記事:2023年12月 ←2401  2311→  記事一覧  ホーム 

こう見えて最近は物語のことばかり考えています〜『悲しき南回帰線』予告(23.12.3)

 すぐ書けそうな話題が悪口ばかりで、でも筋の通った悪口を構築するほどの=世間を敵に回しても言うぞというだけの(負の感情にしても)気力が充実していない。つづめて言うと今週は興が乗らないので日記(週記)はお休みします。
 …だけだと味気ないので、このところ考えてたことをコマを割って架空のキャラに話させてみました。どういう経緯でこういう会話になり、またこの会話からどう話がふくらむか、考えつける(そしてコレを面白いと思える)人は自由に使っていいですよ。
 タイトル「社会学的理由と生物学的理由(仮)」:はぁ…とため息をつき「なで兄弟姉妹って結婚できないんだろ」とつぶやく高校生の女の子。隣に座った同級生らしき少年「わざわざ結婚しなくても、もう家族だからじゃね?」目を丸くして少年を見る女の子「悔しいけど…天才か」ズボンの尻をはたきながら立ち上がる少年「あと身もフタもないけど性そのものが元々、遺伝子をシャッフルするためのものだから、近すぎるとシャッフルにならない(どうやってその回避を忌避感として人間性に実装してるかは定かでないが)」そう言われて「うっわぁ…何か本当に身もフタもない…」と引く少女。
 関係ないようであるような(実は今まで手つかずだった)レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』を読み途中←この話は来週以降。僕が出てたころは11月だったコミティア、今年は(今は?)今日みたいですね。創作でしか表現できない何かを表現する人たち(とそれを玩味する人たち)で賑わうがよいでしょう。

トム・クルーズと構造主義(23.12.10)

 「テレビのバラエティ番組は何十年も同じタレントが司会席に居座りつづけてる、アニメもいつまでガン○ムだ、ライダーもスーパー戦隊もプリキュアも20年30年おなじシリーズじゃないか、だから日本のコンテンツはダメなんだ」…みたいな意見があって(僕の意見というわけではありません)でもまあそういう面もないではないのかなと思った矢先、でもトム・クルーズの『ミッション:インポッシブル』だって25年くらい続いてません?と気づくなど。いやだから僕はそれがダメだと一概に否定する立場じゃないんですってば。
 第一作の頃には生まれてなかったろう十代の子らが「ミッション:インポッシブルというシリーズがすごく面白い」と話してるのを小耳に挟んでさ。

      *     *     *
 今ごろ読んだレヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』の話をする前に、彼が創始者とされている(らしい)構造主義について、一度くらい「(仮)」程度にでも説明しておくべきではないかと気がついた。
 そんな説明、今さら必要あるものかバカにするなと思うひともいるだろう。けれど人間、自分の関心の外にある物事は意外と知らないものだし、逆に自分が知ってることは誰もが同じように熟知していると思いがちだ。
 あるいは実際なんとなく知っている、ということもある。物理学を何も知らない子どもの頃から、吾々は「ワープ」や「ウラシマ効果」を知っていたし、今の子どもはそれに「マルチバース」が加わるのだろう(たぶん)。『監獄の誕生』を読んでなくても(僕も読んでない)吾々は又聞きの又聞きみたいな知識でふつうに「フーコー言うところのパノプティコンが」とか言えるし、それを使って考えることもできる。
 だもんで説明したら「それなら知ってるよ」と思うかも知れない。たぶんそうだろう。「お前は全然分かってない」も。僕の書くことですからウソ・大げさ・紛らわしいがあるやも知れません。
 なんとかフォビアとかアムネジアとか、そんな感じで自分が間違ってないという自信が持てないみたいな病というか気質みたいのがあって、どんな成功しても自分ソレが治らないんだよね…と、あのブライアン・メイ氏が語ってる引用をマストドンで見たんだけどXにも増して見失なうと発掘が難しいマストドン…(というキャプションに添えて、いやあと苦笑している白髪のブライアン・メイ氏の似顔絵)
 でもどうせ誰が語っても何かしら取りこぼしがあるんだ。そんな感じで気負わず行きましょう。

 構造主義の思考的な萌芽は第二次世界大戦より前にあった(という)。
 ひとつはソシュールの言語学。その要点は「言語は世界に一対一で対応はしていない」ということだ。いや、言葉は世界に一対一で対応している。林檎という言葉はリンゴという個物に対応し、ミカンには蜜柑という別の言葉が対応している。でもそれは世界を成している秩序と、言語の秩序が一対一で対応しているということではない。そうだったら言語は世界に一つでいいはずだ。
 でもたとえば日本語では「水」と「湯」は別の言葉だけど、英語ではどちらもwaterだ(お湯はhot「water」)。逆に日本語では鶏「肉」・豚「肉」・牛「肉」と一括りにされる事物に英語ではchicken・pork・beefとそれぞれ別の言葉が与えられている。乱暴に要約すれば、言葉は神が創りたもうた世界と完全一致の反映ではなく、人が(それぞれの文化圏ごとに)人だけの取り決めで造った仮象に過ぎない。
 それでも世界には唯一特権的な真なる言語があって、それを唱えればコンピュータをコマンドで動作させるように、「バルス」の一言でラピュタを崩壊させられるように、呪文で森羅万象を操作できる…というファンタジー的なロマンは、ロマンだけどロマンでしかない。真の名を呼べば相手を従わせられるという物語は、相手がそう信じる人間(あるいはそれに準ずる存在=ランペルシュテルツキンとか大工の鬼六とか)だから成立することで(真の名を知られた!もう従うしかない!)木や岩を動かせる真の名・真の言語は存在しない。
 キャプション:これは完全に余談ですけど「バルス」とか「開いて」「リーテ・ラドバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール」などの「コマンド」を「発動」できるということは、あの「飛行石」は均質な分子で出来た&魔力をもつ石のカタマリではなく、ああ見えて16ビットCPUくらいの結晶回路(それはそれでロマン)と通信機能を備えた一種の「端末」なのかもなあ…(電子回路のような模様が透けて見える「飛行石」のイラスト)
 真実でない・恣意的な人の言葉が、それでも世界を隙間なく埋め尽くしているように見えるのは、言語が差異の体系だからだ。昼でなければ夜。右でなければ左。いや昼と夜の間には朝や夕方があるぞと言われるまでは世界は「昼と夜」で隙間なく埋まるし、讃岐だ稲庭だアレだコレだと細分化される前の世界では「お蕎麦とおうどん、どちらになさいますか?」

