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色のついたお金〜マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(上)(24.06.02)

 「悪魔と契約を結んだ者は、うなるほどの金を手にするが、その金は贅沢品にしか使えない。バター、サングラス、上等なシャツ、酒…」
 南米コロンビアの言い伝えに「最初バターなんだ?」と首をかしげて見せつつ、文化人類学者タウシグは自ら種明かしする。
「黄金色でなめらかで、固体とも液体ともつかないこの物体には、欠かせないものがいくつかある。冷却設備、健康な乳牛、酪農家、そして温暖な気候」…国土が赤道を横切る暑い土地、ましてプランテーションの支配下に置かれ「まともな飲み水はおろか、下水設備もないような」細民たちの世界では、なるほどバターは贅沢の象徴に相応しいのだ。

 ま、バターの話は措こう。おおおと思ったのは「うなるほどの金は、贅沢品にしか使えない」という部分だ。
 悪魔との契約も一旦は措こう。五月の連休で実家に帰ったとき、大谷選手が出ている大リーグの試合をテレビで観ながら、ふと「自分が大谷翔平やレディー・ガガだったら、宝石もリムジンも要らないから最初の一年・なんなら半年くらいでサッサと引退して、後はアパート暮らし+つましく自炊+図書館で本を借りて残りの一生『遊んで』暮らすのになあ」と思いついて「でも、そういう発想の人間はたぶん最初からレディー・ガガみたいにはなれないんだよね」とセルフつっこみを入れるまでワンセットだったのを思い出した。※ちなみに大谷選手はわりと「こっち」に近い性格らしく、練習とゲームくらいしかしないので「セレブに相応しくない」と少しずつ贅沢をするよう矯正されている的な話を実家で聞いた。
 より小規模に言うと、時給の高い仕事に転職すれば差額でどんどん貯金できそうなものだけど、気忙しくて外食が増えたり、ストレスで胃薬や頭痛薬の摂取が増えたり、ちょっといい職場にはちょっといい洋服で出勤しなきゃいけなくなったりで「収入の増加と連動するかのような支出の増加」に気づかされたりする。
 「お金に色はついてない」と言うけれど、「悪銭、身につかず」とも言う。実はお金にはわりと色がついていて、荒稼ぎしたお金は豪遊に、プチセレブな収入はプチセレブな贅沢品に、収入のランクに応じて支出のランクやレイヤーもなんだか決められてしまいがちなのでは、ないだろうか。
 もちろん、収入が増えれば、それに見合った支出が「したくなる」こともあるだろう。それも含め。
 そもそも大谷翔平やレディー・ガガに天文学的なギャラが支払われるためには、彼や彼女ひとりではない多数のスタッフが巨大なメカニズムとして動いている。そこで得られた巨額のマネーは高級ブランドやセレブリティな誇示的消費に「正しく」使われなければいけない―そうやって狭い階層の「経済を回す」―そのためにお金を渡してるのだから。そう考えると、ポストモダンだの新自由主義だの鼻を高くしている吾々の経済活動も、南太平洋のクラ交換と存外あんまり変わってないのかも知れない。
 キャプション「何度も言いますが南太平洋のクラ交換では貰った宝物(貝の飾り)は、貰ったら次の相手にあげなきゃいけないし、そうして回覧板みたいに回せば回すほど宝物としての価値が高まる」と、貝飾りを手にした「ひつじちゃん」が「持ってちゃダメ早く手放して!」と言われ「宝物なのに?」と問い返し「宝物だから!」と言われてるイラスト。
 大企業からの不適切な献金で得た裏金も、選挙区での不適切なバラマキにしか使えないとしたら、与党の代議士たちが(実際には億単位の私財も掠め取り、高級料亭で酒を呑んでいる結構な御身分は忘れて)俺たちだって裏金を自分のためになんか使えてやしない・政治には金がかかるんだと不平顔でいても不思議はない…だんだん話が、一旦は措いた「悪魔との契約」に戻ってきた(笑)

 コロンビアの農村で「悪魔との契約」という伝説が生まれたのはサトウキビやトマトなど商品作物のプランテーションを経営する大資本の参入によって、それまで樹木から得られる果物などで食べるには困らなかった自作農が破壊された1970年代だという。貧しい者たちの中に、悪魔と契約して、とつぜん他の畑の何倍ものサトウキビを一年で収穫する成り上がり者(という説話)が出現するようになった。だがその畑は涸れ果て、翌年から作物が育たなくなる―そして得られた悪銭は貯蓄にも投資にも回せず(「家畜を買ったところで、痩せて死ぬ」)、贅沢品の浪費に蕩尽されてしまう。
 もちろん一方で、えげつない稼ぎを一代限りで終わらせず、贅沢や浪費の世襲化に成功した階層もいる。コロンビアの例で言えば元から大農場の主として君臨しに来た富裕層がそうだろう。成り上がりが固定化すれば財閥・貴族・王族になる。でも、悪魔の裏をかいたつもりの人々の中には、国まるごとを「二度と作物が育たない」涸れた土地に変えてしまう最悪クラスの愚者もいる。いや、今のままでは、とくに地球環境のこと(ああ、バターよ…)を考えると、悪魔が貸し付けた「ぼろもうけ」の取り立てから逃れられる者はいないのかも知れない。

 セレブリティに支払われる巨額のギャランティは、巨額をやりとりするセレブ業界のシステムが与えるものだから、すみやかに高級ブランドやグローバル投資などに循環されなければいけない―いっけん動かしがたい世界の法則のように思えるけれど、それらのお金が元々は、たとえば高級ブランドの服を縫う下請けの下請け・最下層の労働者からの吸い上げ(搾取)の積算だと思えば、もっと循環の枠を大きく取って、セレブリティは世界で最も貧しい人々に直接ギャラを還元しても良い気がする。実際に(もちろん豪邸や高級ブランドは維持しながらとはいえ)寄付や福祉に自身の富を還元させる篤志家もいる。
 「こういうメカニズムで社会は動きがちだ」は「それはもうメカニズムなので動かせない」と必ずしも全一致ではない。逆手に取って、風穴を開ける余地はあると思う(昨年11月の日記など参照)。
 キャプション「今週のまとめ:(1)お金には実際に色がついていて上層のお金は上層だけで循環しがち(2)でもそれは下から吸い上げたものだから本来は下まで循環すべきだったのでは?(3)それが出来ないから悪魔に捕まるのでは?」そして「(4)自分は文章をまとめるのが下手だなあ…」と液タブペンを片手にぼやく舞村さん(仮名)。

 マイケル・タウシグヴァルター・ベンヤミンの墓標(原著2006年/金子遊+井上里+水野友美子訳・水声社2016年/外部リンクが開きます)は「未開」と呼ばれる社会に見出せる呪術的な思考が、実は(彼らを未開とさげすみ合理的と自賛する)資本主義・新自由主義の現代社会をもドライブしていることを示唆する巻き返しの書。後篇に続きます。

爬虫類の脳〜マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(下)(24.06.09)

 【これまでのあらすじ・または今回のまとめ】
 20世紀の人類学は、近代社会から見下されてきた非西欧の部族社会が「遅れている」のではなく「別方向に進化」したのだと証することに賭けてきた。無文字社会が神話や社会構造そのものにコンピュータに劣らぬ精緻な構造を実装してきたとするレヴィ=ストロース。かれらは国家文明に「至れなかった」のではなく、その弊害を避けるため意図的に「国家となることに抗した」のだと論じたクラストル。
 21世紀の(?)タウシグは逆に部族社会を駆動する呪術的な原理が、合理的・理性的を自称する現代社会をも支配していると話を巻き返す。
 キャプション「(1)細菌や恐竜は人類に進化できなかった奴ら(笑) (2)いや、それぞれ別個に進化した種で優劣ないよ?からの(3)てゆか人類、脳の中枢に爬虫類が残ってんじゃん という展開に似ているかも知れません…」に、簡略な線画の舞村さん(仮名)の脳の真ん中・大脳辺縁系(爬虫類の脳)を示すイラスト。
 ヴァルター・ベンヤミンの墓標(原著2006年/金子遊+井上里+水野友美子訳・水声社2016年/外部リンクが開きます)は「叢書:人類学の転回」の一冊。どこか特定の地域や集団の習俗や生活を丹念に調査したモノグラフではなく、そこから導き出される理論や観念を、書物やアート・時にはファッションやそれこそセレブリティなど広く(悪くいえば節操なく)題材に加えて総合的に思索するタイプの書物で、はっきり言って自分はそういうの大好物なので危険!危険!と警戒しつつ愉しく読了。
 先週の日記で取り上げた悪魔との契約の話も興味ぶかかったけれど、本書のメインは「嘘はどこまで嘘か」「秘密とは公然の秘密ではないのか」という「欺瞞」をめぐる思索でした。

 彼が取り上げるのは南米、アフリカ、それにアジア…世界中で見られる、神がかりの特殊技能者=シャーマンによる病気の「治療」。具体的には治療者が患者の腹部に手を突っ込んで、血だらけの石やら何やらの「病巣」を取り出してみせる。昭和終盤のオカルトブームでも超能力者の透視やスプーン曲げと同じカテゴリで「心霊療法」などと呼ばれていた、このパフォーマンスを、真摯な人類学者たちはトリック・ペテンだと看破してきた。
 だが同時に、人類学者たちが報告するのは「シャーマンの手法の大部分が見せかけであることは、それに関わる者たち全員がよく承知している。それにもかかわらず、シャーマン本人、その患者や友人も、シャーマニズムを信じている(フランツ・ボアズ/強調は舞村)という矛盾した事実だ。多くの証言と自身の調査をもとに、タウシグは言う。トリックではないかという疑念は、むしろ呪術に必須の要素ではないかと。

