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陰謀論のマトリョーシカ〜藤巻一保『戦争とオカルティズム』(23.07.02)

 本日の要点。1:トランプが司法に仕掛けた時限爆弾がヤバい(マクラ) 2:日本はどこまで宗教(オカルト)国家か(正直わからない) 3:オカルトと量子力学の親和性の高さがアタマ痛い…三回に分けるべきだったかも
 世界で1.8億回再生されたというStephen Sanchez "Until I Found You"(YouTube/外部リンクが開きます)のMVが「なんで今どきコレ」「でもすごくいい」現代の若者が50年代にタイムスリップしてマリリン・モンローと恋に落ちる設定で映画を一本つくれるんじゃないかと妄想してしまうほど。とくに2:00〜の巨大扇風機が秀逸で、映像の魔術がすべてアナログだった時代をこれでもかと再現しながら、当のMV自体はどこまでCGやAIで作られてるか分からないのが実に2020年代的。

 一方で「そっちの50年代リバイバル(?)はちょっと待ってくれ」な事態→アメリカで60年つづいた人工妊娠中絶の合法性が覆されて一年。ドナルド・トランプが大統領だった時に仕掛けた最高裁人事が、ここ数日で再び時限爆弾みたいに炸裂しまくっている。バイデン政権が打ち出した学生ローン免除措置に無効判決、同性カップルへの(信仰を理由にした)サービス提供拒否を容認、大学のアファーマティブ・アクションに違憲判断。
 本サイト21年1月の日記で留保をつけつつ期待した「王殺しによる秩序回復」は無惨な失敗に終わるのだろうか←一応そっちにも「失敗すればアメリカは崩壊する。それだけのこと」とチップを乗せといたのだけど。理念(自由や平等)で世界を先導しつつ、現実(差別や侵略)でえぐいことをする二面性が身上だったアメリカが、後者だけの超大国として君臨するのが21世紀だとしたら、巻き戻る歴史は60年では済まないのかも。
 「理念(共産主義)と現実の強欲(粛清と侵略)の二面性が身上だったソ連が崩壊して、強欲だけのロシアになった「東」の歴史を遅れて「西」が再演してるようにも思え…」というキャプションに、『トータル・リコール』風(古い)にゴルバチョフの顔を割って現れるプーチンの挿し絵

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 異星人が、共産党が、フリーメイソンが「この社会を○○が裏から支配している」という思考法を陰謀論と呼ぶ。これは分かる。見るからに疑わしい。
 けれど「陰謀論者が(社会に容れられない少数派として騒ぎ立てる傍流ではなく、むしろ政権の中枢に食い込み)社会を裏から支配している」という説はどうしたらいいのか。フェイクを連発し自身が敗けた選挙の無効を叫ぶトランプが、むしろプーチンの傀儡だという説は。まるで諸悪の根源のように「ニッキョーソ、ニッキョーソ」と国会でヤジを飛ばした総理大臣が、むしろ党ぐるみで他国のカルト宗教に依存していた事実は。

 藤巻一保戦争とオカルティズム 現人神天皇と神懸り軍人』(二見書房/外部リンクが開きます)は
明治維新から敗戦に至る軍部の暴走を「世界はユダヤ民族(フリーメイソン)の陰謀に操られている」「日本はそれに対抗し、世界を統治するよう定められた神国である」という妄念から説き起こす力業だ。
 フリーメイソンによる世界侵略の青写真を標榜する偽書『シオンの議定書』がシベリア出兵などを通し日本のエリート軍人に浸透したこと。その裏面ともいえる日猶同祖論。太古の日本が唯一の文明国で文字もモーセもキリストも、世界じゅうの王統がそもそも日本に由来するのだとした竹内文献。
 これらの妄説・陰謀論に『坂の上の雲』(未読ですが)で有名な秋山真之、法華経にもとづく世界最終戦論を説き満州国を演出した石原莞爾、財閥と結託した統制派にたいし天皇の直接支配を謳い二・二六事件を起こした皇道派…などが心酔し、踊らされる。
 いや「天皇は軍部の便利な道具」と割り切っていたはずの統制派も、国体=万世一系の天皇の系譜に固執し終戦を遅らせた昭和天皇も、神国日本という迷信を、現実の行動指針を狂わせるほどに盲信していた。だとすれば現人神を信じて戦争に邁進した国民ひとりひとりはどうなのか。人間天皇と体裁は変わったものの、日本の象徴としてなお皇室を至上としつづける戦後の日本人はどうなのか…と同書は問いかける。

 正直、分からない。「日本は神国・天皇は神」という信仰と、シオンの議定書や竹内文献まで信じることには(グラデーションでつながってるとはいえ)大きな隔たりがある。満州侵略や二・二六事件、太平洋戦争がどこまで「信仰」のせいで、どこまで「信仰を口実にした我欲や勢力争い」なのか、判別することは困難だ。
たとえばイスラム原理主義でもキリスト教原理主義でも統一原理でも教義になって現実社会を侵蝕してる男尊女卑も「宗教が社会を規定してる」と断定するのは早計で「社会が元から持ってる男尊女卑的な要素に宗教が乗っかってる」可能性も考えてしまうのが社会学(とは思うのですが…)と頬杖をつく「ひつじちゃん」
『ギリシア人は神話を信じたか』(22年12月の日記参照)ではないけれど、そもそも「日本人がこぞって日本は神国で天皇は神だと信じていた」心境すら、75年を経た現代では(自分だったら信じるだろうか)と想像することが難しい。
 けれど事実として学校には天皇の写真が「御真影」として飾られ、空襲などでは自分の命より優先で護るべきものとされた。今も吾々はあの人々を最大級の敬語で呼び、彼らの統治はさざれ石が巌となって苔蒸すまで続くという唄が卒業式でもスポーツ大会でも歌われ、ちゃんと唄っているか口元を監視する者までいる。
 たとえば何処かアフリカの国で、同様に首長が神とされ、いわんや隣国に侵攻する理由になっていたら、吾々はどう思うだろう。あるいは過去のヨーロッパで、神から権力を授かったと自称した王を、今の吾々はどう思うだろう。それらには「そんな馬鹿な」と呆れるだろう目線を、自身に向けることが出来たなら(なぜだかそれは非常に難しい)鏡に映った吾々自身は、どんな姿をしているのだろう。
 
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 「現実は、政治経済や文化などが、もつれた糸のように複雑にからみあってできている。けれども陰謀論者たちは、その糸を丹念に解きほぐす作業を放棄し、自分たちに都合のよい歴史や文化のピースだけを集めて継ぎはぎするのを常とする」(『戦争とオカルティズム』)
 実を言うと、だからこそ陰謀論はつまらない。それが陰謀論に抗する世界の最大の強みだ。
 アルフォンソ・リンギス(23年5月の日記参照)は言う。「空間は、それがただわたしたちの外にあり、異質なものであるということだけで、私たちを魅了し奮起させる」(『暴力と輝き』)。現実の複雑なもつれや、自分の外の異質さにこそ魅了される「わたしたち」にとっては、陰謀論は単純ゆえにつまらない。
 社会運動を裏で操るナントカ組織の陰謀(という説)は、そんな妄説にすがる病理の分析や、社会運動が抗おうとする現実の邪悪さに比べたら、あまりに薄っぺらで底が浅い。最先端の哲学や生物学・系外惑星やあまりに奇怪なホログラフィック宇宙論に比べたら、あるいは真剣に書かれた小説や楽譜に比べたら、自称脳科学やトンデモ進化論・せっかく異星人を連れてきても政府と結託して隠蔽がどうのとB級映画ていどの想像力しか発揮できない陰謀論は、大のオトナがつきあうには「つまらなすぎる」のだ。
 なのでUFOや雪男・ネス湖の怪獣は、新聞の隅の星占いや数独パズル程度の気晴らしで付き合えばいい。陰謀論などは歯牙にもかけないのが健康な対応と言える。
 だから困っている。陰謀論など相手にしないのが一番。だが「陰謀論者が政治や経済を裏から操っている」という陰謀論とは、どうつきあえばいいのか。

