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幻の四割打者〜中島らも『永遠も半ばを過ぎて』(23.06.04)

「あなたはたとえるなら三番バッターでしたね 色々すごく悔しかったのを憶えています」(「青写真」くるり)

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 【先週のあらすじ】ニュートン物理学の時代に全ての天体の位置を算定できる存在として仮定されたラプラスの悪魔は、ポアンカレの三体問題やハイゼンベルグの不確定性原理によって否定されてしまった。この否定は物理学の分野を越えた広い影響を吾々に与え「完璧な理解や、理想の社会は、言うなれば(悪魔ならぬ)神様の領域で、地上=現世に完全というものはない」という諦念が吾々の世界観になったのではなかろうか。
 「理想じゃない現状に文句を言うな」という話「ではない」ので注意。世の中には「マシ」ってものがある。
 それにしたって今の世の中は「人類は良い方向に進んでおり、逆戻りはない(べきである)」という理想を現実が裏切りすぎだろう…という話は措く。
 自由と豊かさが誰にも保証された楽園を求め、世界じゅうを旅した主人公が、ついに南洋の小島で理想郷にたどりついたと思ったら、風土病があってそこも完璧ではなかった―そんな短篇をフランスの作家が書いているらしい。と知ったのは、中島らも氏のエッセイでだった。

 世の中にはタイトルだけで完璧という本があって、まあ個人的な好みなんだけど『磁力と重力の発見』(2011年11月の日記参照)・『命がけで南極に住んでみた』(21年3月)・先月とりあげた『何も共有していない者たちの共同体』(23年5月)他にも『世界史の中のマラリア』『アラブが見た十字軍』『自然界における左と右』などなど…ラ・ボエシの『自発的隷従論』も相当グッとくるけど、そんなタイトルの本が1577年に書かれていたという背景あっての「すごい書名」な気もちょっとする…
 …なぜか科学や歴史・人文系の書名ばかりが並ぶ中、珍しく小説のタイトルで琴線に触れたのが、らも氏の永遠も半ばを過ぎて(文春文庫/外部リンクが開きます)だった。
 別の場所では書いたのだけど、80〜90年代に活躍したナーヴ・カッツェというグループの「Ziggy」という曲に「嫌気がさすくらい長く生きてもまだ 要らないものばかり持て余してる」という歌詞がある。ジギーと言えばスターダスト。デヴィッド・ボウイの古典的名盤を締めくくる「ロックンロールの自殺者」は(どうやら)青春の半ばで燃え尽きた男を(分かりにくい歌詞で)歌っている(みたいだ)けれど、その換骨奪胎だとしたら見事で、そしてやるせない悲しみと倦怠感に満ちたフレーズだ。そして『永遠も半ばを過ぎて』に通じるものがある。
Nav Katze - "Ziggy" (YouTube/外部リンクが開きます)
 今年の自分は(読書)人生の宿題をあるていど果たすつもりらしい。「Ziggy」は(そしてジギー・スターダストも)何度も聴いたのに、なぜか避けていた『永遠も半ばを過ぎて』を、やっぱり読んでおこうと思い立った。読みました。好かった。もっと早く読んでいても好かった。
 「まあそんな老成したことを歌ったころのデヴィッド・ボウイって25歳くらいだし、「Ziggy」の頃のナーヴ・カッツェの二人も20代後半とかくらい?ですよね…『永遠も半ばを過ぎ』た頃のらも氏は41歳」というキャプションと、ボウイのイラスト
 二の足を踏んでいたのは、詐欺がテーマと聞き及んでいたせいかも知れない。実際は不思議に愛らしく、チャーミングな小説でした。いや、主人公たちの生活は貧しく澱んでいるし、詐欺だし、まず登場する騙しアイテム「一粒が一億円で売れる巨大タニシ」は早々に腐って冷蔵庫のなかで耐えられない悪臭を放つんだけど。
 僕が気にかけていたタイトルの由来は、主人公の植字工・波多野が初めての睡眠薬でラリって書き(キイで叩き)だした謎の文章の書き出しで
永遠も半ばを過ぎて(中略)旅を始めねばならない。私はリーの細い手を取った
頭に浮かんだのはビビアンでもブルースでもなくウィリアム・リーだった。ウィリアム・バロウズが『裸のランチ』を書いたときのペンネームであり、一人称の主人公の名前でもあったはずだ。そう思って見ると巻末の参考文献にはバロウズに関する本が挙がっているし、後述するけれど作者はバロウズ同様、薬物や幻覚・依存症のエキスパートなのだった。本作でも件の「お筆先」に至る意識の変容は見せ場のひとつだ。
「頭が冴えて思考も勘も鋭くなってるだろ」
「ああ」
「錯覚だよ」
「錯覚なのかい」
「頭の中のもやもやした部分ってのは、普通人間誰でも抱えてる、複雑な要素だ。動物にはそんなものはない
 
(中略)薬はね、こういう複雑な部分をも麻痺させてしまう。だからきみはいま、スカッとしてるんだ」
(中略)その後、どうなるんだ」
「怒りっぽくなるね。普段脳の上等なところでセーブしてたものが麻痺してしまうから
(中略)
 はたから見れば“攻撃的”な性格に見えるがね。なに、言やあ退化してるだけの話だ」

 幻覚・妄想が横糸なら、経糸は書物への愛憎だろうか。前述のとおり波多野は電算写植機に月9万のローンを払い続ける個人事業主の植字工で、そこに転がり込んでくる旧知の詐欺師・相川が(タニシの次に)ターゲットにするのは『社史』というニッチな書物の世界。さらに売れない編集者の宇井が加わり、波多野が書いた「お筆先」の素性を偽っての悪い儲け話が本作のメインエベントとなる。これも巻末の参考文献を見るに、種村季弘氏をモデルにしているのだろうか、老練な西洋文学者とのビブリオバトル(?)の果てに、創作とは何か・人に物語を書かせる(ラプラスのとは別の)魔物が仄めかされるクライマックス。
 一人称の語り手が三人もいるし、凝った要素てんこもりなのに、一時間半のキビキビした映画のように読後感は良い意味でコンパクトだ。永遠とも思える年月、ただ依頼された文章を筆耕してきた波多野が、他人の言葉でも幻覚による「お筆先」でもなく、自身の言葉をぽつんとキイで刻む結末は、うん、やっぱり不思議とチャーミングでした。

