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南陽街の優しい夜明け前〜ホウ・チーラン監督『狼が羊に恋をするとき』(24.11.03)

 大陸と台湾とを問わず、中国には格言というか箴言・あるいは端的に「ポエム」と呼ばれるような短文を好む文化があるのだろうか。
 それとも最近の流行なのかしら。思い出されるのは江小白だ。昔から伝わる白酒(パイチュウ)の古びたイメージを一新した重慶発のヒット商品。スッキリしたミニボトルと(なぜか)幾種類かの詩的な短文がプリントされたラベルというデザインも、人気というか少なくとも話題になった一因なのだろう。
 少し調べてみたら中国語で「すべての旅を一生として扱う 一度しか見られない景色」「本当に大事なものは それを持ってる人よりも持ってない人のほうが知っている」そんな感じ。
 江小白のミニボトルの絵。横に台詞「把毎一段旅途都当做一生 只看一次的風景(すべての旅を一生として扱う 一度しか見られない景色)」を吹き出しで添えて。
日本の焼酎「いいちこ」の、「風で眠り、波で起きる」「億年の海、百年の人」「倒れた木が若い木を育てます」みたいな広告コピーを自然志向から人間寄りに・ポスターから商品そのものに移した感じとでも言いましょうか。
・参考:江小白 100ml(輸入販売元・日和商事株式会社/外部リンクが開きます)
・ついでに参考:いいちこポスター集(三和酒類株式会社/外部)

 2019年に台湾で見かけた色つき牛乳のパッケージも(記録のために全部買った。同行の家族はつきあってくれず一人で飲んだ)そんな感じだった。日本のジブリアニメを思わせるパッケージに添えられた短文を、それっぽく和訳すると
 左から紅いスカートに白い半袖ブラウスのボブカットの少女をパッケージに描いた草苺牛乳・黒いズボンに白い長袖シャツと焦茶のベストで黒いベレー帽の少年を描いた可可亞牛乳・黄色いスラックスに白い長袖シャツで緑のカーディガンを羽織った現代的な女性をフィーチャーした香蕉牛乳(三人とも微笑みを浮かべ目を閉じ、ペタンと座っている)、右には添えられた漢文の拡大。その内容は下記のとおりです
・バナナ牛乳「歩くのがゆっくりでもいい、でも後戻りはしないで」
・ココア牛乳「つらくても、微笑みを忘れずに」
・イチゴ牛乳「低く膝を折ってこそ、高く跳躍できるんだ」
ちなみにバナナ牛乳の裏は「世の中に難しいことなんてないワン、諦めさえすればね」ココアの裏はなかったから撮ってないんだと思うけどイチゴ牛乳の裏は「失敗を恐れることはないニャー、もう失敗するって決まってるんだから」と皮肉な内容。いかにもナイーヴな表側への照れかも知れない。
 それぞれの牛乳のパッケージ裏面。皮肉げな猫を描いた草苺牛乳・舌を出した犬が描かれた香蕉牛乳に添えられた文面は上記の通りです。
 重慶の白酒と台北の牛乳、どっちが元ネタとか、あるのかも知れないし、ないのかも知れない。東京神田・神保町で見かけた中国語教室のポスターもあなたは“美”しか語れないか?などと謎めいた問いを中日併記で発していて、(背中がキレイなお姉さんも含め)ちょっと好きになってしまうタイプです。
 料理店のメニューや「Native Chines」「Basic Chinese」のポスターと並んだ「あなたは“美”しか語れないか?」の語学教室ポスター。百合の花を周囲に配し、白いチャイナドレスの背中ごしに振り返る美女のイラストが清楚にして妖艶。どっちだ。
(後日追記)謎めいたと書いたけど、美女を前に「き、キレイ…」以外の語彙力が欲しくないですか?みたいな意味かも知れない。

      *     *     *
 そんな短文がスパイスになった(?)映画を観た。
 台湾・台北・台北駅の南、予備校がひしめく南陽街。付箋に書かれたメモ一枚で去った元カノを追い、トランクひとつでやってきた青年タン(阿東)は癖の強い印刷店主に拾われる。いつか再会できるかもと淡い期待を抱きつつ、各校の試験用紙をひたすらコピー・箱を抱えてひたすら配達の毎日。そんな中、とある予備校の試験用紙に毎回、手描きの小羊のイラストがあるのに気がつく。
 受験生たちを励ますような、独り言のような短文が添えられた小羊のイラストを描いているのは、ややこしいんだけど小羊(シャオヤン)と呼ばれるイラストレーター志望の女の子。やはり恋人に去られた小羊(人)の、淋しいとショゲる小羊(羊)のイラストつきコピー原稿に「淋しいのは僕も一緒だよ」と狼の絵を描き加えてタンが遊んでいたら、修正液で消すつもりだった狼も一緒に大量コピーされてしまう。「何だコレ」「返事がついた」「羊と狼で仲良く出来んのかよ」「ホッキョクグマとペンギンは?」「誰にも食べられないゾウのほうが孤独よね」と意図せずバズって、ついには贋物の「オオカミ魯肉飯店」まで現れる始末…
 狼が羊に恋をするとき(公式/外部リンクが開きます)
 2012年の台湾映画。事情は後で詳述するけれど、12年後の今になって日本公開された作品が、個人的にはmy cup of (Chinese)teaと呼びたくなるような←そんな言い方あるのか?「めっけもん」でした。
 映画や音楽が私の好みではないけどと遠回しに断る表現にnot my cup of tea(悪いけど私のお茶じゃなかったわ)というのがあるようだけど、notがつかない肯定形ってアリ?(たぶんない)。白磁の中国茶器の写真を添えて。
 ベージュのコートを見かけると指にルビーのリングを探してしまう寺尾聰のように(古いなあ)街を行く女性がみんな元カノに見えてしまうタン。100数えたら待つのをやめると言いながら、元カレを待ち続ける小羊。彼らだけではない。コピー仕事の合間にタンが引き受ける(店主に引き受けさせられる)人助けは、行方不明の愛犬探しだったり、1314(中国語だと「一生愛す」と読める)のメッセージが残ったポケベルの持ち主探しだったり。
 予備校を満杯にした受験生さながら、愛を失ない、次の一歩を踏み出せず宙ぶらりんな人たちの吹きだまりとして、映画は台北の街を優しく描き出す。それでも受験生の予備校通いが必ずどこかで終わるように、宙ぶらりんの日々にも次のステップへの出口があると、ある者は自覚し、ある者は気づけないまま(元カノが心残りなつもりで実は小羊を愛しはじめているタンとか)…
 
 …いかん、紹介がまとまってしまった。
 忘れてしまう前に語りたい人物や場面が沢山あるのだ。女の子たちに大人気の、実はワケありイケメン炒飯売り。殺到する注文に「私が勤める塾と契約すれば顧客が○○倍に」と割り込んでくる銭ゲバ娘。一見ワンマンだけどテストに無関係な小羊のイラストを許しつづけてるあたり人がいいかも知れないカリスマ塾長。いかにもギーク(機械オタク)然とした短髪メガネの携帯ショップ店員(たち)。なぜか屋台で乾麺(汁なし麺)を商っている牧師(いや「なぜか牧師をしている乾麺屋台のおじさん」なのか?)。犬猫への愛情が深い女性たち。世界有数の人口過密都市らしい狭苦しい室内。ズラリと並んだスクーター。深夜のコンビニ。夢遊病のようにさすらう、眠れない人々。まだシャッターも開かないビルの前、地べたに座り込んだ新聞売りたちが居並ぶ夜明け前。

