二つの都〜池澤夏樹『見えない博物館』(14.08.23)
【アジアは一つである】岡倉天心
【アジアは一つではない。だがつながっている】池澤夏樹
ノイローゼだと称する男が精神分析医を訪れる。自分のことが犬に思えて仕方ないのだという。電柱を見るとソワソワするし、魅力的な雌犬に出会うとじっとしていられない。「なるほど、いつごろからそんな症状が?」医師が問うと男は答える。「それが実は、僕が子犬だった頃からなんです」
という(ツイッター時代の今なら誰もが一度は目にしただろう)小話自体も、それがウッディ・アレンの作であることも、僕は池澤夏樹のエッセイで知った(『シネ・シティー鳥瞰図』)。この小話のさらなるオチとして池澤は「ウッディ・アレンはきっと、子犬の頃からウッディ・アレンだったに違いない」と言い添えている。
『見えない博物館』は彼が「スティル・ライフ」で芥川賞を取る十年以上前、当人もまだ後に自身が小説家になると想像さえしていなかったろう頃に書かれたエッセイだ。
その一篇「黄銅鉱と化した自分」は、洛陽の都に立った駱駝の銅像の逸話に始まる。
洛陽の都の駱駝の銅像。彼は芥川賞を取ったのも四十過ぎという遅咲きの新人作家だった(たしか)ので、子犬とまでは言わないまでも、ああ最初っから池澤夏樹は池澤夏樹だったんだなあと微笑しながら再読したのだが:こんな一節である。
【昔、洛陽の都に銅で造った駱駝が二頭立っていた。駱駝の銅像などという妙なものがなぜそこにあったのか、それは知らない。陸機の『洛陽記』に依れば、「頭高九尺、頭ハ羊ニ似、頸ハ馬に似、肉鞍有リ、路ヲ夾ンデ相対」していた。なかなかの名物だったらしく、この一帯までが銅駝街と呼ばれていた。洛陽の人々は誰かと待合せをするのに、「明日正午、駱駝の前で御待申上候」などという手紙をやりとりしていたのだろうか。ハチ公や楠公よりは銅駝の方がずっと好ましいという気がする。洛陽は住みやすいところであったろう。】
『見えない博物館』は最初に手にした池澤の本で、いわばこの文体に惹かれて追っかけ始めたことになる。美文ではなかろうか。そして同じ銅像であることと「公」という一文字で、楠木正成と渋谷の犬をひとくくりにしてしまう芸がすごいと思った(と打っていて今、気がついた共通点がもう一つ=「忠」の一字だ。本当に、つくづく、戦前には大楠公などと呼ばれたその権威も、称揚されたその「忠」も、コケにし倒している。そもそも「大」の字を剥奪して楠公よばわりしている時点で)。だがそれはいい。
つい先日、ぐうぜん知ったのは、現代日本の京都府京都市、中京区西ノ京に銅駝町という地名があるということだ。
洛陽の対の駱駝と無縁ではあるまい。しかし如何なる縁が遠く離れた京の都に銅駝の名を付与したのか。
調べれば由来など出てくるのだろうが、まずは困惑を楽しみたい。ひょっとして京都の件の場所にも、洛陽を真似た対の銅像が立っているのか。当該の地に暮らす人々は、自分たちの住む土地の名の由来を知っているのか。博学な池澤氏だが、京都のこの街の存在についてはどうだろう。
洛陽の銅の駱駝は、行く春に無常を感じ夜ごとに哭いたと後に詩人が歌ったらしい。洛陽は無理でも、京都の銅駝には自分でも足を運べそうな気がする。そこで自分は何を思うだろう。京都市銅駝は住みよい街であろうか。
学園都市として知られる茨城県つくば市には「東大通り」という街路がある。学問の集積地たる自負か、すごい通り名だ、慶応通りや早稲田通りもあるのだろうかという疑問が…「とうだいどおり」ではなく「ひがし・おおどおり」であると気づくまでの数秒間、頭を渦巻くわけだが。まあそれもいい。
学生時代も合わせると、かれこれ15年は暮らしてきた横浜の上大岡という街に、昔からあるパチンコ・スロット店の名前が「スマロ」という。
何度も話題にしてきて、そのたび誰も不思議に思ってくれないのだが、「スマロ」という言葉には、たぶん意味は一つしかない。(もしかしてスワヒリ語で「収穫が沢山ある樹木」みたいな意味があるのかも知れないが) それは−東大通りの小ネタと少し響きあうのだが−かつて日本軍も一度は占拠したことがある上海、そのストリートの名前だ。東・大通りみたいな冗談ではなく、上海にはガチで南京路という通りがあるらしい。南京路を上海一番の大通りとすれば二番目にあたる繁華な街路は、四馬路と書いてスマロと読むのだ。