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 当時を知らない人に、中島らもの魅力を説明するのは難しい。
 最初はカマボコの広告で注目されたのだけど、そこで書いてることと言えば「あかさたな」「はまやらわ」などの一連で「へめえれえ」は舐めてんのかと怒りたくなるが「ふむうるう」の脱力感には負ける、みたいな与太なのだった(それは逆に注目されるでしょう)。たちまちコラムニスト・エッセイストとして人気を博す。演劇や小説でも活躍。しかし演劇で座付作者として「飛んでいる鳥を次々に捉え、籠にくくりつけて空に舞い上がる」とか「両耳からプシューと煙を出して悪魔に変身する」など実現不可能なト書きを書いては演者たちの頭を抱えさせたとも言う。
 キャプション「↑まんがを描いてて脚本の自分がとんでもない場面を書いて、後になって作画担当の自分が「描くの自分なんですけど!?」とツッコミを入れたくなる時、いつも思い出すエピソード」に、耳からぷしゅーと煙を出す男の図。
 『明るい悩みの相談室』という新聞連載もあった。解決するか否かは別として、悩み相談を明るくしてしまう。悲惨なはずの『永遠も半ばを過ぎて』を不思議に可笑しくしているのと同じ、「ペーソス」より、もっと八方破れな何か。
 いま思うにそれは、実は深刻な破滅志向だったのかも知れない。薬物や中毒・幻覚症状への造詣が深く(興味本位でアサガオの種を服用して、別に何にも起きへんなあと思っていたら翌朝、大量の目ヤニで両眼が開かず大層ビビったなんて体験談もあった)、本人はアルコールに耽溺していたようだ。壮絶な断酒の苦闘を描いた小説『今夜、すべてのバーで』を上梓しているので、克服したのかなあと思っていた。上に引用したように、向精神薬の作用も客観視できるひとなのだ。エッセイの語り口のように、ヤバいことも深刻なことも何処か客体化して、飄々と笑い話にして生き延びる人だ、そんなふうに思っていたのかも知れない。けれど今度は覚醒剤の不法所持で逮捕され、すかさず刑務所でダイエットみたいな獄中記を出したときには流石にあきれて読む気になれなかった。最後は泥酔がもとで事故死してしまう。まだ残り半分あるはずだった「永遠」は、実際には11年しかなかった。

 今、新たに中島らもを「発見」し、魅力に取りつかれる若い(若くなくてもいいですけど)読者はいるのだろうか。その姿をあまり想像できないのは(いらしたらスミマセン)それまでにはなかった気がする彼の新しさ・面白さが、今ではむしろ皆のデフォルトになってしまった気がするからだ。その博識の無駄遣い、自身をも笑い飛ばす虚無的な「明るさ」。みんなが中島らも化したと言ってもいい(少し盛ってます)。ネットは「ふむうるう」みたいな「ちょっと面白い思いつき」で溢れかえっている。野球全体のレベルが上がって突出した四割打者が消えたように(23年4月の日記参照)、今では「中島らものような人」は沢山いる。
 けれど「中島らも」は一人しかいなかった。最初に出会った「彼みたいな人」が、幻の四割打者のような、永遠の三番バッターのような、彼で好かったと思っている。

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 これは全くの余談なのですが、今回の小説の紹介で、登場人物の男二人は「波多野」「相川」と名字呼びなのに、女性キャラクターの宇井だけ「美咲」と下の名で書きそうになり…そういうとこ!そういうとこだぞ自分!「私は差別しません」なんて、とんでもない。まだまだ偏見から自由ではないのでした(21年3月の日記参照(再))。
 【23.6.7追記】『永遠も半ばを過ぎて』コワモテ小説家の深町秋生氏が「中島らもの最高傑作」と呟いてはった。佐藤浩市(波多野)・豊川悦司(相川)・鈴木保奈美(宇井)トリプル主演の映画化も評判いいみたい。円盤化はされてない由…

鍵のかかってない牢獄〜入管法について(23.06.09)

 入管法改悪について、気持ちの整理のために少し書く。前から書いてるような話だし、たぶん今回のことで怒ってる人たちの期待に応えるような話ではないけれど。

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 善きサマリア人(びと)のたとえは新約聖書・ルカによる福音書の第10章25節に登場する。エルサレムからエリコに向かう旅人が賊に遭い、服を剥ぎ取られ大怪我を負う。通りかかったエリコの祭司も、その下で働くレビ人も見て見ぬふりで通り過ぎるが、サマリアから来ていた旅人が憐れに思い、応急処置をして(ギュッ←混ぜるなK2)宿屋に運び「これで足りなかったら後でまた払います」と銀貨を渡して宿屋の主に介抱を頼んだ。さて、神の意にかなっているのは地元で尊敬されている祭司か、そこそこの地位があるレビ人か、それとも異邦人として疎んじられているサマリア人か、神の教えは「汝の隣人を愛せ」なのだが…という話だ。
 翻ってイスラム教では信徒のつとめとして信仰告白やメッカへの巡礼・ジハードへの参加などと合わせて喜捨(ザカート)が義務づけられている。今回の入管法改悪に反対する集会で聞いたのだが、12年前の東日本大震災のとき、日本にいたムスリムたちは車を調達して何度も被災地を訪れ、炊き出しや復旧の支援に尽力したそうだ。それは自分たちもこの社会の一員だと思ったからだ、それに対して日本国の移民に対する仕打ちはどうだという憤りが、当事者のスピーチには抑えきれずにあふれていた。
 日本人はどうだろう。日本固有・日本らしいとされる教えや道徳に、今回の暴虐を批判できる語彙はあったろうか。吾々は無宗教だと、それをあたかも理性の証左であるように誇りながら、神社や仏閣・パワースポットに群がり、そこで祈ることと言えば現世での利得ばかり。あるいは忌みだケガレだといってマイノリティを排除することが迷信だという自覚はない。そして宗教はただの圧力団体として政治と癒着し、集票や献金のマシーンと化している。
 キリスト教やイスラム教は、それが強い本国では悪しき側面が暴走しているようにも見える(アメリカの中絶禁止や、イランの女性迫害など)。けれど、宗教が生き方の軸になっていない・それでいて宗教らしくない(もっと俗な)形で暴威を振るっている日本という悲劇もあると思う。
 同日追記:キリスト教圏のサマリア人みたく行動の基軸になる言葉、思い出したけど(かろうじて)日本にもあったわ…憲法前文っていうんですけどね。(いや心もとないのは認めるけど、国会前に集まる人とかコレかなり内面化してるのではないかしら…)

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 クイーンのフレディ・マーキュリーも難民だったという。彼らがデヴィッド・ボウイと共演した「Under Pressure」の終盤の歌詞は、サマリア人の教えのロック・バージョンのように美しい。彼らは歌う。愛なんて今どき流行らない言葉だし、愛はあなたを変えてしまう―
And love dares you to care for the people on the edge of the night
(愛はあなたに 夜の淵にいる人々を思いやるよう促し)
And love dares you to change our way of caring of ourselves
(愛はあなたに 自分たち自身をもっと大切に扱えと求める)
Queen & David Bowie - Under Pressure(YouTube公式/外部リンクが開きます)
 私たちが(自分は偉いと思っているエリコの祭司よろしく)夜の崖っぷちにいる人たちに手を差し伸べずにいるのは間違いだし、同様に私たちが自分たち自身をケアする(ろくにケアしない)やりかたも間違っている・だからチェンジしなければいけない。両者は実は表裏一体なのではないか。

