外の世界に出る〜張國立『炒飯狙撃手』(25.02.02)
a.
良い本は他の本を連れてくる(ことが時々ある)。
せんじつ読了したミシェル・フーコー『性の歴史IV』の脚注で取り上げられていたのに興味をもって「後期フーコー」と親交があった(
22年12月の日記参照)歴史家
ポール・ヴェーヌの『
パンと競技場』を図書館で借りてきた。深く考えず閉架書庫に入ってる本を取り出してもらったら本文だけで700ページ・註も加えると千ページ位ある本でビビり散らかしたけど、それは別の話。

まず冒頭だけでもとパラパラめくったら、歴史学(者)と社会学(者)の違いについてサラリと触れる箇所が。いわく、社会学は概論(概念、類型、法則性、原理)を抽出するために出来事を利用するが、歴史学は出来事を説明するために(科学や経済学やそれこそ社会学の)概念を利用する。社会学者にとって歴史は実例(あるいはモルモット)に過ぎず、たとえば王制という概念を二・三の実例―たとえば古代ローマと近世フランスで説明できるなら、わざわざエチオピアにふれる必要はない。けれど歴史学にとって歴史とは個々の出来事なので「動物学者が全ての動物を、天文学者が星雲のひとつだって」取りこぼせないように、歴史家はエチオピアの王制も無視しえない。
「つまりエチオピアの歴史に関する歴史家がいるはずである」
学問を生業とはしなくても、人には社会学タイプと歴史学(動物学・天文学)タイプの別があるのかも知れない。つまり個々の出来事に関心が向くタイプと、そこから概念や法則を抽出しないと気が済まないタイプだ。他ならぬ自分が、たぶん後者だろう・近年ますます後者の傾向が強くなってないか、という話をしています。
先週の日記とか特にそうでしょ、この小説おもしろかったですで済んでもいいものを、何がこの小説を面白くしているか・そもそも小説にとって面白さとは何か・いま小説に求められている面白味とは…みたいに概念を、ちょうど本サイトのプロフィール欄にあるように「
どんなメカニズムが物語を駆動し心を動かすのか」エンジンを抽出したがる。よくないですよコレは。第一に、ただ楽しめばいい物語に、過剰な意味や意義を「盛って」しまう懸念がある。第二に、個別に存在するだけで味わい深い(けれど「意味」を抽出しにくい)事物の面白味を、上手に味わえない。自分がたとえば名勝や神社仏閣・なんなら美術や演劇なども上手に楽しめないのは、そこから意味やまして概念・法則を抽出しようとしすぎる(仏像やフィギュアスケートに法則を求めてどうすんのよ自分)・事物それ自体を味わえない鈍感さも一因なのではないか。

最近ようやく、世間から12周くらい遅れて、高校生女子がユルくキャンプする人気漫画を少しずつ読み始めているのですが(縦線スクリーントーンの多用と影のつけかたがスゴく大胆で目に映えますね)主人公たちが「この位置からだと神社の赤い鳥居と背景の青空・富士山のコントラストがとてもいい」とか「急な坂だけど階段がついてるから登りやすい」といったことを一つ一つ面白がってるのを見ると(
少しずつって、もう7巻まで読み進めてんじゃねえか)こういう楽しみを自分は鍛えてない・なおざりにしがちだよなと思ったりもするのでした←その反省もまた意味の抽出ではと考えてはいけない。
つまり、事物を説明するのに意味や意義・概念や原理を抽出しようとすると抜け落ちてしまう要素は存外に多い。「言語化」は時に、多くの要素を取りこぼす。
b.
ものごとを「それってどう面白いの」「どういう意義があるの」とメカニズムや概念・一般法則に還元したがる人は、還元主義者と呼んでもいいのかも知れない。ちょっと面白いのは社会学者(そう、まさに社会学者)のジンメルが、さらにそれを突き詰めた結果
「私たちは、自分が理解もせず理解も出来ぬもの−因果律、公理、神、性格など−に物を還元した時、初めて物を本当に理解したと感じる」
と書いていることだ(『愛の断想・日々の断想』岩波文庫)。分からないと・意味を抽出しないと安心できない心理は、「分からない」に行きついて最後ようやく安心する。何この逆転劇。
でも、そういうものかも知れない。物語を、あるいは世の中どうしてこうなんだと社会や歴史を分析して、分析して、因数分解のように割れる全てを割り尽くして、最後に残る「余り」は結局、この「外」に出なきゃダメだ・「外」の世界につながることが希望だ、となりがちではあるのだ、たぶん。その「外」を昔は神とか神秘(つまり世界の外)と呼んだし、今は他者(つまり外の世界)と呼ぶのかも知れません。
* * *
実は今週の週記では『性の歴史IV』の読書ノートをつけようと思ったのですが、
すでにマクラだけで長くなりすぎたので来週以降とします。
* * *
c.
良い本は時に、別の本の代わりに、美味しそうな飲みもの食べ物を連れて来る。
先週とりあげた『雨の島』では
甘蔗青茶(ガンジョーチンチャー)なる台湾の飲料の名前が目に灼きついた。甘蔗はサトウキビ。日本ではひとしなみに烏龍茶と呼ばれがちな半発酵の中国茶(青茶)を、サトウキビのジュースで割るんだそうです。
これは人さまにオススメいただいた(
そして良き人は、良き本をもたらす…ありがとうございます)
・
張國立『炒飯狙撃手』(原著2019年/玉田誠訳・ハーパーコリンズBOOKS・2024年/外部リンク)
は、えー、ストーリーの概要は後回し(こちらの紹介など参考になるでしょう→)
・
小説_華文ミステリ〔日本版刊行〕張國立『炒飯狙撃手』(太台本屋/外部リンクが開きます)
まずは読みながら、登場する食べ物を備忘にメモする手が止まらない一冊(笑)。北京ダックならぬ
南京板鴨(なんきんダック)、
栄養三明治(サンドイッチ)、
揚州炒飯、
赤豆鬆□(あずきケーキ、□は米偏に下棒が突き抜けない羊・「然」の下部と同様の点四つ)、
刈包、
豆干(干し豆腐)
のように折りたたまれた掛け布団、
キャベツを使わない韮餃子、
麺線は横浜中華街で買えるだろうか(自メモ)、
餡餠(中華おやき)。
たまらんなあ←こういうのでいいんだよ本の感想。