 「未開の」愚かな人々がトリックに過ぎない呪術を素朴に信じていて、その虚偽を合理的な近代人が暴くのではなく、呪術を信じる人々も、それがどうにも疑わしいことは半ば承知しているのだ―そう考えたとき「未開」の人々と、「合理的な」現代人との境界線は消える。
 非運の思想家ヴァルター・ベンヤミン(19年2月の日記参照)。ユダヤ人として迫害された彼が山越えに失敗し死を遂げたピレネー山脈の中腹に設置された墓標の下に、その遺骨はないという(共同墓地に移されてしまったのだ)。だがその「まやかし」は、聖地としての価値を減ずるものだろうかとタウシグは問う。あるいは(無文字社会で)成人男子のみが参加を許され、女性や子どもは何をしているか知ろうとすることすら死をもって厳しく罰せられる「とされる」儀式が、実際には何をしているか女性たちも概ね知っているものだという話はどうか。同じような「公然の秘密」を、タウシグは現代のNYPD(ニューヨーク市警察)に見出してみせる。
 キャプション「また師匠(私淑)自慢になっちゃうけど、戦争中に岩波文庫のフレイザーを読んで「ここで書かれてゐる呪術的な王つて、今(戦争中)の天皇と同じぢやないか」と思っていた(徴兵におびえる)学生時代の丸谷才一先生、「未開」を扱う人類学を独力で「現代の自社会」に適用してたんだなあと…ま、天皇が現人神だった「現代」ですけど。」+本棚を背景に岩波文庫をひもとく「ひつじちゃん」のイラスト。
 「わたしは(中略)ミシェル・フーコーの侵犯と告解をめぐる議論に必要不可欠な対比をくつがえしたいという誘惑にかられる」とタウシグは語る。本当は本当・嘘は嘘・秘密は秘密と素朴だった「昔」に対し、教会での告白=「秘密であることを保つために公言される必要のある秘密」を基盤にした「近代西洋のセクシュアリテ」は近代西洋の「人間」を生み出した、近代西洋に固有のものだとフーコーは説いたが、その「公然の秘密」という様式は「クワキワトルのシャーマニズムと完全に一致している!」
 もとよりキリスト教世界でも(イエスの受肉と復活という最大級の「疑わしいこと」を前に)「不合理ゆえにわれ信ず」などと言う。
 フーコーの晩年の盟友だったポール・ヴェーヌ(22年12月の日記参照)が『ギリシア人は神話を信じたか』という題名だけで頭がぐるぐるしそうな書物で、現代人だって実際に見たことのない北京の存在を「信じてる」じゃないかと指摘しているように。タウシグは「未開」と呼ばれる人々の「非合理的」とされる「トリック」が、合理的とされる現代人の行動様式でもあると看破することで、人類学という学問を前近代という軛から解き放つ。

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 そして「秘密とは、公然の秘密である」「嘘ではないかという疑念は、むしろ呪術を強化する必須要素である」と説く彼は、そうした必須の欺瞞が「本当は本当、嘘は嘘でなければならない」世界秩序への侵犯であることを重視しているようだ。そのことで彼が(インドのカースト制やアフリカの女性器切除まで)すべてを秩序の枠に納めようとするレヴィ=ストロースにも対立し、また(侵犯の重視という観点から)ニーチェやバタイユに親近感を表明している(らしい)ことも、不勉強な自分が今後より解像度を高めていくべきトピックとして心に留めておきたい。
 幽霊が消えるように透きとおりながら涙を流す自画像にキャプション:「ようだ」とか「らしい」とかどうにも煮え切らないのはひとえに不勉強だからよ…
 コロンビアの農村からジャネット・ジャクソンのステージまで縦横無尽に思索を撒き散らかす本書には、不勉強な自分が「そういう風に考えればいいのか」と改めて思い知る、定義のような断章がしばしば現れる。
 たとえば「ものごとの外観の背後にはさらに奥行きのある不思議な現実が横たわるという感覚(中略)その現実を、ここでは宗教と呼ぶことはしないが、聖なるものと呼びたい」という一節は、(当人は呼ばないと言ってるけど)なるほど「結局のとこ、宗教って何?」と問われた時の回答にピッタリだ。※多くの自称「聖なるもの」が示してみせる「背後の不思議」がいっこう奥行きがなく薄ぺらなことは措く。
 あるいは「わたしが“経済”という言葉を使うときには(中略)商品、価格、生産、流通、そして交換のみを表わすのではなく、合理的な思考法の総体を表わしている」「経済とは(略)限りある手段を合理的に配分する科学だ」(強調は舞村)という一節は、デカルトやニュートンによる科学革命が社会に投影されて資本主義を生んだのではなく、逆に効率性という経済的な発想が科学革命を促した可能性、を考えるヒントになる(産業革命は蒸気機関などの道具よりまず人間を機械化したというフェデリーチの指摘―昨年10月の日記など参照)。そして何をするにも―なんなら眠ることでさえ「これだけ回復するにはこれだけ眠らなければ」等々コスト感覚=「合理的な配分」で考えてしまうこともまた、吾々が「経済」に全身を浸されてる証左なのだと、改めて思い知らせてくれる。
 この経済的な思考の外に出ることは、とても難しい。
 それでいて、吾々は非合理的で前近代的な蕩尽や侵犯・贈与の論理にドライブされてもいる。

 僕の見るところタウシグは、人々が経済に浸されてることも、逆に公然の嘘に侵犯されていることも、世界はそうなのだからと全面的に受容しているわけではないと思う。
 本書が書かれた時点で彼はどうやらアメリカに住んでいるようだが、9.11後の世界でなお、「テロとの戦いにおいて経験している恐怖」として彼がベンヤミンの受けた迫害になぞらえて想起をうながすのは(テロの標的を自認するアメリカや、それを模倣した日本ではなく)自国内に要するグアンタナモ湾で直に、そしてエジプトやシリアに「外注」する形で、アメリカのほうが拷問を加えている服役者たちのことだ。
 そして文身や性器切除など「未開」的な身体への執着・を理性が克服したはずの現代で「妊娠中絶、同性婚、ES細胞研究、安楽死、コンドーム、(略)経口避妊薬(略)の販売への盲目的なまでの反対(しかしバイアグラに関してはこの限りではない)(略)が、アメリカの選挙で多くの票をかせぎ、全世界のゆくすえを決めていること」(強調は同上)を「悲痛」と呼ぶ彼は、身体に関する人類学の知見を現代に適用する必要を訴える。
 現代文明に抗するオルターナティブとして相互扶助や反権力・自然との調和といった善なる資質を非西欧社会に求めて理想化するのではなく(トキシックな現代を解毒するために、そうした操作も必要だとは思うのだけど)、呪術やトリック・身体的な強制や妄想的な恐怖といった無文字社会のダークな資質が現代文明にいわば裏口から持ち込まれ、人々を支配する道具になっている様態を暴く―タウシグの思索には、そうした新しい?役割を人類学に担わせていこうという気概が感じられる。
 思い出したのはシオドラ・クローヴァーの『イシ』(今年3月の日記参照)で語られていた、金鉱目当てにカリフォルニアを侵略した白人の側が(平地先住民の慣習を模倣して)殺害した先住民の頭皮を剥いで記念品にしていたという逸話だ。経済的合理性や効率主義を自称しながら、人はいくらでも呪術的に(あるいは「野蛮に」)なれる。ナチスのオカルティズムにアメリカの福音主義・日本の政治家のカルトとの癒着など、再考すべきなのかも知れない。
 『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』書影にキャプション:「お金がすべてなはずの資本主義やネオリベが、不合理な国粋主義やカルト・オカルトと親和性が高いのなぜなんだぜ」の謎に食らいつく手がかりがまたひとつ…
 …本当はベンヤミンの墓標に、呪医たちの心霊療法に、嘘=悪とも言い切れない・憎みきれない魅惑も感じているらしい、タウシグの(あるいは人間存在そのものの)複雑さは上手く拾えなかった。あまり良い要約ではなかった気もする。関心のある人は各自で探究を。

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 「お前ココでソレ言う?」な余計ごとだけど人間が「半信半疑で信じてる」ことには初詣の御利益や心霊療法だけでなく「人間は平等だ」みたいな信念も含まれる可能性がある。「人間は平等だというアイディアには何のエビデンスもないが、世界を変える力を持っていた」(セオドア・ローザック/要約)。それくらい今回の話題は是非を安易には決められないということ。

アポカリプスなう〜『最後の物たちの国で』『ボーンシェイカー』「リセット」『パブリック 図書館の奇跡』(24.06.16)

 ポール・オースター、大きな書店では特設コーナーを作って追悼特集してますね…自分も有言実行で(先月の日記参照)再読しましたさ最後の物たちの国で(原著1987年/柴田元幸訳・白水社1994年→1999年/外部リンクが開きます)。海の向こう―ヨーロッパから見たアメリカか、あるいはその逆か―現代文明も行政機構も崩壊し、窮乏下で遺体さえリサイクルに供出しないと罰せられる極限状況の地に、消息を絶った新聞記者の兄を追って渡った(ミイラ取りがミイラになった)アンナ・ブルームの物語。