 だから、本サイトでも何度も主張したけれど「移民や難民への入管の処遇は、こいつらには人権を認めなくていい・奪っていいと見做した相手を国や行政がどう扱うかの雛形だから、他人ごとではない」その冷酷さは「下手すれば」「いつか」吾々自身に降りかかって来かねない―というのは半分しか本当ではなかった。現に入管法の改悪と並行して、マイナンバーが、インボイスが、新型コロナの五類化が、もうとっくに私たち自身を「いくらでも奪っていい相手」として削りにかかっている。
 自分自身の安全に対する無頓着さと「夜のエッジにいる人々」のネグレクトは車の両輪で、実は前者の崩壊も後者に劣らぬ症候・兆候ではないかと危惧している。
 いわゆるJ-Popに(アンダー・プレッシャーのように)政治を歌った唄がないかというと、実はある。ラジオで聴いてコレはすごいと震えたのが宇多田ヒカルの「あなた」だ。好きな人には悪いけれど、僕はこの曲に寒気がしたのでリンクは貼らない。
 あなた以外なんにもいらない 大概の問題は取るに足らない(中略)
 戦争の始まりを知らせる放送も アクティビストの足音も届かないこの部屋にいたい もう少し
私は私や家族、生活を守るのに精一杯で、政治に関わる余裕なんかないんです、助けてほしいのは私のほうです―誰もがそんな風にしか考えられないほど追い詰められているとしたら。無頓着も無関心も、いっけん「余裕あるじゃないか」と見えるSNSやガチャや推し活も「それくらいしか咀嚼できない」病人食(上手くないたとえでスミマセン、えーと、身体によくないエナジードリンクとか…)だとしたら。
 もしかしたらネットにあふれている嬌声は、悲鳴なのかも知れない。そう考えるのは、とても怖い。みんな「私たち」自身のケアのしかたを変える力もないほど、すでに搾り尽くされてるのではと考えるのは。
 関係はないけど白い紫陽花がきれいだったので
 アーシュラ・K・ル=グウィンではないけれど(23年2月の日記参照)、足りないのは彼女が「メタファー」と呼んだところの言葉・語彙なのかも知れない。私たちは私たちを「この部屋」の外へと開く「言葉」を見つけられるだろうか。信じる宗教なんてないとうそぶき、語彙力(がない)という万能フレーズの栄養がない甘さに味をしめてしまった私たちは。

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参考:「あなたの隣人を愛するように、あなた自身を愛しなさい」(内田樹の研究室/2009.3.19/外部リンク)

透明な幽霊の複合体としての私たち(23.6.11)

 先週ようやく「このよく名前を聞くハリー・スタイルズって人、よく名前を聞いたワン・ダイレクション(1D)の元(?活動休止で解散はしてない?)メンバーなのか!」と知った舞村さん(仮名)、回る時代に追いつけない…
 くるくる回る円盤の上、赤い服に大きく「時代」と書いて走るハリー・スタイルズに「ま、待って…(ぜーはー)」ついて行けない舞村さん(仮名)の図。
※参考:Harry Styles - As It Was(YouTube公式/外部リンクが開きます)←ってこのMVも一年前やん…

 上記のシングル曲が80年代おじさんのツボを衝くピコピコ・シンセポップで(というか、かなりTake ○n me←いちおう伏せ字)好いなと思ってアルバムも聴いてみたら、一曲めのイントロから
 
「何これガゼボ」「何これコン・カン」「何これ電気グルーヴ」の三連打で、ひっくり返ってしまった。なんて丁重なおもてなし。いや、そうと狙ったわけでもないんだろうけど(特に電気グルーヴは…さすがにねえ?)
Gazebo - I Like Chopin(YouTube/外部リンク)
Kon Kan - I Beg Your Pardon (I Never Promised You a Rose Garden)(同上)
電気グルーヴ - Cafe de 鬼 (もっとおもしろい顔MIX)(同上)
 しかも(リリックビデオじゃない)ドラマ仕立てのMVは冒頭に電話のコール音が入ってさらにKONKANぽい
 (まあ「○○に似てる」はこの冒頭三つと、上記シングルのピコピコくらいなのですが)
 あらためて「現代は」なんて言わず、創作・クリエイトと呼ばれがちな表現活動はしかしコン・カン…じゃなくて根幹からして既存の表現のサンプリングなんだなあと感じ入ってしまった。そもそも1989年の「I Beg Your Pardon」自体さらに20年も前のカントリー歌謡を下敷きにした曲なだけでなく
Lynn Anderson - (I Never Promised You A)Rose Garden(YouTube/外部リンクが開きます)
他の各パートもどこがオリジナルで、どこがサンプリングか分からないほどの山盛り・引用のパッチワークなのだ。多かれ少なかれ電気グルーヴの楽曲もそうだろうし、ガゼボだって曲名からしてショパンだものねえ。僕が「あっガゼボ」「あっコンカン」「あっ電グル」と思った箇所ですら、さらに昔の何かからの引用でもおかしくない。

 こうした「ちょっと引用」はサンプリングが普及した80年代以降だけの産物ではない。たとえばデヴィッド・ボウイ「スターマン」(72年)サビ前の印象的なギターが、モータウンの大ヒット曲からクリップしたものだと言われて、やっぱりひっくり返ったことがある。
The Supremes - You Keep Me Hangin' On(外部リンクが開きます)
てゆうか「レッツ・ダンス」冒頭の「あー・あー・あー・あー♪」というコーラス、あれってビートルズの「ツイスト・アンド・シャウト」だよねと言われるまで数十年、気づかなかった自分って…
 「スターマン」と「レッツ・ダンス」「ツイスト・アンド・シャウト」は流石にみんな知ってるだろうと仮定してリンク等は割愛します。+「レッツ・ダンス」風にボクサーグローブを構えた「ひつじちゃん」
 中にはもっとあからさまに「パクリ」と言われるようなものもある(洋楽→邦楽へのアダプテーションで多いかも)し、これは今までにない画期的な着想なんじゃね?と思っていたものに既存の元ネタらしきものが見つかることもある。
 「パクリ」と「換骨奪胎」の線引きはむずかしい。いいじゃないと「推す」のか、ないわーと「引く」か。どこまで擁護して、どこから糾弾するかは、存外それぞれの胸三寸かも知れない。

