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『ラムリーラ』日本に来ないかなあ(多少ネタバレあり/14.09.02)

 8月の終わりに家族でマレーシアに行って来ました。その話は追々するとして、
 往路の飛行機内、座席の前についた液晶モニタの映画サービスで観たのが2013年のインド映画『ラムリーラ(Goliyon Ki Rasleela Ram-leela)』。ボンベイ(ムンバイ)を第二のハリウッドに見立て「ボリウッド映画」と呼ばれる娯楽性の高い、こうした作品がおそらくは現在のインドでは山ほど作られているのだろう。だから全体の中でどうという評価は分からない。でもこれ一本を観た感想として「日本でも上映なりDVD発売なり、してくれればいいなあ」と思ったのだ。
 まず冒頭から字幕で「この作品はロミオとジュリエットをベースにしている」と大きく出た同作、まずはそのロミオを御覧ください。現代のインドで剣のかわりに銃弾を交えて相争う二つの名家、その間で一人ラブ&ピースを唱える主人公「ラム」の、この雄姿を!
 Tattad Tattad(YouTube動画)
甘いマスクに筋肉美、そして絶妙ないかがわしさ(最初の「チュッ」の、まあうさんくさいこと!)。若手スターのランヴィール・シン、愛と魅力にあふれつつ抜けたところも逆に苛烈で残酷なところもある主人公が、まさにハマリ役。原作ロミジュリを彷彿とさせるバルコニー登りから一転、ヒロインに突き飛ばされ池に落ちる場面の三枚目ぶりなど、実によい。←この場面が、実はのちのち伏線になる…のは別の話。
 そんな気の強いジュリエット「リーラ」を演じるのは『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』で一躍ブレイクしたディーピカー・パードゥコーン。さっきの動画を途中で挫折した人も(いるだろう…)こちらを御覧あれ。
 Nagada Sang Dhol(YouTube動画)
美しいでしょう。映画そのままです。この二人を二時間堪能できるだけで、日本に持ってきて勝算はあると思うのだが如何か。

 もちろん、見た目だけの作品ではないです。原作ではモンタギューとカピュレット、両家の争いから何となく爪弾きされるように二人で儚く死んでいくロミオとジュリエットだが、「ラム」と「リーラ」は違う。爪弾きされるどころか、それぞれの跡目を継いで!反目しあう両家を代表する羽目になるのだ。
 愛しあう二人が当主になれば、両家も和解するんでない?などと思いがちだが、積年の争い殺し合い・死者の恨み生者の悲嘆・家の重みは、そう簡単に投げ打てるものではない。互いに愛しあいながら、いや愛すればこそ憎しみは募る。許そうとすれば裏切られ、和解を乞えば拒絶され、それでも争いをやめたい、やめさせたいという願いは五分先も分からない二転三転の展開のなか皮肉なことに…
 …いや、よそう。同作が物語としても如何に面白く、複雑で奥深いか、今になって抽出して分析しても、それは作品をダシに自分の語りたい何か別のことを語る・一種の「二次創作」に過ぎないだろう。要するに後から意味を考えて二度三度と楽しめる、それくらいの深みはある作品ということだ。でも観てる間はともかく目を奪われ、面白い面白いどうなるのどうなるのでジェットコースター状態だったのも事実。どちらかというと、そのめくるめく感をぜひ味わってほしい。

 まあ要するにアンハッピーなエンディングだったことは、日本での配給を躊躇させる要因になるかも知れない(ネタバレすみません)。でもそこに至るまでに主人公二人も周囲の人たちも、全力で愛しあい憎みあい、出せる札ぜんぶ切った状態なので、正直ハッピーでもアンハッピーでも変わらん!と思ったのも事実。元祖ロミジュリについて
「幼い心で精一杯考えたあげく選ばざるを得なかった死だからこそ、ジュリエットは観客を泣かせる。(準備のない死は惨事ですらない)」
と書いたのは池澤夏樹だが(『見えない博物館』)幼いジュリエットが考えに考えたあげくの死のように、『ラムリーラ』の、やるべき可能性をすべて尽くして迎える悲しい結末は、ちょっと違うかも知れないが『エイリアン3』の結末のように「悲劇だけど一つの成就」というカタルシスがあった。
(あ、エイリアン3よりはずっと派手で娯楽的で楽しいです)

 自分が観たのは英語字幕版で、インド流の仁義の切りかた通しかたなど台詞が早すぎて分からない部分も多く、その点でも十分に監修された日本語字幕での公開なりDVD発売なりを願います。
 ちなみに「リーラ」の母=片方の家の女頭領がまた傑物!という感じで好かったです。やっぱり日本公開希望。