 いま読み返すと意外にふつうの話だな…と思ってしまうのは、時代が、と言うより僕自身の世界認識が(他の読書や現実社会での出来事を経て)本作に追いついてしまったからだろう。
 もちろん昔・たとえば1980年代も世界は終末感に包まれていた。ノストラダムスの大予言に惑星直列・ファティマ第三の予言、そして環境破壊や核戦争の恐怖。村上龍は海の向こうで始めた戦争というカオス&殺戮を『コインロッカー・ベイビーズ』の結末で豊かに閉塞した日本に招来し、マッド・マックスが、北斗の拳が、AKIRAがポスト・アポカリプス(文明崩壊「後」)のYou are shock!な暴力世界を紙や銀幕やブラウン管の上に繰り広げていた。けれど、そうではなくて。
 冷戦の終結によって、米ソが核ミサイルを撃ちあうアポカリプスがとりあえず回避され、未来は良くなる一方ではないかと思われた直後から「そんなことはない」やがて来る大リセット「後」のカオスではなく、アポカリプスは世界のいたるところにあったし現在形で今もあるという認識が静かに・あるいは荒々しく世界に割りこんできた。たとえば、本の背を留める糊まで剥がして食べる対独戦争下レニングラードの極限の窮乏を描いたベニオフ卵をめぐる祖父の戦争』(13年4月の日記参照)。戦争に負けたドイツ側の無法状態を描いた深緑野分の『ベルリンは晴れているか』。『ザ・ボーダー』で作者のドン・ウィンズロウを直接ではないけれど小説家引退まで追いつめた中米麻薬社会の荒廃(23年6月の日記参照)。そしてウィンズロウを直接に追いつめたのは「中米の荒廃って結局(自国)アメリカのせいじゃん」という認識だったけれど、そのアメリカが全面的に後ろ盾している、現実のガザでの無法の数々。今世紀に入って世界の各都市で起きた蜂起と鎮圧。恒常化した権力の無法。それにもちろんパンデミック―
 「これは現在と、ごく最近の過去についての小説だ。未来についてじゃない。『アンナ・ブルーム、二十世紀を歩く』―この本に取り組みながら、僕はずっとこのフレーズを頭のなかに持ち歩いていた」本作を1970年代から構想しつづけていたオースターには、当時から世界(の少なくとも一面)がアポカリプスに見えていたのだろう。「僕らは食べ、ワインを飲んで 皆が楽しく過ごしていた―世界の終わりについて話す君以外は」というU2の歌の「君」のように。
U2 - Until The End Of The World(YouTube/外部リンク)
(ちなみにこの「君」は最後の晩餐のイエス、「僕」はイスカリオテのユダを歌っているという)

 言い換えると、世界が追いついてしまった今となっては、本作はそう突出した作品ではないかも知れない。まだパンとワインで楽しくやっている人たちの酔いを醒ますには、他にも多くの「ポストじゃなくて今がアポカリプスだよ」と叫ぶ作品が、何より現実がある(世界の終わりを語り続ける「君」に、たとえばグレタ・トゥーンベリを連想する人も多いのではなかろうか)。
 よし今回はここまで複数形の一人称「吾々」を使わず頑張ってるぞ!とドヤる舞村さん(仮名)のイラスト。(なに安堵しとんねん)
 社会も国家もリセットされた世界を描くポスト・アポカリプスの物語に対し、逆に国家が最強の権力で人々を抑圧するディストピア物語。その代表作であるオーウェルの『一九八四年』がそうであるように、『最後の物たちの国で』も設定やメッセージの辛辣さに反して描写からにじみ出るのは身の回りの世界を慈しむ書き手らしい丁寧な生活感だったりする―というのは著者の意図を汲まない心ない感想だろうか。『一九八四年』のチョコレートや丁子で味つけしたジン、蛇と梯子(イギリスのすごろく)、「僕たちはそのうち暗くないところで逢うことにしよう」という台詞がなんとも言えない詩情をかきたてるように―
 極限の窮乏世界を描いた『最後の物たちの国で』で、そんな世界にまだ図書館があって逃げこんだアンナ・ブルームがそこに住み着いた学者たちと奇妙な同居生活をはじめる展開に、ちょっと「何この夢小説」と思ってしまった(大変もうしわけありません)。図書館に住み着きたい。なんなら滅びた世界でなぜか生き残ってる図書館に住み着きたいというドリーム。
 ここで「いいよね図書館に住む話」と、主人公が図書館で本を読みあさるうち十年くらい経ってしまう『旅のラゴス』や、愛を求める野獣がおそるおそる恋人に図書室をプレゼントし大喜びされるディズニー版美女と野獣』などの話にもつれこみたい誘惑にかられるけれど、アポカリプスの話を続けましょう
 RPG風の選択画面「どちらにすすみますか?・アポカリプス・としょかん」を前に、とりあえずアポカリプスで…と選ぶ、甲冑に身を包んだ「ひつじちゃん」(いつもの羊帽子も金属のヘルメット風)のイラスト。

 『最後の物たちの国で』の(これは『一九八四年』にも通じるのだけど)どこかクラシカルな雰囲気で思い出したのが、シェリー・プリーストの『ボーンシェイカー ぜんまい仕掛けの都市』(原著2009年/市田泉訳・同年ハヤカワ文庫)。クラシカルなはずだよ舞台は19世紀・瘴気ガスの発生で街ぜんたいが封鎖され、ゾンビが跋扈する魔窟と化したシアトルを舞台にした局所的ポスト・アポカリプス小説だ。いや、そう分類するのはこちらの都合で
 『ボーンシェイカー』書影と、アメリカ西海岸のほぼ北端に位置するシアトルを示す地図。
普通に分類するとスチームパンクSFということになるのだろうか、西部劇×SFという意味ではダニエル・クレイグ×ハリソン・フォード主演の怪作映画『カウボーイvsエイリアン』に通じるかも。そして『最後の物たち』同様、こちらは(地下通路から)好きこのんで廃都の中に消え入った息子を追って、母親=女性主人公が(飛行船で空から)乗りこむ物語でもある。いわゆる「茶色いお弁当」のような地味さゆえか、当初アナウンスされていた続篇の邦訳は(短篇以外)途絶えているようだけど、単品としても楽しめる作品でした。

 昨年読んだ『保健室のアン・ウニョン先生』(昨年5月の日記参照)以来、気になって少しずつ読み進めているチョン・セラン。SFやファンタジー・伝奇的なモチーフを多用しながら「すこし不思議」くらいに位置づけてる作家なのか(そのわりにメトキシケイ皮酸エチルヘキシルみたいなヤツと罵ったり、アン・ウニョン先生の最後に出てくる呪物とか、妙にガチな気配があるな)と思っていたら、ゆるふわも書けるけどガチも書くSFの人だったらしい。声をあげます(原著2019年・斎藤真理子訳/亜紀書房2021年・外部リンクが開きます)はガチめのSFを集めた短篇集で、わけても人類滅亡の大危機を描いた「リセット」に驚いた。話せば長いしネタバレになるけれど(そして、まとめてしまうと「そういうの前から知ってるよ」となるかも知れないけれど)
 『アン・ウニョン先生』の上に重ねられた『声をあげます』書影。
すでにつらつら述べてきた、どこか遠い「ポスト」アポカリプスではなく、とっくに眼前に展開していた「アポカリプス・ナウ」を前提に、どうすれば世界の破滅を回避できるかを考察したディザスターSFなのだ。
 「生まれて以来ずっと生きてきた世界が揺らいでいると感じたときに手にする文学がSFだと思う」「SFは共同体の大きな変化について語る文学」とチョン・セランは語る(本書訳者あとがきより)。それは思想や哲学さえ、どうかすれば現実から乖離した内輪のゲームとなりがちな日本の言語環境には不足しがちな直接さで、「地球温暖化を本気で憂慮する世代のアポカリプスもの」には一読の価値があると思います。

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 今回はそっち方面には行かないよ、と言いつつ、やっぱり図書館ドリームの話もしてしまう。
 2018年制作・2020年に日本でも公開されたエミリオ・エステベス監督の映画パブリック 図書館の奇跡』(公式/外部リンクが開きます)は猛烈な寒波に襲われたオハイオ州シンシナティで、行き場をなくしたホームレスの人々が公立図書館に居座り・巻きこまれた司書たちも一丸となって一晩のシェルターを死守する物語だった。
 映画『パブリック』看板と、アメリカ東部・五大湖の南に位置するシンシナティを示す地図
人情味とペーソスに溢れた佳作で、人生の盛りを過ぎた(というか棒に振ってしまった?)男女の、セカンドチャンスありかな?と期待させる関係性も隠し味でちょっと好い。けれど今回の日記的には、たとえゾンビやターミネーターが闊歩してなくても、核戦争や宇宙人の攻撃で政府が粉々に破壊されてなくても―いやむしろ行政もメディアも正常に機能していると自称する社会で、住居を失くした人々が凍死しそうな中、宿もまともに与えられず締め出される状況もまた、局所的なアポカリプスと言えるのではないかと強調しておきたい。
 『最後の物たちの国で』も『ボーンシェイカー』も、対岸や周囲は法治で正常とされる中で、その正常さからネグレクトされたところで局所的にアポカリプスに押し込まれた人たちがいるのが怖い。そして現実の世界では物語の世界よりも更にえげつなく、自称正常な世界(社会)(国家)が局所的なアポカリプスの存在に加担している・むしろそれを繁栄の糧にしている疑いが生じてくるのがつらい。

 皆が楽しくワインを飲む中で、アポカリプスは今だと叫ぶ人たちがいる。
 映画『パブリック』は占拠される側になった司書の主人公も、彼ら彼女らを追い立てる役回りになった刑事も、寒い屋外と紙一重の、薄氷の上の存在であることを多面的に語りかける。こうして文章を打っている今も、首都圏では軽い地震が感じられた。
 いま他人にオースターを読めとは言わないけれど(もっと良い本が沢山あるだろう)自分が踏んでいる薄氷がまさに割れたとき、どうやって人間らしくあり続けるか―その参考になるかという視点で本や物語と向き合ってもいい時期に来ていると思わなくもない。

「一翻つく」と「二番だし」〜創作について(24.06.24)

 今週の日記(週記)とは関係ないんだけどサワリだけ。アーティフ・アブー・サイフガザ日記 ジェノサイドの記録』(原著2023年/中野真紀子訳・地平社2024年/外部リンクが開きます)、言ってる内容がとにかく正しい(=ガザ虐殺やめろ)とか本書の収益は全額、パレスチナ現地で支援に取り組む団体に寄付されますとか以上に、人が生きてること・一人ひとりが存在し・あるいは存在していたことの「尊厳」とでも呼ぶしかない眩(まばゆ)さが一文一文にみなぎってて、たぶん今もっとも読まれるべき本。まだ読み切ってないし感想もまとまってないので今はこれしか言えない(※インスタには我慢できなくてちょっと書いた)。読んで、そしてあなたも感想を発してほしい←いやハードル上げるなよ…

