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度しがたさについて〜D.ボダニス『E=mc^2』(再)(23.8.6)

 半年に二回も本を出先で紛失し、警察署に取りに行くと流石に「ヤバいぞ自分」と思いますよね。
 逆によく戻って来るよねとも思うのだが、前回は紛失したのが市立図書館から借りていた本だったので(4月の日記参照)拾ったかたが警察に届けてくれて警察から図書館に連絡が行き、借り主=落とし主が特定できた形。今回は私物の文庫だったけど入れていたポーチごと何処かに置き忘れ、同じポーチに住所氏名も電話番号も記載されたガン検診の結果が入っていたので連絡がとれた(本当にヤバいよ舞村さん(仮名))
 書影『失われた時を求めて 囚われの女I』←次巻『逃げ去る女』だったら、そのまま逃げ去って戻って来なかったかも…
 ちなみに今年のガン検診、判定はシロでまだ良かったけど、これが「精密検査」やアレで+拾ったのが悪人だったら、今ごろ「この霊水がガンに効きます」とか、特定された自宅で地獄を見ていたかも知れない。あらためて、何もせず届けてくださった拾い主の幸運と幸福を願う。何かの手違いで大事なひとの誕生日にテイラー・スウィフトが現れて「あなたに頼まれた」と言ってハッピーバースデーを歌ってくれるといいですね!

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 ネット社会が凄いなぁと思うのは、これはもう手に入るまいと思っていたアナログ時代のコンテンツまでデジタル化され、閲覧できてしまうことだ。
 数ヶ月に一度「都会」千葉に出て、まんが用の画材を買ったり二本立ての映画を観たり、中古「レコード」屋でデヴィッド・ボウイやルー・リードの「LP」を探すのが豪遊だった高校時代。『THE DARK SIDE OF THE MOO』というピンク・フロイドの海賊盤を一度だけ目にした。
 『THE DARK SIDE OF THE MOON(邦題「狂気」)』ではなく『MOO』。デザイン事務所・ヒプノシスが手がけた『ATOM HEART MOTHER(邦題「原子心母」)』の、母牛をフィーチャーしたジャケットを適当に真似した子牛の写真。牛なので「MOON」じゃなくて「MOO」と、わざわざ駄洒落を説明するのも恥ずかしいのだけど、こうして数十年後の今も忘れられないほど衝撃を受けながら、どこの馬の、もとい牛の骨とも知れない海賊盤に手を出す蛮勇もなく(新譜なみの値段だったし)再会もかなわず今日に至っていた音源が…
 …YouTubeで意外と簡単に見つかってしまった。リリースの1972年当時、アメリカで発売されていなかった初期スタジオ音源をまとめた由。もともと海賊盤なので遠慮する必要あんまりないと思うのですが、面倒なのでリンクは貼りません。そのまま検索すると「MOON」が引っかかってしまうので「bootleg(海賊盤)」と単語を足すとよいでしょう…万が一にも関心があれば。これならエイヤッと買っても良かった?なかなか好い音源でした。

 スタンリー・キューブリック『シャイニング』の日本公開当時のテレビCMも「観れるのか!」と驚いた。1980年、ネットはおろか家庭用VTRも普及してない頃に、誰が保管していたのか。小学生のころ、二回くらい目にしたと思う。「キューブリックの映像が捉えた、モダンホラーの傑作…」という、まあ子供だったので「キューブリックが捉えた○○○○(なんか禍々しい言葉)」くらいにしか憶えてないんですけど、日本語ナレーションが『ルパン三世』次元大介役でおなじみ小林清志さんというのも、なんだか発見。こちらはリンクを貼っておきます:
The Shining - TV Spot (1980) Japanese Version(YouTube/外部リンクが開きます)
 本篇では採用されなかったカットが使われているシャイニングのTV広告、ジャック・ニコルソンがより病的で、本篇で実際に使われポスターなどにもなってる方のニコルソンが血色もよくて?なんだか元気な暴れん坊さんに見えてしまう…
もちろん怖かった。子供の頃は、ホラーのたぐいが本気で恐怖だったのだ。サスペリア、ゾンビ、八つ墓村、ぜんぶ怖かった。13歳の少女がヘロインに溺れて身体を売ることになるという『クリスチーネ・F』すら夢にみるほど怖かった。実は『F』だけは未だに怖くて観れていない。ドラッグも性(とくにレイプや売春「させられること」)も、子供にとっては(たとえ男児だろうと)ホラー以上のホラーなのだと思う。が、それは今日の本題ではない。
 1970年代後半のサスペリアやゾンビは本気で心底から「無理」だった。口裂け女や通り魔、少女まんがの『悪魔(デイモス)の花嫁』が「無理」なように無理だった(笑。無理だったんですってば)。けれど数十年後の今だから言えるのだけど『シャイニング』の広告には心から怯えながら、同時にどこか魅了され始めてもいた気がする。キューブリックの別作品のタイトルをもじって言えば「心配するのをやめてホラーを愛するように」なる時が来ていた。
 じっさい二、三年もしないうち、テレビの洋画劇場でジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』を観て、ホラーを素直に恐れる子供時代は終わった。倒しても倒しても起き上がる怪人ブギーマンの姿が、怖い以前に痛快な「繰り返しギャグ」に見えてしまったのだ。痛快。痛くて快い。気がつくとホラーは、少なくとも恐れる「だけ」のものではなくなっていた。

 そしてカナダの鬼才デヴィッド・クローネンバーグの出世作『スキャナーズ』『ビデオドローム』に出会う。超能力者たちの闘いを描いた『スキャナーズ』の、念力で相手の頭が内側から破裂・爆散するシーンは、一世を風靡した日本の漫画『北斗の拳』にも多大な影響を与えたはずだ。
 …ホラーに何を求めるかは、人によって違うだろう。被害をこうむる主人公が精神的に苛まれる、いわゆる「イヤ系ホラー」は正直あまり好きではない。後に現物を観て大好きになった『シャイニング』も、主人公がしだいにストレスを溜めて奥さんや息子をネチネチなじる場面は、実はスキップしたくなる。人はどうあれ、自分が『シャイニング』に求めたのは「森の中を車が走ってるだけで怖い」(秋月りす)と言われたオープニングや突然あらわれる双子、その双子が○○○○、エレベーターホールに溢れる○○○○、237号室、扉に書かれたレッドラムの文字、着ぐるみ男に盛況おじさん、要するにイヤ系ハラスメント以外のすべて、そして凶悪にも豪快な斧だった。
 現実世界の理(ことわり)を超えた、禍々しい力による「人間」の圧倒。破壊。いっそ爆散。この魅惑が「気に入らないヤツを爆散させたい(邪魔する奴は指先ひとつで…)」と単純な功利で割り切れないのは、テレビのブラウン管に「居を移した」主人公が銃と癒着した自身の手で己の頭を吹き飛ばし、ブラウン管の中から血と臓物が爆散する『ビデオドローム』でも明らかだろう。後に、自動車事故の快楽を求めて暴走しながら自らを破壊していく人々を『クラッシュ』で描いたクローネンバーグは、ホラーが破壊する人体は他でも己でも構わないことを誰より雄弁に語っているかのようだ。己と敵の区別がつかなくなる『スキャナーズ』の結末で既にそうだった可能性が高い。
 しかし「異世界に転生して最強な私」みたいな話の最新型として広告などで見かける 「そんな私の真価を理解せず仲間から追放した連中が自滅してザマアミロ」的な、己の願望にそんな忠実で大丈夫?と心配したくなる物語類型も、イヤミな悪意が己にも
他者にも向いてる・自他の区別おかまいなしの破壊衝動という意味では、ホラーの自己破壊と似た病理な気もするのでした…
 【ここまでの要約】自他おかまいなしに人間を圧倒する破壊の力がホラーの魅力(という仮説)。
 はっきり言うが、これらは不穏当で不謹慎・不遜で非現実的な「夢」だ。現実世界で起きる人体の破壊は、痛快でもないし「爆発はロマン」などと言えるものでもない。建設現場の労災で鉄骨に潰される人体を想像するだけで十分だろう。自分だって破壊される側に想定してるわけですから、なんて言い訳もできない。「実際に潰されるのは痛いしイヤなのに、想像だけで無邪気に憧れてるだけでしょ」と言われれば、それまでだ。そう踏まえたうえで、話を進める。

