻止する話だった(作中で「良かった…人類が滅びなくて」と安堵してる主人公たちを見ながら
「ちょっと待って、事故が起きてしまった世界に吾々いるんですけど?」と読者たちだけ絶望させられる仕掛け)(しかも主人公が事故を阻止できなかった「こっち側の世界」を幻視して「大丈夫、そんなのは悪い夢だ」と恋人に慰められて終わる念の入りよう。こっちの世界は悪夢か…まあそうですよな…)を思い出すなど。
・
Suede - Life is Golden(YouTube/外部リンクが開きます)
↑息を呑むほど美しい晩秋の落葉に覆われた廃墟がじつはチェルノブイリ事故で街ごと放棄されたプリピチャの風景(2018年)というSuedeのMV。放射線で人が立ち入れない区域だからこそドローン撮影の滑らかさが際立つのもテクノロジーが人間を追い越してしまった感があって皮肉。
(26.02.22追々記)「1999年で頑張らないと未来(2027年)も嘘で覆われてしまう」設定で「
嘘はダメ」「
人の夢や真心を踏みにじる嘘はゼッタイにダメ」と繰り返し強調する名探偵プリキュア、やはりフェイク・トゥルースが生成量産される現実への異議申し立てではなかろうか。
むろん番組制作にあたって最優先されるのは玩具や関連グッズの売り上げであるにせよ(
24年4月の日記参照)とくに『プリキュア』には「お子さま向けなのでキチンとした(コンプライアンス面で糾弾されない)建前は守ろう」という意識も明確にあるようだ。
・参考:
おうちのかたへ(東映アニメーション『名探偵プリキュア!』公式/外部リンクが開きます)
一昨年に同じニチアサ枠で放映されてた『爆上(バクアゲ)戦隊ブンブンジャー』もお子さまが大好きな自動車モチーフで主人公たちの名前が大也(タイヤ)に未来(ミラ)・先斗(サキト)、敵の名前もイターシャにデコトラーデ、悲鳴から得られるエネルギー「ギャーソリン」を奪いに来たとふざけ倒した設定なのに、終盤になってラスボスが「
この星(地球)はイイねえ…戦争に環境破壊、上質の悲鳴で溢れてる」と嘯(うそぶ)き、ギャーソリンだけ上納して「
そのままでいろ」と地球の偉い人たちに持ちかけるなど(まあ爆上戦隊に子どもたちが「お届け」したポジティブな応援のエネルギーで阻止されるんだけど)痛烈な社会批判に余念がなかった。
比べると戦隊シリーズに替わって登場したギャバンは、異星人を「犯罪をはたらく移民」として描く冒頭から「海外で流行ってるのでマネしたくなりましたが根幹が理解できてないので変に情緒に流されてグダグダです」なテロリストの造形・「暴徒に襲われる機動隊員さんたち可哀想・たすけてギャバン」…あまりの体制翼賛ぶりに、これは今後の軌道修正は困難かなあと先週の第一話で撤退しました。テロとか飛びつくわりに全然描けてないの、前にチラ見した刑事ドラマ『相棒』なんかもそうだったし、あれもテレ朝か…
(26.02.01)裏金裏金って「コッソリお金もらってる!ズルい!」じゃなくて「で、その裏金とやら何に使ってるの?」と考えたら高級料亭でドンチャン騒いだり革張りのソファーで猫を撫でたりするのに使うわきゃなくて、まあそういうのにも多少はトリクルダウンするのかも知れないけど、一番の使い道はふつうに考えて「今の地位をまた金で買うために使う」だろうと。てゆか裏金なんて、他に使い道なくない?
別に有権者に直に札束バラまいてるわけじゃなくて(まあそういうのも多少は以下同文)これは別の事例だけど今回の選挙で立憲と公明が急に合体して中道になって、街に溢れてた公明党のポスター(公明党を支持すれば収入が増えて寿司が食べれますってやつ)がアッという間に中道のポスターに替わった、
それに必要な費用と人力は何処から来たかと考えたら、まあ流石だなあ…という話。
褒めてない。
ポスターだけでなく運動員を雇ったり、根回しするのにどっかの会議室なり何なりを借りたり、そういう活動には合法的なものも非合法もスレスレもあって、あるいは合法でも道義的にどうよとか、SNSのインフルエンサーを育成したり、こういうのだって何処でお金が動いてるのか分かったもんじゃない→
・
選挙争点や各党の政策比較巡り「偽番組」、世論水増し「誤解与える可能性」…量産する男性「ウソはついていない」(読売新聞オンライン/26.01.31/外部リンクが開きます)
裏金を投入して選挙で勝つ、選挙で勝てば裏金が寄ってくる。素敵な永久機関…
ここまで書いたことには何の裏づけもないのだけど(もしかしたら裏金とやら全部ソファーと猫に消えてるのかも知れない)もし自分の見立てが間違ってないとしたら、そのサイクルの中で何のおこぼれにも与って(あずかって)ないのに、裏金で作られた「高市さんスゲー」とか「共産党!共産党!」とかに踊らされて、票を献上しつづけてる有権者は、さすがに可哀想すぎないだろうか。いやまあ「踊れる」「いい気分になれる」だけで十分報われてるのかなあ。
(同日追記)大雪など天災に見舞われてるわけでもない(
見舞われてる地域の方々には心からお見舞い申し上げます)横浜みたいな首都圏の大都市で、ついに国政選挙一週間前の日曜まで投票券が届かず期日前投票を見送った(もちろん制度上は投票券なしでも本人証明書の提示で期日前投票できるはずですが)って、高市早苗氏って行政府の長には甚だ不向きな一個人が引き起こした「例外状態」(そのとおりイレギュラー・仕様ではなくバグって意味と、それが仕様になってる無法状態をさす政治学用語のダブルミーニングです)なんだけど、同時に、この社会のガタつきがもう「徴候」とは呼べない「症候」(
それぞれ辞書で調べてね)・それもかなり末期に来てるのではと実感させられる。
たとえば日本の電車運行は素晴らしくて時刻表どおりで、こんなの外国では見られない的な自国褒めをする人は今だに居るんだけど、僕の体感では首都圏で電車が遅延しない日ってない程なんよ?それも「日本すごい」の人が言いたいみたいに外国人はルーズだけど日本人はシッカリしてる的な状況とも少し違って、ルーズではないんだけどドアの不具合から痛ましい人身事故まで、それこそイレギュラーな事態が仕様みたいに恒常化して毎日のように電車が遅延している。これは最初からルーズなのとは別の意味で、深刻な症候なんじゃないだろうか?
そのほか、民営化の結果として郵便物の即応性が失なわれたとか、地震や豪雨の被災地が当然のようにネグレクトされるとか、つまり「
日本は勤勉な日本人がキッチリ回して上手くいってる国」
という幻想は、もう幻想だってくらいガタガタになってる。
SNSで誰かが言ってたけど、戦争も「世相が暗くなって限界まできて始まる」感じじゃなくて「街や世間・TVやネットの花やかな処は花やかなままで、
でもそういえば戦争が始まってる」そういう始まりかたをするモノなんじゃないかと。地方の被災地が捨て置かれたまま、皆が万博に嬌声をあげていた昨年って、そういう意味ではもう壊れてたんじゃないかと愚考する次第です。
(26.02.04)もうなんかすごく暗い情念が渦巻いたりもした(してる)んですけど、
昨日ようやく届いた(渦巻いてる)投票案内で期日前投票を済ませてきました。どうやら自分、世界が滅びる前日でも林檎の苗木を植える派だったらしい(
渦巻いてる渦巻いてる)。

古え(いにしえ)の同人誌者にはお馴染み「レザック66」用紙を長らく使ってきた横浜市の投票証明書、のっぺりした普通紙に替わって(カラーにはなったけど)個人的にはショモくなっちゃった感…と思ってはいかんのか。まあ仲良くしようぜ。
(26.02.08)自分が関心ないから気づかずにいたけれど、そうか今は冬季五輪の真最中だかクライマックスだかなんですな…鼓腹撃壌タイプの人たちはますます選挙から遠ざかるし、投票に出向くひとたちもメダル報道で演出されたナショナリズムに行動を左右される(あ、「左」はされず専ら「右」される)。何から何までよく出来ている。褒めてはいない。
(26.02.09)でも心配してくださる(?)かたが居らしたら申し訳ないけど昨日の選挙の結果がショックだ!絶望した!て状態でもなくて(
その割りに左右違う靴で外出し一日過ごしたようですが)だってその、昨日今日で何が変わるってくらい詰んでたわけで、何手も前から。