食べ物以外でメモを取ったのは水源市場・東南亞電影院(映画館)・寶藏巖・虎空山などの地名と「65式歩槍」これはアメリカのM16ライフルを模した台湾軍の小銃だそうです。要するに(最後の小銃を除けば)旅情をそそる。
最後の小銃にまつわる(そして懲りずに「意味」を抽出しようとする)話を少し。
ミステリと言うよりエスピオナージュ・スパイ小説に近いのかも知れない。台湾出身でイタリアに潜伏する凄腕のスナイパーが、炒飯の達人でもあって周囲の人たちから好かれてるという設定、そういえば昨年観た台湾ラブコメ映画の秀作『
狼が羊に恋をする時』(
昨年11月の日記参照)でも、去った恋人への未練を抱きしめながら生活のために始めた炒飯屋で人気者になってしまう青年が登場したけど、最初は何度も失敗するうち達人になっていく様子は『炒飯狙撃手』が語る「
炒飯はとにかく慣れだ」に通じるところがあるようだ。あ、いや、そこじゃなくて。チャーシューが手に入らないイタリアでは角切りにしたサラミを代わりに使うと、滲み出る脂で独特の旨味がつくのだとか。いや、そこでもなくて。
突然イタリアで自身が狙撃の標的にされたスナイパーの全欧を股にかけた逃避行と、定年退職を間近に控えた刑事が台湾で遭遇した未解決事件が、やがて台湾軍の(海外からの)武器購入にまつわる巨大な陰謀劇に絡めとられていく。少しネタバレしてしまうと、鄭成功とか明朝の時代に起源が遡る秘密結社・影の同盟が重要な役割を担う。
…そんな構図に改めて、日本の物語の幸福な不幸を考えてしまった。
台湾の作家が書いた本作でも、大陸・「本土」・中華人民共和国で書かれた警察ミステリ『死亡通知 暗黒者』(
昨年12月の日記参照)でも、もっと言えば韓流のサスペンス映画でも、ハリウッドのアクション映画でも、警察と軍隊そして反社会組織(いわゆるマフィアあるいは他国のスパイ組織的なもの)が反発しあい浸透しあい三つ巴の陰謀劇を成しがちだ。その癒着に立ち向かうのも、往々にして軍で特殊な訓練を受けたスーパーヒーローだったりする。
1945年の敗戦以来、正式な軍隊を有さない・また警察力も市民を護る以上の権力行使を(
建前上は)許されない日本では、そうしたスーパー元軍人・スーパー警察官のヒーローは制度上、存在できないことになっている。○○組のような暴力組織が警察や政財界に影響力を行使するさまを描いたとしても、それはハリウッド映画のマフィアの表象とはニュアンスが異るだろう。ましてそうした影の組織が江戸時代や戦国・室町時代まで遡ると言われたら、ギャグか清涼院流水・あるいは清涼院流水のギャグ小説にしかならない。
つまり日本において江戸以前と明治以後の歴史は改めて(名目上)(封建的な心性とかの継続は別問題とする)断絶が著しく、さらに戦前・戦後の断絶が加わった結果、軍や警察・反社会組織をエンターテインメントとして描く可能性は著しく損なわれている。んにゃ、サングラスの危ない刑事と広域YAKUZA○○会が自動拳銃でバンバン撃ちあうドラマは(観たことないけど何しろ本サイトの中のひとが住んでる横浜でも)ふつうにあるのだけれど、そうではなくて。『ボーン・アイデンティティ』のマット・デイモンや『イコライザー』のデンゼル・ワシントン、『アジョシ』のウォンビンや『戦狼』のウー・ジン、『暗黒者』『炒飯狙撃手』のような(元)スーパー軍人・(元)スーパー警察官のヒーローやアンチヒーローの活躍や暗躍を、この国の物語作家たちは指をくわえて見ているしかない。
大急ぎで言うならば、それは幸福な欠落なのだ。軍隊で特殊訓練を受けたヒーローの痛快な活躍(という物語・往々にしてフィクション)など、現実に徴兵や従軍で損なわれた人生の(大小さまざまな)悲劇とは比べ物にならないだろう。それが幸福であることを、譲ってはならない。
現在の日本では(まだ一応)警察官も自衛隊員も、たまさか役割として武器を貸与された一般人であって、階級としては一般市民と同等なことになっている。だから警察官・阿久瀬錠(あくせ・じょう)は異星から襲来した「ハシリヤン」が繰り出す怪人に一警官としては歯が立たず、荒唐無稽な「爆上戦隊ブンブンジャー」の一員・ブンブラックに変身し荒唐無稽な巨大ロボを操縦する(前にも言ったけど
何しろ四肢のある人型ロボを「自動車のハンドル」で操縦するのだ)ことで、ようやく初めてスーパーヒーローたりうる。現実に存在した「自衛隊で特殊な技能を身につけた元自衛官」が、現実の世界では何をしたか、蒸し返す必要があるだろうか。
もちろん現実の警官や自衛官は「着てる服が違うだけの一般人」ではない。警棒や拳銃・自動小銃や戦車がなくても、おそらく素手でも、警察官や自衛官と戦えば(特に非力な僕などは)瞬殺だろう。制度が公式に・その組織が自ら非公式に許した権力・強制力もまた、建前以上にえげつないものではあるに違いない。この建前と実力の乖離は、いずれは問われるべき問題なのかも知れない。この国が「平和」であることと、政治的な異議申し立てが「意識高い」と揶揄され(
意識が高くて何が悪いのだろう)忌避される現状は、もしかしたら関係があって、いずれ吾々はそことも向き合わなければいけないのかも知れない。
だが、そうした「問題」と「諸々の問題を解決するには日本も正式に軍備が持てるよう憲法を改定したほうがいい」とか、まして「徴兵制を復活させたほうがいい」みたいな短絡は、混ぜるな危険だろうと冷静に考えもする。「人々が真に市民・民主主義社会の主権者となるためには軍隊の存在・従軍の経験が必要なのだ」と説く者が現れたとしたら、そうした主張が(人々が主権者より従属者であるほうが好ましいと考える)国家をどう利するのか、先に考えたほうがいい。
他の国では元軍人や、特殊訓練を受けた公安警察官がスーパーヒーローとして活躍する映画やドラマがあって羨ましいから、日本でもそういう物語が生まれてほしい、というのも見ないほうがいい夢だろう。というか少なくとも「その夢には現実の責任が伴うよ」と思う。
世の中に、語られるべき物語は、他にも沢山ある。元軍人のスーパー格闘家がいなくても、政財界まで影響を及ぼす五百年の盟約がなくとも、環境が破壊され人とAIの区別がなくなり・いや人がふつうにただ生きるだけで絶え間ない暴力と被傷性があるのだとは、先週『雨の島』で確認したとおりだ。エスピオナージュを器にタップリ盛りつけられた台湾美食を堪能したり、静岡に原付バイクを走らせ山梨にテントを立て御当地グルメや熱々のおまんじゅうに舌鼓を打つのが、謀略や暗殺やまして戦争よりは語るに足らない無価値なものだと、誰に言えるだろう。

これは人気の某キャンプまんがに登場した富士宮名物・しぐれ焼き(
お好み焼きと富士宮焼きそばを合わせたご当地グルメ 鰯の削り節とウスターソースでさっぱりした味つけ 肉カスとモチモチした太麺のおかげで非常に食べごたえがあります)に触発されて作った、でも「焼きそばが太麺」以外は
似ても似つかない創作お好み焼き。いいのいいの。大事なのは美味しいこと、充実してること、
そして読書が本の外で何かしらの実践につながること…これは今週取り上げるはずだったフーコーの本を読んで受け取ったこと。その話は文案がまとまれば後日。
*** *** ***
(追記)麺線じたいは中華街といわず中国(本土・大陸)系の食材店でもソレらしい細麺が廉価で手に入るし、なんなら安めのおそうめんでも好いのではと(煮込むからおそうめんほど質にこだわらないはず)。むしろ魚粉だしとモツの味わいが出たスープを現地風に作れるか。あれは豚モツがふつうに(お安く)流通する食文化圏での庶民食な気がします。牡蛎が安く手に入ったら贅沢に牡蛎麺線とか美味しそう。
二人と5人(6人)〜ジン・オング監督『ブラザー 富都のふたり』(25.02.08)
監督は本作を通して
「日本の観客に、マレーシアで起きている現実を理解し…
てもらえることを願っています」とメッセージを寄せている。けれど本作が描くのは日本を含め、おそらく世界中で「起きている現実」だ。
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Center of the Earth is the end of the worldとは、アメリカを代表するパンクロック・バンド:グリーン・デイの一節だ。
Green Day - Jesus Of Suburbia [Official Live](YouTube/外部リンク/11分くらいあるので注意)
いや、Earth=地球でもあるので、地球という丸い球の中心≒芯のほうかも知れないけれど

Earth=大地と取れば大地=地上=人の世界の中心はこの世の果て。2010年代、一度は下野した保守政権が
「世界の中心で輝く日本」をキャッチフレーズにあからさまな反動として再び与党の座に躍り出たとき、ずっと(
お前らの言う世界の中心はこの世の果てだろうけどな)と脳内で異議を唱えていた。
逆に言えば、この世の果てこそが世界の中心なのかも知れない。それは同時に、人が作り出した地獄の最下層なのかも知れない。つづめて言えば
「もはや辺境にしかコアはない」。グリーン・デイの歌よりもっと前、『本の雑誌』の連載で評論家の
鏡明氏が、とある回の結語にした言葉だ。当時ほかならぬアメリカを題材にした著作を長く書きあぐねていた氏の言葉と思うと余計に含蓄が深い。地政学と名のつくものは大概インチキだと疑ってかかっている自分が、それでも(わりと地政学用語として知られている)「リムランド」を創作同人誌の個人サークル名にしたのは、この鏡氏の言葉が動機だった。それはさておき。
吾こそは世界の中心なりとドナルド・トランプが吠えるNYだかDCだかと、ガザ・パレスチナはどちらが世界の中心だろうか。あるいはかつて
「哀しい男が吠える街」(違ったかも)と詠われたTOKIOと、そのTOKIOをきらびやかにするために宮下公園を追われた人たち、世界の中心で日本を輝かせるため踏み台にされた福島、維新の会と吉本興業が合作(捏造)した「予想以上の万博」と能登半島、どちらが世界の中心か。
* * *
世界に冠たる大日本さまに比べたら、マレーシアなんざ辺境…
などと言うつもりは、さらさらない。十年近く前に一度だけ訪ねた首都クアラルンプール(以下面倒なのでKL)の尖端ぶりや公共交通機関の先進ぶり、多民族の共生(もしかして角逐)、皮肉な言いかたをすればグローバル資本主義に圧倒された同じドングリとして、かの国の栄華を誇る部分は、日本のそれと少なくとも遜色はないのだろう。