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 でも今週は創作の話をする。この半年ほど色々あって、ほとんど原稿は進んでないのですが。
 ※注意:チェーホフの短篇「犬を連れた奥さん」のネタバレがあります。
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 ずっと昔から考えていた「創作を麻雀にたとえる」について、改めて考えている。
 麻雀を知らないひとも「ああそうなんだな」と何となく推測してもらうしかないのだけど、物語を発想し、作品に仕上げていく過程は(僕に言わせれば)麻雀というゲームに喩えることが出来る。
)プレイヤーが最初に配られた13枚の牌+次々に配られる牌を取捨選択し、無関係な牌がない完成された状態になった時「和了(あがり)」になる。(=作者はキャラクターや出来事・様々な要素を取捨選択し、すべてが何らかの意味連関をもつよう整えないと作品にならない)チェーホフが言うところの「舞台に登場した銃は発射されなければならない」だ。
 「あの…作者がどうしてもメイドを入れたいって…」と困り果ててるメイドさん(青髪にピンクのストライプのワンピース・白いヘッドドレスとエプロン・ストッキングでお盆を持ち、無駄にハートを振りまいている)を囲んで困惑する野球選手たち「どうすんだストーリー的にこの子」「誰かの妹さんじゃないの?」「それじゃ弱い」「とりあえず監督ってことにするか」「なんで監督がメイド服なんだ?」「さあ…」(変則的なメイド服だな…)
)でも捨て牌がなく揃っただけでは和了(あが)れない。2個ずつのペアだけで出来ている(トイトイ)とか同じ種別で1〜9まで揃う(一萬〜九萬とか。イッキツウカン)とか「役」があって、初めて和了と認められる。より難しい役だったり、複数の役が上乗せされたりすると得点はより高くなる。
)これは創作のほうだと異論のある人も多いだろうけれど「来る牌は(最初の13枚も・その後に一枚ずつ来る牌も)選べない」。たとえば感動する映画を観て「自分もこういう話を作りたい!」と思ったら直ぐ描けるというものではない。基本的に自分が持ってる牌で組み上げていくしかないし、どういう「役」が来るかはコントロールできない(出来るし出来るべきだという流派の人もいると思う)
和了らない役満(40000点くらいの手)より和了るタンヤオ(1000点くらいの手)。これも異論はあるかもですが同人で即売会に出てる時の自分のポリシーでした。リピーターさんを手ぶらで帰らせない、というのもあったし、すごい傑作のイメージを脳内でふくらませてるより小ネタでも描いて出すほうが実力もつくのが(稀にみる天才でもないかぎり)普通だと思います。
 「でも同時に(ペーパー向けの数ページの小ネタでも)次の即売会までの間に隕石か何かの直撃を受けてそれが遺作になっても悔いのないような作品を毎回提出できたらとも思ってましたね…なにしろ師匠(私淑)の教えが「書くに値しないことは書くな」でしたから」と作者代理でドヤる「ひつじちゃん」のカット
…で、まあこの偉そうな語りは
そうは言っても自分、点数計算できないんですけどね(なのでアマチュア=同人どまりだった)がオチなんですけど

      *     *     *
 2)の「役がないと和了れない」って結構重要だなと思っている。
 別の喩えをすると「そもそも」創作は焚き火と同じで、どれだけ薪を積んでも発火点を超える高温がなければ燃え上がることはない。あるいは雪の結晶やコンペイトウと同じで、空気中の塵や鍋に入れた芥子粒が芯になって初めて、そのまわりに分子が集まって大きくなり、角が生えて物語という形になる(なのでストーリーは雪の結晶と同様にフラクタル構造になりやすい)。世界観やキャラクターが出来上がっていても「ネタ」がないとストーリーとして走り出さないことは多々あるのだ。
 けれど/また「そもそも」論とは別に、それを作品として世に出す・人に問うにあたって「役」なしは厳しいという実務的な問題がある。長い前フリを経て、これが今回の本題だ。またまた言い方を(あるいは視点を)変えると創作物語の最もシンプルな定義は「実在しない場所で(←実在する場所のこともあるけど)実在しないキャラクターが実際には起きてないことをする」なのだけど、それは逆に言えば「どこの馬の骨とも知れない、実在もしない誰だかの話にどうしてつきあわなければいけないのか」という問題でもある。
 実はこれは思いこみの問題で「私が思いついた物語には世に問う価値がある」と思いこめる人が作家になるのだとも言えるのだけど、また「これは誰も考えないようなネタだから」も真逆の「皆が描いてる王道のネタだから」も描いて世に問う理由になるくらいテキトウな(だからまさに「思いこみ」の)問題なのだけど、何にせよ物語には「それを世に問うだけの意義」が必要とされる。
 話を麻雀に戻すと、麻雀では(とくに初心者向けの甘めのルールでは)つながりのない余計な牌がないのは最低条件として、何の役がついてなくても字牌と呼ばれる白・發・中や(東南西北についは面倒なので省略)どれかを「中中中」といった具合に三枚揃えれば、それを「ひとつ役がついた」と数えて和了と見なされる。役は翻(ファン・ハン)と呼ぶので「一翻(イーハン)ついた」などと言う。他にも役があれば(リーチ・タンヤオ・イーペイコウ・「中」で四翻みたいに)得点も上がるけど、とりあえず「發發發」や「東東東」だけで和了れるので「急行券」「特急券」なんて言い方もする。

 二次創作というのは、この「特急券で一翻つく」に近いものがあると思う。
 「なんでお前が思いついたアリもしない話につきあわなければならないのか」に対して「だってキャラクターがあの○○だよ」は読ませる根拠たりうるのだ。
 たとえば(「吾々」の次は「喩え」を自粛すべきかも知れないけど)これから暑くなると、任意の作品の推したいCP(カップリング。カップル)の片方がもう片方に「熱中症ってゆっくり言ってみて」とトラップを仕掛ける(引用するのも恥ずかしいけど大真面目に応じると「ねー、チューしよう?」に聞こえるという)四コマなり何なりがネット上で大量発生する。同様にバレンタインには義理チョコに見せかけた本命チョコとか正々堂々本命チョコ宣言とか意中の子にチョコ選びとか手作りを手伝ってほしいと請われて(他の誰かにあげるんだ…)とションボリしながら人がいいのでつきあってたら最後にそのチョコを自分宛てで貰えるとか、いや、細部まで読まなくていいですけど
 1コマ目:山下公園らしき海辺・木陰のベンチでギターを弾いてるナオ(アスセカ)に「ねえナオちゃんナオちゃん」と話しかける緋呂。ナオ「んー?」緋呂「熱中症ってゆっくり言ってみて?」。2コマ目:「……………… ねえ、中止よ?」と真顔で答えるナオ。背後にぼやけて五輪マークのオブジェ。キャプション:これは三年前の自作まんが。中止にならなかったし、その報いを今受けてますね…(まあこいつらの世界線では去年より前に返上・没収・中止なんだけど)
要は「既存のネタとかぶる」ことが(そんなに)厭われない。ピアノコンクールの課題曲みたいなものだから同じネタがいくらあってもいい、などとも言われる。
 むしろ「ミステリーの要素を盛り込みました」とか余分な「役」づけこそ厭われる。「そういうのは一次創作(オリジナル)でやれ」などと言われる。求められるものが違うのだ。
 あるいは料理の「一番だし」「二番だし」に通じるものがあるのかも知れない。「だし」というかフランス料理のブイヨンの話なんですけど、自分で材料をかきあつめて作るのが一番だし(一次創作)なら、そうして誰かが揃えて一度スープを出した材料で出すのが二次創作(二番だし)だ。けれどスープの味が濃いのは二番だしだと言われる。

 いったん話が横すべりするみたいです・今まで:一翻つく話・ここからしばらく:二番だしの話・最後は:一翻つく話に戻ります。(指さし指示する「ひつじちゃん」カットつきで)
 一次創作の場合、様々な材料から抽出できる旨味もまた、単純なものではない。世界観の面白さ・ストーリー展開の妙・美しい描写に痛快なアクション・意外な真相・ラストの余韻・場合によっては社会的なメッセージ…その中でも、とくに漫画は、感情が動かされる瞬間(を描くこと)が重要なものに思われる。個人の見解です。
 そこじゃない、一番の旨味は構成の精緻さだ・キャラクターの魅力だ・謎解きだと意見は色々だろう。けれど、それら(構成・キャラクター・描写…)すべてが、まるでこの瞬間のためにこそ組み上げられたかのように、キャラクターの感情が溢れだし弾ける、それに立ち会って読者も感情を揺さぶられる瞬間が、つまりエモーショナルでカタルシスな場面こそが、読み古した漫画の何度も何度も読み返したくなる部分ではないだろうか。
 この「物語(まんが)は感情表現」というの、漫画家の須藤真澄さんがデビュー単行本の『電氣ブラン』で「私は人の感情というものに興味があります」と書かれてたのを勝手に拡大解釈したものだったりします…と、頬杖ついて思い出にふける自画像
 何度も何度も引用しているように「知識を蓄積しても、それはけっきょく「喜び」とは無関係だった 「喜び」は物語のあれこれの小道具と結びついているが、それ自体ではなく、その中を吹く風なのである」と言われるとき(井辻朱美『夢の仕掛け』)それは音楽の喜びに似ている。音楽が音符を組み上げて和音を織りなして、けれど「それ自体ではなく、その中を吹く」喜びの風を鳴らすように、物語は往々にして人間(登場人物)を音符にして組み上げるものなので、喜びの風=感情を動かされる瞬間は、人物あるいは人物「たち」から噴き出ることが多い。別の言葉で言い換えると「人生の重要な部分は、ほんのわずかな瞬間でしかなく、それはふたつの魂が出会う瞬間だ」(伝ドストエフスキー)となる。もちろん「ふたつの魂」もまた、人間のそれである場合が多い。
 まとめると、一次創作で得られる一番だしには世界観やストーリー展開・アクションや情景描写など様々な旨味があるが、それもこれも(物語の一番の旨味として)一滴か二滴の「キャラ同士の感情が行き交う瞬間」をドリップするためにある・ように思えることが多々ある。
 もうお分かりだろう。すべての材料を煮出し尽くして、世界観もキャラの人となりも出来上がった物語から得られる黄金のドリップは、なるほど二次創作のほうが濃ゆくなっておかしくない。なにしろ銃はもう発射されなくてもいい。ストーリーという構築物に奉仕する範囲内でだけ許されていた感情表現も、もうそんな制限はかかっていないのだ。
 アントン・チェーホフに敬意を表して、彼の超有名な短篇「犬を連れた奥さん」の超有名な結びも引用すると「(今までさんざん物語につきあわせてきましたが)主人公たちにとって一番複雑で大変な人生の本番は、むしろこれからなのでした(要約)」というのは、(人類滅亡とか登場人物全滅などで終わりでもしない限り)あらゆる物語について言えることだし、言えるべきことだと思う。主人公たちがどういう過程で(読み終わった今)目の前にいるような人間になったのかは分かった、そうやって今ようやく出来上がった彼ら彼女らが、これから生きる人生の本番を見せてくれ―二次創作は、そんな切望にまっすぐ応えてくれる表現形式なのかも知れない。
 言い方を変えれば、物語全般が(自分ではない誰かの人生を疑似体験させてくれるという意味で)「人生が一度きりであることへの抗議」(北村薫『空飛ぶ馬』)であるように、二次創作は「物語が一度きりであることへの抗議」なのかも知れない―その最もいじらしく、人間的な側面を見るならば。
 
