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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

6年ぶりの本篇更新。(20.05.17)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

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if you have a vote, use it.(save kids)

電書の購入御礼絵、とどこおってます…肘痛の季節で…(22.04.10)
【生存報告】
少しずつ創作活動を再開しています。
今年に入ってから、数年来あたためてきた(描きあぐねてきたとも言う)プロットを兎に角ドアの外に出せるか分からないけど進めるところまで進めてみようよと、いわばネーム実況の形で公開中。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

92〜95ページ目を追加で第二章おわり。7月一杯かけて長めのエピローグに続きます。(22.07.03)

見えない悪役〜早川千絵監督『PLAN75』(22.06.30)(7/3追記)


 倍賞千恵子さん主演の映画を観るのは二回目だな…前のも好かった、『ハウルの動く城』だったけど。
 なんてクスグリは大概にしておいて。
 早川千絵監督の映画『PLAN75』予想以上でした。毎月ついたち更新のサイト日記(だからそれは「月記」だと)を一日前倒しするのは、映画が安くなるファーストデイに間に合ってほしいから。まあ、最近は水曜もサービスデイな映画館も多いですけど、上映が縮小される前に。
映画『PLAN75』公式サイト(外部サイトが開きます)

      *     *     *

 本作の存在を知ったのはホームレス支援誌『ビッグイシュー』の6/1号(432号)での倍賞・早川両氏のインタビューで。白の上下に柔らかなネルの生地・キャメルカラーの上着で、小さな椅子に腰掛け微笑む倍賞千恵子さんを、トランクに座った兄(寅さん)と空目して…まあそれはいいです。
ビッグイシュー6/1号(432号)※通販もあります(外部サイトが開きます)
 高齢化問題の「解決」案として、75歳を越えた高齢者は自分の「死」を「選ぶ」「権利」が与えられる。そんな攻めた設定の映画を監督した早川氏は、制作のための取材をとおして「生きて家族や社会の迷惑になるなら死にたい」と考える高齢者が多いことに衝撃を受けたという。
 将来のことを考えて不安になる。人生100年時代と言われるけれど、老いや疾患でなく経済的に、そんなに長く生きられる気がしない・死にたくはないけれど生きることが同じくらい厳しい(気がする)やるせなさは、自分も無縁ではない。これは自分は(も)観なければいけない映画だ。そんな思いがあり、健康や生命を優先してくれと言われる酷暑のなか、映画館に出向いた。

 で、映画ですが。予想以上でした。
 自分でココは伏せたいなと思う箇所は伏せますが、「もう観ると決めてるし」「余計な予備知識なしで観たい」という人は、ここで引き返して劇場へ。後で答え合わせしましょう。
 
 繰り返しになるけれど、75歳になったら死を「選べますよ」とアナウンスされる社会。SFじゃないか、という驚きが最初にあった。SFじゃないですかコレ。すごくないですか。吾こそはSF好きというひと、スルーしていいのコレ。
 映画は最初「入るシアター間違えたかな」と思うような、ソリッドな導入部で始まる。『サウルの息子』を彷彿とさせるピンぼけの・それだけに凄惨さを想像させる画面。個人的に、すごく好みの不穏な音楽。
本サイト内『サウルの息子』感想「生を奪われた者は、死をも奪われる」
 ※自分の知ってる映画などをポンポン引き合いに出しますが、気にしなくていいです。何を自己参照するかは人それぞれ。
 ホテル清掃員で老後のつましい生活を支える倍賞千恵子さん。言わずもがな、なんだけれど当該の職務に従事する人たちの待遇の悪さはニュースなどの別ルートで伝わっており、設定の(社会問題への)目配りが伝わってくる。その職も失ない、アパートに居られなくなり、不動産屋でも、次の職探しでも、生活保護でも扉が開かない彼女は、とうとう「PLAN75」を「選ぶ」ことを余儀なくされる。

 一方、制度としての「PLAN75」を支える側の人間として登場するのは三人。磯村勇斗さん演じるPLAN75推進担当の公務員。死を「選んだ」高齢者の最後の期間を相談相手・聞き役として支えるコールセンター係(河合由美さん)。ステファニー・アリアンさんが演じるのはフィリピンから出稼ぎで来た介護労働者で、離れて暮らす娘の治療費のため「PLAN75」の遺品整理係に転職する。
 時間がないし、観るひとの興趣を削ぐので話をしぼると、とくに磯村さんの表現するキャラクターの複雑さが心に響く。
 若い公務員。窓口で呼ばれたのに椅子から立ち上がれない高齢者には、飛んで車椅子を取りに行き、笑顔で手を貸す。職にあぶれた主人公が、炊き出しの列にならぶのを躊躇っているのを見かねて「良かったら」と湯気の立つ熱い丼を持ってくる。笑顔を絶やさず、仕事熱心。20年ぶりに再会した叔父にも心から尽くす好青年だ。
 だが彼が手を貸し案内するのは、その高齢者に死を「選ばせる」PLAN75の窓口だ。夜に凍える倍賞さんが座っているのは、昼間、彼が業者と打ち合わせ「これだと(不法占拠するホームレスなどが)横になれなくていいですね」と設置する「排除アート」を笑顔で選定していたベンチなのだ。高齢者に死を選ばせるのも、ホームレスを排除するのも、彼にとっては善意なのだ。
 大急ぎで言うが、サイト日記(月記)の表題にした「悪役」とは彼ではない。それは後で話す。彼は優しく、共感力もある好青年だ。20年も音信不通だった叔父を彼は受け容れる。叔父が溜めこんだ献血手帳。橋や道路の建設で全国を渡り歩いた叔父は、九州・四国・北海道…行く先ごとに血を人々に分け与えた。家族としては難ありの人だったことが暗示されるが、人としてまっとうだった。若い公務員は、それを正しく汲む。だが、彼がしていることは高齢者の排除であり、ホームレスの排除だ。しかし最後に彼は、PLAN75を選んだ叔父の、そして彼自身の尊厳を取り戻そうとする。
 彼が、叔父が、そしてもちろん倍賞千恵子さんがどうなるか。どうなってしまうのか。それは当然だけど、ここでは伏せる。登場する、どのキャラクターも、尊厳をもった個人として描かれる。それがどれほど大事なことか、この映画は教えてくれる。
 献血手帳に見られるように、細部も練りこまれている。なんとも不穏なサントラ(個人的にすごく好み)と、まったくBGMのない場面とのあいだに、ただひとつだけ聞こえる唄声が、倍賞千恵子さんの「りんごの木の下で」なのもチャーミングで愛らしく、そして人の尊厳に満ちている。

      *     *     *

 大急ぎで結論に移ろう。
 良い映画・好い映画です。登場する人物は誰もが(間違っていてすら)誠実で、たぶん心やさしくさえある。
 それでも、この映画には見えない悪役がいる。
 監督はそれを十二分に意識したうえで、敢えて伏せたのだと思う。映画を、映画として成立させるため。
 だが観た者は、登場人物たちの誠実さに感動し、やるせなくなる、だけでなく、伏せられた悪役を暴かなければいけない。
 この映画の悪役。それはPLAN75を策定した者たちだ。
 本作で描かれるのは、尊厳を目的とした安楽死ではない(それについての議論は措く)。尊厳死めかした、高齢者の排除だ。PLAN75を「選択」させられるのは、職を失ない、家を失ない、家族や社会のお荷物あつかいされた人たちばかりだ。
 彼ら彼女らを死に追いやり、自分たちは決して死を「選択」せず、豊かな生をまっとうする、いや、それ自体が悪いことではないが、その豊かな100年人生を、あーはっきり言おう貧しい階層を食い物にすることで得ている者たちがいる。
 労働基準法が定める最低賃金をはるかに下回る薄給で高齢者にトイレ掃除をさせ、彼女ら彼らが受け取るべきだった社会保障をオリンピックや布マスク・何十兆円の使途不明金で融かした者たち(万博やカジノや原発でも)。シルバー民主主義だの、高齢者は余命を基準に参政権を削れだの言う「論客」たち。
 忘れないうち言うと、磯村くん演ずる公務員以外は、コールセンター係も介護労働者も、もちろんホテル清掃員も、みんな非正規雇用者だ。そのことも見逃してはいけない。ちゃんと描かれているのだから。

 本作は、人の尊厳を描いたパセティックで、美しい映画だ。
 だが、この映画には敢えて伏せられた悪役がいる。思い悩む倍賞千恵子さんの背景で流れるラジオが、政府はPLAN75の成功を受けて死を「選択」できる年齢を65歳まで引き下げると、しれっと語っている場面から、監督の意図は明白だ。
 (言い落としてたので追記7/3)まあ今の社会への批判なスタンスは肝心のPLAN75が「次は65歳」などと調子いいこと言いつつ火葬の手配が間に合わ等早くも末端は崩壊ぎみなところでも明らかなのですが
 なので、この映画を観て、僕が言うべきことはこうだ:
 選挙権のあるひとは、選挙に行きましょう。
 現実の世界の悪役に、いいようにされないために。

横たわったか嘘なのか(22.06.01)


今回の日記(月記)は既に多くの方々が言及しているテーマを蒸し返しています。でもいいじゃないすか「バナナの栄養」とか同じようなウェブページ沢山あるべ?

 ちょっと出典をすぐに取り出せないのだけれど、丸谷才一先生のエッセイに、先生が先生だったころ(ややこしいなあ。つまり大学教員)近所だか同じ下宿だかに住んでる大学生が訪ねてきては「先生、なにか面白い小説ありませんかねえ」と訊いてくる話があった。先生が「アントニー・ホープゼンダ城の虜』」「ジョージ・オーウェル一九八四年』」などと書名を告げると「わかりました!」と内容の説明も求めず書店だか古書店だか図書館だかにスッ飛んでいく。実に好い青年だった、斯くあってほしいものだ、みたいな内容だったと思う。
 『ゼンダ城の虜』実は未読なのでよく分からないのだけれど『一九八四年』は一緒に薦めていい話なんですかねえ。という疑問もさりながら、この会話に出てくる『一九八四年』は何処から出ていた、誰の訳だったのだろう。
 なんとなくハヤカワ文庫の独占物みたいに思っていたオーウェルの近未来ディストピア小説だが、別に翻訳権独占ではなかった。電子書籍サービスBOOK☆WALKERで、つまり親本は角川書店版の『一九八四年』があることを知ってしまった。タイトルはアラビア数字で『1984』。訳は田内志文氏。とりあえず入手してみた。
 えっ舞村さん(仮名)、翻訳別に揃えるくらい『一九八四年』が好きなの?そんなことはない。大体ハヤカワ文庫版だって1984年に洛陽の紙価を高めた新庄哲夫版のみ所有で、高橋和久氏による新訳(2009年)は店頭の立ち読みで必要なところを確認しただけ・持ってはいないのだ。
 今回の角川版の入手も同じ箇所を確認したいだけ。その箇所とは何か。作中に登場する流行歌「憎しみの歌」の歌詞である。厳密にいえば、その中のたった一単語。

      *     *     *

 『一九八四年』の舞台は独裁者「偉大なる兄弟(ビッグブラザー)」と党が支配する近未来のイギリス。権力に逆らった下級役人ウィンストン・スミスは逮捕され、拷問と洗脳の果てに唯一の同志だった恋人を裏切り、仮釈放の日々を過ごしている。喫茶店で「丁字で香りづけしたジンを垂らした紅茶」をすするウィンストンの耳に、作中で流行している歌謡曲「憎しみの歌」が流れてくる。流行歌でその曲名はどうかと思うが中身もエグい。こんな歌詞:
生い茂る栗の木の下で 俺はお前を売り お前は俺を売った
 奴らはあそこに横たわり、俺たちはここに横たわる 生い茂る栗の木の下で
(新庄訳)
これが大変な問題だった。英語の原文だと
Under the spreading chestnut tree
 I sold you and you sold me:
 There lie they, and here lie we
 Under the spreading chestnut tree

なるほど、コンマのある無しも邦訳に反映させてるんだね、忠実だね、ではない。三行目。動詞「lie」には「横たわる」と「嘘をつく」の二種類がある。この場合どっちだ?

 lie=横たわるを採用した新庄訳は、ウィンストンのような密告者・転向者・裏切り者の末路を暗示している。実際にこの直後、ウィンストンも収監施設に引き戻され(というより仮釈放じたい彼の幻想だったのかも知れない)後ろから撃たれて「横たわる」ことになる。
 だがこの解釈は唯一無二だろうか。lieが「嘘をつく」なら前の行の「売る=裏切る」と対応する。お互いを売り、それぞれの場所で嘘を言いふらす裏切り者どうし。

 問題の年を十年後に控えた1974年、『一九八四年』のミュージカル化を構想したのがデヴィッド・ボウイだ。出世作『ジギー・スターダスト』で「五年後に滅びる世界」を歌ったボウイの「十年後」ミュージカルは頓挫するが、半人半獣のミュータントが跋扈する未来世界を描いたといわれるアルバム『ダイヤモンドの犬』の後半には「We Are the Dead」「1984」「Big Brother」とオーウェルからの引用が散りばめられている。
 前置きが長くなったが、そんなボウイが『ジギー』(1972年)の本当の「五年後」1977年にリリースしたヒット曲「"Heroes"(英雄夢語り)」の終盤の歌詞は、こんなふうだ:
 We are nothing. And no one will help us
 Maybe we are lying. Then you'd better not stay
 But we could be safer just for one day

 東西冷戦の時代、ベルリンの壁のそばで監視兵に見せつけるようにキスをする恋人たちがWe can be heroes just for one day(たった一日だけなら僕たちは英雄になれる)と謳う歌詞は終盤「僕たちは何物でもない 誰も僕らを助けてはくれない」と悲観に落ち込んでいく。
 この「Maybe we are lying」のlying(lieの現在進行形)が偽るほうのlieなのは明白だろう。「僕たちが(きっとうまく行くわなんて夢みたいなことを)言ってるのは嘘かも知れない だとしたら君はここにもう居ないほうがいい」「でも僕たちはまだ安全だろう さしあたり今日一日は」。このlyingを「僕らは横たわっているのかも知れない=僕らは死んだも同然だ(本当にそうなる前に君は立ち去れ)」と解釈するのは、かなり強引で言うなれば「詩的すぎる」と思う。
 

 先述したとおり『一九八四年』には思い入れが深いボウイ先生だ。彼のlyingが「嘘をつく」なら、オーウェルのlieも「嘘」ではないか。「嘘」に1ポイント加算。
 そんなわけで、同じハヤカワからの2009年・高橋和久氏による新訳版は衝撃だった。
おおきな栗の木の下でー
 あーなーたーとーわーたーしー
 なーかーよーくー裏切ったー
 おおきな栗の木の下でー

これは有名な童謡のパロディではないか、新機軸を打ち出したいにしても悪ふざけが過ぎやしないか…と思ったら、そうではなかった。実際に「憎しみの歌」は、日本でも知られる「大きな栗の木の下で」の元になったイギリスの童謡のパロディだったのだ。
そのことを詳しく解説されてるブログがありましたが、今ちょっと発掘できません…他にもアメリカのジャズソングか何かが元ネタになっていたとか
 そうなってしまうと新庄訳のほうが、たとえば「どんぐりころころ」を「生い茂る団栗の木の下から 転落した団栗は 池の底に横たわる…」と過剰に文学的に訳してしまった可能性が高い。という戯れ言はさておき。I sold you and you sold melieも一緒くたに裏切ったにまとめた高橋訳が「lie=嘘」派寄りなのは濃厚だと思う。
 これはやっぱりlie=嘘なのかなあと諦めかけたとき(もうお気づきと思われますが、僕は新庄訳が好きなのだ)(アヒルの子は生まれて最初に目にした一九八四年訳を本物だと思う)、思わぬ弁護側の証人?が現れた。

      *     *     *

 1984年に『一九八四年』で盛り上がったのは、新庄訳がにわかにベストセラーになった日本だけではない。オーウェルの母国イギリスでは映画化がなされた。
 主演はジョン・ハート。劇伴音楽はシンセポップ・ユニットのユーリズミックスが全面的に担当するはずだったが、ハイテクすぎる楽曲群は実際には採用されずバラード曲の「ジューリア」だけがエンドロールに流れたのではなかったか。しかし幻の劇伴は『1984 オリジナル・サウンドトラック』としてアルバム化されている。音楽的にもすごく好いし、冒頭「I did it just the same(にも関わらず、僕はそれをしてのけたのだ!)」から「Double plus good」「Ministry of Love(愛情省)」ラス曲「Room 101」まで原作のキーフレーズが忠実に散りばめられた再現度の高い名盤だと思う。
 また前置きが長くなりました。再現度が高い、と言いながら実はキチンと確認していなかった「ジューリア」の歌詞を読む機会があり、あっと思った。ちなみにジューリアは主人公ウィンストンが愛し、そして「売る」ことになる恋人・反政府の同志だ。
 Julia
 When the leaves turn from green to brown
 And autumn shades come tumbling down
 To leave a carpet on the ground
 Where we have laid

(ジューリア
 木の葉が緑から茶に色を変え
 秋の覆いは崩れ去って
 地面に絨毯を残す
 そこは僕たちが横たわったところ)
今、横たわるって言いました!?
 色づいた木の葉が落ちてカーペットになるって、そこで横たわるって、どう考えても「生い茂る栗の木」を意識してますよね?してませんか?英語の自動詞とか他動詞とか過去分詞とか、面倒な手続きは多少スキップしているのだけど(すみません)この楽曲は「lie=横たわる」説に寄ってる気がしてならない。
 

      *     *     *

 そんなわけで、満を持しての角川版・田内志文訳『1984』。まずは結論を申しましょう。申していいですよね?
大きな栗の木の下で
 あたしとあなたは裏切り合った
 あいつらはあっちでごろり、あたしたちはこっちでごろり
 大きな栗の木の下で

おおおおお横たわった派だ!まあこれが決定的な確定条件でもないし勝利……人類史上最大の勝利…勝利、勝利、勝利!(←せっかくなので田内訳を拝借)と駆け出したりもしませんが、「うーん、また分からなくなった」と思う自分の口元は今、たぶん緩んでいる気がします。あと主語が男性→女性に替わっているところに新しい挑戦がある。

      *     *     *

 田内志文氏の訳による角川版『1984』の刊行は2021年。新しい。あとがきにもあるとおり、これまで「憎悪週間」「二分間憎悪」と訳されてきたものを「ヘイト」と訳出している。2020年代現在、ヘイトという言葉が「憎悪」とは微妙に異なり「性別や人種など当人が変えがたい属性を攻撃の対象にする行為」という意味をもって使われていることを考えると、微妙な訳かも?と思ったりもする。つまり「ヘイトスピーチを許さない」という言葉や姿勢・メッセージが「批判=ヘイト」「政治家へのヘイト」みたいに誤用・意図的に簒奪されている(むしろニュースピーク的な)現状を思うと…という感じ。

 そして最後も私事ですが、新庄訳で十代の頃さんざ頭を悩ませた「丁字」(当時はインターネット検索などなかったし、まずもって「ちょうじ」という読み方すら分からなかった)が、田内訳では「クローブ」と訳されており、いい時代になったなあと思いました。
田内志文訳『1984(BOOK☆WALKER)(外部サイトが開きます)

味の○○○○○○(22.05.02)

 上野・不忍での一箱古本市が終わった後、その足で千葉の実家へ。両親と兄一家に合流。のんびり一日を過ごして来ました。
 横浜の自分の住まいではテレビのない生活をしているので、年末年始以来、情報バラエティを中心に色々と鑑賞(ちなみにチャンネル権は、ない)。おおむね面白かったのだけど、ツッコミどころも幾らかあって―

 飲食店やホテル食堂で供する料理の下ごしらえ・仕込みを専門に受託する会社の事例を紹介している。負担が軽減できるだけでなく、チェーン店では「味を揃える」=店舗ごとで味つけにブレが生じるのを防げるメリットもあるという。
 各地で人気の「ご当地コロッケ」も、その多くを近畿の会社が引き受けているらしい。全国から搬入された名産品を、大型機械でマッシュされたじゃがいもなどと合わせ、後は揚げるだけの段階まで仕上げて各地に送り返す。こんな素材はコロッケになるだろうかと相談を受け、商品開発まで手掛けている由。
 どちらも素直に興味深い。全国各地の名物コロッケが別のところで作られていても、個人的には憤慨する話でもない。ただ、これらの企業のことをお助け工場と呼んでいる。ご丁寧にビートルズの「ヘルプ!」(バナナラマがカヴァーしたヴァージョン)が要所要所でバックに流れる。
 …「外注ではダメなのか
 面白いくらい番組は「外注」という言葉を使わず、お助け、お助けで押し通すのだった。