だもんで
先日の週記にも書いたけど、誰に責任があるの自分には責任がないの言っても、
結果は皆にのしかかる。それをどうするか考えたほうがいい。たとえば下の記事に詳しい「政府は復興所得税2.1%を1.1%に軽減すると言っているが、半分になった代わり復興所得税の年限は二倍に伸び(つまり取られる額は変わらない)そのうえ
浮いた1%は恒久的に防衛費に転用される」とか。
・
増え続ける防衛費…安保政策「大転換」の是非 復興税を防衛の税に転用も 被災者の思いは【報道特集】(TBS NEWS DIG→niftyニュース/26.02.06/外部リンクが開きます)
はい、一昨年の暮れから本サイトの左に貼ってあるバナーのコレです。

あるいは、記事の中ほどで重点的に取り上げられている呉の製鉄所跡地への巨大防衛施設の誘致など、美少女の萌えキャラをマスコットにでもすれば(そうでなくてもミリタリー大好きな)声の大きいオタクはコロッとまいってしまうだろう…それに(再)軍国化をよしとしないオタクはどう抗していけばいいのだろう等々、さながら日常のように考えています。
(一瞬後に追記)というわけで、こちらに賛同しました。
署名:
高額療養費の限度額引き上げを撤回してください(change.org/外部リンクが開きます)
(26.02.11)ふだんは「パズルを解いて王様を救うゲーム」とか「この薬を飲むと○○○がドバドバ出て痩せる」とかショウモナイ動画ばかり表示されるスマートフォン(ネット接続時)の強制広告に、ここしばらく原発(柏崎刈羽)の近隣住民に
「もしもの原子力災害時に内部被ばくのリスクを抑えるため安定ヨウ素剤を事前配布しております」という新潟県の広報が頻発している。

よくよく見ると配布対象者は
「(1)40歳未満か(2)40歳以上の妊婦・授乳婦・妊娠希望のある女性とあって、おお自分は見事に対象外だとか、要するに少子化対策に貢献できる者のみ対象かとか、いや「俺が対象じゃないなんてズルい」
みたいな気持ちはあんまりないんだけど、それ以前に
いつのまにか「皆さんリスクを負いますよ、引き受けるんですよ」と当然のように言われてるのが何げにヤバい。3.11以前と以後しばらくは「(福島で事故は起きましたが)原発は原則ノーリスクです」「正しく怖がれば安心安全なんです」が原発推進・再稼働プロパガンダの言い分ではなかったっけ?これも動画広告でよく見かける「放射性廃棄物の地層処分のことを皆で考えよう」という広告も「
だって私たちはもう原発の再稼働じたいは受け容れたのだから」という文脈になっている。
1)本当に「皆で考えよう」なら「そもそも原発やめるって選択肢はどうなったの?」から「考える」べきじゃないの?
2)「原発は安全なので受け容れましょう」じゃなく「廃棄物処理とかヨウ素剤の配布が必要とかリスクはありますが(安全ではありませんが)皆さんリスクを背負ってください」に文脈が変わってません?
敷衍(または牽強付会)すればNISAなんかもそう。いつのまにか国民(という言いかたをしますが)みんながリスクを背負うのが当然です、って文脈になっている。前回(今回じゃない)あたりの選挙で参政党のポスターが、キリッとした顔の西郷隆盛や太平洋戦争の特攻隊員たちのイラストに「次は私たち(オレたちだったかな?)の番だ」みたいなキャッチコピーがついてて「なんで西郷隆盛w」とか「(次は私たちが)日本人の誇りを見せてやる的なことを言いたいんだろうけど特攻隊員じゃ戻ってこれないじゃんww自分たちの命を捨てさせたいのかよwww」みたいに突っ込まれてたけれど「
そうですよ(西郷隆盛はともかく)
特攻隊員のように皆さんにも死んで(少なくとも死ぬ覚悟で「働いて、働いて、働いて、働いて」)
ほしいんです」と、受諾した憶えのない決断を呑まされているのでは、という不安がある。
これだけだと悲しいので同じ新潟の(
なんで神奈川県で表示されるんだろうね、いいけど)別のネット広告で知った話題も。殺風景な有料駐車場を幼稚園児の描いた絵で飾って景観を変えよう、という試みを新潟の企業がしているらしい。
・
株式会社スペースアイが新ブランド「やさしい駐車場」を発表。10月1日からのテレビCMには佐藤日向(アミューズ)が出演。(PR TIMES/25.10.01/外部リンクが開きます)
佐藤日向さん(声優)、新潟出身なんですね。水島新司・高橋留美子(ということは同級生だった近藤ようこも)など輩出してる新潟県、昨年末の「あれを旅行と呼んでいいのか」ではじっくり眺めたり写真に収めたりする暇はなかったけど新潟駅前(新潟市)の地元案内パネルを地元大学の漫画学科とかそのあたりの人たちが手がけていて、その路線で進んでくださいと思ってる。二次元とお米。(と書いて改めて思う、国内有数の米どころに原発か…)
(26.02.12)
昨年末に池袋で道に迷って行き着いた「ひもかわうどん」のお店、逆にどう迷えば再訪できるのか分からん…と思ったらまた
同じ迷いかたをして(不器用なんだか器用なんだか)再度逢着、よく確認したら前回去ったの(それで目的だった雑司が谷の駅には直行できたので間違いではない)と逆方向に進んだら直ぐ、ジュンク堂書店のある大通りにつながっていたと知る。今回はひもかわと普通うどんの合い盛りを辛味のきいた温つけ汁でいただきました。

で、前回は気にかけつつスルーした同じ小路の、書店というより「本屋」という佇まいの小さな本屋が実はなかなか。コンパクトな店内で文庫中心なんだけど、それが人文系・芸術系・生活や生きかた・エッセイなどテーマ別に目利きされている。たとえば國分功一郎『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』『ドゥルーズの哲学』ぜんぶ文庫で揃ってて…というか全部もう文庫になってるんですね…どれも好い本なので文庫なら手が届きやすいというかたは是非…あと芸術や音楽のコーナーにコレは単行本で「
ルー・リード(晩年に傾倒していた)
太極拳を語る」みたいな本があって(しかも国書刊行会)うおお!とトキメクが、よ、四千円…お財布の都合もあり、この晩はちくまプリマー新書から出ていた山本直樹氏の『エロってなんだろう?』を購入。持ち歩きにくい書名を隠すブックカバーをありがとうございます。

この場所にこのお店を出してって訳じゃないんだろうけど創業80年。いや本当に「ジュンク堂は何でもあるけど、そこがなぁ」と贅沢な悩みに気づいたら、小路に入って進んでみては。ひもかわうどんのお店は、天ぷらも自慢みたいで食べてほしそうです(為念)。
(26.02.13追記)だから『エロってなんだろう?』みたいな確信犯ならまだしも、
そうでもない歴史書や学術書にわざわざ無駄に扇情的な表紙はありがた迷惑なんだってば。読む人はテーマや主題に関心があって読むんだから。わざわざ自分でカバーかけなきゃいけないんだから。人前で読めないんだから。