 …途中から何だか良さげなことばかり書いてしまったが「二番だし(ブイヨン)のほうが濃ゆい」という二次創作の特徴はポジティブな面ばかりではないとも思っている。いや、創作のことは一旦措いて、同じような現象が社会で起きていないか気にかかり始めている。当事者の声や出来事の一次資料から遠く離れた伝聞だけが拡散されて「濃ゆい」感情がエスカレートする事態が、ネットまわりだけでなく起きていないか。その中傷や流言のメカニズムを解体するのに、物語や創作に関する思索や知見は有効なスパナにならないだろうか。

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 「一翻つく」に話を戻す。それがあれば「和了れる」特急券は「二次創作であること」だけではない。ジャンル意識の強い作家なら「ミステリーなら和了れる」「SFなら一翻つく」人によっては「メガネですね。ヒロインがメガネなら、それだけで特急券です」みたいなこともあるだろう(あるのかな?)。僕は現物にあまり接してないのでテキトウなことは言えないけれど、主人公が現代社会から異世界に転生したら向こうの世界ではケタ違いの能力者で無双する、みたいな話も(なんで向こうの世界に生まれついた人間がケタ違いではダメなんだろうと考えたとき)ひょっとして「転生」というイベント自体が「一翻」なのかも知れないなと思ったりするが、まあ現時点ではそれを検証するために、あのジャンルに踏み込もうという気にはなかなかなれない。
 5年くらい前だろうか。一次創作の同人誌展示・即売会でも最大手の「コミティア」で隣席したベテランの作家さんが、最近の若い作家さんは百合作品で創作活動を始めることが多いみたいだねと話されていた。もちろん氏は一翻とか特急券なんて言いかたはしなかったけれど、百合であれば描く理由・薄い本にして発表する理由になると思ってるようだ―という、少し苦々しげなニュアンスがあったかも知れない。
 「その実在すらしない人物の物語に、発表に値するどんな価値があるのですか?」「百合だからです」というのは、百合というジャンルにも、現実の当事者にも(その平等が確保されているとは言えない社会ではなおのこと)非礼なことだろう。でも作品としてドアの外に出す=いくぶんは下世話な需要と供給の話とは別に、そもそも百合だから物語が降ってきた・百合という枝を掲げたとたんにキラめく塩が寄り集まって結晶になった、そういう意味での「一翻ついた」もある、そのことは自身の経験で知っている。それは多くの先達がBL(JUNE・やおい)というジャンルで体験したことのはずだ。男女のカップルでは結晶化しなかったものが、男性同士・女性同士だと結晶化することはありえた。それはなぜなのか。BLや百合を描く者にとって、BLや百合は何であるのか。
 以上のような話を踏まえたうえで来週の日記(週記)では、ひとりの具体的な百合作家について考えてみたい。言い換えれば今週の話は、全部そのための下準備で(も)あった。マクラだけで長くなりすぎたので、二回に分けることにしたのです。

百合は出口か入口か〜陸秋槎『ガーンズバック変換』(24.06.30)

 ロシアの少女(?)デュオt.A.T.uは実際にはそうでもなかったらしい二人を同性愛っぽい演出で売り出した「ビジネス百合」で、とりわけ日本では(TV番組の放映中ドタキャン事件などもあって)あまり好い印象で記憶されてはいないかもだけど、彼女たちが主演した「All The Things She Said」のMVは最後のどんでん返しが鮮やかで、ウソから出たマコトと言うのかな、反LGBTを標榜する人たちへの痛烈なカウンター(閉じこめてるつもりで閉じこめられてるのはどっち?)たり得ていたと思う。
 
ザ・スミスのカヴァーなんかもしてましたね…

      *     *     *
 東京・日本橋に、台湾の誠品書店が東京(日本)支店を出していて、久しぶりに読めもしない中国語(繁体字)の本を買ってしまった…いやコレは頑張って読みたい。スマートフォンの翻訳アプリを使ってでも読もうと宣言しておこう。
 左から『街屋台湾』表紙・開いたところ(見開き右に町家を描いた水彩画・左に建物にまつわるエッセイ)・繁体字の本文と・それを翻訳アプリで日本語化したスクリーンショット
鄭開翔街屋台湾 100間街屋、100種看見台湾的方式!(第2版)』(外部リンクが開きます)
←見本が多く載っている内山書店のページにリンクを張ったけど、うわー、お高い…誠品だと自分がエイヤっと買えるレベルのアレだったんですが、レジに持ってって店員さんがお店のブックカバーをかけるため本体のカバーを外して、裏返して、初めて気づいた「うわー、カバー裏もすごい!」これはお値段も納得だわ…。
 『街屋台湾』。カバー裏に本書収録の街屋イラストの数々がフルカラーで並んでいる
大切に読みます、はい。
 誠品日本橋、もちろんメインは日本の書籍で日本のベストセラーもファッション誌も(えーとマンガは無かったかな)ふつうに並んでるのだけど上記のとおり漢籍(?)もあって、また日本の本も人文系に注力してる印象。『ガザ日記』も此処で一緒に買い上げたのですが
 左:『ガザ日記』(買いました・寄付も兼ね)・右:『プルーストとシーニュ』(こちらは借りました)
 日本橋で通りを挟んで斜向かい・同じCOREDOグループの別建物に「タロー書店」という別系列の書店があって、何それ十字路を挟んでインドカレー店が競合みたいな調整失敗パターンと思ったら、初めて覗いたコチラも存外良かった。岡本太郎を意識した店名から、もっとアート寄りかと思ったらビジネス書籍が平積みのわりと普通の書店で、だけど限られた人文書コーナーの選書も(誠品とは共倒れせず相互補完できる感じで)光ってる印象。先に誠品でドパドパお金を落としてしまったので購入は見送りだったけど、ドゥルーズのプルースト論と、『ゾミア』でお馴染み(未読だけど)ジェームズ・C・スコット反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(みすず書房/外部リンクが開きます)は、そのうち読もうと心でブックマークした次第。いや、前者はさっそく読みはじめてます:
ジル・ドゥルーズプルーストとシーニュ(新訳)』(宇野邦一訳/みすず書房2021年/外部リンクが開きます)
「「シーニュ」という語は、『失われた時』の中で最も頻繁に現れる語の一つである」と言って「シーニュが」「シーニュが」と連呼する内容なのだけど、そんなに頻出して大事な単語なら、何らかの日本語に訳しても良かったんじゃない?『失われた時を求めて』のほうでは日本語に訳されてるんだから(いまパパっと『時』のほうを確認したら大体「しるし」で訳されてる)(まあ『プルーストと「しるし」』より『シーニュ』のほうが謎っぽくて日本ではウケるのかなあ)(あと英語の「サイン」みたいなニュアンスもに匂わせたかったのかも)と多少はツッコミを入れつつ、楽しく読んでます。
 『失われた時を求めて』についてはルネ・ジラールも『欲望の現象学』で長々と語っていて(昨年11月の日記参照)、ジラールとは不倶戴天というか互いに「あんなやつ歯牙にもかけないぞ(ふん!)」みたいな感じだった・でも同様にプルースト大好きだったドゥルーズの目を通した『失われた時』は、予想どおり着眼点がぜんぜん違う。それはもう同じ小説を読んでの感想とは思えないくらい見るところが違って、逆にそれこそが読書の(そして書評を読む)面白さなのだと思う。