なぜ上海の通りの名が、遠く離れた日本ヨコハマでスロット店の名前になったのか。歓楽と遊興、平仄は合いそうであるが詳細は不明なまま、
長く暮らしたその上大岡を、このたび離れた。新しい街は(また横浜市内なのだが)どんな不思議を見せてくれるだろう。住みよい街だと好いのだが。
※追記1:「調べれば由来など出てくるのだろうが、困惑を楽しみたい」などと上には記したが、正確な地名(西ノ京とか)を確認する過程で、京都の銅駝町の名の由来も、そこはかとなく分かってしまった。それなり味わいぶかいので、興味のあるひとは検索。
※追記2:私事ですが来週、家族旅行で(なぜか)クアラルンプールに行ってきます。池澤夏樹いうところの「ひとつではないが、つながっている」を仏教寺院などに見られるのではと期待中。あと帰国翌日のコミティアがボロボロになりそうで、あらかじめお詫びします。
ガッツだぜ。〜エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』(14.08.24)
(シリーズ・古典を読む)
というわけで、ついに読み始めてしまったぜレヴィナス。
ユダヤの流れを組む若き哲学者として、「現象学」のフッサール(未読)に学ぶ。第二次世界大戦とホロコーストを被害者として生き延びた後は、同じくフッサールの系譜にありつつ思想的にはナチズムに与する形となったハイデガー(未読)に反し、受忍と受苦の哲学を説いた。きわめて難解な著作で知られる。…と、いうような理解は大ざっぱに過ぎるだろうか。
まあ難解なのは間違いないです。だが、ある年齢を過ぎてから自分は、こと本に関しては「これは自分には早すぎる」「難しすぎよう」と、少なくとも読む前から遠慮して手を出さずにいることは止めたのだ。どんな高度な専門書であろうと、読む人を選ぶと言われる奇書であろうと、手に取りページを開いてみる資格だけはある(たとえ読んでサッパリ分からず挫折するとしても)。というか、読む資格が「ない」本など、僕にもあなたにもないのだ。(ある程度の年齢になれば)あなたも遠慮すべきではない。
実際、読めば(理解できなくても)分かることがある。その主著であるらしい『存在の彼方へ』(講談社学術文庫)を読み始めて数ページ。評判にたがわぬ難渋な文章に眉をしかめながら、目にした単語に「あっ」と思った。
【エゴイズム同士の全面的闘争のうちで(中略)内存在性としての存在の我執は文字どおり劇化される】
【内存在性の我執からの超脱、根拠も報いもない感謝−−、存在することの断絶が倫理である】
大丈夫、このへんの文章は一体なにを言ってるのか、問われれば読んでる僕にも説明できる自信がない。「あっ」と思ったのは、この文章と単語で思い出した本があるからだ。
まんがである。四コマの。いしいひさいち『忍者無芸帖〜無芸の巻』(文春文庫)は、標題から推して知るべしな内容で愛読書の一冊なのだが、その中にこんなエピソードがある:
城に潜入し、首尾よく獲物を奪って逃走せんとする忍者に、「密書ドロボーッ!」と侍の声が追いすがる。城の外壁に飛び乗ったところで忍者は振り返り、こう言い返す。
忍【ドロボーとはなんだ!これは超感性界に対象を構成する社会的行為だ!】
言われた侍も負けてない。
侍【職業としてそうした内属性と偶有性を包摂することは すでに密書の固執性が欠けている!】
忍【やかましいッ忍者の理念型をその悟性と可能的名証に求めることは明らかな誤謬であり、
また我執の絶対的完全性についても疑問である】
侍【なにッ!総合的命題を認識するにあたって思弁理性と内的合致における微表の無制約性は
謙抑と因果性を否定するものだ!】
ああ言えばこう言い返す、塀の上の忍者に業を煮やした侍が城内を振り向き「殿なんとか言ってください!」と加勢を求めると、殿は決死の形相で
【ガッツだ。】