 ことは音楽に限らない。
 自我だ「私」だ、かけがえのない私自身だとは言うものの、その「私自身」を構成するのは「私」がこれまでに受信してきた誰かの言葉や表現の蓄積だ。ヒトが伝達を憶えて以来、発せられ記録され、忘れ去られるものもあれば足されるものもあって「秘伝のタレ」のように受け継がれてきた流れがあり、吾々は継承したものを次に渡す流れの結節点みたいなものだと考えれば(いわゆる「有機交流電燈のひとつの青い照明・あらゆる透明な幽霊の複合体」ってやつよ←違うかも知れないけど)既存の表現の引用はむしろ人類の営みを次に引き継ぐ行為でもある。
 時間軸に重きをおかず、今この時の空間だけ考えてもいい。互いに知ってる同じ表現をパーツとして共有することは、吾々が完全に孤立したわけではない、共同体の一員たる証でもあるだろう。創作や表現は「オリジナル」とは言いながら共同体の中で生まれ、共同体に向けて表出されるものだ。日本だと、本歌取りや歌枕といった技巧・そういうのがいいんだという価値観がある(あった)。過去や周囲の影響を受けてない生(き)の自我なんてない、創作だって既存の表現のパッチワークだと自覚してやっていったほうが好い結果が出る―そう捉える流派に僕は属している。

 それでも、そうした引用・パクリが表現たりうるのは(近代の価値観的には)既存の表現を取捨選択し、成形し、何かを付加して新たに送り出しなおす個人という結節点があり(チームによる共同制作も、まあこれに準ずる)、そこに「他の誰でもない、その人」の存在が確認できるからだと思う。
 「キャプション近代近代と強調してるのは、琳派の絵や、たとえ個人でも芸の達成が「先代や始祖を見事に再現した」という軸で評価される歌舞伎などは、価値の置き場が個人にある近代とは別物のように思われるからです」に雷神図の模写(あー楽しい(笑))
 だから(こと近代以降では)その取捨選択が個人のなかで培われた好みや価値観を離れて、マーケティングや(個人の表現でも)定番や「お約束」に流されたものに見えてくると、表現されたものへの敬意は少しずつ薄れていくし、判断するのがAIだと相当「引く」ことになる。これもまた人情ではなかろうか。引用・パクリ・いいじゃないのと鷹揚に構える一方で、画像ソフトや何やらソフトの自動補正・AIが最適化しますをどうしても好きになれない、自分にとっての最適まで持っていく工程は人力で賄えてほしいと考える僕はコントロール・フリークなのだろうし、こんなに人ぎらいでありながら人間に執着してもいるのだろう。
 

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 ハリー・スタイルズのアルバムに話を戻すと『Harry's House』というタイトルやコンセプトは、細野晴臣の『HOSONO HOUSE』にヒントを得たらしい。静謐で、なんなら移住したいと彼が褒めそやす日本は、セレブリティではない人たちが体験する日本とはレイヤーが違うんだろうなと(ほろ苦く)思ったりもするけれど、それはまあ措く。社交辞令もあるかも知れないし。
 いい意味でミニマルな、実際は豪勢にさまざまなリソースを注ぎこんでるはずだけど、その結節点に一個人の姿を想定できる、魅力的な作品だと思います。ジャケット写真にあるソファみたいな居心地の好さ。ただそのソファは上下が逆さなんだけど。「Love of my life(生涯の恋人)」といういかにも甘やかな題のナンバー、よく聴くと「Baby, you were the love of my life」えーっ過去形(were)なの?と、またびっくりしたり。

 「どうして分からないの?彼氏(たち)は君を「チョロい」と思ってるんだよ?(They think you're so easy…easyは優しい・気が置けない的なニュアンスもあるけれど、全体の歌詞から察すると、どうも「都合のいい女性」っぽい)君に隠れてお酒を飲んで、一人でいたくない時だけ君を呼ぶんだ」…と歌う「Boyfriends」も心痛む詞で、こういうことをたぶん世界で一番(たぶん特に女性に)人気のある男性歌手(の一人)が、世界でたぶん一番売れてるアルバム(のひとつ)で歌っているのは、少し希望のあることだと思う。
 
 彼のさらに過去の作品や、もっと遡って1Dまで聴くようになるかは今のところ分かりません。

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 先行作品のパク…継承としての創作、たとえば自分が描いた「Answer」がタイトルからして正にそうなのですが、元ネタになったTwitterまんがを発掘したのでリンクを張っておきます:
新居さとしさんの「いいツインテールの日まんが(外部リンクが開きます)
それをパク…本歌取りした自作「Answer」は下の画像か、こちらから。
 
(無料ですが127ページ目からです)

美女と野獣ども〜『恋人以上友人未満』『ダークグラス』(23.06.18)

 (社会の底が抜けてる時に、こんな迂遠な話をしてていいのかとも思いますが…)

 二次元キャラを立体化したフィギュアが、容姿の再現は申し分ないのに管楽器の持ちかたが本来の運指とまったく合ってないとツッコミを入れられる可哀想なケースを管見したのである(管だけに)(黙れ)。神も悪魔も細部に宿る。人間そこまで完璧じゃないよねと同情する一方、そこはキモだよ調べようよとも思う反面、どう考えてもアジアンな登場人物たちの髪が染めたわけでもないのに金色やピンクやペイルブルーなのは気にならないのかとも思う。とはいえ気にはならないのも分かる。
 どこにリアリティを求め、どこは適当でも気にしないかは一律ではなくモザイク状で、そのモザイクのありかたは地域や世代によっても異なり(つまり文化や制度である)もちろん「これはおかしい」と異議申し立てがあり揺らいで変化することもあるだろう。そしてフィクションと現実は混ぜるなキケンである一方、二次元に多少は影響され現実でも髪染めやウィッグが普及するなど、両者は互いに感化され侵犯しあう間柄でもある。