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 この世の理を超えた力に、人体を破壊する勢いで圧倒されたい…という願望には「自分でなくなりたい」UFOや心霊・ネッシーやテレパシー、それに人類滅亡の大予言などオカルトな事物への憧れと通じるものもあるだろう。モダンホラーから(血と臓物が飛び散る)スプラッタームービーへの過渡期にあたる1970〜80年代は、人類滅亡の予言が隆盛をきわめた時期でもあり、そして米ソ対立による核戦争の恐怖=自分も他人も、人類まるごと圧倒的な力で爆散する可能性が今よりずっと身近な時代でもあった。
 キューブリック、クローネンバーグ、クリストファー・ノーラン。三題噺のネタにするには少々バランスが悪い三人だ。けれど『ダークナイト』や『インセプション』など彼の大作に観客が求めているものは、やはり巨大な力=ジョーカーの悪だったり、ベインのクーデタだったり、宇宙や時間・戦争といった圧倒的なものが、人を水面の木の葉のように動揺させる・動揺させられるカタルシスではなかったろうか。
 アメリカの原子爆弾開発の最大の「功労者」を描いたノーランの新作『オッペンハイマー』は、何かと問題ぶくみのようだ。日本が広島や長崎で受けた被害、ロス・アラモスでの核実験でも先住民やヒスパニック系が被った被害に正面から向き合っていないという批判も上がっている。おまけに挑戦的な娯楽作品の(それ自体は前評判も良かった)『バービー』が、バービーとオッペンハイマーを合体させた無神経なネットジョークで炎上。そもそも『オッペンハイマー』は日本では上映の見通しすら立っていないらしい。
 しかし自国にも被爆者を出してる(第五福竜丸)核実験にちなんだ水着が売り出された「ビキニの日」に世界の何処よりはしゃいでネットを「推し」の水着イラストで飾り立てる日本は、『バーベンハイマー』に劣らず無神経なのでは。
 だが僕自身は、そんな悪評や負の要素よりも、同作に「巨大な力が人類を圧倒するスペクタクル、人を圧倒する巨大な悪を観たい」怖いもの見たさの期待をしていた気がする自分自身の度しがたさについて振り返る機会を(上映予定がないことで)得られたのは良いことだと思っている。

 悪霊に取り憑かれた男の斧や、念力による人体爆発が「ロマン」でありカタルシスなら、その際たるものは人類まるごと爆散させる核戦争だろう。だが現実は、僕たちが心酔できるようなものではない。

 十分すぎるほど長くなってしまった今回の日記だけど(DARK SIDE OF THE MOOの話とかするからー
)、前にも「全人類必読」という大仰な日記タイトル(2016年4月)で紹介したデイヴィッド・ボダニスの『E=mc^2 世界一有名な方程式の「伝記」』(ハヤカワ文庫ノンフィクション/2010年)から、78年前の今日、広島で起きたことを物理学的・工学的に詳述した第13章を、少し多めに抜粋したい。
 前に書いたとおり数学・物理が苦手で「あの列車とか訳わからん!」と思ってるひとでも「E=mc^2」の意味(光の「速さの二乗」って何よ!?)が分かる本として、また科学史において女性研究者たちの功績がいかに無かったことにされ横取りされてきたか怒りをもって綴る告発の書として、そして広島の災厄を物理の視点から詳述した記録として、読まれるに足る一冊で正直、品切れが信じられない。
 ちょっと長くなりますが、今週うちのサイトに来ちゃったんだから諦めて読んでください

「唸りをあげ、くるくるとまわりながら、B29から投下された爆弾が四三秒にわたって落ちていった。(中略)
 中央にあいた小さな穴は、投下の際に針金が引き抜かれた跡だ。それによって安全装置が解除され、爆発への第一段階がはじまる。黒っぽい鋼鉄の胴のずっと後部には、さらに小さい穴がいくつかあいて(中略)落下しながら空気を取り込むようになっている。
 地上七〇〇〇フィート〔二〇〇〇メートル〕まで落ちると、気圧の変化によってスイッチが入り、爆発への第二段階に移る」

 爆弾にはさらにアンテナが据えつけられ、電波を放って地表との距離を測定する。その基準となる地上の目印が、病院だというのが本当に度しがたい。高度2000フィート(600m)の少し下でコルダイト火薬が点火され、爆弾の中で大砲のように点火用ウランを撃ち出す。原子爆弾は全長3m、そのうち約1mの「砲身」を突き進んだ点火用ウランは本体となるウランの塊に激突する。「数十ポンド(数十キロ)ものウラン二三五が集積された場所は、ほかには地球のどこにもない」

「エネルギーの倍々の放出は、すべてがわずか数百万分の一秒で起こる。
 爆弾は朝の湿った空気のなかにまだ浮かんでいて、外装の表面はかすかに結露している。たった四三秒前には高度三万一〇〇〇フィート〔一万メートル〕の冷気のなかにいたのが、いまや病院の上空一九〇〇フィート〔六〇〇メートル〕まで落下し、気温が二七度にあがったためだ。
 核反応のほとんどは、一インチ〔一センチ〕と落ちないうちに終わる。爆弾の外部からは、はじめに鋼鉄の外装が奇妙にゆがむのが見え、内部で何かが起きたことがわかる」
「連鎖反応はエネルギーの倍加が八〇「世代」を経て終わる」

 単純に計算すると、2の80乗=1,208,925,819,614,629,174,706,176倍。質量が消滅し、そのままエネルギーになるという現象の途方もなさ。それはまず核分裂によって解放された中性子の運動エネルギーとして具体化し、ついで熱エネルギーに変わる。「両手をこすると手のひらが温まるようなものだ。だが、ウランの破片は猛烈に速い。(中略)その速度はやすやすと光速のそれなりの割合になる」

「体温と同じ三七度から、水が沸騰する百度を超え、鉛が気体になる一七四四度にいたる。だが、倍々の連鎖反応が進むにつれ、さらにいっそうのウラン原子が分裂して、その温度はやがて太陽の表面と同じ五〇〇〇度に、つづいて太陽の中心と同じ数百万度に達するばかりか、さらにどんどんあがっていく。ほんの短いあいだ、空に浮かんだ爆弾の中心は、宇宙が誕生した瞬間と同じ状態になる」

 まず大量のX線が放射され、一万分の一秒後に目視可能な可視光線と熱が放出される。「あらわれた物体は、銀河の彼方に存在する巨大な恒星に似ている。空に占める大きさは、太陽の数百倍(中略)
「この世のものとは思えないその物体は、あらんかぎりの火力で〇・五秒にわたって燃えたあと
(中略)二、三秒後には消滅する。この「消滅」は、大部分が外部への熱エネルギーの放射によっておこなわれる。一瞬にして大火災が発生したようなもので、直下周辺の人間はみな皮膚のほとんどがはがれ、身体から垂れ下がった。広島にもたらされた一〇万人を超える人々の死は、このようにしてはじまった。」

「連鎖反応によって発生したエネルギーの少なくとも三分の一が、このときまでに使われた。
 残りのエネルギーもすぐ後ろから迫ってくる。
(中略)空気が押し出され、太古に巨大な隕石か彗星が落ちたときをのぞけば、かつてない速さで動きはじめる。いかなる台風がもたらす暴風よりも、さらに数倍は速い。(略)あまりにも速いので(音速を超えるため)音がしない。
 最初の爆風のあと、やや遅い第二波がくる。それが終わると、大気は押しのけられた隙間を埋めるために急いで後戻りする。その結果、気圧が一時的にほとんどゼロまでさがる。爆発地点からじゅうぶんに離れていて助かった生き物も、わずかのあいだ大気圏外の真空にさらされたように、身体が破裂してしまう」

