書物復権2023〜That's why I'm leaving(23.01.07)
人文・社会関連の版元10社が共同で開催する復刊リクエストが今年も始まってます(実は昨年12月から既に…)
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書物復権2023(外部リンクが開きます)
〆切は2023年2月28日。復刊決定の発表は4月中旬。
ちなみに、昨年復刊が決定した本はこちら:
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決定!書物復権2022(外部リンクが開きます)
自分がリクエストした中では
ルネ・ジラール『
世の初めから隠されていること』、
テッサ・モーリス=鈴木『
辺境から眺める アイヌが経験する近代』、
多和田葉子『
カタコトのうわごと』などが復刊。もちろんリクエストした復刊書すべてを買って読むことなど出来はしませんが(『世の初めから隠されていたこと』の値段見ました?…ああ世の中にはコレをほいほい出せる人もいるのだろう…)復刊されれば図書館や古本屋にも供給されるでしょうし、良書が世に満ちるのは無条件で好いこと…くらいは言わせてほしい。
今年(2023)は
ダナ・ハラウェイ『
犬と人が出会うとき 異種協働のポリティクス』、『
ロールズ 哲学史講義』、
菅野賢治『
ドレフュス事件のなかの科学』(少しずつ読んでる『失われた時を求めて』の背景なんすよドレフュス事件…)、
高橋雄造『
ラジオの歴史 工作の〈文化〉と電子工業のあゆみ』などに投票。
リスト以外の復刊リクエストでは例年どおり
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シモーヌ・ヴェイユ『ギリシアの泉』(外部リンクが開きます)
「戦争はいつでも目の前にいない敵を侮って始まるが、意気揚々と従軍した若者は戦場で初めて遭遇する力に打ちのめされ、力の奴隷となる。『イーリアス』を主題に兵士の、そしてそれ以上に一方的に蹂躙されるだけの民衆の悲惨を描き出す本書は、ロシアのウクライナ侵攻が泥沼化し、日本が先制攻撃に舵を切ろうとする今、ますます重要性を増していると思われます」←こんな感じのコメント(本サイト
2019年3月の日記「パトロクロスの戦争論」を要約・加筆したもの)を送ってみました。関心あるかたは応援してください…
* * *
昨年末、少しずつ足抜けしていたTwitterでの(自分の)新規投稿を停止しました。
「これは無理」と異物を吐き出すように反射で拒絶したのだけど、それは間違ってなかったと思うけど、言語化するのに少し時間が必要でした。以下に簡単に記します。
ツイートごとの閲覧数(インプレッション)はこれまでもクリックすれば表示される仕様だったようですが、変更後は基本的に(どうやらRTとプロモーションは違うらしい)TL上のすべてのツイートが「これはどれだけの人に見られている」と強制的に可視化されたわけです。
本来は「眠い」とか「おなかいっぱい」とか、なんでもないような個人の「さえずり(ツイート)」を鳴き交わす場所だったTwitterが、とつぜん全ての鳴き声に「声の大きさ」が貼りつけられた闘技場になっていた。つづめて言うと
パノプティコンと
シノプティコンを兼ねる場所に、です。
…イーロン・マスクがTwitterを買収して以来、社員の大規模な解雇(物理的にもコンプライアンス的にも脆弱化が懸念される)やヘイトスピーチの容認・その他もろもろが危ぶまれ…まあそれ以外の理由もあって、少しずつ僕じしんの発信は本サイト中心に軸足を移していたのですが、この仕様変更は一線を超えたと判断しました。
大げさに言うと、日本でも人命にかかわる被害を出した「リアリティ・ショー」に観客として・出演者として皆が参加を強制される。
これは当初Twitterが約束していた場所ではない。こうなる要素も含んでいて、徐々にそうなりつつあったのかも知れないけど、それが仕様としてビルトインされるのは話が違う。元々の理念とは真逆になってしまうのは(しかも商業主義が原因で)社会学的には見事な教材かも知れないけれど、その材料にされるのは御免こうむりたい。
That's why I'm leaving.
