まんがなど
(24.07.17更新)
『リトル・キックス e.p.』を追加。



発行物ご案内
(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
電書化、始めました。
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こちらから
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過去日記一覧(随時リカバリ中)

過去日記キーワード検索
終了しました(22.11.19)
Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

小ネタですが本篇更新。三年ぶり。(23.12.24)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

愛と劣情の馬たち(Instagram)

if you have a vote, use it.(save kids)

(24.09.08)メイン日記(週記)更新。来年1月に休館→閉館かも?と言われてるDIC川村記念美術館に行ってきました。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、またはこちらから。



(24.09.11/すぐ消す)ふだん足を運ばない西横浜でオープン前の6月末から気になっていた中華料理屋。まだ暑いけどようやく訪問&看板メニューを確認。排骨担々麺で排骨あとのせって初めて見た&食べた。最後までサクサク感がキープされ、たしかに理に適ってるかも。そして中々のボリューム。
 左から・開店前の店の外観「食為天」の看板・7月8日開店の黒板文字・別皿で供された排骨と担々麺、手前にサービスの杏仁豆腐。
食為天という店名は、調べてみたら漢書の民以食為天(孟子)に由来するようで、民は食を以て天と為す=人間ごはんが美味しければ幸せなのよ=当店が幸せにしちゃうからね(愛の呪文?)くらいの意味合いなんだろうけど・元々(?)食に窮したら民は蜂起するぞ(食も供給できずに何が天命だ天子だ)という権力者への戒め的ニュアンスでもあるらしく、これは善し悪し両面あるんだろうけど令和日本の吾々は随分と「天」に従順なようで…
コメ不足 農水省前で消費者などが安定供給求める 約200人参加(TBS NEWS DIG/24.09.10/外部リンクが開きます)うーん、200人。
(24.09.04→13?)1978年イタリアのモーロ誘拐、極左の暴走から極右の陰謀論まで暗い目で見ようとすれば何処まででも陰惨に描ける事件を「どうにか救おう」「人間を貫こう」とする人たち中心に描いた前後編6時間の大作夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』(ザジフィルム公式/外部リンクが開きます)。これを観れば現代イタリア政治史が分かる・ではなく「観ると知りたくなる」入口的作品ですが、たぶん予備知識はあまり要らないと思います。横浜シネマリン(公式/外部リンクが開きます)では9/13まで。
【電書新作】『リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、こちらから(外部リンクが開きます)
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サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、こちらから
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・署名国保料が高すぎる!国の責任で払える保険料にしてください!(中央社保協/24.6.19/Change.org/外部)
扉絵だけじゃないです。side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、こちらから。『読書子に寄す pt.1』電書販売ページへのリンク画像
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)

「私はここだ」〜DIC川村記念美術館に行ってきました(24.09.08)

 千葉県印旛郡の実家に帰省するついで「佐倉で気になる美術館があるから、寄ってから帰るわ」とメールを入れたら「ああ川村美術館ね、新聞で読んだ」と返信が。
【速報】佐倉のDIC川村記念美術館、来年1月休館へ 規模縮小と移転を選択肢に検討し、年内に結論(千葉日報/24.08.27・外部リンクが開きます)
 甦るのは新潟に行くたび朝カレーをキメていた万代バスセンターの立ち食い蕎麦屋が、いつもどおりに足を運んだら見たこともないような大行列で、聞いたら前日・土曜日の夜に「あどまちっく天国」で紹介されたとかで「あー、それは仕方ない(僕ですら名前くらいは知っている)あどまちっく天国ではなー」と嘆息した思い出。川村美術館も駆け込み需要で絵よりも人を観る、なんてことになるのかしら…
 要らん参考画像「小学校給食に出てくる黄色いカレーの完成形」みたいな万代バスカレー。ここ五年くらい新潟市は訪問できてないのですが、行列でもいい、存続さえしててくれてれば…
 そうでもなかったです。いや自分が行ったのは平日だったので、土日祝は違うのかも知れないけれど。
 そして結論から言うと、個人の趣味は別として(すごく好いとは思いましたが)そりゃあ採算は取れないよねと言いますか、でもあの敷地や建物を他に採算とれる何かに出来るとも思えないので、諦めず(または儲けは諦めて)続けていただきたいかなあ…
DIC川村記念美術館(公式/外部リンクが開きます)

 とりあえず東京駅を起点にした鉄路での路線図を紹介しときます。
 東京駅を起点にした、きわめて大雑把な路線図。1)JRで船橋を経由してJR佐倉で下車(1時間強・約1000円)。2)JRで船橋駅へ・そこから京成線に乗り換えて京成佐倉で下車(1時間弱・約860円)。無料バスは京成佐倉を出て10分でJR佐倉を経由・さらに20分で美術館に着くので、1)2)の時間差はここで相殺されます。
 僕は京成線を利用しました。京成佐倉駅の南口に出て徒歩10分足らず、無料の送迎マイクロバスが1時間に1本くらいのペースで出ています。バスが停まる場所の直ぐそばにあったハンバーガー屋で昼食。同じ千葉県・八千代(市)の黒毛牛=ヤチクロ(896)なのかな?直径より高さのがあって、ギュッて押しつぶして大口あけて食べるタイプのハンバーガー。ちろん肉が自慢なんだろうけどバンズもシッカリしてて美味でした。ドリンクとサラダつきで1150円。
 ヤチクロバーガー外観と、ヤチクロバーガー・サラダ・ドリンク(かわいいガラスの器に入ったミルクティー)のセット、縦長なバーガーのアップ写真。
 そうこうするうちバスが来て乗車。降りるとまあ敷地が広い。シダから樹木から丁寧に植えまわされた遊歩道を経て、ありえんような大きな遊水池に出る。優雅に泳ぐ白鳥、いや最近は(夏でも飛び立てないよう)翼を切ってるとかで皇居のお堀なんかでも動物虐待と批判されていますけど、その話は措く。
 遊水池・美術館の外観・入口に設置されたフランク・ステラのオブジェ。
 そしてこの広い敷地を無駄に…もとい贅沢に使った美術館は「とどめ」とばかりに抽象的な現代美術がメインなのでした。個人的には楽しんだけれど、まあ株主が頭を抱えるのも分からないではない。

 いや、入ってすぐは具象画が続きます。月並かもですがモネの睡蓮、広く取られた観覧室で遠く離れれば離れるほど、ふつうに美しい水辺の景色に見えるのが面白く。数点あるピカソもそれぞれ作風が違うので、どれが好きか選んだり(複数で行ったら)言いあったりするのも楽しいかと思います。個人的にはフジタが描いた女性がクリムトみたいな黄金のドレスをまとってるのが面白かった。
・この絵でした。いいでしょ。→企画展:レオナール・フジタとモデルたち(川村美術館2016年/外部リンクが開きます)
 ダダやシュールレアリスムの諸作品を挟んで、後はタップリの現代美術。たぶん興行的にはマーク・ロスコの巨大な壁画群と、逆に小さな箱にコラージュを詰め込んだジョゼフ・コーネルが、二大お客を呼べる代表作なのでは。コーネルの名前は柴田元幸さんのエッセイか、彼が訳した誰かのエッセイで知った気がする。柴田元幸的なものが好きな人には刺さるかも。
 とはいえメインは(なんだかんだで具象をコラージュした)コーネルよりも、ロスコのような抽象美術。その魅力や楽しみかたをどう提示できるかで、本館の生き残りは決まる気がします。いや、自分も美術まして現代美術は全く分からんちんなのですが、今回は不思議と楽しめたので「いえいえ、当館の現代美術は初心者のお客様でも楽しめますよ!」とアピールする資格は既にあるのかも。
 自分の場合、たぶん7月に行った金沢の21世紀博物館・とくに佐々木類氏の作品で開眼するものがあって(7月の日記参照)。いちど開いた眼がまた閉じる前に行けたのも良かったのだと思います。
 大急ぎで説明すると「自分(人間)がこうもありえた姿」「人間が言語を使わずに自分とか人間とは何かを表現しようとしている」あるいは「(いっそ人間が作ったタブローを観てるんじゃなくて)言語を使わない異星人とコミュニケーションしてる」みたいな心持ちで対峙すると、意外と面白いんですわ抽象的な現代美術。まあ、ただの邪道ですけど(自分には同様に意味不明に聞こえる現代音楽が和音だの調性だの複雑な理論に基づいているように、美術にも何かしらあるのでしょう、たぶん)その邪道で川村美術館を楽しめる人が増えて存続に寄与できればとダメモトで
 現代美術あるある:漆黒に見えて微妙に漆黒じゃない作品が好きな作家多すぎ問題。ドイツ(だっけ)・日本(だった気がする)・????の作品イメージと「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの二枚目みたい」と苦笑してる羊帽の女の子(ひつじちゃん)の絵を添えて。まあVUのセカンドも現代美術(アンディ・ウォーホルのファクトリーに居たひとの作品)らしいですけど。
 マーク・ロスコの巨大壁画群を作家自身が望んだレイアウトで再現したロスコ・ルーム(川村美術館公式/外部リンクが開きます)←この紹介ページの写真よりも、ずっと暗く抑えられた照明になっていて、異なる世界や、現世と冥界を隔てる境界線の向こうを(それはすなわち冥界なのでは)に歩み入るような感覚で良かったです。
 川村美術館:フランク・ステラのソコは見どころか?正方形の上下四方から真ん中に切り込みが入った変形額、上に並んだ灯が落とした影が何重もの陰影になってて「えっ何この影?すごくアートしてない?(そこ?)」と他の変形額とか見に戻っちゃった舞村さん(仮名)の挿し絵。
 
 眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)という佐藤弓生の短歌のように。
 あるいは、前にも引いてるけどあんたがたは、いつも模型(モデル)を造ってる。環状列石(ストーン・サークル)、大伽藍、パイプ・オルガン、加算機械(中略)今夜の仕掛け(ラン)がうまくいけば、ついに本物があんたの手にはいるというサイバーパンクSFの台詞のように(ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』)。
 そのあと実家に帰って、土曜日の午後に家族が観てるテレビのゴルフ中継をのんびり観ているうち、(これも宇宙から観おろしたらケッタイな現象だよなあ)(ホール数も10や14や19や26だったものが次第に淘汰され18ホール・バンカーやグリーンの案配も今の形に定まっていった、その過程じたいボールが必然みたく一つの穴に引き寄せられていく様子に似ていて面白い)(そういう総体として一つの壮大なインスタレーションと言えなくもない)みたいなことを口走り、「そんなこと言ったら何だってそうじゃない」と笑われたのだが、まさに何だってそうなのだ。
 正確に言うと、何だって一部はそうなのだ。わざわざ美術館に出向かなくても、目の前の街路にある敷石の並び。コンクリートの巨大な建物に、人々が互いの存在も気に留めず造りだす灯の明滅。人の営みに限らない。植物の精緻な葉のパターン。エノコログサの穂。
 植物の造形は純粋に機能上の要請から来るもので、美とか表現は目的ではない。それでもあらゆる事物は「そういう目線」で見ると、「わたしはここだ」という表現に「も」見えてくる。抽象芸術や現代美術に(投機以外の)意味があるとしたら、他の事物ではそう「も」見えるに留まってる「美や表現」を本当に100%目的に作られたものだから、なのかも知れない。
 これは横浜の夜景(写真三点)
 それが目的ではない事物にも「美や表現」を見出してしまうよう、いわば目を調性するために、美術館の作品群は存在するのかも、という仮説。残響は、横浜に戻ってからも、しばらく続いている。良い美術体験でした。
 