「一九四五年に広島上空の爆発で発せられた閃光は、月の軌道に達した。
(中略)一瞬の輝きは木星からも見えたはずだ」
 ここには、キューブリックの斧や、クローネンバーグの人体爆発のような「ロマン」や「カタルシス」はない。工事現場で非正規労働者が鉄骨の下敷きになって潰れるような悲惨、泥酔者によるバス放火に巻き込まれた被害者が全身やけどで亡くなるのと同じ悲惨が、数十万人ぶんあっただけだ。

 なお、これだけ自身をなくすことに(観念的に)憧れながらドラッグはおろかアルコールにすら手を出そうとせず、己のコントロールを失なうことは頑なに拒む自分…!(ズルイ)
 【今日のまとめ】破壊衝動は創作の中だけで十分。そして創作の中でも、現実との突き合わせは捨象しきれるものではないと知れ。
 人類が生み出しえた最も速い速度も、宇宙が誕生した瞬間を再現する高温も、人の生皮を剥がす炎・音速で人を壁に叩きつける暴力にしか帰結しなかった。この結果を抜きに原子爆弾や核戦争を語ることは、たとえ物語でも、いやむしろ物語だからこそ「考証不足」「取材不足」で責められるべきことだろう。
 これは別の話になるけれど、ハリウッド映画はあんまり無邪気に簡単に、核を爆発させすぎる。『オッペンハイマー』は「物語」として及第点だろうかと気になっている(核ではないけれど似たような爆弾を「爆発しちゃったけど、まあ大丈夫でした」で済ませた『ダークナイト・ライジング』を思うと、ちょっと危ういノーラン)。
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 (23.8.11追記)「Barbenheimer(バーベンハイマー)」を解説。その発端と流行から炎上までを振り返る(シネマンドレイク/23.8.11/外部リンクが開きます)。勉強になる良記事でした。

「官製」の無政府状態〜松村圭一郎『くらしのアナキズム』(23.08.12)

 もう9年前なのか。マレーシアで目にした建国57年(1957年に独立)の横断幕が忘れられない。
 手前に立って喜びに片腕を上げた男児の影は、背景の板壁に大きく伸びて立派な大人のシルエットになっている。「57 MALAYSIA」のロゴが背後に映す影は「57 MERDIKA」(merdikaはマレー語で自由)だ。
 上記の説明のとおりの横断幕を写した写真です。
 見事なデザインに感嘆するのと同時に、矛盾した困惑が自分の中にあった。
 異国のナショナリズムは可憐に見える。それが独立を果たした元・植民地であるなら、なおさらのことだ。けれど往々にしてそれは他国にも、自国民にさえ害をなす毒に変わる。その境目が、あるものならば何処にあるか知りたい。
※と思った矢先こんなニュースが。直にナショナリズムではないかもだけど。merdikaどこ行った。
LGBTQテーマのスウォッチ腕時計、所持すれば3年以下の禁錮刑 マレーシア(AFP BB/23.8.11/外部リンク)

 けどまあ、今は足元の話。自民党の二階俊博・元幹事長が大阪万博を国の威信をかけて成功させる(必要がある)などと発言したらしい(TBS NEWS DIG/2023.8.8/外部リンク)。
 国立の科学博物館に一億円の予算が回らず、クラウドファンディングで資料保全する国に、威信も何もあったものか。だが吾々の多くは「そもそも国の威信て何だ」と根本的な疑問を持つのではなく「こっちのほうが威信に関わる」と思ったのかも知れない。当初の目標額1億円を10時間足らずで達成したクラファンには、二日で5億円を突破したという。
国立科学博物館のクラファン、5億円を突破(ITmedia News/23.8.9/外部リンク)
 クラファン開始が宣言された時点で「これが上手くいってしまうと、クラファンで大丈夫じゃないですかと、さらに予算が削減されるおそれがある」「それが科博のようにメジャーではない、もっと零細で地味な博物館や図書館などにも波及し、クラファンでお金を集めなさいよ・集まらないのは魅力がなくて存続に値しない機関だからでしょ、となるのが怖い」といった懸念の声はあがっていた。
 それに加えて今は、本件が「科博を国民で支えるオレたち私たちスゲー」「さすが日本は民度が高い」と、国家の「威信」発揚にさえなってしまうのではと思えてきた。これでいいのか。いいじゃないの幸せならば。そうだろうか?

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 アナーキー、アナキズム、無政府状態という字面で思い浮かぶのは、どんな光景だろう。ノー・フューチャー、ノー・フューチャー、核戦争後の荒廃した世界でモヒカンの暴走族がヒャッハーと奇声をあげる、略奪し放題・弱肉強食の地獄だろうか。
 その認識は完全に間違っている。アナキズムは非国家であって、非社会ではない。アナキズムとは国家がなくても人々(吾々)は自発的に協力しあって、社会や秩序を形成できるという考え方なのだと、松村圭一郎くらしのアナキズム(ミシマ社/2021年/外部リンクが開きます)は説く。
 著者ひとりの、脳内だけ観念だけの勝手な思いつきではない。先人・同時代人の思想やアナキズム的な着想をまとめあげ、また歴史的にも地理的にも(つまり現在進行形でも)実践されているアナキズムを紹介した、見取り図・総論的な入門書だ。
 人として挙がっているのは急逝した人類学者で『ブルシット・ジョブ』の提唱者としても知られるグレーバー、彼が参照した『贈与論』のモース、あるいは中南米の先住民族に国家を作れないのではなく「わざと」作ろうとしない『国家に抗する社会』を発見したクラストル、産業社会や管理社会に根本的な疑問を呈したイリイチ、あるいは『暮らしの手帖』の花森安治や台湾のIT担当相オードリー・タンなど、など、など。
 戦争中でも市は立つ。アダムが耕し、イヴが紡いだ時、誰が領主だった(という)のか」と叫んだ中世イングランドの反乱民を加えてもいいかも知れないし、23年4月の日記で取り上げた、利己的遺伝子論は名前のイメージに反して生物の協力行動を説明する概念だったという話を加えてもいい。
 問題は、ではなぜ人々が「吾が国スゲー」と自発的に国家と一体化する体制が、現実には大勢を占めている(ように見える)かだ。
 書影『くらしのアナキズム』町の小さな独立系の書店に似あいそうな、地味な表紙のシブイ本です。メガ書店やAmaz○n(←いちおう伏せ字)で買っても、図書館で借りて読んでもいいけど。
 あるいは、そんな国家至上の世の中で、なぜアナキズムの再評価が急務なのか。

 著者は言う。現実には、アナキズムは目の前にある。中国南部から東南アジアにまたがる広大な山岳地帯(ゾミア)で文明を捨てて生きる無数の少数民族だけの話ではない。大災害が起き、国家や行政の支援が及ばないとき。社会的なインフラが「民営化」され、退職後の年金も覚束ないとき。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、ぼくらは現にアナキストとして生きている(本書「はじめに」より)
 ようやく話が冒頭を回収する。科博の件だ。

 国家への反逆者によるテロでなく、国家のほうから自国民を蹂躙する官製暴力を白色テロという。国家そのものが国家の役割を積極的に放棄して、社会の維持を人々の自助に丸投げする状態は「白色アナキズム」とでも呼ぶべきだろう。
 科博がクラファンに至った現状について、まさに「これは国家が主導する無政府状態ではないか」と名指す声もあった。言うまでもないことだが敢えて付記するならば、これは無政府状態の到達点・少なくとも更に先に進む一里塚であって、けっして始まりではなかった。たとえば子ども食堂。
 困窮世帯への行政の支援が行き届かず、いたたまれなくなった人々が自腹を割いて各地で「子ども食堂」を開設したとき、国は何をしたか。「子どもの皆さん。世の中には子ども食堂であなたたちを支える立派な人たちがいます。そういう人たちに支えられて立派な大人になってください。内閣総理大臣 安倍晋三」というメッセージを放って、自分の手柄顔をした。現首相の岸田文雄は子ども食堂を「視察」し、誰か他の困窮者に行き渡るはずだった弁当を「試食」(日本経済新聞/21.10.12/外部リンク)それすら空手形かも知れないけれど、子ども食堂に備蓄米供給などの支援をし、国策として積極的に進めていく考えを示している。
 その一方で安倍元首相の「国の威信をかけた」国葬には16.6億円がつぎこまれ、各地で豪雨被害があいつぐ今年今月の16日には歴代首相が集まって追悼のゴルフ大会をするらしい。当初はカジノ開設とセットだった気がする万博に、政府は「国家の威信」をかけるという。

 国家が福祉やインフラの機能を果たさず、人々が自助で生きていくしかない「じっさい眼前にあるアナキズム」はまだ分かる。古くは夜警国家という発想もそうだったろうし、そのほうが上手く回ることもあるだろう。
 ただ、市井の人々に自助をやむなくさせ、むしろ国策として自助を推進させ、そうした自助をいっそ国威に回収させかねない国家、あっても何の役にも立たない国家が、にも関わらず存在しつづけ江戸時代の五公五民も色あせる重税と社会負担を吸い上げていられる理由が分からない。
 本当に分からないんだけどなあ。「自分たちで助け合って生きて。ただし税金はたんまり頂く」何なの?
 