      *     *     *
 構造主義のもう一つの先駆は、マリノフスキーモースなど文化人類学の先達が成した研究だ。
 南太平洋の島々にクラ交換という制度がある(あった)。貝殻で出来た「ムワリ」「ソウラヴァ」という宝物が島々をそれぞれ逆回りに巡回する。宝物を持っていった者は大歓迎され、たぶん沢山の貢ぎ物や何かと引き換えに宝物を相手に渡す。宝物を手にした島の人々はそれを次の島に持っていき…
 大阪の国立民族学博物館(民博)に展示されていたソウラヴァ(左)とムワリ(右)。これがあの有名な!という本物に遭遇的な感激と、 でも今ここにコレがあるということはつまりコレを使って行なわれていたクラ交換の儀式はもう…という悲しみ・持ってきて良かったのコレ?という疑問で頭がクラクラしました。クラだけに…
 航海は時に命がけだったかも知れない。貰う側も歓迎したり代価として色々あげたり。そうまでして交換したい宝物の価値とは何か。もちろん巡礼者を呼びよせるカーバ神殿やルルドの泉と同様、それ自体にも尽きせぬ魔術的価値があるだろう。だが、ここで発想の逆転があった。宝物に価値があるから誰もが欲しがり、沢山の貢ぎ物と交換するのではない。沢山の貢ぎ物と交換できるから宝物には価値があるのだ。だから交換で得たムワリやソウラヴァを後生大事に抱えこんでも意味がない。これを得るためにこんなにも対価を支払い、これを運ぶためにこれほどの冒険があった、それほどの価値がある宝物にさて、どれほどの貢ぎ物で報いてくれるのかな?
 これが構造主義だ(仮)。
 
 冒険物語やアクション映画にはマクガフィンと呼ばれる「宝物」がある。サスペンス映画の巨匠ヒッチコックが有名にした概念だ。巨万の富をもたらす財宝の地図、世界を一瞬で破壊する最終兵器。登場人物の誰もが欲しがり、熾烈な奪い合いが展開されるマクガフィンはしかし、実のところ何だっていい。映画や漫画の作者にとっては(そして読者や観客にとっても)それを巡って巻き起こるドラマのほうが実際に得られる果実なのだ。
 トム・クルーズが主演した『ミッション:インポッシブルIII』のマクガフィンは付けも付けたり(魔法のランプや「猿の手」同様に多少の残酷な裏切りを伴いつつ何でも願いをかなえてくれるアイテムとして知られる)「ウサギの脚(ラビット・フット)」という暗号名のカプセルだ。映画のラスト、壮絶な死闘の末にカプセルを奪回した主人公を更なる任務に誘いこむべく、老獪な上司は問いかける。「ところで…ラビット・フットが何なのか(新型爆弾か細菌兵器か)知りたくはないかね?」だが、そのカプセル=マクガフィン=ラビット・フットのために仲間を喪ない同僚に裏切られミサイルに吹き飛ばされ新妻を攫われ上海の住宅街の連なる平屋根の上を全力疾走し、揚げ句の果てには頭蓋の中にマイクロ爆弾を埋め込まれ一度は心肺停止までした主人公は「知りたくもありませんよ」と答え、ハネムーン休暇に旅立っていく。
 後のちシリーズでどんな高い処から飛び降りて見せるより、もしかしたら一番衝撃だったかも知れないM:I IIIで橋ごと襲撃されて真横に吹き飛ぶトム・クルーズのイラスト。(どうやって撮ったん?いや勿論ワイヤーとか使ったんだろうけど)
 元祖ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』と並んで、マクガフィンの「それ自体が何であるか実はどうでもいい」マクガフィン性を最も端的に表わしている、とはいえM:I(III)を出したのは単なる趣味だ(悪役のフィリップ・シーモア・ホフマンがまた好かった)。もうじき21世紀の第一四半期を(映画のトムクル並みにボロボロの状態で)終えようとしている吾々が一番よく知ってるマクガフィンは、伝説の海賊ゴールド・ロジャーが世界の果てに隠したという「ひとつながりの財宝(ワンピース)」だろう。
 そして誰もが一度はしたように(してますよね)、結局のところ「ワンピース」とは「伝説の財宝を求め力を合わせて闘ったお前たち…その天晴れな絆こそ『ひとつながりの財宝』なのだ」みたいなオチなんじゃないかと想像する時。
 あるいはラーメン屋の前で行列に並び、聖地と呼ばれるような場所に押しよせる人波に加わって、「もう少し空いていれば」と口では嘆きつつ、でも内心、こうして詰めかけた人の多さこそが提供されるラーメンの美味しさやアトラクションの価値を保証しているのだと薄々察している時。察しながら「ほらこんなにすごい行列」とSNSで写真を見せびらかす時。
 あのイヤったらしい「経済効果」という言葉が念頭に浮かぶ時。
 すでに吾々は多かれ少なかれ構造主義者なのだ(仮)。
 いやいやいやいや、本来もっとニッチな理論を拡大解釈・過度に一般論化して適用範囲を不用意に広げがちなの社会学士のダメな「あるある」だと思うぞ(※とゆう一般化もな!)とばかりに、せっせと眉にツバする「ひつじちゃん」
 …まあ、これは構造主義の流行で時代遅れとされた一つ前の流行思想=実存主義について誰かが言った「だが実存主義は死なない。人生とは・自分とは何かと悩み自問するとき人は誰でも実存主義者だからだ」という好い啖呵のパクリなのだけど。