 他の番組。ユニークな目的に特化した特殊車輌を紹介している。これも面白い。だけど「こういう特殊車輌がある」「すごいですねー」と紹介しても良かろうものを「この車はこうすごい」と担当の芸能人がプレゼンテーションして「すごいかどうか」をパネリストが判定する。どちらかというとパネリストの強引な語り口などを、おもしろ可笑しく茶化して盛り上がる。
 別の番組では、アイディア商品やサービスを紹介するのだが「正解」を提示する前に、どんな工夫をしているか出演者でブレインストーミングしましょうと来る。番組の最後には「こんなアイディアがあるんですねえ」ではなく「ブレインストーミングで様々なアイディアが出るんです」で終わる。
 なんだか、世に言う「中抜き」とは真逆だけど、実は本質的に同じことをしてないか?という気分になってしまった。「外注」で済むものを「お助けなんとか」と新しい名称を付与したり、プレゼンしたりブレストしたり。本来の素材に、番組独自の妙な付加価値をつけようとして、それが浮いている。昔から海外情報などをクイズ形式で紹介する番組はあったけど、新しい工夫がこなれてないというか。目先を変えないと新しみがないのも分かるけど、余計なことをして素材の面白さを減じてないかなど。
 いつだか観た人気番組は、お笑い芸人7人くらいがレギュラーでゲストを迎えトークするものだったが、一流のスポーツ選手などを迎えながら、その本業とは無関係なリアクションの可笑しさを延々いじったり、果ては芸人同士が互いをいじって笑わせる内容だった。そういう部分、内輪のいじりあい・ちちくりあいをこそ楽しいと思うよう視聴者を馴致して人気番組になってるのだとしたら、あまり楽しい光景ではないなと思ってしまう自分は、やはり早めにテレビ視聴をやめて正解だったのだろう。
 社会批判や政治家の悪口と違って、コンテンツに対する批判的な評価って、ハシクレでも自分も創作をしてると全部自身に跳ね返ってくるので、正直ニガテかも…
 
 日曜・お昼時の旅番組は素直に楽しかった。鎌倉の名所をそぞろ歩きしながら、ゲストの俳優ふたりの家庭の話や尊敬する役者の話などの四方山を、トーク上手なホスト役のタレントが盛り上げる。番組のなかにミニコーナーがあって、他のタレントが別に撮ったグルメ紹介を流す。若手の芸人らしいレポーターの、いわゆる「食レポ」が巧みで、コーヒーひとくち飲んでも酸味と苦味のバランスがこう、それが時間差で来てどう、比喩もふんだんに盛り込んで逸らさない。別のコーヒーを飲んで、よほど上手いことを言ったのだろう、フルーティな酸味とコーヒーらしい苦味が交互に来て味の○○○○○○と評した、○○○○○○が伏せられて、正解を明かす前にゲストが当てましょうという御愛嬌。
 俳優のひとりが(正反対な二つの味が交互に来るということで)オセロ?と言うも不正解で、出た正解は味のケミストリー。テロップでは「ケミストリー(化学反応)」と説明がついて、
「案外ふつうだったね…先に音楽の比喩を使ってたから"味のフーガ"くらい言うかと思った」
とつぶやいたら、一緒に見ていた家族が
ケミストリーって、グループのほうなんじゃない?低音と高音が交互に唄う
あーそうかも知れない。だとしたら(化学反応)なんてテロップじゃなくて二人の歌い手の画像を出してあげればよかったのに、比喩が凝りすぎてスタッフにまで伝わらなかったのかも。渾身のネタを拾ってもらえなかった食レポ芸人の名誉のために、ここに記しておく次第です。

表現者の自由〜アーシュラ・K・ル=グウィン『夜の言葉』(22.04.20)

 アーシュラ・K・ル=グウィンは言う―作家として、あなたは自由なのですと。名著『夜の言葉』に収録されたエッセイ「書くということ」の一節だ。
 やったー、ル=グウィン御大のお墨付きが出た、表現は自由だバンザーイ、とは行かない。なにしろ同じ本の別のエッセイで、ソ連では政府が作品を検閲し作家をコントロールしようとするが、アメリカには市場が「もっと一般ウケを狙って書け」「もっと煽情的に」「ポルノは売れるぞ」と作家をコントロールする「見えない検閲」があると指摘した彼女である(「魂の中のスターリン」)。「あなたは自由なのです」「あなたほど自由な人間はいないと畳み掛けるとき、それは甘いセールストークではなく「あなたが思ってる"自由"は本当の自由?」「市場や他人の評価におもねった、不徹底な"自由"じゃない?」という脅しにさえ見えてくる。
 実際、この「自由」をめぐる一節は、作家の仕事とは、わたしの考えでは、真実を語ることです。その作家自身の真実をですという一節につながっている。SF作家でありファンタジー作家でもあったル=グウィンがそうしたように、「あなた」も異星人やドラゴンの話を物語っていい。けれど、その異星人やドラゴンに(あなたの中で)嘘や胡麻化しがあってはいけない。
 これは心を揺さぶり、創作を志す者を強く鼓舞する言葉だが、同時に厳しい掟でもある。普段づかいの言葉としては、誰が言ったか失念したが(創作は)花も実もある嘘八百くらいのほうが好い気もする。しかし、突き詰めて考えると、けっきょく両者は同じことを言ってるようにも思われる。

      *     *     *

 「作家の仕事(自由)とはその作家自身の真実を語ること(自由)です」の対極として、「花も実もある嘘八百」(むしろコレは「真ん中」に当たる言葉ではなかろうか)の代わりに思い出したのは別乾坤という言葉だ。昔からある言葉なのだろうけど、自分はこれを石川淳の文章で知った。如何にも「らしい」言葉ではないか。まあ「世界」と同じ意味だけど、乾坤一擲の乾坤。創作とは、えいやっと別の乾坤を創り上げることだという威勢の良さは(少し照れのある)「嘘八百」を最強の自負にまで高めるようで、「花も実もある」を極限まで美化したル=グウィンの言葉と対にするのに相応しい。

 そこまで考えたところで、常々自分が抱いている、もうひとつの対を思い出した。
 創作の師と(勝手に)仰いでいる丸谷才一先生の『文章読本』の末尾を飾る書くに値しないことは書くなという一節(これが『文章読本』の最後の結論てすごくないですか)と、それだけだとしんどいので心が弱ったとき服用する真逆の言葉=アルフレッド・ヒッチコックが演出に異を唱えられ言ったというイングリット、たかが映画じゃないかという一節の、対だ。
 ちなみに書くに値しないことは書くなも石川淳の言葉だ。自分にとっては師匠の師匠(?)の教えということになる。

 そして、二つ対があるならば、それぞれを縦軸と横軸に取って分布図が作れるなと考えた。
 真ん中に「花も実もある嘘八百」を置いて、縦軸は「作家の仕事とは、その作家自身の真実を語ること」と(創作は)「別乾坤」を両端に。横軸は「書くに値しないことは書くな」と「たかが映画じゃないか」を両端にした四角い領域。

 二つの対・四つの極論に囲まれた、この領域が「表現者の自由」だと考えるのは、少し楽しい(個人の感想です)。「表現の自由」については、別の日に考える。

      *     *     *

 追記
 花も実もある嘘八百は誰の言葉か失念したけれど…と書いたけれど、少なくとも自分にとっての出典が判明しました。別件を調べてたら出てきた、小林信彦小説世界のロビンソン』の一節。
 「昔の作家の表現を用いれば〈根も葉もある嘘八百〉である」
 あれ!?「花も実もある」じゃない!!!
 …誰の言葉か失念、ではありません。「花も実もある嘘八百」オリジナルは僕でした(とほほ)。根も葉もなかった(とほほほ)。嘘八百だった(とほほほほ)。

 せっかくなので、前後の文章も引用しておきましょう。
「日本では、フィクションというものが、作家の体験とはちがうなにかから組み立てられる絵空事と考えられているふしがある(中略)
フィクションとは、作家にとってどうしても語らなくてはいられないことを魅力的に語る方法と考えていただきたい。昔の作家の表現を用いれば〈根も葉もある嘘八百〉である。想像力による世界がこちら側にあるとして、鏡の向こうにはフィクショナルな世界に見合う、作家の体験(内面)がある−これが、ぼくの考える〈古典的〉な図式である。
そして、魅力的に語るためには、何をやってもいい、というのが、近年のアメリカ小説から得た教えである」

ちなみに、この「近年」とはジョン・アーヴィングが『ガープの世界』を書いた頃。今の僕ならフィクショナルな世界に見合うのは、作者の体験・内面というよりは、現実世界とその中で生きる作者の思考・思想、だと言い替えたくなるけれど、『小説世界のロビンソン』名著だと思います。少なくとも、僕は強い影響を受けました。
(2022.05.16)

一箱古本市に出店します(22.04.10) (★04.16追記)

 俺…この戦争が終わったら○○するんだは映画の中の死亡フラグ(言った者はたいがい願い叶わず戦死する)と言われていますが。新型コロナで色々中止になったり閉店になったりして、閉店は悔やんでも取り戻せないけれど「コロナが終わって再開されたら今度こそ」と個人的に思っていたのが一箱古本市。ダンボールひと箱を「店舗」に見立て、参加者が思い思いの選書で古本を売るイベントです。
 2020年・2021年と中止だった「不忍ブックストリートの一箱古本市」が規模を縮小して4/30に開催ということで、応募したら抽選に通り、初参加と相成りました。

・公式:不忍ブックストリートの一箱古本市開催のお知らせ(←外部サイトが開きます)

 詳細な情報はおいおい発表されていくのでしょうが、とりあえず参加者向けのマニュアルと参加者リストが配布され「あっ箱は当日持参なんだ(同人誌の即売会だと宅急便を使った搬入が多い)」「犬とか猫とか山羊とか、動物をあしらった屋号がちらほらあって面白いな…さすが上野に近いだけある!?(ないって)」などフライングで楽しませてもらってます。
 かくいう自分の屋号は「忘羊舎」。『書を読んで羊を失う』(鶴ヶ谷真一・白水社/1999年)という素敵な署名があって、もとは莊子の讀書亡羊という故事に由来するらしい。亡はちょっとイベントにどうかなと思い「忘」れることにしました。

      *     *     *
 残念ながら、コロナは終わっていません。第六波が収束しないうちに第七波が到来した感が強いし、オミクロンより強力な新種がイギリスで観測されたという話もあります。
 自分は今年は出来ること・したかったこと惜しまずしようと、Tシャツを作ったり未完成のまんがをネーム実況したりしてて、一箱古本市の初参加もその一環なのですが、皆様は皆様の内で外で鳴る警戒アラートに従って、御身の安全を最優先でお願いいたします。そのうえで、当日現地でお会いできたら嬉しいです。

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 【追記】
 サークルリスト…違う、それは同人誌即売会だ…店主さん一覧が公開されました
 いや、ずっと前から公開されていたのですが、バタバタしてて本サイト更新の余裕がなく。
不忍ブックストリートの一箱古本市・店主一覧(外部サイトが開きます)
 錚々たる面々のなかで、空気の読めない初参加の素人ゆえ、なにかと不調法もあるかも知れませんが平に御容赦。楽しんでいきましょう。(22.04.16)

思想と無思想のシャツ(22.04.01)

 Tシャツを作りたいなあと前々から思っていた。
 今は図案をネット経由で登録するとオンデマンド=注文が入るたびに一枚ずつ作られる=製作者に在庫などの負担がないサービスがあって、そこに二つほど図案を登録してみました。

 ひとつは日本国憲法99条のTシャツ。
 9条ではなく99条。というか数年前の安保法制以来、9条を守れということで「9」の数字を図案化したシャツやステッカーを見かけるようになった。のだが、そうしたアイテムを身に着けていると「政治的主張は好ましくない」と国会議事堂などに入れない事案が発生しているらしい。
 え?それは99条で現行憲法の尊重と擁護を義務づけられてる公務員(国会の職員など)がしていいこと?という疑問をそのまま図案化して
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ
という条文をそのままあしらってます。
 自分がデモなどに参加するとき用に作ったシャツですが、いちおう(酔狂なひとは)誰でも購入できるよう販売ページを公開しておきます→ 99条Tシャツ」(SUZURI)

 遠目に見ると「9」・よく見ると「99」に見える(かも知れない)ソコソコ反抗的な図案。まあ諍いを好まないひとは採択しなければいいのだけの話ですが。たとえばコレを見よがしに着て国会内での集会や勉強会に参加しようとした時どうなるか保証しようがないし、関係なく街頭で機嫌の悪いひとに難癖をつけられないとも限らない。
 なにより99条で「尊重し擁護する義務」を規定された現行の憲法はいつまで保つのか。たとえば来年の今ごろは憲法そのものが改変され「すべての国民はこの新しい憲法と国家を尊重し擁護する義務を負う」とかなっていたら、この図案の賞味期限はせいぜい一年
 「逆に言えば間に合わなくなる前に作って、少しでも着る機会があってよかった」と、そんな「良かった探し」にならないと好いのだけど、いいタイミング(?)でこんな記事が:
新たな戦いに「反戦デモ」を例示 陸自、不適切と指摘受け修正(共同通信/22.3.30)(外部サイトが開きます)

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 もうひとつ、長年「Tシャツにしたいなー」と思っていた図案があって、こちらも商品化してみました。
新刊ありませんTシャツ」(SUZURI)

 特定の趣味をもつ人向けの、使わなくて済むほうがいい保険的なTシャツです、あはは。
 でもこちらも、コロナ禍が順調におさまって、即売会など自粛しなくて済むようになって初めて意味のあるアイテムなので、99条とは逆に今はまだタイムリーでない・当面タイムリーでない図案かも知れません。どちらも「思いついた時すぐやっといたほうが良かった」という苦い教訓になるのかも。

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 そんなこんなで、ぼちぼち生きてます(いつもの生存報告)。今月は中旬〜下旬に、もうひとつお知らせがある予定です

ハのあるハナシ(22.03.01)

 死んだ元都知事が排外主義と人権への悪意・それにオリンピックへの妄執を抱えてロシアの大統領に転生(憑依)したような一連の無残なできごと〜ドーピングからウクライナ侵略までについては、ここでは多くは語らない。戦争反対。侵略反対。そして、火事場泥棒のように日本国内で憲法9条や平和主義を揶揄・攻撃してる面々が、判で押したようにレイシストだったりセクシストだったり自己責任論者だったり公文書やリコール署名を捏造したり新型コロナ禍においても中抜きと誤った判断で、すでに社会をボロボロにしている搾取者とほぼほぼイコールであると・彼らの虚言に乗せられたら最後ウラジーミル同じ未来・破滅へのオウンゴールを最後まで駆けて、駆け抜けることになる、と言うに留める。
 「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」「ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で駆けて、駆け、駆け抜けよう」(2019年)て、口先だけの甘言で釣ってやったとかじゃなくて北方二島と三千億円を差し出しながら言ったお追従ですからね…
 むろんコロナ禍も続いている。半分は人災だと思う。でもまだ生きてます。

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 昔は、いろんな街でボウリング場の存在を示す巨大なピンをてっぺんに立てた建物を見た気がする。それを上回る高さの建築物が増えたのと、どうやらボウリング自体の衰退によって最近あまり目にしない。
 そのかわり、同じような色合いの別のオブジェが、街のあちこちに存在することに気がついた。
 
高さ40〜50cmくらいの白い奥歯。歯科医のディスプレイである。
 あれは何なのか。歯医者ともなると、ものすごく奥歯が好きになるのか。規格品なのか(まさか一体一体がオーダーメイドでもあるまい)。歯科の業界誌や学会誌に専門業者の広告があるのか。「光るタイプなら夜もアピール抜群」か。人類が滅びた近未来、調査で地球に降り立った異星の知的生命は、あちこちにある身体の一部分のオブジェを「ははあ地球人はこの部分が疾患になりやすく治療所のサインをかように掲げていたのか」と正しく判定できるだろうか。「地球人は身体のこの部分に自分の魂か、あるいは神様・オルターエゴが宿ると信じて崇拝していたのでは」と誤解が生じないか。『シャイニング』のダニー坊やのイマジナリー・フレンドは歯に棲み着いてるのではなかったか。
 ひょっとしてボウリング場の巨大ピンが街から消えていく代わりに歯科医の奥歯オブジェに転生しているのか、ならば両者の縮尺は照応しているのかと計算してみたが(なんでそんなフーコーが『言葉と物』で描いた中世ヨーロッパの一時代的な発想になるのか)実際の奥歯が歯根まで含めて1.5cm→オブジェが高さ40cmとしても、同じ縮尺でボウリング場の天辺のピンは高さ10メートルは必要で、いやまさかそんなに大きくはないだろう。この話はナシだ(そんなこと言ったら異星人の話だってナシだ)。
 
 とはいえ、存在に気づいてコレクションしはじめると、立体はさすがに件数もかぎられバリエーションも少ない。東京の日本橋で見かけた物件は他のシュッとしたオブジェと比べ、なんというか肉感的で、ルノワールの絵画に描かれた女性や俵万智さんの短歌に出てきたうっふんうっふんな白菜を彷彿とさせたが…
 白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる(俵万智『サラダ記念日』) 
 むしろ数もバリエーションも豊富なのは奥歯のシルエットを描いた二次元のディスプレイだ。
 上部の切れ込み一本で立体感を表現するもの。リアリズム路線。オブジェとしての2.5次元化。逆にユルキャラ路線に振り切ったもの。
 
 ハードなもの。シャープなもの。仲良しさん(かわいい)。
 
 「歯というのは人と人が支え合う形で…」「いやいや、歯科医はハートだよ」
 
 前歯もいる珍しいケース。お子様の歯もウエルカムなもの。歯科か獣医科か一瞬とまどうもの。
 

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 一年くらい奥歯を見かけては写真に収めていたら、なんか上のほうで勘違いされたらしい。
「ふむふむ、この男はよほど歯医者が好きらしい。ひとつ通わせてやるか」
 昨年の秋頃から、左の奥歯(奥歯!)上下がしくしく痛みだした。気がする。水が沁みる。一週間ほど躊躇ったあと、諦めて近所の歯科医にネット予約を入れた。いいかげんな歯周ケアしかしてこなかった自覚はあるが、不思議と虫歯にはならず、十数年ぶりの通院。

 あくまで個人のケースになるが、これが全く快適だった。予約がネットで出来たのもある。ひと昔、ふた昔まえなら初日はまず全体を見て実際の治療は次回から…なんてイメージがあったが(いやそれだとリアルタイムで歯が痛い人はたまらないので、そういう「イメージ」だろうか)初日の初診から麻酔でドリル。
 いや、その麻酔も二段階。まず脱脂綿に含ませた液体の麻酔薬を歯茎にあてて「麻酔の麻酔」をしたうえで、突き刺す注射器から、なんと電子音でエリック・サティが流れる。Je te veux。少女漫画でヒロインの意中の楽器男子なんかがさらっと弾いてみせて、後から意味を知って「え?え?それって愛の告白…!?」と真っ赤になる、「あなたがほしい」という意味のシャンソンだ。別の日は「ビューティフル・ドリーマー」だった。
 ←音が出ます
 だいたい可笑しいのが待合室がアメリカの海岸ふう?で、看板を模した木の板にペンキで書かれた文言がKeep calm and pretend you're in the beach(リラックスして、自分はビーチにいると考えましょう)。不安要素といえば、お子さま用にラックに入った絵本の一冊が『かたづけしないとどうなるの?』うう、歯じゃなくて胃が痛い…と冗談に思うくらい、歯科医の不快感をとりのぞくのに熱意を傾けている。
 ここの経営方針・歯科医哲学もあるのだろうけど、過当競争もあるのかなあと思うのは意地が悪いだろうか。十数年おざなりに磨いてきた歯だから、恥ずかしながら前歯の裏には歯石がついてるのだが年齢もあるし仕方ないですよねへ?
 んー、この感覚に憶えがある。一昨年えいやっと足を運んだ人間ドックで、恥ずかしながらコレステロールだの色々アウトだったのだが食事のカウンセリング担当さんが毎日自炊してるの大変よいですし、ごはんを少なめにしてるのも良いです!…歯科医にしても何にしても、麻酔が痛いドリルが怖いなんてことより「日頃の不摂生を叱られるのがイヤ」で治療通院を忌避しがちな(こうして書くと、ほんと大きな子どもですねえ)身には、褒めて伸ばすというか、たいへん生きやすい世の中に、少なくとも一部は変わりつつあるのではないか。
 と同時に、中高年男性という自分のステータスが「おだてて褒めて御機嫌を取ってやらないとキレてクレームをつける一番厄介な連中」と思われてるのかも知れないと自省したほうが良いのかも、と思いましたが…

 昨年のうちに治療は済んで、これも驚いたのだけど「では次は三月に。予約日を決めましょう」あ…三月「ごろ」じゃないんだ…
 また来ますよと言ってすっぽかしてフェードアウトとか出来ないんだなあ(こらっ)と妙に感心。これを機に少し健康になってやるかと安めの電動歯ブラシなど買ったのですが、再通院の最近に限って、忙しくてあまり作動させられず。…あまり叱られないといいなあ…
 

灰になるまで〜ベン・H・ウィンタース『地上最後の刑事』(22.02.01)