 しいて言うなら、そのほうが楽だから、なのだろうか。これは末尾で紹介している『チョンキンマンション』でも思ったことだけど、国家・行政のコントロールを離れたアナーキーな世界は、人と人との積極的な交流が求められる場でもあり、自分みたいな引きこもり体質には、いずれにしても生きづらいだろうなという諦めはある。もっとアゲアゲで人との「交流」大好き・宴会ゴルフ大好きみたいな人たちでも、そういう「交流」に何で領主が必要かと言われても、きっとウォシュレットやスマホ使い放題みたいな利便は国家に代表される不平等な富の蓄積なしには生まれなかったもので、そうした文明の利便を手放すよりは国家に我慢するほうがマシ、と考えるのかも知れない。
 虎に喰われても国家よりはマシという臨界点を超えないかぎり、万博やインボイス・神宮外苑の樹木伐採は許され続ける。そういう理屈なのだろうか。

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 『チャヴ 弱者を敵視する社会』(23年6月の日記参照)の著者オーウェン・ジョーンズの「億万長者の寄付は要らない。税金を払ってくれ」という記事を読んで、うあああと叫びたくなったのを思い出す。
We don’t want billionaires’ charity. We want them to pay their taxes | Owen Jones
 (The Guardians/英文/2018.10.26/外部リンクが開きます)
言わんとすることは非常によく分かる。もっともだと思う。けれど同時に「富豪は寄付より納税を」という彼の主張の根拠が、いち金持ちの偏った慈善より国家のほうが「使い道は分かっているから」(goverment knows better)なことに「うああああ」と思わずにいられなかったのだ。
 たしかにインフラなど、税でなければ支えられない部分はあるし、それらが「国家」の税の「使い道」の大部分であるならば、ジョーンズの主張は正しいだろう。けれどたとえば、維新が万博をゴリ押しする大阪ではインフラの保全が二の次になり、車道の白線が摩滅して消えても引き直されず放置されているという。government knows betterを信じられなくなったら、どうすればいいのか。

 記事の終わりのほうでジョーンズが参照している記事にも、しょっぱい涙が出る。イギリスでもアメリカでも社会の下層20%にいる貧困層のほうが、富裕層よりも三倍(自らの収入に対する割合として)チャリティにお金を使っている。それはなぜか?という記事で
Why are the poor more generous than the wealthy?(CIVIL SOCIETY/英文/2013.6.12/外部リンク)
理由のひとつが'the less fortunate members of society are more likely to bear witness to the suffering and anguish (that charities are there to prevent)'「社会の恵まれない層の人々のほうが(慈善団体が食い止めようとしている)痛みや苦しみを、じかに目にする機会が多いから」というのだ。これも(恥ずかしながら)身につまされてよく分かる。分かるのだけど、同時に思う。
 貧困層が(政府を介さない)寄付に熱心な理由には「お金を税として国家に渡しても、正しくは使われない」という不信もあるのではないか

 【今週のまとめ】
1)アナキストが国家を廃絶しなくても、とうに国家のほうから役割を放棄して、人々に自助を強いている。
2)それでいて無くなるどころか肥大化を続ける国家の「威信」とは。
 今回の日記は単なる現状確認であり「なぜそうなのか」と導かれるべき結論には至っていない。まして処方箋や打開案については「そんなん、むしろこっちが出してほしいわ」という気持ちしかない。
 「うあああ」ですよ。今日の日記で言いたいことは「うああああ」「うわああああ」です。

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 富も人脈もなく、言うたら全方位に無力な自分に出来るのは、せいぜい本を紹介することくらいなので『くらしのアナキズム』を総論・入門篇としたら、具体的な各論・実践篇に該当しそうな
小川さやかチョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』(春秋社/2019年/外部)
を参考までに。香港で稼ぐタンザニア人たちの、適当なのに精妙なシェアリング経済。読み物としても無類の面白さです。
 キャプション「本サイトの更新や創作経費(資料になる本代や中のひとが食べる冷凍餃子代など)を時おりクラウドファンディング的に御支援くださる方々には感謝しかないです…あるんですよクラファン的なもの。返礼で100円支援すると100円ぶん、200円で200円ぶんの電子書籍が読めるやつなんですけど」で久しぶりにショコラタ姫の絵。
 ※今回あまり救いがなかったので(紹介した本は二冊とも面白いと思うけど)おまけ。

禊のしるし〜『ジーザス・クライスト・スーパースター』(23.8.20)

Jesus died for somebody's sins but not mine
(Patti Smith - Gloria)

 今週(こそ)は簡潔に済ませます。
 年寄り(初老)の昔話である。手を洗うとモラルがゆるくなる(外部リンクが開きます)というのは本サイトでもよく参照するニュースサイト・GIGAZINEの2008年の記事で、読んだとき「ほう」(魍魎の匣ではない)と思ったのを15年の今でも憶えていたという話。
 記事の主旨は「手を洗う人=潔癖というイメージがあるが、イギリスの実験では(非倫理的な行動に対して)被験者たちは一様に間違った行ないだと判断したものの、事前に手を洗った人たちのほうが量刑的には寛大な評価をくだした。意外だなあ」というもの。同様に、投票の前にシャワーを浴びる人は政治家の不祥事を大目に見やすいそうで、それはまあ遺憾なのですが、
 「新型コロナの流行り始め・皆が真面目に手を洗っていた頃は寛容な心で「医療従事者に感謝」とか言っていたけど、次第に慣れて手洗いもおざなりになると助け合いも忘れてエゴ剥き出しになったんじゃない?…なんて広げかた今回はしませーん」と手をひらひらさせる「ひつじちゃん」(してるじゃん)。今週こそは欲張らず簡潔に話を済ませるんだ
 記憶に残っていたのは、あまり「意外」でなかったからだ。むしろ「さもありなん」と思った。というのも特に英語圏・広くいうとキリスト教圏では「手を洗う=罪の意識を洗い流す」が有名なエピソードとして知られているのだ。「ははーん」と早速カンづいたかたも初めて聞くような顔で、まあお付き合いくださいな。

 ローリング・ストーンズ、これもイギリスのバンドだけど、彼らの名曲「悪魔を憐れむ歌」(1968年)は人類を太古の昔から惑わせてきた魔王ルシファーの自慢話として、こう切り出す:
「イエス・キリストが疑念と苦痛にあえいでいた時も 私はそこにおりまして
 ピラトが両手を洗って己の運命を決めたのも この目でしっかり見ましたよ」

(強調は引用者/かなり分かりやすく言葉を補ってます)
the Rolling Stones - Sympathy for the Devil(YouTube/外部リンク)
 さらに分かりやすく+すごく大ざっぱに言うと、ヤハウェを唯一の神とするユダヤ社会で「神の子」として台頭したイエスは人々に憎まれ、当時ユダヤの民を統治していたローマ帝国の総督ピラトに引き渡される。ピラトは「鞭で懲らしめて釈放しよう」と言うが人々はイエスを十字架につけるよう強く要求する(ルカによる福音書)。暴動をおそれたピラトは「水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」」(マタイによる福音書)。
 この「私は手を洗った、もう責任はない」が明瞭に可視化されているのがミュージカル映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』ピラトのパートだ。ノーマン・ジェイソン監督、1973年。ちょうど今年が50周年で、YouTubeに関連動画が上がっていて、それで15年前の手洗いに関する記事まで一緒に思い出したわけです。動画も貼っちゃいます。
 