 我思うゆえにある我はこの世界に必然性もなく放り出された孤独な存在(実存)だが、だからこそ自分が何物かを自分で決める自由を持ち、世界を切り開くことができる―(すごく大雑把な把握だけど)そんな実存主義の苦悩と自負を、構造主義は「いや個々人の自由や主体性なんて、自分を取り巻く構造の中で与えられた変数みたいなものだし」と粉々に叩きつぶす。いやコレも雑な一般化かも知れませんが。
 それだけでなく、レヴィ=ストロースは文明の発展度合いで大きく遅れていると思われていた「未開」と呼ばれる民族が、実は神話や社会構造そのもので、解析にコンピュータが必要なくらい精緻な文化を創り出していた(ただそれが機械文明などに向かわなかった)ことを証明して、実存主義の旗手だったサルトルが奉じていた(マルクス的に?)発展する歴史という物語を台無しにしてしまったようだ。
 いずれにしても「私」の主体性やオリジナリティを称揚する発想と、「私」を周囲から流れてくる情報やら何やらの中継点に徹するものとして捉える発想は相性が悪く、構造主義は後者と親和性が高いと言えるだろう。もちろん両者は個々人それぞれの中で状況に応じて使い分けられているもので、同じ宮沢賢治でも「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈の…」は構造主義に近しいし、「ほんたうのさいはひ(本当の幸い)」の希求は実存主義的に思えたりする。
 
 言い換えれば構造主義には非人情な相対主義と取られがちな性質もあるのだろう。
 平行いとこと交叉いとこが織りなす精妙なメカニズムを提示して無文字社会=無知というイメージを覆したレヴィ=ストロースは、だがそれを親族構造は「女性を交換する」仕組みだと呼んで、かなり非難轟々だったらしい。それぞれの文化の独自性を重んじる人類学者なら当然とも言えるけれど、彼がアフリカの(僕などには有害としか思えない)女性器切除の風習にたいしても非難を留保する姿に憮然というか、鼻白むというか、そんな感じになったことを憶えている(2019年12月の日記参照)。
 また、どちらかというと歴史を超えて不変な構造に関心を持ち続けたレヴィ=ストロースに対して時代ごとに大変動する思考の構造(エピステーメー)を取り上げたフーコーや、語り手・書き手の主体性より書かれたものが規範性・オリジナリティを所有しうるとした(らしい。未読)バルトやデリダなど「ポスト構造主義」が「たったひとつの真実などなく、世界の解釈は解釈者それぞれで恣意的だ」という価値相対主義をもたらし、それが「だったらどのように真実を自称してもいい」というフェイク・トゥルースの猖獗につながった…というミチコ・カクタニの批判に「ぐぬぬ」となったこともある(2019年8月の日記参照)
 これは言いがかりか逆恨み・八つ当たりみたいなものだけど、個人的に構造主義の「社会の中に位置づけられて互いに交換しあえばしあうほど価値は高まる」という前提が「もっと働いて稼いで消費のサイクルを廻して人と交流しなさい(fitter, happier, more productive?)」と促されてるみたいで、そういうの極力避けて生きたい自分などはダメダメの烙印を押されてるような気がして、たまらん!と思うことも時にある。
 今年5月・茨城県で撮影したパンセ・ソバージュの写真に添えてキャプション:野生のパンジー(三色すみれ)は仏語だとパンセ・ソバージュ。パンセには「思考」という意味もあるのでレヴィ=ストロースの著書『野生の思考』の表紙には野生の三色すみれの挿画が添えられているという…
 …最後の八つ当たりは兎も角。
 それでもなお、少なくとも構造主義的な考えかたと人間性に敬意を払うことは両立しうる(己のオリジナリティを誇るだけが人間性じゃない)と思うし、ミチコ・カクタニの言い分は心に留めつつ逆に踊ってるのでなければ、踊らされてるのだろうさという状況で自分(たち)が何に踊らされてるかを構造的に知ることは、吾々を「自分らしさ」みたいな好餌で踊らせようとするメカニズムを「見透かす」役に立つだろうと考えたい。
 なにより「吾々は社会構造の編み目みたいな存在だ」という認識は「吾々は社会あってこそ存在している」という意味で、マーガレット・サッチャーの「(あるのは個人や家庭だけで、支え合う)社会なんてものは存在しない」に代表される強欲な新自由主義に対抗する足がかりにも成りうると思うのだ。
 先月の日記で取り上げた、ジュディス・バトラーによるアガンベン批判も、実存主義的なもの(の陥穽)にたいする構造主義とは言わんまでも「社会はあるぞ」という反撃のクサビだったように思える。
 いずれにせよ、誰かを(出来れば社会まるごと)救うか、そうでなければ世界の広さを教えてくれるか、どちらでもない思想になど意味はない。偉い人には分からないのかも知れないけれど。