 モデルやアイドルがグラビア写真で知的なイメージを演出しようと洋書を携えることもある。まあ具体的な書名が分かる和書だと何かと障りがあるのだろうと理解はしつつ、個人的にはしょうもないなあと思う文化のひとつだ。洋書でも半年くらい前だったか、通信販売のカタログ写真で、お洒落なモデルが手にした洋書が『ナチスの建築様式』みたいな本で、それはヤバくないか・いやこれは真面目な研究書でナチ賛美ではなくて的な騒ぎが小規模に起きた。もういっそ、吉良木ららさんみたいにローマ字で『BUNGAKU』と書いた本でも持ってればいいのにと冗談半分で思ったのである。
 背表紙にローマ字で「BUNGAKU」と書いた洋書(このテキトウさで気に入りました)を手にした元・清楚系AV女優吉良木らら(本名・木村宮子)と元・野獣系AV男優カンブリア牧(本名・花丸正樹)
 yatoyato恋人以上友達未満』は元AV女優(サラサラの黒髪に白いワンピースが似合う清楚系キャラ)と相手役だった元AV男優(日焼けドレッドヘアの豪快オレサマ系キャラ)が引退後に見合いで再会、ボサボサ髪染めジャージ女子×実直お花屋男子の素に戻って交際を始めるラブコメディ。絵柄もキャラもストーリーも大層かわいらしく、出てくるのは善いひとばかり、ストレスがなくて大変よろしい。リンクも貼っておきましょう:
yatoyato恋人以上友人未満(1)』(BOOK☆WALKER/無料試し読みページ(外部リンク)が開きます)
 好い話なんです。現実のAV周辺はこんな和やかな世界じゃないだろうという点をいったん棚上げして=そこはピンクや青の髪色と同様「見ないことにする」フィクションとして割り切れば(ちなみに『恋人以上友人未満』キャラの髪色はリアリティ遵守です)。
 あるいは「こうだったら好いのにねえ」という理想やファンタジイとして捉えれば。

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 ロクロク代表作も観ていない、「鮮血の美学」に心酔してるわけでもない自分が巨匠ダリオ・アルジェントを語っていいのかと負い目もあるのですが
 観てる作品:四匹の蝿(1971)・サスペリア2(1975)・サスペリア(1977)・サスペリア・テルザ(2007)・ダークグラス(2022)←NEW! 観てない:歓びの毒牙(1970)・インフェルノ(1980)・シャドー(1982)・フェノミナ(1985)・その他ぜんぶ…本当にすみません!と泣く舞村さん(仮名)。まあそもそも特にホラー大好きというわけでもないですしね…
 十年ぶりの新作ダークグラス(シネマ・ジャック&ベティ公式/上映終了/外部リンクが開きます)。観た直後「うん、良い意味で凡作」と思ったことは許してほしい。「良い意味で」と最初から印象は好かったし、映画館からの帰り道に反芻すると、観てたとき以上の旨味がじわじわ溢れてくる。相変わらず人はバンバン死ぬのですが、トレードマークだったバランスを欠くほどの残虐さは抑えめになって(??こっちが慣れて麻痺しただけかも知れない…)そのかわり人情ドラマが前面に出た、意外にハートウォーミングな佳品でした。いや出てくる人たちのハート(心臓)はバンバン停まるのですが。
 でも今回はナイフで胸を切り裂いて剥き出しになった心臓を執拗に刺すとかはないからマイルドといえばマイルド←改めて文字に起こすと、ひでえ作風だ…とドン引きする「ひつじちゃん」
 あらかじめ言っておくと、ダリオ・アルジェントの作品に教訓やモラル的なヒントを求めるほど馬鹿なことはないと分かってはいます。そのほうが面白かろうと思えば演じているのが(ネタバレ注意)実娘でも劇中で惨殺するし←むしろファンサービスのつもりで殺してるとしか思えないし、ストーリー展開には何ら寄与しないことも含めて川で主人公たちが○○○○に襲われる場面も虫なんかに比べるとマイルドな味つけだけど(やっぱり麻痺してる)料金ぶんキチンとお見せしますよな職人芸で大層よかったです(麻痺してる…)
 主人公は今はなんて呼ぶのが適切なんだろう、高級コールガール。セックスワーカー(いわゆる娼婦)ばかりを襲う連続殺人犯に目をつけられ逃げる途中、交通事故で視力を失なう。事故に巻き込まれ両親を亡くした中国系の男児を引き取り、疑似家族のような新生活を始めたところで、再び犯人の魔の手が迫る…
 改めて念押しすると、教訓や道徳を求める作品ではない。けれどたとえば「男児が迂闊にも犯人を呼び込んでしまう」みたいなシチュエーションでも「施設を勝手に出た自分のせいで、引き取ってくれた主人公が誘拐犯と疑われていると知り、自ら出頭しようと警官に連絡してしまう(実は犯人が警官を惨殺してスマートフォンを奪っている)」など、むやみに「短慮やワガママで足を引っ張る」系にしてないあたりが低ストレスでいい。いや警官は惨殺されてるんですけど。

 わけても印象的なのが、不慮の事故で失明した主人公の再出発の、都合がいいほどのスムーズさだ。不平屋のハウスメイドこそ出ていってしまうけど、白杖にも盲導犬にもすぐ慣れ、道を渡ろうとすれば車もすんなり停まってくれる。コールガールの仕事を再開しても、客は料金をごまかしたりしない。「ストーリー的に肝要なのは殺人鬼との対決で、他の辛苦は横道だから端折ろう(でも川で○○○○は出す)」と思ったに相違ないのだけど、結果的に「こうだったらいいのに」というバリアフリー・ストレスフリーな世界が立ち現れてしまう。いや人はバンバン殺されるのだけど。
 主人公のセックスワークについても同様だ。新生活の道連れになる男児は「上海に住んでる従姉も同じ仕事をしてるよ」護身用にピストルを持たなくて大丈夫?と逆に過ぎるほどの理解者だし、仕事を再開する主人公にも悲壮感はない。(失明前だけど)金なら払うと変態プレイを強要しようとする客は催涙スプレーで撃退するし、上述のとおり馴染みの上客は料金をごまかさない。
 うん、この馴染み客がいいのですよ。金払いのいいハゲのおじさんで、事故で見えなくなってしまったんだけどイヤじゃない?と問われて「私の醜さを見られなくて済むから逆に好かったよ」と応じる。単に自虐めかしたユーモアかも知れないけど、性にかかわる場面で、とくに女性の美しさを前にして男性が己の、男性特有の醜さにコンプレックスを抱くって、実はけっこう根深い問題なのではなかろうか…などと感じ入ってしまったのだ。失明前の主人公に、君は素敵なので本気で恋してしまいそうだと冗談めかせば「本当に恋人になってしまったら、こんな楽しい関係ではいられないわ」と即座に拒絶され、ハハハそうだね(内心しょんぼり?)と笑うのも味わい深い。まだちょっと下心が残ってるけど、こういう客ばかりなら世界はもう少し住みよいだろう。
 ダリオ・アルジェント、『サスペリア2』でも1シーンだけど印象的に登場するゲイ男性など(←「いいのよ」と悲しげに微笑む挿絵つき)人として対等に映画いてる感じで、非常識で残虐な作風なんだけど今回のセックスワーカーといい社会の(性的な)周縁にいる人々へのスタンスに意外な善性というか常識人を幻視してしまう。
 対する犯人は「金を出すから変態プレイさせろ」系と同様、アウトな客として描かれる。いや客以前に人としてアウト。そもそも殺すことに躊躇ないし、ガレージみたいなところで寝泊まりし、女性が虐待されているAVだかスナッフフィルムだかを見ながらコカインだかヘロインだかを粉で吸引している、そこまで分かりやすくなくてもというスリーアウトな造型。猛犬のディーラーらしいのだが、ついでに主人公の盲導犬を高値で転売してやろうグフフフみたいな感じで極力、同情に値しない感じで演出されている。
 それでもセックスワークの客になろうとする→獣くさいとコンプレックスを突かれる→逆恨みして殺害という流れで「そうか匂いか…匂いを言われたら少し同情の余地が生まれてしまうな…」と思ってしまうのは、韓国映画で初のオスカーに輝いたポン・ジュノ監督の『パラサイト』を知ってるせいかも知れないけれど…