 箴言めいた短文に話を戻すと、個性的な人々の中、とりわけ濃ゆい印刷店主が格言好きらしく…あるいは彼に限らず年配者全般なのだろうか、狭苦しい(←二度目)店内のあちこちには諺や仏典由来らしき標語が貼られ、物語の最後までアクセントをつけ続ける。古式ゆかしいフォーマルな格言と、小羊の即興のつぶやき、新旧の箴言が交叉する交点に、狼のヌイグルミ帽をかぶった主人公が立ち尽くしているようだ。
 
 あとは小羊と狼のアニメーションを始め、コミカルなファンタジーが生活感あふれる現実描写と融合した作風が、吾ながら「ああ、いかにも自分の好みだ」と思ったことを付記すべきだろうか。(この項目は来月になったら消す→)人に勧める要素としては逆効果っぽいので言いにくいけど、今ちょうど自分が公開してる短篇まんがが「この作品を描いた人は、この映画を気に入ってます」ドンピシャなのでした。
 これは映画とは関係ないんだけど首尾よく南陽街を脱出した学生が通うかも知れない台湾大学のそばにあったOTAKUショップの看板。90年代ぽいアニメ絵に「緑林寮」という分かる人には分かる名前(分からないひとは検索だ)2019年再訪の時点で台北の日本OTAKUブームは少し退潮を感じさせたのだけど今はどうなのかな…

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 配給元は台湾映画同好会。自分にとっては思いがけない良作だったとはいえ、2012年の映画がどうして今…と思ったら、そもそも「日本未公開・権利切れ映画の自主上映を行う」団体らしい。
 自己紹介 小島/台湾映画同好会(外部リンクが開きます)
 代表の小島あつ子さんは書店本事 台湾書店主43のストーリー』(サウザンブックス/外部リンクが開きます)邦訳クラウドファンディングの発起人でもあり、細い糸ながら前々から自分は知っていたことになる。
 左;『狼が羊に恋するとき』ポストカードと、右;『書店本事』書影
映画配給の公式サイトがnoteなのも異色だし、映画館でパンフレットとして売られていたのが440円の実質リーフレットだったのも「同好会」感が満載で、いや、軽んじたり馬鹿にしているのではない。良作であれば12年前の作品でも日本初上映にこぎつける・大がかりなプロモーションなどなくても成し遂げられるのは、興行収入や観客動員数・まして経済効果≒要は「いくら儲かった」とGDPだか株価だかで量れる経営学や経済学の物差しとは別の「豊かさ」だろう。
 来週(この映画のために来週に延びました)18きっぷの話題でも蒸し返すと思うけど「GDPや平均株価で量れるのとは別の豊かさがある」…白酒のラベルやイチゴ牛乳・答案用紙に添えるには、ちょっとポエジーが足りないか。

 せっかくなので別の台湾映画で有名なクーリンチェの2019年の姿など…(クーリンチェと書かれた標識がある街角・日本式と思われる二階屋・自由に持っていってよいらしき街頭本棚・肉圓。)
 『狼が羊に恋をするとき』東京(下北沢)・横浜では終映したけれど、名古屋・京都ではコレからなので行けるひとは是非(公式サイトを参照)。

哲学の実践〜米山さんの部屋『アランの言葉から』(24.11.06)

 YouTubeで毎日更新されている『アランの言葉から』を少し駆け足で追いかけて、最新回にようやく追いついた。
米山さんの部屋(YouTube/外部リンクが開きます)
 20世紀前半=後半に実存主義や構造主義・現代思想の嵐が吹き荒れる前の(古き良き?)フランスの哲学者・アランの思想を毎回7〜8分くらいに分けて紐解く動画シリーズ。大仰な字幕もケレン味もなく、学校の授業や講義・あるいは授業や講義が終わった後の研究室での茶飲み話のように穏やかな、淡々と進む話はこびが心地いい。いや現実には、試されているような緊張感から逃れられず、実在の「先生」と打ち解けることなど(少なくとも学生時代には)ついぞなかった自分には、遅れてやってきた第二の学生時代のようで得がたい体験。落ち着いた年齢になってから放送大学に挑戦する人の感覚に近いのかも。
 おそらく自分のアンテナの張りかたが拙くて、こうしたタイプの音声コンテンツに中々アクセスできないので(世に流通するものは文芸かビジネス・自己啓発書の朗読といった感が強い)現状では貴重な体験でもある。NHK教育のラジオとか、もっと聴けばいいのだろうけど…
 「手のひらを上に向け、手をいっぱいに広げ差し出す時には怒っていられない」情動は理性と密接に関わる。理性で制御できない時は身体の形(所作)を変えることで間接的に制御できるとアランは言う(13:情念と理性)…というキャプションに、その通りのポーズを取り(桜を見る会…?)と顔をこわばらせる羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラストを添えて。(桜を見る会の安倍晋三のポーズに似てるのです)
 ↑上のカットで文字を青くしてた時に思い出したけど、そういえば夜の灯を青白くすることで駅のホームからの飛び込みを少なくできたという話もある。一般向け著作として名高い『幸福論』を実は読めてないのだけど、身体のほうから精神を制御していく話はアランの真骨頂という印象がありますね。

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 たとえば27日目の講義。人間嫌いは他人の反応を気にしすぎ傷つくことを極度に恐れることから生じる(すごく大雑把な理解)としたうえで、ではどうしたらいいのか。「ひとつの可能性ですが」「難しいですけど」と断ったうえで米山先生は言う。
「見返りを求めれば裏切られます。見返りを求めれば、敵を愛することなどできません。見返りを求めれば隣人愛などおそらく存在しないでしょう。だからこそアランはですね、彼自身はカトリックの信仰をほとんで捨てているにも関わらず、博愛(フランス語のシャリテ)は人間嫌いに陥るまいとする一種の誓いであると述べているんですね」(27:人間嫌い)
 90年代に人気を博した漫画『MASTERキートン』(勝鹿北星/浦沢直樹)の、ナチスの空襲を受け壊滅したロンドンの学校で「屈せず学問を続けよう」と老教授が人々を鼓舞するエピソードは、ネットミームのように好まれ引用される。けれどそれを吾が事として引き受け、自身が学問を実践しつづけることは難しいのかも知れない。まして学問で得た知見を天上や別世界におかず、日々の行動に取り入れていくことは。
 いわゆる人気動画とは程遠い再生回数も気にかけないかのように、「米山先生」が講義を進めるさまは、まさに「見返りを求めない」で、解説する哲学と自身の実践が乖離していない。すごいなあと(大学などでの講義の人数を思えば、これが普通の感覚なのかもですが)いや、自分もかくありたいと素直に敬意を抱くのですが、以下は動画から離れた話。

 調べるとフランスの三色旗でも知られる革命のスローガン「自由・平等・博愛」の博愛はフラテルニテで、シャリテはcharite(最後のeにはアクサンテギュがつきます注意)たぶん英語のチャリティと同じ意味でしょう。慈愛などという訳語で、アランはシャリテのほうを重んじているようだ。
※ちなみに先月の日記で紹介したデリダ『友愛のポリティックス』の友愛はamitie。めんどくさい。
 人と関わるのが煩わしい(amitieに馴染めない?)・自分と異なる人の意見にクヨクヨ思い悩み、人を恐れ人を憎む人間嫌いが、それでも人類全般を嫌いにはなるまいとチャリティに走るのは、実はよくあることではないか。他ならぬ自分が実例なので分かりみが強い(可哀想)。
 狭義の人間嫌い(対人恐怖)とチャリティは両立しうる・後者は前者の克服には必ずしもなりえない。そう考えたとき頭に浮かぶのは、いつの間にか覚えた遠人愛というタームだ。近しい隣人への愛ではなく、もっとも遠い者を愛するのが超人への道だというニーチェ『ツァラトゥストラ』の用語らしい。何度も引き合いに出しているサマリア人の喩え(新約聖書・ルカによる福音書10章25節)は、つまりニーチェが言う遠人愛・もしかしたらアランが言うシャリテにも近いのではと思われるのだけど、ちょっと話を走らせすぎか。