僕は灰になるまで僕でありつづけたい
―坂本真綾「ヘミソフィア」(作詞・岩里祐穂)

 コロナ禍は続いている。しかし社会の崩壊のほうが先に来てしまったようだ(面倒なので詳細は省略します)。
 パンデミックのはしりの頃には、アルベール・カミュの『ペスト』などが広く読まれたらしい。自分も末世の心構えに『サラエボ旅行案内』やポール・オースターの陰鬱な『最後の物たちの国で』など再読したいと思っていた矢先

出会ったのがベン・H・ウィンタース地上最後の刑事』(早川書房)。原著の刊行が2012年だからインターネットもある、フェイクトゥルースもある、カミュやオースターに比べるとリアルタイムの実況に近い感覚のある終末の物語だ。
(いや2012年て十年前ですけど…一昔ですけど…)

 半年後の小惑星衝突が不可避と判明し、人類滅亡が決定的となった地球・アメリカの田舎町。本来の主はとうに撤退し、別の誰かが勝手に「居抜き」で食堂にした「元」マクドナルド、その洗面所で中年男の死体が見つかる。ベルトによる縊死。でも何かがおかしい、どうしても自殺と思えないと不審を抱いた若い刑事が捜査に乗り出す。解決したところで世界が救われるわけでもない、些細な事件の真相を求めて…
 すでに説明しすぎかも知れない。言い方を変えよう。もうじき世界が終わるなら、好き勝手に生きたいのが人情だろう。いつか夢が叶ったらと先延ばしにしていた冒険に飛び出す。仕事も家族も捨てて、愚かな恋に走る。享楽や麻薬に溺れ、あるいは法を破って、滅亡の時を待たずに命を落とす者も山ほどいるはずだ。それでも自分に正直になれよ、お前の本当の望みは何だ?と問われ、灰になるまで、この世の最後の瞬間まで刑事でありたいと決めた男が本作の主人公なのだ。
 三部作です。第一作の『地上最後の刑事』はアメリカで探偵小説に贈られるMWA賞を受賞、二作目の『カウントダウン・シティ』はSF小説に贈られるP.K.ディック賞を受賞というのも面白い。第一作でギリギリ機能していた警察組織は二作目で解体され、主人公は刑事ですらなくなる一方、その妹が加担しているカルト組織=小惑星の衝突は回避できるのだが政府はそれを秘匿しているという陰謀論を信じる集団との確執がしだいに比重を増してゆく。
 とは言うものの、完結編にあたる『最後の七日間』までミステリとしての悲しい興趣は尽きることがない。悲しい、というのは主人公が関わる事件のどれもこれもフーダニット(犯人は誰だ)やハウダニット(どんなトリックで)以上にホワイダニット(何が動機で)の謎解きで、そのいずれもが「なぜだって?小惑星が地球に衝突するせいに決まってるだろう」という答えに帰着するからだ。世界が滅亡するというのに、些細な事件を追いかける皮肉な話ではない。といって逃避や自棄のような暴力犯罪を相手にするわけでもない。主人公が破滅の瞬間まで刑事でありたいと決めたように、どの事件の犠牲者も(それは被害者であったり加害者であったりするのだが)末世に人間でありたいと願うがゆえに破滅する。人類の終末というSF要素と、個々人の終末を描くミステリ要素は、最後の謎解きまで不可分に絡みあい続ける。
 なので作中で、主人公が最後から二番目にする決断―真相を求めることを放棄して、赦しを選ぶ場面は心に沁みる。赦しではなく幻滅や諦めなのかも知れないが、心に沁みるのだ。その感慨は、主人公が最後にする決断―真実を知る者の手をとる結末の感慨と、不思議に矛盾しない。破滅を思え、死を忘れるなと説く物語としては、重すぎず軽すぎず、ちょうどいい(ちょっと軽い)塩梅の話かも知れない。それでも末世を、終末を生きるための心構え(どうせなら最後まで人でありたい)を押しつけがましくない加減で示唆する、よい物語でした。
 
 月に一度くらいは生存報告をかねて、何かしら書けたらと考えることにしました。『失われた時を求めて』は一冊読むごとに別の本を一冊挟む形で読み進める予定で、今は別の本を読んでます。

生存報告(22.01.01)


 拡大。→
 昨年4月にサイト更新を休止して、早9ヶ月。年明けくらいは換気しようと久しぶりに窓を開けた感じです。あけましてだけに!…という駄洒落はいいとして
 日記にまとめてはいませんが、本も読んでます。映画もそこそこ。昨年の映画では北マケドニアというなかなか観る機会のない?土地の作品『ペトルーニャに祝福を』など面白かったと思います。本はついに手を出した『失われた時を求めて』一巻め途中で年をまたぎました。完走…いやスワン家くらいまでは読めるといいですね(二冊やん)…

社会を見ると絶望的な気持ちになりますが、せめて孤塁を守る一年になればと思ってます。のんびり、けれど、したたかに行きましょう。

さよなら救世主〜ティム・ミラー監督『ターミネーター:ニュー・フェイト』(2021.04.25)

 『ターミネーター』『ターミネーター2』の発案者にして監督だったジェームズ・キャメロンが製作総指揮に返り咲いたシリーズ通算6作目・『ターミネーター:ニュー・フェイト』(ティム・ミラー監督/2019年)も、映画館で見逃して、今さらながらDVDで観た一本。
 今さらながらの感想ですが、すごい百合でした
 またまたぁ、と言われそうだがフカシじゃない。実際、最後の最後まで「百合のようで百合じゃない、ちょっと百合」食べるラー油の按配で展開するが、終わるのかと思ったラスト1分で全てをひっくり返すような熱烈な百合に成り上がる。わー!わー!ばんざーい!という、まさかの大逆転。

 だが興奮が静まるにつれ、考えがまとまってきた。最後に大逆転であらわれたのは百合要素だけか。百合を軽んじるわけではないが、もっと大変なことが起きていたのではないか。

 そんなわけで今回の日記、『ターミネーター』シリーズの大規模なネタバレがあります。
 『ニュー・フェイト』を観ないまま読んだら、絶対に後悔します。


    *    *    *

 まず今さら、今さらだけどシリーズ全体を振り返っておこう。
 『ターミネーター』(1984年)の舞台は現代=1984年のアメリカ。近未来にスカイネットと呼ばれるAIが反乱を起こし核ミサイルで人類を殲滅、世界の支配者となる。しかし生き残った人類の中から、今度は機械の覇権を脅かすレジスタンスのリーダーが登場。この人類の救世主=ジョン・コナーの誕生そのものを阻止するため、スカイネットは頑健な金属骨格に分厚い筋肉をコーティングした最強のロボット兵士=ターミネーターT-800をタイムマシンで現代に送りこみ、ジョンの母親となる予定のサラ・コナー抹殺を試みる。
 未来の人類もサラを守るため、人間の兵士カイル・リースを送りこむ。手に手をとってT-800から逃れるうち、恋に落ちる二人。カイルはT-800と相討ちになり敢えなく落命するが、生き残ったサラが宿した子が、後の救世主となることを暗示して物語は終わる。ジェームズ・キャメロン監督ならびに、強面の悪役T-800を演じたアーノルド・シュワルツェネッガーの出世作となった。

 『ターミネーター2』(1991年)では、母サラの庇護のもと流浪生活を送る少年ジョン・コナーを直接ターミネートするべく、液体金属で自在に姿を変えられる新型のターミネーター・T-1000が未来から送り込まれてくる。対抗して未来の人類が送ってきたのは電子頭脳をハッキングしてジョンを守るようプログラムしなおした「良いターミネーター」T-800だった。
 サラとジョン・T-800はT-1000から逃れつつ、スカイネットが人類を滅ぼす「審判の日(ジャッジメント・デイ)」自体の阻止を図り、成功する。死闘の果てにT-1000をも倒した三人だが、未来の危険な兵器である自身の存在が再びAIの支配を招くことを回避するため、T-800は自ら溶鉱炉に姿を消すのだった。

 ジェームズ・キャメロンが製作から外れた『ターミネーター3』(2003年)の監督はジョン・モストウ。『2』で滅びたはずだったスカイネットは生存しており「審判の日」も遅延のみで阻止には至っていなかったという設定で、今度は女性型ターミネーターT-Xと、良いターミネーター(シュワちゃん)T-850が到来。青年となったジョンの命と、ふたたび審判の日の阻止をめぐってドラマが展開する。
 『ターミネーター4(T4)』(マックG監督/2009年)では、シュワルツェネッガーも姿を消す。もっぱら年齢によるもので、最後にちらりと、現役ボディビルダーにシュワちゃんの顔だけを合成したT-800が現れるのだが…
 タイムスリップもなし。『4』の舞台は「審判の日」後のレジスタンス世界だ。若手の新リーダーとして頭角を現しつつあるジョン・コナーは散り散りになった逃亡民の中に、後に自分の父となる、まだ少年のカイル・リースを発見。仲間をつかわし保護しようとするが、まだ肉をまとわない旧式ターミネーター・T-600の群れが逃亡民を襲う。助けに入るのは、今度は「過去から来た男」・マーカス。スカイネットの開発プロジェクトの一環として、「審判の日」以前に検体に応じ冷凍睡眠されていた元死刑囚だ。人間でありながらターミネーターのように金属骨格で内部強化された彼の設定は、『ニュー・フェイト』にアイディアとして引き継がれる。

 シリーズ5作目にあたる『ターミネーター 新起動(ジェニシス)』(アラン・テイラー監督/2015年)のことは、申し訳ないがよく憶えていない。新型ターミネーターとしてイ・ビョンホンが抜擢されたものの、作品によっては登場して1分で全裸になる肉体美を見せることもなく、扱いが少なかったことも一因かも知れない。タイムスリップによる出し抜き合いがインフレ気味で把握しにくかったこともあるのだろう。ただ「T-800は機械だが、そのまま時間軸に留まり続けると人間と同様に外皮は老化する」というアイディアで『4』のような合成(シュワちゃん)でなく、今のシュワルツェネッガー(シュワさん)を出演させるアイディアは、これもまた『ニュー・フェイト』に引き継がれた。
 『4』と同時期に製作されたTVシリーズ『サラ・コナー・クロニクルズ』は未見で今回の日記には間に合いませんでした…

 ここまで踏まえて、と言いながら『ターミネーター:ニュー・フェイト』ではキャメロンが離れた『3』以降の設定がバッサリ切り落とされる。
 つまりサラ・コナーによる「審判の日」阻止は成功。転じてジョン・コナーが救世主になる未来もなし。だがAIの支配とターミネーター的なロボット兵士の襲撃は続く。過去に戻ってナポレオンなりヒトラーなりの出現を「阻止」しても、歴史の流れ自体は変えられないというタイプの理屈なのだろう。スカイネットは滅びたが、とって替わるAI「リージョン」がTシリーズとは異なる独自のターミネーター・Rev-9を送り込んでくる。
 舞台は2020年のメキシコ(つまり「審判の日」の阻止によって機械が支配する歴史は変えられなかったものの数十年は遅延されたことになる)。新たなターゲットとなった娘ダニーをめぐり、未来から来たRev-9、同様に未来から彼女を守るため到来したサイボーグ戦士グレースが争い、ターミネーター・ハンターとして歳月を重ねたサラ・コナーと、かつて送られてきたものの「審判の日」阻止で自身の属する未来も存在目的も失ない、人として隠棲してきたT-800が加わる。
 

 結論を急ぐと、「ターミネーターが狙ってるのはあんたじゃなくて、あんたの子宮だよ」という老サラ・コナーの台詞や、カールという名で家庭をもったT-800の、義理の息子(年頃)の登場で(この子が未来の救世主の父親かな?)と深読みさせたりのミスディレクションがあるが、新しいバージョンの未来で救世主=人類の司令官となるのはダニーの息子ではなく、ダニー自身であることがクライマックスで明かされる。骨格を金属に変え、命がけで闘うグレースの献身は「司令官の母親を守る」ではなく、新バージョンのポスト・アポカリプス世界で逃げ惑っていた少女時代の自分を救ってくれた「司令官」ダニー本人を守りたいという動機に支えられていたのだ。ぐんぐん上がる百合メーター(まだこの設定、生きてたのか…)ここから完全なネタバレになります
 しかし、まるで個体サイズに凝縮された戦争のように2020年の世界を破壊しまくるRev-9を倒すため、結局、やはりグレースは自らを犠牲にしてしまう。いや、そういうのはいい、そういうのはもういいんだよ。こんな結末で「すごい百合でした!」と絶賛なんかしない。ところが最後の大逆転が、ラスト1分で訪れる。老サラを後見人に、未来の救世主となるべく歩みだしたダニー。訪ねるのは、未来の自分が救い、また現在の自分を救うために命を落としたグレースの、まだ何も知らない少女時代。家族と笑う幼いグレースをフェンス越しに見守るダニーは、遠くから囁く。今度こそ、私があなたを死なせない。(完)。

 …後悔したでしょ?実物を観ないで日記を読んじゃった人、後悔したでしょ?

 大急ぎで回収しておくと、Rev-9の造形、かなり好い。寡黙で無機質・無感情だったスカイネット製のTシリーズに対し、ずばり「如才がない」。上手いんだか上手くないんだか分からない軽口を連発し円滑にゲートをくぐる。言うならばスマート家電型。それでいて、ゲートをくぐったらバッサバッサと斬りまくる。殺陣と呼ぶに相応しい、21世紀型のアクションだ。他にも強烈なキャラ立ちになっている新機能や、対して強化兵士グレースが最終決戦で繰り出すエモノの格好よさなど、語り草はいくらでもあるが、ネタバレ自体が目的ではないので伏せます。すごかったですよねえ。
 そして関東から消えたと思った「カールおじさん」こんなところに居たのか…という冗談はさておき。シュワさんも良かった。俳優業に本格復帰して以降、スタローンと組んでの強面+余裕綽々路線での仕事も続ける一方、近年の彼は力だけではどうにもならない運命に対峙する者の悲哀を表現することに、試行錯誤で挑んできた印象が強い。武装グループのリーダーが配下を次々と殺される『サボタージュ』。最愛の娘がゾンビになってしまった父親の苦悶を描く『マギー』。悲惨な航空事故の遺族として、何も生み出さない復讐にすがるしかない『アフターマス』…志は分かるものの、まだこの分野で真芯を捉えた作品はないと思っていたが、どうにかして人間になりたい・なりきれない元ターミネーターの役柄は、彼が挑む新しい(最後の?)テーマの完遂とは言わないまでも、重要な手がかりに成りおおせていたと思う。その「当たり」をもたらしたのが、かつて彼をスターダムに押し上げたキャメロンなのも考えさせられるところだ。

 …話を戻します。
 『ニュー・フェイト』の結末が驚きだったのは(ものすごい百合であるにとどまらず)、これまでシリーズの根幹にあった自己犠牲のドラマを製作者みずから覆し、否定してみせたからだ。
 それはそもそも、未来の救世主の父親になることと引き換えにカイル・リースが命を落とした『ターミネーター』第一作から続く呪縛だった。『ターミネーター2』の「良いT-800」はスカイネットが支配する未来を阻止するため、自ら溶鉱炉に姿を消す。『ターミネーター3』は、これもひどいネタバレになるけど、救世主であるジョン・コナーを温存するために「審判の日」は阻止できなかったけど仕方ないという倒錯した結末となる。『ターミネーター4』は、実はけっこう好きな映画なのだけど、サイボーグ戦士マーカスが身を賭して守るカイル・リースも結局は「未来の救世主の父親となって死ぬために今はまだ死んではいけない」駒であること、そしてマーカス自身ジョン・コナーを救うため心臓ドナーとなって落命する結末と「そうは言いながら皆、駒でないかけがえのない生を生きたのだ」というメッセージはあるにせよ、犠牲の称揚を免れなかったとも言える。
 『ニュー・フェイト』での、ダニーの最後の台詞は、この「救世主を守るため皆が犠牲的献身をするシステム」自体に中指を立てる。なにしろ、未来は変えられるとサラ・コナーが証明してみせて以降の世界線なのだ。つまり、スカイネットが倒れてもリージョンが…とAIの支配が変わらず現れるなら、救世主だってジョン・コナーでなくても、ダニーでなくてもいい。自分が倒れても、人類を率いる指導者は別に現れてくれる。だから自分のためにグレースを犠牲にはしない。自分だって、救世主をまっとうするためではなく、自分が守りたいものを守るために生きる。
 これはものすごい思想なのではないだろうか。あなたはあなたの人生の主人公だが、皆に犠牲を強いてでも生き延びるべき呪われた(祝福された)救世主ではない。ターミネーターが襲ってきても、優先的に守られる特権などない。あなたの命には、周りにいる名も知らない人々ひとり一人と同じだけの、一人分の重みしかない。だからこそ、あなたは自由で、あなたが守りたいものを守るために生きることができる。
 
 
 映画がメキシコを舞台に始まったとき、予算の都合なのかな?と思ったが、そうではなかった。たぶんシリーズを通して描かれてきた「救世主のため皆が犠牲になることを厭わない」価値観は、どこか合衆国の理念と通じるもので、その負の側面を解毒するためにはダニーを合衆国の外に置く必要があったのだろう。半生をターミネーター狩りに捧げてきたサラ・コナーもまた、合衆国そのものに立入禁止という設定で描かれていた。これらについて深く追究するだけの手札が、残念ながら今の自分にはない。宿題にさせてください。
 …まとめて言えば、キャメロンの手を離れた3〜5作目+(ドラマを未見)も含め、シリーズをしめくくるに相応しい、挑戦的な完結編だと思います。いい最終回だった。まあスカイネットが滅びてもリージョンが現れるように、商業的な目論見でまた、シリーズも甦るかも知れませんが…

 
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 2019年12月以来なので、わずか一年半たらずとは言え、続けてきたサイト日記の毎週更新。以前も取り上げた中谷宇吉郎のエッセイの
I駅の一夜(青空文庫)(外部サイトが開きます)
先の戦争中に東北の田舎で、岩波文庫を棚に揃えつづけることで何かに抵抗していた女性の話が念頭にあったのだと思う。2020年のオリンピック強行開催+それに続く憲法改正という想定された暗い未来にたいし、なにがしか残る言葉と思考を積み上げておこう的な意図がありましたが、予想外に運命も変わった。状況は改善していませんが、このあたりで「負けた」「力尽きた」ということで終了したいと思います。
 Web拍手というのは、実は二回目のメッセージつき拍手が送られないと、どのページが評価されたか分からない困ったシステムで、何が反応されているのか、自分の書いたことは誰かに多少でも届いているのか、正直まったく手応えのない一年半でした(今頃しれっと大変なことを言う)。でもそれは別に苦ではなかった。自分ひとりの関心のために毎週、一定の時間を使って文章を組み上げることは孤独で、自分に向いた楽しみでした。
 しばらくは充電か、時間のかかることの下ごしらえに専念しようと思います。次のサイト更新は、創作の、新作のお知らせになればよいのですが。

いま求められるホラー〜ジョーダン・ピール監督『アス』(2021.04.18)

 劇場公開当時は見逃していたジョーダン・ピール監督の『アス』(2019年)は、ドッペルゲンガーをモチーフにしたホラー(超現実スリラー)だった。黒人の青年が恋人の白人一家に招かれ異様な恐怖を体験するデビュー作『ゲット・アウト』が絶賛された新鋭の、第二作にあたる。今度はルピタ・ニョンゴを中心とする黒人一家(妻と夫・娘と息子)の前に、自分たちと瓜二つの不気味な一家があらわれ、取って代わろうという話だ。同時期に話題をまいたポン・ジュノ監督の『パラサイト』との(類似ではないが)テーマ的な近しさを論じた評もあったと思う。それも納得の、思考を刺激する巧妙な寓話だった。おそらく、シンプルな『ゲット・アウト』のほうが評価は高いのだろうけれど、この第二作も個人的に非常に気に入りました。

 けれど『アス』がどう気に入ったか、説明するには回り道が必要だ。

 まず、多くの他のジャンルと同様、ホラーもまた、道徳的な教訓や価値に関する葛藤を描けるテーマだということを再確認したい。無差別なはずの殺人鬼が、たいてい性的に「ふしだら」な男女から餌食にするというのは、パロディの題材にもなっている「お約束」のひとつだ。もちろん理不尽に怪異や暴力に襲われる話も多いが、強欲や傲慢・過去の悪業が報いを受ける話も少なくない。
 イーライ・ロス監督の『ホステル』(2005年)は東欧を舞台にしたホラー映画だ。冷戦後、遅ればせで資本主義社会に参入した東欧。その時間差による格差を利用して「いい思い」をしようと、つまり本国では庶民レベルでも東欧では「リッチなアメリカ人」として美女にモテモテだと舐めてかかった若者たちが体験する、想像を絶する苦痛と恐怖を描く。
 しかし話はさらに遡る。『ホステル』を観て―ちなみに非常にゴア、つまり漢字四文字だとインパクトが強すぎるので間に平仮名を挟むと、いわゆる人の体を切って断つような描写がエゲツなさすぎて相当に後悔もしたしオススメも出来ないのですが―思い出したのは、さらに十年前のヒットソングだ。

 オアシス・ブラーなどがブレイクした90年代イギリス。ブリット・ポップと呼ばれたムーブメントを代表するバンドのひとつが、十年以上の下積みを経てついに正当に評価されたパルプだ。彼らの「コモン・ピープル」は語り手の平凡なイギリス青年が、ギリシャから来た裕福なガールフレンドに「あなたみたいな普通の人たち(コモン・ピープル)みたいに暮らしてみたい」と口説かれる顛末を歌って大ヒットした。長く続く不況と、格差の拡大で「普通の人たち」の鬱屈は頂点に達していただろう。
 とりあえずスーパーマーケットに行って、お金なんてないって顔してみせなよ。何それ面白ーいと君は笑うけど、ごらん?他の誰も笑ってないよ?