      *     *     *
 【今週のまとめ】
 ・すべての事物が一部として併せ持ってはいる「美だけ」を取り出すのが美術。
 ・川村美術館、良かったです。でも採算的には厳しいと思うので惜しむひとは年内に。
 (路線図つきで)佐倉が遠出になる人は折角だから:京成佐倉より三駅ほど東京寄りの京成志津の駅ビルに、チェーンだけど独自の選書でわりと有名な本屋があるはずだから、本好き・書店好きなひとは旅程に加えてみてもいいかも知れません。
 以下余談。無料の送迎バスは1時間1本なので、帰りも考えて行動しないと時間をもてあまします。当然ながら考えずに行動してたため、併設の高級レストランでルバーブのケーキとレモンティーをいただく羽目に。それも含めて贅沢な時間でしたが、強く推すわけでもないです(まあ自分の出費は存続に向けた足しになれば…)。
 画像:右下から時計回りに川村美術館の併設レストランのケーキとレモンティー・佐倉市制70周年コンサートのポスター。佐倉高生らしき少年少女が糸電話で話している。・歯科検診のポスター・パチンコ屋の看板と「With Enjoy」のロゴ拡大。
 佐倉市は市制70周年だそうで、街に貼り出された記念イベントのポスターは、どうやら佐倉高校の美術部員が描いたものらしく。佐高生、男子の制服は今でも詰め襟なんですね、良き良き(自分が通ってた頃は何とも思ってなかったけど、後に近隣高の出身者から「あれは萌えでしょ」と言われたことがある)ボタンの向きが逆なのは描いた当人も気がついて悶絶してるだろうから、この先輩に免じて見逃してあげてほしい。
 佐倉市は19歳以上の市民だと300円で歯科検診が受けられるようで、これも良き。
 しかし駅前にあったパチンコ店の看板、「With Enjoy!」enjoyは動詞だから「With Enjoyment」いっそ「With Joy」でいいんじゃないかなと考えてる時点で、良かったですね(現代美術で宇宙や冥界に行っちゃってた自分の思考も)平常運転に戻ってるみたいです
 ※joyとenjoymentは厳密には意味が違うみたいなんですけどね。

 
 川村美術館には(現代美術の中では特に入りやすい気がする)ジャクソン・ポロックも。本人の作品ではなくイギリスのロックバンド、ザ・ストーン・ローゼズのメンバーがポロックを模して描いたレコードジャケットから「入った」ひとも今のアラフォー・アラフィフには少なくないと思うのですが、愛知の美術館が昔こんな展覧会もやってた模様→
ジャクソン・ポロック×ストーン・ローゼズ!(愛知県美術館/2011.12.02/外部PDFが開きます)

小ネタ拾遺・24年8月(24.08.31)

(24.08.05)大昔のドイツのグループNEU!を連想させる名前に釣られた(←たぶん無関係)おじさんなど眼中にもなさそうなデビューしたて?のガールズバンド。ゴリゴリのベースが(17歳ですってよ)えげつないほどカッコいい。読みは「ネキ」だそうです。
NEK! - MAZE (Official Music Video)(YouTube/公式/外部リンクが開きます)

(24.08.03)温暖化へのささやかな抵抗として・使うほど地球に木が生える検索エンジン「Ecosia」(GIZMODE/24.7.28/外部リンクが開きます)まずはiPhoneにインストール→画面下に常駐させてみました。
 AppStoreからダウンロードしたEcosiaを常駐させた、iPhoneの画面下部のスクリーンショット。
使い勝手はGoogleと遜色なし/妙なプロモーションが上位に来ないっぽい意味では、むしろ好いかも。デスクトップMacで検索環境をEcosiaに移すには現在使ってるSafariからブラウザ自体を変える必要があって少し面倒だけど、ぼちぼち直せればと思ってます。
(追記)iPhoneの場合、ブラウザ(Safari)からの検索もエンジン設定で簡単に切り替えできる。デスクトップはどうかな。

(24.08.04)先月の日記で「昨年同時期はあったのに今年はやんぴになった」と書いた燃料費高騰にともなう国の補助、8月使用・9月検針分から(昨年の6割弱ですが)一時的に復活します。
・参考:国による電気・ガス料金支援について(東京電力/24.7.29更新/外部リンクが開きます)
再生エネルギーを使った新電力会社を含め、他の会社でも適用時期・補助額は同様のはず。つまり8月分料金の〆が終わったら少し電気代は楽になるはず、なので節約のために健康を損なう人が少しでも減れば…と願う。

(24.08.05)ちょままま、マジか。Bangladesh PM Sheikh Hasina resigns and flees country as protesters storm palaceバングラデシュで抗議者が官邸を急襲、ハシナ首相は辞任・亡命(BBC/外部リンクが開きます)…先月の日記で抗議にふれた行きがかり上、学生デモへの過剰弾圧に抗議するアムネスティの署名(24.7.31/外部リンクが開きます)に賛同して、ここ(本サイト)にもリンクを貼ろうとしてた矢先だったので驚いている。身構えとけ、瓦解する時は一瞬だぞとか思うことは多々あるけど、いや、弾圧側の「ゴム弾」という単語に'19年の香港(昨年11月の日記参照)、さらに遡っては来年で100周年になるエイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』オデッサの階段などが思い出されて…

(24.08.12)東京外語大学が運営してるTUFS media 日本語で読む世界のメディア(外部リンクが開きます)、学生や卒業生による各国紙の翻訳は一ヶ月くらいタイムラグがあって速報性は薄いのだけどアジア・中東の感覚を知りたくて時々眺めている。バングラデシュのProthom Alo紙のコラム何もしないことがなぜ重要な仕事なの?(24.7.7/外部リンク)は「適度に休んでこそ仕事も捗る」みたいな主張半分で、や、それも正論なのだけど、やっぱり残り半分で説かれるすべての人が現在、一息つくことを望んでいる」「心の重荷が軽減して、よく寝られるようになる。様々な身体合併症を避けられる効能の方が目に優しい(笑)
ちな最新のバングラデシュ情勢はグラミン銀行の創設でノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏を最高顧問にバングラデシュ暫定政権発足 治安の安定化最優先(NHKニュース/24.8.9/外部リンク)だそうです…すげーと思う反面、お隣ミャンマーで同様に期待を背負って登極したアウンサン・スーチーが上手く行かなかった経緯を今ちょうど岩波新書で読んでるので、うう、良い方向に向かいますように(どっちの国もだよ)…

(24.08.07)本には読み時があって、とゆうか、その本が本来テーマにしてる以外のことを勝手に期待して臨むと「ピンと来なかった」で終わりがち…という話は前もしたかも。思い立って再読したコーンフォードソクラテス以前以後(岩波文庫/外部リンクが開きます)初読時よりは読めた気がする。それまでの自然哲学と一線を画し「人の幸福(善)」の追究のみにフォーカスしたソクラテス・の後を継いだプラトンが師の人間主義を(そのために師が切り捨てた)世界の中に位置づけるために、ピタゴラスの数学的神秘主義を裏口から?取り入れたという解釈が面白い。なるほどプラトンのイデア・とくに三角形のイデアって、言われてみればピタゴラスっぽいかも??
 書影:ソクラテス以前以後
終盤のアリストテレスは少し飛躍があって再々読に期待だけれど(また読む日が来るんか)彼のたとえば「潜勢力」などのタームが、ドゥルーズやアガンベンなど現代思想でも重要な使われかたをしていると知り、良くも悪しくも奥だか根だかが深いな西欧哲学…

(24.08.08)倉敷の古本屋で入手した『水声通信 甦るライプニッツ』(2007)つつがなく読了。近代人ライプニッツの思索の源流(一部)が中世ヨーロッパを経由して10世紀ペルシアの哲学者イブン・シーナー(アヴィセンナ)まで遡れること・またラ氏が遠い伝聞として取り入れた中国思想も当時の中国では乱世と王朝の交替を背景に「現実はひとつか」問うような議論があったこと・などを座談会で山内志朗氏が語っていて
 水声通信(ライプニッツ特集)と世界哲学史1〜3を並べた書影にキャプション:今回の『水声通信』にも寄稿してる佐々木能章氏の『ライプニッツ術』が読んでる間(※だけ)ものすごく頭が良くなった気がする本で、生きてるうちにアレも一度再読できたら幸せだなと…
山内氏も編者に名を連ねている、ちくま新書『世界哲学史』の「哲学が古代ギリシャと近代ヨーロッパだけのものじゃないと証す」コンセプトが生まれてきた経緯がほの見えた気がしました。『世界哲学史』ちょうどライプニッツあたりで読み停まっているので頑張らねば。
 あと、そうした諸々→ライプニッツな系譜の行き着く先として(同じドイツの)ベンヤミンが特等席を与えられており、彼ひとりで言わば「もうひとつの思想史」を背負って立ってる、実は現代思想の最重要パーソンの一人なんだなと改めて。

(24.8.06)お前がもたらしたKI**が消えることはない。
(和訳) OMD エノラ・ゲイの悲劇 - Orchestral Manoeuvres In The Dark - Enola Gay(YouTube/外部リンクが開きます)

(24.08.09)広島・長崎は言うに及ばず近現代史のあらゆる局面で「戦略爆撃が戦争を終結させたことはない」点については荒井信一『空爆の歴史』(岩波新書)を要約・敷衍した12年前(12年3月)の日記で過不足なく言い尽くしているので、リンクを張って掘り返すに…とどめたかった、けど、
 敵の軍事施設をピンポイントで破壊するのは技術的に困難なので、攻撃が容易な市街地を標的に非武装の住民を殺戮することで「戦果を謳う」無差別爆撃の嚆矢が日本の青島爆撃(1914年)だった=つまり日本は紛れもなく、その愚劣なゲームの主要プレイヤーの一員だったことを特記するとともに
 12年後の今は「軍事施設のピンポイント攻撃は技術的に困難→非武装住民を無差別攻撃」が「技術的困難はクリアした→よし、非武装住民をピンポイントで殺戮だ!」「待て待て待て、何でそっちになる」という最悪の段階に進んだことを新要素として付け加えておきたい。ガザで行なわれていることだ。
 かつての東京や広島・長崎がB29や原子爆弾という新製品をアピールするスペクタクルだったという『空爆の歴史』の議論を踏まえると、現在のガザの非道もまた、同じような力を自国内のまつろわぬ非武装市民に向けて行使したい(たとえ殺戮でなくても監視とか)と願う各国の政府に「うちの技術ならココまで出来まっせ」と見せつける、おぞましいショーケースでもあるのかも知れない…と妄想がたくましくなってしまう。
・参考(一例):イスラエル軍はGoogle・MicrosoftからAIツールを調達、ガザ地区住民の監視情報をAmazonのクラウドサービスに保存(+972MAGAZINE/24.8.4/英語/外部リンクが開きます)
 長崎市のイスラエル不招待に対するG7各国の式典ボイコットは、かの国々が結局はまだ同じゲームをプレーし続けていることを、はしなくも明示したと言える。これを機に「日本はそのゲーム80年前に(名目上)降りたし、今後ますます(実質的に)降りますけど」と言えるのが理想だし、日本の企業が技術協力などのかたちで、この愚劣なゲームver2023〜に加担しないことを、改めて強く望む。もちろん国家として、かの国が売りたい技術の顧客にも、なられては困る。

(24.08.10)昨日の小ネタについて、こちら(本サイト)ではたぶん言ってなかった(Xになる前のTwitterで書いてたと思う)ことを補足で記すと、かのカエサルがかの『ガリア戦記』で「進軍したけど敵軍に遭遇できなかったので、近隣の村落を破壊して帰った」ことを「戦果」として高らかに報告してる件(あんまりインパクトが強くて他は何を書いてたかサッパリ憶えてない)空爆の発明を待つまでもなく、古代ローマの昔から戦争は汚いゲームだったという第一級の証言(自白)なんですわ…
今年(令和6年)の長崎平和宣言(長崎市/24.8.9/外部リンク)に賛同しました。過去の長崎平和宣言、昭和48年から全部読める(同上/外部)って知ってた?