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 創作や芸術に関わる話も多くて、個人誌や同人誌など作ってるひとにも(まだ皆コミティアで頑張ってるのかなあ)オススメできると思いたい。
「芸術家は、どう見ても一つの目的を追求しているかのようだが、その目的を実現し、自分で自分の作品の観客となり、最初に驚く者となった後でなければ、当の目的を認識できないのだ。いわゆる表現の幸福とは、このことに他ならない」(37:アランと実存主義)
 創作まんがも(少なくとも一次創作においては)描いてみて初めて「こういう話だったのか」と分かる部分はある・とゆうかソレがないと描いても達成感に欠ける。『野火』などで知られる大岡昇平の「僕は別に文学を書きたかったわけではなく、ただ知りたいと思っていただけでした。しかし文学は一体書かれずに知れるものだろうか」(孫引き)という言葉にも、アガンベンが回りくどい彼にしては割とストレートに述べている「芸術家の幸福」(今年2月の日記参照)にも通じる話ではないでしょうか。
 短めの日記ですが、小ネタに収まる短さでもなかったので、こうして一項目を立てました。おーしまいっ←口調が移ってしまった…

    ***   ***   ***
(24.11.08追記)40回目の講義で思い出したのだけど、フランスの大学で哲学を教えていたアランが出した「女性が橋の上から飛び降りて死のうとしているのを説得して停めなさい」という試験問題に、「僕と結婚してください(と言う)」と書いて合格した若造が後に作家・フランスの文科相になったアンドレ・マルローだったという逸話がありましたね…すっかり忘れてたし、そういうのが「気の利いた話」だったのは吉行淳之介(さんあたりのエッセイなんかを面白がって読んでた世代)くらいまでで・今時なら「キモっ」と一刀両断かもなともいう気もして、どっちの世代の感覚も理解できる自分は「一身にして二生を経る」思いなのでした。

(追記の追記)「米山さん」の講義だとアランの設問は「停めろ」ではなく「橋から身投げしようとする女性と哲学者の対話(を想定して書け)」というものだったようなので、マルローも「結婚してくれで説得しようとする哲学者の小説」を書いた、が逸話の真相だったのかも…などと妄想したりもしましたが、今「アラン/試験/橋/マルロー/結婚」あたりで検索をかけても、それらしいエピソードの一つもかすらず。ネットは万能のように思われるけど、手に入らないものは手に入らない。

誰のための生産性〜山本義隆『リニア中央新幹線をめぐって』/フレッド・ピアス『ダムはムダ』(24.11.17)

あの犬は他でもない俺に吠えたんだろう
 幽霊でも見たように
人間は誰も気づかないほど
 一瞬なスパークが 見えたんじゃないかな
「なあ あんた スローダウンしろよ 速度を落とせ
 馬鹿が スローダウンしろ 速度を落とせって」

 "The tourist" Radiohead
 (イスラエル国家の非人道的政策に「寛容な」トム・ヨークの現状を支持はしませんが、25年前の詞は今だに使い勝手が良いので引用。あまりにも目まぐるしく移動するのでスパークしか、それも犬にしか見えないという旅行者の歌です)

    ***   ***   ***
 今年6月の日記にも書いた、しらばっくれたまま廃止ではと騒がれた夏季の販売アナウンス遅延も前兆だったのだろう。JRは青春18きっぷを廃止に追いこみたいようだ。
 新たに発表された今冬からの仕様変更は、従来「5回」普通列車が乗り放題で「4日間の長旅と1日の日帰りに分けて使う」「一枚の18きっぷを5人が共同で使い一緒に日帰り旅行する」といった応用が利いたものを「5日または3日」「一人だけ」の日を空けない連続使用に限ると改変するものだ。
 上記と同じことを視覚的に図表化したものです。
 自動改札機を通すようになれば、毎回わざわざスタンプを押し・スタンプを確認する駅員の負担が減る。「みどりの窓口」漸減も影響しているのだろう、いつも改札口横の窓口に行列が出来ている現状を思えば(18きっぷも自動改札を通したいのは)理解できる。自動改札だと日を空けての使用や、まして一枚の18きっぷで複数人を通すことは技術的に難しかろうというのも分かる。
 ただし「だとすれば、18きっぷ自体を普通列車一日乗り放題の切符5枚セットとして売り出せばいい」だけの話だ。いや、そう考えると逆に従来の18きっぷが如何にベラボウな大盤振る舞いだったかも分かる。
 カギは「経営者目線」という言葉・観念・概念だ。
 机上の空論だし今回の主題からも逸れるので畳むけれど、 18きっぷ存続によるJRの損失は売上の0.5〜1%未満。(クリックで開閉します)。 いずれにしても「18きっぷがなければ」旅行回数じたい減るだろう、あるいはJRではなく高速バス等の使用に走るだろうなど都合の悪いことは考えない皮算用だ。とにかく今回は深く追及しない。
 むしろ気にかかるのは「18きっぷは、それほど安いか?」という逆説だ。
 運賃だけで見ると一日乗り放題で2300円は安い。だが移動に時間がかかり、それが複数日に及べば、行った先で宿泊費が発生する。食事もいきおい外食がちになり、それらは旅先の各地に落ちる。もっと言うと、新幹線なら日帰り一日で済む旅行を二日や三日かけてすることは、その時間で働いていれば得られた賃金を棒に振るということだ
 「経営者目線」で言い直す。18きっぷなんかを思う存分に利用された日には、社会全体の生産性が下がる。交通費が変わらなければ多少時間がかかっても、大都市から少し離れた小さな街の宿を選好する旅行者は少なくないだろう(エビデンスは僕)。途中下車が自由なら「せっかくだから」と食事や観光・買い物の機会が広く薄く分散され(東京から名古屋に行く間に静岡で地元ローカルの「さわやか」でハンバーグを食べるとか)非効率的だ。そして日数をかけた旅行じたい「国民」の生産性を下げる。よく言われる「時間がある時はお金がない、お金がある時は時間がない」の前半は、経営者目線では許されないこと、なのだろう。まるでミヒャエル・エンデの寓話に登場する灰色の男たちではないか。fitter, happier, more productive(より適応し、より幸福に、より生産的に)―これもトム・ヨーク(レディオヘッド)の一節だけど。
 
 資本主義の利潤はすべて生産者からの・生産工程における搾取だとカール・マルクスは説いた。それで計算が合うならそうなのだろう。けれどポスト資本主義・プラットフォーム資本主義(23年9月の日記参照)の現代は、消費の現場からの搾取・収奪が目立って見える。左記の日記にも書いたことは改めて蒸し返しはしないが「より生産的で・効率的であれ―消費においても」という圧力は強まる一方だ。
 18きっぷの利用が、使用者にとっては非効率的で無為な時間の浪費であり(そこがいいんだよというのが本サイトの立場ですが)食事や宿泊・各種サービスの提供者にとっては広く薄い利益の分散であるとするならば。対極にあるのは高速・超高速の移動手段をフル活用した「タイパ」のいい消費、特急・超特急が停車する大都市に集中した効率のいい(そしてハイコストで画一的な)消費だろう。
 ハイコストでハイパワーな都市への集中と、都市をつなぐハイスピードな交通手段。吾々(おっ久しぶりに「吾々」が出たね)が強いられ・あるいは自発的に参与する「強い経済」は20世紀に推し進められ、一度は反省されたはずの資源浪費や環境破壊を、再度「それでも構わない」と推し進めるバックラッシュでもある。長くかかってしまったが、これが今回の日記(週記)の主題だ。