古代ローマで死に至らない上限とされた39回の鞭打ち(つまり死刑でない最高刑ということか)でも民衆の憤激が収まらず、イエス自身にも救われる意志がないことに業を煮やしたピラトは絶叫する。
「もう停めないぞ 御立派な自己破壊者め 望みどおり死ぬがいい 見当違いの殉教者が
「お前の破滅から私は手を引いた(手を洗った) 望みどおり死ぬがいい 無力な操り人形よ」

ピラト役の今はなきバリー・デネンさん、大熱演です。「Die! If you want to」までの激昂から、しぼり出すように痛々しげな「...You innocent pappet!」の落差がいい。そしてこれ以上ないほど分かりやすく手を洗ってます。ジャブジャブと、ガラス鉢の水を真っ赤に染めて。

 逆に言うと聖書の記述はここまで分かりやすくない。それでもストーンズのミック・ジャガーは「悪魔を憐れむ歌」で(ジーザス・クライストのミュージカルより前に)「手を洗うピラト」に目をつけてるから、やはり知られたイメージなのだろうとは思う。
 だけどピラトが手を洗う鉢の水、血で赤く染まったそれには聖書以外の既視感がないだろうか。2008年の実験に参加したイギリス人には、あったに違いない。何処かで読んだことがある。イギリスの議会で最も多く引用されるのは聖書の文句だが、二番目はシェイクスピアだと。そう、三人の魔女に唆され主君ダンカンを殺害したマクベスが言うではないか。
「大ネプチューンの支配する大洋の水すべてを傾ければ、この手から血を洗い落とせるか?
 いや、この手がむしろ見わたすかぎり波また波の大海原を朱に染め、緑を真紅に一変させるだろう」

(『マクベス』小田島雄志訳)
マクベスのみならず、弑逆の共謀者・血塗られた覇道の頼もしい伴走者だったマクベス夫人も「洗っても洗っても手から血の匂いが落ちない」と憔悴して落命する。
 ポンテオ・ピラトの「手を洗って罪悪感を洗い流す」イメージは、マクベス夫妻の「手を洗っても、なお洗い流せない罪」という反語で強化される。さて、2008年の実験の「結果」は、こうした文化的イメージの蓄積が心理に反映されたものだろうか。逆に、手や身体を洗うと人はモヤモヤした感情もリセットできる習性が先にあって(日本でもイザナギの昔から「禊(みそぎ)」がありますよね)、聖書やシェイクスピア劇はそれを巧みに取り入れたのだろうか。分からない。分からなくても面白いなあと思っています。夏にふさわしく、禊の話でした。

      *     *     *
 これは完全な余談だけど『ジーザス・クライスト・スーパースター』2000年版のピラトも、なかなか味わい深い。こちらは強面のフレッド・ヨハンソンさん。顔芸が素晴らしいです。
 
「この偽善者どもめ 彼(イエス)より私たち(ローマ人)を憎んでいるくせに」
 手洗いは目立たなくなったけど、39回の鞭打ちが人々の手のひらでの打擲に替えられているのが印象的。最初のうちは、どうだ残虐な刑罰だろう(これで十分ではないか・お前たちだってローマの機嫌を損ねればこうだぞ)と誇示していたピラトが、むしろ群衆の嗜虐心に火をつけたことに気づいてか狼狽し、度を失なっていく。そして「これは決まっていたことで貴方には替えられない」と微笑みさえ浮かべたイエスに囁かれ、怒りをあらわに絶叫する彼は、群衆にもイエスにも(イエスの神にも)いいように利用された自分こそが「何も知らない操り人形(Innocent Pappet)」だと感じたのではないか−なんてね。

 ジーザス・クライストの映画(1973)では「ホサナ(曲名)」で弟子たちが「私たちを導いて」「私たちを救って」とイエスを讚えていたのが、いつのまにか「私たちのために死んで」とすり替わるところがエグくて(○んで!と取り巻きに笑顔で言われて「あー…」と思ってるジーザスの挿し絵)初めて観た当時=90年代のカート・コバーンやデペッシュ・モードのデイヴ・ガーンがドラッグで破滅していった洋楽シーンに重なって見えたりしたのでした…(ガーンは命を取り留め今でも健在ですが)
 最近の舞台では元スパイス・ガールズのメル・Cがマグダラのマリアを演じてる模様。イスカリオテのユダがティム・ミンチン。このヴァージョンでのピラトは残念ながらYouTubeでは拾えませんでした。

 そしてマクベスの「大洋の水でも…」はセネカが元ネタだという情報も。セネカ、ほぼほぼピラトやイエスと同時代人なのでは。詳細の確認は今後の宿題。たぶん未解明で時間切れ。でも仕合わせ。前のめりな人生。

『ミャンマー・ダイアリーズ』と『森の回廊』その他(23.8.27)

 また(?)三部構成です。(1/3)映画『ミャンマー・ダイアリーズ』について(2/3)吉田敏浩『森の回廊』について(3/3)僕たちの将来について。しんそこ疲れているので画像すくなめで。

 (1/3)映画『ミャンマー・ダイアリーズ』(外部リンク)を観てきました
 2021年2月のクーデタ以来、軍部に都合の悪い(SNSまで含めた)情報の発信が禁じられたミャンマーで制作された、若手監督10人による短篇とスマートフォンなどのカメラが捉えた現実の記録映像が渾然一体となった「ドキュメント」。フィクションも含めた作品をドキュメントと呼ぶのは語弊がある。けれど。
 本作は監督もスタッフも出演者も、すべて匿名だ。ふつうの映画ならエンドロールで刻まれる「本作をつくりあげた人たち」の名前はない。替わりに作品そのものが、本作に関わった人たちの存在の証として刻まれる。弾圧され、もしかしたら最後になるかも知れない。逆にこれが世界の人々に届くことで自由への始まりになるかも知れない。そういう状況で何を撮り、何を表現するのか。そういう意味で、創作の部分も含め本作は「ドキュメント」だった。
 醜い芋虫から、美しい蝶に変わる切り絵のアニメーション。だが羽ばたく蝶は四方からトカゲに囲まれ、軍隊がデモ隊に襲いかかる現実の光景に取って代わられる。
 つたない指はこびで『エリーゼのために』を弾く女性の後ろ姿。カットを重ねるたび次第になめらかになっていく演奏は断ち切られ、次に同じメロディを弾きはじめるのは、愛する者を失なった男性の後ろ姿だ。
 でっぷりと弛緩した全裸の尻をさらす別の男性。全裸のまま部屋の床を拭き、行のように自らに打ち水をし、そして女物のパンティに顔をうずめ嗚咽する。滑稽ともいえる姿が、かえって悲哀に打ちのめされた人間の無力を強調する。そして下着は(他の思い出の品と一緒に?)火にくべられ、全裸の男は民主化運動のシンボルである三本指を立てた形が崩れないよう透明テープで固定して一酸化炭素で命を絶つ。
 あんたたち私の息子と同い年くらいじゃないか、恥ずかしくないのかと、車上の兵士たちに食ってかかる女性。たぶん僕が訪ねることはないヤンゴンの街並み。お母さんを連れて行かないでと泣きわめく子どもの声。抗議のため手に手に金属の食器やたらいを打ち鳴らす音。
 政府のブラックリストに名前が載り、山に逃げ込むことを決める若者。連れていってはもらえない十代の恋人は、妊娠していることを話すべきか、タピオカミルクティーのフタを破いて取り出した黒い粒で占う。話す、話さない、話す、話さない…
 デモ隊に紛れ込んだ、政府側の暴力団が市民に襲いかかる。逃げ遅れ、倒され、ぐったりと動かなくなった男性が、なおも棒で殴打される。その光景を屋内から実況するスマートフォンの映像に、撮影者の声が重なる。「この動画は使用フリーです」「どうか拡散してください