 『GF×異星人』はiPS細胞とか含めた知見を新たに加えるためにシナリオの一部を見直し中。期待してくださるかたは引き続き乞うご期待。
 実際、政権と統一教会(協会)は癒着したまま切り離したら体組織が死ぬので全身(国全体)壊死させてでも離れない姿勢を保ったままだし、政権のもう片翼を担っている自称「平和の党」の母体となってる宗教の折伏を僕は徹夜で断りつづけたことがある(知己の家に泊まりに行ったら本棚に教祖の全集が並んでいたときの「あちゃー」感と言ったら)。やけに解像度の低いギリシャ風の円柱を日本じゅうに打ち立てた霊言宗教が保有する政党は、やたらに日本の再軍備化を煽っている。こちらが無視したくても、向こうが放っておいてくれないといえば「政治」のことだけど、そこに代わりに「オカルト」が入るのは勘弁してほしい。
 アウストラロピテクスが歩いていた時代=200〜300万年前から富士山の麓で天皇が王朝を開いていたと唱える新興宗教の名誉顧問を安倍昭恵・石破茂といった面々がつとめているという記事を開いて
安倍昭恵氏や国会議員がこぞって肩入れ…「不二阿祖山太神宮」のトンデモ歴史観(藤倉善郎/日刊ゲンダイDIGITAL/外部リンクが開きます)
 頭を抱えてしまったのは「イエス・キリストは日本出身」「ムー大陸」のみならず(自分も「ネタ」として自作に取り入れたことがある)ホピ族に対するオカルト的な信仰まで贅沢に取り込んでいるから、だけではない。こんな珍説を大マジメ顔で主張する団体に政治家まで肩入れしている、という記事(昨年のものだけど、今年になって新たに有名アスリートの「入信(?)」が報じられている)に挟み込まれた広告が
 藤倉氏の記事と、そこに挿入されたオカルト広告
記事で問題になってるとは、また別の古代○○○○○文明と最先端の物理学である量子論を解明!無料で学べますなるオカルト広告だったからだ。
 (他の広告が表示されることも多々あります)
 なんちゅうモグラ叩き。そして量子論。○○○○○文明とやらは語感からして、どうやらまた日本の超古代文明らしいのだけど、それに量子論。勘弁してよぉ!
 「本当の科学に比べたら陰謀論はつまらなすぎる」と大見得を切ったけど、最近のオカルトは量子力学にも御執心なのだ。数年前…いや年寄りの記憶ですから十年くらい前かも知れないが(勘弁してよぉ)、オカルト雑誌の『ムー』が量子力学の特集を組んでてビックリしたことがある。お金を出すには酔狂が過ぎるとスルーしたけれど、後悔しなくていいことには(あまり良くはないのだが)その後も今も同誌はちょくちょく量子関連の記事を載せているらしい。量子論や超ひも理論などが持つ多元宇宙・隠された次元といったトピックが(実際が微妙に曲解された形で)オカルトに親和性が高そうなのは分からないでもない。
 …実は『天皇とオカルティズム』が連載されたのも同誌(ムー)だという。ちなみに単行本を出した二見書房も、そっち方面で鳴らした版元だった気がする。戦前の軍部や天皇制の、いわゆる暗部に切りこんだ著作を引き受けてくれたのは『ムー』だけだったというのは美談でもあろう。天皇を神聖化したり戦争の愚行を否定したい者たちに物怖じしない意味で立派だと思う。その一方、藤倉氏の記事によれば富士山教のイベントには自民のみならず同誌からも人が出ていたそうで、それもニュートラルな取材と思えばいいのか、いやそもそもオカルト誌のニュートラルって何だとか。『戦争とオカルティズム』をどう捉えればいいか迷ってしまう一因でもある、としたところで

 ここでようやくオチになる。オチというか予告。
 そんなこんなでオカルトが量子論に秋波を送ってる事情は「歯牙にかけない」知らないことでも好かったのだけど、実は自分の書棚に猫が一匹、忍びこんでいた。
 5年前の台湾旅行で、中国語が読めないのに買い求めた何冊かの本。例によって(読書)人生の宿題を片づけるシリーズで今年エイヤっと開いた一冊が、量子力学をテーマにしたSFだと思っていたものが、実は量子力学と自己啓発というかスピリチュアルを結びつけた読み物だったかも知れません。
 量子力学と脳波なんちゃらが「引き寄せの法則」の科学的根拠だという文面。「ものっそい低速(逐語訳?)で読んでます」と苦笑する自画像。
んー、映画館で適当に入ったら○福の○学の映画だったみたいな内容だったらどうしようと思いつつ、けれど進めるペースは1日1ページがせいぜいなので、300ページ近い同書の内容・および量子力学と自己実現の関係?を紹介できるのは早くても来年になりそう。
 それまで僕が生きてることを願掛けでもしてもらえると嬉しいです。僕もあなたが生きてるよう願ってます。(ただし富士山のナントカ神に願掛けするのはやめような!)

オタク怪談・夏のゴースト(23.07.05)

幽霊のたぐいは基本的に信じていないのですが、ある夏の日。自分以外ほぼ無人な建物の中を歩いていて(誰もいない…変だなー変だなー)10mほど先の出口のドアが、ガラス張りの戸外も含め、周囲に誰の姿もないのに自動で開いて、自動で閉じたとき


「政府施設内での光学迷彩使用は国家機密法違反で重罪よ」とかなんとか脳内でささやく「ゴースト」は存在するのでした。「用意できてる?」マテバで良ければ。
あらやだ平成(というか20世紀)を忘れられない亡霊が二本足で歩きまわってるわ…という怪談でしたとさ。

ミラン・クンデラと、いくつかの宿題〜『小説の精神』(23.07.13)

「ぼく自身は複数の人間たちの関係を書くということにまだ慣れていない。
 四人とか五人を主要な登場人物に設定して彼らを平等に扱った上で
 その間の人間関係の動きを追っていくということをいずれ学ばなければいけないと想うのですが、
 その最良のテキストが『存在の耐えられない軽さ』です」

(池澤夏樹『沖にむかって泳ぐ』文藝春秋社・1994年)

 私事ですが(いや本サイトに私事以外の何があると言うのだ)メインで使ってるMacさんがいよいよ不調で。Late2014というモデルだから満9歳・人間でいうと何歳くらいにあたるのだろうか。まずWi-Fiの接続からおかしくなったのが最初に「デイヴ、通信装置が故障したみたいだ」と言い出して失調しはじめるHAL9000みたいで著しくイヤなんですけど。
 ハードの買い替えを検討する前に、一度はソフト的に全リセットしてみようと書類のバックアップや整頓を全力で進める中(何しろ重複したファイルが多く「お前はヴァーチャル世界ですら片づけが出来ないんだな」と悲しくなっている)、ごつい太麺の汁なし油そば「ガッツ麺」が売りの「横浜桜木町・日の出らーめん」の店頭写真が出てきて、ふーん地元ヨコハマ・日ノ出町だなと思ったら「違う…名古屋だコレ」名古屋で同店の支店を見つけてカメラに収めたのだと、前後の画像でようやく気づいたのが、ちょっと日常ミステリみたいで可笑しかったです。
 左から「日の出ラーメン」店頭・名駅のシンボル「ナナちゃん」像・喫茶コンパルの海老かつサンド
 実は同店、日ノ出町(桜木町)の本家は何年か前に閉店。神奈川県内の数店と、むしろ名古屋のほうが健在らしい。時は過ぎ去る。あと検索すると「日の出らーめん 炎上」と出るのは一時期「日の出らーめん 炎上」という別店舗を出していたみたい。もうちょっと考えたほうが好かったのではないか。