エリック・ホブズボーム『素朴な反逆者たち』。半分くらい読み進めましたが表紙みたいな乳まるだしの尼さんは出てくる
気配すらありません。逆に(ヨーロッパの千年王国運動では)
「男性と女性の間に(中略)
性を抜きにした(中略)
清潔で慎み深く暖かい関係がはぐくまれた」みたいな指摘しかなくて面映ゆいばかりよ。
(26.02.18)というわけで
エリック・ホブズボーム『素朴な反逆者たち』(原著第一版1958年→第三版1971年/水田洋・安川悦子・堀田誠三訳・社会思想社1989年)読了。市民革命・社会主義・共産主義…と社会変革が思想的にも組織的にも合理化・近代化される「前」の前近代的な義賊やマフィアや秘密結社・千年王国運動やオカルトめいた儀礼が、近代思想に圧倒され徒花として消えていく一方、伏流として現代の反社会運動にまで痕跡を残しているさまを活写する斯界の古典なのですが(ちなみに革命運動から前近代的な迷信を排除することを厳しく主張・先導したのが「宗教は民衆のアヘン」と言い放ったカール・マルクスその人だというのも納得な話)
個人的には前近代の民衆反乱の再評価をブチ上げたフェデリーチ『キャリバンと魔女』(
23年10月の日記参照)の先駆者として、またブラジルの千年王国運動を描いたバルガス=リョサ『世界終末戦争』(
昨年6月の日記参照)の副読本として興味ぶかく読んだ同書。「社会運動における儀礼」と名づけられた第九章で、フリーメイソンなどを源流とし19世紀前半に最盛期をむかえた秘密結社(兄弟団)の名称が列挙されていて、いわく
「ヨーロッパ愛国者たち」「決意の人々」「短剣の人々」「三色団」「四色団」「七文字団」「八文字団」あたりはいい(?)として
「エデンの人々」「最高の親方たち」「うつくしいコンスタンティーナ」「煉獄の高貴な魂社」「地表すべてにおよぶ雷神ユピテルの決意団」までエスカレートすると、まさに素朴な
「玉ねぎ団」がちょっと可哀想になってくる。味方したい
「玉ねぎ団」。ぜんぜん関係ないし名は体をあらわすで後悔はないんだけど「RIMLAND」とかいうサークル名も不憫ちゃ不憫でしたね…同人誌即売会のサークルカタログは五十音順なので、だいたい終わりあたりに来ちゃうのだ。
(26.02.22)探してリンクを貼ろうとは思わないけど、たった今またネットで目にした動画広告はアニメ仕立てで、桃太郎がネットに流された中傷やフェイク動画で信頼を失ない、お供の動物や村人たちに糾弾される(実は鬼の仕業だった)という内容。なんか陰惨なノリだけど例によってAC(公共広告機構)なのかと救いのない最後まで観ていたらACではなく、悪意をもった「外国人」が作ったかも知れない偽情報に気をつけましょうという内閣官房が作成した政府広報だった。いや、ACの広告も表現が暗かったり怖かったりするほうに流れることもあるけれど、ここまで陰険な雰囲気じゃなかったなと思い直し…今の内閣になってから何度目かの「ついにヤバいのが始まっちまったか」という、毒物を口に入れてしまったような気持ち悪さを感じている。信じやすい人は、こんな僕の批判も「外国」製のフェイクだと言うかも知れないけれど。
(26.02.14)名古屋市長(前市長だっけ?金メダルかじ郎)が酷すぎたせいか、相対的に良識派なイメージがある愛知県の大村知事だけど、彼は彼でリニア推進派の面(
僕的には暗黒面)もあり、そっちが勝ると、こういう方向に流され与してしまうのかぁと残念な思い。まあリニアなんか作って何になるという問いに「カジノに人を送り込む」は局所的には最適解なのかも知れないが
局所的すぎでは。
・
愛知県がIR誘致検討 知事が会見へ 2カ所目の認定となるか注目(毎日新聞/26.02.12/外部リンクが開きます)
問題は様々あれど、それこそ「鼻をつまんだ」市長選で(じっさい最大の争点だったと思う)IR誘致だけは斥けた吾らが横浜市。もうひとつの争点でもあった中学校の全員給食にようやく漕ぎ着けもしたらしい。ずっと粘りづよく訴えてきた人たちがいるに違いないので(まだゴールではないかも知れないけど)敬意を表するし、IRに反対する愛知の人たちにもヒッソリとエールを送る。
(26.02.23)
1)塩水の沼地やマングローブなど沿岸の湿地帯は地球の陸地面積に占める割合わずか5%で土壌に存在する炭素の1/4を貯蔵している。その炭素貯蔵力は高地にある森の15倍、「健康な」沿岸湿地帯は同じ面積のアマゾンの密林よりはるかに大量の空気を洗浄するという。
2)だがその「健康」は急激に失なわれつつあり、気候変動がもたらす海面上昇や台風・ハリケーンの強大化で沿岸湿地帯は生物多様性も人(多くは先住民族や貧困層)の暮らしを巻きこんだ破滅の一途にある…
エリザベス・ラッシュ『海がやってくる 気候変動によってアメリカ沿岸部では何が起きているのか』(原著2021年/佐々木夏子訳・河出書房新社2021年/外部リンクが開きます)は、同書が日本ではすでに品切れ・重版未定になっていることも含め世間の無関心まで含めた問題の深刻さと、それに抗する人々の営みを浮き彫りにする渾身のルポルタージュ。

巨大すぎる破滅の前では、かえって悪しき気休めになるのかも知れないが文字どおり湿地回復(
すまんこんな時に駄洒落だ)に挑む科学者たち。その姿に共感を示しながら著者が引用する
「畏怖と謙虚さをもって科学を実践すること、それは(中略)
私たちが(略)
人間の皮を脱ぎ、(略)
出来るかぎりきちんと他者(略)
人間以上の世界(more-than-human-world)(略)
を知ろうとする方法に過ぎないのだ」
という言葉に、吾々は近代をはじめたあたりから(デカルトを口実に)
「科学=数量化で、数量化=世界を人間サイズに切り詰め縮減してコントロールすること」だと取り違えてしまったのではないかと気づかされた。もっとえげつなく言えば、
利得や損失を算定(
メネ・テケル・バルシン)できるもの(
だけ)が科学、もっと言えば「知」なのだと勘違いしたのが吾々なのだと。
幼稚なイメージでソクラテスやら孫子やらを登場させた日本企業のCM動画に「人間より大きな世界への畏怖」や(ついでに言えば取り上げた「賢人」たちへの)謙虚さがあるようには思えない。
・
日立ハイテク 企業広告「知る力」会議篇(30秒)(YouTube/外部リンク/人によっては観ると「うえっ」となるので注意)
一度は切り捨て追放したつもりの「人間より大きな部分」はシュレディンガーの猫や三体問題だけでなく、気候変動やカタストロフ、ジャン-ピエール・デュピュイに言わせれば(
先週の日記参照)大量虐殺や核拡散のように人為さえ制御不能と化すかたちで戻ってくる(まあ人間だって世界の一部なので)。今はわりかし人類規模でというか先進国全体が、驕ったツケの支払いを迫られてる時期なのではないか。
そんな中、どうにか負債を軽減しよう・環境や住民の生活を救おうと尽力する人々がいる一方で、
巨大資本や社会の大勢はとっくに「住民すべてを救う気など毛頭ない」現実に、あらためて能登を思ったりもしたのです。
(26.02.25)数年来ほぼ毎日(=忘れてない時には)続けていながら
パレスチナ難民支援のクリック募金(arab.org/外部リンクが開きます)、クリックした後に現われる「ありがとう!」ページ、に舞う紙吹雪(のようなグラフィック)を適宜クリックすると、その場所から花火みたいに紙吹雪(のような)が弾けるの、今の今まで気づきもしなかった。