部屋にゴキ○リが出てもパパに電話すればどうにかしてもらえる君が「普通の人たち」みたいに暮らすなんて無理だよ。「他に何にもすることがないから」踊って、飲んで、性交する僕らの気持ちなんて分からないよ。「貧乏ってクール」と思ってる君のこと、みんな嘲笑ってるんだよ?
 3分半に切り詰められたMVで伏せられてるのは「性交」を意味する俗語のscrew(※ほぼfxxkと同義語)だけではない。あ、ちなみにゴ○ブリはMVでも音は消されてません。6分近いフルバージョンでは「僕たちみたいなのが存在するだけで驚きだろう?君がなんで?ねえなんでって思ってる間にまばゆく燃えつきていく僕らみたいなのがさ」(あ、このへん全部意訳だし端折ってます)という鮮烈なフレーズとともに、テレビでは流しがたい呪詛の言葉が歌われている―
 奴らは警告なしで君に噛みつくよ 君を引き裂いて裏返しにするよ
 みんな観光客(ツーリスト)がキライだからね

「コモン・ピープル」はスラム・ツーリズムと呼ばれる現象を痛烈に皮肉った歌である。その名のとおり、貧しい人々の、貧しい暮らしを娯楽として鑑賞し、消費する観光。日本でも最近、大阪の新今宮=西成のあいりん地区を「貧しいけれど人情のある街」として消費しようとした電通がらみのコンテンツが炎上した。
ホームレスとデートの記事の残酷さ〜貧困消費と感動ポルノ〜(ヒオカ/note)(外部サイトが開きます)

 

 そしてこの「君に噛みつき、引き裂いて裏返しにする」逆襲を実際に描いたのが『ホステル』だった。
 30前後だろうか、家庭をもつ者もいるヤンチャ者たちが青春を卒業する(←ただし信じられない理不尽な暴力によってだが)なんともいえない風情もある作品だ。ちなみに東欧のホステルには、美女にモテたいアメリカ青年だけでなく、ヨーロッパ人とのアバンチュールを夢みる日本人の少女たちもいる。彼女たちも含め、無邪気な観光客たちが次々と誘拐され、拷問と殺人を愉しむ秘密クラブの獲物にされる。「ディープ東欧にある、あとくされない恋と乱交のホステル」は餌を釣るための罠だったのだ。
 自分たちの尺で測って「開発度が低い」地域や階層を劣った・愚鈍なものと見くびり、いわば格差を利用して利得を得ようとする都会人が、その思い上がりを暴力的に戒められる。…そこまで誇張されてないにせよ、(自称)文明人が非文明的なもの・野生の、野蛮なものたちに襲われるホラーを「赤頭巾型のホラー」と仮に呼ぶとする。むろん『ジョーズ』のような実際にモンスターが野生動物な作品も想定されるし、テキサスの田舎でエンストした自動車乗りがチェーンソー男をはじめとする殺戮一家に襲われる『悪魔のいけにえ』なども赤頭巾型=オオカミ怖い型のホラーに数えることができるだろう。『ホステル』で高く評価されたイーライ・ロス監督はその後も、南米に文明を持ち込もうとした欧米人が先住民族に逆襲されたり、ガイアナの人民寺院をモチーフにした、つまり文明を脅かす非文明をテーマにした映画を撮り続けているようだ(怖くて観ていない)。
 反面、階層や文化度・文明度が高い者が「趣味」のシリアル・キラーとして、下民と蔑んだ相手を獲物にコレクションしていく作品は「青髭型のホラー」だとも言える。前回の日記で紹介した、あんな作品やこんな作品は、こちらに分類できそうだ。『ホステル』は見るからに赤頭巾タイプのホラーだが、思い上がった観光客を餌食にする秘密クラブ自体は、どうやら大金をはたいても人の体を切ったり断ったりしてみたい富裕層が顧客らしく、青髭ホラーの要素もあるのだけれど、まあ話をすすめるための仮の、ゆるい概念なので深くは追求しない。

 …問題は、東欧に行けばオイシイ目に逢えるというアメリカ人の思い上がりを戒める要素を持っていたはずのホラー映画が結果的に「ほら見ろ、東欧の、文明化されてない奴らは恐ろしいんだぞ」と、余計に蔑視を煽る副作用も有していることだ。「気をつけな、奴らは君を引き裂くぞ」という台詞は「奴ら=僕ら」と捉えれば貧しいコモン・ピープルのやるせない遠吠えだが、「奴ら」を本当に「奴ら」と対象化できる者が発すればゼノフォビア・マイノリティへの差別・迫害の犬笛になる。それはまさに元祖「赤頭巾」で悪役にされたオオカミがヨーロッパで害獣として迫害・駆除されていった歴史が示している。

    *    *    *

 ようやく『アス』に話が戻る。
 前作『ゲット・アウト』は裕福な白人が黒人を捕獲する青髭ホラーだった。同時に、都会っ子の主人公が田舎の閉鎖的な白人コミュニティで捕獲されそうになる赤頭巾ホラーでもあったのだが、いちおう主人公は善良で、モンスターは邪悪。マイノリティとして迫害を受けてきた黒人を主人公に、あらたな迫害を描く作品だった。
 
 『アス』の主人公もまた(監督自身の出自でもある)黒人の一家だが、彼女ら/彼らは別荘地で白人一家とも親しくつきあい「黒人だから」という属性からは一応、切り離されている。ではどのような属性に属しているのか。それは一家の前に突然あらわれたドッペルゲンガーの不気味な一家が問わず語りに示している。私たちはアメリカ人よと。
 「アス」は英語ではUS。「私たち」でもあり、文字どおり「アメリカ人」=US(United States)でもある「ゼム(THEM)」。このUSを名乗るTHEMに、監督が仮託したのは主人公たち=「私たち」アメリカ人が、些細な不平はあるけれど豊かで満足な暮らしを送ることで、踏みつけにしている「私たち」になれない存在全般だ。いや、実際に監督がそう言っているのだ。
 それは「私たち」の豊かな暮らしを、薄給で支えている国内の外国人労働者かも知れない。あるいは「私たち」が入手できる安価な衣料品を、薄給で提供する国外の労働者かも知れない。「私たち」の満足な暮らしは「ゼム(THEM)」の搾取のうえに成り立っており、「私たち」には報われるべき罪過が、借財がある。
 だが、それを直に脅威・モンスターとして描けば「ほら、やっぱり奴らはオオカミなんだ」と偏見を煽ることになる。この隘路をジョーダン・ピール監督は「私たちにそっくりな、しかしいびつな、けれどそのいびつさは吾々に責任がある、地下に封じ込められたドッペルゲンガーたち」という架空の存在・荒唐無稽ともいえるSF的なアイディアで奇跡的に切り抜けた。
 
 主人公がドッペルゲンガーに遭遇し、また、地下に恐るべき真相が隠されているという意味で、個人的にはダンカン・ジョーンズ監督のSFスリラー『月に囚われた男』(2009年)を思い出さずにはいられなかった。
 あるいはクライマックスで回想される、地上で踊られるバレエにシンクロして地下で繰り広げられる痛々しくグロテスクな模倣は、2018年のルカ・グァダニーノ監督によるリメイク版サスペリア』を彷彿とさせる。
 監督なら当然なのだが各国の映画に造詣が深いと思われる作者なので、これらは意図的なものかも知れない。けれど、映画でなくても、それこそ先日の西成をめぐる炎上さわぎでも、ファストファッションの衣料品が弾圧されているウイグル産の(つまり搾取や奴隷労働が疑われる)綿を使っていた件でも、吾々のまわりにある多くの事象を投影できる、精緻さと懐の深さをもった作品が『アス』だと思う。
 多くの他のジャンルと同様、ホラーもまた、道徳的な教訓や価値に関する葛藤を描けるテーマだと再確認できた一本でした。
 おそらく、シンプルな『ゲット・アウト』のほうが評価は高いのだろうけれど、この第二作も個人的にオススメです。(ゴアじゃないよ)
 
 いや…さすがに『ホステル』をココに貼るのは…

ハルキ殺し〜イ・チャンドン監督『バーニング 劇場版』(2021.04.11)

 ※今週の日記には『バーニング 劇場版』および村上春樹の小説(直接の原作とされる「納屋を焼く女」だけでなく)に関する遠慮のないネタバレがあります。御注意ください。

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 主人公は中年男。自らの技能を活かし、会社組織の歯車ではない自由な立場で生計を立てている。妻とは離婚しているが、同年代の愛人(夫がいる)がいて性的にも満足な境遇だ。そんな彼が不可解な事件に巻き込まれる。謎めいた少女が彼の探索をアシストし、主人公を性的に導きもする。やがて主人公は、先の戦争の時代から続く、とある裕福な一族の呪わしい過去を暴くことになる…
 …ミスディレクションで申し訳ないが、村上春樹の小説ではない。『ねじまき鳥クロニクル』でも『海辺のカフカ』でもない。スウェーデン発のベストセラーで本国でドラマ化・ハリウッドで映画化もされたスティーグ・ラーソンミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』のストーリーの要約だ。スウェーデン版のドラマで主人公ブルムクヴィストを演じたミカエル・ニクヴィストが(自分の考える)「ハルキ顔」だったから思いついた類似かも知れない。あるいは原作で「いや都合よすぎだろ」というほど主人公がモテる(映像版では控えめになっている)ので連想に至ったか。もちろん、意図的な類似だったかは定かでもないし、そこに関心もない。都会的なトレンディ小説…という安易なイメージとは別に、「こういうのがハルキ的」と呼べそうな要素があり、そっち方面で似通った作品があるのを興味ぶかく思ったのだ。
 逆に春樹作品のほうがミステリから多くの養分を得ているって話でもありますね

 ※というわけで今週の日記には『ドラゴン・タトゥーの女』のネタバレもあります。御注意ください。

 もう三年も前の映画だからネタバレ全開でもいいだろう。イ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』は村上春樹の短篇「納屋を焼く」の映像化だが、大胆な翻案でもある。公開当時、先行して入ってきた評として(原作者が描かながちな)格差や貧困の問題を正面から描いている、というものがあった。なるほど、上にも書いたように春樹作品の小説の主人公は「食べていくのに困らない」印象が強い。原作「納屋を焼く」でもそうだ。語り手となる主人公は、作者を想像させる31歳(既婚)の作家。性的な関係はないらしいが月に2回くらいデートしているガールフレンド20歳。彼女が外国から連れ帰ってきた恋人の青年(年齢不明)。いずれも仕事の内容は多く語られない。「年齢とか家庭とか収入とかいったものは(中略)要するに考えてどうにかなるという種類のものではないのだ」とは冒頭の言である。Skip a life completely, stuff it in a cup。
 やがて(主人公の奥さんは放ったらかしで)三人の奇妙な交遊が始まり、やがて語り手の関心は彼女のボーイフレンドのほうに移っていく。彼は(彼女が寝てる間に、主人公だけに)好さげな納屋をいくつも見繕っていて、二ヶ月にひとつくらいガソリンをかけて焼くという変わった趣味の話をする。他人の、というか誰のものかも知らない納屋だ。ふつうに犯罪である。火をつけた後は遠めの場所から望遠鏡でのんびり眺める。「外車に乗った身なりの良い若い男がまさか納屋を焼いてまわってるなんて誰も思わない」。原作には原作の語り口でのみ立ちのぼるペーソスや詩情があるのだろう。こうして抜き出してみると、ずいぶん不穏で剣呑な話だ。
 その剣呑さを(原作をも振り切る勢いで)最大限に引き出したのが、映画『バーニング』だとも言える。まず、登場人物たちのコンポジション・力関係が違う。主人公は彼女と同年代・というか元同級生で、卒業後そうそうに職を失ない実家の農業を継ぐような継がないような、どっちつかずの場所で呻吟している若者。スーパーの前でキャンペーンの景品を配っていた彼女と再会して、恋愛のような状態になるが、生活が重荷となり関係は長続きしない。次に再会したとき、彼女は外国帰りで裕福でハンサムな新しい恋人を連れている。三人の奇妙な交際が始まり、やがて彼女が寝ている横で、納屋を焼く打ち明け話が始まる…
 ユ・アインが演じる主人公の若者を、若い頃の作者=村上春樹を彷彿させる・させないと吟味する評もあった。だがむしろ「ハルキ顔」をしているのは裕福な新しい恋人のほうに思われた。スウェーデン版『ドラゴン・タトゥーの女』のミカエル・ニクヴィスト。映画化された『ノルウェイの森』(未見)で主人公を演じた松山ケンイチ。それに村上春樹に似てるといわれるポール・サイモンや羽田孜(第80代内閣総理大臣)。

 スティーヴ・ユァン演じる新しい恋人は30代。裕福で生活に困らず趣味がよく、そしていつでも含み笑いをしている。隠し事があるように。それを見抜けない周囲の人々を面白がるように。要するに、この『バーニング』のハルキ似の彼は、人々が「こんな感じ」といって村上春樹(作品)を批判したり揶揄したりするときの「軽薄な村上春樹(作品)」像の具現化みたいなキャラなのだ。しかし監督による「大胆な翻案」の本領はここからだ。観れば分かることなので、勿体ぶる必要はないだろう。
 ※ここから、本当に踏みこんだネタバレになります
 映画『バーニング』の裕福な男は、納屋を焼く放火犯ではなく連続殺人犯であることが示唆されるのだ。

 原作でも映画でも、ガールフレンドの新しい恋人に「納屋を焼くのが趣味なんです。実はこのへんにも好い物件がありましてね。今日はその下見も兼ねて来たんです」と言われた主人公は、地図で近所のいくつかの納屋に目星をつけ、焼かれてないか・もう焼かれたか確認するためジョギングを始める。そのうちガールフレンドとは音信不通になってしまい、恋人のほうと二人だけで会うことになる。裕福な恋人は、目星をつけていた納屋はもう焼いたと言う。だが主人公は近所で焼けた納屋を確認できていない。見逃したんでしょうと微笑まれる…
 『バーニング 劇場版』では、この新しい恋人がシリアルキラーで、主人公の想い人でもあった彼女を愉しみのために殺害したことが示唆される。「納屋を焼くんです」「新しい物件にも目星をつけてます」「このへん(あなたの近く)ですよ」という台詞が、急に禍々しい色合いを帯びる。
「十五分もあれば綺麗に燃えつきちゃうんです。まるでそもそもの最初から存在もしなかったみたいにね。誰も悲しみゃしません。ただ―消えちゃうんです。ぷつんってね」(原作「納屋を焼く」より。太字部分は原典では傍点つき)
彼の含み笑いは、『ドラゴン・タトゥーの女』で連続殺人の真犯人が探偵役のブルムクヴィストに「この前、君を招いてディナーを楽しんだ、まさにその時(食卓の足元の)地下室には、次に私に殺される被害者が監禁されていたのだよ」と嬉しげに告げた時みたいな、深みのない邪悪さを漂わすかのようだ。
 そうした意味で、本作は単なる「納屋を焼く」の映像化というより「納屋」と、シリアル・キラーを描いた『ダンス・ダンス・ダンス』のマッシュアップと言ってもよいだろう。
 そもそも、村上春樹の作品には主人公の分身・オルターエゴのような人物がよく現れる。最初の三部作の「鼠」。『ノルウェイの森』のキズキ。そして『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田くん。『スプートニクの恋人』もドッペルゲンガーがモチーフだった。…物語において、ドッペルゲンガーは妄想の第一レッスンのよう描かれがちな現象だ。僕がよく、村上春樹作品が世界中に読者を得たのは、描かれる幻想が高度消費社会の成立にともない発生した心の病にフィットしたからではないかと書いてることにも関連する。
 オリジナルの作者ラーソンの急逝後、別の作家によって書き継がれた『ミレニアム』のシリーズが「ドラゴン・タトゥーの女」リスベットと、双子の妹カミラとの殺し合いを描いていることを、ここで述べるべきだろうか。三部作の「鼠」、『ノルウェイ』のキズキ、『ダンス』の五反田はそれぞれ「親しい友人の死を乗り越えて」主人公を成長させるためのように、主人公も持っていたかも知れない負の属性を引き受けて処分するように、破滅的な生を生き急いで死の世界の住人となっていく。

 …とはいえ『バーニング』の彼女をめぐる二人の男は、双子のようなドッペルゲンガーではない。ハルキらしさを体現しているのは裕福な含み笑いのハンサムで、若く貧しい主人公は、経済的なハードルゆえハルキ的な世界に参入できない「その他おおぜい」の具現化なのかも知れない。ハルキ=「やれやれ」といった安易な揶揄でなく、ファンですら完全には否定できない春樹作品の鼻持ちならなさを、一人のハンサムに集約して断罪する、『バーニング』はそんな「父親殺し」・ハルキ殺しの所業として興味ぶかかった。
 案外その(有名なミステリ小説に出てくる、一人ではナイフを振るう残酷さをもてない者たちが十人がかりで悪党を断罪するような)殺害者の中には、学生結婚して喫茶店の経営に追われ「ホールのチーズケーキから切り出した・フォークで支えないと倒れてしまうくらい薄い切片のような」貧乏暮らしだったという、小説家として成功した後の作品には反映されない・ハルキ的世界には参入できない、作家になる前のハルキ氏自身も含まれているのかも知れない。いや、これはちょっと話を盛りすぎですか。

 原作を翻案する・何かをベースに新しい作品をつくる場合、原作や元ネタの良さを忠実に写し取る・さらに発展させる、の他に「むしろ原作を倒す」「葬る」方向で乗り越えていく。嫌いではありません。(批評もそういうとこあるし)。
 

ドラゴンの名をもつ女〜パク・ソリョン『滞空女』(2021.04.04)


 パク・ソリョン滞空女 屋根の上のモダンガール』(萩原恵美訳/三一書房/原著2018年・邦訳2020年)について、語れることは多くない。実物で味わってほしさが強すぎて、1センテンス書けば1センテンス分、一行書けば一行分「これをまっさらな状態で読む」愉しみが奪われてしまうからだ。
 そして思うに、この強烈な磁力を放つ、本体のアートワークだけで十分ではないのか。群青の表紙に白く大きく滞空女という謎めいたタイトルとあそこに人がいる。そして怖くはないんですか。という帯文。
「誰か死にはしまいかと怖いです。それが自分だったら怖いし、他の誰かでも怖いです。
 人が死ぬことを何とも思ってないやつらが怖いです。」

これで読みたくならないほうが、どうかしている。と思いつつ数ヶ月。ようやく手にして読んだ。期待は裏切られなかった。以上。

三一書房『滞空女 屋根の上のモダンガール』公式(外部リンクが開きます)

 …で終わってしまったら日記(週記)にならないので、なるべく興を削がないよう話を進める。帯裏の紹介によれば「滞空女」の本名は姜周龍(カン・ジュリョン)。1931年の平壌で「朝鮮の労働運動史上はじめて「高空籠城」と呼ばれる高所での占拠闘争を繰り広げた」とある。
 物語はそんな周龍が数え二十歳で嫁いだ五つ年下の夫・全斌(ジョンビン)を熱愛、