こちらは昨年日本公開・大ヒット。これも主人公と敵対する学長が擬似親子みたいで、ボリウッド映画は派手なアクションも愉快なコメディも、ベースはホームドラマなのかも。

マレーシア三都物語[1]〜秘密のレシピ(14.09.04)

 まずは大雑把に概要から。

 現在マレーシアと呼ばれる国の母体になっているのは14世紀に成立したマラッカ王国。それが16世紀ポルトガル、17世紀オランダ、18世紀以降はイギリスさらに20世紀半ばには日本の植民地支配下という歴史を経て戦後独立(したけどカナダ・オーストラリアなどと同様、今も英連邦に所属)。
 マレー半島南部とボルネオ島北部に分かれた領土を有していますが、今回は西のマレー側を訪問。首都クアラルンプール(KL)を拠点として、夕方到着の初日を除くと1日目KL・2日目は古都マラッカ・3日目はKLから行政機能を移転する目的で作られた新都市プトラジャヤを見学しました。まず今日はゼロ日目の話。

 日本の成田空港からKL国際空港までは7時間のフライト。
 空港からタクシーに乗り高速道路を40〜50分で市街中心に到達すると、どうやら名物らしい壮絶な通勤ラッシュの渦中に。車同士でどんどん割り入り、かわしあい、その隙間をオートバイがビュンビュン追い抜いていく。大変な運転技術と度胸です。

 ※ちなみにマレーシアではタクシーは乗る前に目的地と人数を告げ「それならいくらいくら」と先に値段を決めるパターン。わざと遠回りとか渋滞でメーターがどんどん上がる的な余地がないので、ある意味とても気が楽でした。

 そんなこんなで宿に到着すると現地時間で夕方7時。とりあえず近場でと入ったビルにはセブンイレブンやペルシャ系レストラン、そしてSecret recipeというカフェレストラン風のお店が。
 ※ホームページありました→ http://www.secretrecipe.com.my/
 後日知ったのには、このSecret recipe、KLの大きな駅構内やプトラジャヤのモールにも出店している大手?チェーンで、しかも駅売店のようすなど見るとケーキ類の販売がメインらしい。吾々が運んだ店舗も大きなポスターはケーキのそれで、まあ最初くらい、あまり気張らない食事もいいかと思ったら、意外や料理もガッツリ量があって(←重要)(←マレーシア滞在で2kgほど体重が増えた)おいしく、興味ぶかかった。

 ※ここで確認しておくと同国の通貨はリンギット(RM)。現在1RMは大体36円。フードコートなどではともすれば10RM前後で満足な食事が出来る。お洒落なSecret recipeは少し高めだが、せいぜい倍くらい。ちなみに屋台などはさらに安かったと思う。まあ値段の話はいいでしょう。

 話を戻します。何が興味ぶかかったのか。
 「…これ、何料理になるのかね?」「…さあ?」
 翌日から暴食の限りを尽くすマレーシアでの外食ですが、おおむね甘辛い。中華料理、インド料理、タイ料理、中国料理をマレーシア風にアレンジしたニョニャ料理。中東系のレストランも多数。
 それに比してKL最初の夕食は。
 まずビーフヌードルは白く透明なスープに、ビーフといっても赤身の肉はスジとか端肉っぽく(詳細不詳)胃袋や軟骨めいた部位が汁気たっぷりに載っている。好みの問題だと思うけど、実に好い。ちなみにスープ自体に赤唐辛子的な辛味は皆無で、かわりに緑の唐辛子のペーストが別添の小皿で、お好みで。
 長粒種のライスを添えたチキンは、かかった黒いソースがグレイビー風で、けれど胡椒系のスパイスが存在感たっぷり。植民地支配者の料理を当地流に咀嚼したとは妄想が過ぎようか。ともあれ

「…無国籍料理…?」「うーん…」あ、改めて言うと、非常においしかった。言い換えると、初手から侮れないマレーシア。中学生の甥っ子が、数日後「こっちに来てからハズレがない!」と感嘆する、火の四日間の始まりでした。
(次回につづきます/たぶん数日おきくらいに更新)


 出立直前にあわてて読んだ、放浪の詩人による旅行記。『地獄の黙示録』さえ彷彿とさせる、さんざめく自然と過酷な暮らしを生きる人々の姿に圧倒されつつ、いつしか全ての旅の基調低音ともいえる普遍的な彷徨の悲しみに浸される。
 とはいえ戦前の紀行文なので、いま東京を訪ねる予習に、たとえばカムイ伝を読むのと同程度の実用性しかありませんが。

マレーシア三都物語[2]〜KLその1・アンパンとテンペ(14.09.08)

 ちょうどJR東日本におけるNEWDAYS(西でいうHeart In)同様、駅売店を中心に展開するマレーシア国産コンビニと思しきmyNEWS.com。(小さな黄色い吹き出しには「more than news!(newsだけじゃないよ!)」と書かれているので、この場合のnews=新聞で、母体は新聞スタンドだったのかも。

このmyNEWS.comで売ってた菓子パンは「食べても良い、見て良い」と日本語で記されたOTARUというブランド。今回のKL滞在でホテルから最寄りだったAmpang Park駅でアンパンを買い記念撮影。Ampangでアンパン…Ampangでアンパン!