その一方で(有機LEDが夜も輝かせる)光にたいする影もまた際立つ場所でもあった。通りの左右にびっしり軒を並べたレストラン、店の前に張り出したテーブルが街路を埋めて夜をにぎわす食堂街で、行き交う人々の間を縫うように、身体障害者らしい上半身裸の少年が、地べたについた両手を足がわりに駆け抜けた。家族旅行の一行で、いちばん年齢が近かった甥っ子2号が「え?」という顔でショックを受けていたのも印象に残っているけれど、子どもの記憶は曖昧なものだから、いま大学生の彼はもう憶えてないかも知れない。

そんなわけで「また台湾かよ!」とは自分でも思うのですが(
またフーコーと、どっちが好かった?)ただの台湾でなくマレーシア・台湾合作、クアラルンプールを舞台にした・しかも必ずしも光に満ちた内容ではない作品らしいと来たら、何か自分の中の負債を確認するように、足を運ばずにはいられなかった。
『ブラザー 富都[ブトゥ]のふたり』(リアリーライクフィルムズ公式/外部リンク)
その皮肉でしかない名前が岩井俊二監督の映画『スワロウテイル』が描いた架空の日本の街・イェンタウン(YEN TOWN)を思い出させる、けれど富都はクアラルンプールに実在する貧民街だという。いや、たまさか僕はイェンタウンを(そして自身が見たKLを)想起させられたけれど、それだけではない。
多民族国家の一員である華人として社会派映画を手がけてきた
ジン・オング監督はパンフレット冒頭で
「日本の観客に、マレーシアで起きている現実を理解し…
てもらえることを願っています」とメッセージを寄せている。けれど本作が描くのは日本を含め、おそらく世界中で「起きている現実」だ。
ID(身分証)がないため居住もままならず、足元を見られては搾取され、ブローカーに騙され、銀行口座も持てず、反撃する選挙権もないまま入管の摘発に怯える非正規の貧民たち。健常者向けに作られ障害者を存在ごとネグレクトするシステム。ミャンマーからの政治難民。トランスジェンダー。善意の奔走が空回りするNGOの屈辱的な無力。
センシティブな観客なら冒頭、市場で食肉用の鶏が絞められるシーンに食肉の問題・食肉の加工が社会の最下層に託され事実上「賎業」と化している構造まで見てしまうかも知れない。急転直下・怒濤の展開となる後半に提示される法制度上の問題は(伏せるけど)日本もまた他人事ではない。
いや、本作で監督が「知ってほしいマレーシアの現実」として列挙した問題は、どれも日本国内でも見られる「構造的不正義」ばかりだ。強いて違うとしたら、多くの「ふつうの日本人」は入管で収容者が死に追いやられてもネグレクトする側・むしろ積極的に不正義に加担する側だということだろうか。でもマレーシア社会全体でも事情は変わらないかも。

明確に違うので観る前に知っておくといいのは本作の場合、主人公の兄弟は外国からの移民ではなく、複雑な戸籍(?)制度によって生じさせられた、マレーシアで生まれたけれど両親の死亡や親の不認知によってIDが取得できなかった、いわば自国内難民のような存在だということだ。日本で生まれた日本人であることが、そうでないあらゆる者を「差別じゃなくて区別だ」と言いながら差別できる理由になると信じている人たちは、それが通用しない社会もある事実に多少たじろげばいいのにと思う(まあそういう人たちが本作を観る機会はないのかも知れないけれど)。
そして映画を観る前はあるのかなと思っていた、貧しい富都との対比として描かれる光々しいグローバル都市KLの描写が、ほぼほぼ皆無だったことも逆に気になっている。欧米ブランドのショーケースとしてのKL・多民族多宗教(かつて植民した西欧の手による建築等も含め)多文化が栄える観光地としてのKLの姿は、富都に生きる人々を捉えるカメラには「眼中にない」かのように映らない。逆をいえばNIKEのシューズやNIKONのカメラ・資本主義や新自由主義の繁栄を所与として受け容れている層にはKLの裏手にある富都も、各々の国に・当然のように日本にもある「それぞれの富都」もまた、ともすれば見えていない、ということではないだろうか。
そこで冒頭の問い再び:「世界の中心」は、本当はどちらだ。
またはどちらを「世界の中心」とする視点にこれから立つか。
一時的なものかも知れない。けれどこの数年で、特にハリウッドが作る映画への関心が自分のなかで急速に薄れつつある。数年前まではトム・クルーズ(主演)やクリストファー・ノーラン(監督)の新作を劇場で観るかスルーするか大層悩んでいた気がする自分ですらだ。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』でアカデミー賞を総なめにした中国系(アジア系)俳優たちが「昨年の受賞者=今年のプレゼンテイター」として登壇した翌年の授賞式で、傲慢な白人の俳優たちに公然とネグレクトされたという評判が「冷める」キッカケだったかも知れない。イスラエルによるパレスチナでの虐殺にアメリカが同調したこと・それに異を唱えるような人々が偽善者のセレブとして嘲られ、シルヴェスター・スタローンやジェームズ・ウッズらトランプ的なアメリカの賛美者が大きな顔をする界隈に、いよいよ失望がきわまったのかも知れない。
何も、暗く貧しく「可哀想な」人たちの救われない悲劇を観てションボリしろ、それが現在に生きる者の責務だ―
などと言うつもりはない。さらさらない。ただ、観るならば世界のコアを観たいのだ。それは台北の受験生たちが夢みる狭苦しい寝床かも知れないし、女人禁制の禁が破られ大騒ぎになる北マケドニアの田舎の村かも知れない。新作映画を作ることすら許されなくなったスーダンの野外自主上映会かも知れない。少なくとも、ドナルド・トランプやイーロン・マスクに唯々諾々と従うスーパースターたちがスーパーヒーローに扮して実写だかCGだか分からない大爆発とともに勧善懲悪を自称する場所・ここが世界の中心だと勝ち誇る場所に、いま世界のコアはない(30年以上前から、ずっとなかったのかも知れない)。
『ブラザー 富都のふたり』に監督を含め多くの人々が「これは愛の映画だ」そこに救いがあるのだと評価(自己評価)している。そう言いたい気持ちも分かる。でも僕的には、救いがあろうと無かろうと「ここが世界の中心だ」これが「私の」世界のコアだという体感だけで、本作はドニー・イェンの跳び蹴りのように、トニー・ジャーの肘打ちのように痛快に思える。
本作が描く「世界の果て」は「世界の中心」であり、また地球の中心≒地獄の最下層なのかも知れない。だとすれば「私の」この世界の本質は地獄なのだ。けれど絶対零度のはずの真空にも理論上エネルギーが潜在するように(←
このへんは未消化なので軽くスルーしてください)人間的な生をすべて剥奪されたと言われるような剥き出しの極北にも、勝ち負けや救いのあるなしに関係なく生が、人生が横溢している。『ガザ日記』がそのようなルポルタージュであったし、『富都のふたり』もまた、そのような映画だった。つらかったりアンハッピー・エンドだったりするものは観たくないという気持ちは分かるけど、観る価値のある映画だと思います。
世界の中心は世界の果てで、地獄の底でもある。この逆説は『富都のふたり』のように社会から排除される者たちの、排除される場こそが(問題の在り処としての・またそれに抗する生が横溢する場所としての)世界の中心・社会のコアなのだという理解にもつながる。しかし同時に、吾こそは世界の中心なりと勝ち誇るNYやDCやTOKIO・夢洲もまた地獄めいた排除の中心なのだろうと教えてくれる。
マレーシア固有の問題を指し出そうとした監督の(少なくとも表向きの)意図を超え、世界のどの国にも本質的に存在しそうな排除を描き出した『富都のふたり』は、言い替えれば吾々ひとり一人が感じている社会の歪みや現世のままならなさを恣意的に投影できる鏡にも似ている。
* * *
おそらく他の誰も連想しなかったと思うけれど、マレーシアの貧民街で身を寄せあう血の繋がらない二人の兄弟、それぞれハンサムと呼べるだろう青年俳優たちが額を寄せあうさまを観ながら、たぶん観客の中でただひとり、僕は考えていた。日本の(きらびやかなほうの)中心に長いことスターとして君臨し、君臨しつづけたからこそ性加害者に成り果て転落した、かつての青年のことを。
グリーン・デイが「郊外のジーザス」を歌うより、ずっと前にテレビ受像機を持たないようになっていた(それでかつて同人仲間に「私の知ってる一番の変人」の栄誉を頂いたことがある)僕は、彼が血の繋がらない五人の兄弟(いや最初は六人だった)の長男のように、おずおずとアイドルとしての、俳優としての評価を確立していった初期の頃しか見知ってはいない。だから、いけ好かない言動がイヤでも耳目に入り、とうに愛想が尽き果てていた(テレビ的なものに戻りたくない積極的な理由のひとつにさえなっていた)吉本芸人のボスとは違い、アイドルの彼がどのようなパーソナリティをテレビの中で構築していたか・あんな事件を起こすような人には…だったのか、さもありなんだったか知る由もないし、今さら知りたいとも思わない。同情とも擁護とも、かといって非難や罵倒とも僕は遠いところにいる。何しろ知らないのだから。
ただ、マレーシアの貧民街でIDを持たないがゆえに最貧の生活すら奪われ破滅していく青年と、語弊はあるが地獄であることには変わりない破滅、一人の青年がテレビ界という「世界の中心」で数十年の時間をかけて破滅していくさまを多くの人が視聴者として見守っていたことは、この「世界の中心」もまた地獄・この世の果てだった証左にはならないだろうか。彼が(「兄弟」たちとともに)キャリアの最初期に受けていたろう虐待については言うまでもない。
だからこそ。あるいは「それでも」。吾々・私たちという一人称が「大きすぎる主語」なら、「あなたたち」と言い替えてもいい。きらびやかな地獄にエネルギーを供給しつづけた、あなたたち視聴者それぞれ固有の地獄にもまた(変人の僕が、僕固有の地獄で希うのと同様)救いや、生の証がありますように。かなうものなら他の誰かをなるたけ踏みつけにしない形で。それがまた構造的に難しいのだけれど。
*** *** ***
途中から想定外の展開をした映画に負けじと(?)斜め方向の終わりかたをしちまった今回の週記ですが『富都のふたり』ヨコハマだといつもの
シネマ・ジャックアンドベティ(外部リンク)でしばらく続くみたいなので、近隣のかたは是非に是非にー。
エフェメラとジョブチェンジ(25.02.16)
※ちょっとした都市怪談なのかも知れません。あまり不穏を演出しないよう注意しますが、メンタルが不安定なかたは閲覧に一応ご注意ください。
*** *** ***
と言いつつ最初は無毒な近況から。
どうも今年は「そういう年」らしい。先月は冷蔵庫が壊れて新しいのが届くまで10日ほど難儀したけど、今月はネット回線の切替(これは自発的な乗換)で新回線の工事まで半月かかり「つなぎ」にと渡されたハンディWi-Fi装置は通信量7GBまでしか使えず、これまた難儀しました(毎週配信で観てたドラマの最終2回は動画がどれだけ「食う」か分からないためネットカフェで観た(笑))。あとSNSって軽く眺めただけで500MBとか飛んでくんですね、ビックリした。ともあれ今日開通。