 映画館への配分と配給・宣伝経費を差し引いた配給収益の全額が、ミャンマー避難民の生活支援活動を行う団体・施設に寄付される由。
 横浜のシネマ・ジャックアンドベティ(外部リンクが開きます)では9/1(金)まで。最終週は19:30〜のレイトショーなので色々(お値段とか日が落ちた後だとか)観やすいかと思います。経済的に余裕があってレイト割引が後ろめたいひとには、窓口に募金箱あり。

      *     *     *
 今日の日記(週記)は実質、以上で終わり。以下は余談です。

 (2/3)『森の回廊』
 『ミャンマー・ダイアリーズ』は山岳ゲリラとなった若者たちのシーンで終わる。シートを雨避けにした粗末な隠れ家。地べたを這いずる匍匐前進。初めての射撃訓練。その前途は、容易くはない。
 吉田敏浩森の回廊 ビルマ辺境 民族解放区の一、三〇〇日』(1995年/NHK出版)のエピローグでは80年代、同様に民主化→軍部のクーデタにより数百人の学生が山に逃げ込み、脱落者も出しながら少数民族の解放軍に合流していく経緯が描かれている。
 『森の回廊』書影(タイトル部分のアップ)
 本サイトではきちんと紹介したことがなかった気がするので、簡潔に記しておきたい。大宅壮一ノンフィクション賞。1985年〜88年、南のタイ・ビルマ国境から北部のカチン州まで、出国まで外部と連絡を取れない状態で、ビルマ建国以来・もっと前から弾圧され反攻を続けている少数民族と行動をともにした記録。この取材が当局の不興を買い、著者はミャンマーへの再入国を禁じられているという。
 その濃密な内容に、深く踏み入る余裕はない(たぶん一週間〜ひと夏を賭けるに足る読書体験になると思います。読んでください)。強く印象に残っているのは、自然と精霊が一体となった熱帯雨林の美しさだ。たまさか同じ頃「日本人の自然と共存する知恵や自然への畏敬の念は世界にも類をみないもので『風の谷のナウシカ』が実験室で純粋な粘菌の種を守っていたように文化遺伝子として後世に伝える必要がある」みたいな言説を目にして、なんて身の程知らずなと呆れたことがある。けれど少し話が逸れた。
 もっと逸らすとアジアの熱帯雨林・自然と精霊・少数民族というモチーフは台湾映画の大作『セデック・バレ』(2011年)にも共通している。1930年代・日本「統治」下で起きた原住民(←先住民の台湾での表記)セデック族の反乱「霧社事件」を描いた格調高く、そして破滅的な悲劇。これも機会があれば是非。
 日本の「統治」はミャンマー(ビルマ)の民族紛争にも影を落としている。まつろわぬ少数民族の居住区域を日本軍は爆撃もしているし、現在も弾圧を続けているミャンマー国軍は戦争中、日本軍の肝いりで創設されたものだ。いわゆる「軍艦マーチ」など日本の軍歌は、ミャンマー国軍でも正式な軍歌として引き継がれているという。

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 (3/3)Apt Pupil〜僕たちの将来
 むかし図書館で手にして、少し読んで書架に戻してしまった自民党議員のミャンマー訪問記にも「軍艦マーチ」のくだりがあった。街なかの軍隊のパレードで日本の軍歌を耳にした議員氏は、喜び感激する。なるほど、同じことを恥じ入る者と、誇る者がいるのだと思った。
 今年はどうなっているのだろう、日本の自衛隊はミャンマー軍部の幹部候補生を訓練生として受け入れている。「日本の文民統制を学んでもらうため」と岸防衛相(2022年当時。実兄・安倍晋三の家族葬に自衛隊を動員・参列させた岸防衛相)は答弁しているが、現実には民衆弾圧への関与が指摘されている。
ミャンマー:日本で訓練を受けた士官が人権侵害に関与した基地に所属(ヒューマンライツウォッチ/2022.5/外部リンクが開きます)
 旧日本軍に育成された軍部が独裁体制を敷くミャンマーは、先の戦争に「アジアの人々は感謝している」と思いたい日本政府や日本人にとって模範的な生徒=Apt Pupilなのではないか。←これが回りくどい皮肉なのはネット検索してもらえば分かるだろう。Apt Pupil(優等生)と検索して最初に出てくるのは、スティーヴン・キングの同名小説を映画化した『ゴールデン・ボーイ』のはずだ。アメリカの地方都市で、近所に住む老人が隠れて暮らすナチ戦犯だと知った高校生が、正体をばらすと彼を脅してナチス時代の残虐行為の話を次々聞き出すうち、すっかり感化されて…というオカルト抜きのホラー小説。結末で「僕は世界の王様だ」とうそぶき銃の乱射に向かう少年を描いたあとの「オチ」の一行は、宮部みゆき『模倣犯』でも「模倣」されている。
 国内でも上がっている抗議の声を黙殺し、ミャンマー軍政と親密な関係を続ける現在(1945年以降)の日本政府は、ミャンマーのようになりたいのだろうか。軍部が強制しなくても人々は唯々諾々と政府に従い、異を唱える者は暴力団を紛れ込ませなくても「インフルエンサー」や「右でも左でもない普通の日本人」が反日だ非国民だ「非科学的だ(New)」と制裁を加えてくれる、今の日本は暴力を用いるまでもなくソフトに民衆を制圧できた希有な成功例だと思うのだが、それでは足りないのだろうか。名古屋入管が助けを求める重病者を笑いながら死に至らしめたように、もっと具体的に国家や行政が市民に暴力を振るえないと満足できないのだろうか。貧困や熱中症で、弱い者からバタバタ倒れるだけでは手応えがないのだろうか。
 
 福島原発「処理水」の海洋放出について、他のひとも言ってることを繰り返すつもりはない。
 ただ逆に誰も言わなそうなことを「保険」で書くけれど、中国による海産物の禁輸措置を「想定外」と言ってるのは本当なのだろうか。むしろ反発を呼んで緊張関係を高める狙い「も」あるのではないかと、最悪の目にもチップを置く感じで僕は心配している。
 今月のはじめには、日本ミャンマー協会の代表でもある麻生太郎が「戦う覚悟」と台湾をけしかけている。低迷する現政権の支持率を上げるための、気が抜けてきた北朝鮮ネタに替わる火遊びだったら(全然よくないけど)まだいい。
 あわよくば、また戦争をしたいのではないか。
 どうすれば戦争できるか分からないので(議会制民主主義を壊滅させてまで実現した自衛隊の海外派兵では、皮肉なことに国連軍の名のもと中国の指揮下で働いてたりする)とっかかりとして中国を挑発し、国内では日本が被害者という顔で反発ムードを高め、そして台湾に火種を「期待」しているのではないか。
 きわめて身勝手な心情をありのまま正直に言うが、台湾にも中国にも戦争をしてほしくない。とくに大陸のほうの中国には多くの人権問題があることも分かっている、台湾だってユートピアではなかろうことも分かっているけど、どちらの国にも戦争してほしくない。それも日本が唆して、だなんて目も当てられない。

 弾圧され抵抗する少数民族の側から書かれた『森の回廊』だけど、これも必読の名著だと思うP.W.シンガーの『子ども兵の戦争』(2006/NHK出版)ではミャンマーの民族解放軍は子ども兵を使役する「悪」として名指されている。国軍の弾圧を鑑みずにそれはどうかと思う一方、善か悪か以前の問題として、抵抗であっても戦争は「悲惨」なのだと感じもする。
 切実に平和を願う。レトリックじゃない。レトリックで「私だって平和を願ってます。平和のためにこそ戦争が必要なのです」とか言う奴に、平和を語ってほしくない。これが回収される伏線に、なりませんように。

小ネタ拾遺〜八月(23.8.31)

(23.8.2)7月の猛暑、観測史上最高に ほぼ確実に「12万年ぶりの暑さ」(CNN/23.7.28/外部リンクが開きます)というニュースを見て、12万年前の人類(祖先)が「暑い暑い!もう毛皮やめやめ!」となって今のような(頭部や脇・股間以外)ツルツル肌になったという新説を思いつくなど。