 電車はチャージ式のカードと、使い切りのトークン方式。プラスチックのコイン状のトークンは、入口の改札ではカード同様タッチ(押しつけ)して磁気認識してもらう方式で、出る時は切符のようにスロットに入れる。トークンじたい慣れないので戸惑う。
 アンパン駅から目指すのはマスジッド・ジャメ駅。マスジッドはマレーシア語でモスク。KLを代表する同名のモスクが最初の見学目標。「その前にインド人街で朝食にしよう」という。
 さよう、同駅周辺は目の前にモスクあり、歩いてすぐにインド人街あり、その北には独立広場や植民地時代の旧連邦政府あり、さらに西にはチャイナタウン・その中に関帝廟はもちろんなのだが、なぜかヒンドゥー寺院ありと、徒歩圏に宗教民族歴史が共存する、マレーシアの縮図のような一角なのだった。と、思う。

 駅前の銀行の巨大な壁画。パックマンとモンスターみたいのが$マークのついたコインと描かれているが、ロボットみたいのが頑張って紙幣や貨幣のなる木を育てる壁画もあり、皮肉などでなく本気でお金を讃えている感じ。この銀行は華僑系なのだが、帰国した今にして思うに、利息を禁ずるイスラムとの相性や如何に…?

 とまれ、インド人街。ここで朝食にロティ・チャナイ(最初名前を失念しインド名前の「ケララ・パロタ」と記したら家族から訂正が入りました。ナン生地を薄く延ばして折って、ミルフィーユやクロワッサン状にしたもの)を食べようという案から通りに踏み入るが、意外に朝から開いてる食堂がない(たぶん駅近くのバーガーキングなどは朝からオープンだったろう)。
 代わりに9時前から開いてるのは服屋・衣料店のたぐい。

 インド人街というより(だってイスラム女性用のヒジャブとか売ってるわけだし)衣料品街なのかも知れない。ともかく想像してたような小さな食堂、的なものはなくて、
 …代わりにどうにか見つけたのは、アーケード屋根をつけた屋台的な処。

 露天式フードコートと言えばいいのか、屋根の下ベンチとテーブルが奥まで並び、その横にナシゴレンやミーゴレンの屋台が軒を連ねている。
 一度は屋台も行ってみようか、でも猥雑なの苦手そうな人(母とか)もいるし、そういうのはナシの可能性もあるかな…と事前には想像していたが、到着翌朝いきなり屋台。
 今回の旅行、自分はただ引っ張られ目を白黒させるだけである。

 うわさのケララ・パロタ改めロティ・チャナイもあり、義姉と甥っ子たち大満足。カレーなどにつけるのでなく、それ単体で食べるのですね。ビニール袋に入ってるのは豆のスープで、これもカレー味かと思いきやマイルドで、どこか味噌汁っぽい。

そういえば自分が取ってきたミーゴレン的な焼きそば(甘辛い)に、添え物として選んだ具材にテンペっぽいモノがあり、これも帰国後に(というか今)調べたら、どうやらテンペそのものだったらしい。健康食品として日本のスーパーなどでも見るけれど、もともとインドネシアの食べ物なのだそうな。
 豆を食べる風習は世界中どこにでもあるけれど、ちょっとだけ大豆が取り持つ「つながってるアジア」(「アジアは一つではない。だがつながっている」池澤夏樹)を思ったりしたのでした。今。当時の現地では、とにかく目の前の現実を受け容れるのに一杯いっぱいで。
(朝食だけで終わってしまったが、つづく。のんびり行きますよ)

マレーシア三都物語[3]〜KLその2・溢れ出る意匠(14.09.13)

 ※前回の日記(9/8)でケララ・パロタ(たぶん)と記した、クロワッサン状のナンはマレーシアでは「ロティ・チャナイ」と呼ぶのだと家族から直しが入りました。うん、ケララパロタより何かミヤビな(?)名前だった気はしていた。謹んで訂正いたします。