彼の願いをかなえるべく、ともに婚家を出奔し独立軍に身を投じる前半で始まる。負けん気の強い彼女は、女は炊事洗濯係かと上層部に食ってかかり、武器の輸送などでメキメキ頭角を現していく。ちなみに周龍も夫も実在の人物。帯裏の説明では、その生涯が「1901〜1932」の短さであったと、あらかじめ提示されている。冒頭の時点で、彼女にはもう十年余の時間しか残されていない。つらい。焦る。だがそんな読む側の心配など蹴散らして主人公は突っ走る。
 波瀾万丈の展開と、彼女の行動力に引っ張られ、ページを繰る手が止まらない。本当に余計なことを言いたくないので説明を可能なかぎり端折ると、後半はストーリーが一転。読者は平壌のゴム工場で働く龍ねえさんに再会する。貧しいながらも自由を謳歌する彼女はしかし、今度は労働争議に巻き込まれ、というより自ら渦中に踏み込んでいく。ストライキの計画。共産党のオルグ。ひょっとしてこれは、プロレタリア文学というやつか?社会主義リアリズム?
 しかし小説の主人公は人間で、イデオロギーではない。相変わらずの負けん気で工場に楯突く、インテリの共産党員にも噛みつく。
「あたしに近づいたのも最初から看板が必要だったんじゃありませんか。
 無学な女工はエリート男の言うことを素直に聞かず拒否しそうだから、
 それらしい操り人形にお先棒を担がせる戦術だったんでしょ」
「そのとおりです。私は周龍さんを利用しています。最初から利用するつもりで近づきました
(中略)
 いくらそうしたくても私は周龍さんのようにはできません。女性のゴム職工の当事者性を真似ることも奪うこともできないのです(中略)
 周龍さんも利用すればいいんです。私を、私の組織をいくらでも利用してください」
言うだけのことはキッチリ果たし、持ち出しの献身まで上乗せするドラゴンの女。義侠心に篤く、直情的で、手足を思うまま振り回すように自由でありたいと心はいつも燃えている。そんな主人公に、傑物と一目置かれる男たちも惚れこむ。周龍自身が「惚れて」いたのは夫の全斌ただ一人だけれど、前半では独立運動のリーダー白狂雲・後半では共産党のエリート鄭達憲が、彼女の潜在的な力を見抜き、なにかと目をかける。
 とくに後半の達憲が(たえず口喧嘩しながら)周龍に寄せる厚意は「男女バディ」のように優しくも熱く、そして自分のコントロール下に置けないほどの奔馬だからこそ彼女に思い入れずにいられなかった悲しみに満ちている。映画のフィルムの巻き戻しのようなラストシーンの語り口は今時それほど珍しくもないかも知れない。けれど実際には手の届かないところにいる周龍に達憲が呼びかける場面は、半ばクリシェになりはじめた技法が、まだまだ心を打つ表現になりうると示している。

 小林多喜二の『蟹工船』が1929年。哲学教師だったシモーヌ・ヴェイユが病弱な自身を投げ打つように工場労働に身を挺したのが1934年。姜周龍の高空籠城は、海を隔てた日本に現れた煙突男(労働争議のため工場の煙突に登る)と、互いの存在も知らずにシンクロしていたという。
 歴史学研究所のパク・チュンソンが本書に寄せた解説によれば、労働運動が長いあいだ弾圧・抑圧されてきた韓国で1990年・高さ82メートルのクレーンを70人が占拠し「高空籠城」が復活した。そして両者の橋渡し的な存在として、1970年に焼身自殺した全泰壱「烈士」の名が挙がっていた。先月の日記で取り上げた李珍景『不穏なるものたちの存在論』で、著者が「幽霊が存在することを信じる。強い力を持って実存することを確信する」と書いた「若者」の名前だった。
 もちろん同じ国で書かれた本だから、同じ名前に巡りあうのは、そこまで珍しい話ではない。それでも、かたや小説・かたや思想書と装いの異なる二冊の本が、自分にだけ見える磁力で引き合っていたようで感慨ぶかかった。本も御縁なのだという、いつもの話です。
 
 『無謀なるものたちの共同体』も読了。資本主義を代替するコミューン=共同体は、資本主義の廃絶後にしか到来しないユートピアではないと著者は説く。たとえば賃労働の現場でも業務を動かしてるのは無償の助け合いであり「冷徹な資本の論理」はそのたび穴を開けられているのだという指摘は「マルクスが言うように労働者が生産工程の支配権を奪取したところで、各々バラバラに寸断された業務を強いられる以上、疎外は解消しないじゃないか(大意)」と厳しく指摘しながら、その疎外された工場労働に自ら挑んだヴェイユの「無謀なる」思想を補完するもののようにも思われました。

ローカルとグローバル〜ディー・レスタリ短編集『珈琲の哲学』(2021.03.28)

 2019年に台湾で大ヒットした映画『返校 -detention-』の日本公開が決まったらしい。喜ばしいと同時に、少し驚いた。旅行中に現地(台北)の映画館で観て、圧倒されると同時に、でも日本への配給は難しいかもと勝手に思ってもいたからだ。
 原作は同名のホラーゲーム。不気味な学校に閉じ込められた少年少女が、異形のモンスターに脅かされながら脱出を試みる話だ。もちろんホラーなのは配給の障壁にはならない。実は同作、舞台は軍事政権が白色テロと呼ばれる民衆弾圧を行なっていた1960年代。形式はホラーでありながら、恐怖政治や密告社会での裏切り・罪と罰を描いた、当事者たる台湾の人たちにとっては胸をえぐるようなテーマに挑んだ作品なのだ。
 
 もちろんホラーは、作りかた次第でいくらでも社会的・倫理的メッセージを盛り込めるジャンルだ(これについてはいずれ、項を改めて語ることになるでしょう)。しかし本作は、ホラーを求める他国の観客に提供するには、背景となる社会的要素があまりにローカルで、ドメスティックということで忌避されないかと懸念したのだ。
 なので日本での公開が決まり、邦題が『返校 言葉が消えた日』だと知ってオセロがひっくり返されたような気がした。そうか、「ホラーとしてはローカルすぎて配給しにくいのでは」という先入観は自分だけのもので、むしろローカルでドメスティックな社会的テーマの作品であることを前面に出して(実はホラーですと)売っていく形は当然ありえたと。7月公開予定とのことで、自分も観直すのが楽しみ(あまり楽しみって感じの話じゃないですけど)な一本です。

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 でも今日の本題は小説の話。『珈琲の哲学 ディー・レスタリ短編集1995-2005』(福武慎太郎・西野恵子・加藤ひろあき訳/上智大学出版・ぎょうせい/2019年)。帯にいわく「あなたとインドネシアを繋ぐ、人生と愛のテーマを18篇収録」。めったに読む機会のない国の小説と知り、これも縁だと手に取った。非常に好かったです。おわり。いや終わらない。
 イントロダクションによれば著者は1976年生。ちなみに女性。ミュージシャン活動を経て『スーパーノバ:騎士と王女と流星』という長篇で作家デビュー。発売35日で1万2千部を売り上げ、英訳もされ、最終的には六部作として完結した同作も(先週のぼやきに続き)未邦訳なのですが、こっちも出来れば読んでみたいのですが、まあそれは措く。『珈琲の哲学』のほうはデビュー前から書いていた習作などをまとめた短編集。タイトルからしてSFともファンタジーとも取れる長篇と違い、日常的な世界での恋愛や心理の綾を描く短編小説や、メッセージ性の高い歌詞を思わせる散文詩から成る。
「あなたは恐れている。なぜなら、誠実でありたいと願っているから」
「ラナと仲良くするということは、涼しい水の中に放流されるような感じなのだが、その涼しさは暫くすると恐ろしい寒さとなり襲ってくる」
「何かに引きずられると我々の疲れは倍増し、何かに挟まれればその時間は重くのしかかる。そして、大切なものを取り除かれると、心の声が聞こえなくなる」
「私の手を取って、でも強く握りすぎないでください。なぜなら、私は引っ張られたいのではなく、共に歩きたいからです」
どれが小説の一節で、どれが詩の一部か、分からないでしょう?こういう独自な文章世界を有する作品集なのだ。普遍的で、ジェンダーに関係なく響いてくる言葉。
 
 言い替えると、いかにもインドネシアですね、という要素は稀薄に思われる。表題作はインドネシアがアジアで有数のコーヒー生産国であることを知れば、より味わい深くなるかも知れないし、フィルターで濾さずに挽き豆がカップの底に沈んだ上澄みを飲むトゥブルックという淹れ方は独自かも知れない。けれど究極のコーヒーを求めて店を開いた若者の聖杯探求譚と、彼を見守る語り手=共同経営者の青年の友情は、舞台がマンハッタンでもアムステルダムでも、なんなら日本の何処かでも成立しうる。
 

 もっと良い例がある。「あなたが眠るその前に」という短篇の一節だ。
「ピクニックに行きましょう。ミルク・バスに入る。ポトン・トゥンペン(訳注:サフランで色をつけた黄色いごはんを…(以下略))もする。それから砂遊びして、コオロギを戦わせて、袋飛び競争をして(中略)
でも、何かを一つだけ選べというなら、あなたに寄り添って眠って、夢を見たい。私の手が枕の下にあって、あなたがそれを握ってくれる」

 これが『珈琲の哲学』という作品集だ。ポトン・トゥンペンやコオロギの戦いで「インドネシアと繋がり」たい人には不満かも知れない。けれど「あなたに寄り添って眠りたい」という感情はモスクワでも台北でも、なんなら日本の何処かでも普遍的にあるもので、インドネシアでもそうなんだなと思う、そういう形で日本の読者は「インドネシアと繋がる」ことができる。
 それは村上春樹が世界中で読まれている、その受容のされかたと似ているのではないだろうか。おそらく世界中で春樹を読むひとたちは、その小説に日本らしさを求めてはいない。あるていど近代化し消費社会化した国や地域なら、同じように感じる不安や欠落感・あるいは「小さな確実な幸福」に共感するからこそ、世界中で人々は春樹を読むのだと思う。

 人生ではたまに、こういう贈り物みたいな本が降ってくることがある。また作中の卓抜な比喩を借りて言うなら、砂漠の真ん中に現れた真白い雪のような贈り物が。静かに、おすすめです。
 

n個の性〜ジョアン・ラフガーデン『進化の虹』(2021.03.21)

 いや、李珍景不穏なるものたちの存在論』の話の続きなんですけど。
 前回の日記で「ハイデガーやレヴィナス、フーコーやドゥルーズ=ガタリ、ニーチェやマルクスを縦横に引用し…」などと書いたから、そのあたりを予備知識として先に読んでないとダメなのかと思われたかも知れない。そんなことないです。「ハイデガー?当然もう知ってるものとして話を進めるよ?」ではなく「ハイデガーという人がこういうことを言ってるんだけど…」と逐一丁寧な説明が入る。逆に「ふーん原典を読んだことないけどハイデガーってそんな感じなんだ」と分かるし、いちおう読んだつもりの著者についても「あれはそういうことだったんだ」と再発見がある。

    *    *    *

 「n個の性」はドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の終盤に出てきて、印象に残った概念だった。
 いわくひとつの性でも、二つの性でもなくて、n個の性。二つの性はむしろ簡単だろう。男と女。ひとつの性とはフロイトに始まる精神分析が、男性のトラウマは父親の巨大なペニスに対する畏怖と去勢されるのではないかという恐怖に基づき、一方で女性のトラウマは父親のようなペニスを持たない劣等感に基づく、つまり男の性も女の性も(象徴的な父親の)ペニス(の欠如)に還元できるとした一元論をさす。これに対してドゥルーズ=ガタリは冗談よせよ、むしろn…個の性が、ひとりの主体の中にすらn…個の性があるんだと説いて言うのだ。
「女性の中には男性と同じほどに多くの男たちが存在し、男性の中にも同様に女性と同じほどに多くの女たちが存在する」
「愛をかわすことは、一体となることでもなければ、二人になることでさえもない。そうではなくて、何千何万となることなのだ」

 LGBTに関する話題が持ち上がらない日はない2021年の現在。半世紀前も前に書かれた言葉は、いま差別と反差別が形成している対立構造とは少しズレるかも知れない。何しろ彼らが言う「性」「欲望」は性別を問わないどころか、モノやコトにまで及ぶ。それは多様な性を、無条件で肯定するものですらない。「軍旗、国家、軍隊、銀行は、多くの人々を勃起させるヒットラーは、ファシストたちを勃起させたのだ」
 性は二つじゃないし、まして一つなんかじゃない、むしろ何千何万…n個なんだぞ。この言い切りに魅了されつつ、今まで引用や言及をしてこなかった理由はもうひとつある。それは実態に即さない空想的なアイディア、地に足のつかない空論ではないかという懸念だ。ただ威勢よく、人を驚かせることだけを狙った、逆張りの、空っぽなレトリック・言語遊戯なら要らない。
 実際には、ドゥルーズがそのキャリアの出発点から昆虫や動物と人間の境界に「哲学者」らしからぬ深い関心を寄せていたことを今の吾々は知っている(20年5月の日記参照)。ドゥルーズとコンビを組む前のフェリックス・ガタリのいわゆる『アンチ・オイディプス草稿』も(未読なのですが)パラッとめくったら蜜蜂の生態のことを語っていて「うわー」と思ったことがある。一方で、彼ら二人を含むポストモダン・現代思想の思想家たちが、いかに科学的な知見をテキトウにつまみ食いし曲解しているかというテーマの本もある。「n個の性」というアイディアは、自分の中では宙ぶらりんの懸案だった。


 そんなわけで李珍景『不穏なるものたちの存在論』が「n個の性」というアイディアを、科学的な裏づけを添えて再提示してきたのには驚いた。なにしろ、そもそも人間以外の生物の世界にオス・メスに還元しきれない「n個の性」が溢れているというのだ。

 ここで再確認しておくのもよいでしょう。そもそも、なぜ性というものが存在し、それは男女・雄と雌・精子と卵子なのか。
 この分野の入門書=長谷川真理子(長谷川真理子)『オスとメス=性の不思議』(講談社現代新書)は言う。まず、性が存在するのは遺伝子をシャッフルするため。アメーバのように同じ遺伝情報を持った分身を増やしていく方法だと、何か災厄があったとき(マット・リドレー赤の女王』はウイルスのような乗っ取り・寄生者の存在が最大の要因だとしている)同じ遺伝子であるために一網打尽になってしまう恐れがある。そのため、別の遺伝情報を持つ他の個体と遺伝子をシャッフルすることで、誰かは死んでも誰かは生き残る、多様性を確保したという説だ。
 そして、別々の二つの個体が効率よく出会うためには A.栄養を豊富に持つぶん動きの少ない個体とB.栄養は持たないぶん身軽な個体、A同士でもなくB同士でもなくAとBの組み合わせが数学的に一番よかった、それでA=卵子・B=精子、すなわち雌と雄・女性と男性になった、という。
 
 これ自体は、まあ間違ってないと思う。明快だし、それよりもっと箸にも棒にもかからない説に比べたら、はるかに筋が通っている。
 しかし、この考えが「人間的」に悪用されるきらいがあることも確かだ。典型的なのは「男の浮気は本能だから仕方ない」「女は家を守るべき」…

 『不穏なるものたちの共同体』で著者の李氏は、生物学的なオスとメスの「本能」から人間の男女かくあるべきを説くのは、実は逆に、人間の男女かくあるべきという観念を生物界に投影しているのではないかと指摘する。
 いや「人間以外の性は雄と雌で固定されてるけど、人間は自由意志があるから・あるいは逆に「本能の壊れた動物」だから、その固定に従う必要はない」という反論すら、人間は特別という驕りではないのかと。人間以外の生き物の性って、そんなに固定されたものなの?
 李氏が取り上げるのはジョアン・ラフガーデンの2004年の著作『進化の虹』だ。それはもう、ドゥルーズ=ガタリが知っていたら大喜びしていただろう「n個の性」の饗宴だ。いわく
「ワキモンユキトカゲには大きさと色、行動パターンを別にする三種のオスと二種のメスの五つの種がある」
「南太平洋のニューヘブリディーズ諸島には「七つの性」を持つブタがいる」
「ブチハイエナのメスは陰茎を持っていて、この陰茎を通して子を産む(だからたくさん死ぬ!)」
「植物はトウモロコシのように雌雄すべての生殖構造を持つものと、ギンナンやナツメヤシのように雌雄が別になっているものがある」

性転換する魚、女王が大量の同性と少しだけの雄を産むアリや蜜蜂の話までするべきだろうか。ラフガーデンは雌雄の区別など結局は(上で述べたとおりの)生殖細胞の大小でしかないと結論づける。だがその「大小」すら二つでなくn個だったりする。「ショウジョウバエの一種(中略)は、精子の大きさが三種類であり、四種の大きさの生殖細胞をつくる」
 ラフガーデンは、こうした雌雄・男女に収まりきらない多様な性を「ジェンダー」と呼んでいるが、李はそれが不満ですべて「性」と呼んでいる。サルやイルカには同性同士の性的なスキンシップが確認されているという話もある。人間以外の生き物においてすら、性は二つでも一つでもない。それは今の、権力と絡み合った「男女」観を側面から突き崩す強烈な膝カックンになりえないだろうか。

    *    *    *

 …残念なことに、ラフガーデンの『進化の虹』に日本語版はない。
 同様に、フェミニストの論客として著者が引用しているジュディス・バトラーの著作にも脚注を見ると韓国語版はあっても「本邦未訳」のものがある。もちろん、それぞれの国で訳される本は違う。けれどたとえば『ライラの冒険』として映画化もされたフィリップ・プルマンの長篇ファンタジー『His Dark Materials』の続編が、日本では邦訳のホの字も聞かれないのに人口が1/5の台湾で繁体字版が書店に平積みされているのを見て感じた焦燥と絶望がある。少なくとも「日本は各国の本を翻訳で読める、世界でも稀有な国」みたいな自負は、昔だけのことか・あるいは実は一度も真実でなかった幻想だった可能性がありはしないか…というのは、また別の話
 もっと直截に思うのは、この『進化の虹』の邦訳が出てくれませんかねえ、ということだ。あるいは同様の、生物界の性の多様性を開陳する著作が、すでに邦訳で、あるいは日本の著者の手で出版されているかも知れませんが…
 そう言って自分の念頭にあるのは「学習まんが」の枕詞つきで(笑)早川書房から刊行されているマンガ版『ダーウィンの覗き穴』(日高トモキチ/原作メノ・スヒルトハウゼン/2019年)。いや、傑作なんですよ、これが。まさに性=オスとメス・「雄はすべての精子を受精させるべくがんばるし 雌は多くない卵を大事に受精させるために慎重になる」という性淘汰説に(賛否はあるものの、としたうえで)準拠した著作だけど、これはこれで面白いのなんの。全編が性と交尾の話なんだけど、生殖器がばんばん出てきますけど、なにしろイカや昆虫やもっと小さな虫なんかの生殖器なんで、エロいようでエロくない・ちょっとエロい(案内役の猫耳の女の子が…すみません)不思議な書物。
 ちょっと模写するために今てきとうなページを開いたら「アメリカ南部の湖沼に生息するグッピーの仲間ガンブジアの雄は雌に見せつけるため体長の1/3にも及ぶ巨大な生殖器をもつが巨大すぎると捕食者から逃げられないので、交尾をとるか安全をとるかシビアなトレードオフが存在する」みたいなエピソードがあって、もう全編こんな内容。強くオススメしたい(笑)。
 

 そして(これほど可笑しくはならない気もするけど)こんな感じで『進化の虹』。あるいは同様に生物界の「n個の性」を活写する書物。マンガ化してくれませんかねえ。きっと売れますよ?
 