(24.08.15)実はMacklemoreのHIND'S HALL(YouTube/公式/外部リンクが開きます)を初めて聴いたとき、言ってることは全面的にまっとうだけど「(今すぐイスラエルの虐殺をやめさせろ、でないと)バイデン、秋になってもお前には投票しないぞ」てフレーズはトランプ陣営が喜んで(そこだけ切り取って)鬼リピするだろうなて懸念もしてたので、民主党が頭をすげ替えて本当に良かったし、ある意味で歌(ラップ)が遂行的な予言になった・少なくとも流れに竿をさしたとは言える・結果的にやっぱり全面的に間違ってなかったことになって安堵する気持ちはある。

(24.08.16)アメリカの大統領選、両党の「副」大統領候補がこんなに注目されるのも珍しいのでは。民主党でハリスに抜擢されたウォルズ(ウォルツ)氏はミネソタ州知事として中絶の権利を保障・脱炭素の分野でも(参考:「米ミネソタ州、2040年までに州内電力会社に100%カーボンフリーの電力供給を義務付けへ」ジェトロ/24.2.13/外部リンクが開きます)他州に先駆けるなど、共和党の路線に真っ向から対立する人物。一方、先んじて共和党の副大統領候補とされてきたヴァンス氏もトランプ路線を煮詰めたような人物らしく…こちらについては一目して噴いちゃったフェディバース(X代替の分散型SNS)に上がってたアンチ画像をリンクしておきます(Gregg Gonsalves/Mastodon/24.8.9/外部リンクが開きます)。はははは。
※いちおう説明しておくと女性の中絶の権利を認める(プロチョイス)派のキャッチフレーズが「My body, my choice(私の身体のことは私が決める)」なのです。
※日本のあの党やこの党の総裁選・代表選についてはもう這いずり回って世界を救ってみせろ(ナムリス)としか…

(24.08.17)昨日の台風、一番ヤバい時の風雨を頭に載せた小さなタオルで凌ごうとしてる人を(傘が壊れてしまったらしい)見かねて有無を言わさず自分の傘に入れ、50mくらい先のコンビニまで送り届けるソコソコのファインプレー(自賛)。
 東京アメッシュのスクリーンショット。水色→青→赤を通り越し紫になった豪雨の只中に居ました。
 まあかく言う自分も、第一波の風雨が予報警報ほどではなかったから出先から駅までも勝ち逃げできるかと甘く見て途中まんまと捕まったのですが「さっき少し賑やかなあたりでマクドか大戸屋にでも入って時間をつぶすんだった」という後悔が「でも、それで上手く第二波もやり過ごしてたら、ジブンこのひとを助けられんかったわけだし」と思い直すことも出来たので結果的に良かったんじゃないでしょうか。というか逆に僕に日ごろの罪滅ぼしのチャンスを与えるために、先方の傘が壊れたとも言えるわけで…
 その後また別のひとが駅蕎麦で入口の券売機から音を立てて釣り銭が出てるのに気づかず入店しちゃってたのを見て、追っかけてお店に入り「いま券を買ったひと、お釣り忘れてますよー」と声をかけるなどして、また功徳を積み増しした。そういう日だったらしい。

(24.08.18)何の準備も出来てないのに引越センターのトラックと作業員4人が来てしまう(しかも午後)自分にしてはわりと新機軸な悪夢で(どーすんの)(しょうがない、この4人には出前の寿司でも奢るか)と思ってるあたりで目が醒める。朝5時前なので二度寝してもいいでしょうか。
(10分後追記)あ、夢の理由わかった…寝る前に読んだ四コマまんがが引っ越しネタだったせいだ…夢は記憶の整理、分かりやすすぎる…

(24.08.19)アラン・ドロン追悼…は11年前の自分に任せた。1967年の映画『冒険者たち』について書いた、2013年12月の日記です。この時は書かなかったけど、この映画でのドロンの最後の台詞になる「うそつきめ!(笑)」がまた、潰えたと知りながら夢を見ようとする悲しさに満ちていて愛おしいのよ…
ロベール・アンリコは最近観た『オー!』(1968)も生きかた下手の強がり路線で味わい深かった。ジャン・ポール・ベルモンド演じる主人公の運命を見届けるジャーナリストが(後の)マーク・ストロングに似た顔の俳優さんだったのも。

(24.08.20)涼味おろし温玉そうめん。耐熱容器に最初から150ccキチンと量って水を入れ、生玉子を落とし20秒ずつレンチンを2〜3回・様子を見ながら繰り返し温泉玉子を作る。水(お湯)も捨てずに一緒に冷まし、冷蔵庫で冷やしておく。。大根を適量おろして水気をしぼる。おそうめん一把(50g)を規定どおり茹で、水道水で冷まして揉み洗い・ぬめりを取ったら氷水で冷やす。大体からまってるので、ほぐしつつ一口分ずつ氷水から引き上げ、軽く水気を切りつつ食べる器に移す。先に作った温泉玉子の水150ccと合わせて「かけつゆ」の濃度になる量、濃縮めんつゆを器の素麺にかけまわし、温玉と水を加えて軽く混ぜ、大根おろし・あれば薬味や漬け物などトッピングしていただく。写真を撮るときは見栄えのためランチョンマットなど用意しておくとベター。足りなければ他に何か食べる。
 おろし温玉そうめん・出来上がり写真。

(24.08.21)SHERLOCKよりエレメンタリー派だった自分にとっては田中敦子さん=ワトソン(ルーシー・リュウ)でもありました。謹んで。
 右からルーシー・リュウ、じゃーねと台詞を添えてマーモ(ドキドキプリキュア)、剣を背負った『KUBO』のサル、このへんに少佐(光学迷彩)として点線で囲まれたシルエットだけ。
(同日追記)松岡正剛氏の訃報も。千夜千冊の完結以降は残念な消化試合という印象で(すみません)今は褒めるのが難しい人かも知れませんが、自分は多くを学んだなあ。役人たちが飛びついた壮大げな伽藍より、ラグビーは後ろにボールを投げないと前に進めないとか、字を書くとき人は自分がつむぐ線の尖端が(指に隠れて)見えないとか、テルミンは少し手を離さないと音が出ないとか、引き算みたく逃げ去っていくもの(フラジャリティ)への一貫した関心を、あらためて読み直したいところです。

(24.08.24)先月の日記で予告(?)した横浜そごうのヨシタケシンスケかもしれない展(公式/外部リンクが開きます)すごかった…まずは入ってすぐ、システム手帖のノートに描かれたスケッチ・アイディアメモが圧巻。KJ法もビックリだ。
 スマートフォンより少し大きいくらいのシステム手帖のノートにクッキリした黒の細ペンで描かれたスケッチ・アイディアメモが壁一面に整然と貼り出され、人々が眺めている。
会場内は圧倒的お子さま連れで盛況。中高年男性で「じごくのトゲトゲイス」に座って喜んでるの、自分が行ったときは自分だけだったかも。
 鬼ふたりが「ようこそじごくへ」「せっかくだからすわってください」と仏頂面でいざなう絵本のネタ「じごくのトゲトゲイス」を実物化したオブジェ。「西日」と題された初老サラリーおじさんの木製オブジェはライティングでデスクに西日が差してるよう。空調のパネル?の横に貼られた「コレなんだろうね?」という付箋。
横浜では9/2まで。そのあと沖縄・岡山で開催らしいので興味あるかたは是非。
(24.08.26追記)なんて書いた矢先・「微うつ」歴50年の異変…ヨシタケシンスケさんと「助けてボタン」(朝日新聞/24.08.24/外部リンクが開きます)。有料記事なので途中までしか読めないのだけど、改めて、クリエイティブだったりパワフルだったりと不安や絶望・うつは全く両立できるのですよな…だから「昨日あんなにはしゃいでたのに今日うつとか恥ずかしい(あるいは逆)」とか思わんでいいと思う次第(でも思っちゃうのが人間なので「そういう自分を受け容れる)。せめて自身の弱さを知った分、柔らかい人間になれるといいですよね。

(24.08.28)なんか自信たっぷりで、こんな症例もあるのかな?と丸め込まれそうになった誤字。仕事ばかりで遊ばない、ジャックは今に…的な。皆様ご自愛。また来月。
 本の表4の解説文のアップ「無遊病者」。
※狙ったわけじゃないけど(すげー働き者だった)某ジャックさんの本…某ジャック…ジャック・誰ダ?