 『磁力と重力の発見』(2011年11月の日記参照…この頃の日記は短くて良かったなあ…)などで知られる山本義隆氏。近年は原発批判などの発信も際立つ彼が近著リニア中央新幹線をめぐって 原発事故とコロナ・パンデミックから見直す』(みすず書房/2021年/外部リンクが開きます)で挙げるのは、物体の移動に必要なエネルギーは速度の二乗に比例するという基礎的で覆せない事実だ。
 数式K=1/2mv^2。Kはエネルギー、mは重量、vは速度。^2(二乗)がポイント、と指さす羊帽の女の子(ひつじちゃん)。
 速度が倍になると衝突した時の衝撃は(二倍ではなく)四倍になる。交通安全の指導などでも言われることだ。時速60kmの自動車がぶつかると30kmでぶつかる四倍の衝撃がある。単純に考えて、時速600kmを公言するリニア中央新幹線は、時速300km弱な従来線の四倍以上のエネルギーを浪費する。
 もちろん事はそう単純ではない。モーターを回してレールの上を走るのと、超電導の磁力で走るのでは摩擦など異なる要因もあるだろう。だが超電導の路線は全体を常に帯電させておく必要があり…細かいことは端折るが、結局「倍ではなく四倍」という浪費の規模はそう変わらない。非現実的で環境に多大な負荷を強いる地下トンネル敷設を措いても、リニア中央新幹線は高コスト・高エネルギー消費の怪物で、その電力供給が原発再稼働と直結する可能性は極めて高い。「それでいいのだ、高いエネルギーコストを消費して高い生産性をあげる路線で今後もますます行くのだ」という路線が、人類的に許されるとは思えない。ここ数年、18きっぷで旅行するたび「もう夏の旅行は無理だ」と痛感させられた、その体感からも思う。これ以上のエネルギー消費は、社会の存続そのものを不可能にする。

      *     *     *
 ここから『V』(2020年12月の日記参照)のトマス・ピンチョンが1984年という意味深長な年に書いたエッセイ「ラッダイトをやってもいいのか?」に繋げるのは、さすがに話を広げすぎだろうから控えたい。
 世界最初のハッカーは19世紀アメリカのハッカー・べリーフィンという少年で、彼が筏で自身と奴隷ジムを逃がす行為がテクノロジーの脱法的利用=ハッキングと呼ばれた…という(ちょっと苦しい)ジョークも話だけにしておこう。
 河を背景に魚が跳ねる網を背負ったハッカー・べリーフィンと、さらに奥・空中に投影されたコウモリのマークを背負ったバットマン(マークとウェイン)のイラスト。

「すべてのエネルギーは多少なりとも政府の補助金を受けている。(中略)発電にからむ環境保護上の負担をすべて需要家が支払うことになれば、省エネルギーがいままでよりもはるかに、あらゆる種類の発電所新設にまさる魅力的な代替策になることだろう」
「いずれにしろ、われわれは電気がほしいのではない。電気がもたらすサービスがほしい。灌漑システムにしても、水がほしいわけではない。生産される食物がほしいのだ。」

 フレッド・ピアスのルポルタージュダムはムダ 水と人の歴史』(原著1992年/平沢正夫訳・共同通信社1995年/絶版―紀伊國屋書店の外部リンクが開きます)は一見ふざけた邦題だけど、実は原著の題名も「THE DAMMED」…the damned(忌々しい・神に呪われた…ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画のタイトルでは『地獄に堕ちた勇者ども』と邦訳されてました)とダム(dam)を引っかけた駄々洒落で、方向性としては忠実な訳。そして軽い表題に相反して、ちょっと人類に絶望したくなる厳しい内容の書物でもあった。オススメです(こらっ)
 『ダムはムダ』書影とキャプション:実は出てすぐくらい?から数十年読みそびれ
だった『ダムはムダ』。当人の精神的状態もあったんだろうけど想定外・予想以上に落ち込まされました…
 本書の主張はシンプルで・太古のほうが人類は水を上手に活用していた・その知恵を無視した近代西欧の技術至上主義が生活も環境もダメにした、となる。
 たとえば地中海沿岸の段々畑は山腹に仕方なく、ではなく、むしろ「大雨の水が急斜面を流れ落ちて、豊かな土壌をさらっていくことのないように」「山腹に小さなダムのような段をいくつも」作る積極的な選択であったという。「エジプトはナイルの賜物」で知られるように、エジプトに限らず多くの地で、河川の定期的な氾濫に合わせ耕作地の位置すら変えながら、流れてくる豊かな土を利用した農耕が行なわれてきた。
 年によって耕作地が変わっても人は生き、収穫できるが、資本は毎年の収量を算定・計画できる平野の画一的な耕作地を求めるだろう。もちろん、より多くの収量・より多くの売上もだ。さらに水力を利用した発電という収益が求められる。そして巨大な水利設備は、その建設自体が国家の威信となり、巨益を生む事業となり、時宜に適わぬお荷物となっても事業として自走を続ける。本サイトで何度も何度も引用しているドナルド・『誰のためのデザイン?』・ノーマンの警句「原発が危険なのは(放射能のせいではなく)大きすぎる規模のせいだ」は、原発に比べればエコと思われる発電ダムにも残念ながら当てはまる。

 自然に合わせた農耕がもたらす富は必ずしも潤沢ではなかったろう。近代の豊かさと利便に慣れきった先進国の住民に、ダイレクトに昔に戻れると説くのは欺瞞でもある。これも本サイトで何度も引用しているはずだが「灰色の男」を批判したエンデですら「私たちはもう水洗トイレのなかった世界には戻れない」と言っているのだ。
 それでも「われわれはサービスや食物を停めたいわけではない。過剰なエネルギー消費や、さらにその絶えざる拡大を求める経済を停めたいのだ」と言うことは出来るだろう。先々週の日記になぞらえて言えば、観客動員数ナンバーワンを更新するのでなく、良作であれば12年前の台湾の映画が、あるいはインドネシアやパキスタンの映画が(もちろん日本で作られる小規模な映画も)観られる・選択肢の幅という形の豊かさもあっていいはずだ。