      *     *     *
 その作品や作者の「ここが重要」「ここが本質」というポイントを自力で見出せた場合(それが後で確認したらメジャーや権威筋の解釈一致でも・いやそうであれば余計にか)読み勝った・自力でモノにした感が高まり、作品も特別な宝物になるだろう。
 逆に他の誰かの解釈に納得させられてしまうと読み負けた・正解を他人に教えてもらったという憾みが残る。それが作者自身の自作解題なら尚更だ。だもんで中国出身・日本で執筆する陸秋槎氏のSF短篇集ガーンズバック変換(ハヤカワ書房/2023年/外部リンクが開きます)の後書きを読んだ時には「しまったぁ!」となった。いわく
「いわゆるSFの醍醐味とは、パスティーシュではないかと思う。既存の技術と理論、神話と民俗、そして歴史と社会制度に対するパスティーシュこそSFだ。もちろん先行作品にたいするパスティーシュも面白い」
いやいや自分も薄々はそんなこと思ってた気がしますよ?するけれど、ここまで明白に言語化できていなかった。しかしこうして著者自身に種明かしされると、なるほどパスティーシュこそ(SFがという話ではなく)陸秋槎という作家の本質というか本領なのだった。
 書影。『ガーンズバック変換』と『文学少女 対 数学少女』
 紀元前の前漢を舞台にしたデビュー作(曹操が犯人ではない←言わなくてもいいことを…)『元年春之祭』。犯人の動機が青春の絶望を際立たせた『雪が白いとき、かつそのときにかぎり』の鮮烈なリリシズム。短篇連作『文学少女 対 数学少女』は「状況によって名探偵の最適解は正答とイコールでなくてもいい」という割り切りが衝撃だった(←いや、ジャンル内では後期クイーン問題と呼ばれる定番テーマらしいのだけどジブン部外者で知りませんでしたから)。異世界を舞台に少女騎士団のエリート少女たちが連続怪死事件の謎を追う『盟約の少女騎士』の、いくぶん唐突な「謎解き」。どの作品もミステリのミステリ・メタミステリ・メタ物語・言うなればパスティーシュこそが、作者が一番やりたいこと・あるいはどんな発端から始めても作者が辿り着いてしまう問題意識と言われて不自然ではなかった。
 『ガーンズバック変換』でもSFという装いながら「サンクチュアリ」「物語の歌い手」や架空作家の伝記など(この世の中にあって)作者≒語り手であることの意味や意義を問い問われる作品が並んでいる。とくにAIの台頭が人文学者を脅かす「色のない緑」は『三体』への(脅威はむしろ自分たちの中にあるという)アンサーでもあり…というのは話を盛りすぎかも知れないけれど、んー、考えさせられる問題提起でした。色々ヤバいでしょ、AI(電力使いすぎ問題も含め)。

 持ち上げるだけでは詰まらない、というわけでもないけれど、ジャンルや「物語る」という営為自体の意味を問いがちな作者の問題意識は反面、内輪向け空間に閉じていく危うさも内包していて、なんだか日本ネイティブの作家以上に日本的だなーと思わなくもない。
 かつてミステリ界の大先輩であろう北村薫が「すべての小説が大志を語るようになったとき小説は滅びるだろう。だが、あらゆる小説が大志を語らなくなった時もまた、小説は滅びるだろう」と書いたように、適材適所・バランス感覚の問題ではある。けれども韓国のペ・ミョンフン(『タワー』・5月の日記参照)やチョン・セラン(「リセット」・先々週の日記参照)に見られるような「目の前の社会・世界と直結したSF」の可能性を見てしまうと、日本の「物語」は社会に、外の世界に向けて開かれているだろうか・いや閉じているのではないかと、どうしても思ってしまう。それはSFというジャンルに限らずSNS・「外国人観光客は皆サントリーのペット緑茶が飲みたくて来日してはるんどすえ」みたいのが面白いと思ってるCMや等身大ガンダムを飾る万博・哲学や現代思想(「シーニュ」とか)に至るまで、この国の社会全般に感じてしまうことだ。

 サインペンを持った「ひつじちゃん」のイラスト。横には「百合」で始まり「ひつじちゃん」の持ってるペンと同じ赤い線で「パスティーシュ(物語とは何か)」につながっているアミダくじ。
 少し言い訳すると陸氏にとってパスティーシュこそ「ゴール」だと捉えそこなった理由は、彼の作品が持つ、もう一つの強烈な属性があったせいでもある―「百合」。百合ミステリに百合ファンタジイ・そして百合SF。上に挙げた作品のほとんどが、女性(少女)同士のカップルやカップルズを主人公とする、いわゆる百合作品なのだ。ミステリ用語でいうところのレッド・ヘリング(囮の餌)に引っかかったと言うべきだろうか。
 急いで言うと、カップルと言っても恋愛関係とは限らない。むしろ円満な恋愛をしているカップルは作中では少数で、主人公たちは同性の相手に、まだ言語化できてないけど複雑な・もしかしたら愛憎いりみだれる想いを抱いている、そんな状態を著者は好んで描く。とゆうか、そういう状況ばかりを描く作家「でも」あることは確かだ。
 おそらく百合は、作者にとって物語を結晶化させるための最初の芯・核なのだろう。あるいは、その道しか辿れないコースとでも呼ぶべきか。物語が数式で、すべて割り切ったとき終わるとするならば、百合は割るときに必ず使わなければいけない数・使うとこんがらがった巨大な数がスパンと二つに割れるような大きな数で、しかしすべてを割りきった後に「解」として残るのは、パスティーシュ=物語とは何かという、もう一つの素数なのだ(と、傍観者としての僕は推測する)。
 
 それでは「なぜ」百合なのだろう。作家・陸秋槎にとって、あるいは他の多くの作家にとって百合とは何か。
 これも大急ぎで言わなければならないが、非当事者が描き語る「百合」は、実在の女性の同性愛を元にしながら別個に構築された概念・観念で、だからこそ勝手にモデルとして利用した実在の女性の同性愛者にたいするリスペクトを忘れてはならない(百合を扱う作品に大喜びしながら現実の同性愛者を差別するなど、もってのほか)だということは、こうして機会あるたびに念押ししておく必要がある。そのうえで―
 なぜ百合だと、すらすら物語が紡ぎ出されてくるのか。はっきり言おう。これだという答えはない。
 それを踏まえてなお、このジャンルの大いなる先達と言えるだろうBL(やおい・JUNE)の大御所作家が「なぜJUNEなのか」という問いに対して「男性同士のほうが対等な人間関係が描けるから」と答えていたのを思い出す。もちろん、それだけではないだろう(だから「これだ」という答えはないんだってば)けれど、愛にしても憎にしても男女のカップリングだと生じてしまう非対称性を一旦オミット(棚上げ)できるのは、舞台に上がった銃は発射され・手牌はすべて無駄なく「役」に奉仕しなければならない「物語」という形式にとって、しばしば都合が良いのだ。もっと露悪的に言えば「楽」な場合もあるだろう。けれど。
 現実の世界ではどうしても付きまとってしまう異性間の非対称性や不均衡・家父長制や(男女をともに苦しめる)有害な男性性を一旦排除した舞台で展開される人間性の探究は(たとえそれが嫉妬や憎悪の物語ですらあっても)、より深い人間理解につながる可能性も、現実にある不均衡を暴き、批判し、解体する…ことにつながる可能性もある。
 もちろん逆に、作中の百合やBLに異性愛の規範を押しつけようとする反動的な心情もあるだろう。何が「適切でより人を自由にし」何が「不適切でより人を不自由にする」かは簡単に判別できない。それでも。
 百合なりBLなりといった創作上の「遊び」が、内向きの逃避ではなく、何かしら社会に・外の世界につながる突破口になりうることを僕は夢みてしまう。あるいは社会の拘束を解体する「左利き用スパナ」になることを。「なるほど同性愛は社会の不均衡を正してくれるんだ、ひとつ頼むよ当事者さん」ではなく、当事者でもないのに同性愛を妄想や娯楽のタネにしている非当事者にも、何かしら返すべき借りはあるのではないかという話をしている。
 『ガーンズバック変換』の表題作は、ゲーム禁止条例や学校での孤立など現実の日本社会に則した問題を描き、そこからの突破口として百合的な連帯を提示する。それが作家が社会にコネクトした「しるし」なのか、それとも「既存の作品」を元に、あくまでフィクションとして構成された閉じた系なのかは分からない。分からないけれど、日本でも石川県金沢市に住まうという著者が(もちろん御無事であることを祈っていることは言うまでもない)目と鼻の先で展開している現実社会の無能や不均衡を前に…いや、ただただ一人の優れた感受性と表現力をもつ人物が物理的だけでなく、心も折られず健やかであることを祈っている。何ごとかを語るのは、他人に「ひとつ頼むよ」と任せていい問題ではないだろう。
 「『文学少女 対 数学少女』には(創作者として)勇気というか本当に背中を押してもらったのだけど、その「背中を押されて」書いたプロットが一年経ってもドアの外に出せてないので今日のまとめは「何かあるなら自分で描きなさいよ」ですね…」と涙を流す舞村さん(仮名。特にこの半年ほど原稿どこではなかった人)
(確認したら一年じゃなくて二年だった…)
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 今回は短くなるかと思ってマクラを長くしたら、本体もことのほか尺を取ってしまって、まあ思ってる事そこそこ掃き出せたでしょ。
 t.A.T.uがカヴァーしたのとは別の曲だけど、スミスには「子どもの頃はアコギを持ってる奴は皆プロテスト・シンガーだと思いこんでて怖かった」という歌詞もあって、
The Smiths - Shakespeare's Sister(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
んー自分は逆に街頭でひたすら愛を歌う人たちを見るたび「君たちいいかげんプロテスト・ソングくらい歌えよ」と内心ぷんすかしてはいるのでした。

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 ちなt.A.T.uがカヴァー「した」スミスの曲は「誰かが愛してくれるかもとクラブに行って ひとり立ち尽くして 一人で家に帰って 死にたいって泣く君」という歌詞で有名な(?)「How Soon Is Now」で、んー、やっぱり方向性としては間違ってなかったと思うんですよなあ。

小ネタ拾遺・24年6月(24.07.03)