『世の初めから隠されていたこと』を筆頭とするルネ・ジラールの著作が、まさにこうした注目を集める競争の無益さを語るものでした(
2015年1月の日記)。インプレッション数など
気にしない・気に病まない人はいいんです。でも僕は気に病む。たぶん数の多寡に一喜一憂し、きっと自分と誰かを比べる。一位など最初から諦めていても最下位にはなりたくないと見下す相手を探してしまう(
22.12.10の日記)。
この競争に「勝ってアガリ」はない。敗者しかいないゲームなのだとジラールは説いています。
That's why I'm leaving. 降りれるゲームをココで降りないなら、何のためにジラールを読んできたのか(笑)。
まだTwitterに残って発信を続けてるひとを、批判しているわけではありません。
でも、もし新しい仕様がしんどいと感じるならば、撤退する十分な理由になると思います。
今Twitterを去る人が五十人いれば、去る理由は五十とおりで、僕が挙げた「これ」が理由になる人は、そうはいないのかも知れません(あまり問題にされてないようにも見えます)。でも「これ」なんかイヤだなあ、蝕まれるなあと思った人がいて、そのイヤな感じを言語化・対象化する助けになればと考える次第。(あと、マストドンなどの競合SNSが同様の「サービス」を始めたら危険と思っていいという警鐘)
もちろん「お前さんはSNSに疲れて、格好の降りる理由に飛びついたのだろう」と言われれば、それも事実かも知れません。自分が十年間、Twitterのおかげで得られた恩恵を思えば忘恩なのかも知れないけれど、そろそろ卒業の時期なのでしょう。
Twitterの公式でない、TweetDeckのようなブラウザだと2022年12月現在は閲覧数の強制表示は未実装なので、今もそちらを中心に情報収集は続けています。TweetDeckも追従して仕様変更されたら、また改めて心が離れるのでしょうが、その報告は本サイトではしないつもり。
残るひとも、離れるひとも、どうか幸せでいてください。
(23.4.28追記)
書物復権2023・復刊書目が決定したようです(外部リンクが開きます)。上で自分が挙げていたリクエストは全滅ですが(とほほほ)まあ図書館で探せばよいか…逆にコレは見落としてたかなと思う『
信長権力論』『
〈新装版〉漢方医学』たぶん自分もリクエストしてたとは思う『
ミラーニューロン』など気にかけていきましょう。
容赦なく畳み掛ける〜ニコラス・ケイジ主演『PIG/ピッグ』(23.01.08)
「俺のブタを返せ。」と言われたら、どうしたって思い出すのは
「象を返せ!」じゃないですか。
プラッチャヤー・ピンゲーオ監督『
トム・ヤム・クン!』(ひどい邦題だと思ったら原題でした。自国語で一番有名な?名詞で世界に売り出そうという意欲のあらわれか)2005年。
トニー・ジャー演じる田舎の純朴な象使いが象牙めあての悪の組織に象を奪われ、敵地に単身で殴りこむ。
同時期に
アルフォンソ・キュアロン監督の『
トゥモロー・ワールド』(2006年。これも傑作)が爆破テロや銃撃戦をかいくぐる救出シーンを(カメラを切り替えない)ワンショットで撮って絶賛されたけど、『トム・ヤム・クン!』は5分間ワンカットでトニー・ジャーが4階建てくらいの高級レストランのゆるやかなスロープを駆け上がりながら悪の手下30人くらいをムエタイで倒しまくり(吹き抜けから蹴り出された悪党が下に落下したり、小部屋を行き来・扉をバンして敵を倒したり、椅子や割れ物の瓶を次々投げつけられるのをかわしたりが全部ノーカットの一発撮りよ)最上階の厨房に飛び込んで決め台詞を放つのだ。
「象を返せ!」
でも今は象ではなくブタの話。
マイケル・サルノスキ監督『
PIG/ピッグ』2020年→日本公開は昨秋から。主演
ニコラス・ケイジ最高傑作の呼び声もうなずける圧倒的な作品でした。
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『PIG/ピッグ』公式(外部リンクが開きます/予告動画はネタバレ注意)
圧倒的といっても、じわじわ来るほう。まず世捨て人ニコケイがトリュフを掘って暮らすオレゴンの森の美しさ。全篇にわたって静謐さと緊張感を失わない絵面。懸案となるブタ(土の中に隠れた高価なトリュフを嗅ぎ当てる)は小柄で、キツネのような毛皮に黒い鼻。かわいい。
真っ黄色のカマロで森を訪れるチャラい仲買人(
アレックス・ウルフ)がカーステレオで鳴らしているのがロックやヒップホップではなく、クラシック音楽なあたりが違和感だなと思ったあたりから、一筋縄ではいかない物語は始まっているが…
ああ、ここから先はもう話せません。
終始アートのように美しい画面構成ですがストーリーは退屈させず、先はぜんぜん読めません。多少ニコケイが痛い目に遭いますが、どぎついバイオレンス・まして性暴力はないので安心のG指定(全年齢鑑賞OK)です。
でもじわじわ痛みが来る。愛情ではなく支配や抑圧をベースに築き上げられた家庭の悲劇性とか、生涯をかけた希望が失われたとき人は何を頼りにその後の人生を生きればいいのかとか。
とくに「
本当に自分がしたい以外のことを(生活のためとかで)
している人間は、周りのために生きてるつもりでも、誰からも気にかけられない消耗品だ」と畳み掛ける場面は、トニー・ジャー必殺のヒジ打ちやヒザ蹴りを連打で浴びるように容赦がなく、観終わったあともジワジワ効いて、人によっては前払いで死んでるような気分になるかも知れません(まあ自分の精神的コンディションが悪かったせいもあるけど)(←大体いつも悪い)。それも含めて傑作だと思います。
語り口的に『
ドライブ』が好きな人は本作も好きかも知れません。つうてもアレほどバイオレンスではないので、えー『ドライブ』はちょっとなーというひともワンチャンで。
横浜・伊勢佐木町の
シネマ・ジャックアンドベティで1/19(木)まで(外部リンク)←これがあるので連日更新だけど早めに書きたかった。レイトショーはサービスデーでも席間あいた感じで余裕で座れました(興業的には頑張って…!かも知れませんが…)
* * *
こちらは路上でたぶんバックナンバーも買えるし
通販もあるけど(公式/外部リンク)『
ビッグイシュー』新春の最新号。一冊450円の売上ごとに230円が販売するホームレスのひとの収入になります。
世界的スターとなった
イ・ジョンジェが巻頭インタビューで、ドラマ『
イカゲーム』(未見)の成功は嬉しいが
「賞金を手に入れるため、人間性を捨てるような行動に追い込まれた登場人物たちに各国の視聴者が共感した(中略)
『イカゲーム』のような状況が世界のあちこちで現実味を帯びていると思うと、たまらなく切ない気持ちになります」
と吐露した次のページで、イギリスの「1日1ポンド(約166円)で食事は可能か」節約チャレンジ動画がSNSでバズるという別の記事を読み、たまらなく切ない気持ちになるなど。問題提起になった一方「困難な生活の実態が遊びのような感覚で消費されている」と懸念の声もある由。
直接の関係はないかもだけど、こうした文脈で、SNSでバズるとかテレビで話題になる=(広告費などで経由されてるとはいえ)「無料の娯楽」として享受されることを「消費」と呼ぶのに少し抵抗がある。この話はいずれ改めて。
1月11日の不調〜ジグムント・バウマン『自分とは違った人たちとどう向き合うか』(23.01.11)
ちょっと気持ちの落ち込みがひどくて、でも(昨年も今頃こうじゃなかったか?)と一年前の自分のツイートを確認したらドンピシャ。時季のせいだと思えば苦しいは苦しいなりに安心感がある?