 マレーシアで少し面白いなと思ったのは、エスカレーターなど公の場での禁止事項をうたうピクトグラムが多くの場合「これをしないでください」という禁止だけでなく、「これは◯(向こうだとチェック)・これは×」とマルバツ併記になっていたこと。マスジッド・ジャメ(マスジッドはモスク)でも同様の注意描きを見かけたのだが

イスラムの教えとパンクは相容れないのだった(アニマル柄も)。

 そんなわけでマスジッド・ジャメ。1909年竣工のモスクである。後で調べたら、この背後で交わってる二つの川がクアラルンプール(泥の交わる場所)という名の由来らしい。

川の側から奥に見えるドームは、子供のおもちゃの模造真珠や、フィンガーチョコの銀紙のように愛らしい美しさ。

フランスの百合紋を思わせる外壁の上飾り、白い壁に金で描かれたコーランの一節(たぶん)が目を引く。
 これは知識として先に知ってることの再確認なので、元から「そう観よう」というバイアスもかかっているのだろうが、イスラム文化は紋様の文化だ。マスジッド・ジャメから数百メートルの徒歩圏にあるムルデカ(独立)広場前の、見るからに古びた補導の敷石まで、凝った幾何学模様なのに笑みがこぼれる。

イスラム教は神を絵姿として描くことを禁じる偶像崇拝禁止の宗教で(その源流にあるユダヤ教からの流れ)その結果、美術的なエネルギーが優美な曲線や幾何学模様・聖なる言葉であるコーランの文字の意匠化などにつながったという。

 それを踏まえて。近隣にある関帝廟(儒教)そしてスリ・マハマリアマン寺院(ヒンドゥー)を訪ねると。

 とくにスリ・マハマリアマン寺院、イスラムの偶像崇拝禁止と対照的に無数の神々と眷属の姿で飾られたヒンドゥーの寺院をみて(それでも両者は似ていないか)両方の宗教に対して等距離に不信心な外国人旅行者の目から見たら、両者はさほど変わらなくも見える、そんな罰あたりな印象があった。
※ちなみにこちらの建造は1873年、マスジッド・ジャメと30年も変わらない。
南国らしく風通しよく開かれた・しかし信者のための閉じた空間でもある礼拝のための四角。ひんやり冷たくなめらかな大理石の床に人々は裸足で上がり、聖句が音楽的に詠唱される中、信じる者だけに開かれた超越の通路の彼方にいる神と相対する。そしてその風通しよいが閉じられた・けれど別の通路に開けた四角の周囲=世俗に向けた外面は、神々の似姿もしくは似姿なき紋様や聖なる文字で飾られる。

 より厳密に人々の思いを神だけに向け、現世に意匠を溢れさせないストイックな宗教・宗派もあるだろう。だが少なくとも、湿潤な赤道直下のKLでは、イスラムもヒンドゥーや儒教に劣らず目に鮮やかだった。
 そんなふうに思ってしまったのは、当地のイスラムの女性たちの衣裳もまた、美しく印象的だったせいもあるのだろう。

モスクの注意描きにもある通り、イスラムでは女性は髪をヒジャブと呼ばれる布で隠さなければならない。女性の髪や肌というものは、男を惑わす力が強すぎるのだ。だが実際には、そのヒジャブや四肢を隠す衣裳は、逆に日本でもなかなか見ないような鮮やかな色彩や花柄で飾られ、布を留めるピンなども凝った意匠で目を奪う。奪われちゃう自分(異性愛者の男性)が、実にしょうもないなーという話でもあるのだが、
 人を惑わせもし惹きつけもする目に訴える力=美というものは、髪を隠したり偶像崇拝を禁じたりしても、美麗な布や幾何学模様となって、形を変えてでも溢れてくる。それは礼拝室の彼方に人智を超えた全能の救い手を見たいという思いと同様に、抑えても抑えきれないもののように思われた。

 イスラム社会で女性がヒジャブのようなものの着用を義務づけられていることに、抑圧がないと言っているわけではない。それぞれの社会に、それぞれの抑圧があり、自由がある。時には自由であれという強制すらあって、ややこしい。他所の社会の(自分以外のひとの)抑圧や自由が、たやすく判定できはしない側面があるということだ。勝手に持ち上げても、落としてもいけない。
 でも、むづかしい話は程々に。食べ物写真も貼っておこうねえ(要らん気づかい)。

 ところで冒頭、マレーシアの公的場所のピクトグラムは◯×併記と記したが、もちろん単に禁止の×だけを表示した処もある。
 たとえば、宿泊したホテルのエレベーターで注目を集めたコレ。
NO SMOKING, NO DURIANの表示
漢字名・猫山王として街の至るところで推されていたドリアンですが、滞在中ついに食する機会はありませんでした。(この項つづく)