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 ミラン・クンデラ逝去。
 法政大学出版局から邦訳が出ている小説の精神(外部リンクが開きます)に
どの小説も「事態は君の想像以上に複雑だ」と読者に語ります。これが永遠に変らない小説の真実です
という言葉があって、好いなと思う。少し前の日記で、陰謀論は世界を単純に+自分に都合よく解釈しすぎるから、むしろ実際の世界や宇宙の異質さに魅了される「大人にはつまらなすぎる」と書いたのとも呼応するけど、これ自明な事実の指摘じゃなくて「そう考えてほしい」「そう考えるのが大人の矜持じゃないのか」って切なる願い・受け止めたひとが「よし、そう考えることにしよう」といわば実践することで初めて「事実」になるたぐいの言葉だって、どれくらい理解されていたのだろう。
 「人間は平等だ」とかも同じ。それは実践して「本当にしていく」ことで初めて本当になる、だからこそ気高く価値があるって微妙さ(クンデラ流に言うなら「複雑さ」)に無頓着で、あらゆることを自明の事実のように語るひとたちに、僕はときどき疲れてしまう。…話が逸れました。

 赤(戦前)→青(戦後)→黄と変遷した岩波新書が平成のはじめだったか再び赤版になって、その一冊目だった大江健三郎新しい小説のために』がクンデラの紹介に熱心だったこと・冒頭で引用されていた「ゴッドワルドの帽子」「天使の笑いと悪魔の笑い」も忘れがたい。
 後者だけ孫引きしておくと、悪魔の笑いは世の全てを否定する嘲りの笑い、これは分かりやすい。問題は天使の笑いだ。世界を肯定し、世界が善きものであると祝福する笑いは、しかし「世界の意味を、あまりにも確信しているので、みずからの生の喜びにくみせぬものを、いつでも絞首しかねない」(『新しい小説のために』)。天使と悪魔の二つ名は、ファナティシズムとニヒリズムだ。どちらの笑いに与しすぎても、人類はアポカリプス=世界の深い裂け目に落ちてしまうのだと、クンデラ(を援用して大江)は説く。

 クンデラ(大江)の言葉。「小説は何事をも確言(アッサート)しない」。大江氏も今は亡い。時は過ぎ去る。

 年代的には老人ホームに居そうな女性がプールで微笑みながら、ちょっとした仕草をする。それがまるで十代の少女がするような、彼女が十代の頃にしたような仕草で、それを見かけたクンデラは心を打たれる。なるほど、多くの場面で人は自分の年齢(高齢)を意識せず、十代や二十代のつもりで考え振る舞っているのだ―
 という挿話は、どこで読んだのだろう。クンデラ本人の著作からではなく、誰かの引用だった気がする。

 ヤン・ムカジョフスキーの『チェコ構造美学論集』(せりか書房/1975年)は7年ほど前、京都大学そばの古本屋で入手した。ロシアン・フォルマリズムなら大江氏の前掲書でも集中的に取り上げられている有名な理論だけど、チェコ構造美学って何だ。おまけに古色蒼然な装釘。ひょっとして自分以外に連れ出してやる奴なんて居ないのでは…と少し驕ったことを考えていたら
 書影。左から『兵士シュヴェイクの冒険』『小説の精神』『チェコ構造美学論集』
 『小説の精神』でクンデラが、ムカジョフスキーはいいぞ、1934年の論文「社会的事実としての機能・規範・美的価値」を読みなさいよ!と力説しててヒエエとなるなど。ちゃんと『構造美学論集』に収録されているけど、まだ読めていない。
 チェコ出身のクンデラはハシェク兵士シュヴェイクの冒険』も激賞していて、筑摩書房版を反町の月例古本市で確保しつつ(岩波文庫にも入ってます)これも積んだまま。読めるのかなあ。クンデラ本人の小説の何冊かも。時は過ぎ去る。本は待ってくれる(著者は待ってくれないけど)が信条だったけど、読者としての自分も、いつまでも待ってはくれないものだ。

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 『存在の耐えられない軽さ』で、これはたぶん驕りではなく「あの小説で刺さったの、そこ?」というエピソードがあって、まあスケベなネタなので紹介は出来ませんが、構想してた自作に(引用の形で)上手く組み入れられると気がついて、少し嬉しくなっている。描けるかどうかは分かりません。作者としての自分も、いつまでも待っては(以下略)。ああ時は過ぎ去る、過ぎ去るのです。

ヤマトシロアリの幸福〜『進化が同性愛を用意した』『麻衣の虫ぐらし』(23.07.22)

【これまでのあらすじ】
1)韓国の思想家・活動家の李珍景は言う。動物などを引き合いに出し「オスとメスが子孫を残すため番う(つがう)のが"自然"なのだから人間もかくあるべきだ」とする言説は、むしろ人間社会で望ましい(とされる)性規範を自然界に押しつけたうえで「自然はこうだから人間も」と人に投げ返す何重もの欺瞞ではないか。
2)性の実相は1でも2でもなく、ドゥルーズ=ガタリが言うような「n個の性」ではないのか−として李が典拠として挙げるのは自然界の多様な性を取り上げたジョアン(ジョーン)・ラフガーデンの『進化の虹』だが、残念ながら同書の邦訳は現時点でないらしい(韓国語訳はある)。口惜しい。この渇が癒されないものか。
(以上、21年3月の日記参照)

 そんなわけなので6月に出たばかり・「同性愛が観察された種は1,500以上」の帯文も花々しい坂口菊恵進化が同性愛を用意した ジェンダーの生物学』(創元社/外部リンクが開きます)に僕が飛びつくのは仕方ないでしょう。【あらすじ】には
3)7月は半年近く停まってた『失われた時を求めて』読みを再開する。他の本にかまけない
というのもあった気がしますが、そっちも意外と好調なのを良いことに、一日こじ開けて一気に読了。
 副題にもあるジェンダーと生物学・性と科学・あるいは社会と性・社会と科学…様々なレベルの葛藤が、総論的に凝縮された入門書の体裁なので、一気読みもできるし、個々のトピックを考え考え熟読もできる。同書が提起する「人間以外の性だって多様なのでは?」に関心や(科学を装った性差別に、科学で抗したいという)切迫感がある誰にでも、とりあえずオススメできる一冊だと思います。以上。
 書影『囚われの女』『進化が同性愛を用意した』とキャプション:『失われた時』も同性愛抜きには語れない小説ではあります…
 とまあ、簡潔にまとまった(?)ところで終わりにしても良いのですが、以下はもう少し中身を「開いた」話。