こういう意味では便利なツールであったな、ツイッター…
* * *
落ち込んでるときの自分=真の自分と思うべきではない。これは漫画家・文筆家でもあった
吉野朔実さんの
「本当の自分は幸福な時の自分」というフレーズに学んだところが大きいのだけど:たとえば逆境に陥った人が醜い行動を取らざるを得なくなったとき「地金が出た」「あれが奴の本質だったのだ」と勝ち誇ったように(
誰に勝ったんだよ)言うべきではないと思うのだ。
生きている=新陳代謝や吸ったり吐いたり・インプットとアウトプットがスムーズに回転している状態と考えれば、そのサイクルが阻害された状態が「本来の姿」なわけがない。嫌悪に取り憑かれグルグルしている自分は、喜びをもって世界とつながる機能が阻害されている=不調な状態だと捉えることは(不調がデフォルトだと捉えるよりずっと)自身の生をリスペクトすることになるだろう。
とはいえ、生が絶えず脅かされ、最後には尽きて終わるものと考えると、人は絶えず「本来じゃない状態」に苛まれ、最後は不本意に終わる可能性が高いという覚悟も必要なのだけど…
一方で、相反するようだけど「うまくサイクルが回らない状態」を過度に気に病むのはどうか、という考えもある。本当の自分は幸福な自分→今の自分は幸福じゃない・もうダメだ!とさらに落ち込んでは元も子もない。
ドイツの社会学者
ジグムント・バウマン(1925-2017)の『
自分とは違った人たちとどう向き合うか 難民問題から考える』(原著2016年/伊藤茂訳・青土社2017年)は昨秋の神田古本市で手にした一冊。
邦題に副題、
「分断に対抗するために」という帯の惹句で分かるとおり、世界的な移民排斥・難民排除を憂いて宥和を説く(コンパクトで読みやすいです)。六章それぞれ論点があって、本来はそちらを紹介すべき本なのでしょうが―「自分はマシ」と思うために見下す対象が必要だという何処かで聞いたような話(
本サイト22年12月の日記参照)の前提として、そもそも現代の吾々は
落ち込むように仕向けられているという指摘にハッとさせられた。
カフカの小説やフーコーの監獄論に代表される「規律社会」の次に来た「業績主義社会」は―
ウルリッヒ・ベック、ビュン=チュル・ハン、アラン・エーレンベルグといった社会学者・哲学者を援用してバウマンは言う―
「「うつ病患者と不適任者」の製造と追放を専門にしている」。単に規律を守るのでなく、より高い業績を求められる組織・そして全ての責任が個人に帰せられる社会では、失敗や屈辱は
「自分自身の恥ずべき欠陥」に帰せられ、人々は
「自己搾取と自己苦悩と自己疲労の犠牲者となる」。
現代の人類が密林を歩いて狩猟や採取をする代わりに学校で成績を競ったり会社に勤めていると思えば、樹の根につまづくし蛇に噛まれもするだろう。それらの事故を自らの人格的な欠陥に帰しすぎることは、もし僕やあなたにそういう傾向があるとしたら、それは今の社会が吾々をより競争に駆り立て、経済を回すための罠かも知れない(ルネ・ジラールも同じようなことを言うてはりましたなあ)。
相反するような、と書いたけれど「落ち込んでる自分=本当の自分ではない」という意味では同じサイドにある考えとも言える。これらの反対サイドにあるのは勝ち抜くため、成功するため、もっと努力して素晴らしい人間になれという自己啓発(?)の教えだろう。あなたは勝てる、風邪でも休むな、人はなんとかが9割。
どう言っていいか分からないけど、落ち込む自分をさらに責めるのはやめたいと言いたい。葦のように倒れても、倒れたこと自体まで責められるのでなく、ゆったり回復するのを待つゆとりがほしい。
落ち込むと人は、実は他者に対しても攻撃的になる。それはやっぱり「本当の私」じゃない、自己嫌悪も他者憎悪も「これは不調」と払い除けて、やりすごして、細々とでも生きていきたいものです。
しかしバウマン先生が哲学者ベック先生を引用して述べている
「今や個人は、社会的に生み出された問題への解決策を個人で見つけるという、実現することが不可能な作業を課せられている」
という言葉は、不況の中で生き残る責任が個々人に帰せられているという(バウマンが述べた文脈)本来の意味だけでなく、子ども食堂や民間援助団体が背負わされた今の苦渋をも連想させるなあ…
女歌と男歌〜紅白歌合戦2022(23.01.14)
奥歯コレクション(とは→
2022年3月の日記)継続中。手描き版。かわいい。
似て非なる物件。…年末年始は千葉県の実家に帰省していました。
年末年始は実家に帰り、基本的にテレビのあるリビングで家族と過ごす+
チャンネル権はない(笑)=まあ例年、紅白歌合戦は観るわけです。年明けの笑点も。TOKIOも。相棒も。
で昨年の紅白。ちょっとした発見がありました。「(いま歌ってる)
Kinki Kidsってコトバ的には(同じ事務所の)(さっき歌ってた)