      *     *     *
 もちろん「こうだったらいいのに」という理想を描いていると見るか、現実の不公正や搾取を都合よく「ないこと」にしていると見るかは判断が分かれるし、コインの両面でもあるだろう。
 けれどセックスワークや性そのものが、合意やコンプライアンスに基づく和やかなもの扱いされたファンタジイ?きれいごと?な作品を前に、必ずしもそうでない現実について、改めて少し考えてしまわなくもなかった。

 興行的に振るわない映画やドラマがあるたび、主演女優が失地回復のため「脱ぐ」かも知れないと囃し立てる週刊誌。コロナ禍で不況が進めば食べるに困った若い女性が風俗に来るので「チャンス」ですよと公言するお笑い芸人。女子中学生の撮影会に群がるカメラ男や、それを声高に擁護する者たち。痴漢や催眠や枕営業・「ラッキースケベ」など、それを望んでない相手から性的な満足を得ることを描くコンテンツの群れ。
 (主に女性にとって)性は屈辱・ケガレあるいは罰であり、けれど・だからこそ(主に女性を)汚して罰や屈辱を与えることが=つまりは性そのものより優位性の誇示や権力の行使・暴力や支配が欲情をそそるのだ、そんな何重にもこじれた価値観が(今のこの国では)前面に出すぎているような気がする。
 もしかしたら、そこには男性の「男は醜い」というコンプレックスがあるのかも知れない。お金を払って対等な関係という夢を見ようとするハゲおじさん・お金を払ったからモノ扱いさせろと迫る下衆客・殺害というモノ扱いの限界に走る悪臭男、三様の「醜い男」が描かれた映画を観て、なんだか飛躍したことまで考えてしまったのでした。
 なんでわざわざ火中の栗を拾うのか(それもダリオ・アルジェントの映画を契機に)と自分でも思わなくもない。性やセックスワークというテーマは、とくに自分のようにシスヘテロ男性という強い立場オブ強い立場だと、自身の優位性を見過ごして「対等」のつもりで実は搾取や強要をしていたり、そうでなくても価値観の変動で軌道補正や自己反省やむなしになる可能性が高い。今回の日記は暫定的な鉛筆スケッチということで御容赦ください。

ドン・ウィンズロウの聖戦〜『ザ・ボーダー』(23.6.25)

 また映画を見逃してしまった。
 シャンタル・アケルマン監督『囚われの女』。もともと2000年の作品なのだが地元ヨコハマのミニシアターで監督の特集上映があり、その中の一本だった。タイトルから分かるように、昨年から少しずつ読み進めているプルースト『失われた時を求めて』第五部の映画化らしい。けれどその「読み進め」が丁度その第五部に入ったところで足踏み状態で、んー、やはり原作未読で観るのはどうかと断念した次第。
 だから「積読は悪徳」って言ってるじゃないですか。紹介によれば妻の浮気を疑う男の煩悶をスタイリッシュに翻案・ヒッチコックの『めまい』やゴダールの『軽蔑』を彷彿とさせる由…どっちも観たことない…うん、飛車角とられて王手くらいに詰んでいる。
 失われた時を求めては第二部『スワンの恋』も1984年にジェレミー・アイアンズ主演で映画化されてますね(未見)僕もマドレーヌで有名な第一部はかなり苦痛でスワンの恋になってやっと楽しく(?)なったから第二部から入るのも裏技でアリかも知れません
 ところが諦めわるく検索してみたら、自分は未登録のネット映画サービスで10月末日まで配信中らしい。
囚われの女(洋画専門チャンネル「ザ・シネマ」外部リンクが開きます)
 これはワンチャン、拾う神。第四部『ソドムとゴモラ』を2月いっぱいで読み切って、それから四ヶ月。皆様なんとなくお察しのとおり、いよいよ今年は(読書)人生の積み残しを清算しておこうモードに入っていて、宿題だった他のあれこれを優先して消化していたのですが、一年の折り返し点を機に7月からまたプルースト(これだって宿題ぞな)を再開・しばらく専念すれば10月末までに原作完走で映画に臨めるかも知れない…

      *     *     *
 …そう思った矢先に上下1500ページの超大作、ドン・ウィンズロウ『ザ・ボーダー』を読み始めてしまいました(馬鹿なの?)。邦訳2019年だから5年近く前の文庫ですが、あまりの質量(物理的にも内容的にも)で心の本棚に棚上げしていたんですよね(それにしたって今なぜ)。
 書影。囚われの女(左)とザ・ボーダー(右)
 ドン・ウィンズロウ。邦訳は創元推理文庫から出た青春ハードボイルド『ストリート・キッズ』で颯爽とデビュー。文学青年で天性の探偵…というと想像されがちな「浮気調査なんか引き受けないよ、関心があるのは完全犯罪だけだ」みたいな優雅さとは真逆の、むしろドブ掃除のような裏稼業に精通しながら、18世紀イギリス文学の研究者を夢みる不遇の孤児ニール・ケアリーの魂の遍歴を描くサーガは五部作で完結。洒脱でニヒル、ノンストップな展開が冴える単発の長篇をいくつか挟んだ後、新しい大作『犬の力』でさらなる変貌を遂げ、ファンの度肝を抜いた。
 ユーモアも、その裏にある繊細さも一気に蒸散した鋼のようなバイオレンス。新作は麻薬に支配されたメキシコを舞台に正義と悪(不正)、両者を止揚する善が三つ巴となって相克する凄絶な闘いの物語だった。そして非力ゆえに善が後景にしりぞき、非情や謀略も辞さない正義と、内紛を血で洗う悪の一騎打ちとなった続篇『ザ・カルテル』が、民間軍事会社に軍用ヘリまで投入しての殺戮で決着。30年にわたるメキシコでの死闘を制した主人公・合衆国の麻薬捜査官ケラーは局長への昇進という形で母国への帰還を果たす―これが新サーガの完結編『ザ・ボーダー』の冒頭だ。
 善のカリスマが早々に去り、悪の首魁が退場しても、合衆国へのヘロインの流入は停まらない。いや勢いを増している。前線だったメキシコから本国に戻り、後方で指揮を取ることになった主人公は、ラストベルトを越え、ボルティモアまで侵食を進めている産業の荒廃を目のあたりにして悟る。メキシコがアメリカを汚染していると思いたかった。だがむしろ麻薬を求めるアメリカこそが、彼が生涯をかけ憎み愛してきたメキシコを暴力が君臨する地獄に変えたのではなかったか。
「麻薬は痛みへの反応だからだ。肉体的な痛み、感情的な痛み、金銭的な痛み(中略)ヘロインはこの三つの痛みに対する奇蹟の療法なのだ」
「メキシコに対してワシントンから打てる手とはなんなのか。麻薬問題の真の原因はウォール街にこそあるかもしれないのに」