今すぐ出来るし、すべき地震対策(24.08.25)

「凶暴そうに見えれば殺していいなら 殺されるべきなのは私たちのほうだろう」
―"Continuing story of Bungalow Bill" The Beatles(John Lennon)
 先にもう書いておく今週の結論:巨大地震に備えた今から出来る最大の対策は差別をやめる一択でしょうがよ。何かつうとデマや中傷とばしてさ、いざというとき多数派の暴力で加害者にならない自信あるの?(厳しい顔で腕組みをした「ひつじちゃん(羊帽をかぶった女の子)」のイラストを添えて)
 今まで十年くらい考えてきたこと、最近ようやく言語化できたことも含めて一度(もう一度?)まとめておこうと思います。「いま日本がやってる外国人差別って産獄複合体に似てるよねという気づき」「むしろヤバいのは多数派の暴力」「怖ければ差別していいわけじゃない」あたりを書ける処まで。

 0)悠長なマクラ:巨大地震が来るとしたら
 校長先生ふうに言うと、南海だか何だか巨大地震に備えてください的なアナウンスが流れてからネット上の皆さんが「それ個々人に丸投げすることか?政府は何してんだよ」と声をあげるまでに48時間(くらい)かかりました。生死を分ける48時間かも知れません。だから今回ココでは「差別をやめろ」に終始するけど、今すぐできる巨大地震対策のひとつは「次の自民党総裁じゃない、別の政権に替えろ」でもあります。でもその話は皆様に任せる。
 コメ不足のニュースも相まって人々が買い占めに走ってる・いや皆「いい機会だから少し補充しただけ、買い占めとか別の奴らじゃない、ひでえよな大衆って」と思ってるて話もあるけど。あ、数日だか数週間だか生き残れるだけの備蓄を用意できるんだ、用意しようと思えるんだ、失なうものがある人たちはスゴイなと思った僕の頭に浮かんでいたのは
朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり
という論語の一節だった(完全あきらめモード)。また次のステージに上がれば別だけど、今まで色々「なんで社会はこうなん?」と考えていたこと、ウォーラーステインの『史的システムとしての資本主義』(岩波文庫/4月の日記参照)で、わりと気が済んでしまった感はあるんですよね。
 なので心残りとして夜中に頭をよぎったのは「ホログラム宇宙論について、もう少し理解したかった」具体的には順番に
・超ひも理論や11次元宇宙論を解説したブライアン・グリーンの『エレガントな宇宙
・わりと誤解されて世に定着したマルチバース理論(正しい理論のほうがずっとビックリする)を解説したレオナルド・サスキンド宇宙のランドスケープ
・そしてホーキングと論争するうちホログラム宇宙論に到達しちゃった同じくサスキンドの『ブラックホール戦争
この三冊を用意できれば避難所生活も耐えれるのではないか(バカなの?)
…要するに「地震が起きるのが直ぐなら、準備なんて間に合うわけがない」
 まあ「のりたま」だけは業務用を用意してるから大丈夫だけどな(何ひとつだいじょばない)。大きさ比較用の懐中時計を添えた業務用のりたま(大袋)の画像つきで。
そのうえで。

 1)今すぐ出来る・すべき巨大地震対策として「差別をやめろ」
 どこかで災害が起きると発生する「外国人窃盗団が」という話(ボランティア先の能登でも聞いた)。これまで川崎で在日韓国人・朝鮮人をターゲットにしてきたヘイトスピーカーが(条例で差別しにくくなって)「ブルーオーシャン」として飛びついた感のある川口市のクルド人差別。もちろん小池百合子都知事が関東大震災での朝鮮人虐殺に(あの石原慎太郎でさえ送っていた)追悼文を送らない件。それに「お墨付き」をもらった形での9/1当日のヘイト集会。そうゆうの全部、もっと大きな災害が来たとき「何か起きてしまう」下準備になりかねない。まずは差別をやめるべき。

 2)今の日本の外国人差別は民営版の産獄複合体みたいだ
 哲学や現代思想・社会史や経済史の大家みたいな人たちの本を、それこそ超ひも理論やホログラム宇宙論と同じ「なんかすごいことを読みたい」好奇心で分からんながらに読んできて、すごく勇気づけられたことがある。スプーンの上に天使が何人乗っかれるか的に浮世離れしてそうな彼らの多くが、その主著で「どうして差別するのか」「差別の本質は何か」真剣に考えていると知れたことだ。
 本サイトの日記でも何度かに分けて書いてきたのを、いい機会なのでまとめておく:
 みんな差別のことを考えてる(似てない似顔絵つきで) ルネ・ジラール「疫病や社会の崩壊で私は生き残れるという根拠がなくなった時、私は大丈夫だ(なぜなら奴らが先に死ぬべきだから)と思いたくて人は差別に走る」 ドゥルーズ=ガタリ「差別者はお前ら出て行けと口では言いながら、自分たちの中で劣位の者として被差別者を「自分たち」の枠内の閉じこめ、出て行かせて(さえ)くれない」 ミシェル・フーコー「生産のため人々に生きることを強制するようになった生権力は、それを強制できる根拠として、生きるに値しない者は死ぬけどなと言うために差別(被差別者)が必要不可欠だったのです」 ウォーラーステイン「資本主義は搾取のシステムなので、搾取される劣位の者を常に産出する必要がある。それが現代的な差別の正体。」
 学術を越えた社会活動として監獄の人権問題に取り組んだフーコーが「監獄は犯罪者を更生させず、むしろ再生産している」と批判した(らしい)(その辺あまり読めてない)(あるじゃん心残り)ことと関連して、さいきん気づいたこと。特にアメリカで問題になっている産獄複合体、刑務所が収容者をむしろ(フーコーが言ったように)犯罪者としてのカテゴリから抜け出せないループに閉じこめて、民間委託と結託しての安価な囚人労働という形で搾取している問題。
 外国人が不法滞在とか犯罪者とかスティグマ化・ラベリングされ「逆らったら強制退去させられてしまう」と足元を見られて不当な低賃金労働に従事させられてる(被災地や原発など危険な場所でも)日本の話、檻のない産獄複合体をマジョリティと呼ばれる市民が自発的に作ってるって話じゃないの、という疑問が湧く。(自分はニブいので順を追ってウォーラーステインとかまで読んで、ようやく得た気づき)
 これに限らず、他の国では政府が警察や軍隊を使ってする弾圧めいたことを、一般市民が自発的にやる日本て印象が強いのだけど、どうなんでしょう。巨大地震が起きた時の暴発を危惧する所以です。
 ※退去を恐れるがゆえに守りに入りがちな「インネパ」カレー店の悩みについて今年5月の日記も参照のこと。

 3)分断が怖い〜五年かけて、ようやく言語化できたこと
 ニブいと言えば。2019年の三月に品川の東京入管で病人が出たのに、駆けつけた救急車を局員の一存で返してしまう現場を目の当たりにして(20年1月の日記参照)。←いま振り返ると文章化するのにも一年かかってて(当時のTwitterで逐一「実況」はしてた)、だけれどなお、その時も言語化できなかったことが、事件から5年かけて、やっと言語化できそうなので書いておく。
 もちろん入管の対応は怖かった。棒で殴るとか物理的ではないけれど「何もしない暴力」だからね。ウィシュマさんが死に追いやられた時と同じ。「死ぬに任せる(フーコー)」暴力。
 でも同じくらい怖かったのは、病気になったクルドの人の家族や友人知人が押しかけて、支援者や僕みたいにTwitterで見た日本人や在日朝鮮人のかたも馳せ参じて。「ここに半々くらいで日本人(在日のかたも)が居て良かった」もし抗議に集まったのがクルドの人たちだけだったら、そんな「分断」がここで生じなくて良かったと安堵する気持ちが強かった。もっと大きな何か(emergency)があった時、クルド人なり何なりのエスニック・グループが孤立して、分断された形で集団としてemarge(出現)するのは怖いと思ったのだ。
 五年前には上手く言語化できなかった話をしています。
 言語化できなかったのは「分断が怖いって、要するに自分も『あの人たち』を恐れてるんじゃないの」いや違うねん、そうじゃないねん「じゃあ何なの」の先が説明できなかったから。
 それがようやく出来そうな気がする。
 第一に「そりゃあ怖いよ。意志疎通できない別集団として『あの人たち』が立ち上がってしまったら、たぶん僕だって反射的に身構えちゃうと思う」「でもそれは理性で克服しなきゃいけない恐怖だよと、ようやく言語化できた。これについては4)で話します。
 そして第二に「でも日本が『日本人と他民族(Us and Them)』に分断されると想定したら、日本人の自分が恐れなきゃいけないのは、むしろ多数派の日本人から仕掛ける犯罪や暴力だろう(何せ歴史的にも実例があるし)」ということだ。
 たとえば(繰り返しだと思うけど)イスラム教が喜捨を信者の義務に定めてることもあって、災害が起きると迅速にかつ粘り強く支援に馳せ参じるエスニック・グループの人たちがいる。また(これも繰り返しだけど)日本人の側にも「外国籍の岐阜県民」として漏れない支援を目指す、みたいな方針を打ち出す自治体もある。何度も何度も何度も何度も、本サイトで書いてるように、他者は他者として、それでも分断を少なくしていく、それは今すぐ出来ることだし、しなければいけないことだと思う。

 4)怖ければ差別していいってもんじゃない
 前に東京の職場で一緒だった人が、まあ「ふつうの日本人」日本の電車は正確でが口癖のひとで(横浜から通勤してた僕は二日か三日に一度は帰りの東海道線が遅延してたけど)他の同僚にヨーロッパ旅行の話をしてたのが
イギリスに比べてフランスは黒人が多くて怖かった(笑)」(完)
何を見たとか何処が良かったとか一切なしで、それしか言うことがない人間が外国旅行なんか行くなよと内心で思ったのだけど。
 改めて思うのは「怖い」「怖い(笑)」が「差別してもいい」エクスキューズになってないかってことだ。トランス差別も、そういう面あるでしょ。更衣室や風呂場に、そういう人たちが入ってきたら「怖い」。だから「差別していい」。あるいは「これは差別じゃない」いや差別ですよ
 これは恥を忍んでする自分の話。もう十年以上前になるのか、あまり娯楽にお金を使えない自分が頑張って2013年の東京国際LGBT映画祭に足を運んだ(15年9月の日記参照)。面白かったなあ。
 上記の日記では、僕が足を運んだ日のメイン長篇『ウィル・ユー・スティル・ラブ・ミー・トゥモロー』について書いたけど、併映の中篇『ママってばアルゼンチン?』(ひどい邦題)も面白かった。年ごろの長女に突然レスビアンなのとカミングアウトされ、ぶっ倒れてしまったアルゼンチンの保守的なお母さんが(駆けつけた次女が「なに話したの姉さん、まさか私のドラッグじゃないわよね」でもうダメだった)それでも娘の味方になろうと猛勉強、ママ友に「それは違うの、つまりフロイトの理論によればね」と付け焼き刃の教養を披露…でも肝心の娘は失恋してしまいというビタースウィートなコメディで…話が逸れた。
 恥ずかしかったのは(もう一本の男性カップルを描いた短篇も好かった)コメディ寄りのラインナップで幸福感に包まれながらスクリーンに見入る一方、時々「今ここでは異性愛者の自分のほうが少数者なんだ」という自覚に冷んやりした感覚を憶えてしまったことだ(※まだ「シスジェンダーの異性愛者」まで解像度が高くなかった。まあそれも含め)。「こんなところに異性愛者がいるぞ!」とタコ殴りにされたり、まして「キャー襲われたらどうしよう」みたいに思ったわけじゃない。それでも自分がその場で少数者だと思っただけで感じる居心地の悪さ的なものはあるのだと知った。性的な、あるいは民族的なマイノリティの人たちは、こんな居心地の悪さ(場合によってはもっと深刻な恐怖や脅威)を感じているのか、も、と想像が及んだ意味では、よい勉強だったのかも知れない。
 あの人たちは騒がしい、あの人たちは不潔だ、何を考えてるか分からない、私たちを嫌って、憎んでいるんじゃないか―そんなふうに少数派の人たちを「怖がって」いる人たちは、向こうも同じように、こちらを恐れているかも知れないとまで想像を巡らせたことがあるだろうか。そして場合によっては、多数派の吾々のほうが、よほど脅威だと
 「だって怖かったんだもの」は差別や、まして虐殺の言い訳にはならない。百年前の日本人はそれで(奴らは井戸に毒を入れている・怖い)で大量虐殺「する側」になった。