マレーシアより遥かに女性への宗教の規制が厳しかろうイランの、抑圧と自由とその先の物語。ところでこの表紙写真、髪が見えてるのはアリなのか…(そのへん疎いので分からない)

マレーシア三都物語[4]〜KLその3・先進と猥雑と(14.09.18)


 マレーシアの独立は1957年の8月31日。ということで、KLでもマラッカでも記念日に向けたパレードや寸劇の、本番とも予行演習ともつかないものが路上で繰り広げられていた。

 さて。KLのマスジッド・ジャメ地区には先に見たイスラム・儒教・ヒンドゥーの各寺院だけでなく、コロニアル様式と呼ばれる近代植民地時代の建造物も多く残っており、そういうのが好きなひとには垂涎と思われるのだが。そういうの自分も大好きな部類だが。

 すまぬが赤道直下、いかんせん暑すぎた。自分ひとりなら幾分は粘ったかも知れないが家族旅行の集団行動、ということにして冷房の効いた屋内へ早々に避難。ネスレやら何やらグローバルなブランドのアイス(日本でいうジャイアントコーンのたぐい)や日本では見ないというイチゴ味のファンタなどをたしなむ吾等であった。


 面白いことに(こういうこと面白がる人は少数かも知れないが)ネスレや何やらだけでなく、壁の落書きも日本同様のヒッポホップなグラフィティ調。妙なモノが万国共通というか、グローバルな浸透力を持っているものらしい。
 日本と同様マレーシアも、グローバルとローカルが混濁している。電車のユニバーサルデザインなど日本より合理的な処もあり、車の間を縫うように歩行者が道を渡るその場まかせな処もあり、何が進んで何が遅れてるとか、まして何が合理的で何が非合理とか(進んでる=合理的とは限らないし)いちがいに言えない処がある。

 KLにも、シャネルやグッチ・カルバンクラインなど欧米のブランドショップが並ぶ目抜き通りがあったりしたはずなのだが、今回の旅行では面白いくらい、そういうスポットと縁がなかった。(あと個人的には現地の書店やCDショップに行けなかったのが残念)
 代わりに足を運んだのは、そうした先進的グローバルお洒落街(?やや語弊あり)とは区画ひとつ隔てたローカルの極致。KL最大の屋台街、ジャラン・アローである。
ジャラン・アロー写真
 撮ってきた写真ではその猥雑と活気をとても伝えられないのだが、こんな感じにテーブルとプラスチックの椅子が店から路に張り出した光景が200メートルばかり連なってると想像してください。
 そして吾々はひたすらに食べた。先般「自分ひとりなら…(もっと建物に貼りついたかも)」と記したが、一人ではない多人数の好いところは沢山の品を注文し、皆で少しずつ全てを食べられる処だ。そして恐ろしい処は「誰かが食べるだろう」と大量に注文してしまう処ではなかろうか。てなわけで、今回の滞在の一・二を争う暴食をお裾分け。
料理写真""
中華である。上段左からMalaysia Satay(サテ。東南アジア名物のピーナツバターで食べる焼鳥)
Roasted Chicken Wings(店の看板商品らしき鶏手羽焼き)
Spinach Soup(ほうれん草のスープ)
Hokkian Fried Mee Hooh(太麺の焼きビーフン・甘辛ソース)
下段左からAnchovies Fried Rice(アンチョビ炒飯)
BBQ Pork(焼き排骨)そしてStewd Braised Japanese Too Foo(豆腐の炒め煮)。

 …なんというか、これは考察とか何とかヒネる余地ないですね。中華街で買った果物は翌日の朝食に、KLの夜は更けてゆくのでした。(つづく)

マレーシア三都物語[5]〜マラッカその1・ネズミ(?)と猫(?)と。(14.09.20)

KLでの朝食
 万国共通のコーンフレークと、露店で買った果物が入り交じるKLでの朝食。スターフルーツは「もうひと手間、品種改良を加えればフルーツになれそうな」味(失敬な)。うっすら酸っぱ甘くて筋ばった瓜のよう。みずみずしい。「果物の女王」マンゴスチンは、味としてはライチ系。果肉が非常に柔らかく、逃げ足が早いかも。コンビニで売っている、なんてことない100%ジュースが甘味も濃ゆくて果実感もあり、さすが南国?カップに入ったインスタントのお粥はコーン味ということで…まあ微細な米粒が底に沈んだコンポタでしたね。