眼福眼福。こちらこそありがとう。
(26.02.27)ふだん「たった大さじ2杯の油で出来る焼き唐揚げ」とか「多摩川にはびこる外来種ソバで年越し蕎麦作る」みたいな動画ばかり観ていると、こういう動画がオススメにサーブされてくる↓まずは観てほしい。
たぶん2:40あたりで噴くので、電車の中とかでは注意。
・
【第2弾】日本のおうちで作れる激うまコンゴ料理レシピ!(YouTUbe/外部リンクが開きます)
ゆるふわな猫撫で声のまま「これを○○○○ます」(2:40)も噴くけど、やがて随所に挟まれる低音に「ああそうか、天然じゃなくて『キャラ』として完全にコントロールしてるんだ」と気づかされる快さ。しかも本職は渋谷でITエンジニア。ここまで芸達者(?)な人ばかりじゃないにせよ、こんな豊かな現実が、ずっとイメージとして貧しい排外主義者のファンタジーに負かされてしまうのは悔しかないか。鍋に具材を投入しながら「いってらっしゃーい」と真似する楽しさを、あの人たちは(まだ)知らない。
(同日追記)ふざけて(キャラ作って)
ないジョスピンさんの動画→
コンゴ人社員の母国の大統領になるための10年計画(YouTube/外部リンクが開きます)
(26.02.28)石川県知事選、災害対応(不対応)で不人気の現職を追い上げる前金沢市長は参政党シンパの極右と、毒しか選択肢のない能登の方々は不憫だ…などと思っていたら、アジアの反対側で、あああああ。また来月…(来月も世界ってあるの?)
・
イスラエルがイランを攻撃(TBS NEWS DIG/@niftyニュース/26.02.28/外部リンクが開きます)
(5分後追記)ああああああ。
米軍も攻撃 トランプ氏発表(時事通信/@niftyニュースは2026年3月31日をもってサービスを終了いたします/26.02.28/外部リンク)
(26.02.28)お別れはつらい(Breaking Up Is Hard To Do)。ニール・セダカの訃報。日本では「悲しき慕情」として知られる代表曲、のちにスローバラードとして再リリース、こちらもヒットさせたといいます。
・
Neil Sedaka - Breaking Up Is Hard To Do (original)(YouTube/外部リンクが開きます)
・
同スロー・バージョン(同/コンディションによっては真剣に悲しくなってしまうので注意←今がそうか…)
レーガン大統領と贈る言葉〜(たぶん)オリヴァー・サックス『妻を帽子と間違えた男』(26.02.22)
※
今週の日記(週記)
には海援隊「贈る言葉」への悪口が含まれます。ファンのひとにはゴメンナサイ。もとよりあの歌が大キライで
「せっかく忘れてたのに思い出させるな」というひとには、もっとゴメンナサイ。無理に読まなくていいですから。
*** *** ***
今月の中旬、
【もう寝床に入ろうかという時になって、ふと昼間みた「明日このへん雪になるかも」というニュースを思い出し(よくよく確認したら東京は多摩・神奈川も西部で夕方から可能性ありだそうです)雪を詠んだ
東直子さんの短歌がふたつ、ああ細部が思い出せないなあと思ってネットで確認。
え、という癖は今でも直らない どんな雪でもあなたはこわい
雪が降ると誰かささやく昼下がりコリーの鼻の長さひとしお
↑これ順番を逆にすると連作みたいですね。誰かが雪が降るねって言ってるのを偶然きいて別の誰かが「え」と狼狽えてるの。いや、そうでなく、昔から好きだった詩歌を思い出せなくなってる悲しみ。ふたたび思い出せたよろこび。
「コリーの鼻の長さひとしお」ってすごく好いです。また世の鼻の長い犬たちへの愛情を上書き出来そうです。】
みたいな話を小ネタで書いた(すぐ消した)。今週の週記はそのリサイクルで、
例によってとんでもなく遠い処まで行きます。
その後つらつら思い出すに、自分が東さんの雪をめぐる二首が好きなのには、もっと前からこよなく愛聴してきた
鈴木祥子さんの歌詞を連想するから、という個人的な事情もあるようだった。具体的にはセカンドアルバム『
水の冠』の掉尾を飾る「
ムーンダンスダイナーで」の一節
誰かを待ってるシェパード 鼻先にちらつく雪
ちなみに作詞は渡辺美里「マイ・レボリューション」などで知られる川村真澄さん。余談だけれど川村氏が全面的に歌詞を手がけていた(スズキは作曲と歌唱・ドラム演奏)デビュー当初の鈴木祥子さんは「和製スザンヌ・ヴェガ」路線でプロデュースされた側面があって、この曲名はヴェガの「トムズ・ダイナー」を彷彿とさせるし、濃い目のファンは鈴木氏のデビュー曲「夏はどこへ行った」の(川村氏が詞をつける前の)仮歌はスズキ作曲のメロディはそのままに同じくスザンヌ・ヴェガの「ジプシー」の歌詞で録音されていたのを知っているはずだ。
・参考:
鈴木祥子 - 夏はどこへ行った(YouTube/外部リンクが開きます)
・同:
Suzanne Vega - Gypsy(同)
いちじるしく話が逸れたが詫びない。
鈴木祥子さんには「
雪の夜に」という、こちらはサードアルバムの最後を飾る曲があって、こちらは(
自分の中では)
「雪が降ると誰かささやく昼下がり」と呼応する:
はかない思い出が心に積もるように 白い雪 舗道を埋めてゆく
昼間の半月は雲に隠れ いま水銀のあかりが灯(とも)りだす
喜びや悲しみをすべて包んで
遠い街 眠るひとに
あなたに逢えて嬉しかったと どうか伝えて
こっちは一字一句わすれず憶えている(笑)。このサードから作詞も手がけるようになり(あるいは採用されるようになり)そっち方面の才能も開花させていく鈴木氏。学生時代から太宰治や中原中也のファンで、ラジオ番組で「好きな百人一首の歌はなんですか」というリスナーからの問いに、激しい恋歌などではなく
「秋風にたなびく雲の絶え間より もれいづる月の影のさやけさ」(左京大夫顕輔)という叙景歌を挙げるセンスが
「昼間の半月は雲に隠れ いま水銀のあかりが灯りだす」といった情景描写にも炸裂しているのが、お分かりでしょうか…

…
で、ようやくここから今週のテーマに移る。同年デビューだった遊佐未森さんのコーラスもこよなく美しく、完成度の高い「雪の夜に」だが―え?あれ?雪の
「夜」?「昼間」の半月じゃなかったの?
よくよく考えるまでもなく、遠い街で眠るひとだって昼間から布団をかぶってるわけではないだろう。いや、冗談ではなく冬季鬱という疾病も存在するし、もしかしたら「遠い街」は時差の関係で夜なのかも知れないが、おそらく「遠い」といっても同じ雪が伝言をつたえてくれる程度には近い・同じ空の下ではないのか。
いろいろ理屈をこねなくても、要するに「水銀のあかりが灯りだす」から「喜びや悲しみをすべて包んで」までの間に、昼から夜にシームレスにジャンプしてしまっている。
いやコレも理屈だ、どうにも不自然な、要はチョンボではないのか。なにせ曲名も雪の「夜に」。