      *     *     *
 とまあ、こんなことを前提として(ようやく)レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』を今さら読んだ話にバトンを渡したいと思いますが、明日から今週は6連勤なので、肝心の本篇で、あまりたいしたこと書けないかも知れません…

F.A.〜「トロッコ問題」その他について(23.12.17)

 とっくに終わった話だと思っていたので、多少考えるところはあれど死体をわざわざ掘り起こして棒で打つのもなぁと言及を控えていたのだけれど、まだ息があってコレはすごいと持ち上げてる人がいるらしいので、一度キチンと「トロッコ問題」(とやら)に引導を渡しておきたい。芥川龍之介でも、インディ・ジョーンズ魔宮の伝説でもない「トロッコのレバーを操作して、○人死なせるか沢山死なせるか」みたいなアレだ。
 元々が愉快ならざる話なので、否定するにも不快な話になるのは避けられない。「あんなのに関わるだけ時間の無駄と正しく把握している同意見のひとは、この年の瀬にわざわざ気分を害するには及ばない。来週のサイト日記(週記)にご期待ください―と人払いをしたうえで、不愉快な話をする。かの「問題」とやらに対する、僕の回答は「ああ、それによく似た設問を、もっと昔に読んだことがありますよ」で始まる:

【ああ、それによく似た設問を、もっと昔に読んだことがありますよ。何かの講演の記録だったので、現場にいた人たちは「読んだ」じゃなくて「聞いて」「問われた」んでしょう…今あなたが僕にトロッコがどうだと回答を迫ってるようにね。
 それはトロッコじゃなくて、豪華客船だかフェリーだか、とにかく客船の話なんだけど「客船の…」じゃなくて、なぜか「仏陀のパラドックス」といったと思います。うろ覚えだけど、たしかそうです。なんで仏陀かというと、その客船の上で刃物を持った男(たぶん男でしょう)が暴れて、次々と乗客を殺している、そこになぜだか仏陀が降り立つというんです。さて慈悲深い仏陀は、他の多くの乗客を救うために、刃物をもった暴漢を殺すべきだろうか―
 あなたが僕に回答を迫ってる、トロッコがどうしたという設問と、そっくりだと思いませんか?
 このトロッコならぬ客船の話をした人物、客船で暴漢を制止するどころか、むしろ刃物をもって暴れ回る側、のちに弟子たちに地下鉄でサリンを撒かせ大量の乗客を殺傷した、自称・麻原彰晃ってカルト宗教の教祖なんですけど。】

 これがいわゆるトロッコ問題(とやら)に対する僕のF.A.=ファイナルアンサーだ。これで通じなければ(通じない気もするけど)もう僕に言うことはない。
 …と十年来、二十年来くらい思っていたけれど、ほんの数カ月前、あるいはこういう答えかた(問い返しかた)もあるのではないかと気がついた:
【たとえば「地震か豪雨か、とにかく大災害が発生して沢山の人たちが着の身着のままで身を寄せた避難所に、支援物資の毛布が届いた。けれど毛布は被災者全員に行き渡るだけの数がない。さて、毛布を分け与える人を選んで他の人たちは我慢させるのと、毛布は一枚も渡さず全員に平等に我慢してもらうのと、どちらが適切だろうか」と問うても、同じような議論ができるし、実際そういう問題が(日本の自然災害の現場で)起きてることを思えば、より現実的でもあるのに、なぜあなたは仮の問題で人を死なせよう、殺させようとするんですか?】

 ストレートに言えばトロッコで何人「殺さなきゃいけない」と悲壮な決意顔してみせる者・人命で切迫感を釣り上げて早く答えろと「弟子」を恫喝する者は、むしろ船上で刃物を持って乗客を殺しまわる暴漢にこそ親和性が高く、そちらへ、そちらへと引き寄せられていく傾向があるのではないか。この種の「議論」を新たに絶賛してみせた人物が、日本でロシアのウクライナ侵攻を擁護しプーチン支持を公言している「論客」で、またつまらん傍証を得てしまったと改めてげんなりしている。
 インテリジェンスなロシア通の論客氏、最初の著作いくつかはすごく読ませたんだけど、それまでの人生で蓄積してきた充電を早々に使い切ってしまうも発言者の地位だけは残って、どんどん
遺憾な人になってく残念なパターンだと思う(評価してたぶん辛辣)放電を随時補う「コンセント」に上手く繋がれればいいんだけど、そこで成功の味を知ってる人ほど「強いもの」に飛びつきがちなのかも知れません…と苦り切る舞村さん(仮名)
 そのロシア通が肩書の論客氏が持ち上げてる、トロッコ的な「問題提起」の最新バージョンは(吐き気がするので引用すらしたくないのだけど)30人の幼児と自分の娘どちらを救うかみたいなことを謳っているらしい。
 それで思い出したのは何年か、油断すると十年くらい前のこと。鉄道の女性専用車両に男だって乗り込む権利があると主張して、集団で実際に乗りこむ行為(いやがらせ)に及んだ団体が東京のターミナル駅前で街宣をするというので抗議に人々が集まった。自分を含め男性で人の壁なり人垣なりになろうと参じた人も少なくなかった。そうした抗議者の男性の一人と、団体のメンバーか支持者らしい男性が議論というか、もっぱら後者が冷静な前者に食ってかかっていたように記憶する。どういう売り言葉に買い言葉でか、人垣のほうの男性が自分は死刑反対論者だ的なことを言って、食ってかかる氏のほうが、またそれに食ってかかって曰く、もし俺の妹が殺されても、あんたは犯人を死刑にするなと言うのか
 なんで仮定の話でお前の「妹」が殺されなきゃいけないんだよ。
 思わず横から口を挟んでしまった。たぶん何を言ってるかは通じず、兎に角イチャモンをつけられたと思ったのだろう、よく分からない捨て台詞を吐きつけて食ってかかる氏は行ってしまった。
 言いたかったのは、そんな時まで、なんで「妹」を矢面に立たせるんだよ、ということだった。「たとえばこの俺が通り魔に無残に殺されても、あんたは死刑反対だから犯人の命は奪うなと言うのか」と問えば、死刑反対の人垣氏も、もう少し真摯な対応を迫られただろうに、こんな時まで死ぬのは「妹」で、お前は「妹を殺された俺」の立場を気取りたいのかと。
 だいたい妹が殺されたら犯人は死刑だ何だと息巻く兄が
電車でのイヤな目を避けたい妹が乗った女性専用車両に男が集団で乗り込んでくるのはオッケーなのが解せん。どうか「良かった…フェミニストを論破したい兄の都合で殺される不憫な妹は実在しないんだ」でありますように…いや架空の妹なら殺していいわけでもないけどなと御立腹の「ひつじちゃん(架空)」。
 全員に行き渡らない被災地の毛布でなく、人の命を賭けたがる、そして自分は選ぶ側・殺す側に立てると信じて疑わない人間が心に思い描く自画像なのだろう、「30人の幼児と自分の娘」と謳う本の表紙は、何か決意するような若いイケメン男性のイラストのようだ。
 ちなみに新バージョンの設問の答えが「自分の娘のほうが自分にとっては掛け替えのない存在だから30人死なせるべき」だとしたら、いつのまにか死なせる人数のほうが増えてることになる。こういう設問の立てかた自体が、より多くを死なせる(殺す)暴力性に直結していると、またまた自ら証明することになっていいのかよと思うが、そういう結論にはならないかも知れないし(まあ逆のパターンでも「自分の娘だけど強い決意で死なせる(キリッ)(イケメン顔)」と残酷さはエスカレートしてるわけで)、いずれにしても知りたいとすら思わない。