 そんなわけで。
 いきなりマラッカ(KLから車で2〜3時間)。現在も、中東から日本に原油を運ぶタンカーなどが行き来する東西海上交通の要所。外交や世界情勢に一瞬、思いが飛ぶ地名ではないでしょうか。
 その街並の特色は、赤茶色・レンガ色に塗装された建物。
赤茶色に塗られたマラッカの建物
かつてスペイン→オランダ→イギリス→日本と、次々に支配者が入れ替わった古都で、オランダの入植者が、旧支配者スペイン流の白い建物と違いを出すため、このような色に塗った由。
 
 けどまずは、植民以前・マラッカ王国の黎明期に戻りましょう。
マラッカ・スルタン・パレス
マラッカ・スルタン・パレスは王国時代のスルタンの住居と庭園を再現したもので、現在はミュージアムになっている。
マラッカ・スルタン・パレス音声ガイド(外部リンク/音声出ます/1分ほど)
この音声ガイドによればマラッカ王国を建国したのは漂着したスマトラの王子だそうで(適当だなあ自分!←政争に敗れ追放された的なことを想像していた)写真には撮らなかったが邸内に
「失意の王子が現地の森で、猟犬を蹴散らすmouse deer(なる小動物。ネズミ鹿?)の姿に心打たれ、この地での再起を誓いマラッカ王国の礎を築いた」
由の説明とジオラマがあり、言われて見やれば

ランナバウトの真ん中の丸い緑地に、そのmouse deerらしき像があしらわれたり、紋章にデザインされたものがちらほら。マラッカの隠れキャラだったかも。

 一方、街を睥睨する丘の上にはスペイン植民者の、廃墟と化した教会が。。
 フランシスコ・ザビエルの立像を擁したセント・ポール教会礼拝堂跡。

 スペインからオランダ・イギリスへと支配権が移る際には威圧や武力行使もあったのだろう、街には砦の礎石や展示品の大砲などが残されている。
 黒いレリーフの墓碑・白い石棺なども遺され、つわものどもが夢の跡なのであった。

 この丘の上の廃墟では、KLやマラッカ・平地の市街ではあまり遭遇しなかった野良猫を多数みかけました。おすそわけ。
猫画像
そしてマラッカで猫といえば。スルタン→スペイン→オランダのレンガ色を経て、現代のマラッカ市街。観光用の人力車がこんなデザインでギョッとする。
花とキティちゃんで飾られたマラッカの人力車
本当に、どのリキシャどのリキシャも(ありえんような花のてんこもりと)キティちゃんなのである。引いてるのはおっちゃん・あんちゃんだ。列をなすさまは壮観。
 意外にもキティ先輩、マレーシアにおける日本文化浸透の切り込み隊長なのだった。あるいは日本とか関係ない(もしかしてフロムジャパンと知られてない可能性も)KAWAII帝国みたいなモノの。

 そして今回も食事画像で締めくくる。華僑系の?土産物屋街とおぼしきジョンカー・ストリートの中華料理店にて昼食。

「面白いね、点心がない」中華といっても全地域集合ではない、地方料理の店だったよう。肉と肉、魚のすり身を蒸し上げたっぽいモノなどをいただく。隣の店にはエッグタルトと、かわいらしい芋のパイが並んでおり、買い求めて観光客気分を満喫。観光客なのだが。(つづく)

マレーシア三都物語[6]〜マラッカその2・融和と折衷とハーモニー(14.09.23)

 マレーシアで面白かったこと。「あれ、レストランの表記がRESTORANになってる」

マレーシア英語なのだろうか。レストランはRESTORAN・博物館はMUZIUM・タクシーはTAKSIと、ローマ字読みに近い綴りがなされているのだ。ちなみにおおむねRESTAURANT・MUSEUM・TAXIとイングリッシュ式の綴りが併記されている。
 日本でも四国地方でレストランの名称が「レスト」と独自の変容進化を遂げたらしいことは…あまり関係ないか。話を進めます。

 運河を擁し、昔そのままの塗り壁の建物が並ぶ古都。と書くと(日本のほうがずっと小規模だけど)倉敷の美観地区を連想しなくもないマラッカの午後。遊覧船で運河をクルーズするコースもあったのだが

「…この茶色い水を船に乗ってもねえ?」「運河沿いをちょっと歩けばいいんじゃない?」とアッサリ撤回(すみません)
 ハーモニー・ストリートと呼ばれる、マラッカの中でも特に古い町並みに踏み入る。

 通り名そのまま中・印・馬それぞれの宗教文化が隣り合わせに同居しているのも、KL同様。ごつごつした天然の岩くれを山に見立て、神仙や隠遁者たちと思しき小さな像で飾った「ここは…仏寺?」「そのわりに関帝も祀ってるけど?」
(お気づきのとおり「多文化の混淆と融合・融和」の方に話を持って行こうとしている今日の日記)