こうした歌詞のチョンボ、後逸、ボーンヘッドは存外すくなくない。有名なのは布施明の歌唱で知られる「シクラメンのかほり」(作詞・小椋佳)だろうか。
真綿色したシクラメンほど清しいものはない
この詞が書かれた当時、真綿色=純白のシクラメンは存在しなかったし(のちに開発されたらしい)、月影の「清けさ(さやけさ)」や「清々しい(すがすがしい)」という言葉はあっても「清しい(すがしい)」という日本語はなかった。
「
もうひとつの土曜日」は
浜田省吾・通称ハマショーの代表曲のひとつだ。名曲である。
昨晩(ゆうべ)眠れずに泣いていたんだろう 彼からの電話待ち続けて
いたわりの言葉から始まる歌詞は
もう彼のことは忘れてしまえよ
まだ君は若く その頬の涙 乾かせる誰かがこの町のどこかで君のことを待ち続けてる
まあ誰かも何も「おれ」なんですけど
君を想う時 喜びと悲しみ ふたつの想いに揺れ動いている
君を裁こうとする その心が 時におれを傷つけてしまう
とか、いいじゃないですか。恋心は優しく暖かい気持ちばかりとは限らない。
「時に喜ばせ 時に悲しませ だけど何より君は俺を怒らせる ベイビー君は俺を激怒させる」と歌ったのはルー・リード("Pale Blue Eyes" - the Velvet Underground)。冒頭にあげた東直子さんにも
「一度だけ「好き」と思った 一度だけ「死ね」と思った非常階段」という短歌がある。
また大幅に話が逸れた。話を土曜日、「もうひとつの土曜日」に戻す。
冷たくなった彼氏をあきらめられない「君」を時に悲しみ、時に腹を立てる(そして自己嫌悪で傷つく)語り手は、ついに「俺にしなよ」と持ちかける。
今夜町に出よう 友達に借りたオンボロ車で海まで走ろう
この週末の夜は おれにくれないか たとえ最初で最後の夜でも
なんかすごいことになってきた、と聴き手が悶えるのもかまわず曲はシームレスに終局になだれこむ。
受け取ってほしい この指輪を
ちょっと待て。「海まで走ろう」どころか
指輪まで用意してるのか。「たとえ最初で最後の夜でも」じゃないのか。飛ばしすぎじゃないかハマショーいや語り手。
いや冷静に考えるに、この詞の時制はどうなってるんだろう。もしかしたら「昼間の半月」がシームレスに「遠い街であなたが眠る夜」までジャンプしたように、「昨晩眠れずに泣いていたんだろう」から「もう彼のことは忘れてしまえよ」「この週末の夜はおれにくれないか」そして「受け取ってほしいこの指輪を」まで
各々の一節の間にはすごい時間経過が挟まれているのか。「たとえ最初で最後の夜でも」と
「子どもの頃きみが夢みてたこと叶えることなど出来ないかも知れない ただいつも側にいて手を貸してあげよう 受け取ってほしい この指輪を」(いい歌詞でしょう?)の間に「よっしゃ、指輪を渡せそうだ」というくらいの進展があったのか。
考えてみたら浜省、これも代表曲の「路地裏の少年」も一曲のなかで16歳から22歳までの語り手の半生(?)を8分半の長いヴァージョンとはいえ一曲に違和感なく凝縮する力業だった。いや、それに比べると「もうひとつの土曜日」の違和感よという話なのですが。ぜんぶ現在形なのがいけないのか(「路地裏の少年」は過去形)、いや浜省ファンのかたゴメンナサイ。
・参考:
浜田省吾 - 路地裏の少年(YouTube/外部リンク/それにしてもブルース・スプリングスティーンが日本のミュージシャンに与えた影響の大きさよ…)
一方でたぶん浜田省吾氏、溢れる想いを暴走させる(ゴメンナサイ)(そこがいいのだが)傾向もあって、
これはまあ関係ないんですけど
海に着いたら起こしてあげるから もう少し眠りなよラジオを消して
サイドシートに話かけてみる そこには誰もいないのに
という別の歌を聴いて「
怖い怖い怖い怖い」と爆笑した知人がいて
ファンのひと本当にゴメンナサイ。いや、言われるまでふつうにいい曲だなーと思ってた(今でも思ってる)自分に免じて許してほしいのですが。ともあれ「もうひとつの土曜日」は、書いてるうちに作詞者が盛り上がっちゃって夜のお誘いからプロポーズまで暴走しちゃったんじゃないか、という疑いが捨て切れず
本当にすみません。
* * *
さて、ここまでは「好きなんだけど」ちょっと違和感な話だった。
ここから遠慮なく、好きじゃない歌の話をする。

海援隊の「贈る言葉」というヒット曲なんですけど、えー、海援隊のリーダーである武田鉄矢氏の作詞作曲、同氏が主演したTVドラマ『三年B組金八先生』の主題歌として一世を風靡した。中学校の卒業式や予餞会で合唱なんかもされたのだ。
ひょっとして今もそうなのか。知りたくない。これがまた、とんでもない歌詞なのだ。存在しない色の花や単語が出てくるわけじゃない。時制がいきなり昼から夜に、「この街のどこかに君を想ってる誰かがいるかも知れないよなぁー」から「実はおれなんだ指輪を受け取ってくれ」まで跳ぶわけじゃない。
もっと酷い。
暮れなずむ街の光と影のなか去りゆく貴方へ贈る言葉
どこから斬って、もとい切り出していこうか。まずは
求めないで優しさなんか 憶病者の言い訳だから
とか抜かすのが
人は悲しみが多いほど 人には優しく出来るのだから
と歌った舌も乾かぬうちだとジャブを打とうか。優しさは憶病者の言い訳じゃないんかい。言ってることのスジが通らない。まあ指輪を渡しちゃうまで想いが暴走することもあるから大目に見よう。だが浜省の「君を好きだけど他の男にうじうじしてるのが腹立たしい、でもそんな自分が厭」と自省する(
浜省だけに自省…うっさいわ)繊細さは「贈る言葉」の作詞者にはない。
これから始まる暮らしの中で誰かが貴方を愛するだろう
だけど私ほど貴方のことを深く愛したヤツはいない
何この臆面のなさ。しかも前後して前のほうの歌詞では
初めて愛した貴方のために
たかが初恋(失礼)で「これからお前を愛する誰よりも俺がお前を愛してた」とか言うのかコイツは。いや、初恋だからそれくらい増長してるのか。しかもその「贈る言葉」の内容はといえば「ああすべき」とか「こうしたほうがいい」とか
「ここらでちょっくら忠告をした方がいいかな」あ、違う
これはミセスだ(
嬉しそう)。しかも、そのあと何を言うかと思えば
初めて愛した貴方のために
飾りもつけずに贈る言葉
うわー、キモい!キモい!キモい!キモい!「キモい」では説明に足りないので正確に言分けするならば
厚・か・ま・し・い!
通訳するとこうでしょ:たかが初恋で「俺は悲しみとか優しさとかよく知ってるんだ」「他の奴らの優しさとか愛に比べて俺だけが本物なんだ」「そんな本物の愛だから飾りなんか要らないんだ」「みずぼらしいと否定するな、本物だからこそ飾りのない俺のお説教を受け取れ」
ごめん、やっぱキモい。
冷静に読めばこんなにも厚かましく身勝手な歌を、よくも皆が受け容れ愛唱すらしたものだと考えるに、ひとつ思い当たるエピソードがある。
オリヴァー・サックス『妻を帽子と間違えた男』(原著1985年/高見幸郎、金沢泰子訳・晶文社1992年→ハヤカワ文庫2015年/外部リンクが開きます)の一挿話だ。
…同じ著者の『火星の人類学者』だったかも知れない(サックスの著者を間違えたかも知れない自分)…いずれにしても事故や疾病によって生じた脳機能の障害がもたらす様々な認識のズレを描いた医学エッセイで、
つまりセンシティブな話題なのだけど「嗤うつもりはないよ」それどころか後で見るように
「正常だと思ってるマジョリティのほうがおかしい場合だってあるよ」という例証として話(引用)を続けます。
「贈る言葉」と同じ80年代のこと(むろんサックスは海をへだてた日本のヒット曲など知る由もなかろうが)同書によればアメリカのとある病院に、左右の脳いずれかに障害のある患者たちが収容されていた。感情を司る右脳に障害のある患者は(SFドラマ『スター・トレック』のヴァルカン星人のように)感情というものを理解できず、逆に論理を司る左脳に障害のある患者は物事を論理で考えることが出来なかった。
いつも左右のグループに分かれて打ち解けることがない、この患者たちがレクリエーション室の同じテレビ放送を観て、一緒になってゲラゲラ笑っているという珍事が起きた。医師たちが尋ねたところ、彼ら彼女らが観ていたのは、当時アメリカの大統領だったロナルド・レーガンの演説だった。
何がそんなに可笑しいのか。感情を解せず演説を聞いても論理しか理解しない左脳派の患者たちは答えた。「
だって可笑しいよ、彼の話は全く筋が通らないデタラメなんだ」逆に感情しか理解しない右脳派の患者たちは言った。「
可笑しくないことがあるかね、私は皆さんを騙そうとする詐欺師なんですと全身で表現してるのに」
論理だけ、感情だけを抜粋すれば噴飯物のペテンが、「言葉」と「調子」が一体になると、名演説(とは言わないまでも「熱弁」)として、いとも容易く有権者たちに受容されてしまう。呑み込まされてしまう。片側の脳機能しか働かないことを欠損と考えがちな(論理も感情も機能する)標準的な現代人のほうが結果として「間違った判断をする」ことは、謙虚に受け止められていいのではないか。
ましてその支離滅裂で身勝手な主張が、感情を動かすメロディや伴奏=音楽に乗っていたらどうだろう。もしかしたら
ウィルソン・ブライアン・キイがザ・フーのアルバムを分析して「大変じゃん」「こんな恐ろしい歌詞をティーンは喜んで聴いてるのか」と動転してみせた(
20年3月の日記参照)のも、音楽のもつ隠蔽効果への警鐘だったかも知れない。
聴く者の心を強く揺さぶるマーティン・ルーサー・キング牧師の演説は、彼のバックグラウンドである黒人教会の聖歌=ゴスペル・ミュージックのエッセンスを十全に採り入れたものだと読んだことがある。それと比べるのは失礼かも知れないが、今の日本の首相の「働いて、働いて、働いて」「成長のボタンを押して、押して、押して」のリフレインも音楽的といえば音楽て…いや音楽に失礼なので止そう。
いずれにしても「
論理的には無茶苦茶だったり酷い話だったりするのを、感情を刺激する口調や身振り(非言語的メッセージ)込みだと丸めこまれてしまう」「
私はふつう(標準)と思ってる人のほうが、かえって(丸めこまれてしまうとか)
不適合に陥ることもある」この二つを時々ハマショーもとい自省したほうが良いのだろう。
そのトリックがあるからこそ時に飛躍や無理がある物語や音楽などを楽しめているとはいえ。
*** *** ***
(26.02.23追記)口直しというか鈴木祥子さんでシングルカットもされてないし、どちらかというと地味な楽曲だと思うんだけど時々ふいに脳裏に浮かんで「いい曲だなぁ」とシミジミする、4thアルバムのこの曲。作曲はもちろん、作詞も祥子さん。
・
鈴木祥子 - 水の中の月(YouTube/外部リンクが開きます)
タイトルからしてそうだし
「悲しみの川底に沈む月のかがやき」という一節の良さ。「雲に隠れた昼間の半月」もそうだし「水の中の月」「川底に沈む月」もっと言えば「漏れいづる月の影のさやけさ」、どれも間接的で、いわゆる幽玄・新古今のセンスなんです(
本当)。
どストレートな「あかあかや月」(明恵)みたいのもいいですけどね。
距離と暴虐〜デュピュイ『ツナミの小形而上学』・ヴェイユ『前キリスト教的直観』(26.02.15)
ジャン-ピエール・デュピュイは本サイトでも幾度か取り上げている。
ルネ・ジラールと
イヴァン・イリイチの影響を強く受け(イリイチには直接師事していたのではなかったか)両者の統合という魅力的な試みを土台に、思索を繰り広げている現役の思想家だ。
『ツナミの小形而上学』(原著2005年/嶋崎正樹訳・岩波書店2011年/外部リンクが開きます)の「ツナミ」は原著の発行年(2005年)でも分かるとおり、東日本大震災のそれではない。6年前の著作が遅ればせに邦訳として出版されたのは、こちらも発行日(2011年7月)で分かるとおり、この国でツナミ(津波)という言葉を「イコール東日本大震災」と固有名詞化した災厄のせい(ため)なのは間違いないが。デュピュイに本書(原題も
petit metaphysique des tsunamis)を書かせたのは2004年12月に南太平洋で発生し、スマトラ諸島に甚大な被害を及ぼした津波(tsunami)のようだ。
…こう書くことで、すでに今回の日記(週記)の主題は始まっている。はい今回
『ツナミの小形而上学』じたいの主題には(ほぼ)
ふれません。天災は人にはどうしようも出来ない神か自然の仕業か、人が対策しコントロールしうる人災かという二元論を踏み越えて、いやいや人類は人為であるはずの核拡散も環境破壊も・そして組織的大虐殺も何処から停めたらいいか分からない自走機械にしてしまってるではないか(かなり自分の語彙で言い替えてます)というデュピュイの主張には、一部反論したくなる処も、にわかに咀嚼しきれない部分もある。たとえpetit(プチ)でも形而上学は難しいのだ…主題に「ふれるの」はこれで終了。いつか別の機会もないではないでしょう。
本サイト的に今回、気にかかったのは、とある別の本(
日記タイトルでバレバレですけど)で示唆されていた「
人は"遠い"悪は意識できない」という指摘の実例が、天災・人災をめぐるデュピュイの小著のあちこちに見られたことだ。「ツナミ=東日本」とイコールで結ぶようになった吾々が(そうでなくても)2004年のスマトラの被災を思い出すことが(たぶんほぼ)ないように。
たとえば、1755年にリスボンを壊滅させた地震と津波がヨーロッパの社会や思想に与えた衝撃の大きさは、たぶん日本ではあまり知られていない。
いや僕がきわめて無知というのもあるのだけれど、この地震でポルトガルは一気に衰退し、またヴォルテールが「リスボンの災厄についての詩」を書くなど哲学的な問い(巨大な自然の「悪意」を人はどう捉えたらよいのか)を引き起こしたという。
これはデュピュイの著書とは別の話だけれど、どうかするとヨーロッパ人にとっては(第二次世界大戦よりも)第一次世界大戦のほうがショックだったと読んだことが一度ならず、あるように思う。もちろん、いわゆるホロコーストのように別の意味で衝撃を与えた災厄はあったけれど、この破壊は何だ・人類は進歩してきたんじゃなかったのかと哲学的なアイデンティティの危機をもたらしたのは、むしろ第一次世界大戦だったというのだ。
一度目の大戦で戦場となることはなく、むしろドイツが太平洋で手放した植民地をタナボタで取得した日本が(ヨーロッパ人に衝撃を与えた)その破壊をようやく疑似体験したのは1923年の関東大震災ではなかったか、とは
2012年3月の日記で取り上げた
荒井信一『空爆の歴史』(岩波新書2008年。名著だと思います)での指摘ではなかったか。
『ツナミの形而上学』に話を戻す。本書が示唆する見解のなかで、とくに飲み込みがたいと思ったのは、フランス人であるデュピュイの目線ですら、アウシュヴィッツと(多くの粘り強い抗議が続いているにせよ)広島・長崎への原爆投下は「人道に対する罪」として同格ではない、後者はどうかしたら
「聖バルテルミーの虐殺と同じように、過去の蛮行や恐怖に対するやや距離感のある知的関心以外の勘定を、私たちの中に湧き上がらせる力はない」という証言だ。まして落とす側だった当のアメリカにとっては、広島・長崎への原爆投下は
「五〇万人のアメリカ人兵士の命が犠牲になっただろうとされる日本での本土決戦」を回避するための「必要悪」として容認される。この容認(もしくは免罪)にデュピュイは批判的でもあるのだけれど