 まず合意しておく必要があるのは本書のかなり冒頭で、仮に(人間以外の)生物の性が多様であっても「だから人間もかくあるべき」と言ってはいけないと、著者も厳重に釘を刺していることだ。それでは「自然界と同様、人もオスとメスが子孫を残すために…」と同じになってしまう。著者じしんの言葉を借りると動物は、ヒトの道徳の手本ではない性にまつわる個人の意思決定を尊重するのは(「自然の摂理」だからではなく)それが基本的人権だからという一線は、譲ってはいけないのだ。
 ではなぜ自然界で性が多様だと知る必要があるのか。それは新しい学説をフォローすることで「自然はこうだから」という妄説に対抗できるからだ。自然や現実の多様さ・奥深さを知ることは、カギカッコつきの「現実」論に呑まれない下地を作ってくれる。
 ことは性に限らない。本サイトでも何度か話題にしてるけれど、弱肉強食や囚人のジレンマといった「科学的(と思われていた)」知見が「少なくとも絶対ではない」と、現実の相互扶助の観察や、理論の裏づけで反証されたケースがある。これは「だから人間も助け合うように出来ている(はずだ)」とはならないが「人間も助け合っていい(相互扶助は非合理的ではない)」傍証にはなる。

 そして現実の世界の多様さを知ることは、それ自体が楽しい。これも個人的には譲ってはいけない気がする。
 くだんの「動物は、ヒトの道徳の手本ではない」の啖呵の直前には、動物もマスターベーションをする(するんです)一例として、大みそか恒例・花火大会の準備で忙しいイングランド北部の港町に野生のセイウチ(オス)が上陸し、市民たちの目の前で始めてしまったエピソードが紹介されている。ちなみにセイウチのオスは1.7トンくらいの巨体だそうで、これはどけようがない。周囲は黒山の人だかり。リラックスしきったセイウチを驚かせてはいけないと、市議会は花火を中止したという。なるほど人間の花火のかわりにセイウチの盛大な打ち上げ(言うな、それ以上言うな)
 百日草の画像にキャプション「しばらくお待ちください。」
 真面目な方向に話を戻すと、自然界にはマスターベーションもあれば同性間での性行為、同性でのカップル形成もある。
 反面、サルの群れで新しいボス(オス)が就任すると前ボスがメスたちに産ませていた赤ん坊を皆殺しにして自分が産ませる子に替える事例もある。かように己の遺伝子を残す競争が過酷で、生存および遺伝子の継続のため無駄は許されない(無駄があると淘汰されてしまう)と思われがちな自然界に、なぜ無駄と思われる同性間の性行為(その他もろもろ)が存在しうるのか…というのは、本書が掲げる大きな問いだ。

 個人的にパッと思い浮かぶ、無尽蔵に降り注ぐ太陽の光熱で自然界はむしろ余剰なエネルギーにあふれているのだという(バタイユ?)論点は、面倒だし本書では一顧だにされてないので深入りしません。
 では本書で何が書かれてるか。ひとつには、あくまで遺伝子を利己的に残すのが重要という観点から「ゼロよりはマシ」戦略とでも呼べそうな行動パターン。ハワイのコアホウドリはコロニーのほとんどがメス同士のカップルで、互いにパートナーを取り換えない彼女たちはしかし、精子は他所のオスと交尾することで「もらってきて」産んだ卵と還ったヒナの養育は(自身の遺伝子がミリも継承されてないパートナーも協力し)メス同士で行なうという。この鳥は数十年を生きる長寿であり「今回はあなたの子を残したから次は私の」と交替することで、オスの絶対数が少ない状況では「ゼロよりはマシ」な形で遺伝子を残せることになる。やはりメスばかりでコロニーを作るサラマンダーに至っては、単為生殖で子孫を残せるが遺伝子を適宜リフレッシュするため「そのへんに残された」他種のオスの精子を取り入れるのだという。性とは何か、自己とは何か、あらためて考えさせられる話ではないでしょうか。

 しかし本書の本命は、今日の日記の冒頭でふれたラフガーデンの、そもそもダーウィン的な性淘汰を疑う視点だ。自然界の多様な性は本当に、子孫を残すためにあるのだろうか(それでは説明がつかない同性愛が1500も確認されてるのに?)。ラフガーデンを援用し、著者は提起する。多様な性は「通常結びつきがたい個体同士を引き寄せ」「個体同士の協力行動を促すため形成されたのではないか。

 なんだか協力行動が死ぬほど苦手な自分などは前払いで死んだ気になる話ですが(言うな、それ以上言うな)、そして性的な集団暴行が襲われる対象への性欲よりも襲う集団内部の結束の確認に基づくという胸の悪くなる分析や、そのマイルドな(?)形態として「俺たちは弱者男性だ」「俺たちに女をよこせ」と騒ぎ立てる集団が女性より(そもそも女性がほしいなら、なぜ女性に嫌われることばかり言うのだろう)同じ集団の男性メンバーや男性インフルエンサーに「モテたい」ようにしか見えない件も連想されるけれど、そのあたりは措く。
 思い出したのは雨がっぱ少女群の百合まんが麻衣の虫ぐらし(竹書房/全2巻+/外部リンク)だ。
 『進化が同性愛を用意した』『麻衣の虫ぐらし』書影とキャプション:『麻衣の虫ぐらし』 芋虫が苦手な自分も不思議に耐えられるしサービスカットも不思議と劣情をそそられない(※個人の感想)あまりに絵が美麗だとそうなのかも。鶴田健二などに近い感覚。
「ヨツボシモンシデムシは夫婦で一緒に行動し 力を合わせて餌を運ぶ
 そして子供たちに口移しで食事を与えるという−「家庭」を持つ珍しい昆虫だ
 (アリやハチも子育てをするが子供が生まれる前に父親が死んでしまう)
 私もヨツボシモンシデムシみたいな家族が欲しかった」

 失職し失意の田舎ぐらしをかこつ麻衣と、彼女を熱烈に慕う野菜農家の孫娘・菜々子。二人を取り巻く個性的な人々と、あるときは害虫・時には益虫・保護の対象・あるいは同じ地上に生きる同伴者として現れる里山の虫たち…編集部の意向か、デビューが成人誌だった作者の嗜好か、とくに前半いわゆるサービスカットが無用に多い気もしますが、菜々子の余命いくばくもない祖父の看取りと喪の過程を描く中盤から、物語は一気に深みを増してゆく(とはいえ後半でも麻衣に貢ぐため貯金を解約し、麻衣に仇なす者は鼻の穴にカメムシをねじこもうとする菜々ちゃんの暴走ぶりは変わらない…)。
 そんな同作の終盤で紹介されるヤマトシロアリは、メス同士で番(つがい)を作ることも少なくないという。単為生殖ができるので必ずしもオスが必要ではない彼女たちが、それでも(メス同士で)ペアになる理由は一番イイとこなので流石に伏せますが(買うがよい)「なぜ同性同士のカップルがありうるのか」もっと言えば「物語にとって百合とは何か」に関する、もっとも心打つ回答のひとつだと思う。

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 以下は本当に余談。
 というか、ちょっとした不満・瑕疵なのではという指摘として(本書の重要さや読みごたえを減じるものではないが)本書はそれこそ「n個の性」と呼びたくなる多様な組み合わせ・性転換などの事例をふんだんに扱っているので、書名で同性愛をことさら強調する必要はあったのかなとは思う。著者じしん自然界は同性愛というよりむしろ両性愛と書かれてるし。進化におけるLGBTとか、自然界の性は男女ふたつではないとか、そういう惹句で関心をもつ人にも十二分にアピールする中身なので、もしかしたら若干「惜しい」のかも知れない。
 また、いわゆるサヴァンやギフテッドなど規格外の知的能力について書かれた最終章だけは、性(ジェンダー)を軸にした記述から幾分ズレた感があり、別に一冊の書籍としてまとめたほうが好かった気もします。