      *     *     *
 不愉快ついでに、一時期なんだか騒がれた「どうして人を殺してはいけないのか」にも、キチンとケリをつけておきたい。これも自分にとってはずっと昔に(20年くらい前にそれが持て囃された時点で)ファイナルアンサーがあって、とうに「終わった」話なのだけど、トロッコを見てると何かの拍子でコチラもゾンビのように復活しかねない。

 『悲しき南回帰線』はどうなったんだよと思いながら(来年になります…)ここまで読んだ人なら、たぶんお分かりのとおり「どうして人を殺してはいけないんですか?」なる「問い」もまた
なんであなたは「どうしてコンビニで売ってるパンを代金を払わず、その場で開けて食べてはいけないんですか」と問わないのか、同じことなのに
という反問が相応しいだけの話だ(これがF.A.というわけではない)。強いて言うなら「どうしてコンビニのパンを」と変わらないのに「どうして人を殺しては」と問う=そっちのほうが「なんだかスゴい」質問だと思った時点で、コンビニのパンを盗むより人の命は大問題らしいと分かってるんだから、どうして自分はそう思ったんだろうと突き詰めることが問いの答えにつながるんじゃないの?考えてみなよ?とは言える―もちろん「本当に疑問に思ったとかじゃなくて、どうせ自分で考えついたわけじゃない誰かの受け売りで、人の命とか持ち出せば相手を(「リベラル」とか何なら「フェミ」とかを)困らせられると思ったんだろ」と身もフタもなく指摘したりしないとしての話だが。
 実のところ「なんてくだらない質問もどきだ」としか思えない。なぜって:
【「どうして人を殺してはいけないのか」という質問は「人を殺してはいけない」がルールとして厳守されてる世界でなら成り立つかも知れないけれど、現実の世界では昨日も今日も人が殺されまくっているじゃないか】
 ガザを略奪し、住民やジャーナリストまで虐殺するイスラエルの兵士に「どうして人を殺してはいけないんですか」と訊いてみるといい。「え?殺しちゃいけないの?」「あれは殺していいんだよ」笑って答えるとまでは言わないまでも、返ってくるのは「殺してもいい理由」ばかりだろう。そして同じことを逆にガザの住民に聞けば、その場で殴られても文句は言えまい。
 「どうして殺されてはいけないんですかぁ?」というのは、あるていど安全が保証された恵まれた社会で、そのありがたみが分かってない思い上がりのみが発しうる、きわめて限定された場所でしか成立しえない問いにすぎない。

 もう少し深刻に悩まされる話をすれば、つい百年くらい前まで殺人が社会の存立要件だった人々が居た。男子が成人となった証に敵対する部族のメンバーの首を取って来なければならないという儀礼をもつ民だ。それを禁じられたら部族の歴史や社会が崩壊するのに、儀礼を禁じる宣教師や植民者たちに、彼らが「どうして人を殺してはいけないのか」と問うことは論理的にありえただろう。余計なことかも知れないが「そうやって俺たちに首狩りを禁じるお前たちは、俺たちのことを牛馬のように殺すじゃないか」という状況ではなおさら。

 しかし吾々は首狩りでなく、首狩りを否定する側の社会に生まれついた。それでいて「人が殺されてはいけない」ではなく総体としては日常茶飯事のように人が殺されている社会にだ。あのへんやそのへんも含め、一足飛びに結論するなら、この問いともいえない幼児的な問いに対する(僕の)ファイナルアンサーはこうだ:
自分が「問う側」に立てると考える時点で間違ってる。
 誰かに吹き込まれたのであれ、奇特にも独力で思いついたのであれ「どうして人を殺してはいけないか」
(または「そもそも人を殺してはいけないのか」という問いの前で人間が選べる立場は「答える側」しかない。
どうしていけないんですかぁという自称「問い」自体は幼稚で箸にも棒にもかからないけれど、この程度のことは言うくらいには、いちおう「人の命」というものは(概念も実物も)尊重に値するものだと個人的には考えている。
 