それはそれとして純粋な指摘として「1)ソ連が日本に宣戦すること(アメリカがそれを容認すること)・2)降伏後も天皇の存命と皇位をアメリカが保証すること、の二点が確保されれば日本はすぐにでも降伏する状態だった(がアメリカのトルーマン大統領は原爆を落としたいがために原爆投下を選んだ)」と主張する歴史学者はアメリカにすら存在するが、その主張は
「修正主義」と呼ばれている、というのもまたショックで、彼我の「距離感」の違いを認識させられる話ではないか―この「修正主義」が「ホロコーストはなかった」や「日本の戦争はアジア解放のためだったと感謝されている」みたいな「歴史修正主義」と同じ語彙だとしたら。
加えて言えば、1945年3月の東京大空襲は広島・長崎の原子爆弾に匹敵する非武装市民の死者を出しているし、デュピュイも間接的にふれているように連合軍はドイツの都市ドレスデンにも同規模の爆撃を行なっている(カート・ヴォネガットJrの小説『スローターハウス5』はこの爆撃をモチーフにしている)。
つい規模や被害者(死者)の数を引き合いに出してしまったが、人々(吾々)の災厄にたいする「距離感」は数量で測れるものではない。ずっと少ない死者数の災厄が言うなれば哲学的な惨事として長く取りざたされることもあれば、ずっと大きな死者数の出た惨事が無視され、忘れ去られることもある。
何が取りざたされつづけ、何が忘れ去られるか。「距離感」は「距離感」とは言いながら、物理的な距離や時間的な距離とも別の基準をもっている。直近の出来事がすみやかに忘れ去られる(あるいは起きた時点でネグレクトされている)こともあるし、当事国の人々が国外の人々より自国の問題が見えてないこともある。
2020年ごろ「アメリカでは今BLACK LIVES MATTERの激しい運動が巻き起こっているが、そうした深刻な人種対立や平等を求める闘いと無縁な日本は平和なものだ」と語る日本人がいたけれど、その人物が知らなかっただけで、まさにその頃、規模こそ違えど東京の警察が街頭でなしたレイシャル・プロファイリング(外国人を見た目で判断しての職務質問や拘留)に抗議して、新型コロナ下で外出すら勇気が必要だった真っ只中に警察署前に抗議の人々が詰めかける事件が起きていた(僕は出向けなかったけど)。
BLMやロシアのウクライナ侵攻・あるいは香港の雨傘運動やパレスチナ問題などに反応して何らかの意見を表明しても、自分が住んでて何なら選挙権も有している土地で起きている差別や迫害には知らん顔・むしろ移民を白眼視して排除に与する、そんな逆転した「距離感」を持つ人たちも、いないではないだろう。こう指摘し再考を促すのはWhatabaoutism(自分が認めがたい苦言にたいし「だったらアレはどうなんだ(あっちも責めろ・なぜ責めないんだ)」と食ってかかる主義)ではないはずだ。
ホロコーストの悪について哲学的に思索を深めるデュピュイは『ツナミの…』原著から20年経った今、アメリカもヨーロッパも(かつての原爆投下以上に熱意をもって)「容認」しているガザでの虐殺を、どのような「距離感」で捉えているのだろうか。
* * *
言えば際限ないし、容易に「だったら自分はどうなんだ」と墓穴を掘りかねないので(
墓穴を掘る=己を省みることは重要なんですけどね)このあたりで停める。最後にひとつだけ。というか、むしろ積極的に墓穴を掘る話。
『ツナミの…』に先立って(そして無関係に)読んでいた
シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観 甦るギリシア』(原著1951年/今村純子訳・法政大学出版局2011年/外部リンクが開きます)では、デュピュイが「距離感」と呼んでいたものを「遠近法」と呼んでいる。
「一般にエゴイズムと言われているものは(中略)
は遠近法のもたらす結果である。
自分のいる場所から(中略)
少しでも離れたところにある事物は目に見えない。
中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は何の変化もこうむらない。
だが一方、隣で仕事をしている人の給料がほんの少し上がり自分の給与が変わらなかったとしたら、世界の秩序は一変してしまうであろう。(中略)
秩序の観念を、自分の心情に近いところにしか用いられないのである」(改行は引用者の任意)
上にBLMやウクライナの例を挙げて書いたように、自分が当事者でない「遠く」の正義には敏感でも「自分のいる場所」で自らも関わっている不正義には(選択的に)鈍感になる…そんな逆の形でも、この「遠近法」は働くだろう。ヴェイユも(そしてデュピュイも「被災地へのチャリティ」のような形で発揮される)いっけん他者への献身に見えるものが「エゴイズム」に過ぎない事例を手厳しく指摘している。