 5)次にまた同じことが起きるとは言わない
 でも今度は、百年前とは全く別の、予想もつかない形での暴力の噴出があるかも知れない。その予防になるのは、まずは前提になる差別をやめておくことしかないと思う。8/15前にあの話をしておきたかったように(先々週の日記参照)、9月1日の前に、この話をしておきたかった。

 6)国家と他民族(未解決案件)
 いちおう護憲派なのですがね。よく言われる天皇をどうする(第一章)以外に、最近は日本国憲法の第三章を見て溜め息が出ることが多い。
 第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
 第十三条 すべて国民は、個人として尊重される
(以下略)
 第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて
(以下略)…
(強調は引用者)。つまり世界で最も進歩的だとか言われる憲法もまた、自国内にいる「国民でない者」については吾関せずのブラックホールみたいな部分がある。※ただし第十六条以降では「何人も」と国籍を問わない表現が為されているし
 第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。(以下略)
 第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。のように、わりと評判は良くない「○○は、これを○○」構文で、国籍に関係ない権利が保障されてると見て良いのだろう。
 もちろん、国はその住民の生存をまず優先するってのは分かるんですけど、その「住民」を「国民」ひいては「民族」に限ることの弊害は、とくに日本では顕著だと思う。しょうもないスポーツの国籍がどうちゃら騒ぎから、もっと深刻な差別までソコでしょ。
 上のフーコー要約でも仄めかしたように、人に生きて労働せよと促す(こう書くととても聖書的)国家が、人に死をもたらす差別の蝶番になってる、そのメカニズムを解明・(理論的にだけでも)解体できないかなってのが、自分が社会について知りたいことの「次のステージ」なのかも知れません。そのへんまで射程に入れて…まあ分からない本を胡麻化し胡麻化し読んでます。

 付録)上記図版の出典
・ジラール『身代わりの山羊』(法政大学出版局)p25 (12年2月の日記参照)
・ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー(中)』(河出文庫2010)p34 (15年2月の日記参照)
・フーコー『社会は防衛しなければならない』(筑摩書房2007)p253 (17年8月の日記参照)
・ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(岩波文庫2022)p124 (今年4月の日記参照)
上の三つは過去にも何度か「まとめ」としてセットで紹介してますが、元ネタのページ数まで入れてるのは初めてかも+今回のが(日記の内容も併せ)当面の「決定版」になれば良いなと思ってま。

小池百合子知事はなぜ追悼文送らない? 法大前総長の田中優子さんら批判 関東大震災虐殺を否定なら「根拠を」(東京新聞/24.8.23・外部リンクが開きます)

小ネタ〜花園で提灯チャレンジ(24.08.22)

 あ、はい、日記タイトルで既に何がしたかったのか明かしてはいるけれど「このAI生成画像が再現したかった元の有名な絵画は何でしょう」という…
 A:ノースリーブの白いワンピースを着た小学生くらいの少女ふたりが百合の花束をはさんで向かい合っている。B:少女たちのワンピースが長袖になり花園の中にいるロングショットに変わる。C:膝丈ワンピースの裾から出た少女たちの足が黒タイツになり、花園の花が百合っぽい白一色になる。D:花園の中でランタンが光り、向かい合った少女の片方も手に器型のキャンドル?を掲げ持っている
AやBでピンと来たひとは変人の可能性が高いけど、CやDで案外と分かるかも知れない。だとしたら、人間のパターン認識能力って、やっぱりAIよりスゴイんじゃないかしら。

 Web上でどうこう出来るサービスは逆に何となく忌避感があるので、ローカルで作業できるAI画像作成環境がMacにも対応してると知ってダウンロードしてみました。まあ面白い。けど「ははは、全然じゃんAI」というタイプの面白さ止まりなのは、たぶん自分がまだ使い方を分かってないからでしょう。
 「1 girl, black straight hair, cat ear, glasses, waving at viewr, smile(女子1・ストレートの黒髪・猫耳メガネ・微笑んでこちらに手を振っている)」みたいなプロンプト(命令)を入力すると、それらしい画像を生成してくれる。いや、なかなかしてくれない。
 「花園の中で、ワンピースの少女ふたり」と入力したら上記(作例A)のとおりノースリーブが出てきたので、いやいや元絵(後で明かす)は長袖だったと「long sleeve」を指定・俯瞰のほうがソレっぽいと「from above」を指定(作例E)。元絵の花は「カーネーション、百合、バラ」だったよなと(もう絵のタイトル明かしてるようなものですが)指定したら思ってたのと違う・だけでなく女の子が一人いなくなる(作例F)。花の指定を諦めて、花園全体を「dark flower garden」にすると結構ソレっぽくなる(作例G)。ワンピースを膝丈に・黒のタイツを加えるとだいぶイメージ近くなるけど、また女の子が一人になる(作例H)。
 作例E〜H。説明のとおり。
 どうにか女の子を二人に戻すが(作例I)「dark garden」は色合いだけ暗くしたいのに正面からの画像だと夜空が入ってしまうので、再び俯瞰に戻すと女の子の片方がなぜか黒ワンピースになる(作例J)。あるいは突然親子になる(作例K・L)。黒タイツどこ行った。
 作例I〜L。説明のとおり。
 ちなみに西洋絵画っぽくと指定すれば元絵に近くは出来るはずなので、萌え絵で再現しようとしてるのは単に趣味です。AIに参照させる絵柄のモデルというのがあって(よく「私の絵は学習させないでくださいと銘記して自分の創作を守りましょう」と言ってるのはそういうこと)別のモデルを選ぶと
 作例M〜P。説明は下記のとおり
絵柄からグッと変わるのですが(作例M)、なぜか「お嬢様とメイド(しかも庭仕事用かズボンぽい)」になったり(作例N)、三人に増えたり(作例O)、ただもうイチャつきだしたり(作例P)色々また難しい。

 このへんで正解を発表します。要はこのひと、イギリスの画家サージェント1885年の絵画カーネーション、リリー、リリー、ローズ(Wikipedia/外部リンクが開きます)をAIで再現しようと試行錯誤したらしい。ははは似てない、ぜんぜん似てないよ!
 途中で「そうだ、元絵では女の子たちが日本の提灯(paper lanterns)を持ってるんだった」と思い出したのが運の尽き。「holding paper lanterns in their hands(提灯を手に持っている)」「bring paper lanterns(提灯を運んでいる)」どう説明しようと「提灯ですね、承知しやしたぁ!」と背景に提灯を描くばかりで、女の子の手に提灯を持たせることが出来ない。まあ元絵でも提灯は背景「にも」あるんだけど。そしてよく見ると
 作例Q〜T。説明のとおり。
手に手に「paper lanterns」じゃなくて「paper」だけをholdしてる(作例Q〜T)。自分、ChatGPTもSiriもオッケーGoogleも面倒がって使ったことないのですが、AI,こんなに人の話を聞いてくれないモノ(者?)なんすかね?
 いや、たった今、思いつきでまた別の有名な絵をAIに描いてもらったんだけど(作例1・2・3)
 作例1〜3。ウェーブした黒髪にピンクの服の女性が、草原で目覚め、丘の上の家を見上げている
作例1のポーズが奇蹟的に似はした(3も頑張ってる)ものの、十枚くらい生成してもらって遂に「丘の上の家を見上げる」で元絵みたいな構図を案出することは出来なかった(ちなみに正解はワイエスクリスティーナの世界―外部リンクが開きます)…いや、もちろん元絵を画像として読み込んで○○風(萌え絵ふうとか)に変換することは出来そうだし簡単なんだろうけど、それではつまらないんだよ。元絵が何を描いてるかの説明文をAIに書き起こさせ、それをプロンプトにしてAIに絵を描かせる、それはちょっと面白いかも知れない。

 面白いといえば
 作例Dのアップ。説明のとおり。
 上にあげた作例D、paper lanternだと手に取ってくれないのに業を煮やして、ただのlanternにしたら手にキャンドルを入れる器みたいな灯を初めてholdingしてくれたの、ちょっと面白かった。
 こちらをちらと振り向いたあと、背を向け、手を繋いで画面奥に歩み去っていく女の子ふたりを、四枚の画像で表現。
 サージェントが絵を描いたときも、モデルになった子どもたちがすぐ退屈してしまって大変だったらしい。服の色を変えたり、勝手にいなくなったり、もしかしたら飽きてたかも知れないAIの女の子たちも家に返して、今回のお遊びはここまで。

      *     *     *
 けどまあ正直「あなたの観光地での自撮り写真から目障りな他の観光客を消して、さらに背景の空に花火や虹を加えちゃいます!」なんてAIアプリの広告を見ると「むしろ自分が自宅でポーズ決めた自撮り写真に(ゲッティイメージあたりにあるだろう)観光地の写真を合成して済ませて、観光地の余計な人間をひとり減らしたら」と思ったりする程度には、AIというよかAIをもてはやす人たちに非好意的ではあります。
 【追記】後で気づいたけどコレ、なんか着想もノリもオチのつけかたも「デイリーポータルZ」っぽいですね…不覚(?)
 【追記2】のネタあんまり引っ張らないほうが良いとは思うんだけど、(AIに指示して描いてもらう)クリスティーナの世界、めちゃめちゃ難しい…試せば試すほど遠ざかる…
 (荒涼とした丘のふもとで目覚めた女性が丘の天辺の屋敷を見上げている、という元絵を再現するはずが)作例1:丘は緑が生い茂っちゃってるしクリスチーナ近すぎ。作例2:丘の上の屋敷なぜか和風だしクリスチーナもよく見ると着物。作例3:丘も屋敷もなくなって突然『風と共に去りぬ』のラストシーンみたいな夕焼けの後ろ姿になっている
最初のほうが余程よかった…みんな一体どんなプロンプト書いてんだ…(みんなは「クリスティーナの世界」プロンプトで描くなんてしてないんだよ!)

消える本屋とYさんのこと〜むんこ『らいか・デイズ』(24.08.18)

Did you exchange walk on part in the war for a lead roll in a cage?
一兵卒として前線を歩くかわりに籠の中の王様気取りで、君は満足したのかい?