著者の日高トモキチさん、本当に虫とか好きなかたで、かわいい女の子(と不思議な世界観)のまんがを買いにコミティアの売り場に伺ったら「これもいかがですか」とオススメいただいた虫の絵葉書が「ぎゃああああっ」と叫びそうになるくらいリアルで「すみません無理です…」(わりと虫は苦手)とゴメンナサイしてしまったの、申し訳なかった…

自分なくしの哲学〜李珍景『不穏なるものたちの存在論』(2021.03.14)

 李珍景(イジンギョン)は、前から気になる著者だった。独裁政権下で地下運動の組織を試み、投獄された経験も持つ気骨の思想家と知ったのは後のことでしたが…
 横浜駅西口ダイエーの2フロアを占めていたブックファーストで二冊並んだ著書を見て「…高っ」一冊三千円の本が、しかも二冊。んーこれは、と逡巡するうち当の本屋がダイエーごと消滅してしまった。一階のフードコートの、1パック200円で買える小粒の揚げタコ焼きを勝手に「ジェネリック銀だこ」と呼んで愛好してもいたのだが…まあそれは別の話。
 2021年、つまり今年の4月から書籍の裏に刷られる価格が本体+税ではなく、税込の総額表示に変わるらしい。表紙を作り直すのかシールでも貼るのか、いずれにしても大変な手間と費用で、小さな出版社などは存亡の危機だという。笑いごとではない。
「総額表示義務」反対の署名(change.org)(外部サイトが開きます)
手にしそびれていた著書二冊を確保せねばと思った。Amazonで確認すると二冊のうち一冊は古本がある。安い。ここでまたケチくさい根性が出た。古本を注文。到着。開くなり「やられた」と思った。
 

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 「人間ですらないもの、卑しいもの、取るに足らないものたちの価値と意味」という長い副題がつく不穏なるものたちの存在論(影本剛訳/インパクト出版会・2015年、原著2011年)。
 本書が言う「不穏なるもの」とは、吾々が不快に思い、遠ざけたがる他者だ…という説明では十分ではない。吾々に「迷惑をかける」障害者。健康をおびやかし、何より不潔なバクテリア。その存在だけで居心地を悪くさせる実験動物たち。昔なら「性的倒錯」という蔑称で呼ばれたろうフェティシズム。そしてプレカリアートと呼ばれる非正規労働者たち―著者がさすのは吾々が、吾々より「低い」存在として蔑むもの、関わると引き込まれ「落ちる」恐怖によって吾々が忌避するものたちだ。
 それらと吾々は同一線上にある、むしろ吾々こそ障害者でありサイボーグであり実験動物なのだと認めてしまおう。神や真理あるいは国家といった高みに向かうことでヒトという不自由な境遇から離脱するのではなく、下から自己を脅かすノイズを全て受け容れ、圧倒されるように自分を失くしてしまえ―そもそも相互作用から隔絶された自己など存在しないのだから―そう著者は説く。至高の「わたし」唯一無二の・不可侵で不変の「わたし」という信仰を、手を変え品を変え、外部から突き崩そうとする。
 「はいはい」「あるある」と俗化しやすい思想かも知れない。他者を受け容れましょう、感謝が大事―頭で理解し口でそう言いながら、結局は「許せるものだけ許し、そんな自分の寛容さに感激する」((c)ブラウン神父)のではなく。本書を味読できるか・友達になれるかは、その「不穏さ」不快さ・自分が無になる恐怖をどれだけリアルに想起できるかによるだろう。

 たとえば細胞。吾々は細胞レベルからして、核とは異なる遺伝子をもつミトコンドリアなどとの共生の産物だ。人体レベルで見ても、体表に、口腔内に腸内に、大量のバクテリアを住まわせ共生している。共生といえば聞こえがよいが、それは一種の事故であり、食い合いの失敗であり、またバランスが崩れれば別の「事故」に転ぶフラジャイルな安定状態であることを忘れてはいけない。健康ならば無害な常住バクテリアが、体調が損なわれることで病毒となり攻撃者に転じることを、日和見感染という。連想されたのは近年のレイシズムの顕在化だ。震災の復興は道半ばで経済は停滞し、さらにコロナが追い打ちをかける、解決すべき問題は他に沢山あるときに、どうして外国人差別や女性差別・トランス差別に血道を上げるのか。社会が弱体化してるこんな時になぜ、ではなかった。弱体化しているからこそコンフリクトが生じているのではないか。
 たとえば進化論。ダーウィンの進化論は、人間だけが神から選ばれた存在だという信仰をブチ壊し人々を動揺させた。だが、たちまち「進化の階梯の頂点にいる人間」という(ダーウィン自体は言ってない)俗説がふたたび人間を至高の座につけた。著者は慎重に「ヒトがサルと同類扱いされたショック」とのみ記しているが、ひょっとしたらそこには新大陸の発見により「自分たちと同じヒトだと思いたくない」未開で野蛮な(と西欧人には見えた)まさに不穏な人々との出会いがありはしなかったか。俗流進化論はトカゲやサルと比べてヒトを至高の地位につけるだけでなく、同じ人間でも位階があると差別を正当化するための道具ではなかったか。
 マクルーハンやベンヤミンを援用し、最初に伝わるメッセージは形式だ(形式そのものがメッセージだ)と著者が説くとき、思い浮かんだのは140字のTwitterのことだ。
 12月の日記先月の日記で、世界の支配者が「もの」になることへの嫌悪を僕は語ったが、むしろ問題は「もの」の価値が「価格」でしか量れなくなっていることだ・「もの」自体にはどんどん融合させられてしまえという著者の言は、ここ半年くらいの自分の考えの軌道修正を求めるもので無視できない。

 ハイデガーやレヴィナス、フーコーやドゥルーズ=ガタリ、ニーチェやマルクスを縦横に引用し、また批判し乗り越えを図りながら、著者はそれらを常に、今の社会とつなげようとする。現実から遊離した抽象論ではない。山から下りて、悪と戦え―そんな言葉が思い出される。
 たぶんその社会への関わりの疎密が、(話はすべるが)同じように現在の科学至上主義への批判でありながら話題の書、マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』が個人的に最後までピンと来なかった理由のひとつかも知れない。
 (面白く、納得もするし興味ぶかい本ではありました)
 科学が測定できるものだけを実在とみなすことを批判して『不穏なるものたちの存在論』のほうは言う。神やUFOが誰かの行動に影響を及ぼすなら、その誰かにとって神やUFOは存在するのではないか。
「わたしは幽霊が存在することを信じる。強い力を持って実存することを確信する」
そんな突飛な発言の根拠となるのは1970年に抗議の焼身自殺を遂げた若者や、80年の光州で虐殺された数千人の市民の存在だ。
「その幽霊によってわたしは、またわたしの友人たちは、思いもよらぬ生へと巻き込まれていった(中略)
 ペンを持たねばならない手にはいつのまにか石礫が、あるいは火炎瓶が掴まれていた。
 幽霊たちでなければ
(中略)一体だれがそんなことをしえただろうか?
 わたしたちが叫ぶとき、実際はかれらが叫んでおり、
 わたしたちが駆けるとき、かれらがわたしたちとともに駆けていた。
 誰がこの幽霊たちの存在を否定できるだろうか?」

本書でもっとも熾烈な、光を放つ箇所だと言える。
 吾々個々人にとりつき、その生を変えてしまうものとして、著者は「愛」を語る。愛は「愛そう」と意図的に決断できるものではないし、愛すまいと意志で抑制できるものでもない。愛は自分こそ大事・自分こそ至高・自分を失ないたくないという自我の鎧を叩き割り、膝を折らせる。魅惑者に巻き込まれ、己を失なうことを嬉々として受け容れさせる。愛の強度は「自分をどれだけ低められるかによって決定される」
 己を変容させる他者として『攻殻機動隊』で草薙素子を魅惑した人形使いや、アシタカを一目で魅了した『もののけ姫』サンが例示される。本書のサイボーグ論は一章の大半を割いて草薙素子の変容を分析した『攻殻機動隊』論でもある。『ブレードランナー』などと並び、著者がジャパニメーションを好んで取り上げるのは、韓国で思索し活動する著者にとって隣国のアニメもまた他者だからかも知れない。だとすれば、その理論・「自分なくし」の哲学を、(流血の照り返しで)きらびやかな韓国映画に探すのは、それらを他者として持つ隣国の吾々の仕事になるだろう。

    *    *    *

 と、真面目に締めくくったところで冒頭の「やられた」の話。え?さまざまな発見と自己認識のあらためを迫る本だから「やられた」じゃないの?
 そうではなかった。千円ばかりの値引きにつられ、古本で取り寄せた本は冒頭から蛍光ピンクのマーカーで、びっしり線が引かれていたのだ。
 
 不穏なるものの例として「とんでもない場所からいきなり押し入ってくる者、あるいは」とあって「押し入ってきて訳の分からない笑みを見せる者」と書かれた箇所にも線が引かれ、さらにピンクのペンで矢印が引かれアイツだ…と書いてあるんだけど、ドイツだよ。僕からしてみたら不穏なのはアンタだよ
 …図書館の本に引かれた線でもそうだけど、最初からもう全センテンス重要で発見とばかりに線を引きまくり、冒頭だけで挫折というパターンはあまりに多い。この古本も20ページ目からはバッタリ線が途絶えているので、残り290ページを快く読めたのだけど、んー、特にこういう思索的な書物って最初は枠組みを把握するローギアの段階で、読み進めるほど発見が増えてテンションがあがっていく、そういう読み方でないと仲良くできないんじゃないかなあ(まあ仲良く出来なかったからこそ19ページで線引きを放り出し、売り飛ばしてしまったんだろうけど)。
 そんなわけで本書の冒頭19ページ、実はまともに読めてない。どピンクの主張が強すぎて、地の文が目に入ってこないのですよ。まさに不穏で、己を不快にさせるものだけど、どうにも受け容れがたい。その意味でも、やっぱり理論と現実は違うと、己の心の狭さ・自我への執着を痛感させられる一冊でした。やられた。まいった。
 
著者のもう一冊『無謀なるものたちの共同体』は定価で+Amazonやhontoでは一時的品切れなので版元に直接注文しましたよ…単独で生きることが大好きで、人と協調することが大の苦手な自分にとっては、コミューンという思想自体がまさに己を脅かす「不穏なもの」かも知れないと恐れつつ、期待しつつ。

宇宙に一番近い場所〜ゲイブリエル・ウォーカー『命がけで南極に住んでみた』(2021.03.07)

 南極の「越冬」は二月〜十月まで続く。十月〜二月ではない(南半球だから)。アニメ『宇宙(そら)よりも近い場所』(傑作。2019年12月の日記参照)ではTVの企画で日本の民間調査隊に随行した主人公の女子高生たちが、南極でクリスマスを過ごし、最終回で「越冬前に離脱する組」として日本に帰っていくが、ここで離脱しない者たちは半年以上・一年のうち10ヶ月近くを世界と隔絶された基地で過ごさなければならない。
 その越冬組が、最後の離脱組を送り出した初日に行なう儀式があるという。のたくる触手が腹を突き破り内臓と一体化して暴れるエイリアンによって、南極基地が崩壊するSFホラー映画『遊星からの物体X』の上映会だ。アホか!と大笑いしたが(実際ちょっと意図的に馬鹿っぽさを自演してる部分もあるのだと思う)、逆に「10ヶ月は飛行機も通わない」隔絶環境だという前提を意識すると、物体Xの襲撃によって隊員たちが互いに疑心暗鬼に陥る同作の恐怖や焦燥感も、より味わいが深くなる(?)。
 他にも『エイリアンvsプレデター』アレは容易に南極に出入りできるクリスマス・シーズンの話だったのかな、とか。神林長平『戦闘妖精雪風』で南極に開いた異空間の入り口からやってくる侵略者「ジャム」たちは、はて地球軍の迎撃をかいくぐっても冬の間は他の大陸まで魔の手を伸ばせないのかしら、とか。ナチスの残党が南米経由で南極に移り住み、秘密基地からUFOを飛ばしてるという陰謀論(というか妄想)も、あーそうか空飛ぶ円盤なら「冬」の間も南極から出入りできそうだと、新たな発見があったり(?)
 ←真面目な本だと思ってたら、最終章の南極UFO基地でひっくり返ったよね…

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 すでに何だか恥ずかしい今回の日記ですが、恥の上塗りになる告白を(それも国際女性デーに)しなければならない。
 『命がけで南極に住んでみた』(仙名紀/訳・原著2012年・邦訳2013年/柏書房)の著者ゲイブリエル・ウォーカーが女性だと、数十ページ気づかない(というか想像もしない)まま読み進めていたことだ。
 ゲイブリエルといえば「ピーター(男性)」という先入観もあった。だが、それだけではあるまい。サイエンス系ノンフィクション作家として南極を訪れ、越冬までつきあう物好きは男しか考えられない―そんな偏見が自分の中にあったに違いないのだ。
 実は邦訳41ページ目、すでに(基地には)女性もたくさんいて、私はバーやコーヒーショップにいても、町をぶらついていても、(自分が)女性という違和感も緊張感もなかった」という一節があったのだが(自分が)という行間を見落とし、読み飛ばしていたらしい。61ページ目(トウゾクカモメはペンギンの卵を)どうして、すぐに攻撃しないのかしら?」という著者の台詞も「まあ、〜かしらって使う男性いるよね」でスルーしてしまった。
 とゆうか、そうまでして「取材のため南極に住んでみる物好きは男に決まってる」を譲らない、思い込みって怖いし、この先入観が世の不公正に資していないかと恐れる。なにしろ自分、いわゆる全球凍結をテーマにした同じ著者の『スノーボール・アース』(早川書房)を読み通してるのだ。著者が女性とは考えることもなく。

 はい、そんなわけで間違っても本書『命がけで南極に住んでみた』を「女性ならではの視点」や「女性らしい細やかさ」で説明する気はないです、はい。ただもう、人が書いた、無類に面白い本。もちろん、この「人」=無条件で「男」と思い込む(英語で人間を意味する"man"がそのまま「男」を意味するような)偏見が怖いと言ってるわけですが。それは置いて!置いて!
 …南極に引き寄せられるのは、物体Xやエイリアンやプレデター、ジャムやナチスの残党(もとい、ナチスの残党がUFOの黒幕だと言う陰謀論者)だけではない。
 ペンギンや、極地にのみ生息する稀少な生き物を研究する生物学者だけでもない。
 地球上で最も空気がきれいなため大気調査の研究所がある。地球上で最も静謐な場所のため地震(南極の、ではない)の計測施設がある。「地上で最も寒く、最もドライで、最も裸の岩だらけ」な環境が初期の火星に近いため、火星の研究のためにやってくる天文学者すらいる。宇宙(空間)だけではない。南極という隔絶された土地は時間すら超える。その氷の気泡には数万年前の大気が封じ込められているのだ。『スノーボール・アース』で分かるとおり著者の専門分野にドンピシャなだけあって、この気泡の中の太古の空気をテーマにした箇所で、本書の語りが「オタク特有の早口」的にちょっと暴走するのが面白い。「女性は感情的で抑制が効かない」なんて言わない、言わない、これはオタクというか人類共通の現象。

 図書館で一度借りて、読んだら返して満足できるタイプの本ではない。手元において何度も読み返したくなる、多様なエピソードが詰め込まれた(言うたら)雑多な本だ。
 エピソードの半分は科学的な観察・研究対象としての南極の魅力。もう半分は研究のために・あるいは隔絶された孤独な環境そのものが気に入ってしまい南極に引き寄せられた人々のドラマだ。一日の半分は日が昇らず、通貨が意味をなさない南極での生活を、人間らしさが削り取られる極限状況と捉えるか、むしろ産業や人々の喧騒が削ぎ落とされ豊かな人間性が発露するヘテロトピアと見るか。
 南極の主(ぬし)のように活写される施設管理人・ジェイクの肖像は印象的だ。世界中を放浪し、やっと見つけた「自分が居心地よく暮らせる場所」は一年のうち10ヶ月しか居られない場所だった(二ヶ月は離れなければならない)と嘆く彼。基地のなかで最もマッチョなタフガイ風に見える彼が、むしろ「有害な男らしさ」の対極を行くような繊細で思索的な人物で、しかし過酷な環境にどこか魅惑されてもいる―その矛盾がヒトの度しがたさであり、本書のハイライトのひとつだと思う。
 そして本書の半分である、この人間ドラマを根底で支えているのは、その過酷さだ。
 「命がけ」の邦題は伊達ではない。ペンギンの種名で知られるアデリーランドは南極でも屈指の荒天の地で、1912年に同地を訪れた地質学者ダグラス・モーソンの行路は悲惨をきわめた。犬ぞりごと遭難した彼と仲間は、ついには痩せ衰えた犬を食料として生き延びを図るが、犬の肝臓のビタミンAは致死量を超える。まだビタミンという概念自体が知られていなかった時代だ。手足の皮膚が剥がれ落ち、鼻と爪の間から青白い血液を流しながら同僚は息を引き取る。単身となったモーソンはクレバスに落ち、なんとか脱出する。ようやく巡り合った五人の救援隊は、正確には救援隊ではなく彼の遺体を捜索に来た仲間で、すでに南極圏は出入りできない越冬の時期に入っている…
 …極地に対する知見も深まり、技術も装備も発達した現代なら「闘うつもり」で南極に赴く必要はない、と著者は言う。けれど「(人が?南極が?)その気になれば」簡単に死んでしまえる危険な環境でありつづけていることも、つけ加える。タフで思慮深いジェイクですら、その危険に勝ち続けることは出来なかったと後日譚の形で語るエピローグは読む者を粛然とさせるだろう―恐怖ではなく、人という存在に貼りついた矛盾・他人ごとでない陰影ゆえに。
 緑と動物がざわめき、人々がひしめく地球の残りの部分と比べたら、何もないに等しい南極。けれど、何もないわけではなく「何にもない、がある」わけでもない。豊かすぎる(その他の)世界というフィルターを外して広がる冷たくドライな白い土地は、じっと目を凝らせば科学的な発見と夾雑物を取り除いた人々の姿が浮かび上がってくる、さざめく白紙だ。味わい深い一冊です。
 

ヘテロトピアの突破口〜矢部史郎『夢みる名古屋』(2021.02.21)

 個人的には、名古屋は嫌いな街じゃない。むしろ好きと言っていい。同地で開催される同人誌の即売会のため、ほぼ年一回・多いときには二回。だいたい現地に宿を取り、前日は街を散策。台湾ラーメンや味噌カツを食べ、大須のアーケード街や古本屋をめぐる。名古屋港水族館やリトルワールド、抹茶スパゲティなど妙なメニューで有名な喫茶店に足を延ばしたこともあった。
 だもので、名古屋が魅力のない街ナンバーワンとして絶大な不人気を誇っていることは、しょうじき理解の埒外だった。あれは酷い街だよと住んでた人が実感を語っても、年に一度の観光客には分からないものかなあと思っていた。あるいは自分には、絵画や文章のよしあしが(よく)分からないように「都市」を見るセンスもないのかと。
 

 矢部史郎夢みる名古屋 ユートピア空間の成立史』(現代書館/2019年)は、そんな自分でも納得の説得力で「どうして名古屋に魅力がないのか」を語り尽くす。
 どういうことだ、ユートピアじゃないのか、夢みる名古屋じゃないのか―いや、タイトルに偽りはない。夢は良い夢とは限らないのだ。産業資本と国家が手を取り合い、生活の細部まで浸透していった近現代、吾々は、もしかしたら見ないほうが好かった夢を見てしまった。実現すべきでない「ユートピア」を実現してしまった。利便と引き換えに、吾々の生活から何かを搾取し奪っていった近現代の「夢」の極限を、先週の日記で取り上げた『ナチスのキッチン』はナチス・ドイツに見た。同様に本書は、半ば悪夢といえる近現代の「夢」がもっとも効果的に結晶した「ユートピア」として名古屋を名指しする。もっと言えば「世界の名古屋化」に警鐘を鳴らす。
 …少し先走りすぎた。具体論に戻ろう。
 三章構成の第一章で著者が指摘するのは、名古屋の繁華街を分断する二本の巨大な道路の存在だ。街の南側を東西に突っ切り、栄の繁華街から南の大須や矢場町を切り離す若宮大通。そして南北に延び栄の繁華街そのものを東西に分断する久屋大通。この二本の大通りが、百メートルという人間のスケールを超えた幅員で、街の一体感を損なう構造的な欠陥となっているのだ。
「栄という街を観察して気がつくのは、デパートや歓楽街が集積する街であるにもかかわらず、ハイヒールを履いている女性がほとんど見られないということである。(中略)おしゃれな靴を履いていたのでは、この街の横断歩道を渡りきることはできないからである」
「一〇〇メートル道路の横断は、信号を二回待って渡るように設計されている。だが(中略)中央の待機させられる空間は、なんの工夫もないがらんとした場所で、夏は暑く、冬は寒く、ただ自動車の排気ガスを浴びせられるだけの空間だ」
 言われてみれば、そのとおりなのだった。名古屋、そんなに魅力ない街かなーと思っていたはずの自分も、たしかに大須や矢場町と栄町のあいだに「切り離し」分断を感じ、両者を横断して遊歩することは少ない。まして栄の繁華街から久屋大通を「渡って」オアシス21などのフォトジェニックなスポットまで足を延ばしてみることは、毎年名古屋に通いながら20年間ついぞなかった。
 
 本書はこの、人間のスケールを超えた無駄な横幅の起源をナチスに求める。さらに遡ればオスマンのパリ改造計画。その「近代の夢」の延長線上にヒトラーが構想したゲルマニア計画は、世界の首都となった(予定)ベルリンに幅120メートルの桁外れな道路を敷設するものだった。国家の威信や権力のモニュメントとしての巨大道路。久屋大通・若宮大通は着工こそ戦後だが、その都市計画はドイツと同盟国であった戦前・戦中の価値観を継承していたのだと著者は説く。東京や大阪、各地の戦後復興計画が予算を削減されるなか、名古屋だけが腹案どおりの巨大道路建設を成し遂げた。それは国家的な夢のために、名古屋から人間的な魅力を奪うものだった。
 
 このように『夢みる名古屋』は歴史と人文地理を縦横に駆使し、名古屋の「夢」を露わにしていく。米騒動。空襲。ベトナム戦争の北爆とゲリラ戦。映画『トラック野郎』とイヴァン・イリイチ。口裂け女。ピノチェト軍政と民社党。繊維史と服飾史。イケアの家具。INAXの洗面所。コンビニの床に敷き詰められた樹脂素材。排除アート(ホームレスの人々が横になれないよう間に敷居を入れたベンチや、路面を突起で埋めるオブジェなど、排除アートの起源が名古屋だというのは悲しい驚きだ)…「なぜ名古屋は魅力的でないのか」という謎の手がかりになる事例ならジャンルを問わず注ぎこみ、それらを結ぶ糸として近現代という時代が見ようとした「夢」の非人間性が抽出される。
 街が魅力的でない具体的な理由として、また著者があげているのは、あらゆる道路が幅員的に自動車の侵入を可能にし、歩行者の心が休まらないという制度的・構造的な問題だ。トヨタ自動車の本拠地として、また日本初の高速道路である名神高速道路のターミナルとして、名古屋は歴史的にも地理的にもモータリゼーションが骨の髄まで浸透した街なのだ。
 著者は本書が名古屋の人を悲しませることを心配してるけど、同じくらいモータリゼーションが好きな人たちにもイヤな本かも知れん…たぶんオタクの人たちってモータリゼーションを貶されると自分が傷つけられたように思う人、少なくないのじゃないかな…
 最終的にたどりつく結論は、東京や大阪が商人資本や情報が次々と流入し内に内にと膨らんでいく"内破"の都市であるのに対し、名古屋は産業資本=工場が外に外にと移転し拡張していく"外破"の都市だというものだ。それが事実なら、人が暮らしよいはずがない。三大都市と呼ばれながら、名古屋だけは成り立ちが違う。東京や大阪が都市ならば、そもそも名古屋は都市ではないのだと著者は断言する。
 街でありながら産業や自動車が人より優先され、秩序のために人が排除される、それは「ナチスのキッチン」で見たのと同様の、人のためでない・何か別のモノのための近現代の「夢」だ。そして、そうした街づくりは、もはや名古屋の専売特許ではない。誰かが言っていた。近代は人のためのタイプライターを作らず、タイプライターのための人間を作った。タイプライターではなく自動車だったろうか?