その手厳しさも含めてヴェイユ『前キリスト教的直観』いやあ、面白いっすよ。法政大学出版局の本にしては手頃な価格で「図書館で借りられる本は極力手元に置かない」当面の方針を破りたくなる。
今回の日記の主旨とは関係ないんだけど
「人々が自分では美や真理・慈善や隣人愛のつもりで追求しているのは、実は社会的な威信に他ならない。
飲食の快楽ですら
一見そう思われるよりもはるかに社会的なのだ。
社会的威信は文字通り純然たる錯覚であり、どんな現実的な存在ももたない。
しかしながら、力の九割は社会的威信からなっており、力はこの世界のすべてを決定している」
としたうえでの
「だが、力は同時に、絶対的に軽蔑すべきものでもある」(改行・強調は引用者の任意)
という畳みかけなど、本当に感動的だし、もっと引き続き引用したくなる。
けれどサッサと主題に戻って、今週の日記(週記)を終わらせよう。
先ほどの引用でヴェイユは書いていた。
「中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は」
…最初は見過ごしていた、この箇所の意味に思い当たったのは、ようやく同書を読み終えようという時だった。この「中国での十万人の虐殺」って何のことだ?
遠いことの例えとして「中国で(あるいはアフリカで、南米で、火星で)虐殺が起きたとしてもさー」と挙げたわけでは、ないのではないか。薄ぼんやりと軍閥時代や清国や明国・あるいはもっと昔の唐やら漢やらでは(とくに王朝交替の混迷期には)そんな虐殺もあったろう、という話でもなければ、毛沢東が誤った農業政策で出した大量の死者のことでもないはずだ。なにしろ後者に関しては、第二次世界大戦中に亡くなったヴェイユは、中華人民共和国の成立さえ知らないのだから。
というか彼女の没後・1951年に刊行された同書の基になる原稿が書かれていたのは1941年11月〜翌42年の5月。この時期のヨーロッパ人にとって(ヴェイユに言わせれば人々に影響を与え得ない)「中国で(の)十万人の虐殺」は、南京で日本軍がなした虐殺以外にありえない。この自明のことに気づくのに少しのタイムラグを要したことが、僕じしんの「距離感」「遠近法」を体現していると自虐をこめて言わざるを得ない。
当時のヴェイユにとって日本とは、間接的に彼女の命を奪った宿敵ナチスドイツの同盟国「大日本帝国」に他ならなかった可能性はきわめて高い。彼女の文章で、日本に言及したものが他にあっただろうか。少なくとも、例によって根拠のない・あるいは距離感を誤って肥大化した自己愛(エゴイズム)で吾々が「シモーヌ・ヴェイユはなんとなく親日っぽい」とか思っていたら大きな間違いだとは言える。そんな人さすがにいないと思うけど念のため書き添えておく次第です。
考えるべきことは沢山ある(26.02.07)
今回の選挙については誰が結果に責任あるとかないとかより、
責任があろうがなかろうが結果はのしかかる、それにどう対処するか、のが死活問題になるかも知れない。考えるべきことは沢山ある。
* * *
1.
高市早苗首相が体調に関わるアクシデントを理由にNHKの党首討論をドタキャンした同じ日、岐阜だか何処だかまで出張って自党候補の応援をしていた(つまりはズル休み)という話は、
自分の「仲間」しか相手にせず、他は一切無視して、それでこの国を運営していく(いけると思ってる)彼女のスタンスの申し分ない反映としか思えない(
同様の姿勢が河野太郎氏などにも如実だった)。ドナルド・トランプあたりを例外としてアメリカの大統領選挙で勝敗が決すると負けたほうは即座に「勝者になった新大統領に従おう」と自分の支持者たちに呼びかけ、勝者の第一声も「私に投票しなかったあなたたちも包摂して皆で次のアメリカを作っていく」と(理念的には)なるの(
2021年1月の日記参照)とは真逆。世に言われる「新しい封建制」のあらわれの一端なのかも知れない。
今回の選挙で高市政権が打ち出したスローガンは「皆で助け合え」とか「未来は自分で切り拓け」とか、
そんなんでいいんだったら政府はすることないよなあ?と思うものばかりだが、助け合う気も未来を拓く気概もないのに(ないから)威張られれば威張られるほど、ああこのひとは強いんだと感じ入ってしまい「私も仲間に入れてください」「見捨てないでください」とすがりつく人たちが現政権の岩盤支持層ということになるのだろうか。とりあえず
船底に穴が開いてるって時に、穴を塞ぎに行く人よりも、上のほうに登れば助かると思って甲板に殺到する人のほうが多ければ、船が沈むのは必然とだけ言っておく。船底を腐らせた張本人の船長たちは、とうに自分らだけ救命艇に収まって、「私も仲間でしょう?」「私たちも助かりますよね?」と甲板で騒ぐ人たちなど洟も引っかけないだろうと思うのだけど。
* * *
2.
一方で投票率の低さ・選挙に行かない有権者について。
鼓腹撃壌の故事のとおり暮らしが豊かで不満がなければ政治に関心は持ち得ない・というのがひとつ。いわゆる先進国では投票率はおのずと下がるという説がある。
・参考:
鼓腹撃壌(四字熟語辞典ONLINE/外部リンクが開きます)
けれど、もう一方で、政治や社会に期待できない・強い言葉でいえば「絶望している」から積極的に投票を「ボイコット」する選択もあるのかも知れない。選挙のたび話題になる「白票を入れよう」というキャンペーンは、そうした無力感を「あなたには力がある」とすり替える手管(てくだ)かも、とも言える(
いちど開票のアルバイトをしたことがあるので自信をもって請け合えますが、投票所で白票が数えられることはないので、白票は「意思表示」にすら成りえません。「こんなに白票が」って可視化できないんですもの)
レストランで出された食事やサービスに不満があるとき、店に文句を言いつつ改善を期待して同じ店に通い続けるか、その場は黙って耐えて店を見限る(その店には二度と行かない)か、日本人は後者=黙って去るを選択しがちだという説もある。
「説」だし「日本人」と「よその国の人」をステレオタイプ化する話なので取り扱い注意だけど、投票をボイコットすることは、この「黙って去る」マインドかも知れない。
ただ、ホラー映画の謳い文句にあるように、世の中には「You can run. You can hide.
BUT YOU CAN NEVER ESCAPE(逃げることはできる、隠れることもできる、
だが脱出することは出来ない)」ということもある。排外主義者が言う「文句があるならこの国から出て行け」を自分自身に適用しないかぎり、投票から逃げても隠れても、希望のない状況からエスケープは出来ない。
日本の少子化じたいが、この社会に希望がないことへのボイコット、消極的な「店を去る」報復だという説もある。
海外からも、次のような指摘があがっている:
・
フランス人文化人類学者が語る 日本の「推し活」は、自らを生け贄に捧げた一種の「焦土作戦」だ(クーリエ・ジャポン/25.12.19/外部リンク/会員限定記事ですが無料会員登録で月2本まで記事全文が読めます)
フランスの人類学者アニエス・ジアールが列挙する事柄は「そんなの全部、日本人だって分かってるよ」かも知れないけれど
「バーチャル上の(男性にとって都合のいい)女性キャラクターは"お飾りの女性"や"よき主婦"といった実社会で押しつけられるジェンダー規範をグロテスクに誇張することで、実社会で世間(まあ言うたら家父長制)が押しつけようとしてる男女観だってバーチャルな幻想なんじゃね?と切り返している(ようなものだ)」
「推し活は大量消費とマーケティング戦略に乗っかっているが、一部の政治家や大企業がそこに成長=GDPの増大を期待することを、当事者のオタクは強く拒否して言う―
"物質主義文化は我々の敵だ。このお金は我々を搾取する大企業のために使っているのではなく、「溶かして」いるのだ"」
「自分を孤独と不幸に追い込んでいる社会で無意味な日常を続けるより、愛せる推しにお金は全部注ぎ込もうというのは一種の焦土作戦だ」
といった一連の指摘は、多くの議論や反論の余地がありつつ(最大の反論は「
なぜそれではいけないのか」かも知れない)、いやむしろ多くの議論や反論の余地があるからこそ一考(再考?)に値するだろう。たとえば世のジェンダー規範の拡大再生産でない・より自由な性のありかたを提示するコンテンツもありはしないかとか。
社会を変革するのでなく、むしろ性差別を拡大再生産しながら社会そのものを「溶かして」いく。フランスの人類学者は(この記事では)口に出していないけれど、焦土作戦だけでなく日本の悪名高い「特攻」作戦=自爆攻撃も連想したかも知れない。繰り返すけれど、この「作戦」では逃げも隠れも(そして「無理心中」も)できても、この状況から「脱出(エスケープ)」することは出来ない。
もちろんこうした一連の指摘・認識は、どう考えてもオタクであるし、次の世代の「生産」に貢献していない僕じしんに突き刺さる(だからこそ「それではいけないのか」という反論も即座に浮かぶ)。けれど、今の世の中ではこういうのを「ブーメランwww」と嘲笑するけれど、
逆に自分自身に突き刺さらない批判はいかほど生産的なのだろう。あ、いや、政治家や大企業がいう「生産的」ではなくて。
* * *
3.
ひと昔前のディストピアのイメージでは、人々を監視する(かのような)独裁者の巨大なポスターが街じゅうに林立していたものだが