 カンポン・クリン・モスクはマレーシアでも最古のモスクで、通例モスクで連想される丸いドームではなく、ピラミッドを重ねたようなマレーシア流の屋根からして違う。コーランの詠唱を街に響かせるミナレットも東洋的。内部は撮影できなかったが、礼拝室の柱にローマ風の円柱まで混在している一方、メッカの現在時刻を示すパネルがデジタル式というのも、よく出来た話。

 なお、この屋根。マラッカにはコンパクトだがよくまとまった建築博物館(MUZIUM?)というかギャラリーがあり、その説明によれば、マレーシア古来の建物は・高床式の床下部・方形の居住空間・四角錐を重ねた瓦屋根の三層構造。郊外の団地では、コンクリートの20世紀的なマンションの天辺に、このマレー式の屋根を載せた様式がスタンダードでもあった。


 残念ながら時間的にクローズドだったが、ヒンドゥー寺院(スリ・ボタヤ・ヴィナヤガ・ムーティ寺院)も目と鼻の先。これがハーモニー。近くの華僑らしき家に飾られた「平安二字値千金」の札が目に染みる。

 前回しるしたとおり、漂着したスマトラの王子が王国を開いたのがマラッカの歴史の始まりである。国を開くや、王子は交易の利便のためイスラム教に改宗したように、その歴史は最初から東西の狭間で異文化を受容吸収するものだった。考えてみれば日本とて例外ではない。多くの国は他地域・異文化に接して、あるいは自文化を変形させ、あるいは異文化を変容させ、受容してきたのだ。
 その東西の狭間の象徴といえるマラッカ海峡の写真も折角なので貼ったうえで


 さて。マレーシアにおける異文化の受容と変形といえば。中国料理をマレーシア風にアレンジしたと言われるニョニャ料理だ。(ニョニャ=娘惹=海峡中国人の意)。
 マラッカにもニョニャ料理の店は少なくなかったようだが、夕食につきKLに戻ってきてから、老舗と言われるレストランに行ってきました。
 ホームページありました:precious Old China
ニョニャ料理写真
上段左から右へ
Hokkien Fried Noodle(焼きそば)。ジャラン・アローの中華料理でも出てきたHokkienて何だろうと思ったら「福建」ですね。
Kerabu Lady's Finger。Lady's Fingerはオクラ。酸っぱ辛い炒め物。
Ayam Pong Teh(肉じゃが)。肉は豚の排骨(スペアリブ)だったような、違ったような。
Fried Spring Roll(説明不要の春巻)
Precious Fried Chicken(鶏唐揚げ)。余談ながら昨晩のジャラン・アローの店もマラッカで昼食を食べた店も「鶏」を店名に冠しており、この夕食も鶏料理が店の名前つき。鶏と縁がある。
ニョニャ料理写真
Nyonya Laksa。ニョニャの名を冠しているのはラクサ。ココナッツ・ベースのスープ(麺入り)は辛いといってもタイカレーほどではなく、マイルドでスパイシー。日本でも出せば人気になりそうな味。つまり個人的に気に入りました。
Chinese Mixed Vegi。野菜の塩炒め。とろみのない八宝菜風の味わい。
そしてBrinjal Specialは揚げナスの炒め物。これも好評。

 余談。マレーシア名物とされながら現地で食べそびれたメニューに「肉骨茶(バクテー)」と「海南鶏飯」があるのだが、後者については東京・築地場内の親子丼専門店で特別メニューとして食べることが出来る。ここだけでなく、最近は国内各所に供する店があるらしい。たいがいは「シンガポール名物」として提供。

豚肉を漢方な感じで煮込んだ肉骨茶(バクテー)は、もう少し寒くなったら神奈川県内の店をあたってみようと思います。(つづく。たぶん次回で完結。)

マレーシア三都物語[7(完)]〜プトラジャヤ・金曜日はダメよ?(14.09.25)

 伏線その1。ホテルの白い天井に貼られた、メッカの方角を示す矢印。カラフルなコインロッカーが目を引く駅の構内にも、丸いドームを象ったプレートでSurau(礼拝室)が設けられている。マレーシアの国教はイスラム教。ちなみに駅舎の礼拝室は(も)中で男女に分けられている。

 伏線その2。日本車も多く見受けられるクルマ社会のマレーシア(ちなみKLを代表する高層建築ペトロナス・ツインタワーは石油会社の所有物だ)。PROTONは国産の自動車メーカー。