 このうえなく真面目に書いたことを思い切り俗に崩して言うなら「どうして人を殺してはいけないんですか」なんていう厄介な、「どうしてコンビニのパンを勝手に食べちゃいけないんですか」と同じくらい「そんなこと訊かれる自体なにを求められてるかワカンナイ」厄介な質問を携えて、自分が問える立場でいられるとか甘えんな、そんな訳わからんことを言うなら「お前は一体何を言ってるのか」「それについてお前自身はどう思うのか」責任もって自分自身で考えろ、となる。答えが出せるまで居残りだ。
 サンタコスの桃花、ウインクした目線が向いているのは「ねーねー」と左肩に乗っかってるトナカイコスのミニ理恵きゅん、モモが右にかかげたピンクにコーティングされたドーナツには同じくトナカイコスのミニデコちゃん・ミニセミちゃんがニコニコ顔でかじりついている。見えない下のほうにミニ静香氏。キャプション「久しぶりに絵を描いていますが、クリスマスに間に合わなかったら自主〆切を一週間延長&モモは晴れ着・理恵きゅんたちは竜のコスプレに替えて正月にアップします…」
 他の皆様は好い年末ホリデーを(Have Happy Holidays)。

小ネタ拾遺・12月(23.12.31)

この2023年に、現代の女子高生が1945年にタイムスリップして特攻隊の飛行兵と恋に落ちる(らしい)映画をわざわざ作ってしかも選んで12月8日に劇場公開しようと決めた人たちが何を考えてるか(あるいは何を考えてないか・何を「考えなくていい」と考えているか)想像するのが怖い。(23.11.30)

(23.12.1)自分ものすごく世間知らずというか想像力がスッポリ欠落することが時々(いや…「しばしば」だな)あって、秋頃から「きのこが安くならない…それどころか高い…きのこの旬って秋じゃないの?」と訝ってたんだけど、そうか灯油が高いせいか!てゆうか逆に年間とおして価格が一定してたの、ほぼほぼ工場で作ってるようなものだからでしょう、いや知らないけど。きのこは兎に角よく食べるので、まあ負担感あるといえばあるかな?

(23.12.2)哲学や社会思想の近現代史(を、少なくとも追っかけてる自分の頭の中)「どいつもこいつも時代遅れ。旧い思想は弊害ばっかり」と「今コレが新しいスゴいと言われてること、ぜんぶ昔の人が先に言って余程しっかり考えてた」の対消滅しろ的せめぎ合いになりがち。

(23.12.3)首尾よく休みが取れたら久しぶりに再訪したいなと思ってる街、今まで行ったことない処を覗いてみようとネット地図を見てるだけで楽しい。「パンが主役のお店○○○○」の目と鼻の先に「NIKUダイニング△△△△」があって「ファイッ!」て感じ(どちらも入る予定なし・前くらいは通れたらいいですね)
 「パンが主役のお店○○○○」「NIKUダイニング△△△△」地図のスクリーンショット。併せて「喫茶めるつばう(気になる)」「宇宙軒食堂(気になる)」「オヨヨ書林(気になる)」「フェルメール(気になる)」「オマンジュウカフェ(気になるしクリスマス饅頭って何)」「21時にアイス(このお店は他の街にもありますね)」
(23.12.21追記)数年ぶりの金沢旅行が雪で中止となり(バスが出なくなった)ションボリしています。天気予報を見て「今冬の初雪は金沢でか」などと無邪気に思っていたけど致し方なく、むしろバス会社の賢明な判断を寿ぐべき。現地および雪の地域にお住まいのかた、何しろ関東からのバスが止まるくらいですので、どうかお気をつけて…
(23.12.22)ションボリといえば(そのつなぎかたはどうか)ダイハツの不正が1989年からということは、あの一世を風靡した「ミラパルコのCM」(1990年)の頃にはもう裏で不正してたのね…と心底ガッカリなのだけど←そこにガッカリなのもどうか
 
考えてみたら、このCMでネタに…もといリスペクトされている宝塚じたい今になって告発されている内部でのパワハラなど(1990年すでにかは知らねど)今に始まったはずもなく、この数十年ほんとうに本邦いたるところでダメになってた+隠蔽してたんだなあと改めて心が無になってます。
(さらに追記:来年の年明け早々エクストリーム旅程で金沢に再挑戦を決めました…/23.12.24)

(23.12.5)川崎市・東急沿線の元住吉は、まあふつうにコンパクトな飲食店街なのだけど「ブレーメン通り」という名称で煩くない程度にキャラ立てしてるのが、なんだか風情があって好い。駅前の動物たちのブロンズ像が紅いサンタの衣裳をまとった今時分は特に。そしてこのブレーメン通り、分かります?
 それぞれ楽器を携え四段重ねに背中に乗り合った下からロバ・犬・ネコ・ニワトリ。四階建て複合施設の三階分ぶちぬきの「ブレーメンの音楽隊」ディスプレイ。商店街の入口にも「ブレーメン通り」の看板と四匹(三匹+一羽)のディスプレイ。駅前のブロンズ像は四頭それぞれに紅いサンタ服が着せられている。そして、メルヘン風の鉄飾りから提げられた歯医者の奥歯ディスプレイ。
歯医者の「奥歯」ディスプレイまでグリム童話ふうで、しかも立体ですよ(そこ?)
たっぷり温野菜をトッピングしたラーメンを食べて帰りました。