    *    *    *

 再度まとめよう。名古屋が日本で最も魅力のない街と称されるのは、名古屋こそ近現代の「夢」がもっとも効果的に具現化された場所だから(と、著者は説く)。
 どうして自分たちの居心地が悪いか、知ることは一定の快感をもたらす。だが二週間にわたって(もっと前からか)近代というシステムが究極的にはロクでもないモノだと納得させられ、そろそろ希望のなさが重たいのも事実。街が産業や自動車のために設計・運営され、人々の場所は排除アートによって奪われていく路線に、修正や覆しの機会はないのか。…『夢みる名古屋』の魅力は、その突破口らしきものも暗示していることだ。
 モータリゼーションが支配する世界を象徴したSF作品として、著者はソ連の映画作家アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』を取り上げる。未来都市の景観として、60年代日本の高速道路の映像がそのまま借用されていることでも有名な映画だ。もちろん肯定的な描写ではない。人の姿がなく、延々と自動車が走り続ける都市にたいし、タルコフスキーが愛着をもって描くのは、池があり草花が生いしげる田園の風景だ。
 先月とりあげたトリュフォーの『華氏451度』もまた、最後は湖に面した雑木林に憩いの場を求めていた。近現代の悪夢にたいするオルタナティブ(他の選択肢)は、田園にしかないのか。都市には別の可能性はないのか。
 そこで著者が示すのは、やはりSF映画の『ブレードランナー』だ。自動車は空を行き交い、地上は人々でごった返す近未来のロサンゼルス。移民都市の特質が強調されたネオンと喧騒の怪しげな街で、著者が着目するのは(日本語台詞「二つで十分ですよ」でおなじみの)屋台だ。
「リドリー・スコットが作品の冒頭に屋台を登場させているのはすばらしいとおもう。
 屋台のある空間こそが都市である
(強調は引用者)
屋台は道路と建物の境界である街路線を侵食する、と著者は言う。
「買い物客でにぎわう人気のある商店街を歩いてみるといい。誰も街路線を遵守していない。
 店の前の通路には大きなワゴンやハンガースタンドがおかれ、カフェの前にはテーブルと椅子が並べられ
 
(中略)スーパーの前には買い物客の自転車がずらり(中略)
 そうして街路線が侵食されていくことが、街が賑わうということなのである」

 さっと頭に浮かんだのは台湾―桃園や台北、瑞芳などの街並みだった。線路のすぐ横に食べ物屋が店をつらね、電車が来ないときは線路を歩行者が埋め尽くす十分。銀行やオフィスが並ぶ通りでも麺線や唐揚げなどの屋台が舗道を占有する台北駅の周辺部。アスファルトにパイプ椅子を並べ、通りと一体化した大衆演劇の舞台。もちろん、屋台がひしめく夜市…
 あれが突破口だったのか―自分があの街・あの都市に惹かれ焦がれる理由の一端が分かった気がした。


 そして、もうひとつ。台湾だけでなく、自分がビッグイシューという雑誌に惹かれる理由も「屋台」で説明がつく部分がありはしないか。
 周知のとおり、ビッグイシューとはホームレスの人々が販売員として街頭に立ち、一冊の売り上げの半分がその収入となる自立支援雑誌だ。折りをみては声をかけ、購入しているのは、もちろん寄付やチャリティの意味もある。読み物として面白い記事が多いのも事実だ。だが、それだけではなく。商業的でありながら慈善を求める人々でもある=簡単に割り切れない存在の販売者が、人々が通路として行き交う・建物と人々の街路線が明確に引かれた街を屋台のように侵食している・ユートピアならぬヘテロトピア(異なる場所)を現出させていることが、自分があの雑誌と販売者に肩入れする理由のひとつなのかも知れない。
 
 強烈に面白い一冊。本書を読んで、僕は逆に名古屋を再訪して「そこまで魅力ない街か」あらためて検証したくなった。名古屋在住の著者が「それにひきかえ」と褒めちぎる岐阜県岐阜市にも俄然、興味が湧いた。そしてもちろん、台湾が恋しい(泣)。半分以上は人災として、コロナが憎い。

誰がために鐘は鳴る〜藤原辰史『決定版 ナチスのキッチン』(2021.02.14)

 未読の小説を取り上げ、わざわざあげつらうのはどうかと自分でも思う。だがトルストイ『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭「幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はそれぞれ異なる理由で不幸である」は本当なのだろうか。負けに不思議の負けなしという言葉もある(野村克也)。幸福の形が似たりよったりならば、不幸も「またこのパターンで不幸なのか」と見るものを嘆かせる似通った要因がありはしないものだろうか。
 

 藤原辰史[決定版]ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(共和国/2016年)。第一回(2013年度)河合隼雄学芸賞を受賞した研究の増補版だという。とくに説明はいらないだろう、表紙の惹句「台所に立つと、ナチスは遠い過去ではない」がすべてを物語る。ただ「それってどういうこと?」って内実はあるわけで、やはり説明は要るわけで―
 第一章に、ちょっと心をつかまれるフレーズがあった。
「もしもこのように(明快に)ナチスの台所史を描けるのだとしたら、
 これまで多くの歴史家たちがナチズム研究に一回限りの人生を費やすことはなかっただろう」

今しがた「台所に立つと、ナチスは遠い過去ではない」なるほど説明は不要だなと書いてしまった身としては耳が痛い。世の中には明快な通説・そこだけ切り取って何なら140字でツイートできる「この世の真実」があって、吾々はその結論だけ受け取っては「あーなるほどなるほど、まあそうだろうね」と思ってしまう。プロテスタンティズムが資本主義を生んだ、生政治にはそれなしには動かない心臓部の歯車のようにレイシズムが組み込まれている(2020年8月の日記参照)、幸福な家庭はどれも似通っているが不幸な家庭はそれぞれ異なる理由で不幸である、なるほどなるほど。
 だが学問は本当に通説どおりか?と疑い、通説・通念に合わないものも含めて事例を積み上げる営みだ。いや、それでいて事例を積み上げただけでも学問にはならない。積み上げた事例から新たな通説・通念になるもの=説明を抽象しなければならない。事例を虚心に積み上げる面倒な営みと、その堆積をスパッと分割する対角線なり補助線なりを引いてみせる飛躍―両者のせめぎあいが学問なのだろう。実際『プロ倫』を読むと「そうではない事例」に費やされたページの厚さに戸惑うものだ。

 『ナチスのキッチン』の「事例の堆積」は、それまで家の中心にあり光源や暖房の熱源も兼ねていたカマド(石で囲われているが日本の囲炉裏から類推できるだろう)が切り離され台所として独立した19世紀に始まる。19世紀なかば、レシピや家事マニュアルの出版で名を成したヘンリエッテ・ダヴィディス。20世紀初頭、集合住宅で共用キッチンによる給食の提供を試みたリリー・ブラウン。ヴァイマル時代に現在のシステムキッチンの原型といえる小型キッチンをデザインしたエルナ・マイヤーならびにマルガレーテ・リホツキー。同じくヴァイマル時代に消費者相談所を開設し、家庭用電気製品の普及に貢献したヒルデガルド・マルキス…
 これでは「ヴァイマルのキッチン」もしくは「近代ドイツのキッチン」ではないか。『ナチスのキッチン』は、タイトルロールが本編にほぼ全く登場しない『酸素男爵』のような勇み足か。あるいは耳目を惹きつけるための悪質な釣りか。そうではなく、本書が正しく『ナチスのキッチン』を語った著作である方法はひとつしかない。「ヴァイマルのキッチン」や「近代のキッチン」を動かした思想が、最終的に「ナチスのキッチン」に帰結したと結論づけることだ。
 料理や家事のノウハウが口伝ではなく文字情報の複製で共有されるマニュアル化。家事を労働と捉え、動線を最小限に抑えるキッチンを設計する合理化。ガスや電気・家庭用電化製品あるいは工場で生産されたブイヨンなどの活用による、家事と産業の接続。さらにいえば爆発的なビタミン崇拝に代表される、科学に基づく健康のための食事という発想。アメリカで確立された、人を部品のようにみなし労働を機械のように最適化するテイラー主義。一言につづめれば合理化・効率化・あるいは「近代化」と呼びうる一連のベクトル。
 ナチスが公に掲げたのは伝統の復活だった。ヴァイマル時代を牽引したバウハウスのような機能主義を斥け、民族性を強調した家屋や生活の復権を彼らは謳った。しかしその一方、裏取引のようにナチスはテイラー主義的な効率化・合理化や「科学的な」健康増進策をも取り入れていく。だが、それだけではやはり本書が「ヴァイマルのキッチン」でなく「ナチスのキッチン」となるには不十分だろう。
 本書が他ならぬ『ナチスのキッチン』である根拠は、最後の最後「あとがきにかえて」と付された短文で開示される。ミステリで言うとトリックをバラすようなものだが、遠慮なく引用する。ダッハウやアウシュヴィッツなど悪名高い強制収容所が、クルップやジーメンスなどの工場でもあったことを踏まえて著者は言うのだ。これらの工場=収容所は囚人たちを「人権思想が人口に膾炙して以来おそらくもっとも安価な労働力」として搾取し利潤を得ていた。その「コストの安さ」の秘密は、酷使され疲弊し落命していくまでの間、囚人=労働者たちが(ロクな食事を与えられない代わりに)自らを「刃物もレシピも必要としない、究極的な台所」に変え「自分自身を食べる」、脂質も筋肉もその場しのぎの栄養として消費したことにあった。
 これこそが「ナチスのキッチン」であった。家事を余計な労力を節約する効率化の対象とし、食事を味わいでなく得られる栄養で「科学的」に測り、そして家計を産業の末端として資本主義のサイクルに組み入れる―「近代化」と呼ばれるベクトルは、最終的には工場が個々人の肉まで搾取していく強制収容所の「究極的な台所」につながっていると、本書は告発しているのだ。

 マイヤー、リホツキー、ブラウン…家事に携わる者を労苦から解放し、また人々を食事で健康にすることを目指したはずの女性たちには、ナチスそのものには抗い亡命したり拷問の末に落命した人も少なくない。彼女たちの目指したものが、最終的には彼女たちが忌避したはずのナチス化のドイツでひとつの「完成」を見たことで、いわばこの先駆者たちが二重に呪われているのを見るのは哀しいことだ。…本書自体は何しろ調理と食事の「事例」が山積みのため読んで楽しく味わい深いのだけれど。。

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 ネットでは、ナチスは良いこともした・アウトバーンを造ったり健康増進策を取ったりしたと(なぜか日本人が)擁護する言説がしばしば噴き上がる。最近も噴き上がったようだ。
 この擁護に対する反論としては、1)アウトバーンも健康増進策も戦場に頑強な肉体の兵士を送り結局は殺したり殺されたりするためのものだった、という意見が考えられる。そもそも、0)よしんば良いこともしたとしても数々の悪行を免責できるかというツッコミもある。しごくまっとうな反論だと思う。
 加えて『ナチスのキッチン』は、2)戦争に直結しなくても、アウトバーンや健康増進策は人を産業の末端の部品のように扱い最終的にはアウシュヴィッツにつながる邪悪な要素を含んでいないかと「擁護」の前提をぐらつかせる問いを提示する。
 1に比べると、近現代の産業社会や利便な生活そのものを敵に回しかねない問いであるため、議論には向いてない劇薬かも知れない(あのミヒャエル・エンデですら「私たちは今さら水洗トイレのない暮らしには戻れないでしょう」と言っており、それはおおむね正しい=それを出来ると強弁する主張は少し疑ってかかるべきだろう)。ただ、その劇薬の危険さに比べれば、ナチ擁護ていどで「常識にたてついた」と気取る人々はあまりにナイーヴとも言える。また、ナチスをアウトバーンや健康増進策で「擁護」する人たちには、2のような邪悪=人々を部品のようにコントロールすることへの賛意・嗜好が伏在しているのではと穿って見ることも出来るだろう。
 

 『ナチスのキッチン』はもうひとつ、反論の手がかりとなる議論を提供している。3)アウトバーンや健康増進策は、言うほど優れていたのかという問題だ。
 「台所のナチ化」と第された第5章では、ナチが進めた主婦のヒエラルキー化が描かれる。ヴァイマル時代から萌芽のあった「マイスター主婦」認定制度をナチは本格採用し、また主婦養成機関「母親学校」を企画する。一方で「非社会的」な家族の「再教育施設」が設置され、また占領した地域のドイツ系住民を劣位な存在と蔑み「家事アドヴァイザー」が「教化」していく…
 著者が指摘するのは、ある意味「いい気な」こうしたヒエラルキーが実際には東ヨーロッパからの強制家事労働者に支えられていた事実だ。「一九四〇年以降、約五十万人の少女や成人女性がドイツ本国の家事労働に従事したという」。十二歳の少女がいきなり拉致されドイツ人家庭で働かされ、皮つきのジャガイモを煮出したスープを「体にいいから」と与えられる一方で、その家の子どもたちは毎朝パンにバターをつけて食べていたという事例を引く必要はあるだろうか。著者は結論づける。
「「アーリア人種」のヒエラルキーは、ほかのすべての戦時中の産業がそうであったように、結局のところ、東欧の強制労働者に支えてもらわないと足場が崩れそうな、貧弱なシステムだったといわざるをえない」
 ここで冒頭のトルストイが回収される。幸福な家庭が似通っているのと同程度に、不幸な家庭も似通っているのではないか。そして不幸な社会もまた。
 アーリア人種の優位を誇り、家事労働を序列化したナチスの「成功」は、実際には奴隷のようにこき使われる外国人労働者の存在に支えられていた。それはナチスを「擁護」する人々が遠回しに肯定したい(かつて同盟国だった)日本の過去のありようとそっくりだし、ナショナリズムや外国人蔑視に己惚れながら自分たちだけでは食物をつくること(農業)も流通させること(コンビニなど)も出来ない現在の日本と、あまりに「似通って」はいないか。
 ウラジーミル・ナボコフは名高いロシア文学講義で『アンナ・カレーニナ』冒頭の「家」という単語の繰り返しは、ロシア語の「ドム」という発音を何度も響かせることで「ドム、ドム、ドム…」と弔鐘のように鳴り渡り、不幸な主人公たちの破滅を暗示していると(たしか)説いていた。
 躍起になってナチスを「擁護」しようとする人たちは、ドム、ドムという鐘が70年前のドイツ人のためだけに鳴っているわけではないと内心では悟っているのかも知れない。あるいは気づいてないのだろうか。鐘が自分たちのためにも鳴っていることを。他ならぬ自分たちが自ら破滅の鐘を叩いていることを。
 ←4千いくらは古書価格だな…品切れか?

ポキープシのSF〜ジョン・スコルジー『アンドロイドの夢の羊』(2021.02.07)

 SFは題だねえ、というお話。先週の『酸素男爵』に続き、これまたタイトルだけで中身も確認せず手にしたのがジョン・スコルジーアンドロイドの夢の羊』(ハヤカワ文庫SF)。原題もAndroid's Dream、これが(架空とはいえ)羊の品種名なので、けっして「釣り」の邦題ではない。もちろん、有名な過去作を踏まえた題名にして品種名。
 
 …立て続けに読んで改めて、逆算で思い知ったのは「なるほど『酸素男爵』は読むのに時間かかるわけだ」。同じSFでも粘度がちがう。『酸素男爵』の場合、舞台となる世界が吾々の日常とかけ離れすぎていて、一歩進むにも生命維持機能をそなえた特殊スーツが必要な感じに(かわりに重力の都合上、一歩で地球の六倍進めるわけだが)(←そういうことも含めて)一行たりとも読み飛ばせなかったのだ。
 20世紀前半のソ連で興った文学理論=ロシア・フォルマリズムは、文学は読む者のスピードを鈍らせなければならないと説く。つるつると読み飛ばされ(自動化)てはいけない、文章のいちいちが異物として(異化)噛み砕くように咀嚼され、読むのに時間がかかるほど文学性が高いと。もちろん、遅く読ませる目的だけが暴走すれば文字どおり「形式主義(フォルマリズム)」になるわけで、なべて物事は按配次第なのだが―
 SF・ファンタジー界の大御所だったアーシュラ・K・ル=グウィンは、この思想と親和性が高かったかも知れない。名著『夜の言葉』(岩波現代文庫)で彼女は、ファンタジー小説の会話が「王と魔術師」を「大統領と補佐官」に・ケルトの城をポキープシ(IBM本社があるニューヨーク州の地名)に置き換えても違和感なく読めてしまってはダメなのだ、と強く戒めている。

 なんでこんな話をしてるのか。それは『アンドロイドの夢の羊』がむしろ確信犯的に、大統領と補佐官の、ホワイトハウスやポキープシでの密談の文体・価値観・世界観で書かれたSFだからだ。『酸素男爵』に比べて圧倒的に読みやすいのも納得。『羊』はたしかに数百種の異星人がひしめく銀河文明を前提にしているし数種の異星人は実際に登場もするが、今の吾々の現実と地続き。政府に雇われたハッカーは不眠不休の作業のためドクターペッパー4リットル飲んで、カフェインで気持ち悪いですと言うし、自販機にはm&m'sのマーブルチョコ、「おお中古のIBM360だネット接続できるかな」そんな世界。仕立てはSFでも文体の基本になるのは役人や官僚の根回し・皮肉・恫喝や慇懃無礼。代表的な会話はこうだ:
「失礼ながら長官、あなたはとんでもないドジをふんだのです。運がよければ辞職するだけですむでしょう」
「運がよくなかったらどうなる?」
「運がよくなかったら、わたしたち全員が刑務所の運動場でタバコを通貨のかわりに使うことになるでしょう」

 銀河文明に参入したばかりの地球人は、近隣の爬虫類型エイリアン・ニドゥ族に頭が上がらない。傍若無人な彼らに貢ぎ物として進呈したのが青い毛並の特殊な羊「アンドロイドの夢」である。遠来の貢ぎ物が儀式に必須のアイテムになるのは文化人類学的にありそうな話。強固なカースト制と部族社会で成るニドゥ族は新王の即位の儀に「アンドロイドの夢」を生贄として使うようになるが、族内の反対勢力が儀礼をぶち壊し王に成り代わるため、地球各地の牧場で飼われていたこの特殊な羊を炭疽菌で皆殺しにしてしまう。一匹でもいいから生贄を連れてこい、さもなくば戦争だ―爬虫類の大使に凄まれ、地球政府は元海兵隊員の凄腕ハッカーに「Wild Sheep Chase」(←村上春樹『羊をめぐる冒険』の英題を気取ってみました)の任務を託す―
 思いつく形容は「怖いものなし」「不謹慎」いっそ「涜神的」。実際、本作には三流作家がインチキで書いた予言詩を、インチキと知りながら信奉する宗教結社まで登場する。特殊スニーカーで6mの高さまでピョンピョン跳びはね銃弾を避けながら戦うショッピング・モールの大騒動や、退役軍人を載せたクルーズ船と二ドゥ族の古戦場での遺恨をかけた再戦など、派手なアクションもあるけれど、一番の武器はへらず口。
 『酸素男爵』同様、品種改造による未来の食肉獣が登場するが、こちらは「豚を改造したものだが蹄がないためユダヤ教の戒律で食べていいのか悪いのかラビたちの論議になる」という使われかた。『ヴェニスの商人』の肉1ポンドの判決や「ゴルディアスの結び目」などが「勝てるなら手段は選ばない」的なスタンスの象徴となる世界。
 多少なりキャラの立った女性は二人しか登場しないし、その扱いも推して知るべし。2006年の作品だがコンプライアンス的にはかなり厳しいものがある。
 倫理観の下支えがないロバート・J・ソウヤーと言いますか…いやソウヤー倫理観の下支えあったっけという気もしますが…
 そんな厳しめの世界観を体現するのは、上に挙げた「タバコが通貨」の会話と、物語の重要な鍵となる一人の若者だ。10歳にしてイタズラ心で兄貴のクラシックカーを爆破し、18歳で悪友とともに国立海洋気象庁のコンピュータ乗っ取り・刑事罰を避けるため異星人との戦争への従軍を選んだ悪ガキ。いわば彼はこの小説のメートル原器のようなもので、言い替えると本作の精神年齢は18歳。おそろしく頭が回るが18歳から成長しない、ホモソーシャルで無神経が自慢の悪ガキみたいなSFなのだ。
 だから本書の終盤、この永遠に18歳の悪ガキが、とある試練を経て「オトナになる」ことを学ぶ場面は、少しだけ感動的だ。それは流れ星のような一瞬のひらめきで、物語はたちまち、際限のない皮肉の応酬とブラックユーモアに再び呑み込まれてしまうのだが。