 いやそれ二千ページ前に気づこうよ、などと言ってはいけない。新たな善の体現者・医師のマリソルを伴侶に迎えたケラーの闘いは、頭がないのに生き続け自走するシステムと化した悪を相手取った際限ないモグラ叩きになるのだろうか。読み始めたばかりの本作だけど、文庫カバーのあらすじは、彼がアメリカ政府や大統領まで敵に回すことが示唆されている…

 なんとも言えない気持ちになってしまうのは、ウィンズロウ自身がケラーのような苦難の道を選んだからだ。
ドン・ウィンズロウ、政治的ビデオに専念するため小説家を引退すると表明(Deadline.com/英文/2022.4.25/外部リンクが開きます)
 突然「今の仕事を辞めてユーチューバーになろうと思うんだ」と言い出したのではない。上記の宣言は一年前だが、さらにその前年
テキサスの中絶禁止法に反対するドン・ウィンズロウ制作のビデオ、200万回再生(同/2021.9.4/外部)
200万回は「発表から一日で」の数字で、この分野でも彼はヒットメイカーの資質を有していたらしい。ビデオ制作は数年前から始まっており、寄付などは受けつけず自腹で民主主義を守るキャンペーンを続けていく、そのために作家を廃業するという。
 まず何より大事なこととして、真逆の政治的主張に走られるより、よっぽどいい―小説家が、漫画家が、元スポーツ選手やその他もろもろが差別を支持して「日本スゴい」で御満悦な自国の状況を振り返ると、ことさら好きな作家をそういう形で失なわずに済んだらしいと安堵せずにいられないのが苦々しい。適材適所でもあるのだろう。それを成し遂げられる天分を持った者が、それに携わるのは善いことなのだとも思う。
 けれどやっぱり、複雑な気持ちは残る。
 ドン・ウィンズロウというペンネームは第二次世界大戦の前後にアメリカで読まれた漫画の主人公から取られたらしい。海軍のプロパガンダとして作成された作品ではあったが、情報将校の主人公と宿敵スコーピオンの闘いを描く出来のいいサスペンスだったようだ。これに深い意味を求める必要はないと思うけれど「ヒーローから名前を取って、ヒーローの小説を書いてきた作家が、今度は自分がヒーローになろうとするなんて」…いや、こういう咎めるような視線に抗うのも、彼が選んだ闘いのひとつなのだろう。

      *     *     *
 …例によって今すぐ現物が発掘できないのですが『仏陀の鏡への道』。本国アメリカでの身辺調査があれよあれよと中国奥地の大冒険(と監禁)に展開する怒涛の物語で、まだ文革の影響が残ってる時代の中国で英米文学に憧れる案内役の青年が(ハックルベリー・フィンは)資本主義への批判と自由をテーマにした小説です!と力説するのを、ニール・ケアリーが「いや、筏で川を下る話だよ」といなすのが好きなんですよね。
 もちろん物語には両方あって、両方が本質だ。筏での川下りを誰よりもエキサイティングに描ける作家が、ついに小説をやめて自由を語ることを選んだ、これもまた物語。

 彼がいなかったら(まあ少し前に書いた中島らも氏にも言えることだけど)僕の読書人生はなんて寂しく味気ないものだったか。いや実際「ウィンズロウを読んでるってことは○○や△△も当然…」と言われるような作家を、たぶんほとんど読んでないのです。僕は読書において良書を選べるグルメでも、大量に読めるグルマンでもないので、乏しい読書歴のなかで彼に巡り会えたのは運が良かったとしか言いようがない。
 たぶん現状、他の作品に割く余裕はないので『ザ・ボーダー』心して読もうと思います。というか死ぬなよ、ケラー。そしてウィンズロウ。
 てゆか『ストリート・キッズ』から『犬の力』まで手がけた故・東江一紀さん最後の訳業になったジョン・ウィリアムズ『ストーナー』も宿題だよ(今年の自分の誕生日に買ったのだけど、もったいなくてまだ読めてない…)と本を抱きしめて泣く「ひつじちゃん」
 (まあウィンズロウ、最新の消息を確認したらTwitterで、デイヴ・グロールがクリストファー・ウォーケンに「私の司会で君たちのバンド(フー・ファイターズ)を紹介するんだけどフーとファイターズ、どちらにアクセントがあるんだ?」と訊かれたってさアハハハなんて話を連続リツイートしてるので、悲壮なケラーより楽観的なケアリーに近い心境なのかも知れないけど)

小ネタ拾遺・六月(23.6.30)

(23.6.24)ベルルスコーニの訃報が伝わったので村上信一郎ベルルスコーニの時代 崩れゆくイタリア政治』(岩波新書/2018年/外部リンクが開きます)を流し読みで再読。「とびきり悲しいイタリア現代史」とでも呼びたくなる戦後マフィアの暴力支配・日和見な政党の右往左往と、それら低迷の総決算にして完成者のように登極し、凋落したベルルスコーニ。著者がその政治の特質をさす言葉として挙げた
『ベルルスコーニの時代』書影
クレプトクラシー(盗賊支配体制)」あまりにも今の日本にも当てはまるので、これから流行るかも知れません。あと政治的立場や信念の不在を雄弁に物語る彼の政党名「フォルツァ・イタリア」が東日本大震災の後くらいに蠢動しないでもなかった政治団体「頑張れ日本」の元ネタだったんだなあと改めて。