これまでは単にギャハハと笑いつつ、ふだん使わない・聞いたことない単語だなあと小さな違和感で引っかかっていた「我執」が、よもやレヴィナスの用語だったとは。
や、レヴィナス専用ではないかも知れないが、その周辺なのは確かっぽく、いしいひさいちの凄味(それをこんなしょもないネタに惜しげもなく投じてしまう才能の浪費も含め)・その天才に改めて震撼した。
まあ自分も、とくに
【諸存在者の自同性の源泉たる〈語ること〉は、あくまで〈語られたこと〉と相関的な〈語ること〉でしかなく、この限りにおいて、〈語ること〉は存在者の自同性を理念化し、そうすることでこの自同性を構成させる】
【〈語られたこと〉に向かい、〈語られたこと〉のうちに吸収される〈語ること〉、〈語られたこと〉と相関的な〈語ること〉は、現象を現れさせる、体験的な時間の光と響きの中で、存在者を命名する】
みたいな文章を読むと「ガッツだ」としか申し上げられないのですが(泣)
「我執」という単語に『忍者無芸帖』を思い出したように、
このレヴィナスという人が「可傷性(ヴァルネラビリティ)」という語を、人が人であるための重要な条件として提示しているのを見たとき、90年代に同じ語が福祉や社会学・人的ネットワーク論のキイ概念として用いていられていた記憶が甦ってきた。
たとえば金子郁容・中村雄二郎といった人たちが、たとえば障害者のノーマライゼーションが社会全体の改善につながるとか、たとえばボランティアに参加する人の立ち位置の不安定さみたいな脆弱性・傷つきやすさ(つまりヴァルネラビリティ)を逆に事態を動かす機運として肯定的に捉えたさまを、僕は当時かなりリアルタイムで見てきたのだが、それに、哲学という別分野でのレヴィナスの仕事はどのていど影響やバックグラウンド的な裏づけを与えていたのだろう。これは中村雄二郎あたりを再読して(私的に)確かめてみたいことだ。
全体の1/3ほど読んだ感じでいうと、レヴィナスという人は、存在(我思うゆえに我あり、というように哲学の最初にある「あり」)より前に、存在以前の大事なものがあり(存在より前だか厳密にはそれを「あり」とは呼べないわけだが←このへん追求してくと、この日記まで「ガッツだ」になってしまうので適当な処で妥協します)存在以前のそれが人の倫理や尊厳の源だと言っているっぽいのだが、
第一にそれは宇宙論や素粒子物理学が、ビッグバン以前とか、宇宙が生まれて最初の何億分の一秒とか難解なことを思弁的に探究している、その哲学版のように見えて不思議な感慨がある。
そして第二に、存在以前の存在(と呼べないもの)を探究する…というボンヤリした理解が妥当だとしたら、そんなレヴィナスの哲学は、最終的には理解や説明の外・世界の外にある不可解に触れたいという自分の好みに近しいのかも知れない。
それを不可知論というのか、ロマン主義というのか知らない。ただ世の中には、1)世界の全てを世界の中にある部品で整合性つけて謎解きしたいと願う者と、2)そうして謎を解いて解いて解き切ったとき最後に割り切れない不思議が・永遠や世界の外への出口があってほしいと望む者があり、どうも自分は2の後者ではないかと思うのだ。
宇宙論だの不可知論だの、それに何よりいしいひさいちだの、まるで字幕のない外国映画で何を言ってるかサッパリ分からず「ああでも、あの俳優って自分の知ってる誰それに似てる」レベルの、厳密な人からすれば「むしろ読まないほうがマシ」な不真面目で不面目な読書しか出来てないかも知れない。自分のそうあってほしい方に著者の思想を捻じ曲げ引き寄せる危険にさえ意識的であれば、そんな迂回曲回もまあアマチュアの間違った特権であろう。
何年か、十何年か後に、別の何かを読んだとき、ふいにこの難解な難解なレヴィナスの著作の一節などを思い出し「いま思えば、こういう意味にも取れるな」と思う機会でもあれば、アマチュアの読書としては大成功だ。そんな気持ちで残り2/3を頑張りたく。自分含め、難書に挑むミノホド知らずに幸あれ。ガッツだぜ(いや、それではいかんのだが)
※さすがにココに読み途中のレヴィナスを貼るほど身の程知らずではないよ…。