なにわ男子と意味おんなじなのでは?」という気づきがあったのを言葉選びに失敗して「Kinki Kidsって
"邦訳したら"なにわ男子じゃない?」と口走り、家族に
「Kinkiも日本語だから…」と秒でツッコまれるなど。
いや、それじゃない
「乃木坂・日向坂は紅組だけど桜坂は白組(しかも大トリ)(福山雅治)」これは軽くスルーされた。
違う違う、それでもない。
この十年、たぶん僕ばかりが気にしていたことに「女歌(仮)の終焉とボク歌(仮)の隆盛」があった。(仮)とつけたのは僕の勝手な・しかも暫定的な造語のためで、少し説明します。
平成、まして21世紀に物心ついた世代には想像できないかも知れないけれど、昭和50年代くらい(まで)だろうか。演歌歌手が
「ここが女の潮どきなんだわ 私きれいに身を引くわ」(五木ひろし「潮どき」作詞・岩谷時子)と歌い、ムード歌謡が
「女に生まれてきたけれど 女の幸せまだ来ない 折角つかんだ愛なのに 私のほかにイイひといたなんて」(敏いとうとハッピー&ブルー「よせばいいのに」作詞・三浦宏)と歌い、フォークソングも
「こんど生まれてくるとしたなら やっぱり女で生まれてみたい だけど二度とヘマはしない あなたになんかつまづかないわ」(松山千春「恋」作詞も同じ)と歌う。男性歌手が女性視点の・女性一人称の歌詞を・まるで女性になりきったように切々と歌い上げることが、不思議に思われないくらいメジャーでデフォルトな時代があったのだ。
これを仮に「女歌」と呼びます。本サイトの、この日記だけで用いるローカル変数みたいなものなので、他の場所で使わないように。
もちろん男性が「俺」「僕」すなわち男として唄う歌も、言うまでもなく女性が「私」すなわち女として唄う歌も沢山沢山あった。女性歌手が男性視点で唄う例外も、もとは伊勢正三(男)の楽曲を女性歌手のイルカがカヴァーして大ヒットした「なごり雪」や、渡哲也(男)のオリジナルを牧村三枝子が唄った「みちづれ」、それに元から女性が唄う男歌として書かれた八代亜紀「舟唄」・松村和子「帰ってこいよ」などが思い浮かぶ。
けどまあ男が女を演じるように、一緒に銭湯に行ったら男がなかなか出てこなくて私は髪が芯まで冷えたとか、折れたタバコの吸い殻で男のウソが分かるとか、大阪で生まれた女やさかい東京へはようついていかんとか、一大ジャンルというか、歌舞伎の女形や、いっそ
「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」(紀貫之←男)くらいに遡る伝統かと深堀りしたくなる、一種の文化をつくりあげていた。
でも深堀りはしない。新年早々ヘンな鉱脈(日本スゴい的な)を掘り当てたくもないし、その文化(仮)は自分の感覚だと平成を待たずに消滅したように思われるからだ。かつてそういう文化(仮)があったことと同じくらい不思議なんだけど、忽然と。
21世紀=ここ20年くらいは、逆に女性歌手の「ボク歌(仮)」がすごく耳に入る時代だったと思っている。ただしこちらは今の歌謡界?J-POP?をあまりに知らないので(昨年の紅白で知ってる楽曲ってリバイバルをのぞけば
「惚れたねホの字だねホッホー」くらいだった気がする)勘違いもありうるけれど。
男歌でなく「ボク歌(仮)」と仮称しているのは、成人男性の男らしさより、青少年の青さやイノセンスに託すものが多いような気がするからだ。とくにAKBグループや坂道グループが歌う「ボク」は「素敵なキミに憧れたりアプローチしたりするボク」という形で、その「キミ」=唄ってるアイドルと考えると「この歌の「ボク」を手本に私たちを求めなさい」、いや作詞家の秋元康が「こういうふうに彼女たちを求めなさい」と指南・誘導している趣がある。そのわりに歌詞に魅力がない気もするのだが、これはまあ僕の趣味の問題。
本来は僕などではなく、歌謡曲やJ-POPに詳しくて愛もある人が調べ考察してほしい話ではある。
昨年ドラマがキッカケで再ヒットした
ケイト・ブッシュ様の歌のように、男女の役割を取り替えることが出来たら、それは神様にお願いしたいくらい有意義なことではないかと思う一方(参考:
Running Up That Hillが、なんとキャリア初の全米シングルチャートトップ10入り(rockin'on/22.6.7/外部リンクが開きます))、もちろんそこには何か身勝手な押しつけが起きている可能性もあるので、キチンと批評できるひとに批判してほしくはある。
別に男が歌わなくても、いやむしろ十代の女性に
「デートに誘われてバージンじゃつまらない」とか
「あなたが望むなら私なにをされてもいいわ」とか
男が書いた歌詞を押しつけて唄わせるのもたいがいだよなと思ったりもする。