パソコンまわりを片づけるついで、いい機会と思い10年くらい使ううち天板の縁が削れ?めくれ?合板の中身が剥き出しになっていたテーブルを180度回転、これが(も)結構手間で、やれやれと思ったら今度は(何の拍子か)自宅の鍵が曲がってしまう。

借家の通例どおり?入居時に鍵は2本貰っているから差し迫った問題はないのだけれど、早め早めに対策と専門店で合鍵を作ってもらいました。
世の中もっと大変な人はいるわけで不平不満はないのですが、疲れたといえば疲れた、少なくとも週記と称して長文の考察など練る余力はない。今週は前から気になりつつ公開に踏み切れなかった「ネタ」を出してみます。
と言いつつまた長くなったのは気にしなくていい。
* * *
少なくとも関東の都市圏に居住する人なら、一度は目にしたことがあるのではないか。「集団ストーカー犯罪」被害は私たちに御相談をと謳う街頭ポスターだ。
まず大急ぎで書いておくけれど、アレは真に受けていいものではない・誘導されないでくださいというのが本サイトの基本的な立場です。弁護士ドットコムという、これ以上確実なところもなかろうという専門家のサイトが「あれは悪質」と明言しているのを参考に貼っておきますが
・
「「集団ストーカーは実在します」統合失調症の患者の不安につけ込む、探偵会社のセールストーク」(片岡健/弁護士ドットコムニュース/23.09.18/外部リンクが開きます)
+いわゆる「集団ストーカー」は怪しい・うさんくさいというのは前々からある話なのですが、今はソレが真だという主張のほうが検索でも上位に並んでしまう危うい状況なので、初めて知ったひとは「
アレ自体うさんくさいものだ」と承知しておいてください。
※ポスターを貼ってる店なども「断ると厄介かも」で仕方なく容認しているのでは…という観測もネット上にはあり、その当否は僕が判断できることではないけれど一応。
* * *
…などと予防線を張ったうえで、どうやら誰もしていない話をする。くだんのポスターで(集団ストーカーって実在するのかしら?とでも言うように)首をかしげてるイラストの女性、
それより何年か前、オタク向け婚活サービスのネット広告で「趣味の合う人と結婚できないかしら」と思案していたのと同じ絵ですよね?。
* * *
なんでそんなこと憶えてるかと言えば、オタク用語で言うところの
「好みの絵だったんで保存した、さらばじゃ」だったからだ。2021〜22年頃だったと思う。ところが前のMacが壊れて(どうも今週は壊れる話ばっかりだね)データの移行やらバックアップやらするうちに、
当該の画像を紛失してしまったのだ。だから証拠はない。
証拠はないけれど「集団…」ポスターのほうを初めて見たのは自分に限っては2023年9月。18きっぷ一回分だけ使って日帰りで新潟県三条市まで出向き、好きなアニメ(
24年2月の日記参照)に出てきたカレーを食べる「聖地巡礼」をキメた帰り、群馬県の高崎市で途中下車、こちらは個人経営のミニ書店が目当てだったのだけど臨時休業で空振り、すごすご帰る高崎駅の構内で「なんだコレ?」と目が行った。言うまでもなく「
貴女、同じ思案顔で婚活してたよね?」の「なんだ?」である。
ちなみにこの時は駅構内で人目もあり写真には撮れなかった。怪しい案件だと察してはいたので「見なかったこと」にしたかったのかも知れない。その後こんなに街なかに溢れかえるとは思っていなかった。
よく最初に見た場所まで憶えてるなと言われるかも知れないけれど、
憶えてるモノなんだってば。人目がなければ写真に撮ってたの?
撮るんだってば。実際、高崎では中学生が書いた火災予防のポスターのほうはキッチリ撮ってある。
まさか歯医者の看板しか撮らない人だと思ってないよね?

中学生が描いたので童顔なのだろう、最初お友達かなと思った(真ん中のセーラー服の女の子の)左右ふたりは両親で、後ろにいるのは祖父母らしい。いやまあ、それはいい。
なんだか集団ストーカーより自分のほうがヤバい案件に思えてきたが「毒をもって毒を制す」
誰が毒だ。
だからこういうの、マメに撮るし、ダウンロードしておく人なの。オタクなの。
そのオタクの自分にして迂闊にも消してしまった(集団ストーカーの広告塔にジョブチェンジする前の)首かしげ子さん婚活広告。自分が持ってなくても広大なネットの海に残ってないかと探してはみました。
結論から言うと見つからない。暇なひとは試してください、
いや、試す必要はないです。「オタク 婚活」で画像検索。さらに「オタク 婚活 広告」「オタク 婚活 広告 イラスト」さらには「
趣味の合う人と出会いたい」など、それらしい文言で検索しても出てこない。
そもそもオタク同士の出会い・婚活の仲介がビジネスとして注目されだしたのは、この十年くらいのようだ。同人誌販売の大手「とらのあな」が「とら婚」と銘打った仲介サービスを始めた他、縁談仲介業のほうでも楽天オーネットが「オタク同士で結婚したいなあ…」と溜め息をつく
巫女装束の女の子(
本職の巫女さんなのか、趣味の巫女コスプレイヤーかは不詳)の萌えイラスト広告をネットに出すようになり、その後AIイラストに取って替わられたらしいけれど、そんな経緯も含め「オタク 婚活 イラスト」関連では彼女ばかりがヒットする。
唯一「これは」と思ったのは、例の首かしげ子さんが元は婚活キャラだったとして、そのポーズに類似した実写広告が一件ヒットしたこと。