(2023.7.31〜8.2)現在はXと名乗っているSNSで、8/1(アメリカ時間かしら)は「ツイート」をボイコットしようと (#August1stTweetOutDay)呼びかけられている模様。現オーナーへの抗議を当日の広告収入の低下として可視化する試みらしい。
「X」現オーナーのイーロン・マスクは、Xの広告収入を「バズってる」インフルエンサー(人気投稿者)で山分けする事業を開始・TwitterがTwitter Blueユーザーに広告収益の分配を開始、数百万円を受け取る人も(Gigazine/23.7.14/外部リンクが開きます)、その中にはデマゴーグや差別主義者、性的虐待者などが含まれうる(なにしろバズるから)ことが問題視されている、いや、なんなら「Xなんて名前イヤだ」「青い鳥のアイコンを返してほしい」と嘆く人たちの間ですら問題視されてないかも知れないことを個人的には強く憂慮(←控えめな表現)しています。※問題視して去ったひとたちも少なからず居る。
イーロン・マスクがTwitterで児童性的虐待画像を投稿し300万ビューと8000リツイートを集めた50万人以上のフォロワーを持つ右翼インフルエンサーのアカウントを復活させる(同/23.7.31/外部リンク)
僕も情報源としては今でもXの恩恵に預かってるし、とくに人を救おうと活動してるアカウントがXから中々降りれないことも分かる。他の多くの場面でも、非人道的だと知りながら手を切れないことはある(誰かの搾取の恩恵に預かって生活必需品を安く手に入れるとか)。
でも今のXが、人道的な発言すら虐待者の収入になる運営を改めないかぎり、利用者がそれに加担しつづけてるのも事実。まだXに居るひと・とくに「だってここで発信しないと実現できない善があるから」と言うひとは、ゆくゆくは去ることも念頭において、まずは1日ツイートを停めてみたらどうだろう。あまり期待はしないけど。僕も閲覧を停めます。
 あと「X」という改名を拒絶して「マスクがなんと言おうと私はTwitterという名称を使い続けるぞ文句あるか」というひともいるけれど、いやもう差別やデマに実益を与えるシステムに変わっちまった場で 名前だけ昔に戻したって仕方ないだろうという気持ちをこめて本サイトでは積極的に「X」呼びします。
(23.8.31追記)そして(いつまで保つか分からないけど)この記事で先週から閲覧も完全停止。イーロン・マスクがウクライナの激戦地でネットを遮断して年580億円を要求(GIZMODO/23.8.24/外部リンク)。

(23.8.2)冬の温泉旅館でヒトクセもフタクセも「ない」善良な人々が2分間という類を見ない極短スパンでループを(それはもう何十回と)繰り返すループ物の新たな傑作『リバー 流れないでよ大傑作でした(←あんまり良くて「ループ」と「傑作」がループしてます)
 リバー埋もれないでよ(埋もれさすにはあまりに傑作…)荒唐無稽な設定と、それを無理なくストーリー化する細部までの目配り。かなり最初で主人公の中居さんの後ろ髪の編み込みが綺麗だなあと見とれたのまで終盤きっちり意味をもってて感心しきりでした(中居さん(かわいい)と後ろ髪の挿し絵)でもあまり考えず怒濤の展開に流されていいと思う。リバー流されてよ
中居さんの髪について補記すると、(演劇の舞台で)「銃が出てきたら、その銃は発砲されなければいけない」というチェーホフの言葉、逆に発砲場面をやりたかったら先に銃を示して注意を引いておく必要があるんですよね。で、後での再登場の仕方が前のと文脈が違うと「やられた!」と高度な満足が得られる。『ドラゴン×マッハ』のネクタイ(2017年6月の日記参照)と同じです。
展開に夢中でループ8回目くらいで、やっと「これ2分間のループを細かく繰り返してるけど、 たたみます。(クリックで開閉します)。 じゃない?」と思い当たるも、その後も面白すぎて確認どころじゃなかった……それが正解なら、なんてコダワリだ…自分の近場では川崎のチネチッタでしか上映してないけど、いずれ横浜のミニシアターなんかに来てほしいなあ。『カメ止め』みたいな社会現象(?)に成りうる(成りえた?)作品だと思いました。
      *     *     *
 そして全く関係ないけど、久しぶりに出向いた川崎で「れでぃの甘いほっぺ」にびっくりしました。「あー舞村さん(仮名)こういうの好きよね」と苦笑するがいい。リンゴ飴のお店だそうです。
 津島善子(小林愛香さん)似の美少女にボブカットの美少女が後ろから抱きついて二人にっこり笑っている「れでぃの甘いほっぺ」看板イラスト(遠景)
オタクの魂百まで】年甲斐もなく川崎「れでぃの甘いほっぺ」が気になった舞村さん(仮名)は横浜中華街の食材店で発見した中国(大陸)醤油メーカー「珠江橋」のラベルも気になっているようです。
珠江橋 中国醤油(株式会社嘉恒貿易/外部リンクが開きます)
萌えラベルだけ目当てに500mlの中瓶を買うほど酔狂ではなかったので、まずは小瓶150mlの「老抽王」をお試し購入。冷奴や温野菜と合わせてます。てゆか京劇をポップにアレンジした具入り辣油(同/外部)も気にしていこうよ自分、秋にはおにぎりの具になるかもだし!(23.8.6)

(23.8.7)一部店舗の店頭情報によれば「まいばすけっと」で売っているトップバリュの冷凍ぎょうざが8/9付くらいで税別158円→税別178円に値上がりするようなので?(ネットの企業ページに告知は出ていない)「それは悲しい(もしくは困る)」という人がいたら、今日か明日じゅうに確認+確保を…(追記:値上げしました)

(23.8.10)ルーマニア出身らしいDJ SavaのTOP40(どこのだ?米?英?)ヒット曲MV。

このいかにもAI生成らしい高精度にして(文字や建物など)細部の考証はてきとうな疑似ジャパニメーションが、逆に日本中の街頭スクリーンや家電量販店のTVコーナーを席捲する、少しcreepyな未来を少し夢みてしまう度しがたい自分がいる一方「日本の没落と忘却は不可避でも、オタク文化は世界で芽吹いて生き延びてほしい」という年来の願望は、果たして適切だったのかと考え直してもいる。いっそ日本という限界を脱したほうがオタク文化は健全に成長するのではと思っていたのだけど、ルッキズムとかフェティシズムとか、そういう本質は人々を魅了し救いもするが苦しめもする毒として残り続けるのかも。

(23.8.12)Xボイコットの項で書いた「誰かの搾取の恩恵に預かって安く生活必需品を手に入れる不本意」の残念な実例が。
スーパー「オーケー」値下げの負担 納入業者に補てんさせる(NHKニュース/23.8.10/外部リンク)
同社が「うちは虚飾を排して実直なので安い」イメージで売り出してるとナイーブにも思いこんでいた自分は、そのイメージを毀損する実態は、実直な顧客を遠ざけ長い目ダメージなのではと思ったけれど「望んでるのはどうせ安さだけだろう」と顧客も見切られていた可能性はある。そういえば差別で悪名高いDHCのボイコット運動が起きても「利用するお客様がいるので」と商品を置き続けた「実績」もあった。しんどいなあ。

(23.8.14/小ネタ)コミケにもハロウィンにも縁のない人生だけど、唯一してみたいと思うコスプレは、白髪のウィッグに紫のワンピース・手のひらにマジックで「He is alive」と書いたおばあちゃん(の仮装)でしたとさ…
 むしろイベント会場より、帰りのゆりかもめ等の閉まったドアの窓から真価を発揮したい仮装…というキャプションと「電車出まーす」のアナウンスの中、ドアの閉まった車内から手のひらの「He is alive」の文字を見せてドヤる仮装舞村さん(仮名)の図

(23.8.14)「あなたがいなくて寂しい 僕の心は弾ける」ISSAYさん…なんてことだ。

(23.8.15)「本格和風」「インド」カレーとは。いわゆる「お蕎麦屋のカレー」より、トマトの酸味が際立って、なるほどインドかも。でも「和風」って何?(いや「トマトだからインド」って何だ自分)東京・御徒町の立ち食い。よく煮崩れた手羽元が一本。小たぬき蕎麦(冷)とセットで800円。
 「カレーは本格和風インドカレー!毎日お店で(以下略)」という店頭の文言と、現物(カレーと小たぬき蕎麦)写真