(24.06.01)自分のほうが狭い表現しか知らないだけかも知れない。だけど、海辺のショッピングモールが打ち出したDRAW YOUR NEW BLUE.という広告文の、強烈な異物感。下に小さく日本語で「あなたの夏を、あなたの青で。」と添えられているから、そういうニュアンス受け取ってねって事なんだろうけど、なんかもう不自然。青く染める的なことを言いたいならDRAWじゃなくてPAINTじゃないのとか色々あるんだけど、どうやら一番はBLUEの扱いらしい。
いや、BLUE、名詞もあるようだけど、こういう文脈では形容詞と捉えられるんじゃないかなあ。日本語に置き換えると「あなたの青い色を描こう」を「あなたの青い描こう」と書いちゃった的な違和感。YOUR BLUE ○○(名詞)となるほうが自然だから、電車の中で広告を見るたび叫びたくなるのだ―「パンツ!!」と。
 「DRAW YOUR NEW BLUE…」とポーズを取った「とにかく明るい安村」さん(青いパンツを着用)に「PANTS!!!」と叫び声が加わってる挿し絵。久しぶりのイラストがコレか…というぼやき(キャプション)つき
こういう文脈でPAINTもあまり映える語感じゃないよねと思ったら、普通は名詞あつかいのCOLORを「〜色に染める」と動詞あつかいも出来るらしい→「あなたの夏を、あなたの新しい青色で染めよう」まで補って機械翻訳にかけると「COLOR YOUR SUMMER WITH YOUR NEW BLUE COLOR」となって、最初のカラーは動詞・最後のカラーは名詞なのを洒落てると取るか、COLORやYOURの反復がモタモタしてると取るかは微妙なところ。
あーやだやだ、ちょっと英語分かるよ的に鼻にかけやがってと思うかも知れませんが、別の海辺の、別のイベント広告の世界1500万人が度肝を抜いたにも1500万人「の」じゃないの?(または1500万人が度肝を「抜かれた」)とモニャってしまった自分がいる。このひと日本語でも煩いんです。

(24.06.02)鶴見駅前の「立喰そば ういーん」ついに力尽きてらした…あまりにレトロな外見なで自分も一度しか入ったことなかったけど、中はふつうに味な店。カレー蕎麦、おいしうございました。夕方には売り切れてる500円のカツカレー、食べそびれたなあ。
 中身がらんどうになった「うぃーん」と、在りし日のカレー蕎麦。
(07.03追記)二週間後、「うぃーん」だった痕跡は完全に消えていた。なんだかとっても他人事でなく、おさらば、おさらばよ…元々2階にあったらしい不動産屋が買い取った模様。
 「立ち喰いそば ういーん」と手書きっぽいレタリングで書かれていたファサードが「お部屋さがしは○○○○ショップ」の看板にすげ替えられている。

(24.06.04)先月の小ネタ日記で日本の同性カップルが海外で難民として認定されたことを書いたけれど、日本「から」の難民認定はこれが初めてではなかった由。Xの記事になるので閲覧できない人もいると思いますが、難民支援協会(JAR)のポスト(X/外部リンクが開きます)によれば2021年にもトランスジェンダーの当事者が日本での性別変更にまつわる諸々は迫害のレベルであるとして難民認定されたとのこと。カナダの難民認定の原文(外部リンク)は英語なので後で時間を作って読む←自メモ。6月はLGBTプライド月間。

(24.06.05)処刑台に上げられた王様がギロチンの下で「おいおい、革命の手数料は払ったのかい」と訊いてる図とか、崩れた橋桁を両腕で支えて人々を守るスーパーマンが「キミキミ、手数料も払わず無認可で人命救助かね」と詰問されてる図とかも考えたんですけどね。
 「名古屋入管 人権守れ」「FREE REFUGEES」「ウィシュマさんを忘れない」といったプラカを手に手にし、あぜんとしたり悔し涙を流したりしてる行列の前で「PAY 2500 YEN」と親指と人さし指を輪にしたハンドサインを差し出す手。「愛を知らない愛知県警」と札が下がっている。
祭りやデモ、道路使用に手数料 愛知県警、6月から2500円徴収(中日新聞/24.5.31/外部リンクが開きます)

(24.06.07)お、おう…こう言い切れちゃうのは確かに「天然」な気がするな…撮影地・東京。
 写真。瓦屋根を模した庇の上に「天然鯛焼」の看板
(24.07.03追記)わざわざ写真は上げないけれど、別の場所で見かけた「生どらやき」というのもニュアンスは伝わるが如何なものかと…

(24.06.08/この話してなかったっけ?)映画関心領域(公式/外部リンクが開きます)で脚光を浴びている(?)ルドルフ・ヘス、講談社学術文庫から邦訳が出ている自伝アウシュヴィッツ収容所(外部リンク)を思い出す。ナチの「大義」を微塵も疑わない「忠実な軍官僚」が「運営」を任されたアウシュヴィッツで、猛毒のシアン化合物チクロンBの存在を知り、これで悩みに悩んでいたユダヤ人「処理」の「ノルマ」が「達成」できると「安堵」するくだり(当人、率直に書いたほうが心証が良くなると信じていたらしい)は、正直すぐにはピンと来なかった『イェルサレムのアイヒマン』(アーレント)よりも「うわぁ…こういうタイプの邪悪さ」と直球で得心がいった記憶。いわゆる辞書どおりの意味での確信犯とは違い、確固たる信念より、むしろ確固たる倫理的な問いを一時棚上げすることで「いいじゃないか別に」と進められる暴力。その微妙な手の抜きようをアーレントは凡庸と責めたのではないか(違うかもだけど)。

(24.06.09)些細なことかも知れないけれど「改正」でなく改定の表記。信濃毎日新聞、しばしば本社よりシンセリティがある。僕はバイアスのかかった個人なので「改悪」と呼ぶけれど。・〈社説〉改定入管法施行 さらなる苦境を招く恐れ(24.6.9/外部リンクが開きます)

(24.06.10)ROMってるSNSで一人称がどうのと騒いでて「XX歳を過ぎて一人称が『僕』な奴は○雷」だの何だの。まあ僕もXX歳を過ぎて(一回り半くらい過ぎたかな)一人称が「僕」なので、でも他人を地○よばわりする奴より百億倍マシなんじゃねとか色々思うところはあったのですが
 一人称が「僕」程度で**だ何だ小煩ぇよ…こちとら最痛の一人称「吾々」多用ぞ?と中指を立てる(中指にモザイクかかってる)自画像
(文脈上そうなっちゃうんだもん)(気にしてはいるらしい)

(24.06.11)「冗談じゃないわいな 東京シャンディーランデヴー♪」という何か間違ってるけど何処が間違ってるか気づかれにくい替え歌を思いつくが、さしあたり使い道がない。後で手が出る足が出る。
(同日追記)念のため確認したら、今どきは「おたまじゃくしはカエルの子」ナマズの孫では「ありませんと現代語訳(?)されてるみたい…たまらんなあ…

(24.06.12)えっ『RRR』って現時点でまだ日本全国20以上の映画館で上映中なの?(映画.com/外部リンクが開きます/再上映もあるのかも)。根負けして(何と戦っていたのだ)+そろそろ終映なのかもと勘違いしてキネカ大森のチケット取りました。今夜…→(同日追記)はい、ナートゥダンスを存じ上げてきました。・参考:大ヒット映画「RRR」話題の名字幕「ナートゥをご存じか」は、なぜ「ご存じか」だったのか? 翻訳した2人に聞いてきた(映画.com/23.2.1/外部リンクが開きます)。んー、ほぼ想定どおり映画としては百点満点・でも最後に「あ、ごめん…僕はこのポラーノの広場には居られないんだ…」なところまで(察してくれ)想定どおり。難しいなあ自分、もっと熱烈な賛辞を期待した人ごめんよ…それでも映画としては百点満点で、売店のマサラティーも美味しうございました。キネカ大森、大好きです。

(24.06.13)RRRの余波で色んな(感情移入しそこなった)映画に想いを巡らせ、だもんで全く脈絡はないのですが『シャイニング』の続篇+完結篇として制作された『ドクター・スリープ』は主人公が人生の途中でつまづいて酒に溺れた原因が→ネタバレにつき、たたみます。(クリックで開閉します) べきだったんじゃないかなあと思うのですが。あと一番大事なシーンで着ぐるみ男が出てこないの納得できん。キューブリック版前作の最重要(?)キャラやん!←ひょっとして、ここも畳むべきでした?

(24.06.14)元祖パイカ蕎麦とは何ぞやと思ったら…パイコー(排骨)のことか!
 左からパイカそば・とろとろのパイカ(排骨)アップ・「6月のおすすめ!三陸そば わかめ、もずく、めかぶ!うどん、きしめんにも出来ます!610円」の広告写真。
衣をつけて揚げた状態でなく食べるのは初めてかも(?)。軟骨まで箸でちぎれそうなほどトロトロ柔らかく煮込まれたパイカ、んー牛すじみたいに土手煮やカレーにも合うだろうなあ。6月のおすすめ三陸そばも気になる神保町の東の外れ・美術書などの古書を扱うブックブラザー源喜堂の裏と言えば分かる人は分かるあたりの立ち食い。茨城にはパイカラーメンが看板メニューのラーメン屋もあるらしい。知らなかったことばかりだ。
(24.06.15追記)今回なぜかフットワークが軽くて、さっそく三陸そばも。予想と違って温そばだった!でも食べたら全然アリ(汗だくで)!トッピングのミョウガも好いアクセント。広告(立て看)と海藻のバランスが違うように見えるのは、まあ写真マジックで許せる範囲内。おいしうございました。
 三陸そば写真。手前半分を青いワカメが埋め尽くし、残り半分を1/4ずつメカブとモズクが埋めあう。
名物!とか限定!とか意気ごまない隣のお客さんがふつうに食べてたちくわ天そばも美味しそうだったなあ。

(24.06.16)ハリソン・フォードは前作『インディ・ジョーンズ運命のダイヤル』(未見)でインディ役を引退したんじゃなかったっけ?と思ったら広告で言ってる『インディ・ジョーンズ大いなる円環』というのは映画ではなくゲームの新作らしい。まあ何作か前でシリーズを追うのは降りてしまったので関係はないのだけど、もしも前言撤回で映画の続篇が出来るならタイトルは『インディ・ジョーンズ運命のリダイヤル』がいいなあと…