ちなみにこの画像は当然「このページに含まれる画像です」と元サイトへのリンクが張られていたのだけれど、それを踏んで飛んだ当該の(つまり業界最大手・結婚相談所の)トップページには現在、この画像じたいはない。そういうものなのだろう。さらに言うと、この女性の画像で再度検索をかけると、背景をさしかえ無関係なニュースまとめサイトのアイコンに使われてますよとサジェストされる・が・当のニュースサイトは現在この画像は含んでいない。そういうものなのだろう。「どういうものなの?」ネット検索は存外アテにならない+ネット上の情報は存外エフェメラ(かげろうのように一時的)だということです。
それにしたって、随分キレイさっぱり消えるものだという感慨ぶかく思う一方、意図的に消したのかもと思いあたる節もないではない。
いや「消された』とか不穏な話をしているわけではない。よーく考えて気がついたのだけど、今「集団…」のポスターとして使われている首かしげ女性のイラストが、かつてオタク向け婚活のネット広告に使われていたのと同一の「絵」だったとして、それは同じ「画像」を(もしかしたら無断で)使い回している・とは限らないのだ。
「絵」「画像」と言われて、すぐにピンと来る人ばかりでもないだろう、説明します。つまり「絵」は同じでも、それをネットに載せた「画像」は紙のポスターに印刷された「図像」より、ずっと解像度が低い。ネット用の小さな画像を拡大してポスターに使えば、絵はもっとボヤけてしまうはずなのだ。だからネットからポスターへの無断転用は、実は考えにくい。
もともと解像度の高い原画があって、それを縮小して婚活ネット広告に使った・そののち元原画から今度は「集団…」ポスターを作った可能性はないか。もしかしたら原画の著作権者が、首かしげ子さんの「転職」に同意したのかも知れない。でも、いちど別の広告に採用されたイラストの版権を、そう簡単に移せるものだろうか。そのあたりは正直、僕の手に余る。残るのは「でも彼女は元は婚活の広告キャラでしたよね」という自分の記憶だけだ。
ここまで来れば皆様、当然もう一つの可能性もお考えだろう。「そもそも本当に同じ絵だったの?」「その画像を一度は保存したけど紛失してしまった、ということ自体あなたの妄想ではないか…
とまでは言わないけど(怖すぎる)単に似てるだけのイラストを同一だと思いこんだのでは?」あなたそういう勘違い、ありがちでしょと言われてしまうとグゥの音も出ない…と言いたいところだけど「でもやっぱり同じ絵だったよなあ」と思うに足る、間接的な状況証拠が実はある。
「好みの絵だったんで保存した」と書いたのを思い出してほしい。実は当該の画像そのものは紛失してしまったけれど、そのイラストを元に
自分の絵柄でキャラ起こしした絵は残っているのだ。

特に左側の頬にかかる小さな髪のハネは「このキャラ」のチャームポイントとして別のカットでも拘って描いているよゆだ。2022年5月、実は一度、Twitterに上げている。期間限定で今は削除してネット上にはない。
だから言ったでしょ、ネット上のデータはエフェメラだって。
もちろん元モデルがここまで、それも自分の好みではない形で「バズって」しまった今、同じキャラ絵のまま再び世に出すつもりはない。彼女を使った掌篇まんがは機会があれば容姿を変えて出し直すことになるだろう。それでも一応この話について僕は「信用ならない語り手」のレッテルは貼られない資格があると思っている。
* * *
性は雌雄でキッパリと二分されるものではない、現実には性は100%オスと100%メスという両端の間に広がるスペクトラム(グラデーション)で、たとえば小さな子どもは性器をのぞけば身体的にほとんど差がないように、性差の度合は変わりうるし一つの個体の中でさえ性差や性の濃淡はあるのだ、という最新の学説を解説した
諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線』(NHK新書/外部リンク)を読んだとき「男女がキッパリと分かれていてほしい人たちの対抗運動もネットで確認できる。自分はこっちは違うなーと閉じたけど」とだけ書いた(
23年3月の日記参照)。
実はこのとき「違うなー」と思った理由の一つに、性スペクトラムは妄説だと主張するサイトに、画像の無断(?)転用があった。性スペクトラムのような考えかたのせいで心を傷つけられる子どもがいる、子どもたちを守らなければならないと主張するそのサイトは、メディアを通した妄説の脅威を訴える意図だろう、古いブラウン管式のテレビの画面が膨らみ、銃を突きつける手になって伸びている画像を「イメージ」として掲載していた。デヴィッド・クローネンバーグ監督のカルトホラー『ビデオドローム』の一場面だ。無論、クレジットなどない。
もちろん先に諸橋氏の本を読み、またその他の性的マイノリティなどについての文献や意見も読み知ったうえで、反・性スペクトラムは「違うな」という予断はあったのだけど「映画の1シーンを無断で流用するような主張は信用を損ねるのでは?」と思ったりしたのだ。『ビデオドローム』の主演俳優だったジェームズ・ウッズは、今やゴリゴリのMAGA(Make America Great Againの信奉者)で、おそらく「男は男、女は女、LGBTQや、まして性スペクトラムなんて認めない」という立場にも大賛成だろうから「オレの出た映画、使っていいよ」と「許可」したかもね…というのは、まあ冗談として。
何かを主張する時には、手段はフェアであってほしいという話。サヨクでもね。
もちろん『集団…』の件はイラストの来歴はルル述べたように「流用」まして「無断転用」
ではないけれどよく分からない不思議な「ジョブチェンジ」だった可能性が捨て切れない。でもそれ以前に、内容自体どうにも怪しい。街であまりに頻繁にポスターを見かけるので、予備知識のない人に注意喚起はしておきたい。
そして、くだんの画像が婚活広告で使われてるの見たよ、なんなら保存して持ってるという人がいたら、そっと教えてほしいなあと思う。いや、真相を確かにしたいと言うよりは「
趣味の合う人(こんなことになっちゃったけど、あのイラストいいよね)
と出会いたい」だけかも知れません。
結婚を迫ったりはしないから大丈夫。たぶん。
真ん中の○○・または抹消された○○〜カトリーヌ・マラブーとロラン・バルト(2021→25.02.26)
TwitterがXになるずっと前から、あのプラットフォームでの発信は停止・かつて自分がフォローしていた方々のタイムラインも見なくなって久しいのだけど、アカウントは削除せず残している。専らオタク的な趣味の情報収集のためなのですが、時折ずっと昔に自分が発した「つぶやき」を誰かがリポストしたり「いいね」をつけたりして「こんなこと言ってたっけ」と発信元の自分も(すっかり忘れてたので)面白かったりする。
カトリーヌ・マラブー(1959〜)はフランス出身(今はイギリスに居るらしいです)現役バリバリの哲学者。彼女に関する「つぶやき」を二つほど(多少手を加えて)採録します。2021年、ちょうど僕が本サイトでの日記更新じたい休止していた時期でした。
* * *
a.
【コテンパン】今日、電車の中に「日本人の心を一番熱くした自己啓発書」みたいな広告があったけど、自分の心を熱くした(?)読書はこちらでした。読了とかじゃない「
褒めてくれ、15ラウンド終わっても立っていた」みたいな感じでした。エイドリアーン!でも読んでよかった。分からないって楽しい(錯乱)
その本の名は
『真ん中の部屋 ヘーゲルから脳科学まで』(原著2009/西山雄二・星野太・吉松覚訳 月曜社2021年/外部リンクが開きます)。著者はカトリーヌ・マラブー。デリダの元に学んだ、と言いながら師匠デリダにも平気で刃向かう彼女が振りかざすのは、博士時代の研究テーマだったヘーゲル。いや本当に、カーンて鐘が鳴るたびにヘビー級の相手が「はい、ヘーゲルとマクルーハンです」カーン「ヘーゲルとデリダです」カーン「ヘーゲルとハイデガーです」って感じに相方を替えつつ二人がかりでボコボコに殴ってくるのよ…
コテンパンにされるのは読者だけではない。18〜19世紀の哲学界の巨人ヘーゲルを批判の対象とすることで20世紀の思想を作り上げてきた(それを「父親殺し」と呼んではいけないのだろうが)デリダ、ドゥルーズといった面々が今度はマラブーの俎上に載せられる。ヘーゲルを否定し、ヘーゲル否定の上に自らの哲学を築き上げたドゥルーズを「いやあなたの言ってること、ヘーゲルが先に言ってません?」…流行りの小説ふうに言うと「
現代思想パーティーを追放されたヘーゲルが21世紀のマラブーに転生してチートで無双な件」みたいな…すみません言ってみたかっただけです…それが「ヘーゲルから」の前半。