 本書が取り上げるトピックは網羅的で多岐にわたるので、個別に挙げていくとキリがないのだが(その状況でなぜセイウチのアレを取り上げた)19世紀以前は世界の多様な性文化の知識がもたらされたこともあり、男性と女性の性差はスペクトラム(グラデーション。23年3月の日記参照)であり境界は動かしうるという知見だったのが、20世紀半ば以降にXとYの染色体が「性染色体」と見なされたことで男は男・女は女という二元論が強化されてしまったという話が興味深い。サラ・リチャードソン性そのもの』(読みました)の議論を手際よくまとめてると思います。文化や社会の通念がつねに進歩的な方に進むとは限らず後退もある、科学も例外ではないという好例かも。
 『性そのもの』書影とキャプション→図書館で借りたのが返却期限までに読み切れない・もう無理だと思ったら終盤が大幅に注と参考文献で助かりました(?)学術書あるある。とはいえ参考文献・最後のページだけチラ見して知った『捏造された女たち−ヴィクトリア時代の性の科学』、『女性を弄ぶ博物学−リンネはなぜ乳房にこだわったのか』も気になるリストに追加しました。ともに工作舎。
 そして最後の最後、本当に本当の余談として、きわめて個人的なアンテナにふれた話。
 冒頭に引いた21年3月の日記にもあるとおり、雌が疑似的な偽ペニスを有する動物としてブチハイエナが挙げられるが、クマやニューギニアのヒクイドリも同様であるらしい。『進化が…』は、かような属性があるからこそクマは(イヨマンテなどの)儀礼に用いられたのだと推論する。雌雄の属性を合わせ持つ種は豊饒のシンボルであり、またその越境性から人と動物を橋渡しする存在でもある。儀礼にかかわるシャーマンも、異性装により性の境界を行き来する。
 でもってヒクイドリは1万8千年ほど前、人類が最初に飼育した鳥類だという。
 何の話か。『世の初めから隠されていること』(2015年11月の日記ほか参照)で初めてルネ・ジラールの著作にふれた時、同書の冒頭で彼が「牧畜が先にあって、その中から供犠の贄を選んだのではなく、供犠のために動物を飼育し、そこから牧畜が始まった」と説いてるのを読んで、なんだそりゃあと思ったのだ。思いますよね。半信半疑、真偽は問わないまま心の棚にひっかけていた。
 そこにヒクイドリ。最初に飼育された鳥類ですよ。性別を越境する、ジラール流に言えば社会の区分を揺るがすがゆえにスケープゴートとなりやすい存在。同じ属性のクマは儀礼の贄。なんなら逆張りの思いつきに聞こえた仮説が、にわかに信憑性を増してきて、たぶん地球上で自分ひとり静かに興奮している。
 書影(左から)囚われの女・進化が同性愛を用意した・麻衣の虫ぐらし・世の初めから隠されていること+キャプション:まあこの四冊がセットで語る人も自分以外そうはいないと思うので、同じ本でも人の数だけ読書体験はある。各々の世界を作っていきましょう。(とはいえ「ジラールはプルースト大好き」でもつながる)
 『進化が同性愛を用意した』百人読めば百人が、それぞれ違う箇所で「それ私の関心領域!」と立ち上がるかも知れない。あと多様なトピックには反証され反論され、何なら議論を呼ぶ箇所もあるかも知れない。これで結論!ではなく始まりになるべき一冊。そのへんも含めて、今年のイチ押し候補です。

プルーストの「バラのつぼみ」〜『失われた時を求めて』(前) (23.7.29)

 注意:今回、しょうもない話しかしません。
 先週がんばりすぎた(あれでも意義ある話をしようと頑張っていた)。もうね、今週は先週のセイウチみたいな話ばっかりよ…

      *     *     *
嫉妬は、プルーストにとっては反対に、目的因、目的地であり、
愛する必要があるのは、嫉妬することができるためなのである。

(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』)

 昨年で読み切るつもりが二年目も下半期に入ってしまった『失われた時を求めて』。いちおう簡単に各巻を紹介すると
スワン家のほうへI:主人公の幼年時代の思い出。
スワン家のほうへII:主人公一家の隣人スワン氏の恋の回想。現在の主人公はスワンの娘ジルベルトに失恋。
花咲く乙女たちのかげにI・II:青年に成長した主人公、アルベルチーヌに入れあげる。
ゲルマントのほうへI・II:主人公、憧れのゲルマント侯爵夫人が君臨する社交界にデビュー。
ソドムとゴモラI・II:同性愛者シャルリュス男爵の行状を横目に見つつ、アルベルチーヌに同性の恋人がいるのではと疑う主人公の煩悶。

 最初の子ども時代が(個人的には)おっそろしく楽しくなくて、作中スピンオフのようなスワンの恋からガゼン読めるようになったのですが(わりとダメなひとの感想なので注意)、恋物語なのに「いいからもうサッサと別れてくれ」と言いたくなる嫉妬地獄。これがメインストーリーである主人公とアルベルチーヌの関係でも反復される。
 いや『失われた時を求めて』という小説ぜんたいが、ツンデレ…なんて可愛いものじゃない「Aを望んでるのにBだと言う」「Bを知らないのにBだと知ったかぶる(主にゲルマント夫人と取り巻きたち)」「それらが通じずBで話が進む残酷な喜劇」そして「相手がBと言ったのはAなのではという(主に語り手=主人公の)際限ない詮索と疑心暗鬼」しかないような(例外はある。後篇の末尾にちょっと述べる)なんとも底意地の悪い小説なのでした。
 もはや愛してるとも思えない・けれど裏切られるのは我慢ならなくて手放せない、そんなエゴに任せてアルベルチーヌを吾がものにした主人公の煩悶がひたすら描かれるらしい未読の後半「囚われの女I・II」「逃げ去る女」は、多彩な人物が入り乱れた従前と比べ、主人公の一人相撲がつづく心理小説ふうで(あと「囚われ」以降は作者が推敲しきらずに亡くなった草稿をまとめたものなので)若干読みづらいかも知れない…そんな事前情報もあったのだけど、いや問題なく面白いですと思ってしまう自分は小説読みに向いてないのかも知れない。そういえばトールキンの『指輪物語』も、血湧き肉躍るはずの本篇より、説明ばかりでつまらないと言われる序章のほうが面白かったし、本篇は「二つの塔」の真ん中で挫折しました…
 「てゆか『失われた時を求めて』を読むと往年の名曲・村下孝蔵「踊り子」が歌ってた「駆け引きだけの愛」ってこんな感じかぁと解像度が上がるのがつらい…」というキャプションに「あと、この挿し絵は怒られますね?」という注釈つきで村下孝蔵「初恋」のジャケ絵を模した「ひつじちゃん」
 なんなら「囚われの女」。本の内容以前の私的コンディションで読み遅れているのですが、病弱で寝てばかりいる語り手が窓の外の物売りの声を20ページくらい、しつこくしつこく描写するのが
「小エビィ、おいしい小エビィっ。生きのいいエイもありまあす。生きのいいのお」
「ええレタァス、ロメイン・レタァス! 買わんでもいい、見せるだけでえす」
「ガラス、ガラァス屋あ、壊れた窓を入れまあす、ガラス屋でござい、(と呼ばわった後、グレゴリオ聖歌ふうに最後の語を区切って)ガラァ…ス屋ぁ」
「ぼろ布お、屑鉄の売り物お(これも同様に)ウサァ…ギ皮っ」
「エスカルゴォ、生きがいいよお、きれいだよお(ここから急にドビュッシーが作曲した『ペレアスとメリザンド』みたいな哀愁を帯びて)1ダース6スーにおまけ…」
「なんのへんてつもないネギさえ「ほうれ、すばらしいネギィ」」(以上、鈴木道彦訳)
すまん、めちゃめちゃ面白い。いやドビュッシーがどうとかはサッパリ分かりませんが。