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 これは極端な例かも知れないが、自分が18きっぷを使う楽しさを知ったのは、メンタルを損ねて「絶えざる拡大と成長」の経済からドロップアウトしてからだ。それまで旅行の楽しみ自体、ほとんど知らずにいたと言ってもいい。何処に行っても・何処まで行っても基本料金は変わらないと思えばこそ、駅ビルもない東北の村をてくてく歩いて仏像を拝んだりした。大分の別府を深夜に出たフェリーの中、始発電車が出るまで松山港で二等船室にゴロ寝して朝を待ったこともある。
 上の畳んでる中でも引用している青春18きっぷ研究所(外部リンク)では「国民170人に1人が年に1度は利用している」計算になると概算で算定している(算の字が多すぎますね)。同じ人が春夏冬フルで利用していれば170×3=500人に一人と「密度」は一気に下がるが、いずれにしても。
 170人に一人だか、500人に一人だかは、18きっぷという扉で「消費すら効率的・生産的(そして画一的)であれ」という要求を一旦降りている。あるいはより積極的に、日頃ない形で世界(まあ日本国内ですが)と「接合」しなおしている。
・接合について参考:私の「生」・ゾウリムシの「性」―樋渡 宏一(JT生命誌研究館/2019年/外部リンクが開きます)
 別の170人だか500人だかに一人にとって、扉は登山かも知れない。編み物かも知れない。ボードゲーム、スパイスから作るカレー、数学や語学かも知れない。人には「まだ居たんだ」と言われるようなバンドを追いかけること・まんがを描いてコミティアに出ること・あるいはスマホを脇に置いて本を読むことかも知れない。
 もちろん一人が複数の扉を持つこともある。むしろ多いのではないか。5時間も10時間も続く旅程の中で、これはと思った本を読みふけるのは18きっぷ旅行の楽しみのひとつだ。
 窓横に天然水のペットボトルを置いた、車窓からの眺め。左右にレールが走る駅ホームからの眺め(左手の線路には貨物列車のコンテナが並んでいる)。夜明け前、雲間に光る白い月の画像。
 エネルギー問題にまで風呂敷を広げてしまったけれど、要は扉の一つを閉じてほしくない。それらの扉は多くの場合、社会の中で「つらたん」「もうダメだ」と思ったとき・「お前など要らん」「消えてなくなれ」と大きな声に言われたときに、人を現世につなぎとめてくれるものだから。

 18きっぷの半分を使って到達した先で腰を落ち着け、二泊や三泊くらい過ごしてから帰路につくのも佳いものですよ。連続使用しか出来ない改訂版では、それも出来なくなる。
・署名:JR旅客6社に対し、「青春18きっぷ」を従来の制度に戻すよう要望します。
 (鉄道が好き!/change.org/24.10.24/外部リンクが開きます)
に賛同しました。

    ***   ***   ***
(同日追記)「企業収益が高水準にあり、個人消費や設備投資は上向くなど持ち直しの動きが続いている(ので)我が国経済はスタグフレーションと呼ばれる状況にはない」と結論づける内閣府のレポート(2022年/外部リンクが開きます)を目にして、そっと溜め息をついている。先の総選挙でも各党が「強い経済」を訴えたけれど、その「経済」が企業収益や株価であるかぎり、それはもう個々人の生活とは乖離した観念…強い言葉でいえばファンタジイであり、そこを立脚点に不況ではないだの経済が強いだの言われても、そうかいこっちは別の扉を開けるぜとしか言えないんじゃないかな。

『知恵の樹』と燃える船〜選挙の後に(24.11.24)

 さいきん読み終えた鶴見俊輔戦時期日本の精神史 1931〜1945年』(親本1982年→岩波現代文庫2001年/外部リンクが開きます)に「ぐぬぬ」と唸ってしまう箇所があった。イギリスでは第一次世界大戦の時には130%上がった食料の値段が、二倍ほど長い期間にわたった第二次世界大戦では20%の上昇に抑えられたというのだ。「政府からの補助金がなかったとしても、その増加率は五〇%にすぎませんでした」(「戦時下の日常生活」)…たった一年で日本の白米って倍・つまり100%ほど値上がってません?戦時並み・戦時以上の主食高騰が平時に起きる国って何?
 ※永井荷風の戦中記録に基づけば、1943年の日本では一年で米価が250〜400%高騰したそうですが…

    ***   ***   ***
 アメリカ大統領選の逆転劇を見て、これは兵庫県の出直し知事選も…と危ぶんだ人も少なくなかったのではないか。かくて懸念どおりとなった今、思うところを少し整理しておきたい。
 つうて今年の夏の18きっぷ旅行、電車の中でTRUMP 2024の赤いキャップ帽をかぶった自分と同年代くらいのオジさんを見かけたりした(挿し絵つき)ので、二つの選挙結果を喜んでる人も当然いるんだろうけど、そういう人たちを良い気持ちには、あまりできない本サイトです。
 世の中すごい勢いで変転してるので(この文章をアップした日の晩には名古屋市長選が開票され「はい次はこっちー」と市井の関心は移るかも知れないし、移らないかも知れない)備忘のために書いておくと、海の向こうとこちらで「好ましくないと名指されていた候補がSNSやショート動画の力で逆転勝利した」という構図だ。アメリカの場合は民主党への失望が回復されなかったことも大きいけれど、同時にイーロン・マスクがX(旧Twitter)を私物化してのプロパガンダも本来は無視できない要素だったはずだ。
 とはいえ、分析から感想まで既に十分すぎるほどの言葉が発せられてるようだし、本サイト的にも前々から言ってきたことの答え合わせ・いよいよ来るところまで来たかという伏線回収の段階なので、新たに書き起こすことは実は少ない。
・フェイク・トゥルースについて書いた2019年9月の日記と、
あと今の自分のやるせない気持ちの表明として
・引き返せないポイントはずっと前に通過しているものだという16年6月の日記へのリンクを貼っておけば十分だろう。

 十分だろうと言いつつ話を広げるのですが、前者(19年の)の末尾で少しだけふれた「この惨状はたぶん言語の運用法を間違ったために生じた」の話をしたい。
 2016年にイギリスの新聞だかが選定した「今年の新語」が、フェイク・トゥルースと同義のpost truthだった。ドナルド・トランプが一度目の勝利をキメた年だ。
 当時の自分のツイートのスクリーンショット→最近ずっと、この国は政治の真ん中がおかしくなってないか、言語運用とかのレベルで壊れてないかと呟いてきたのが、トランプ当選でようやく「あ、日本だけが特別ではないかも」と目ウロコだった処にPost Truthという語を知らされ、世界的な問題なのだと改めて暗澹とするなど。
言語運用のレベルでおかしい、というのは国会答弁でデタラメを連発し、しかもそれを閣議決定で正しいことにしてしまう第二次安倍政権への憤りが主燃料だったのだろう。けれど、そもそもの元ネタは、少なくとも自分の場合は別にあった。
 ウンベルト・マトゥラーナフランシスコ・バレーラの共著知恵の樹 生きている世界はどのようにして生まれるのか』(原著1984年/管啓次郎訳1987年→ちくま学芸文庫1997年/外部リンクが開きます)は、オートポイエーシスという生物学の新理論を提示した画期的な書物…という触れ込みなのだけど。
 キーボードの傍らに置いた『知恵の樹』書影。
 強く印象に残ったのは難解な本文ではなく、訳者あとがきに記された同書の成立経緯だった。
 「一九七三年、アジェンデ社会主義政権にたいする軍部のクー・デタによって、チリは凄惨な混乱に陥った」自らも亡命を余儀なくされた二人の著者たちは、代わって祖国の支配者となった独裁者ピノチェトの恐怖政治の原因がまちがった認識論にあると考えるようになったというのだ。
 別のところでは、二人の発想はむしろアジェンデ時代の自由な空気から生まれたとする紹介もあるようだ。それは正鵠を射ているのかも知れないし「フェイク」なのかも知れない。いずれにしても生物学の新理論が社会への異議申し立てから生まれた・それも社会の不正が「まちがった認識論」に起因するとした…という物語が自分に与えた影響は大きかったのだと思う。
 『知恵の樹』自体は難解な書物で、とくに外界から切り離され内部でループを描く生命が、どう他者とつながり社会を形成していくか説いた後半の飛躍が咀嚼しきれないまま今日に至るのですが(かわいそう)
 自分が最終的にSNS(Twitterや代替)から距離をおくようになったのも、認識というか言語活動の「運用まちがい」への違和感が強くなったからとは言える。何度も何度も何度も言ってる「記憶を紙で・暗算を計算機で外部化したように、(自分で)考える脳のはたらきをリツイート・リポストで外部化してしまった」にとどまらず、色々と考えている。今回の二選挙の結果は、まさにSNSの「まちがった」機能が遺憾なく発揮された結果でもあったとか。
 無名や匿名の賛同者が悪意ある偽情報を拡散・選挙結果まで動かしてしまったの、このところ本サイトで積極的に言及している「他人どうしの共同体」のグロテスクなパロディみたいでもあり何か自分の発想にもつけこまれる隙がなかったかと考えてる処…というキャプション。ぐぬぬとなってる羊帽の女の子(ひつじちゃん)の挿し絵を添えて
 とくに兵庫で、二大政党とか大統領とか(あるいはイーロン・マスクとか)巨大なプロパガンダ装置ではなく、見た目「草の根みたい」な中心の見えにくいムーブメントがこぞって選挙結果を覆したの、この分野ではまだまだ世界のトップランナーかも知れない日本という厭な感慨を新たにしましたな…