(「あなたがここにいてほしい」ピンク・フロイド)

      *     *     *
 「21年間ありがとうございました!!むんこ『らいか・デイズ』最終回と表紙に書かれた『まんがホーム9月号』を、昔ながらの小さな本屋の店頭で見かけ「えっ」となった。
 終わるのか『らいか・デイズ』。というか続いてたんか『らいか・デイズ』。
 十年ひと昔、あるいはふた昔くらい前。同人誌即売会で知己になった作家さんがプロとして寄稿されてたのが縁で、自分では進んで読みに行かないタイプのまんが誌を雑誌単位で読む機会があり、おかげで見聞が広まったのですが、その中の四コマまんがというジャンルで『らいか・デイズ』は花形作品のひとつだった。かく言う自分も後追いで(途中まで)単行本を揃えるくらい面白かった。色々あったり無かったりして十年以上ご無沙汰でいたけれど、うわー終わるのか。というか続いてたのか。つまり、僕が読んでた時期も離れた時期もずっと続いてた『らいか・デイズ』が終わるのか。
 (そんなこと言って、またすぐ続篇が始まったりして)などと思わなかったわけでもない。その日はそのままスルーして帰宅し、後になって「やっぱり最終回の掲載誌くらい買っておくべきでは」と気が変わった。
 それで分かったのは、本屋および本(雑誌)という業種の、なんとなく思ってた以上の衰退ぶりだった。

 すでにお気づきとは思いますが今回『らいか・デイズ』自体の話はあまりしません。

 まずもって横浜駅なんていう大ターミナル駅周辺で手に入らない。
 巨大な駅ビルが林立し地下街も広がって迷宮扱いされる横浜駅だけれど、そもそも書店は思いのほか少ないのだ。いや、少なく「なった」。小さな駅前にあるような昔ながらに戸建ての小さな本屋は、たぶん元からない感じ。駅ビルに入ってるような大型チェーンも軒並み消えてしまった。残った大きな書店は丸善も、コミック専門売り場を有する有隣堂も、四コマ誌は盲点のように手薄で、あるのは萌え系の『きらら』くらいだ。
 駅西口と繁華街の少し横に外れた狭間、ちょっと猥雑な一角に、表はまんが雑誌が面陳で並び、中に入ると成年まんがの単行本に特化してる小さな本屋があったっけ、あそこなら…と行ってみたら「センベロ」みたいな今ふうの飲み屋に替わっていた。顧客として利用したことはほぼ無かったけど、あの(若干いかがわしい)本屋、なくなったのか。
 (写真つきで)近ごろ金沢が御無沙汰な書店好きのかた向けに、いちおう報告しておくと、金沢駅を出て市場方面に向かってすぐ・道路の左手にある実はわりかしいかがわしい品揃えの本屋、まあ正月も7月も用はなくて入らなかったけど健在でした(…この情報、本当に必要だったかな)
 横浜駅周辺、今はイオンに建て替わったダイエーに昔は2フロアも書店があったとか、専門店『まんがの森』があった頃まで遡るとキリがないのでやめる。やめるけど、建て替わったイオンにも、駅の反対側に出来た新しいビルにも、今どき大きめの商業施設には面白いくらい書店の姿がない。新しいほうのビルは下2フロアが飲食店で、その上にはクリニックモールが出来てるの、今どきらしくて興味ぶかいし、自分も首尾よく歳を取れればそっちのが切実になるのかもだけど、まあ措く。
 もうひとつ実感したのは、ならばと廻ったコンビニから雑誌が消えたことだ。雑誌コーナー自体なくなった店も見た。無理もあるまい。とくに新型コロナが追い討ちとなって、コンビニは雑誌の立ち読みで長時間滞留する場所ではなくなった。
 娯楽の形式も変わったのだろう。移動中の無聊は、ほとんどスマホで治まる時代だ。もしかしたら四コマ誌だって、とっくに電子化でスマホの画面に収まってるのかも知れない。
 『まちカドまぞく』(きらら系)なんかA5の単行本でもメガネを外さないと細かい台詞が読めない(もしくは両腕を全力で伸ばす)自分は、四コマ誌を電書・ましてスマホでとか、とてもとてもなのですが…※本サイトの特にまんが関連が大きさ的に読みづらいひと、ごめんよ…
 けっきょく最初に見かけた、別の街の小さな本屋で入手。そして台風に直撃される(笑)。

      *     *     *
 途中まで揃えていた『らいか・デイズ』の単行本は、2011年3月の東日本大震災のときに手放した。
 避難所に支援物資としてまんがを送ろうというネットでの呼びかけに応じて、これも途中まで揃えていた『ワンピース』のアラバスタ篇が終わるとこまで(いい切り方でしょ)などと一緒に寄贈したんです。気軽に読めてクスクス笑いが止まらず、スルメのように繰り返し咀嚼できる作品なので、何かを楽しむにも気力が要るような疲弊した時には悪くないはずだと考え、一緒に詰めて箱で送った。
 集まった物資の仕分けは東京で、手伝いにも一度か二度は足を運んだと思う。呼びかけが新聞にも小さな記事で取り上げられ、発起人だった漫画家のYさんが思いつきで「ぬいぐるみも受け付けます」と口走ったために、寄付というと集まってくる使えない古着のように、まんがではなく圧倒的な中古ぬいぐるみの山が出来ていた。
 一事が万事でもないけれど、色々と不用意で困った人だったのかも知れない。僕自身も含め人は大概「困った人」で、その方向性が違うだけな気もするが。いろんなことが長続きせず、人間関係の構築が苦手な僕とは、正反対のタイプだったのだろう。少しお話を伺うだけでも、人脈の広さや、経験から得てきた知見が垣間見えて有意義ではあった。
 その一方で、人脈をつかむ活動力・ネットでも「論客」として一目おかれる発信力は裏を返せば舌禍につながり、何かで炎上して反省しましたネットでの発信はやめますと宣言しては、半年もせぬ内に素知らぬ顔で出戻っていた。そして最初の単行本が高く評価されて以降は新しい代表作となるような作品が続かず、生計のための仕事に追われながら漫画家に戻りたい、まずは新しい短篇を描きたいと繰り返すうち、数年前に急逝してしまった。

 作家であることは、人生のすべてではない。
 久しぶりに引用するけど「どんな風に喧嘩するかとか、寿司屋に行って何を食べるかとか(中略)ひととおりそういうことをやってみて、「なんだ、これならべつに文章なんてわざわざ書く必要もないや」と思えばそれは最高にハッピーだし」(村上春樹『村上朝日堂』)というのは本当なのだと思う。別のひとの言葉を引くなら、作家が書けなくなるのは同じことしか書けなくなるためではなくて、いくら書いても現実に勝てない・現実と同じでしかないと、物語が現実とは別の乾坤を打ち立てられると信じられなくなった時だという(ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)。
 物語の力を信じることが(まだ)出来ても、それが読み手に受容・需要されるだろうという希望が損なわれることもある。自分はもう若くない・いま人気の「絵師」たちは自分の子どもくらい若いのだと気づいてしまったら尚更だ。そうした場合でも(僕みたいに)個人の楽しみで描きつづけることは出来るけれど、商業的にも栄光を取り戻さなければとハードルが上がれば話は別だ。
 いずれにしても書けない(描けない)のに「作家であること」に執着しつづけるのは苦しいことだろう。
 Yさんが作家でいたい、作家として復帰したいと言っていた(言いながら人脈の中でのおしゃべりを続けた)実情は分からない。どれくらい本気で描きたがっていたのか、苦しんでいたのか、あるいは苦悩も自己アピールだったのかも。本当に描くことに戻りたいなら、ネットでの発信を止めればいいのにとは思う(思った)けれど。
 SNSに限らない。作家として、タレントとして、アスリートや何なら議員や知事として世に出て、言うなれば出場券(出場権)を確保して、残りの半生はコメンテーターとして(収入なり認知なり)存在の糧を得る人たちがメディアには溢れている。わりと本気で疑問なんですけどね、なんで専門家でもない有名なだけの素人に社会問題をジャッジさせるの?
 これは今の日本に限った話ではなくて、半世紀以上前からフランスのギー・ドゥボールが「メディア的身分を得れば誰もが自分が最初有名になった専門分野とはまったく異なる活動で輝かしい存在になれる」と風刺しています。(『スペクタクルの社会についての注解』現代思潮新社)。くわえタバコで眉をひそめる中年ドゥボールの似顔絵つきで
 …今ここで書いてることは全部、僕じしんにも跳ね返ってくるのかも知れない。「お前だって社会や政治について専門家でもないのにピーチクパーチクと」「未完になってる作品や滞ってる原稿はどうなってるんだよ」
 なので(なので?)創作とは別に時間を取られることが出来てしまうこと、わざわざ別乾坤を打ち立てて何か言う迂遠なことをせず、直に何か言ったりデモや何かに出向くこと自体、否定はできない。逆にこれだけ切迫した時代に創作コミュニティの中で萌えだけ追求してられるのも問題ではあるだろう。この一、二年であの作家・この漫画家がいわゆる「暇アノン」(ミソジニーのデマゴーグにあっさり帰依してしまう残念なひと)だった・失望したという話が仄聞されるけど、失望も何も今までだってその作家たちは安保法制や最低賃金・外国人差別などに声をあげては来なかったのと違うか

 …話が逸れた。いや当初から『らいか・デイズ』からは逸れっぱなしだけど。
 Yさんは自ら左派を名乗り、社会に物言うタイプの作家だった。もしかしたらネットの論客でありつづける後半生で本人も満足だったのかも知れない。けれどもしポーズでなく、作家である幸福が忘れらないまま不本意に召されたのだとしたら、
 その不本意な生の途絶を悼む。作家であることは人生のすべてではないけれど、人生の一番大事な部分と呼べる程度には(当人にとって)価値のあることだから。
 ようやく言語化できた。とりあえず僕が生きてる間は、僕がYさんを記憶に留めておこう。他の多くの、気が済んで・または不本意にも・あるいは両方半々で、描くことを止めた作家さんたちのことも。
 今週のまとめ:人が作家でいられる時間は無限ではないので、描けるうちに描きたいことを描いたほうがいいですよ。言うたら僕などは、あなたたちが描く時間を少しでも伸ばすためにプラカを掲げて国会前に立ち続けたのだから。(「描いて」と大書されたプラカを両手で頭上に差し上げた舞村さん(仮名)の絵を添えて)
 一方で、作家であることを全うした『らいか・デイズ』の完結を寿ぐ。20年かけた作品を完走させるって、すごいことですよ。
 まんがタイム9月号、『らいか・デイズ』最終話自体は8ページと
比較的あっさりめだけど、植田まさし(ええええっ)ひらのあゆ・クール教信者さんなどなどが寄せた来華ちゃんトリビュートイラストはある意味で貴重かも…(書影画像を添えて)
ちなみに植田まさし画の来華ちゃんだけど、髪に$みたいな謎の飾りはついてない。そりゃそうか。

      *     *     *
追記:「スペクタクルは(中略)危険が取り巻いていることを隠さない。海洋汚染と熱帯雨林破壊(略)放射能(略)スペクタクルは単に、それらは重要ではないと結論付けるだけである」というわけでギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』は資本主義の現代社会が本質的に隠蔽と切り離せないことの暴露として読みごたえあり。同内容の前著『スペクタクルの社会』とは別の本(より深まっている)なので注意。

ボタンのかけ違え史観(24.08.11)