自動車のショウルームで、たびたび見かけたのが「OPEN 7DAYS A WEEK(どの曜日も営業)」なる表示で、そうか、イスラム社会(の、少なくとも自動車販売業)では毎日オープンはわざわざアピールすることなのだ、と軽い気持ちで考えていた。

 マレーシア滞在最終日。首都KLから電車で小一時間の新都市プトラジャヤを訪ねてみました。
 マレーシア最大の国家プロジェクトとして(後日しらべ)首都から行政機能を移管するため作られた計画都市で、首相官邸や財務省などはすで移転済み。
「つまり、新しい首都ってことですね?」
プトラジャヤ駅から街の中心部に向かうタクシーの中で(駅から直結ではない=車社会マレーシアということで伏線その2を半分回収)運転手さんにそう訪ねると
なんで?首都はクアラルンプールだよ?
…新しい首都、という認識ではないようです…

 ともあれプトラジャヤ中心(?)部。(今にして思えばマラッカ・カラーの)レンガ色のアスファルトに映えるのはイスラム風の建築様式を取り入れた首相官邸。

そして宮殿のようなスケールでそびえ立つマスジッド・プトラ通称ピンクモスク。

 壮麗なこのモスクを、では見学しましょうかと入口に近づいたところ
「金曜は観光客が入れるのは午後3時からですよ」

あ。…金曜日。イスラムの礼拝日であった。(伏線2の残りと1を回収)


 さしあたり屋内のフードコートは開いていたので(とゆうか、この時点では礼拝のことをさほどの重大事と受け止めていなかった)昼食。皆が並んでいるので、またいつもの安心なお値段だろうと油断していたら予想外に値が張って青ざめた盛り沢山のシーフードカレーと、極彩色は食紅などのようで味じたいはココナツミルク風の穏やかなモノだった(ただし中に海藻やらコーン粒やらが入っており文化の違いを再確認した)かき氷など食して。
 昨日断念したマラッカや、「泥水の合流点」を意味するクアラルンプールと違い、澄んだ湖水を擁するプトラジャヤ。遊覧船が出ているというので出向くと、これも金曜の昼間は礼拝のためお休み。

 諸々の遊覧・見学が可能になる時間まですることもなく(観光案内所らしき場所も閉まっていた)、ここは撤退しようかと思ったら、なんとタクシーも来ない(笑)
 いや、正確にはタクシーを含め車が次々到来し、レンガ色のアスファルトに停車。巨大なピンクモスクでの礼拝に参じた人たちだ。ミナレットから詠唱が鳴り渡る。
「…橋の向こうにバス停があるらしいから、歩いてみようか」

 橋の向こう・財務省前のランナバウトで、たまに動いてるタクシーをようやく確保・駅に戻る。
 いや、外見だけでもなかなか見ものな新都市プトラジャヤだったし、別に名所じゃなくても周囲のもの全て見て面白いので、とくにひどい目にあった気もしないけど、観光の際は休日・休館日など(日本でも何処かの街を月曜に訪ねちゃって博物館・美術館のたぐいが軒並み閉館とか)念頭に入れたほうがよいという教訓でした。

 KLに戻り、マレーシア最後の食事は趣向を変えて、さらに西の彼方のペルシャ料理。

 生野菜をふんだんに使ったサラダ・甘くないヨーグルトに漬け込んだ胡瓜・牛鶏羊の三色ケバブにサフランで黄色く染めたライス・ほうれん草の煮込み。東南アジアの甘辛圏から陸と海を隔てた、中東の世界を蜃気楼のように皿の向こうに予感しつつ(今度は自分が中東に行くという意味ではない)、マレーシア日記はここまで。

 現地のテレビが映すBBCのチャンネルでは、英語のニュースでイスラム国をめぐる云々とともに日本での、原発事故による避難生活で疲弊し自殺した被災者に対し東電に責任ありとする判決が大きなウェイトで報じられていた。
 余談ではあるが、現地ではタクシーの運転手さんなどに何度か「君たちはKorianか」と尋ねられた。向こうの人たちから見れば(いや、日本の吾々から見たって)両者に外見的な相違などないのだと改めて思った。

  
新書はいずれも20年前に読んだ入門書。だいたいこの二冊(後者は三部作)を読んでおくと、(現状のイスラム国などに対する気持ちは別問題だが)イスラームが少なくとも基本においてはそれなりの合理性を持った宗教・文化であることが分かる。
『大航海時代の〜』は譲られて手元にありながら、今回の旅行までには読めなかった大著。そのうちマレーシアの記憶を反芻しながら取り組む予定。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1410  1408→  記事一覧(+検索)  ホーム