    *   *   *
 別に『知恵の樹』を読みなさいねという話をしているのではなく(自分だって読み切れてないものを安易に推奨できませんて)
社会へのアプローチには迂回した道もある(ピノチェトのせいで生物学の新説とか)
なにげない一言や一節が心に残りつづけ、思考の方向性を決定づけることもある
という話をしている。人は言葉で思考するのだから、善かれあしかれ言葉の影響は決定的だ。
 
 他ならぬ彼女が言ったので、という「箔」がつかない人にとっては凡庸に響くかも知れないが、写真家ダイアン・アーバス(1923〜71)がメモに残した「燃える船」のイメージも鮮烈だった。
船が火事でゆっくり沈んでゆくのを、わたしは知っていました。みんなもそれを知っているのに、明るく踊り、唄い、キッスして浮かれ騒いでいます
 今やすっかりミームとなった映画『シャイニング』の双子(厳密には双子ではないのだけど)の元ネタになった、モノクロのポートレートを撮った(参考:【作品解説】ダイアン・アーバス「一卵性双生児」Artpedia/2019/外部リンクが開きます)アーバスは、実はキューブリックが映画に転身する前にカメラマンとして勤めていた雑誌社で彼を指導した先輩で、『シャイニング』の双子(双子ではない)は後輩が捧げたオマージュでもあった。
 フリークスと呼ばれるような人々や性的マイノリティといった社会のアウトサイダーを撮りつづけたアーバスは、自身も鬱と困窮に悩まされ、件のメモの数ヶ月後には自らの船を燃やしてしまう(比喩)。
 そのメモに続きがあると知り、驚かされたのは数年前のことだ。船は燃えているのに、みんな浮かれている…そんな絶望的な記述は、こう続いていた:希望はありませんでした。でもわたしは恐ろしいほど興奮していました。撮りたいものがなんでも撮れるのです
 彼女の捨て鉢のような「興奮」が、今は分かるような気がする。
 厳密に、そして身もフタもなく言ってしまえば「燃えた」のは彼女ひとりで、世界はその後も50年以上つづいている。それでも今は、今だからこそダイアン・アーバスの捨て鉢な「興奮」が分かる。
 船は燃えてるのに皆は浮かれている。希望はない。けれど自分も、やりたいことは何でも出来る。もちろん実際に何でも出来るわけではないけれど、描きたいものは何だって描けるし、読みたい本は何だって読める。たしかに今「恐ろしいほど」自由なのだ。

 横浜の自宅から鎌倉駅まで徒歩だと約6時間、帰りは電車に乗るとして、往路は歩けない距離ではない。
 と言いつつ最初に挑んだ時は手前の大船で引き返し、二度目に鎌倉駅に到達した時は日没後でカレーを食べてすぐ帰るしかなかった。三度目の正直で今回は16時前に現地到着、前回は寄れなかった古本屋も二軒ほどは回り、最後は由比ヶ浜に出て江ノ電沿いを長谷駅まで歩くことまで出来た。
 既に真っ暗で何も見えない由比ヶ浜・フラッシュ使用で一面の砂浜が見える写真・帰りに乗った江ノ電の写真。
 新刊書店のたらば書房では文庫クセジュから出ていたルネ・ジラールの解説書、古書くんぷう堂では未読だった丸谷先生のコラム集、そして公文堂ではミシェル・フーコー『監獄の誕生』の状態のいい古本を入手←レジで現金が足りなくて「すみません今日は見送ります」って返したあと近くに信金を見つけて三千円だけ下ろして買いに戻ったりした(笑)
 「#ちゃんと読みますから」というキャプションつき書影。左から丸谷才一『無地のネクタイ』・オルスィニ『ルネ・ジラール』・フーコー『監獄の誕生』・書店のフライヤー「たらば通信」。
さっそく『監獄の誕生』を読み始めてます。強い関心を持ちながら、今生では読む機会はないかもと諦めかけていた本だったので、まさに「読みたい本がなんでも読めるのです」という喜びがある。
 少なくとも僕が生きてきた期間では、こんなにも人の世が限界を露呈した時はない。兵庫の選挙は公職選挙法違反などが言われて今後まだ二転三転するかも知れないけれど、同じようなことが国内の別のどこかで起きて、次はみんな慎重に立ち回るとは到底思えない。底が抜けちゃったんだもの。改憲発議でもされたら「ふつうの日本人」は当面ひとたまりもなかろう。
 だからこそ、これから起きる全てをカメラ代わりの目に収められる。なんで世の中はこんなことになってしまったのか、迂遠なアプローチでも読みたいもの全て読み尽くせる。ヤケッパチかも知れないけれど、今以上に自由であるべき時もまた、そうそうない―ネガティブだかポジティブだか分からないけど、ストレートな現在の所感です。(そう思うならますます鋭意まんがを描けって話ですよねえ)

    ***   ***   ***
 望みはない!だから自由だ!で終われば統一感ある日記(週記)なのに、公正を期すために反対側の天秤にも錘を載せてしまうのが本サイトの惰弱なところで、「こうなったら何でも出来る」に「あきらめ悪く社会に関与しつづける」が含まれることも否定しないのです。レベッカ・ソルニットなら「まだ家に帰る時間じゃない」と言うところ(先月の日記参照)。
 宮城県の県立医療センターを名取市から移転しないでという署名は賛同したことも忘れていたのだけど、たぶん隣接する仙台市の、社会運動にも積極的な古本屋さんの拡散で知ったのだろう。名取市の閖上には東日本大震災のあとボランティアに行った縁もあって、署名のことも気にかけたのだと思う。
 その活動が実を結び、移転が白紙になったという報告をメールで(もちろん一斉配信だけど)いただいた。
篤く御礼申し上げます(青木もらん/change.org/24.11.23/外部リンクが開きます)
あらためて確認するとネット署名じたいは千筆に満たないもので、当然、他の地道な働きかけが大きかったはずだけど、すごく小さな一助になれていたのかと思うと、ささやかでも手を動かして良かったと思う。自分が何かすること・したことを無意味だと性急に決めてしまうのも、また、傲慢なことなのかも知れない。主催者のかたの「ときには嫌になってさぼったり、ぶらぶらしたりしながら(中略)自分たちのペースでしつこくねちこくやってきた(中略)小さな声でも、動かないとされたものを動かすことが出来るという、一つの証明になれたら嬉しいです」という言葉(出典/外部リンク)に敬意を表したい。

小ネタ拾遺・24年11月(24.11.30)