専門家でもないミーハーの徒にとっつきやすい(かも知れない)のはジュディス・バトラーを語るあたりから始まる後半「脳科学まで」のパート。神経生理学やIPS細胞などの話題と哲学をたたかわせる著者が興味深いのは科学観の(新鮮な)柔軟性。
科学vs哲学というと、科学を融通の効かない機械仕掛けと位置づけ、対して哲学は心の自由をアピールするイメージだけど(著者は挙げてないけど「利己的な遺伝子」論とか如何にもプログラム至上主義っぽい印象なのでは)、著者が着目する先端の「科学」はむしろ生まれてから外界と互いに影響を与えつつダイナミックに創発していく神経系の言うなれば自由・自発性を解明の課題にしているという。
(チェスや将棋を指すAIが「所詮は機械」というイメージを覆すような、想像性ゆたかな?と思わせるような飛躍した発想を示して「人間らしさ」に冷や汗をかかせている状況にも通じるものがあるかも知れない。違うかも知れない)
科学やデカルト的合理主義は機械仕掛けで非人間的なんだ、それに対して哲学は人間らしい自由の拠り所なんだ―みたいな図式はもう古く、いまや科学が自由や自発性・創発性をより進んだ形で捉えつつある。それに哲学は追いつき、そして批判しなければならないと著者は檄を飛ばす。なぜなら
哲学にあるのはポジティブで無邪気な科学が忘れがちな、粘り強く批判する力だから(と自分は受け止めた)(受け止めたというかボクシンググローブでグワーッと殴られ「あ、今のはそういうこと?」みたいな感じですが。頭のまわりをチョウチョみたいのがクルクル回ってますが)
以上、自由とか自発性・創発性と僕が言い替えてきたことを著者は「可塑性」と呼んでいて、ヘーゲルの読み直しにもつながる著者の重要なキーワード・概念なのだけど、その著者が「私にとって(私自身が依拠する)可塑性の批判は必要なことであった」と言い放つ場面は哲学者の哲学者らしさが炸裂しているように思えた。
「私にとって、可塑性の批判は必要なことであった(中略)
というのも、ひとはみずからが扱っている概念に対する警戒を怠ってはならないからだ。明らかなのは、あらゆる概念がそうであるように、可塑性がある時代を支配する精神に利用されうること(略)
真の危険がイデオロギー的なものだということである」
現にマラブーは著者は同郷の社会学者アランベールを引用する。
「企業において、人材を管理する(テイラーそしてフォード的な)規律訓練は後退している(略)
労働力の統制と支配の様式は、機械的な服従ではなくむしろ自発性―責任感、改善能力、企画立案能力、モチベーション、柔軟性などに支えられている。労働者に課せられる強制は、もはや反復労働を行う機械としての人間になることではなく、むしろ柔軟な労働の請負人となることなのだ」冷たい機械的な科学というイメージから、自由と創発性を追究する科学へ、というそれ自体は望ましくエキサイティングであるようなことが、早くも社会的な支配や搾取の様式に利用されている。ギグ・エコノミーもそう。「日本人の心を一番熱くさせる」自己啓発もそう(どうだ、つながったぞ)。
IPS細胞やクローニングをめぐる最終章も、著者の見解(進みたい方向)に同意するかはともかく、常日ごろ自分がああでもないこうでもないと考えているテーマの参考になり面白かったです。読書は楽しい。たとえサッパリ分からなくても(笑。いや泣)
* * *
b.
今回Xで「いいね」されたのは、こちらの中の一節でした。どちらかというと現役マラブーではなく、50年前の「現代」思想家
ロラン・バルト(1915-1980)の話。
日本では『真ん中の部屋』と同じ年に邦訳が出た
抹消された快楽 クリトリスと思考(原著2020年/西山雄二・横田祐美子訳、法政大学出版局2021年/外部リンクが開きます)。こちらの本の終盤で(やっぱり批判的にだけど(泣笑))言及されているのを読んだのと、JR大森駅前の本屋で「あ、バルトかぁ…」と中公文庫の評伝を手にしたの、どっちが先だったか。しばらく寝かしていたのだけれど
石川美子『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』(中公新書2015年/外部リンク)すいすい読める好著でした。

ちなみに『バルト』を購った大森の書店は、西友やキネカ大森(同じ建物だけど)のある開けた東口とは対照的に、昔ながらの住宅地に向かう感じの西口にある小さな本屋なのだけど、特に青版まで含めた岩波新書の充実ぶりがすごくて(児童書もソコソコあったと思う)実は隅に置けないお店なのではと当時Twitterでつぶやいたら
「あそこは知る人ぞ知る名店なんです。(官能小説の)
フランス書院文庫も揃ってたでしょ」とレスポンスを頂いて、あ、そ、そうでしたか…
話を戻す。
バルトは日本をテーマにした『
記号の国(L'empire des signes)』が『
表徴の帝国』という邦題で流通していた頃…つまり20世紀か…に読んだきり、なんとなく難解そうで敬遠してたけど、
東京が(皇居という立ち入り不可能なゾーンを中心にした)空虚な中心をもつ都市だという有名な(?)見立ては、バルト本人がかくありたかった姿=強い物語を拒否して散逸していく自己という理想に(自分などが思っていたより決定的に)かなっていたらしいと評伝『バルト』で知ったのだ。
マラブー自身はバルトを批判的に語っているけれど、両者の姿勢は似通ってもいたのではないかしら。つまり「かそけきものが支配的なものに反抗し対立し・対決に勝とうとすることで(敵対していたはずの)支配的なものと同じ権力の身振りに陥ってしまうこと」の拒否=別の道の模索。今の支配者が採用しているゲームのルールに乗ったまま支配者を打ち倒し・成り代わりたいのではない、そういうゲームを無効化する別の物語への希求という意味で。いや、素人の第一印象ですが。
それにしても東京の皇居を「空虚な中心」と捉えることは、60年代に訪日した異邦人だからできた芸当かも知れない。平均的な「普通の日本人」にとって、あれは強烈な磁場をもった・意味の横溢した中心だろう。しかしフランス人のバルトが自らの首都パリを民衆が集まり凝集する中心と捉えたろうことに対し、日本人が皇居を東京の・日本の中心だと、そこには日本らしさの意味が横溢していると考えながら、同時に「
そこに一般の日本人は入れない」それが日本らしさだと受け容れているとしたら、それはバルトが見たのとは別の奇特な事態ではないだろうか。
皇居だけではない。日本の公的な政治の中心である永田町の国会議事堂は、民主制を敷く他の多くの国々の議会と違い、その前面に広場がない・人々がその前に参集して声を上げることが公的には許されていない点で特殊な空間だと言われている。2015年の安保法制などで国会前に駆けつけ反対の声を上げた人なら、目の前の車道はカマボコと呼ばれる警察車両の並びに占拠され、人々は狭い歩道のしかも(歩行者の通路を確保する名目で)半分の幅に押しこめられた光景を憶えているだろう。人々が車道にまで溢れ「決壊」と呼ばれたのは、あの熱い夏でも、ほんの数回の僥倖ではなかったか。

公的には君主でなく公民権すら有さない一族が首都の中心に広大な居住地を有し、主権者たる国民はそこ(皇居)からも、公的には民主制の中心である国会前からも排除されている。「空虚な中心」は空虚というより二重にも三重にも主権というものが排除された空間なのかも知れない…
…
そろそろ分かんなくなってきたのでやめますが
バルトの死後、弟子が捧げた言葉を孫引き→
「言葉のなかに真実を見出すには、愛と信頼をもって言葉のほうに身をかがめさえすればよいのであり、言葉を正しく用いることによってこそ真実にいたることができる」。バルトは実は小説家になりたかったひとであり、しかも言葉や物語の支配的な力を忌避して絶えず迂回を試みながら(でも迂回しながら小説家になれるのだろうか?)と悩み続けたひとだったらしい、と石川氏の評伝が描きだす肖像は、創作を志すひとの、直に役には立たずとも土壌を豊かにする効能があるやも知れません。美しい書物でした。
*** *** ***
【追記】で、2021年の自分のツイートを読み返していたら「マラブーの次回作はバクーニンやプルードン・クロポトキンなどの視座からデリダやフーコー・アガンベンを俎上に載せる「アナーキズムなきアナーキー」(予定)だとか。楽しみですね」という一節が。確認したら、出てました。
カトリーヌ・マラブー『泥棒! -アナキズムと哲学-』(原著2022年/伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子訳/青土社2024年/外部リンクが開きます)
また、今回パラパラと拾い読みで読み返してみた『真ん中の部屋』には、本サイトでも
昨年10月の日記で取り上げた
フロイトの『
モーセと一神教』に割いた一章があり(逆に言うと、そういう伏線があって昨年えいやっと自分でも読んでみたわけです)それによれば、なんとあの
E.W.サイードも同書について『
フロイトと非-ヨーロッパ人』という著作をものしているらしい。一緒に図書館で借りてきました。