 個人的にはスザンヌ・ヴェガの「鉄の街(Ironbound)」を思い出してしまう。雲が垂れこめ薄暗い街の閉塞感を淡々と歌い上げたあと、とつぜん物売りの文句が入る。「すてきな鶏肉 部位で売ります むね肉もも肉 それにハツ 背肉が安いよ 手羽はタダ同然 タダ同然…」背肉(back)って日本でいうと何処でしょうねというのは兎も角、最後に繰り返される「タダ同然(nearly free)」が「ほとんど自由、もう少しで自由…」と、街を出ていきたい歌の主人公の心情を暗示するかのようで…「踊り子」とかスザンヌ・ヴェガとか、なんで昭和の話ばかりしているのでしょう。
 しかもまだ今回予定していた本題に入れてない。
もういいですか後篇に送っちゃって。後篇に送ります。

      *     *     *
Suzanne Vega - Ironbound/Fancy Poultry(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
 村下孝蔵の「踊り子」もちろん本人の原曲があっての話なんだけど、声優の高垣彩陽・早見沙織さんがデュエットしたカヴァー版があって、あまりの透明感に「つらい、良すぎてつらい」となるので貼るのはやめますね…

プルーストの「バラのつぼみ」〜『失われた時を求めて』(後) (23.7.30)

記憶というものは、芸術にはほとんど介入してこない
(プルーストにおいてさえ、そしてプルーストにおいてはとくにそうである)

(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』)

 先入観は恐ろしい。実物を読む前にあった『失われた時を求めて』のイメージは「語り手(主人公)がマドレーヌを食べたら、いろんな思い出がワーッと押し寄せて、世界有数の長い長い小説ができ上がった」というものだ。小説のはじまり自体「私がマドレーヌを食べると…」で始まると思いこんでいたのだ。
 実は正しくない。問題のお菓子が登場するのは、本篇が始まって70ページを過ぎてから(集英社文庫ヘリテージシリーズ版)幼い主人公が就寝前にママンにおやすみを言ってほしくてグズるエピソードや、彼の生涯にも大きな影をおとす隣人スワン氏の紹介があった後だ。現在の語り手がマドレーヌを食べて…という話ですらない。他の多くの物事と同様、マドレーヌも(現在ではなく)思い出のひとつなのだ。
 老人が「私も年老いた…」とマドレーヌを「ぱくっ」とすると途端にエッフェル塔やら自転車に乗る子どもやら「わーっ何か急に思い出が(もぐもぐ)」…こういう話ではありませんでした。
 それでもマドレーヌは本作の代名詞と呼べるくらい重要なアイテムなのだろう。ダニエル・クレイグを6代目ジェームズ・ボンドに迎えた『007』シリーズは、それまでの荒唐無稽なユーモアを抑えた渋い内容だったが、ラスト二作でボンド生涯の伴侶となる恋人の名前が「マドレーヌ・スワン」で、いわゆる「ボンドガール」に冗談みたいな適当な名前をつける(なんとかクリスマスさんとか居たと思う)慣習は維持するんだ…と思ったことがある。
 まあそれを言うたら007にも大いに影響を受けただろう日本のアニメ『スペース・コブラ』の女性キャラは「ユートピア・モア博士」なのだが。もうちょっと名前なんとかならなかったの?女性軽視・男性優位主義のひとつの現れなのかなあ。寺沢武一(原作)だから博士でもこんな格好(黒ビキニにボンデージ風の帯を合わせたような?)だが。博士でもTバックなのだが。
…と、ここまで書いたところで、いや、男でもダニエル版ボンド第一作のカタキ役がル・シッフルだったな(堕天?)と思い出す。なんかもう男女とか関係ないのかも知れないし、話をプルーストに戻そう。
 紅茶に浸したマドレーヌのかけらを口にしたとたん、幼年時代の主人公は、後に知る恋の快感のような強い感動に打たれる。人生の厭わしいことが全て消え去り、力強い喜びと、その喜びが自分自身だという強い確信がもたらされる。主人公の実人生は厭わしいことの=周囲の人々の反応にくよくよし、実際にそれが起きる前から取り越し苦労に苛まれる(それでいて、そんな周囲を慮らないワガママも多い…なんて身につまされる話だ)連続で、それはむしろ恋愛においてこそ顕著なのだけど、まあそんな(不本意な)現実を超越した「理想」の象徴がマドレーヌなのかも知れない。

 そんなことを踏まえて『囚われの女I』を150ページほど読み進めたところ。主人公が執着の対象である恋人アルベルチーヌを愛撫する(書かれた時代もあってか、本作での具体的な性愛描写は、この程度でも非常にめずらしい)こんなくだりがあった。
「私は彼女のネグリジェを少し開いてみる(中略)彼女の下腹部は(中略)腿のつけ根で二つの弁によって閉ざされ、それが描くカーブは太陽の没した地平線のようにまどろみ、心安らぐ修道生活を思わせた」
そしてこの「二つの弁」につけられた脚注いわく。
「新プレイヤード版は、この「弁」という語が、全篇の冒頭にある「プチット・マドレーヌ」の描写に使われた「貝殻」valveと同じものであることに注意をうながしている」
 本作で登場するマドレーヌは貝殻をかたどった筋の入ったもので、幼年期だ至福だと言っていたそれを表す語が「恋人(女性)の下腹部のつけ根」にも使われていると。その伏せられていた意味が、物語の中心となる主人公の不毛な恋が核心に入ったところで、シレッと明らかにされたと。
 …物語において、事物に付与される意味はひとつではない。こうも取れるし、ああも読めるという重層性こそが表現の醍醐味・円熟味だろう。そうは知りながら、やはり思わずにはいられなかった−「バカじゃないの?