(23.8.17)実は騒動になる少し前から「また行きたいなー科博」と思ってて。盆休みに四年ぶりくらいで再訪したんですけど、忌憚のない話、ネ○ミの丸ごと標本(剥製)がやたら目に入るので苦手なひとは要注意かも知れない。ドラちゃんとか二階堂とか概念として笑っていても「思えば実物あまり遭遇しないけどマジマジ見ると苦手だったわ」と目覚めてしまうこともある。夜の夢に出ないよう、日本館3Fの)鉱物標本コーナー(外部リンクが開きます)が最後になるよう塩梅して、記憶を上書きするのが吉。
 メンダコの標本と、その裏側
かわいい系で括られがちなメンダコ(深海生物)裏側は結構しっかりタコなんだ、というのも今回の発見でした。カブトガニほど落差じゃないけれど、これもメンタル不調だと夢に出そう…

(23.8.19)パンにバナナとベーコンとピーナツバターを挟んだ、その名もエルヴィス・サンド。本当にエルヴィス・プレスリーの好物だったらしく、それは(も)身体に良くなかったのでは…自分的にはヤミツキになる味でもなくて(少しだけ)余命を延ばせた模様?
 エルヴィス・サンド画像

(23.8.22)自分もウッカリ「主君ダンカン王を弑逆」とか書いてコッソリ修正する(弑逆じたい「主君を殺す」という意味。主君と王も重複っぽい)恥ずかしいタイプなのですが、ネット広告の「最高に魅力的な大人向けRPGゲームも対戦車ロケットランチャー(RPG)で戦うゲームでないかぎり、RPGのGって何だっけ?と確認してみたほうがいいと思うぞ?
 キャプション「そんでRPG(兵器のほう)を絵にしようと思ったのですが、さてそのRPGを誰に持たせるか?兵器など無縁そうな子どもキャラ・逆に戦争のプロですみたいな漢・ましてグラマーな女性・誰が持っても(対戦車とはいえ)結局は殺人の道具だし角は立つよなと躊躇してたら、最近のゲームで萌えっぽいロリ子が使用する設定のシロクマだか白犬だかのぬいぐるみが弾頭になったファンシーデザインなRPGが存在するとたまたま知って、まあこれはこれで疑問もありますが…」そのぬいぐるみRPGを持って困惑してる「ひつじちゃん」の挿し絵。キャプション「ブルーアーカイブ・モミジで検索」

(23.8.23)赤十字くらいは信用したいけど、これはいただけない。生成AIによる人物像(肖像)」「生成AIによる"新"証言」を用いて、関東大震災の当時を生きた人による「リアルな体験談」として展示・公開―って、このプレスリリースの時点で既に「AIが生成した"新"」と「証言」が混濁してしまっている。それは「当時を生きた人による」「リアルな体験」ではない。
関東大震災から100年 当時の赤十字活動を伝えるプロジェクト等を各地で実施 - 日赤(PR TIMES/23.8.18/外部リンクが開きます)
流行りの「生成AI」に置き換えただけで、数年前に炎上した「ひろしまタイムライン」('20年9月の日記参照)と本質は変わらない。火星人は実際に襲来などしていないし、すずさんが広島に実在したわけでもない。つくりごとには、つくりごとだから出来ることも、矜持もある。事実だってそう。次の世代に手渡すものが事実に見せかけた紛い物では、百年が泣くだろう。魂が入りそこなった付喪神。この「やらかし」は祟るよ。
(追記23.8.25)・生成AIによる「“新”証言」で物議 日赤、関東大震災100年企画の一部展示を取りやめ(ITmedia news/23.8.24/外部リンクが開きます)SNSを中心に批判が高まり、いつもの「本来の意図が伝わらず一部で誤解を招いた」でドロン。「証言」をAIで生成することの意味を誤解しているのは、良心的な批判者の「意図」が伝わってないのは、あなたがたではないのかと、遠くで吠えておく。僕は遠くで吠えただけ。

(23.8.24)クーデタに失敗→墜落の流れで数十年ぶり・とゆか今世紀に入って初めて林彪なる人名を思いだすが、辞書で言う「やじ うま【野次馬・弥次馬】(1)火災・事故などの現場に物見高く集まる人。自分とは無関係なことに興味を示して騒ぎ立てる人」そのもので己の不謹慎な浅はかさにシュンとなるなど。

(23.8.25)少しずつマストドンの見方が分かってきた。この作家さんなど、Xでは見つけられなかったかも。
マンガの形式を変えてみたのでテスト(元気のないおさむ/マストドン/23.8.13/外部リンクが開きます)
当面は発信者として加わろうとは思わないし、やっぱりSNSなので読み専でも時々(今の自分には)副作用がキツいと引くことはあるけれど。飛行石の青い光に耐えられないポムじいさんです。

(23.8.27)真面目に取り合ってもらう必要ないタワゴトですが「鶏もも肉を一番おいしく食べられるレシピ」って「茄子なんかと一緒にタイカレーの具にする」なんじゃないだろうか。もっちりした脂の甘味が、辛さと引き立て合う。お米にも合う。あっという間に食べきってしまったので参考画像とかはないです。

(23.8.29)このタイミングで「どっちが正義だ悪だじゃない、先に謝って争いを止めよう(ごめんなさい)」を叩きつけてきた王様戦隊キングオージャー(テレ朝公式/外部リンク/暗い地底に入るのがイヤで絶叫するリタ様)せめて子どもとヤング親世代には最善のメッセージを手渡さんとする幼児向けコンテンツの面目躍如だったかも。番組名からも明白な君主制の称揚については別に是々非々するとして(←面倒くさい奴だな舞村(仮名))
 「まあキングオージャー、お子さまには難解すぎる気もするが。」元は地上人類の近縁種だった地底人バグナラクが、人類に対抗するためスーパー昆虫いたいなシュゴッドを喰らって怪人化、人類はシュゴッドと共闘してシュゴッドが合体した巨大ロボで、シュゴッドを喰って巨大化したバグナラクと戦う…という理解でいいの?20年前の神の怒りって結局ナニ?「とゆか一応大人の自分にも難しすぎる(泣)ゲロウジームさんどうなった?」巨大バグナラクと戦うキングオージャーロボの図を添えて。
伝え聞く「迷惑電話が!中国ひどい!」という盛り上げかた、自称オタクが被害者ポーズでColaboなどを攻撃した経緯を思わせ一応オタクのはしくれとして遺憾の極み。ナチスの手法ならぬオタク(自称)の手法か…
漁業者との約束を守り、福島県民・国民合意のないALPS処理水の海洋放出は強行しないことを求める緊急要請署名(change.org/外部リンクが開きます)8/31〆の緊急署名に賛同しました。

(23.8.31)利権がどうの的な問題もあるけれど、それ以外(以前)の話として「少子化だ…どうしよう←ブライダル産業に補助金を出しましょう!」「市民が知識にアクセスできるよう図書館を←複合施設でエンタメ化して人寄せだ!」「震災で大打撃…これからどうすれば←オリンピックでインバウンド!経済効果!」社会の何を解決しようとしても、経済効果とか産業の活性化とか(いつの間にか)お金もうけの話にすり替わってしまうの、手に触れるものは食べ物でも何でも金(ゴールド)に変わってしまう呪いで飢えに苦しんだミダス王の逸話がドンピシャかもと思う。王様ってバカだね、じゃないんだよ。この国の王様=主権者は僕たち一人一人なのだから(参政権のない人たちは別として)。

 
(23.9.30追記)バグナラクの巨大化の代償は死で、人類への命がけの捨て鉢な攻撃だったのだそうです…就学前のお子様には重すぎる…なおゲロウジームさん(カゲロウがモデルのバグナラク)は一度巨大化してるけど「もともと生きてるか死んでるか分からない存在」だから残存してるそうです…重い…でもそういうゲロウさんなら二千年を生きてきた・今後もどんだけ生きるか分からないジェラミーとも末長く寄り添えるのかも知れない…激重…

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2309  2307→  記事一覧  ホーム