まずは『泥棒』から。黒はアナキストの色。読むのが楽しみです。
* * *
【追記の追記/25.03.01】
前回の日記、センシティブな話題なので少しボカしてしまったのと、急ごしらえで(あの部分は21年でなく今回の加筆でした)自分の文章が下手すぎて、言うべきことがキチンと伝わらなかった気がするので今いちどパラフレーズします:
(1)東京の中心(≒日本の中心)には、かつての絶対的な君主が主権を抹消されたまま、今も絶対的な権威として存在しつづけている
(2)形式的には主権者である国民は、実質的には東京の中心に(2)が有する広大な空白を絶対的な権威として仰ぎつづけている(つまり実質的な主権を抹消されている+(2)の空間に立ち入ることも出来ないという、これだけで二重の抹消)
(3)主権者であるはずの国民は、(2)に隣りあい形式的な国政の中心である国会議事堂前からも・広場を持たず(鬱蒼とした樹々に蓋された公園?はある)車道に立てず・歩道も半分しか占拠を許されず、形式的な主権すら抹消されている
つまり天皇→国民への主権の委譲が不徹底だったがために(?)この国には東京という首都の「真ん中」のさらに真ん中で皇居・国会議事堂という二つの中心があり(わぁお、バロックだ)、そのどちらからも(現在)主権者であるはずの国民は(地理的・物理的にも、政治的・実質的にも)排除されている。
すなわち「真ん中の○○・抹消された○○」とボカして書いた○○には、それぞれ「真ん中の空白・抹消された主権」が入るのが回答例。他の国でも君主制・立憲君主制を敷いていれば事情は同様なのかも知れないけれど、それでコレが「考えてみたら不思議」「かなり奇妙」でなくなる訳でもなく。
僕は与しないけど「現人神であらせられる天皇陛下に改めて、剥奪された主権を返せ」という立場だって理論的にはありえる。
また主権の剥奪は責任を取る者の不在でもあり、この何重もの抹消・剥奪は(かつて主権者だった天皇からも)現在形式上は主権者である国民からも、諸々の政治的責任を「免責」するmaneuver(マヌーヴァ。巧妙な手段)になっていないか…という話は前にもしてるし、今回は広げすぎなので省く。「日本の真の主権者はアメリカなんじゃないの」みたいな半畳も。

と言いつつダメ押しで話を広げると、亡き師匠(私淑)丸谷才一先生は12年ほど前の最晩年の著作にて(
昨年12月の日記参照)東京23区で他の区・たとえば目黒区なら「駒場東大・駒場野公園」「恵比寿ガーデンプレイス」など具体的に指名されている災害時の緊急避難場所が、千代田区のみ設定されていないことに着目し「
なぜ(災害時に)皇居を開放しないのか」とクリティカルな疑義を呈しておられた。日比谷公園さえ挙げられていないのはおかしい・話が皇居に飛び火することへの牽制かと。
この「災害時の閉め出し」は、昨年の能登の天災が人災と化した・どうして支援しない・させてくれないという国民(および国籍を有さない市民)の声が「閉め出され」食べて応援・観光で応援という「象徴」にすり替えられたことと微妙にシンクロしてはいないか。
考えるヒントは、あらゆる本に散りばめられている。
小ネタ拾遺・25年2月(25.03.31)
(25.02.01)先月の冷蔵庫に続き、今月はネット回線の切替でバタバタ。今までの回線を1月末で解約したものの、新しい回線の開通が半月後で「それまで代用に」とハンディなWi-Fi接続機器が届いたのですが、よく見ると液晶画面に
「xxMB/7GB」の表示。あ、もしかして7GBまでしか使えない感じ?

果たして別画面を開くと「最大通信量:7GB」の表示。まあ超過してもいいのかも知れないけど何が起きるか分からないし、半月くらいネット依存を直せとの天啓かも。無聊な時間は本を読み、絵を描いて過ごすことにします(あと部屋の片づけ)。
(25.02.03)最近は逆に一目では奥歯と分からないよう、できるだけイメージを離すのが流行りなんだろうか―真ん中の横棒のせいもあって隣に「歯科」の文字がなければ見過ごすところだった看板。でもよく見ると黎明期(それこそ8bit時代)のパソコン文字みたいなドット絵で描かれた奥歯の
白いドットひとつひとつが小さな奥歯(ぎゃー)。歯科医たち・もしくは看板制作の依頼を受けたデザイナーたちをココまでマニアックにさせる、奥歯にどんな魅力があるというのか…←延々その奥歯絵を収集してる閑人に言われたくはなかろうて。
(25.02.04)またしても悲しい値上げの話。
昨年末に札幌で泊まったドミトリーでエシカルなのに値段もお手頃!と感動したトップ○リュのフェアトレード紅茶(ティーバッグ)、25包で税込200円が20袋で税込320円・
あっという間に価格が倍になってました。さりげにシュリンクフレーションも込みなので、ちょっと悲しくなっている。今後どうするかは考え中。
(25.02.05追記)いや、気が緩んでペットボトル飲料の一本も買っちゃえば吹き飛ぶ程度の差額で迷うこたないだろう。値段は実質2倍になりましたが(
まだ気にしてる器の小ささ)やっぱり当面フェアトレードで行きます<紅茶。個包装でもなくなったの、コストカットもあるんだろうけど出すゴミの少なさを考えると(風情はなくなるけど)良いことなんでしょう。

しかしイ○ン、昨冬は売ってたオリジナルブランド(つまりトップ○リュ)のシンプルなコートを今年はもう取り扱ってなくて、○オンやSEI○U(鶴見店は服飾フロアがゴッソリ家電量販店に変わってしまった)・○ーカドー(綱島店、昨秋閉店しててショックだった)などが廉価な自社衣料品を供給する時代がドラスティックに終わりつつあるのかもなあ。それがフェアトレードの紅茶同様、世界の何処かで衣料品を作ってる人たちの待遇改善になってるなら受け容れたいものだけど、あまりトップ○リュと変わらない素材に馬やらワニやらのマークがつくことで馬やらワニのブランド代を吸い上げてる人たちだけの得になってるならヤダにゃーんと思うのでした。
(25.02.06追々記)○オン・SEI○U・○ーカドー(後は○イエーなどか)を古き良きモノのように書いてしまったけど、あれらの大型ショッピングセンターが台頭時には地元の小さな商店を根絶やしにしていった(一方で消費者の利便とか夢もあった)二面性も踏まえておきたい、大店法とか、よくは知らないのだけど。ただあれらの大型店の隆盛時に物心ついて、その衰退・もしかして退場まで並走した世代として感慨と少しの不便感があるということ。今は同じハコに自前売り場の代わりにファーストファッションや大型靴チェーンなどが入るようになり・さらにそれらの店舗(や消えゆくリアル書店やCD・DVD店)を押しのけて「クリニックモール」が新しい大型店舗の1フロア2フロアを占める時代が到来しつつある(←後者を見ると、僕と同世代かそれ以上の世代のライフステージに合わせて「老化」してる・世代交替を停めてしまった懸念がなくもない)(←
しかしそれは「吾とともに世界よ滅べ」というエスカトロジーでないとも言い切れない)。ともあれ、御一新や戦前戦後ほど派手ではないかも知れないけれど、これはこれですごい社会の変化に立ち会っちゃったなと思っている。
(25.02.07)コンビニエンス・ストアが初めて「コンビニ」と略された時のことも憶えている。80年代の半ば、これも新しい事物だった若者向け男性化粧品(ブランドは忘れたけれど「資生堂UN○」とか、そのあたり)のテレビCM、まだフレッシュな若者のイメージで売っていた柳葉敏郎氏の決め台詞が
「(お買い求めは)
スーパーか、コンビニで」で「あ、そう略すんだ」明らかに新しい流行語にしていこうと狙った感じだった。※もちろん僕の知らないところで先例はあったかも知れないけれど。
これはまだ「コンビニ」でも「ファミマ」でもなかった頃のファミリーマートのCM。たぶん実物は一度しか観たことがなかったけれど、大貫妙子さんの歌が鮮烈に印象に残って、そんでこうしてネットに上げてる人がいるんですね。初めて観る、当時まだ生まれてない人ですら懐かしさと喪失感で狼狽してしまいそうな逸品をどうぞ:
・
ファミリーマート「ジオラマ 冬」篇 ♪大貫妙子「ひとり暮らしの妖精たち」(YouTube/外部リンク)
(25.02.08)JR蒲田駅のホームとゆうか停車した電車の中からも看板が見えて気になっていた「
臭豆腐麺」昨年末で閉店していました…しかも閉店理由がどうやら(「臭」豆腐を名乗るだけある)独特の臭気が周囲に隣接する飲食店やら何やらの理解をついに得られなかったと(泣)