      *     *     *
 オーソン・ウェルズの『市民ケーン』。H.G.ウェルズの小説『宇宙戦争』をラジオドラマ化し「ニュースです。火星人が攻めてきました…」という演出で(本当だと思いこんだ)リスナーをパニックに陥れた悪たれの天才児がメガホンをとった映画監督デビュー作だ。
 プルーストのマドレーヌ同様「観てないひとでも内容は知っている」くらい世に膾炙した話だと思うので、遠慮なくネタバレさせてもらうと、一代で富を築き上げた富豪ケーンが「バラのつぼみ」という言葉を遺して亡くなる。「バラのつぼみ」とは一体なにか…だが記者たちの取材を通して浮かび上がるのは、強情で狷介な野心家ケーンの、挫折と孤独ばかり。最後に観客だけに示される真相は、幼年時代に親と引き離された主人公が雪遊びをしていた宝物のソリ、そこに刻まれていた文言が「バラのつぼみ」だった…というものだ。ケーンのモデルになったのは新聞王ハーストで、虚栄にまみれた敗残者という主人公の造形に激怒した彼の圧力で、オーソン・ウェルズは冷遇され、才能の芽を摘まれてしまう…くらいが一般的なイメージだろうか。
 分かるようで分からない。ケーンにとっての「バラのつぼみ」の意味は分かった。だがなぜ「バラのつぼみ」なのか。
 古代ローマでは、部屋だか東屋だかの天井だか梁だかに、バラの模様が刻まれた下・で・話したことは秘密に、内密にするという慣習があったという。ラテン語のsub rosa(サブローザ)は、マリンの下の潜水艦をサブマリンと呼ぶのと同様「バラの下」となる。この件はsub rosaで…と(英語で)言えば「この件は内密に」の意味なのだそうな。このあたりが「バラのつぼみ」の由来なのだろうかと思っていた…
 よしながふみ『大奥』で、大奥の厄介事を隠密裡に片づける請負人の名が「三郎左(さぶろうざ)」なの、作者が意図してかは知らないけど言い得て妙だなーと感心していました…
 …バーバラ・リーミングオーソン・ウェルズ偽自伝』(邦訳1991年/文芸春秋)を読むまでは。
 「偽」は「自伝」にかかる+邦訳だけのものなので(原題はOrson Welles, a Biography)内容がフェイクなのではない、と思う。ウェルズ本人のインタビューも含めた綿密な取材で語られるのは、驚愕の真相だった。イエロー・ジャーナリズムと呼ばれる俗悪な内容のゴシップ紙で財を成し、社説で戦争を煽ったハースト。彼をモデルにした映画の制作チームは(ここから本当にしょうもないので注意)老ハーストが若い愛人の、まあその秘所(下腹部のつけ根)を「バラのつぼみ」と呼んでいるという情報を内密にかぎつけ狂喜したというのだ。
 かくして「バラのつぼみ」は『市民ケーン』作中で、金色夜叉の金剛石ばりに連呼される。そりゃあハーストは激怒だろう。オーソン・ウェルズ25歳、悪ガキというか本当にある意味ロクデナシだな!てゆうか本当バカだなあ!と、あきれ返ったのも無理はないと思ってほしい。

 そこに今回のマドレーヌである。
今週のまとめ
・バラのつぼみ→幼年時代の記憶、かと思ったらアレだった
・マドレーヌも→幼年時代の記憶、かと思ったらアレだった
 (new!)
君たち本当にバカだな!
 90年代オルタナティブ・ロックを牽引したバンド・KoRnの初期にA.D.I.D.A.S(YouTube/公式/外部リンクが開きます)という曲があって、運動靴のことかと思ったら(好んでよく履いてます)、もちろん運動靴のブランドを茶化してもいるのだろうけど「All Day I Dream About Sex」の略なのだった。つくづく皆バカばっかりだなあ!と思いつつ、そのサビが頭のなかでグルグル停まらない。
 『市民ケーン』『失われた時を求めて』と言えば、映画と小説・それぞれのジャンルで20世紀の(ここでありがちな誤変換が起こり頭を抱える)少なくとも前半を代表するマスターピースのはずだ。それが揃いもそろって「幼年時代の思い出・に見せかけた性(性器)への執着」をキイに仕込んでいたとしたら、うーん、広い意味でフロイトの影響なのだろうか。いや、ひょっとしてフロイトも時代に求められていたから広まった側なのだろうか。
 20世紀って一体なんだったのだろう、というか、この「時代」はまだ続いているのだろうか。まあプルーストに関しては「そうとも解釈できる」の範囲ではありますけど。
 子どもの頃からマドレーヌ=ビールの王冠みたいな型に丸く盛り上がったもの、だったので貝がら型のほうが正統派だったの少し意外…というキャプションの後に「てっきり考案者のマドレーヌさん(メイド。挿し絵つき)のシニヨンキャップを模した形なのだと信じてました…というのはウソです。いま考えた」

      *     *     *
 過去にクヨクヨし、現在にオロオロし、未来を先取りしてウジウジする、取り越し苦労の連続ともいえる生涯で『失われた時を求めて』の語り手が、子ども時代のマドレーヌに垣間みたような純粋な至福。語り手がそれを「恋のような」と呼んでも、本作においては恋こそが、叶うまでの妄想ばかり楽しくて、実際に手にすると消えてしまう(嫉妬や執着に変わってしまう)至福とは真逆の哀しい現実に思えてならないのだけど、

 そんな語り手が(まだ)そうと自覚せずに純粋な至福に浸り、至福と自身を一体化できる僥倖をもたらしているのが、(恋愛ではなく)どうやら芸術にふれている時らしいのが『失われた時を求めて』の救いかも知れない。人気のオペラ歌手にたいして、先に妄想だけでふくれあがった期待が現実の舞台を観ると幻滅してしまう、けれど周囲の喝采を聞くうち「やっぱり素晴らしい」と思い改める…なんてエピソードもたしかにある。けれど小説家のベルゴット、そして画家エルスチールの作品に語り手がおぼえる感動は、周囲や世間の評判にも左右されない純粋なものに見える。
 とくに『花咲く乙女たちのかげに』でエルスチールの作品評として語られる「画家は事物に、神が与えた名前とは、別の名前をつけなおす」という主旨の一節は、ドゥルーズ=ガタリが『哲学とは何か』で哲学・科学とならぶ三本柱のひとつとして芸術を称揚し、芸術は(哲学も科学もそうなのだけど)現実そのものの記録ではなく、現実とは別の自律した構造を打ち立てることで、現実を人が触れられるものにする…とした思想と、響きあうようで感動的だ。
 …かように語り手が讚える、真の芸術家然としたエルスチールが、当人は人の評判を気に病む卑小な凡人なのも味わい深い。彼にことよせたプルーストの芸術論(芸術家論)には、もうひとつ感動的な一節があるのだけれど、それはまた別の機会に。

      *     *     *
 余談として『市民ケーン』丸谷才一先生は昭和の時点で「孤独な富豪の心のよりどころが幼年時代の記憶、といふ精神分析的な発想自体が今では陳腐」としながら「ミュージカルシーンが天才的」と絶賛されてて、そんな凄かったかなあ、再確認しなきゃと思ってます。
      *     *     *
(23.11.05追記)上記で周知の事実のように書いた「オーソン・ウェルズ伝説」について、二年前のこんな記事を発見。
ラジオ番組「宇宙戦争」がアメリカ全土をパニックに陥れたという話はメディアによって作られた(GIGAZINE/2021.3.3/外部リンクが開きます)
ったく、どこまで人類ってやつは油断もスキもないんだよ!

小ネタ拾遺・七月(23.07.31)

(23.7.5)ラーメン=拉麺が一般的だけど柳麺とも書くんですね、おいしそう。横浜・野毛。少し前の写真で、今度はお腹を空かせて再訪と思ったら移転→新店舗は定休日(?)につき更に後日を期す。お高めだけど炒什砕(チャプスイ。この表記も珍しい部類?)も気になる。
昔ながらの町中華の店頭メニュー表。柳麺(ラーメン)550円・生馬麺(サンマーメン)・什錦湯麺(五目やきそば)など。左のほうに炒什砕(ごもくのうまみ)1200円の表記も。

(23.7.15)7/17は年三回(だったかな)の創作同人電子書籍」いっせい配信(外部リンクが開きます/今回RIMは不参加)。それと直接には関係ないのだけれど黒井あがささんの雑誌掲載作(2018年)が自主出版で電書化されたようで、これがすごく好かったです→
サイレントデート(Amazon/外部リンクが開きます)
『サイレントデート』表紙と本文カット(頭上に張り渡された提灯を見上げる少女)
(画像は許諾ルールに従って借用しています。ルール明示ありがたい)
 読み切りの短篇2作。神々が息づく南アジアを舞台にベールの少女と仮面の少年のランデブーを描いた表題作、叙述トリックのように読みながら+後から「こういうことか」「そうだったのか」と世界が開ける愉悦。ボーイ・ミーツ人魚な併録作「リリイル」まで読むと、表題作に戻ってさらに理解と感慨が深まる。ファンタジーと呼ばれるジャンルが本来もっていた「自分が知ってるとは違うルールで進められるチェスを見るような」こことは違う場所をのぞく嬉しさとせつなさを、100円でどうぞ。