(24.11.01)夢の中でホワイトボードに描いていた楽描きを起きて20分で。「札ビラのビラって何
 森の中にある、札束で出来たコテージ。波打つ金髪に白いワンピースのお嬢様が「ようこそ私(わたくし)の札VILAA(さつヴィラ)へ」と差し招いている
11月。深夜3時。また寝ます。

(24.11.02)「迷星叫(まよいうた)」「壱雫空(ひとしずく)」「無路矢(のろし)」「影色舞(シルエットダンス)」などなどトリッキーな難読を究めてきた(それでいて「栞」は「しおり」なの本当にトリッキー)MyGO!!!!!の楽曲タイトルですが、新曲「霧周途」を布施明に引っ張られて「ましゅうこ」と誤答した人はたぶん昭和世代。(正解は「ミスト」だそうです)

(24.11.03→07)前回2020年・トランプが下野した時の選挙で「(これで)アメリカという制度は最終的には秩序を取り戻す」の後いちおう「失敗すればアメリカは崩壊する。それだけのことだ」と一文だけ保険を掛けておいたのが(21年1月の日記参照)掛け捨てにならなかった悲しみ。それだけ同国の分断は深いということか。
 選挙の終盤、民主党の応援に起用され今めっちゃ叩かれてるハリソン・フォードがスピーチで「カマラ・ハリスとティム・ウォルツ(中略)の政策すべてに賛成なわけじゃない。二人が完璧だとも思わない(中略)でも二人は法の支配を信じている。科学を信じている」と語った「法の支配」と「科学」とくに後者をトランプ政権と支持者たちがどう遇するか。アメリカで最も脱炭素に積極的な州知事と呼ばれたウォルツが敗れたの、20世紀から21世紀への節目で気候変動対策を訴えたアル・ゴアがブッシュJrに敗れた再現のようで、んー、ゴアやウォルツの環境対策が「完璧だとも思わない」けど、今夏(10月第三週くらいまで「今夏」だった気が)の酷暑を思うと…
 …今はハリス陣営のまずかった点ばかりが(トランプに批判的な層でも)強調されてるけれど、トランプ2024で得られなかった「たられば」(当初は期待されたのにハリス陣営が選挙途中で手放してしまったものも含め)を惜しむ気持ちが強い。その「たられば」(人権とか環境とか)を求めるコンフリクトは続くのだから。あと、どうやら向こうでも起きている「オールドメディア」を蔑視しながらSNSやショート動画には容易く煽動されてしまう傾向も。で、その「新しい」ネットメディアはAI多用で原発再稼働を要求…

(24.11.04)まあ選挙権もない海の向こうのことで思い悩む義理もないんだけど、アメリカが今後こうなると危惧されることの一部(もしかしたら根本的な部分)が、海のこちらのこの国では政府与党と多くの国民・そして何なら最大の労組までもが支持するマジョリティの政策・生き方として実装済みかも知れないことは、さらに深い憂慮に足る。
ケイト・ブッシュが自身の過去曲にどう見てもガザを想定した反戦アニメを載せた新作ビデオを公開してて、それをYouTubeで眺めた後すかさず入るのが、かつて日本で有数の花形だった気がする女優が往年カンフー映画の手垢のつきまくったパロディで消費者ローンを宣伝する広告動画で、目的が違うのだから比べるものではないとはいえ、彼我の落差がしみじみ哀しい。
(24.11.30追記)件の宣伝広告、最新作は来日観光客を小馬鹿にする感じで当の消費者ローンのキャッチフレーズをリピートアフターミーさせる内容で、なんかますます頭が痛い。

(24.11.08)【署名】「帰る国」のない若者の永住許可を取り消さないで!(永住許可 有志の会/change.org/24.10.9/外部リンク)
これは参考に:日本育ち外国籍の20歳女性、8日にも強制送還 うつ病で在留資格喪失し収容、入管の対応に「人道配慮欠く」の声(東京新聞/24.11.6/外部リンク)
「こうしたケースでは、国連の関連機関である国際移住機関(IOM)から、帰国後の住居探しや家賃の援助、職業訓練などの支援を受けられる。しかし、女性は「入管に、IOMの支援を受けると二度と日本に入国できなくなると言われた」といい、支援を断ったという。IOM駐日事務所の担当者は「支援を得たから再入国が不利になることはない」と説明。支援者らは、入管が女性を早く帰国させようと虚偽の説明をしたとみて問題視している」(記事本文より/強調は引用者による)
あなたは次のどちらが「自分だ」「自分の仲間だ」と思いますか?と訊いてみたい気はしますね。1)強制送還される女性 2)入管の担当者。…3)大リーグで活躍する日本人選手?

(24.11.09)読書週間も今日で終わり、ということで本にまつわる本を一冊。点滅社という小さな出版社が編んだ鬱の本(2024年/外部リンクが開きます)は84人が寄稿した「鬱にまつわる本」をテーマにしたアンソロジー。多くは当事者で、鬱の時に自身をつなぎとめた本について述べてます。未病のひとも、眠れない夜などに。
 『鬱の本』書影と買った「本屋 象の旅」(横浜市)の紙袋・中華街で買った台湾の飴ちゃん(びわ&ソルト風味)。
ちなみに自分は、寄稿者のひとり谷川俊太郎さんが言うところの「気が滅入ることはあるが、それが鬱まで行かない」に「あ、自分」と思った現状なので、まあ大丈夫といえば大丈夫です。ただし詩人が「ので、我が晩年は呑気に明るいと続けてるのに対して、自分は6:4か7:3で「ぼんやり暗い」し、時々は大きな黒い犬が首元までやってきて息を吹きかける感じに陥ったりしますが、それは今日ではない。大丈夫。(※強烈な鬱や念慮に飛びこむ元気すらない、という気もしますが…)(黒い仔犬が絶えずまとわりついてる・または「小さな緑の車輪がついてまわる」感じかなあ)
 左:巨大な黒犬にのしかかられてる自画像・右:「絶望ワン」「絶望ワン」と周囲を駆け回る黒いパピヨン犬を「あーはいはい」と適当にいなす自画像。
 (追記)谷川俊太郎さん、亡くなっちゃいましたね…

(24.11.16)それはそれとして今年も(初日出遅れたけど)おにぎりアクション完走。
 おにぎり写真44回分

(24.11.17)おにぎりアクションの精進明けでもないんだけど(別に44日、毎食おにぎりだったわけじゃない)翌日は横浜中華街で肉圓と豆花を食べてきました。どちらもモノホンの台湾名物で、口にした途端、本場の肉圓や油飯・小豆が乗ったかき氷や潤餠・夜市やら街頭やら地下街・車窓・四回ほど訪れた台北周辺の記憶がワーッと甦って「マドレーヌかよ!!!」と内心でツッコミを入れていましたとさ。食べ物が記憶のトリガーって本当にあるんですね。
 中華街の夜景をバックに豆花と肉圓の写真

(24.11.20)おにぎりアクションが終わったら次はカレー三昧よね!という心境を見透かされたかのように−下の画像は今夜つくった普通の豆カレー(市販のルウ使用)なんですけど−
 自作の豆カレー。コロッケをトッピング。
Web拍手経由で400以上のレシピが掲載された本格スパイスカレーの電子書籍(無料)を御紹介いただき「すげー」とパラパラめくっている処。具体的な書名などは実際に何か作ってみて、成果が出た時点で共有しようかと思います。今月末をメドにした宿題です(追記:翌月以降になります)。まずは御教示の御礼まで。