演歌歌手が唄ってる間に120人くらいが連続で「けん玉」を成功させるギネス記録チャレンジ、ひょっとしてアレは人数を集めるのが面倒なだけで、やってること自体はルービック・キューブを六面そろえるとか(僕はできないけど)、料理人が玉子を片手で割るとか(僕はできないけど)、自動車を運転するひとが発車前に前後左右を確認するとか(これは一応できるということで普通免許を取得している)そのくらいの難易度なのではないか=失敗はそうそうないのではないかと仮説することで(
あくまで仮説ですが)心おだやかにスルーできるようになった。(男歌・女歌に関係ないんだけど紅白の話題なので無理矢理ねじこみました)
あと2015年ごろに「面白い、面白い」と夢中になって布教…不興しか買わなかった
Ylvisのコミックソング「
The Fox(What Does The Fox Says?)」が全然ちがう文脈で、昨年の日本でヒットしていたことを紅白で知るなど。もう、誰も教えてくれないんだから…
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んで久しぶりにMVを確認して気づいたのですが
「犬はウーフと鳴き 猫はミャーオと言う」(でもキツネは何て鳴くんだ!?)という歌い出しのあと
「鳥はtweetし(中略)
ゾウはtootする」と言っている。Twitterの「つぶやき=ツイート」に該当するのは、代替SNSとして話題のマストドンでは「
トゥート」だよと仄聞して何のことやらと思っていたのだけど、マストドンは象の仲間で、だからtootなんですね。
もしゾウじゃなくてキツネの仲間の動物がSNSの名前だったら、今ごろtweetでもtootでもなく「よーし今日もSNSで
アヒアヒーハッヒーするか」となってたわけですよ君たち(
なってない)
* * *
で昨年の紅白なのだが。久しぶりに男性歌手が唄う「女歌(仮)」を、それも
二曲も聴いたのですが。新曲で。
片方はバンドで、片方はソロシンガーの藤井風というひと。潮目が変わったのだろうか。また来るんですかね男が女を唄う時代。それとも僕が知らないだけで、ずっとあったの?
繰り返すけど僕は適任ではないので、誰か気にかけてほしい次第。
ヘルミオーネさん!(23.01.15)
いきなりゲイの「家族」ができる『
弟の夫』や思春期のゲイとしての目覚めを描いた『
僕らの色彩』のように初手から切り込むのではなく、まだ互いに恋愛対象として意識していない男どうしの交流をスローペースで描く
田亀源五郎氏の新作『
魚と水(うおとみず)』。
最新5話の
「晩メシ食ってかない?」「え?いいのか?(超うれしそう)
」のリアクションが可愛すぎて
・
第5話 ゲリラ豪雨/魚と水 - 田亀源五郎(webアクション/外部リンクが開きます)
「もう結婚しちゃえよ(笑)」とオタク特有のツッコミを声だして入れそうになったけれど、
仮に彼らが望んでも、今のこの国で結婚はできないのだ…と一瞬で吾にかえってしまった。その責任は、そういう制度に・そういう社会・そういう国にできてない吾々ひとり一人にもあるということ。娯楽作品は楽しい夢かも知れないけれど、夢から始まる責任もある。
* * *
昨日の続きのようで、そうでもない話。
まあ昨日の自分も秋元康の悪口を言ってますけど「最近の歌詞は昔に比べて○○○○(←批判的な言葉)」みたいな話が出るたび、昔の歌だって十代かハタチくらいの女性が恋しいひとに貴方のことを
「私の首領(ドン)と呼ばせてください」と哀願するような歌詞だったぞと思うのでした(「
私の首領(ドン)」歌・
石野真子)。
ドンはおそらく、ドン・ガバチョでもドン・ドラキュラでもなくドン・コルレオーネ、ただし父(マーロン・ブランド)ではなく三男(アル・パチーノ)のことだろう。榊原郁恵さんもアラン・ドロンやアル・パチーノの真似をする貴方は
「あなたらしさ感じられなくて この恋さめちゃいそう」と嘆いていた。当時のイケメンの代名詞だったみたい。
そもそも石野真子さんはデビュー曲「
狼なんかこわくない」もファーストキスを鏡の前で妄想する少女の視点で
「鼻が邪魔だと誰かが言ってたわ 古い映画の台詞だったかしら」と歌ってたりして、ちなみに『
誰がために鐘は鳴る』(1943年)の台詞であるらしい。歌のタイトル自体もたぶん『ヴァージニア・ウルフなんて怖くない』という戯曲のもじりで、昔の作詞家やプロデューサーは、こういう要素を流行歌に盛りこみたがったのだろう。
文芸路線では
「ああ『赤と黒』みたいな恋をしています ああ『赤と黒』みたいなしのび逢いです」(歌・岩崎良美)。『赤と黒』ってそんな話(
諸方面に謝りたいが実は未読)だっけ?同じスタンダールなら『
パルムの僧院』じゃない?<しのび逢いと思ったりするのだけど、『赤と黒』もしのび逢いだったらスミマセン。岩崎良美さんは