(23.7.21)手書き風フォント「あくびん」作者「あくび」さんが昨年末に逝去されていたそうです。交流があったかたの冬のブログを今ごろ発見→
「あくび印」について(すずとこんぺいとう/23.1.11→3.19/外部リンクが開きます)
たぬゴ(旧たぬき油性マジック)と並んで、自分には替えのきかない唯一無二のフォント。パソコン・インターネット文化=インディーズ文化であったことの幸福とか(知ってます?パソコンて「パーソナル」コンピュータなんですよ)個々人の替えのなさとか色々と思ってしまった。
あくびん使用例参考。下の書体はヒラギノ角ゴシックW7。

(23.7.13)ジャニー喜多川の件、首相がカルト宗教と昵懇だとか、大地震が来たら原発はヤバいとか、うなぎは絶滅危惧種なはずだが、などと同様、分かっていたのに見ないフリをしてきた・なんなら破局の後も見ないフリしつづける、お得意のパターンを踏んでいるよう。新型コロナも万博もインボイスもマイナカードも、同じ轍を踏む気まんまん。「人間てそういうもの」という普遍を越えて、とりわけ吾が国がこうなのだとしたら、もしかしてやっぱり先の戦争での加害責任をうやむやに「出来てしまった」「成功体験」がまずかったのではないか…などとつい考えてしまう。擁護するつもりはないし、擁護よりずっと冷たい気もするけど、山下達郎氏はただの「代表的日本人」に見えなくもない。いやあなたは「忖度し、長いものに巻かれている」じゃなくて「忖度させ、長いものに巻く」側でしょうという点も含めて。

(23.7.24)ビッグイシュー最新(7/15)号(外部リンクが開きます)の科学コラム=なぜシマウマは縞模様かの話(池内了)が興味ぶかい。自分などが深く考えず受け入れていた「草原に紛れる迷彩」説は「サバンナそんなに草原ない」でペケ。縞模様は体表温度が下がる説も立証されず。どうやらアブなど飛んできて刺す=血を吸う虫の忌避が本命らしい。
 「たしかにサバンナ、草むらなんて無いかも…」のキャプションに、だだっぴろい平原でライオンに遭遇し(草むら…ない!)と青ざめているシマウマの絵
 答え合わせするまでもなく(「なぜシマウマはシマシマなのか? -実は虫に刺されないため!?-」BIOME/2020/外部リンク)虫除けには媒介される病原体の阻止も含まれるだろう。むしろそっちが大本命かも。そもそも「性」の採用=遺伝子シャッフルも、連続コピーによる劣化や、まして自分より大きな捕食者避けではなく、より小さな寄生体やウイルスなどの感染対策だったという説もあり(マット・リドレー赤の女王』)
 ヒトもシマウマも大変だと思う新型コロナ四年目の夏。
 「性の採用については生物をより速く進化させるため…という目的論ではなく、遺伝子のシャッフルで変異が速くなった種がどんどん多様化して世界中の多様な環境に適応し今のように広まった=結果論的な利もあったろうとは思います(感染対策だけでなく)」とコメントする「ひつじちゃん」

(23.7.29)当面プルーストに専念するんじゃなかったのかよ!…図書館の予約まだ二人で今がチャンスだと思ったんだもん(自分が予約して三人になりました)。
スクリーンショット「以下の資料を予約します:差別と資本主義(トマ・ピケティ他・明石書店・2023
「お金の前では万人が平等でもよさそうな資本主義が、なぜかレイシズムや性差別と親和性が高い不思議」という近年の個人的な関心に合致しそうな一冊。読めたら(再来月くらい?)ご報告。
トマ・ピケティ他差別と資本主義(明石書店/外部リンクが開きます)

(23.7.26)相模原の障害者殺傷事件から7年。#私は優生思想を許しませんというSNSのハッシュタグに、こうして遠くで連帯はしつつ、(正しい用語であるにしても)優生思想という言葉に少し違和を感じるのは、当時の日記でも書いたとおり、本件の特異性は「自身を選ばれた(あるいは排除された)特別な人間だと思いこんだ犯人が、特別でない一般の人々を大量殺傷」したのでなく「己が"ふつう"だという立場から、"ふつう"より劣っていると見なした相手を大量殺傷した」思想のグロテスクさにあると考えるからだ。…それがまさに優生思想なんだけど「優生」って言葉は"ふつうの"私たちの保身がまさにそれなんだよという意識をスルッと落としてしまう懸念があると思う。
 「私は"ふつう"の○○です」「"ふつうに"○○だよね」という言いようには、それが"自然な"ことだから私の責任じゃありませんという逃げと、私の属する"ふつうさ"に合致しない者は"ふつうじゃない"という傲慢さが表裏一体で貼りついている。トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)ならぬ、有害なふつうさ(トキシック・ノーマリティ)の弊害を、もう少し吾々は問題視してもいいのではないだろうか。
 "ふつう"をやめましょう、と言うのではない。むしろ、ふだん自分に都合いい時だけ身にまとってる"ふつう"を、本件に関してこそ引き受けて、そのうえで犯人のような思想を拒絶してほしい。「"ふつうの"私たちには障害者は邪魔だよね」「私みたいに殺しちゃうのが"ふつう"だよね」と"ふつうの"吾々の合意を取りつけようとした犯人を「そうは思わん」「それは"ふつう"じゃない」「"ふつーに"ねーわ」「マジで引くわ」と拒絶する応答責任が、"ふつうの"私たち一人一人にあると思うので、自分だけでもその責を果たそうと、取り急ぎ一文したためた次第。

(23.7.27)Shuhada Sadaqat(a.k.a Sinead O'Connor/シネイド・オコナー)の訃報。あまりに多くの苦難に満ちた生涯が、それでも喜びにも満ちたものであったこと、そして今はバッシングや冷笑に邪魔されない安息を得られたことを願わずにはいられない。実際にイスラム教に改宗するずっと前に「私はアイリッシュでイギリス人、ムスリムでユダヤ人、女の子で男の子」と歌った(「What Doesn't Belong to Me」)彼女、宗教に虐待され、それでも信仰を求め続けた彼女は、一方でジャマイカの民族音楽レゲエから派生したダブなどの音楽ジャンルとは互いに寄与する幸福な関係だったと思うのだけどNo Man's Woman(YouTube/公式/外部リンクが開きます)を見るとレゲエの根底にあった精神性(ラスタファリニズム)にも救済の可能性を見ていたのかなと思う。ラスタカラーのギターを楽しげに掲げる彼女の姿を、自分の中で遺影として飾りたいと思う。

(23.8.4追記)「あくびん」フォント、広まり始めた頃に大阪ミナミのメイド喫茶の看板で使われてるのを見て「おお、普及してる」と思った記憶があり(見かけた場所まで特定できる記憶力を何かもっと有効なことに使えなかったのかね)先月にわかに見つからなかった写真が、Macの代替わりに伴う書類の整理で出てきました。
「メイド喫茶モエシャンドン」の文言が「あくびん」フォント。英名Moe&Shandon
有名なシャンパンのモエ・エ・シャンドン(Moet & Chandon)と「萌え」をかけたネーミング、キライじゃないぜ…お店はたぶんもうないと思うけど。2013年5月。

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