 日本じゅう望みをあからさまにして日本じゅう傷つき挫けた日があると中島みゆき氏が歌ったのは1985年(「ショウ・タイム」)だったので、その「日」とは40年前の8月15日のことだったのだろう。けれど10年後に聴き直した時には敗戦とバブル崩壊どちらを歌ってるか分からなくなり、40年後の今となっては「日本を取り戻す」と言って10年このかた挫けることを知らず同じ夢を見ようとしつづけているように思えてしまう。
 今週のまとめゼロ:日本が輝くのは一向に構わないのだが「世界の中心で」などと夢みるのを止めて、最近のアニソンが言うように「月並みに輝け」というわけにはいかんのだろうか…と困り眉の舞村さん(仮名)。アニメ『ぼっち・ざ・ロック』のぼっちちゃんを真似てピンクのジャージにエレキを抱えているが、Fで挫折したタイプ。
 などとアニソン・アニメを持ち上げるのはココまで。今週の舞村さん(仮名)はオタクに優しくないギャルなので注意(半分ウソ。ギャルではない)。
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 第二次世界大戦を美少女化した萌えコンテンツがどれくらいあるか、正直よく分からない。いやそもそも戦争の美少女化って何だ、と問いたい向きもあるだろう。たとえば先の戦争で使用された(多くは破壊され沈んだ)軍艦ひとつひとつを擬人化・キャラクター化・美少女化したゲームやアニメが複数ある(ようだ)という話です。連合国と枢軸国に分かれて争った各国を代表させる形で少女たちを集め、別の世界線で活躍させる群像劇もまた、複数ある(らしい)。
 『ストライク・ウィッチーズ』は後者にあたる。パンツじゃないから恥ずかしくないもんというキャッチフレーズで一世を風靡した(?)アニメーションだ。パンツじゃないから恥ずかしくないもんとは何だ、と問いたい向きもあるだろう。すでに読むのを止めたくなってる人もいると思いたいが、順を追って説明する。
 同作の舞台は第二次世界大戦が起きなかった、もうひとつの世界(世界線)。ネウロイと呼ばれる異世界からの敵による攻撃で人類はお互いの戦争どころではなくなり、一丸となって立ち向かっているという設定だ。
 このネウロイに戦力として対抗できるのは魔力で空を飛べる少女たち(ウィッチーズ)のみで、細かい設定は省略するが(成人すると魔力は失なわれるので登場人物が十代の少女たちに限定されることが正当化される)この少女たちが上は各国の軍服として、下半身はズボンもスカートも着用しない下着まる出しの姿で登場する。魔力で飛行モードになると膝から下にジェットエンジンのようなものが装備されるのでズボン類は邪魔になるとか、何かしらのエクスキューズはあったと思うが、だったら短パンなりブルマなり穿けばいいじゃないかと僕も思うが下着まる出しである。で、この下着を作中ではかたくなに「ズボン」と呼ぶ。これはズボンであってパンツではない。パンツじゃないから恥ずかしくない…というのが公式の物語であったように記憶する。
 なんだか同時期の日本政府の「指摘にはあたらない」を連発する答弁のようだが、そちらの問題は(深刻だけど)措く。気にかかったのは別のことだ。
 上記のとおり『ストライク・ウィッチーズ』では各国の少女たちがパンツまる出しで(いや、パンツではなく「ズボン」か)航空隊を編成し、協力しあって戦う。イギリスはブリタニア、フランスはガリア、ドイツはカールスラント…と各国の名前は吾々の世界線のそれとは微妙に異なる。日本(大日本帝国)にあたるのは扶桑皇国だ。よくよく見ると、この主人公のロールを担う日本、もとい扶桑皇国の少女たちだけ「パンモロ」ではないことに気づく。西欧列強の少女たちが色とりどりのパンツ(いや「ズボン」)まる出しなのに対し、日本、もとい扶桑皇国のウィッチーズだけはスクール水着の上に白いセーラー服を着た格好。つまり「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」は日本、もとい扶桑皇国にだけ文字どおりの意味で当てはまるのだ。
 清純であるべき大和撫子をパンツ常時まる出しで描写するとは何ごとかと憤る愛国者・保守層を想定したら言い訳が「これはパンツではなくズボン」「日本ではなく扶桑皇国」では心もとないと考えれば、まあ賢明な(姑息とも言える)措置だったのかも知れない。けれどこのことは同時に「スクール水着で貞淑さを最低限キープしている日本(もとい扶桑皇国)に対し、ふしだらな西欧はパンツまる出し」という屈折した復讐心(コンプレックス)を満足させるものではなかったか。

 ちなみに制作からファンまで含めた広い意味で「公には」日本、もとい扶桑皇国はスクール水着だからパンツじゃありませんという認識がなされたことはない(と思う)。同作のキャラが自衛隊の隊員募集ポスターに使われ(さすがに皆様そろそろ読んでて辛くなってきたとは思いますが話を続けます)「これは下着ではないか」と炎上したさいも、炎上してなお「よく見てください、これはスクール水着です」と弁明されることはなく(まあ言えませんよね「パンツなのは西洋人だけです」とは)「公式設定ではズボンなんです」という釈明に終始したようだ。
自衛官募集ポスターに「セクハラ」批判 コラボ元アニメの「お約束」踏襲したが...(J-CASTニュース/19.3.1/外部リンクが開きます)
 ことは下着に留まらない。
 スポーツものなら「努力は報われる」恋愛ものなら「想いは通じる(あるいは通じない)」そしてヒーローものなら「正義は勝つ」…おおよそ物語には、描きたい夢・はしなくも描き出されてしまう願望がある。
 『ストライク・ウィッチーズ』が描きたかった夢は「この前の戦争は言うなれば不幸なボタンのかけ違えで、不幸な行き違えさえなければ日本(いや扶桑皇国だけど)は西欧列強の一員として正しく位置づけられるだけでなく、その精神的な優位によって一目おかれたはずだ」と要約できる。そしてこの夢は、同作にかぎらず、この国で制作された多くの「別世界線」物語に共通しているように思われる。
 同時期に制作された、死者が出ないスポーツ戦車戦という設定で各国の女子高生が競い合うアニメについては不勉強につき省略する。
 遠く昭和に遡っても、異星の敵の放射性爆撃で瀕死となった地球人類の代表として日本人が戦艦大和で宇宙に飛び立つアニメ、あれも敵と設定されたガミラス帝国は総統デスラー(ヒトラー)を筆頭にナチス・ドイツっぽい人名が並んでいた。特撮ヒーローでも悪の首魁がヒトラー風の軍服にチョビ髭だったり、どうにもドイツを連想させる名前の「鉄十字団」だったりと、ドイツによく似た世界の敵を倒す日本という、言うたら虫のいい設定は珍しくない。ちなみにそれらの戦隊ものや宇宙戦艦が人気を博していた昭和後期は、西部戦線でアメリカ軍がナチスをやっつけるドラマ『コンバット』が毎日夕方に再放送されていた時代でもある。高度成長を果たしアメリカさえ脅かす経済大国に成りおおせた日本は、まるで元から連合国の一員であるかのように(フィクションの中で)世界の平和を武力で守っていた。
 今週のまとめ:「この前の戦争は言うなれば不幸なボタンのかけ違えで、 本来なら日本は先進国の一翼として正しく位置づけられる だけでなく、その精神的な優位によって一目おかれたはずだ」これを「ボタンのかけ違え史観」と仮称・提唱する次第です。(むーとなっている「ひつじちゃん」羊帽の女の子の横顔カットを添えて。)

 この「ボタンのかけ違え史観」または「もう一度チャンスがあれば日本は世界の中で正しい側に、しかも精神的に優れた者として他国を導く側に立てる」という夢は、残酷なことを言えば「世界一先進的な平和憲法で世界を理念的にリードする日本」という自画像にも通底する願望かも知れない。
 けれど逆に、そんな平和憲法の理念もかなぐり捨てた(現在の)圧倒的な対米追従を説明するものでもある。と思う。
 今となっては多大な想像力を必要とするけれど、戦後の一時期は、ソ連や中国が資本主義の次に来る最も進歩した社会として知識層に持ち上げられることもあった。ファッションデザイナーもあった高橋幸宏氏によるYMOの衣裳=赤い人民服がハイセンスと絶賛された時代もあったのだ。戦後はすぐ東西冷戦で日本はアメリカ側だからアメリカが絶対という観念が一貫して続いていたわけではないことは、現代史を考える上で留意しておいて良いと思う。
 分水嶺はベルリンの壁崩壊→ソ連崩壊による東西冷戦の終結だったのかも知れない。東と西が敵対しあっていた時期よりも、後者の勝利が確定した時期のほうが、尚更そちら=アメリカ至上主義に追随しなければという切迫感が強まったのは納得できる。すでに毛沢東主義の失敗・四人組の失脚などで失墜していた中国の道義的地位が、1989年の天安門事件で決定的に損なわれたことも特筆すべきかも知れない。何より日本自体もバブルの崩壊で、今度は経済戦争でもアメリカ(西欧)に再び「負けた」。負けてますます視野狭窄に陥るのはバクチの負けパターンなのだけれど―
 何より弊害なのは、差別の横行だろう。
 日本人は優秀なので西欧の一員として遇され尊敬すら勝ち得ることができる(はずだ)という史観は、残念ながら日本人「だけが」アジアの中で優れているという形で対外強硬・移民排斥・民族差別を強化する。源氏物語や茶の湯からクロサワの映画・トヨタやソニー・ガンダムやYOASOBIに至るまで、すぐれた日本文化を誇ることが日本「だけが」(優れている)に転じた結果ガラパゴス化でクールジャパンはタコ壺から出られなくなった。そして「日本人は勤勉な努力家だ」「日本人は手先が器用で頭がいい」といった自信が経済的な敗北で損なわれると「日本人は日本人だから素晴らしい」という血統主義が力を増す。世界で唯一無二・数千年の途切れない歴史を有する(ことになっている)天皇制もまた「日本は特別」「日本人は特別だ」という夢を見せつづけ、アイヌや琉球人・国内に在住する多くの外国出身住民との間に壁を作りつづける「根拠」として弊害が大きい。
 なので社会・経済的にも文化的にも(世界の中での)存在感が戦後最安値を更新している今「アメリカ文化の核心たるメジャーリーグ野球でホームランを量産し一目おかれるどころではない大谷翔平選手の大活躍」という物語が日本じゅう(特に広告業界)に甘い夢を見せてしまっているタイミングの悪さにも頭を抱えたくなる気持ちはある。それはもう、天皇制よりもこちらを話のオチとして持ってきたくなるほどに。