(24.06.18→07.01)春先に恒例のアナウンスがなく「サイレント廃止か?」と危ぶまれていた青春18きっぷ、
「青春18きっぷ」2024年夏季分は7月10日から発売! JRグループが公式発表(24.06.18/鉄道乗蔵/Yahooニュース/外部リンクが開きます)
例年だと7/1発売なので、少し足下の氷が薄くなってる感はあるけれど、まずは重畳。

(24.06.19)わづか2年ほど御無沙汰していた間に銀座のABCラーメンが撤退しててショック。銀座の一等地になぜかラーメン屋・それもフレンチ修業したシェフが開いたという触れ込み・けれど看板商品=胡麻を効かせた麻醤麺は900円とリーズナブルで他にない味。変わり餃子もビールに合う感じで、いや知らんけど、下戸の自分も嬉しくお相伴に与ってました。
 左:ABCラーメンの麻醤麺と代わり餃子。右:肉汁麺ススムの冷やし排骨麺
新橋の「なぜ蕎麦にラー油」と同じビルに入っていた肉汁麺ススムも撤退を確認。季節限定だった排骨冷やし麺しか写真が残ってないけど、メインの肉汁麺は甘辛の衣がついた揚げ豚肉がどっさりトッピング・生卵を割り入れていただく濃厚な味で、まあ客を選んだというか新橋のメインユーザーぽい中高年層(含む自分)が日参するには胃もたれする感じで難しかったのかなあ。時々むしょうに食べたくなるお店でした。また何処かで逢えるといいね麻醤麺と肉汁麺←僕がというより人類が。
(同日追記)お前もか!と勘違いしてビックリしちゃった。こちらは移転だそうです。昨年はじめに。【移転後・新店】銀座わしたショップ本店に行ってみた(ぐるっぱ/23.02.01/外部リンクが開きます)島ごとに形も硬さも味わいも違う小分けの黒糖ってまだあるのかな。
(07.03追記)ありました<島ごと黒糖。二種類ならべて黒糖ツインズ、なんちて…
右・イリオモテヤマネコのイラストをあしらった西表島の黒糖。左:冠のような独特の被り物をした人のイラストをあしらった多良間島の黒糖
このイラストで多良間島の人が被っている冠?帽子?の正式名称を探しています…(ゆる募+宿題)

(24.06.20)無くなってから惜しむのでなく、今あるお店も言祝ごう。仲御徒町の「ネパーリ バンシャガリ インドカレーさくら」は普通にナン&インドカレーやビリヤニも供してるけど「ネパールタリセット」としてダルバートも前面に出してるお店。新しめで広々と明るい店内。僕は呑まないけどアルコールも充実っぽい。
 左:「さくら」のネパールタリセット(ノンベジ)。右。かきまぜたところ。刻まれたマトンは骨付きも。
 先月の日記で取り上げた『カレー移民の謎』のとおり、成功したお店のレシピを踏襲して巨大ナン+バターチキンのカレーが広まったなら、同様にこのレベルとポジションのダルバートがスタンダードとして広まるといいなあという丁度よさ。ダル(豆スープ)もマトンカレーも味がしっかりしてるので、初めてダルバートを試すひとも漬け物とか色々まぜて「スパイシーだし味も複雑だけどダルのおかげでマイルドなカレー」として食べやすいんじゃないかなあ。またしばらく新橋〜上野方面からは足が遠のく予定ですが、生き延びてほしいところ。

(24.06.27)と思ったら、また…浅草で好いなと思っていたワンタン麺のお店も閉店を確認してしまった…最後に訪れたのが三年前なので、飲食店の寿命や興亡のサイクル的に仕方ないのかも知れないけれど、浅草という街じたいがジェントリフィケーション(富裕層向けの改変)で昔ながらの趣を急激に失ないつつあると懸念する声もある。
 左から:ワンタン麺・雨の夜の浅草仲見世あたり・雷門の写真
香山哲ベルリンうわの空』の三冊目に「行けるうちに行きたい処を訪れて、いずれ思うように旅できなくなったら、その思い出を大切に反芻しよう」みたいなことが書かれてて、僕なんかはそろそろ後者(反芻)の段階かなあと思い始めているのだけど、それが自身の(体力的あるいは経済的な)衰えだけではなく、訪れる先の側の変貌によることだって十二分にありえるのだよなあと。気候変動も含め。

(24.06.22)そして追悼。あなたのドナルド・サザーランドは何処から?という問いに「ケイト・ブッシュのMVから」と答える人、少なくないのでは。『赤い影』『マッシュ』『SFボディ・スナッチャーズ』…並み居る代表作に引けを取らない、6分56秒の名作。
Kate Bush - Cloudbusting(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
(SFボディ・スナッチャーズをドナルド・サザーランドの代表作のひとつに挙げていいのか分かんなかったけどラストの顔芸が忘れらんなくてさ)見そびれてるフェリーニの『カサノバ』も観なければなあ。

(24.06.23)「ジェネリック海の幸」三銃士を連れてきたよ!
 左から「うな次郎」「ほぼカキフライ」「うにのようなビヨンドとうふ」+中の黒っぽいのまで再現してる「ほぼカキフライ」断面写真。
(昔は「ジェネリック」じゃなく、もっと身もフタもなく「プアマンズ」って言ってたよね…)
なかなか実物にお目にかかれなかった「ほぼカキフライ」中の黒っぽいのまで再現しててイイねイイね!となるなど。魚肉すり身の他にヒラタケの水煮(黒いとこかしら)・こうや豆腐など使ってるようだけど最後は食感(歯触り)がやっぱり違うなあとなるのは「うな次郎」と同じか。「うな次郎」と、うにを模した豆腐は後日ゆっくり食べていきます。

(24.06.28)ブックオフ従業員による架空買い取り疑惑
※このあたりが詳しい→BOOK OFF 400店舗以上が休業(ANN NESW/24.6.27/外部リンクが開きます)
もちろん嘆かわしいし悲しい話だと思うけど、「特に本好きとして許せん」みたいな気持ちは不思議とあんまり湧いてこなくて、むしろ首相も与党も都知事も在沖縄米軍も外務省も公安も県警も大手メディア企業(言いにくしリンク貼らないけど子会社のB○○K☆WALKERの百合の日セールでRIMの電書もコイン還元中)も―要するに社会の天辺でふんぞり返ってる連中が不正も隠蔽も黒塗りお咎めなしで、末端の小売店従業員とかが腐らないわけないじゃん、て気持ちのが強い。こればっかりは「トリクルダウン―上の無法がグズグズ許されてるから下も無法になってる、そういう順番としか思えない。この先どこかで糸が切れて不法と末法の世が来ても(もう来てるのかも知れないけど)「最初に略奪を仕掛けたのは地位の高い連中」って言うよ僕は。過去の歴史でも大体そうなんじゃない?
(同日追記)真夜中に毒を吐いちゃったのでデトックス。春先に名古屋で食べた雪菜毛豆=高菜と枝豆の炒め物が美味しかったのでオリジナルの味を舌が忘れた今ごろになって再現。長ネギは白じゃなくて青いところのが画像的に映えるな(なぜ調理の先に旅先の写真を見返さんの)などと改善点はありつつ、うん、軽めの主菜に悪くない。刻んだニンニクがアクセント。
 左:名古屋で食べた雪菜毛豆。右:自宅で再現した雪菜毛豆・キムチをのっけた白ごはん・お味噌汁。
(同日追々記)高菜は中国語だと「雪菜」か、なんかいいな…枝豆が「毛豆」でプラマイゼロではある(日本語話者の感覚だと…すみません)

(24.06.29)今月の最後も追悼で締めくくってしまい遺憾きわまるのだけど、後述のとおり義理がある。エリック・カルメン、逝去が三月に報じられてました。ラフマニノフをモチーフにした
Eric Carmen - All By Myself (Single Edit)(YouTube/外部リンクが開きます)
があまりに有名だけど、本人名義ではなくソングライターとして誰かに提供した楽曲もあったよなと再確認。
Mike Reno feat. Ann Wilson - Almost Paradise(YouTube/外部リンク)
別名「フットルース 愛のテーマ」でした。自分が描いた同人まんが『楽園の瑕』の英題。直訳じゃなくて(←そんなんする意味ないやん)ちょっとズレた英題をつけるの趣味なんですけど、ほぼ楽園(、でも…)と皮肉な意味で自作の内容にピッタリだったので本来の歌詞の内容とかあまり考えずにつけてしまった。邦題(楽園の瑕)もそうか←ウォン・カーウァイの同名映画いまだに未見、本当にすみません…
BOOK☆WALKERでも読めるけど(←無料)たまには本サイト内のアーカイブにリンクしときます。下の画像か、こちらから

東京都知事選で選挙権を行使できるひとは行使しましょう。

(24.06.30)なんだかだで今期も気に入り毎週つきあってしまってる『爆上戦隊ブンブンジャー』。一匹狼の新キャラ(紫)にそういうの(スカした正義感)大キライと毒づかれ皆そう言うよといなす主人公のタイヤ君(赤)「君みたいなの、いくらでも居るから」と相手のプライドを的確にブッ刺してて、意外と性格悪いか「俺たち(仲間まで)」貶されて結構本気で怒ったのかも…(萌)
(07.03追記)翌週あっさり和解+新メンバーとして正式加入。しかしブンブンジャー、始まった頃はメンバー全員おもしろキャラで、しゃべるだけで爆笑だったのに半年足らずで完全に慣れてしまい「ようやく仲間に直接ありがとうと伝えられるようになったなタイヤ君(しかも自分をでなく、自分が間に合わなかった一般人の巻き添え被害を阻止してくれて「ありがとう…!」なのが爆上げ)と普通に感心できてしまう自分がいて、いや絶対に変な番組なんですけどね…

 

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