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想像力のモンスター〜『アナと雪の女王』(14.04.02)

 今日の日記のタイトルは、雪の女王エルサが造り出す氷の宮殿と、この映画を造り出したディズニーという会社そのものを表している。

 今のディズニー・アニメ映画は、元々ウォルト・ディズニーが造った最初のミッキー映画『蒸気船ウィリー』の動画をロゴにしてるんだけど、そのロゴにふさわしく「吾々はアニメ映画の第一人者だ」という自負と「これからも最高峰・最先端でありつづける」という覚悟みなぎる剛腕の作品でした。『アナと雪の女王』。
 だから十代のオタク少年少女、まんがやアニメ・ゲームが大好きで、作家とかクリエイターとか呼ばれるものになりたいと、ひそかに願っている、そんな子たちが観たら何倍にも素晴らしいだろうと思ったのだ。ちょうどいま配布してる名古屋コミティアのペーパーでも書いたように、(低予算をアイディアでやりくりする作品も素敵だけれど)スケールの巨大さにも微細なディテールにも可能なかぎり予算をつぎこんだ大作も、多くの学びと刺激を与えてくれる。世界最大・最強のファンタジー工場の本気は、十代の作家志願が(もちろんそれ以外のひとも)出来るなら巨大なスクリーンで観るに値する。観た当初は、ピンと来ないかも知れない。でも後になって「あれはすごいものだったのだ」とじわじわ分かってくるはずだ。
 
 そう、『アナと雪の女王』。観てる間もすごく楽しかったけれど、後で内容を反芻すると余計にじわじわ来る作品でした(鈍いから…)
・映画『アナと雪の女王』予告(YouTube動画)
 ディズニーらしく全篇ミュージカルな劇中で一番の魅せ唄は、エルサ(雪の女王)の「Let It Go」。
 『レ・ミゼラブル』最強の魅せ唄が「夢やぶれて」であるように、ロックコンサートの会場で「もうダメだ」とか「どうにもならない」といった歌詞だけみると絶望的な唄を観客が大合唱するように(わりとそういうことがあるのです)
 幼少から畏れていた"力"の抑えこみに失敗し、人々の期待を裏切った失墜の女王が、すべてを拒絶し自分ひとりの氷の宮殿を魔力で立ち上げながら「初めて解放された」と歓喜する、その痛々しさに涙が出る。これが二つ目のモンスター。想像力の比喩。才能と言ってもいい。才能は人を傷つけ、孤独をもたらし、けれど爆発的な自由がそこにある。
 たとえば十代のクリエイター志望の少年少女の中に、エルサほど壮麗な宮殿をいきなり造れる者はそうはいないと思うけど。それでも想像力は周囲に害をなすほどの怪物で、たぶん一度は世界・世間を拒絶してその暴力的なまでの力を十全に解放することなしには本物にならない。

 「Let It Go」のクリップはディズニー公式によってYouTubeで公開中で(劇場に観に行く予定のひとは、劇場で最初に観たほうがいいですよ、と思うのでリンクは貼らない)英語版も、吹き替えでエルサを演じてる松たか子さんによる日本語版もすごくいい。
 中盤以降のストーリーを引っ張っていく雪だるまのオラフはこのとき生まれてるんですね。王国とかどうでもいい、好きに生きると唄うエルサが、子供のころ大好きな妹のために造った雪だるまを、ここでさりげなく造り直してる処がまた泣けるし、実際そのオラフは諦めたはずの妹との絆をつないでくれる。

 そんなわけで、妹のアナ。こちらは姉がクリエイター志向のオタク少女だとすれば、リア充志向の恋愛少女(こう書くと卑近だなあ)で、愛されることに憧れているんだけれど、真実の愛は自分が誰かに与える愛だと本当は最初から分かっている子。彼女の、雪の女王となった姉を決して拒絶しない愛の深さと、コメディエンヌぶりは映画の救い。日本語版の神田沙也加さんも、堂々とした演技や唄声の端々に、ママ(聖子)譲りの甘えん坊ぽいコケティッシュな声質を絶妙にさしこんで魅力的。
 オタクとリア充と書くと卑近だけれど、責任感の強さが余って引きこもる姉と・社交的で愛情に飢えている妹(非難してるんじゃありませんよ)という類型は、むかし読んだ本そのままで、えー、その本とは別なんだけれど、たとえば故・河合隼雄先生が童話やおとぎ話を人の成長の過程として心理学的に読みなおした著作を思い出したりして興味ぶかい。

 そして。こうした姉妹の成長劇や、アナの「真実の愛は待つんじゃなくて自分から与えるもの」という行動に現れているように、今回もディズニー、昔ながらの「いつか王子様が」に代表される「ディズニーこうあるべし」神話を自らぶち壊すべく、さりげなくも果敢に攻めていると思う。というか
 今となっては古典といえる名作『眠れる森の美女』で王子が
お父さんは古いなあ、今はもう13世紀なんですよ(14だったかも)」
と言った頃から。そもそも『蒸気船ウィリー』の振り出しから。ディズニーのアニメーションは(低迷した時期もあったものの)常に斬新で伝統破壊的であろうとしてきたのだと思う。王子様幻想を蹴飛ばしたり、多民族・多文化に目配りしたり、
 その批評的な視線は、そんな自分たちを「あー、はいはい政治的に正しいのね」と半ば皮肉れるまでに至っていて、
 最近の映画はよく「この映画の撮影にあたって実際に動物を虐待してはいません」などとエンドロールで表示されるけれど、『アナと雪の女王』も最後に「◯◯(登場人物)の発言は作中人物としての個人的な見解であり、製作者の意見ではありません」と断りが出たりする。これが最近のそうしたエクスキューズをパロって、かなり愉快なので、英語ですが(オラフ誕生と併せ)お見逃しなく

 自分自身の創作の喜びと、他人が造った素晴らしい創作に触れたときの喜び(嫉妬や羨望・引き換えての自己嫌悪はこっちに置いといて…)は、崩れそうな自我をかろうじて支えてくれる。昨年末に高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を観て、やはりいいなあと思ったことなどを思い出したりもした。
 そして、これは関係ないけれど、二つの作品とも「思春期の少女」に対する思い入れが強くて、魔法少女とか、そうやって少女に世界を背負わせる最近の傾向どうなのという異議申し立てがあったことなども今になって思い当たった。←僕自身はこれに対して観客席から言うことは当面ありません。もし何か答えるとしたら、作家でいられるうちは作品で答えていこうと思っています。

 …関係ない話になってしまった。話を戻してオチにつなげると、そんなふうに伝統を破壊することで原点に立ち返りつづける(と言えそうな※)ディズニーの次の一手は、さっき古典的名作と記した『眠れる森の美女』を、魔女マレフィセントの立場から描くものらしい。実写、マレフィセントがアンジェリーナ・ジョリー、オーロラ姫がエル・ファニングで。
・映画『マレフィセント』予告篇(YouTube動画)
盛大に滑りそうな懸念もあるけれど(笑。いちおう冷静なのよ)、劇場で予告篇を観て震えた。たぶん封切りに足を運ぶと思います。(追記:多忙で運べなかった…><)

※こんかい気になったこととして『アナと雪の女王』は原作『雪の女王』とは似ても似つかない大改編ものなんだけど、その(以下ネタバレ)王子の名前がハンスなのは、原作者ハンス・クリスチャン・アンデルセンに対する皮肉なのかも。あと、もうひとりの男キャラがアンデルセンのミドルネームを思わせる「クリストフ」なのも。もしかして、二人は表裏一体?
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1405  1402→  記事一覧(+検索)  ホーム