(24.11.13)BTSのファンはARMY、ピチカート・ファイヴのファンはピチカートマニア。人間椅子のファンは檀家、Ave Mujicaのファンは共犯者。トマカノーテ(スパスタ三期)のファンは(嘘注意)
 「カスタマー」で良いのでは?(限られた出演時間でカスタマーの満足度を最大化するのです)と言い放つ鬼塚妹に「うわあああ、言ってることは正しいけど何か違うよ冬毬ちゃん!」と狼狽する澁谷かのんのイラスト

(24.11.22)「頑張って生き延びましょうね」というのは、実は必ずしも果たしえない(というか長期的には誰も果たしえない)約束なのだけど、逆に「生き抜く」は仮に途中で倒れても不履行にはならない誓いなのかも…などと考えてしまうのは、昨年まさに「生き抜いた」櫻井氏のためかも知れない。※国語的には異論もありそうな考えなのは認めます。
新メンバーを迎えることなく、ギタリストふたりのツインボーカルで制作されたBUCK-TICKの新曲。欠落は欠落のまま残った四人で生き抜く(それって実質、五人で生き切ると同義じゃないか)選択に名状しがたく打たれている。
BOYS & GIRLSを煽りたてるサビが、「女の子男の子」と唄った「スピード」へのセルフアンサーのよう。
 

(24.11.14)「パキスタン映画」「トランスジェンダー」というキーワードふたつに惹かれて観たジョイランド 私の願い』(公式/外部リンクが開きます)一分の隙もなく丹念に描かれた力作でした。観賞中なんども「家父長制 IS UNKO」という感想が脳内をよぎったのは、人類学の学士号も持つ監督の狙いそのものだったようで(いや監督は「UNKO」とまでは言っていませんが、公式サイトの監督ステートメントなど参照)。家父長制が誰も幸福にしない・なんなら家「父」と呼ばれる者すら幸せにしない、けれどまず劣位に置かれた女性たちを・そして男社会を降りたい男性を「幸せにするものか」と苛むさま・を・コレでもかと描きながら、叶わずとも求めずにいられない自由や希望を目映(まばゆ)く提示していました。
 射落とさんとした的は違うけど、たとえば『PLAN75』(22年6月の日記参照)に射ぬかれたひとには、こちら(ジョイランド)もオススメです。横浜での上映は11/22まで(シネマ・ジャックアンドベティ/外部リンク)ですが、これから上映の劇場も(首都圏ふくめ)まだまだあるので是非。「マララ・ユスフザイ」「リズ・アーメッド」が上映を後押し、というキーワードで惹かれた人も。

 (24.11.23)『モンキーマン』は『ジョイランド』と同様に(インド文化圏で「第三の性」と呼ばれる)ヒジュラーが展開の大きなカギとなる映画だった。(とくに白々しくも現代的・先進的を自称する社会で)急速に進むトランス差別へのカウンターの意味合いもあるのだろうと思う一方、多数派が少数者に自由や反逆の夢をロマンティックに投影しすぎることへの懸念もあり…しかしどちらも敵(悪)の社会的な造形に仮借がなく果敢でした。
個人的には『ジョイランド』のが好み。急速に薄れつつある記憶頼りで間違ってたらゴメンナサイだけど、主人公夫婦が映画前半・それぞれ別の場で「停電の危機をスマートフォンの光で切り抜ける」機転を見せるのが(やがては固陋な社会に叩きつぶされてしまう)二人の絆を示してるようで愛おしかった。(というかモンキーマン、日本だと評者として起用されてるのが格闘家や芸人・叩きつぶす側な差別ラッパーとかで中々ガッカリ…届くべき人にはもう届いてる映画だと思うので、公式サイトとかは貼りません…未見で関心ある人は本サイトなどに惑わされず観て各々で見定めてね…)
 いや『モンキーマン』ラスボス対決の鏡の演出が『燃えよドラゴン』のオマージュとか、娯楽作品としても念の入った映画なんですけど、下にある「涙を流す人間の顔」から敢えて目をそむけ「痛快な暴力エンターテインメント」のマスクしか見ないのも…というキャプションに、猿のマスクの下で涙を流す主人公のカットを添える。
 『モンキーマン』のラスボス、言行不一致ぶりが怪物めいてて凄かったですね…最後、主人公が丸め込まれちゃうんじゃない?くらいの怖さがありました。

(24.11.24)『ジョイランド』ネタバレなのでたたむけど(クリックで開閉します) というエピソード、ああいう制度(かつて日本にもあった)では実は結構あることかも知れないと思ったのでした。そうした互いへの敬意に基づく絆が、あの映画でのように圧殺されてしまうことも。逆に旧ソ連を舞台にした映画で、男性は自由恋愛で互いに惹かれあったつもりで結婚したのに妻のほうは「あなたのように強い立場の人間を断れるわけなかった」と怒りを募らせていた事例もあり、板子一枚下は奈落かもですよ(モンキーマンの感想と合わせて、こちらを今週のメイン日記にしたほうが良かったのでは…)

(24.11.29)兵庫県知事選がらみでPR会社という語が連呼されてて思い出したけど無関係な話。ハリウッドなど外国映画のエンドロールでスタッフに日本ルーツらしき人名を探しては「よしよし、異なる土地に根づいてるね」と満足するのが自分の数少ない愛郷心の発露なのですが(?)、基本インド映画らしくて(撮影はインドネシア)流石に無いかなと思っていた『モンキーマン』で最後の最後に配給関連でDENTSUの文字を見て複雑な気分に。
 インドネシア発のアクション映画で度肝を抜いたイコ・ウワイス主演の『ザ・レイド』(もう13年も前なのか…)も監督はウェールズ出身で劇伴の音楽はリンキン・パークのマイク・シノダが担当とか、コンテンツの魅力一本で世界がグローバルにつながる自体は、それがプラットフォーム資本主義に回収される危うさも含めて興味ぶかいなと思ってます。
 ちなみに『モンキーマン』(DENTSU以外にも)VFX担当でサトウ・スミスさんが居ましたね…後で確認したらオーストラリア在住のクリエイターで『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』の映画なんかにも関わってるみたい。

(24.11.26)『監獄の誕生』有名なパノプティコンとかで囚人を「管理」するより前の、前フリの段階で既にめっぽう面白い。18世紀の拷問をともなう死刑=「身体刑」がスプラッタ映画ばりに残虐を極めたのは、法に逆らう犯罪で王の権威も挑戦を受けたという観点から→罪人を完膚なきまでに粉砕できる王の力を改めて誇示する必要があった・直接の被害者より王の復讐だったと説明される(雑な理解注意)のを読んで、いちおう分かったつもりでいたフーコーの権力概念:かつての王権は民草の「死を司るが、生のほうは勝手に生きるに任せた」のに対し近代の生権力は労働力としての国民の「生を管理するが、死ぬほうは勝手に死ぬに任せる」だという定義の前半=「王権は民の死を司る」が改めて体感(?)できた気がします。

(24.11.27)日曜価格とはいえ小ぶりのキャベツひと玉500円はビビるて。安い日・安い処でも400円。こちらは特価だった小麦粉で、久しぶりにお好み焼きでも…と思っていた予定を変更、手元にあったニラとタマネギで急遽チヂミに。これはこれで幸せだけど、うーむ。
 画像右下から時計回りにチヂミ・胡麻が浮いたチヂミのタレ・具が見えないけれどキムチ仕立てのお味噌汁・実が見えないけれど緑豆ぜんざいココナッツミルク仕立て・お茶。
(同日追記)逆にしばらく高値だったパプリカが近頃お安くなってるので喜んで使ってます。

 生き延びれるかは分からないけど、生き抜きましょうね。
 息抜きも挟みつつ。また来月。

 

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