(23.12.6)なんだこのAIが生成したようなイイカゲンな質問は。
 スクリーンショット「関連する質問:ローザはルクセンブルクでどのように殺されましたか?」
いや、機会があれば著作に目を通しておきたいなと思いつつ、明日にでも『悲しき南回帰線』を読了したら間をおかず『地中海』(全8巻)に入ってしまうかも知れません…

(23.12.8)長いことTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの、最初のTHEEのEが多いのなんで?とばかり気にしてた舞村さん(仮名)が今年に入って今度は「セラフィム(熾天使)の最初のSって二つ(SS)だっけ?」キッカケで韓国のアイドルグループLE SSERAFIMの存在が視野に入るようになったの、首尾一貫しているというより「まんまと乗せられてる(a.k.a「チョロい」)」気がしなくもない。
 
スタイリッシュだるまさんが転んだ。そういえば先週の日曜だったか、みなとみらい(ヨコハマのオシャレ区画)で20代くらいの男女がエレベーター待ちながら「指ずもう」してるの見かけたなあ。なんか一周まわって、そういうの来てます?

(23.12.10)古代ローマで奴隷は、少なくとも大半の奴隷は、生産ではなく消費活動(家政)のために使役されていたという話は、折りにふれて思い出す(2010年5月の日記参照…他にも気づきの「出典」はあったはず)。とくに現代では金銭を得るための活動=生産のための労働ばかりが労働で、消費はその代償として得られる楽しみ・利得みたいに思いがちだけど、得た金銭で物を買ったり料理を作ったり料理のあとを片づけたり後は掃除洗濯ゴミを出したり、そういうのも(いわば無賃の)労働であり苦役であるってことは忘れずにいたい。むろん「なんだかんだ言ったって仕事だって面白いと思えば面白いじゃないか」的に言えるなら、消費活動も楽しみではあるんだけど、それでも肉体や精神はエネルギーを使って消耗する、それは間違いない。これを一行に要約すると「勤務時間以外の消費活動も自分が疲れる要因として(忘れがちだけど)勘定に入れよう」もっとつづめると「師走マジやばい」です、ハイ。(それなのにこんな駄文でまた時間を遣って…)
(同日追記)まして自分ひとりで済まず、家族の分の家事まで無賃労働(シャドウ・ワーク)で担う人たちの消耗…という話でもありました、とさ…

(23.12.11)今年もシュトレンを始めたんですが、25日まで保つよう一枚切りの厚さ(薄さ)を調整したり、毎食すぐもう一切れ食べたくなったりするのが悩ましいんだよね→から即座に『新米姉妹のふたりごはん』の誰がクリスマスまで(シュトレン)『1個』で過ごすなんて言ったんですか(悪い顔)が浮かんでニヤニヤしてしまう。自分も小さめのスペアをもう一本確保しとこうか…いや、我慢我慢。
さっそく真ん中から一枚分切り出したシュトレンと『新米姉妹のふたりごはん』9巻の書影
(追記)25日まで保たせました。

(23.12.14)色々かまけてたら忘れてる間にクリスマス過ぎちゃうぞと焦り気味にブックサンタ2023(外部リンクが開きます)を済ませてきました。今年選んだのは長田弘(詩)いせひでこ(絵)最初の質問(講談社/2013年/外部リンク)。
若い頃の松岡正剛氏が、詩は最後の一行で全体をキュッとまとめるけど、その前の一行で語り手の本質というか内面が吐露される的なことを解説されてて(例として挙げられていたのは谷川俊太郎「生長」と大手拓次のわたしの足は、陰性のもののすべてである)、ネットでも確認できる長田氏の詩は「街路樹の木の名前を知っていますか」「砂の上に座ったのは、草の上に座ったのはいつですか」と質問がならぶ中、最後の「ひとつ前の」一行だけが疑問形でない断定。詩人の(とゆうか現代に表現を試みる者の)危機感とも取れるけど、それまでの詩の一行一行をちゃんと沁みわたるように受け止めていたか、テキトウに読み飛ばしてないかと、見透かされ釘を刺された気持ちにもなり。「もっとゆっくり読みなさい(生きなさい)」と受ける側の時間感覚まで操ってくる、良い詩だなあと思いました。
いせ氏による絵本化は「再構成」とのことで、また別の読みを促すのかも。
イラクの子どもに絵本を贈るピースセル・プロジェクト(外部リンク)にも今年も一冊ぶん寄付。年末にがぜん張り切る私の右手(笑。12/30参照)

(23.12.16)あ、あの…どんぐりって何ですか?ウズラの玉子の…」
メニュー写真。「おつまみ どんぐり・250
円 明太クリームチーズおかか・350円
あ、あー…はい、そうゆうのですよねアハハハ…濃ラーメン温野菜のせでお願いします…

(23.12.18/すぐ消す)本当に何の新味もない話で恐縮なんですが、寒くて風邪を引くのが心配から→一気に入浴後のヒートショックが心配なレベルに(神奈川県横浜市)。皆々様もお気をつけください…

(23.12.20)久しぶりに食材としてお肉を買う(外食などでは食べてます)。甘い見通しで買った蕪を早めに使い切らなきゃいけなくて、カレーのルウを隠し味に豆乳シチューに。あっと言う間に消化。
 左:蕪と鶏手羽中(半額)。右:蕪と鶏肉の豆乳シチュー、楕円形のカレー器に盛って。
「甘い見通しで買ったカブを、あっというまに融かす」みたいなおじさんヂョークはやめよう。いや、シチューは「焦げついて」はいません…