「私はマノン マノン・レスコー 恋するために生まれた天使」みたいな歌も唄っていて『マノン・レスコー(情婦マノン)』ってそんな話?←これも未読なので謎なのですが、そんな岩崎良美さんが後に『
タッチ』(あだち充←実はこれもほぼほぼ未読。何も読んでないのね…)を歌うの、あるいみ路線がブレてなくて(?)面白い。
…昨年の紅白で、君はロックなんて聴かないけど僕はあんな曲やこんな曲に励まされてきたんだと「あいみょん」が唄っていたけれど(昨日の日記で書いた「女子が唄うボク歌」ですね)昔だったら具体的に「ニルヴァーナ」とか「ニール・ヤング」とかミュージシャンの名前が出ていたのかも知れない。でもこれは時代じゃなくて当人の芸風かしら。川本真琴さんは具体的に
「ママが一限をサボって聴いてたDo You Really Want To Hurt Me」て唄ってたものね。でもそれ25年前の歌だ。やっぱり時代かも。
歌と固有名詞なら「地名」もある。「ご当地ソング」は和歌の歌枕を継承した=演歌は日本の伝統という物語(作られた伝統)の形成に寄与しているのだろう。ドルチェ&ガッバーナまで手を広げたらキリがないので中断。
デヴィッド・ボウイの初期曲「
Letter to Hermione」は昔のレコードやCDでは「
ヘルミオーネへの手紙」と表記されていて興味をそそった。『
ハリー・ポッター』で一躍(日本でも)有名になる前は、
ハーマイオニーという英語読みはシェークスピア好きにしか知られていなかったのではないか。晩年の戯曲『
冬物語』に登場するシチリア王妃。夫であるシチリア王レオンティーズにボヘミア王ポリクサニーズとの不貞を疑われ、死んだことにして身を隠す。ボウイの歌がこれを題材にした文芸ソングだったら面白かったけど、残念ながらそうは読めない(君は新しい恋人と幸せでいると聞いたけど信じない、僕と同じに泣いてるはずだ…みたいな厄介男の歌)。
何が言いたいかというとHermioneを「ヘルミオーネ」と「訳した」レコード会社の人は(ちなみに歌の中でHermioneは発語されてないので真相は闇の中…)教養の基礎にドイツ語があったのかなあという。敗戦まで旧制高校などの第一外国語はドイツ語が多かったろうし、その後も文化教養の基盤としてソコソコ長く栄えたのではないか(リポビタンDが「ディー」でなく「デー」なのはドイツ語だから)。
ひょっとしたら自分が知らないだけで(
基本的に何も知らない)ドイツ文学か戯曲か何かにも有名なヘルミオーネさんががいるのかも…などと思っていたら
「ヘルミオネー スパルタ王メネラーオスとその妻ヘレネーの娘」なんて情報も出てきた(Wikipedia調べ)。勝手にドイツ語と思っていたが、うーむギリシャか。
この話、ボウイ先生の誕生日だった先週1/8に出来ればよかったですね。
* * *
「
わたし戦争、今あなたの家の前にいるの」「今あなたの家の
廊下に立ってるの」くらい戦争の影が近づいた、いや、こっち=日本から早足で距離を詰めてる今年一月ですが、昨日今日みたく益体もない話も少しはさせてくださいな…とは言いながら
・
日英首脳 自衛隊と英軍の互いの国への配備を可能にする円滑化協定に署名(ロイター/23.1.12/外部リンク)
を「日英同盟復活、グッジョブ!」と喜ぶ人たちは、戦争できるってことが
・
英ヘンリー王子、自伝で陸軍時代の敵兵25人殺害を告白(東京新聞/23.1.11/外部リンク)
こういうことだと・これは一種どこを取っても悲惨な話だと分かっているのかな…
誰が殺した共和制〜カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(23.01.22)
【今日のマクラ】マストドン経由で知ったのだけど、韓国の
文在寅(ムン・ジェイン)前大統領は第二の(?)人生に本屋を選んだらしい。
・
文前大統領、まちの本屋開く…「本屋さん」として住民とコミュニケーション(ハンギョレ/23.1.17/外部リンクが開きます)
日本語見出しでは「本屋さん」となっている箇所、ハングルの元記事(
こちら)では「本の保護者」みたいな訳が翻訳アプリだと出てきました。もともと愛書家を超え(アメリカのバラク・オバマ氏のような)本のおすすめ人「勧読家」だった模様。
そして「まちの本屋」に該当するハングルは、先月の日記(
22.12.18)で紹介した『
韓国の「街の本屋」の生存探求』で「街の本屋」にあたるハングルと同じ。記事が紹介する「自分が暮らす村に本を通じた交流の場を作りたい」というコンセプトも、たしかに『生存探求』が取り上げた独立系のミニ書店そのもの。
前途洋々の保証はないかも知れないけれど「
大統領(それもかなりマトモな部類と個人的には思ってるのですが)
を勤め上げたあと村の本屋になる人がいる」だけで、ちょっと世界に灯りがともされた気がしなくもない。
What do you say?