 異星人だろうと何だろうと皆、ポキープシとホワイトハウスを往復する官僚か、もしくはミカジメ料を取り立てるギャング同様の思考様式なため「本質はそういう話」「羊の皮をかぶった狼ならぬキツネとタヌキ」と考えて構わないと思うが、いちおうSFならではのアイディアとゆうか思考法の片鱗もある。それは「人間の定義」が揺るがされること。主人公が関わる二人の重要人物は、二人とも「人間の定義」を再考させられる属性持ちだ。あるいは、生まれた時は数千匹のイナゴさながら、周囲の全てもろとも数千の兄弟姉妹をも食い尽くすことで淘汰され、残った数体がサナギとなり羽化した時点で初めて知性を獲得するたぐいの異星人を、どこから異星「人」として遇したらいいのか。そういう哲学的な可能性も暗示しながら、実際は「州ひとつ壊滅しそうになり異星人の幼虫数千匹を焼き殺したが、知的生命を大量虐殺したなと銀河的に責められ、知的生命の定義って何だよ!とキレたくなる」という方向ですべては笑い飛ばされる。
 だもんで、んー、薦めていいものかは判断しがたい。面白いですよ?面白いけど「面白いだけでは面白くない」が中年以降の読書なれば(つまり読む側の問題)…あらゆる伏線はぬかりなく回収され、そして退屈とは無縁の、よく出来たエンターテインメントではあると思います。こんな日記(週記)もアリと言うことで。
  夜の言葉、また品切れなのか…

息もできない〜グレゴリー・フィーリィ『酸素男爵』(2021.01.31)

 まだ可能性の段階だと思いたいが、おそろしいニュースを読んだ。植物の光合成=二酸化炭素(CO2)を吸収し酸素を排出するはたらきは、ふつう温度が上昇すると活発化する。だが、ある温度で酸素排出量の「増加」は止まり、それより高温になると「低下」に転ずるというのだ。
 一方、植物にも当然ある生物としての呼吸=CO2排出の気温上昇による「増加」には限界がない。このまま地球温暖化が続けば、呼吸によるCO2放出が光合成による吸収を上回り、熱帯雨林や北方林など地上の植物群は(動物としてのヒトや、人の産業活動と同様)CO2を吐き出す側になる…アメリカの科学誌に発表された研究である。
温暖化で2050年には森林がCO2放出源に、研究(AFPBB NEWS/2021.1.15)(外部サイトが開きます)
 繰り返し言うが、あくまで研究の段階(と、思いたい)。自分個人に限って言えば、そうでなくても2050年まで生きてる気がしない。だが「吾なき後なら洪水が来たってかまわない」というエゴを捨てれば、温暖化の果てに森林火災や海面上昇ばかりでない「全人類窒息」が待っている(かも)というのは、あまりに哀しく、おそろしい未来図ではないか。

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 そこまで考えて、地球の未来ではなく(そういえば『酸素男爵』というSFがあった…窒息する前に読んでおきたい)と思いが横すべりするのが本サイト運営者の残念なところです。

 今はなき吉野朔実さんが『本の雑誌』に連載していた読書エッセイまんがで取り上げていた本。いや「酸素男爵!?なにそれ!」と書名に惹かれた吉野氏だったが在庫切れで手に入らず、あれこれ自分で想像したあげく「読みたーい!読んでがっかりしたーい!と叫んで終わる回なのですが。
←右は総集編。
  グレゴリー・フィーリィ酸素男爵』(ハヤカワ文庫SF)。原著1990年・邦訳1993年(冬川亘)。舞台は月。ははーん、月といえば酸素がない。酸素の供給権を独占する酸素男爵が君臨しているんだな?と思ったら、そうではない。
 思いきりネタバレしてしまうと、物語を支えるSF技術のひとつ孤立波隧道(ソリトン・トンネル)によって人類は金星の大気を「かっぱぎ」レーザービームみたいに月に転送し、今や(未来だけど)月は大気を持ち酸素に困らない、外惑星の衛星群の住人から「こっちに酸素よこせよ、ソリトン転送でこっちがかっぱぎたいよ」と思われているテラ化した世界なのだ。
 さらにぶっちゃけて言えば酸素男爵は物語にほぼ登場しない。原題ではTHE OXGEN BARONSと複数形な彼ら彼女ら。訳者によればBARONSは「新聞王」「石油王」みたいな使われ方もする語だが「語感のおもしろさをとり」男爵と訳した由。要は月のみならず太陽系の酸素にまつわる権益をあやつり享受する大立者どものことらしい。が、彼ら彼女らが物語の全面に出てくることはない。なかなか純度の高い「がっかり」ではないか。
 とはいえ物語自体は「がっかり」とは縁遠い。主人公は爵位とも権益とも(少なくとも当初は)無縁なガルヴァーニッホ。フロンティアにおいて組織や企業に隷属せずフリーランスで生きていこうと思えば、しぜんと零細実業家にして自営業者・発明家も兼ね山師っぽい役回りになるだろう。そんな彼が冒険に巻き込まれ、言うなれば「息もできないほど」ひどい目に遭いまくる。具体的には乗ってた航宙機を仕事仲間もろとも爆破され、爆発で浴びた放射線で内臓をボロボロにされながら月の裏側に不時着し、敵に追われ、味方にこづかれ、泥に呑まれ、氷水をかきわけ、奴隷のような下級労働者たちに紛れて労役しながら逃走のチャンスをうかがい…「他の作品でいうと何に近い?」「うーん、『イワン・デニーソヴィチの一日かなあ
 ?(よく憶えてないけど)。
 テラ化したとはいえ過酷な環境。そして作者はその過酷な環境を、特殊スーツの機能からハッチの開閉まで丁寧に描写することで、一行も読み飛ばせない濃密な世界を体験させる。『天空の城ラピュタ』で、着ているシャツを筋肉でもってズタズタに破りポーズを取る親方に後ろからおカミさんが「誰がそのシャツを縫うんだい?」が言い放つ場面があるが、言うなれば「破れたシャツを誰が縫うか」ばかり考えてるような語り口。SFだから何か不思議なペーストを固めたような謎のハイテク食料が自動販売機の出口みたいにテーブルに転がり出てくると思ったか?地衣類でも食いやがれ!
 …いや、実際には食事描写はほとんどないのだが、後半に伝聞で登場する「涙目でヒレ肉が切り取られるのをがまんし、また新たに肉を生長させるべくヨタヨタ歩き去っていくステーキ用幼獣」は悪い想像力を刺激する。脂身を適度に含んだ「ハギス」のような肉瘤が育っては本体との付け根がどんどん細くなり、ついには果実みたいに自然に落ちる肉用獣はどうかとか…話が逸れました。
 

 外面からズタズタ、内面(内臓)からもズタズタにされ、低重力のため山脈のようにそそりたつ上げ潮(月の裏側・地球に引っ張られたその頂点で「海」は凍りつく)でシャーベットになりかけた主人公は、艱難辛苦のあげく亡命者としてスペースコロニーに受け容れられるが、そこでかけられる言葉はあんたはここで仕事口を捜そうと思ったことはないのかね?うわーつらい。冷たい方程式なみに厳格な世界。SFだったらそのへん、少なくともしばらくは何とかならないの?

 この「仕事口を捜さないの?」が「きわめつけ」と思ったら最後の二章=第四部でガルヴァーニッホはさらに酷い目に遭い、第五部でようやく自由らしきものを手に入れる。
 この最後の酷い目は今までの物理的な仕打ちとは次元が違う。まあ物理的な仕打ちでもあるのだけど心にズキズキ響く。実はSFでは頻用されるアイディア(次に読んだSFでも出てきた)なのだけど、使われかたが独創的で息を呑んだ。
 そしてその分、第五部の開放感が際立つ。ストーリー的に主人公が制約から逃れるだけではない。これまでパッキンひとつ緩ませず、意識的な動作なしには歩く一歩も呼吸ひとつも出来ない感じで(異世界を体感させるために)続いていた描写が、格段に楽になる。これもSF的な作品でよく使われてきたトリックだが、少なくとも非常に効果的。
 訳者はあとがきで本作を「惜しいことに(中略)意あまって力足らず(というより後半で息切れして力尽きた感がある)」と評し、第四部・五部での書き込み不足を指摘している。たしかに「そのへんはどうなん?」と不完全燃焼な部分もあるけれど、個人的には第四部のアイディア・第五部の転調のあざやかさこそ捨てがたいとも思うので「訳者あとがき」から先に読んで、先回りで「がっかり」する人のないよう、逆にかばいだてする次第です。思わぬ拾い物でした。やっぱり本は、読むに限る。

    *    *    *

 しかし2021年1月現在に意識を戻すと、数十年先の酸素不足どころか、目の前のたかがウイルスひとつにも苦慮する現実の人類は、月をテラ化したりスペースコロニーや外惑星にまで居住地を広げる技術力は「がっかり」するほど不足してるのだなあ、と改めて実感させられる。
 いや、それは技術自体が不足してると言うより、技術を開発し普及させる経済力や生産力・あるいは政治力などの圧倒的な不足、なのかもしれない。どんなに可哀想なロボットを操っても(思弁を弄しても)、土(誰かがシャツを縫わなければいけないという現実)を離れては生きられない。「誰がそのシャツを縫うのか」的なディテールに異様なほどこだわった『酸素男爵』を読むことで、得られた知見ではあります。
 
 デーハーな表紙から物理法則など平然と足蹴にするワイドスクリーン・バロック的な作風(※実はちょっと苦手)を想像してたら、真逆のとことん実直SFでした。実は自分は映画だけで原作未読なんだけど、火星でジャガイモ作るSFとか好きなひとに向いてるかも…

明るいディストピア〜フランソワ・トリュフォーと星新一(2021.01.24)

「リルケがアポロンの像を眺めたとき、アポロンは詩人に語りかけました。
 「お前は生き方を変えねばならない」」
(アーシュラ・K・ル・グウィン『夜の言葉』)

    *    *    *

 ディストピアという言葉で、思い浮かぶのはどんな光景だろうか。灰色に暗くよどんだ空。巨大スクリーンに映し出される独裁者。絶望に打ちひしがれた人々の顔、顔…
 書物が禁じられた世界、という設定で「ディストピアっぽいイメージ」の典型のひとつとして愛されているのがレイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』だ。もちろん、そこには言論統制や焚書・文化破壊への憤りや、異議申し立てがあるのだろう。だがフランソワ・トリュフォーが1966年に映画化した作品は、吾々が(実は心地よい悲劇として)愛好している「ディストピアのイメージ」を「えっ」と脱臼させるものだ。言いかえると、らしくない。失敗作だという声もある。だが逆に「本当のディストピアとは、こういうものではないか」と思って観ると、意外な発見がある。
 
 映画のスタッフや出演者が長いエンドロールではなく、冒頭のタイトル・シークエンスで表示されていた時代。電波の送受信をイメージさせるアンテナが次々と映し出され、文字のかわりにアナウンスがクレジットを読み上げる。映画は全編にわたり、数字以外の文字が追放された社会を描く。ついでに言うと、この社会では若い男性の長髪も禁じられている(笑)。自由が抑圧された管理社会。だが冒頭、禁じられた書物を隠していたモブキャラが「逃げて」という電話の密告を受け、泡を食って逃げ出すシーンから違和感がある。自宅で煙草を喫い、リンゴを頬張っていた男は慌てて上着を着込むが、青々としたリンゴの続きをかじりながら逃走の途に就くのだ。
 なんだろう、この場違いに牧歌的な感じは。そんな違和感が積み重なり、頂点に達したのは主人公の家のバスタブの蛇口を観たときだった。
 
黄金色のお魚がゴパーとお湯を吐き出す蛇口。こんな「ディストピア」があるか!その瞬間、違和感が弾けて理解に変わる。これは自分が思いこんでいた「抑圧された人々の陰鬱なディストピア」じゃない。少なくとも、チョコレートの配給量が日々減らされ、しかし情報操作で逆に増えてるように改変されている『一九八四年』モデルの窮乏ディストピアとは違う。人々は豊かで、満悦して、まあ主人公の妻は向精神薬を過剰摂取している傾向はあるが、それも含めて現実の吾々と変わらない、なんなら幸福感にあふれた社会・「明るいディストピア」なのだ。

 【窮乏なき、明るいディストピアでも、あなたは本を読むか】(仮)
 たかだか蛇口ひとつで映画の内容を決めるのはどうよ、と思うひとがいるかも知れない。では次のエピソードはどうだろう。主人公の妻が「無害な薬」と同様に手放せないのはテレビだ。番組の中に「家族」という視聴者参加型の特別プログラムがあって、彼女はそれへの「出演」を心待ちにしている。内容は双方向型を模した、しかし悲しいほど陳腐なものだ。二人の出演者が人々をパーティーに招く相談をしていて、時々「こちら」を向いては画面に問いかける。「リンダ、君はどう思う?」
 国内に20万人はいる「リンダ」全員にTV局が電話をかけ、あなたが出演者ですよと告げてるのだろうという主人公の邪推はおそらく正しい。それに気づかないリンダ(妻)が、どうとでも答えられる質問にしどろもどろに答えると、画面の向こう側の俳優は口々に「そうだ」「まったく彼女の言うとおり」と同意し、最後に呼びかける。
リンダ、君は本当に素晴らしい
 Linda, you are absolutely fantastic!!
 なにしろ昔の映画なので「双方向のコミュニケーション」はかくも稚拙で、わざとらしい。だが寓意は正鵠を射ている。たあいもないトリックに喜ぶリンダを嗤う吾々も、切望し、そして手に入れてしまったのは同じメッセージではないか。半世紀後の吾々がキュレーションと称してインターネットで築き上げたのは、自分に心地よい情報ばかりが増幅されるエコーチェンバー、まさに「君は素晴らしい」というメッセージに(ばかり)あふれた世界ではないか。
 窮乏なき、明るいディストピアでも、あなたは本を読むか(仮)→(改訂版)【自分自身が明るいディストピアの住人であることに、あなたは自覚的か】

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 前回の日記のために『ジュリアス・シーザー』を読み返して、懐かしいフレーズに再会した。シーザーを暗殺の現場に誘い出そうと謀議をめぐらす一味のひとりが言うのだ。
「象なら落とし穴、ライオンなら罠、人間なら追従を使えばいい(中略)
 あなたは追従がきらいですねと言ってやれば、そうだと答える、
 それがいちばんの追従だと気づかずにな」
(小田島雄志訳)
 シェイクスピアの戯曲は未読でも、おおよそ日本語圏で本が好きと自称するなら、別の形でこの言い草を知ってる人は少なくないはずだ。つまり
「ほとんどの人が
 「あなたのようにおせじのきらいなかたは、めったにございません。
  なんという高い見識でしょう」という文句で陥落した。
 これはシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」の中にもある文句だそうだが、
 ことほめ言葉に関してだけなら、妖精も文豪に匹敵する天才といえた」

星新一のショートショート「妖精配給会社」の一節だ。同名の作品集(新潮文庫)の表題作で、個人的には星新一の最高傑作だと思っている。
 説明の必要があるだろうか。妖精とは、宇宙から飛来した生命とも何ともつかない・しかし実体のある存在で、人の肩にちょこんと乗る大きさのそれらは実際に人の肩に乗り、持ち主の耳に甘いほめ言葉をささやく。それを一人ひとつ持てるよう公社のような会社が設立され、やがて誰もが肩に妖精を乗せるようになり、そして…という物語だ。
 「宇宙から飛来したデバイスが地球人に心理的な安定?をもたらし社会を根底から変える」というアイディアは初期作「セクストラ」と似通ってて、より洗練させたのが「妖精」と言えるかも知れません
 戦慄の結末については、ここでは述べない。真鍋博による新潮文庫の表紙に描かれた、うつむく「妖精」の容姿が天使や妖精より、むしろ地球の反対側で書かれた(やはり)SFの名作『幼年期の終わり』の「あれ」を思わせることも。いま述べておきたいのは、妖精を肩に乗せるかわりに吾々はスマートフォンを手に持ち、いわば自分とネットの共同作業で作り上げた「自分仕様の妖精」に日々「あなたは素晴らしい」と追従を囁かせている、ということだ。同作が星新一の(個人的に選ぶ)最高傑作という思いはずっと昔からのものだが、ネット時代・SNS時代になって、その辛辣さはますます際立っている。

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 トリュフォー版『華氏451』は寒々とした森に隠れ、これと選んだ書物の暗誦につとめる・自ら一冊の本となることを己に課した人々の姿を描いて終わる。このラストシーンを美しくしている要素は二点。トリュフォー自らの述懐によれば想定外に降ってきた雪と、主人公が選んだ書物の一節をめぐるエピソードだ。
 台詞すべて英語で収録された同作の最後で主人公が暗誦するのはアメリカの作家エドガー・アラン・ポーの一節。だが撮影する段になって、ポーの原典には該当するフレーズがないことが判明する。実はフランス人のトリュフォーが使おうと思った「ポーの一節」は、同作をフランス語に訳したボードレールの勝手な加筆だったのだ。そこでトリュフォーはどうしたか。ボードレールが創作したフランス語の「ポー」を逆に英訳しなおして、主人公に朗読させてしまう。
 公式な世界ではなく、個人の親密な記憶に重きを置いた、トリュフォーらしいエピソードだ。翻訳もひとつの創作という意味での佳話でもある。だが吾々はあらためて、そうまでしてトリュフォーが主人公に読ませたかった一節に注意を払わねばならない。それはこうだ。
 I'm going to relate a tale full of horror (私がこれから語るのは、恐怖に満ちた物語だ)」

 お前は生き方を変えねばならないと、アポロンの像は詩人に告げた。ある意味で、それは多くの詩・多くの物語や書物・世界を行き交う言葉が発しているメッセージだ。生き方を改めろ。今までの自分でいるな。今まで知らなかった世界の住人となれ。
 テレスクリーンや肩に乗った妖精がささやきかけるのは、それと真逆のメッセージだ。あなたは今のままでいい。手持ちの世界を反芻しなさい。何も変えず、何も新たに知ろうとせず、閉じた自己満悦に浸っていても、今のままであなたは素晴らしい。この国に限った現象ではないのかも知れない。だが、本来は「ありのまま」で「なかった」自分を変えようと謳うエルサの決意すら、「あなたは今までどおりでいい」という意味に曲解されるのを見て、とりわけこの社会では皆、自分を許したがりすぎると思ったのも確かだ。
 トリュフォーのラストが告げるメッセージは、本好きな(気分でいる)だけであなたは不屈のレジスタンス・世界のヒーローなのですという欺瞞を打ち砕くものとして捉え直されるべきだろう。書物を愛するものは黄金の蛇口がお湯を吐き出す心地いいバスルームから追放され、凍えた森に身をしりぞける覚悟を持たねばならない。そこで開かれる物語は未知の、それまでの自分を壊してしまうような、恐怖に満ちた物語でなければならない。
 本を愛するとは、そういうことだ。悪く言えば、次こそは足が生えてくるかも知れないと脱皮を繰り返す蛇のように。読むことで違う自分になる・違う世界の住人になることを望んで未知の扉を開く、そのような読書こそが読書なのだと、アポロンはあなたに告げる。

 もちろん、そうでない慰撫を書物に、物語に求めることもあるだろう。僕だってある。しかし「あなたは素晴らしい」とメディアに甘やかされる愉悦と、「本を読む自分は管理社会に抗するレジスタンスだ」という慢心は両立しえない。いや、本来なら両立しえないからこそ、人は両者を両立させ、甘やかされながらレジスタンスを気取る欺瞞に落ちこみうるのではないか。だとすれば、それこそが吾々の心の中から始まるディストピア・心地いい管理社会ではないのか。
 たえず甘言をささやく妖精が宇宙から飛来するのを待ちきれず、結局は自力で作り出してしまったのが吾々だ。ディストピアは、ひとり一人の心の中にある。
 
久しぶりに観直したトリュフォー版『華氏451』、「明るい」ディストピア映画なのだと承知して臨めば個々の描写も面白く、最後まで退屈しない良作でした。読書にのめりこみ、どんどん家庭を破壊してゆく主人公を観ると「本は人を不幸にする」という焚書官の隊長の台詞のほうが本当にも思えてくる、複雑な味わいを楽しみましょう。

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