今どきは巨大ビルボードなど用意しなくても、皆が手元の液晶画面に背中を丸め、通信費じぶん持ちで自分からプロパガンダに見入ってくれる。パノプティコンとシノプティコンのように。

* * *
4.
社会の行方よりセクシャルな事が好きさ
社会の悲鳴よりセクシャルな声が好きさ
(「See-Saw Girl」THE YELLOW MONKEY/作詞作曲・吉井和哉)
かつて井上陽水は「傘がない」で
「吾が国の将来の(略)
深刻な(略)
問題」よりも恋人に逢いに行くのに傘がないと嘆く若者を歌って、社会問題に背を向けパーソナルな関係に閉じこもる(立てこもる?)風潮の象徴だと称されたという。数十年後の「最後のニュース」でも社会の問題を列挙する視線はよりクリアになりながら
「今あなたにグッドナイト」に収斂してしまうのでは何も変わってないじゃないかという評を読んだことがある。
物議をかもした
「外国で飛行機が墜ちました…」の強烈な閉塞感も
「こんな夜は君に逢いたくて」と「君」への想いに向かってしまうイエモンの「JAM」も同じ「コード進行」だと言えるし、
「戦争の始まりを知らせる放送もアクティビストの足音も(略)
取るに足らない(略)
あなた以外なんにもいらない」と謳った宇多田ヒカルの「あなた」はこの路線の完成形・終局点なのだろう。ずいぶん身勝手な話じゃないかとも思うのだが(でもそういう弱音も必要だろう人はそんなに強くないしとも思うのだが)
昨年の紅白で白組のトリになった「ミセス」の「GOOD DAY」は、深刻な社会の問題にたいして無力なのでパーソナルな関係に引きこもる・救いを求める従来の路線を超えて
「不安定な情勢も」「僕の中にある小さな優しさでどうにかなるかな」「ここらでちょっくら忠告をした方がいいかな」こいつ「小さな優しさ」とやらで社会に忠告できると思ってやがる、あ、いや、新しい局面に入ってしまった感があった。
陽水やロビン(吉井和哉)のような切迫感も具体性もない、ちょっと言ってみましたくらいに解像度の低い「不安定な情勢」。優しさでどうにかなる「かな」と責任は聴き手=他の誰かに押しつけ逃げ道を確保している小狡さ。
宇多田ヒカルでも「あなた」さえいればと唄うとき社会に背を向ける拒否という意志があった。ミセスの歌は、社会に対峙しなくても「ありのままで」社会は良いほうに進む(
「かな」)と謳う。これを真に受けた人は、社会にたいして何もしないだろう。これが世の人々のアンセムになると「吾が国の将来」はますますヤバい。けれど天下の大NHKは、これを国民のアンセムにしようとしている(ようだ)。
上述した高市自民党の
「未来は自分で切り拓く」もそうだし、参政党のメッセージもそうなのだけど、今の右寄りと分類される政党の選挙に際してのアピールに、政治はこういうことをします・吾が党はこういう政策を実行しますよりも「あなたは出来る」「あなたは素晴らしい」といった(
それは選挙で政党が言うことじゃないだろう、な)メッセージが前面に出ているのも困ったものだと思っている。
それは政策ではないだろう(
ただし国民に自助努力・自己解決させるという意味では限りなく政治的ではある)と思う反面、でも政策とかでなく
「あなたは素晴らしい」というのが今の有権者が何より言ってほしいことだという意味では、残念ながらきわめて適切な選挙戦略だとも思う。
実際には「素晴らしいあなた」「未来を切り拓くあなた」になるには、それこそ「働いて、働いて、働いて…」みたいな滅私奉公が必要なのだけど、政治家に「あなたならできる(時に「あなたは日本人だから」)」と言われたら、実際には「できる」は「しなければ」できるにはならないんだけど、何もしないまま「そうだ、私にはできる」という気分になれてしまう。前向きな自己肯定感に浸っていれば「不安定な情勢」も「どうにかなる」「かな」と、
ああ違うな、もしかしたら皆で「未来は自分で切り拓く」と言えば、圧倒的得票で選挙に圧勝すれば、「誰かが未来を切り拓いてくれる」「不安定な情勢もどうにかしてくれる」と思ってるのかも知れない。
・ちなみに「皆あなたは素晴らしいと言われたすぎ」は何年も前から自分が固執してるテーマで、トリュフォーの映画版『華氏451度』をテーマにした
21年1月の日記など参照。
* * *
もうひとつ今回(今回にかぎったことではないけど)の各党アピールで気になってるフレーズは「成長」で、保守も成長、中道も成長。まあ絶えず成長しないと廻らないのが資本主義なのだけど、だからこそ(特にその「成長」の果実が大企業の株価に吸収され個人にはトリクルダウンしてこない日本では)「成長」を疑え、資本主義や消費社会・
「物質文化主義」を疑うなら「成長」も疑ってみてはどうかと…まあ「これは別のお話」。
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