* * *
以下が本題。こちらはマトモな部類とは言いがたい大統領(のちに皇帝)の話=だいぶ前に初挑戦したときは(スケジュールの都合で焦ってたせいもあって)今ひとつ何が書いてるのか分からなかった
カール・マルクス『
ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』。
21世紀のルイ・ボナパルトこと(?)ドナルド・トランプ時代をくぐり抜けた2019年の講談社現代文庫版・
丘沢静也訳が、なんとなく読みやすそうなオーラを放っていたので再挑戦。読みやすかったです、はい。でも改めて、簡単な本でもないわコレ。
(えー?あんなの簡単だよ、という奴は帰れ帰れ)
ルイ・ボナパルトとはフランスの政治家
ナポレオン三世(1808-1870)のこと。皇帝ナポレオンI世の甥という肩書きで民衆の支持を得て第二帝政を開始するもプロイセンとの戦争で負けて没落…くらいが高校受験の知識でしょうか。彼が実権を掌握した1851年12月のクーデタを、元祖ナポレオンの「ブリュメール18日のクーデタ」になぞらえつつ
「歴史は繰り返す。一度目は悲劇、二度目は茶番として」とリアルタイムで評した本書は、マルクスのジャーナリスト的な文才の面目躍如で…あたりが一般知識。
あとは文化人類学者の
レヴィ=ストロースが自身の執筆の前にコレを読む、読むと頭の回転がよくなると語ったという逸話。でも、この二つ(二度目は茶番+頭がよくなる)ばかりが知られていること自体、肝心の本書そのものを要約する難しさを示してるようにも思われます。極左の共産主義者から王政復古派(ブルボン派・オルレアン派と二系統もあった)まで入り乱れた覇権争いを最終的にルイ・ボナパルトが制したメカニズムは、ページを追ってマルクスの筆致に乗せられてる間はスイスイ回転するけれど「で結局どういうこと」と問われると一言にはまとめられない。
いや、強いてまとめると「みんなオロカだった」としか言いようがないのだけど。プロレタリア、小市民的民主派、ブルジョワ共和派、王党派、誰もかれも牛耳を執るチャンスをみすみす逃す。自分たちより大きくて保守的・反動的な勢力にすりよっては使い捨てされる。あらかじめ骨抜きにされた改革案をぶちあげる。ガチで政敵を倒す気概のない形ばかりの猫パンチを繰り出して「自分たちは抗ってる」とポーズを取る。
要は自滅による敗北ばかりがあり、勝者の勝利も敵失ばかりの三年間。とくに最後に例示した「形だけの反抗で御満悦」は個人的にも苦々しく思い当たるフシがあり、頭が良くなるかは保証の限りでないけれど、己の傷口に塩を塗りこむような
意地の悪さは確かに回転がよくなる。あまりに辛辣でメモを取った箇所を引用すると
「民主派は、きわめて屈辱的な敗北をしたのが自分たちのせいではなかったのと同様に(中略)
その敗北からまさに無傷で抜け出す(中略)
「自分たち自身も、自分たちの党も、これまでの立場を捨てる必要はない(中略)
逆に、状況のほうが自分たちに合わせて成熟する必要があるのだ」」
お前ら本気で革命する気、権力奪取する気あるのか―南北戦争を海の向こうに見ながら欧州を振り返るマルクスの歯ぎしりが聞こえるようだ(?)
そうして敵失に次ぐ敵失で勝利を手中にしたルイ・ボナパルトもまた、Aの支持を取りつけるための資金をBから借りた返済にはCから借りて…という自転車操業の無産者で、権力の預り人・番頭・道化にすぎない。では本当の勝者・権力を掌握したのは誰(何)だったのか。
誰が共和制を殺したのか?
それは私と国家が言った。一度目はサッパリ分からない、二度目はスイスイ読めるけど要約できない難物として『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読んでの暫定的な結論(?)です。
「この執行権力は、とてつもない官僚組織と軍事組織をもち、重層的で人工的な国家機構をもっていた。
50万人もの大勢の役人のほかに、また別に50万人の軍隊がいた。
この恐ろしい寄生体が、フランス社会の体に(中略)
巻きついて、その毛穴をすべてふさいでいる」
絶対王政からフランス革命・ナポレオン一世の統治・ナポレオン三世の登極に至るまで(右に寄ろうが左に寄ろうが)絶えず進展し完成されたのは「朕(王)は国家なり」ならぬ「国家機構そのものが王」とでも言うべき権力の集中だった。貴族や大地主が分有していた「搾取する権限」は国家に一元化され、入会地など社会共通の利益も
「一般の」つまり国家の利益へと変質させられた。
本書の終盤になってルイ・ボナパルトの支持母体として突然クローズアップされるのは
「フランス社会で最も人数の多い階級、分割地農民」だ。パッと見、なるほどコイツらが全てを茶番にした「犯人」かと勘違いするかも知れない。だが彼ら彼女らは社会が国家に再編成される過程で分解され、階級といっても互いの交流はないまま自分たちを支えてくれそうな国家的なもの(本書の場合はそれを体現するナポレオン三世)に帰属意識を収奪されてゆく最大の被害者なのだ。
孤立者の集団=分割され分断され、権力によって最も無力化された者たちが、かえって権力に帰依し権力を支える。他人事ではない2023年の日本なのでは。
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こんな低賃金では働き続けられません-ケア労働者の大幅賃上げと職員配置基準の引き上げをしてください(全労連/Change.org/外部リンクが開きます)
1/10ごろに始まった書名。あまり注目されてないけど、大事なことだと思うので。
【同日追記】今日の日記と直接は関係しませんが、すごかったので。