しかし自分で撮ってあった写真↑再確認したら昨年6月撮影で、これは「余裕が出来たら」と先延ばしにしていた自分が悪い(
なんで能登や北海道に行く余裕があって蒲田に行く余裕がないんだよ自分)圧倒的に速度が足りなかった。臭豆腐のお店自体は逆に十年ほど早すぎたのかも知れません。セカンドチャンス、待ってます。
(25.02.11)横浜あん○んまんミュージアムの前を横切って小一時間も経ってないとはいえ、別の街角でコレを見て「こんなところにも?」と空目する己の誤解力を、逆にポジティブな才能かも知れないと誤解を重ねることで生きてこれたとも言える。

並べると似ても似つかないけど、概念とゆうかニュアンスで一瞬そう見えたんじゃよ。
(25.02.15)理想に燃える主人公のメンターだった後方腕組み見守り役が、実は宇宙からの侵略者とグルだったと判明「お互い辛いからもう逢うのはよそう」と刑務所の面会室でうなだれる(たぶん)
前代未聞の最終回(
いや戦隊物の歴史も半世紀くらいあるから分かんないけど)を迎えた『爆上戦隊ブンブンジャー』。でも歴代戦隊を見守る長官やら司令官やらを演じた俳優の現実世界での性的加害が相次いで判明した現状を鑑みるに、逆にこういう要素を盛り込むことナシでは子どもにウソをつくことになると考えたのかも知れませんなあ(だとしたら生ぬるいという批判は措く)。
とはいえ最後まで朗らかに笑わせる楽しいニチアサ。シリーズ中盤「
復讐のため憎しみで戦う私には、人々の笑顔のため戦う君たちの仲間でいる資格はない」と離脱したメンバーが

敵怪人の放った謎攻撃・一般人も敵も味方も強制的に数珠つなぎされてしまう「地獄の電車ごっこ」に巻き込まれて離脱中なのに元仲間たちの最後尾につけてしまい、おまけに
いつもの口癖で後ろにいるとバレて必死に顔を伏せるも「戻ってきてくれたんですね!」「い、いや、これは違うんだ…」というグダグダな仲直り(翌週正式に和解復帰)が特に爆上げでした。新作映画
『ブンブンジャーVSキングオージャー』(外部リンクが開きます)期間限定上映、お子様たちに紛れて(必死で顔を伏せながら)映画館に運んでしまうかも知れません。
(25.02.16)花が咲くより前から目を楽しませてくれる、時には桜より強烈に春の喜びを感じさせる者たち。(個人の好みです)

即売会に出てたころ三月の名古屋で開花のピークにあたった多幸感ゆえ、バラならぬ「木蓮のつぼみ」は名古屋につながる記憶のトリガーでもあり。(個人の感傷です)
(25.02.18)オタク用語といえば「
○○でしか摂取できない栄養がある」みたいなフレーズは今まで信用したことなかったけれど、
堤なつめ君(先週までレッドだった俳優さんが別キャラに扮してのゲスト出演)の爆上げのカケラもない「
ひっ」(悲鳴。1:42〜)もう24回くらいリピートしてる…
・
新番組『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』第1話見逃し配信(外部リンクが開きます)
新レッドの吠(ほえる)君、赤貧描写の豆苗栽培がリアルで泣ける。二つ用意して時間差で育ててるところが。
(25.02.19)いかなる意図での発言か詳らかではないが、吾輩に不可能はどうとかでなく「
今の俺、エルバ島から帰ってきたあたり」という意味だとしたら、思いのほか冷静な自己認識ではないかと。
トランプ氏のSNS投稿が物議 自身をナポレオンになぞらえる(共同通信/25.02.17/外部リンクが開きます)
(同日追記)ナポレオンがエルバ島を脱出→いわゆる百日天下に返り咲いた時、最初は「
獣(ケダモノ)
が流刑地より逃走」と報じていた新聞が、彼氏がフランスに近づくにつれ「
ボナパルト氏、ヨーロッパに上陸」→「
ナポレオン将軍、国境入り」→「
皇帝陛下パリに御帰還」と徐々に掌を返していった逸話、本で読んだのかネットミームだったか思い出せないなあ。いかにも丸谷先生あたりが好きそうな話ではあるのだけれど、そしてたしかに今回の自称ナポレオン男の復活劇(と周囲の追従ぶり)を連想させはするのだけれど。
(2/20追記)というわけでお聴きください。
ABBAで「恋のウォータールー」です(YouTube/外部リンクが開きます)。ウォータールー=ワーテルローという、相変わらず回りくどい皮肉。
(25.0
2.22)にゃんにゃん・にゃーん♪…いや、それはいいとして
ずっと前から「なに言ってんだ、オタクはもう多数派じゃないか、いつまで日陰者のフリしてんだよ」と主張してるのですが(
昨年4月の日記とか参照)今は「自分はマイナーだ・異端だ・異議を申し立てる側だ・カウンターだ」と思う気持ちよさが、あまねく吾々全般に行き渡ってる時代なのは仕方ないとして―何しろ40年前すでに
栗本薫が喝破していた―
「現代において凡庸さは『ちょっと他から突出している個性』という形で現れる」(手元に原典がないので要約/『ゲルニカ一九八四年』)―いやいやいや、あなたたちまでカウンター気取りは図々しいよという多数派・主流派・ドミナント・ド権力ど真ん中の側まで「反体制」のつもりでいる逆転現象が、ついに極まったのがトランプ大統領であり、それに先駆けて日本の維新やら何やらであり、遡れば小泉純一郎の
「自民党をぶっ壊す」あたりを一つの起点・少なくともメルクマールと思ってもいいのかも知れない。都知事としての石原慎太郎も、現職の小池百合子も、反体制・異議申し立ての自意識をかぶった体制派だった気がする。気がするにゃんにゃんにゃーん(猫の日なので自分はネコをかぶる)。
(25.02.23)前回の「先週まで爆上げだった前作主人公、別人(メガネ)役でゲスト出演」に引き続き
先月まで丸いちねんプリキュア(8:30〜)
だった声優さんを契約終了後、すかさず別枠(9:30〜)
の敵幹部で再雇用するニチアサ、福利厚生がバッチリなのか容赦ないのか判断に迷う。
『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』(公式/外部リンクが開きます)二年続けて戦隊畑から養分を搾れるだけ搾り取ったので今年は土を休めようかとも思ってるのですが、もうしばらくは視聴を続けてみます。
(25.02.26)東急東横線・東白楽駅を出て直ぐの処にあるラーメン屋(兼居酒屋?)。2月中は毎日提供の限定メニュー「牡蛎ラーメン」を2月のうちにと思い食べてきたのですが…あー良かった。ここ数年は食べそびれてたけど、改めて自分、牡蛎という食材(そして生命。ありがとうございます。申し訳ない)が大好きだったなぁと思い出させられる美味しさ。きれいに焼き目がついて、しっかり味つけされながら大粒感を保ったイイとこ取りの牡蛎がごろんごろん。岩海苔たっぷり。磯の旨味が浸みわたったスープ。大変おいしうございました。地縁があって牡蛎が大好きな人はぜひ。

1380円。こうなると800円のふつうのラーメン(鶏)も気になるので、ほとぼりが冷めたころ(?謎の遠慮)再訪してみよう。
(25.02.27)渋谷といえども普通にオフィスなどありオフィスで働く人たちがおり、オフィスで働く人たち向けのお弁当屋があったりするんですね。それも諸事情で職場に持って帰って職場のレンジでチンして食べるとか出来ない人向けに電子レンジつきイートインがあるお弁当屋さんなんかが、渋谷にも。もちろん昼食も自分で用意できるのがベストなのですが、ちょっと無理という日には重宝でした(気温5℃ですが風が強いので体感0℃みたいな日とか)。遅い時間に行くと少し値引きもあったりする。

神田なんかだと魚のフライや煮着けの一品ランチがワンコインなんて食堂もあって、需要と供給の厚みがまた一段上なのかも。学食や社食というのもロマンだし、それすら横目にお弁当を持参するのもいい。なんというか、この台詞はパクリなんだけど(
元ネタ)みんなしあわせで居てほしい。また来月。