(23.12.25/王様戦隊キングオージャー(公式/外部リンク)のネタバレがあります)
ヒメノ「この傷は絶望的ね…私が執刀すれば別だけど」
ヤンマ「開発中の人工臓器の実験台になってもらうわ」
カグラギ「私に何の見返りもないまま、あの世に逃がしはしませんよ!」
リタ様「誰であろうと救える命は平等に救う」
制作陣「ここでキレイに死なせはせん、このキャラからは搾り取れるエピソードがまだまだある」
僕「皆もうちょっと素直に『いい人だからどうにか助けてやりたい』って言ってもいいんじゃないかな!」
いやー最初は気まぐれで観はじめた今期の戦隊だけど、出会えたのは今年最大の幸運だったわ…

(23.12.28)岡田徹さんが珍しくヴォーカルを取った「週末の恋人」。すごいダミ声で、そういう人なのだと思いこんでいたのだけど

実際にはアナウンサーのような美声で「それではつまらないから」と、わざとあんな風に歌ったらしい。作曲では「Kのトランク」「羊のトライアングル」「夢が見れる機械がほしい」など。かしぶち氏とはまた別の形で、ムーンライダーズに独特のエレガンスを付与した人だったかも。今年は(も)少なからぬ人を見送りました。

(23.12.29)「もうすぐお正月、お正月といえば門松…カドマツ・トシキって居たよね、カドマツ・トシキとオメガトライブという同僚の記憶の混濁を「オメガトライブは角松(敏生)じゃなくてカルロス・トシキです」と丁寧に解きほぐす東京での仕事を、昨日で納めてきました。今日はヨコハマで、帰省前の自発的PCR検査(有料)。
石段の左右に「迎春」と書かれた行灯がズラリと並んで新年へのゲートのように見える寺社の夜景
近所のお寺は既に来年へのゲートが開いていますが、フライングせず明後日まで2023年に滞在予定です。
(同日追記)横浜のPCR検査所、年明けに閉店だって…たぶん既に「もう死ぬほどの病気じゃないし」とか「交通事故の死者数のほうが」とか言われてるのでしょうね…

(23.12.30)善行は自分の右手が施しを為しても自分の左手さえ気づかないくらい目立たぬようにやりなさい、それを評価するのは世間ではなく神様なのだから―とイエスは言うのだけど(マタイによる福音書6章)まあ僕はクリスチャンではないし神の国の到来を待つより現世が救われなければならないので:
CULTURE AGAINST APARTHEID  アパルトヘイトに抗する文化(外部リンクが開きます)
という、広く言えばパレスチナでの虐殺に対する抗議に多くの署名が集まっていて、ちょうど今やってる(1/4の朝まで)BOOK☆WALKERのコイン40%還元セールで電書を購入するのに、どうせなら名を連ねてる作家さんがいいなと思い
宮尾行巳 - 怪異界(1)(外部リンクが開きます)
秋元なおと(編) - みらいみたいなマンガ集2022春号(寄付付き)(同上)
をカートに。ふふふ、神様じゃないけど見てますよその右手。他にも「このひとが名を連ねてるのを発見するのはちょっと嬉しいな」という名前も(そう多くはないけど)ちらほら。
 前者は初めて知る作家さんで、実はものすごく疎い怪異譚というジャンル(僕が疎いというか、皆様ものすごく好きだし通暁してるでしょ何とか駅とか何番出口とか)の勉強も兼ね楽しく拝読。中国の神仙をモチーフにした完結済の長篇も次の機会にチェックいたしたく。
 秋元なおとさんはコミティアでも活躍されてるかた。環境問題をテーマにしたアンソロジーで、収録の「マジンジラ タイ編」(ラデック鯨井/つやまあきひこ)は、東南アジアでユーカリの木は他の生物の生育を妨げ土の栄養を奪う悪魔の木と忌み嫌われてるが(ユーカリプタスは自分も愛用してるけど、効能として謳われてる殺菌作用にそんな弊害もあったのね…)日本で紙の原料となるため原生林を伐採して植えられている→そうして新鮮な紙を得た日本は自分たちがつくった古紙を東南アジアに押しつけている、古紙を再生するより日本という局地レベルでは安上がりだから…という暗澹たる話。
 20年以上前か、日本の再生紙メーカーが製品の古紙使用率をごまかしていたというニュースがあって、あ…こういうとき(さんざ自慢してた)技術のチカラで克服するんじゃなくて数字を粉飾して「解決」する国になったんだ、もしかしたらずっと前からそうだったのかも知れないけど、兎に角そうなんだ…というのが「この国はもう本当にダメなんじゃないか」と考えるようになったキッカケだったので、悲しい答え合わせを見た気分。
 PCR検査も(陰性でした)僕は家族に会うのが年に数回だから毎回こうして帰省前には検査できるけど、毎日外から帰ると家族と一緒に食事する、家族だって外の職場や学校などに行って帰ってくる大多数の人たちは毎日検査するわけにもいかないから「たぶん大丈夫」でやっていくしかない+そのぶんマスクや予防をシッカリしようにも「もう大丈夫だろ」という人たちは電車の中でもノーマスクで大声で笑ってる…みたいな状況は極端にいえば「詰んでる」のでしょう。これを文明や社会の問題としてキチンと清算するひとは居ないのかも知れないけれど。
 本当に「もう大丈夫」なら、何より医療従事者の方々の肩の荷がおりて万々歳なので、むしろそう願いたい気持ちはあります。この数年、社会のしわよせを一身に負わされた方々が、どうか平穏な年の瀬と新年を迎えられますように。

 今年最後の読書だったシモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』の感想は来年の日記に廻します。メイン日記で。

 

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2401  2311→  記事一覧  ホーム