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日本は未来だった、しかし今では過去にとらわれている BBC東京特派員が振り返る(BBC/23.01.22/外部リンクが開きます)
すべての段落にみなぎる閉塞感、特に印象的だったのはココ→房総の限界集落を訪ねた英の記者。東京から車で2時間、こんな美しい場所なら住みたい人は沢山いるでしょう
「たとえば私が家族を連れてここに住んだら、どう思いますか」そう問うと、戻った答えは
「それには、私たちの暮らし方を学んでもらわないと。簡単なことじゃない」うーん、すごい。
餅ですよね?(23.01.28)
今は横浜(神奈川県)住みだけど、生まれと育ちは千葉県の柏市で、昨年末にちょっと故郷が懐かしくなる記事があった。
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淡青評論・第1149回:Kashiwa is a sad place?(押川正毅/東京大学・学内広報/2022.11.24/外部リンクが開きます)
"Kashiwa is a sad place. Lalaport, and nothing." はははは。自分は南柏のほうの生まれで、話題になってる「柏の葉」は縁がないのだけど。
昔カナダの首都オタワについて地元のひとが
「世界で二番目に寒くて、一番dullな(退屈な)首都」と言ってると聞いたことがあって、英語の悪口はなんというかクる。
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韓国で主に家父長制を呪う語彙として生まれたのだと思う「ヘル韓国」は、Twitterでよく「
ヘル日本」と流用させていただいた。ドイツ語のミスターじゃなくて、もちろん地獄のほうです。
2019年ごろから?流行してる「オルチュガ」は「凍って死んでもアイス」の略だそうな。アイスはアイスクリームではなく、カフェで氷もたっぷり入ったアイス飲料を注文するの意。カフェ用語。
伊勢佐木町(横浜)に新しい韓式冷麺の食堂が出来ていて、んーでも「凍って死んでも冷麺」ではなく、フラッと入ってしまった目当てはチャジャンミョン。韓国式のジャージャー麺、と言いたいとこだけど少しヒネリがあって「韓国式中国料理(のジャージャー麺)」。なので中国式の中華料理店でも、韓国式の韓国料理店でも食べられないニッチといえばニッチな食べ物。さすがに東京・新大久保のコリアン・ストリートなら店もあるし、新宿にも北京という昔ながらの食堂がある(韓国式の中国料理を出す東京の北京…)。でも横浜では以前あった店が今はなくなり、まあ積極的にネット検索でもすればあったのかも知れませんが、なかなか食べる機会がなかった。
ちなみにこのインスタント版が「チャパゲティ」で、これと辛いスープ麺の「ノグリ」をミックスしたのが映画『パラサイト』で一躍有名になった「チャパグリ」。
あと日本では2月14日がチョコを贈るバレンタインデー・3月14日がキャンディだか何だかを贈るホワイトデーだけど、韓国では4月14日が2月にも3月にも良縁のなかった独身者たちが黒い服を着てブラックコーヒーと真っ黒なチャジャンミョンを食べる「ブラックデー」なのだとか…(十年くらい前の知識な気がするけど、今でもそうなのかしら)
てなわけでチャジャンミョン。真っ黒でしょ?ジャージャー麺と違い、麺もソースもアツアツ。味も甘辛ではなく、なんだろう、肉っぽいダシが効いて独特。ピビンパ同様、まんべんなく混ぜるのが地元ルールなので、郷に従います。
うんうん、時々むしょうに食べたくなる味。だけど少し単調かも知れない(ひょっとしてチャパグリみたいなアレンジメニューが流行ったのも、そのせいかも)。何か他にもと併せて注文したのが、見た目ちょっと酢豚っぽい「鍋包肉」。
後で調べてみたところ、(中国の)東北料理らしい。ハルビンの老舗レストランが当地のロシア人向けに考案したと由来も残っているのですが
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東北料理の人気メニュー、ハルビン生まれの鍋包肉とロシアの関係(東京ディープチャイナ/21.6.3/外部リンクが開きます)
「豚ひれ肉をスライスし、衣をつけてさっと揚げ、甘酢をかけたもので、やわらかい肉の食感とほどよい酸味」と記事で紹介されてる、他に検索しても同様の結果ばかりの「鍋包肉」。
でもこの日この店で出てきたのは薄くスライスした豚肉に…メインは、餅?餅ですよねコレ?なにしろ万事に自信がなく確信がない人なので「?」がついてしまうのだけど(
まあ何か勘違いをしていたら、どなたか御教示くださるでしょう)こんな鍋包肉みたことない。いや、鍋包肉なる料理を食べたの自体はじめてですけど。ひょっとしてレアなメニューなのでは??
同店、看板メニューの冷麺は麺が白じゃなく黒くて、これも興味津々。食べ頃の季節まで(お店が)保ってくれると好いのだけど…いや、待ちきれずに来月あたり「凍って死んでも冷麺」しちゃうかもですね、自分のメンタルが保たなくて…※不安をそそるような文末で申し訳ないけど、これが通常運転ですので…
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新型コロナ「5類」引き下げは5月8日から 岸田首相が表明(毎日新聞/23.1.27/外部リンクが開きます)
感染爆発や医療崩壊の不安だけじゃなく、もはや悪名高い「閣議決定」すら通してないやん。一事が万事。万事休す。どうよ?ヘル日本。
なお(この話自体、前にもしたかもですが)世界で「一番」寒い首都はモンゴルのウランバートル。緯度じゃなくて標高(1,350m)の影響か。