(23.6.26)政治に物言い社会に働きかけること、2012年以降の十年すでに「根治」じゃなく「延命」でやってる敗北感はあって、今はとうとう「緩和」の段階なのかもという諦念がないでもなく。
(23.6.5)この十年で50回くらい見てるこの建物、そろそろイヤになってきた(やっとか)+それはそれとして「奥歯とかまだるっこしいこと言わない」麻布十番の歯医者は直球勝負だった。武田双雲ですってよ。
左:国会議事堂前・入管法改悪反対の集会。右:毛筆でズバリ「歯」と大書・それをやはり筆でぐるりと円で囲んだ麻布の歯科医の看板
入管関連で起きてること・これから起きることは、この国で実権を握ってる人たちが「こいつ(ら)からは奪ってもいい・与えなくてもいい」と見なした者をどう扱うかって見本だから、他人事じゃないよ、いずれ自分たちにも降りかかってくるよという言いかたは自分もしてきたんだけど、考えてみたら「いずれ」なんて未来の話じゃなくて、マイナンバーやインボイスや新型コロナ、原発再稼働、少子化、とっくに同時進行で降りかかってきてるんだよなあと思い直す。自分自身を大切にできない者に隣人を大切にできるはずもないのだった。

(23.6.6)本日記のほうで書いた「真の理想郷はなかなか無い話」の逆パターンで、昔の中国に桃花源記みたいな隠れ里があって、でもそこは虎が出没して非常に危うい。なんでこんな危険なところに住んでるのだと問うたら「虎よりも税吏が怖い」税の徴収のほうがより過酷だったという話があったと記憶する(出典不詳)。ちょっと思い出しつつ市税の支払いを済ませる。まあ公共サービスや福祉を支える費用だと思っているが、あんまりつまらんことに使うようなら虎を選びたくなるかもなあ。
(23.6.8)Appleの最新ヘッドセット・ディスプレイApple Vision Pro(YouTube/公式/外部リンクが開きます)とAdobe Photoshopの「画像から不要なものを消す機能(好きじゃないけどね)」を組み合わせたら、装着すると部屋が片づいたように補正できないものか(出来ないし何の解決にもならん)
ヘッドセットを装着し、目の前に広がるヴァーチャル片づいた部屋(想像図)

(23.6.10)名古屋の名物っぽいやつ。アレは赤い唐辛子がビジュアル的には目立つけど、実はプラス生にんにくの辛味だと記憶するので、にんにく半分(半分は最初から炒めて香りを出す)とニラは盛りつけ直前に混ぜる感じで。
名古屋名物・味仙の台湾ラーメン風。水キムチを添えて。
本物には及ばず比較にもならないんだけど、自分で作った料理には別の満足感がある。定番化しそう。

【勉強は一生つづく】YouTubeのオススメに約6分でパンクのサブジャンル75を紹介(外部リンクが開きます)なる動画が。75も分類があるのかと思ったらメタルのサブジャンル220+(同/こちらは約40分)も薦められひっくり返る。もっとも後者は「○○core」と称するパンクにも属しそうなジャンルも大量に含むのですが。そしてどちらにもsad coreはないのだが…Visual KeiTouhou Metalが世界でも通じるタームか今ひとつ確信が持てないけど(後者の動画作成者は日本人か、少なくとも日本通のかたらしい)Nintendo Coreは確立されたジャンルみたい。そしてClown Coreが1バンド1ジャンル待遇になるくらい独自なことを確認しました…
Clown Core - Earth(外部リンク/この動画はおとなしめ?だけど他は嘔吐とか俗悪な描写あり注意)(23.6.14)

(23.6.19)こちらは世界各国(+合衆国の各州)ごとのベストアルバム(YouTube/外部リンクが開きます/約20分)○○出身のミュージシャンが△△で活動も○○扱いで、ヴェルヴェッツがドイツ代表になってたり(たぶんニコの出身地だから…ドイツならクラフトワークとかあるでしょうに)等が多少モニャるのだけど、世界の多様性と、それを越えて共有される文化の浸透力を想像する契機には十分と思いたい。とりあえずグアテマラ出身・メキシコで活動中の歌うチェリスト・Mabe Frattiさんが気になります。
Mabe Fratti - Full Performance(Live on KEXP)(YouTube/外部リンク)

(23.06.22)カップかき氷に「抹茶あずき」なる商品名があって、なんで「宇治金時」と名乗らんの(大人の事情?)と訝ったことがあったのだけど、京都の風物詩「水無月」の時季に合わせて関東に出回る
 四角い白ういろうの上面に小豆を敷き詰めた「ういろう ―あずき―」なる商品
「あずきういろう」。三角じゃないから水無月を名乗るのは遠慮してるのかも、製造は栃木県。本格的には一年のちょうど半分が経過する6月末日に食べるものらしいので、買ってきたけど一週間ほど我慢。
 左に古本「思想の科学事典」右に水無月と、三色団子など他の和菓子
こちらは↑2018年、京都三条の水無月。アニメ『たまこまーけっと』の聖地で、おもちを食べるミッションでした。何もかもが懐かしいけど、このとき古本屋で買った『思想の科学事典』そのまま5年積んだきりやん…

(23.06.21)「コロナ対応並みの臨戦態勢で」岸田総理が「マイナンバー情報総点検本部」初会合で指示(TBS NEWS DIG/外部リンクが開きます)アベノマスクに脱マスク、五類化に世界でも類例のないPCR忌避、おまけにブルーインパルスのコロナ対応が手本に出来るくらい上手くいってたと認識してる時点で絶望的。
(23.6.30)日本だけ見てると世界でも類例のないひどさ・逆に世界で唯一無二の日本スゲーって思いがちなんだけど(とはいえ現時点で抜きん出てひどいのも事実)『ベルルスコーニの時代』を読むと不徳もまた孤ならず=目を覆う泥棒政治は先例があったと分かるし
オーウェン・ジョーンズチャヴ 弱者を敵視する社会』(海と月社/外部リンクが開きます)の「イギリスがたどった道はこれから日本が歩む道」という惹句のとおり、著者が怒りを込めて「上からの階級闘争」と呼んだイギリスの労働運動の解体は、日本の国鉄解体や郵政民営化と悲しいくらいシンクロする。

20年くらい前だろうか、村上龍の小説にこの国には何でもあるけど希望だけがないという台詞があって、発言主の中学生が静かな革命で社会を変えていくんだけど、実際はその後20年かけて他の「何でも」を食いつぶし、「何にもなくて一番足りないのは希望」みたいな国になってしまった感がある。それとも「何にもないけど希望だけある」のだろうか。法案としては可決されてしまった入管法改悪、今も各地で地道な反対運動がつづいている。
三角に二分した「あずきういろう」
いろいろ嘆きつつ6月終了、2023年も半分経過。予定どおり「あずきういろう」を三角の「水無月」に仕立て直して食べました。『ザ・ボーダー』を一気呵成に読み終えて(帰米したケラーさん意外にも本屋と古本屋が大好きみたいで捗った)来月からまた失われた時を求めます。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2307  2305→  記事一覧  ホーム