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 アニメ『ストライク・ウィッチーズ』第一期では物語の終盤、頭が硬く私欲まみれた上層部を批判する現場という文脈で、使役される少女たちの中でも先輩格にあたる隊長と副官が「もしネウロイの侵略がなかったら今ごろ人類は互いに争っていただろう」と皮肉る場面がある。たぶんそれを聞いて、どうにか途中まで続けていた視聴を止めたのだけど、それを鼻持ちならない欺瞞と考えず「正論」と評価するファンも多かったのだろう。
 各国出身の少女たちからなる航空戦隊の中では、まあ当然のように百合的なカップリング・とは行かないまでも仲のいいコンビが多数生まれる。その組み合わせに日本(扶桑…面倒なので省略)とイギリス、アメリカとイタリア…のように実際の世界線では敵国だった同士が少なくないように見受けられたのは、互いに殺し合った悲しい歴史を改める高邁な理想だと肯定的に捉えたくなる人も居たのではないか…
 けれどその評価は、結集した各国が近代において一方的に世界を「植民する」側だった事実を書き落としている。
 「ボタンのかけ違え史観」が基本的に不適切なのは、あれは何というか不幸な行き違いでした・本来なら吾々は西欧の一員でしたよねと日本の立場で帰属を願う「西欧」自体が、根本的に正義でも何でもない非道な侵略者だったからだ。第二次世界大戦という局所的な「行き違い」でなく、近代とくに19世紀末〜20世紀中葉の歴史ぜんたいの話だ。
 世界「各国」の少女たちが第二次世界大戦当時のクラシックな戦車で平和的な「試合」を行なう別作品のほうが分かりやすいかも知れない―20世紀中葉に自前の戦車を持ちえた「各国は必然的に他国を侵略・植民地化する列強ばかりで、植民された国々が入る余地はない。あの戦争を(ボタンのかけ違えを改め)もう一度やり直したいと願うことは、その前提にある西欧列強のありかたから問わない限り、本当の平和主義にはならない。
 『ストライク・ウィッチーズ』の世界線では、朝鮮半島・中国本土(それに中東など)はネウロイの攻撃によって「消滅した(あるいは砂漠化した)」ことになっているという。かわりに南太平洋にはムー大陸があって、扶桑皇国は資源に困らないという設定を読んで(なぜ扶桑皇国はその領有権を主張できるのだろう?)その虫のよさに、呆れ返らずにいるのは無理だった。
 今週のまとめ2:「ボタンのかけ違え史観」が根本的に間違っているのはボタンのかけ違え以前に列強(加担した日本も含む)の植民地主義を無かったことにしてるためで(もありま)す。というキャプションに「というわけでハイ絵の中だけでも」とパレスチナの旗を手にした自画像。
同作がどれだけ(少女たちの友情という形で)人類の結束や勇気を讚えようと、現実の中東や朝鮮半島・中国本土を武力制圧し搾り取ってきた「先進国」の欺瞞でしかないのは、悲しいけれど明らかだ。

 皮肉なことに20世紀前半の世界では(扶桑皇国ならぬ)現実の日本は、実際に「西欧列強の一員として遇され一目おかれる」存在に成りかけていた。青島で、重慶で、日本が非武装の市民を選択的に攻撃する戦略爆撃の先鞭をつける極東の「優等生(Apt Pupil)」だった経緯は(先日の小ネタでも書いたけど←月末に拾います)12年3月の日記に詳しい。敗戦で(建前上)日本が植民地戦争から「降りる」ことが出来たのは僥倖だったし、今後ますます全力で「降りる」以外に活路はないと考える次第です。

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 逆に言えば日本「だけ」救われっこ「ない」特権的な地位にあるわけでもなく、多くの国が「それぞれに不幸(トルストイ)」な中で苦闘してて、そこから学べることも連帯できることもあるのではと考えはじめています。夏バテしながら岩波新書でミャンマー現代史の勉強中。

ごじょー君は綺麗を知らない〜福田晋一『その着せ替え人形は恋をする』(24.08.04)

 改めて言うのも何だけど、日本語って無駄に難しくありません?
 非論理的な慣例の積み重ねで難しくなっちゃった運用が少なくないと言うかさ。いや正直その無駄な難しさを(こそ)こよなく愛してるお前が言うなよって感じではあるのですが。
 まんがの原稿を描く時のBGMに若い人がやってるトーク番組など聴く機会が増えて、リスナーからのメールを読むなどの場面で「え、それ、そう読んじゃうんだ」と思うことが多々あった。たとえば
「因縁(いんえん)の対決」:これはIn-Enの前のnが後のeにかかって「いん-ねん」となるのが正しくて(Saint-Exuperyがサン・テグジュペリ、云々がUn-Un→「うん-ぬん」になるのと同様。しつこく蒸し返すけど「でんでん」は論外)まあ一応スジが通ってはいるけど
「幕間(まくま)」は「まくあい」と読むのが本来なのが、舞台関係者の間でも「まくま」と呼ぶ人が増え、今や使用の割合は半々らしい。そして確かに、これを「まくあい」と読めというのは「そういう決まりだから」以外の説明が難しい。逆に
「見惚れる(みほれる)」は、僕などは「見惚れる(みとれる)」じゃないの?と思っていたけど、調べてみると「見惚れる(みほれる)」のほうが古くからある言い方で、ただ口語=発音として「みとれる」のほうが普及したため古くさくなった「みほれる」を駆逐して「見惚れる=みとれる」の読みが定着したらしい。なるほど「見とれる」には「見蕩れる」という本来の書き方もあった。今後は再び「みほれる」が巻き返すのかも。ややこしい。
 「自惚れる(うぬぼれる)」の「自(うぬ)」なんて他で使わない読み方だよね→関西圏の二人称で「ジブン何言うとんねん(あなたは何を仰有っているのでしょうか)」と言うのと同様、世紀末覇王が二人称で「うぬ」と言う、アレってもしかして「自(うぬ)」だったのかと気づいたり。やっぱりこの難しさがパズルを解くようで愛おしい…というキャプションに世紀末覇王(ラオウ@北斗の拳…ダメだ自分に描けるキャラじゃない)のイラストを添えて
 (そして見「ほ」れる・自「ぼ」れるの違いとか、あるんだろうけど本当に分からん)
 ここ数十年コンピュータにアシストさせた日本語変換が当たり前になったことも、読む側がパッと「音読」できない言葉も、入力する側が容易く(←たとえばコレ。「たやすく」)漢字にできてしまう→ギャップが誤読を生む一因なのではないか。また英語などと違い日本語には単語間のスペースがないことから「あなたはたやすく思うかも知れないが」みたいな文章を視認しやすくするため「あなたは容易く」みたいに漢字にしがちで→音読のさい「あなたは…よういく?あ『たやすく』か」と脳内でモタつくことが考えられる。
 このあたり、冒頭に書いたとおり、日本語って存外むづかしいよなと改めて思ったりしている。その面倒くささにも関わらず日本語を習得してくれる日本語ネイティブでない人たちには、ねぎらいの思いしかない。
 英語も同様に理不尽な難しさがあって(なんでWednesdayがウエンズデイやねんとか)それが世界に植民した時、その難しさを使いこなせる支配者層と、使いこなせない・ただ従わされる被支配者層に人々を分断するのに役立ったという説もあった気がするけどここでは深く追究いたしません…うろ覚えだし、日本の支配者層、日本語の難しさ使いこなせてないもんな!(なのに神国日本とか言いたがる!)(と憎まれ口を叩いてる顔の羊帽の女の子「ひつじちゃん」のカットを添えて。)
 今どきの若いひと(?)のトークで面白かったのは文章で「(笑)」とか「www」と表記されるものを本当に「○○なんだってさ、わら」と「音読」してることだったのだけど、さらに最近は「!(エクスクラメーション・マーク)」や「?(クエスチョン・マーク)」も
「○○なんだって―びっくりびっくりびっくり(!!!)」
「○○なんですか―びっくりハテナびっくりハテナびっくりハテナ(!?!?!?)」
と音読してるのも発見だった。半ばギャグなのかも知れないけど、かわいいな君たち
 かわいいと言えば「ツボにはまる(ツボに入る。好みにドンピシャ来た)」の、さらに度合いが高いことを言いたかったのだろう、
「わたし、○○がドツボにはまっちゃって!!!」
違うぞー、似てるけどソレは違うぞーと思ったけれど「新しい」が「あらたしい」から「あたらしい」に変わったように、「まくま」が「まくあい」に取って代わろうとしているように、「ドツボにはまる」の意味も変わるのかも知れない。もしかしたら、好きすぎて苦しい・助けてみたいな「ドツボにはまる」本来のニュアンスも含めた最上級表現として定着していくのかも。
 マレーシアで見かけた看板の数々とキャプション:追究しないと書いたけどマレーシアで目にしたMUZIUM・RESTORAN・TIKET・BAS・EKSPRES・SENTRALといった表記は英語を「押しつけられた」側の「押しつけられたままでいると思うなよ」という表現だったのかも。違うかも。

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 福田晋一『その着せ替え人形は恋をする』は「着せ替え人形」と書いて「ビスクドール」と読むらしい。ふつうに脳内では「きせかえにんぎょう」と読んでしまう。人気の漫画を周回遅れで少しずつ読んでます。
 人気が出るのも分かる気がする。オタクの欲は果てしなくて「眼鏡っ子」「男の娘」「メイドさん」「幼なじみ」「ツンデレ」「クーデレ」「ヤンデレ」「ケモ耳」「褐色肌」など様々な属性が「しかし主人公(専ら男性)を熱烈に好いてくれる」という一点で開拓(乱獲?)された中、オタクが天敵のように敵視・揶揄してきたリア充=「ギャル」も「優しいギャル」「オタクに優しいギャル」として萌えや欲の対象になった。本作のヒロイン・海夢(まりん)は派手な外見でありながら性格のいい「優しいギャル」「実は本人が熱烈オタクなギャル」で、好きなキャラクターのコスプレをしたい彼女が、クラスに馴染めず埋没していたが(雛人形などを作る)人形師の孫で鋭意修業中=裁縫が得意な「ごじょー君」こと五条新菜(わかな)にベタ惚れしてしまうラブコメディだ。
 スポーツ漫画を読めばそのスポーツが、料理やキャンプなどを題材にした作品を読めばそのジャンルが分かってくるように、本作はコスプレ・コスプレイヤーの世界への入門としても面白い。青年誌の連載らしく、うぶな「ごじょー君」を大いに惑わせる海夢ほか美少女たちの強調されたセクシーさも、まあそういうのが好きな層にアピールしているのだろう。
 けれど本作の読みやすさは「優しいギャル」こと海夢だけでなく登場するキャラにイヤな奴が一人もいない「優しい世界」(←これも流行りのフレーズだけど)なのも主要な要因だろう。みんな違って皆(性格が)いい。いわゆるハーレムものと呼ばれるジャンルだったら、海夢と「ごじょー君」の間に割りこんで来そうな先輩格のコスプレイヤーも「二人を邪魔する気はない」と勝手に気を回してくれるし、師匠である「ごじょー君」の祖父も、海夢のコスプレを手伝うようになって世界の幅が拡がり、人形づくりも上達したと応援してくれる。
 何より「ごじょー君」本人の人柄がいい。海夢が次々に繰り出すコスプレ対象のキャラを理解するため原作(まんが・数十話のアニメ全話・18禁ゲームまで)すべて当然のように全篇つきあう(そして小学生向け魔法少女アニメに「がんばれ…がんばれ…」と号泣する)生真面目さは勿論のこと。好きピ(意中の男子)に手料理を食べさせようと張りきった海夢がオムライスの仕上げに大失敗し、ケチャップでハートの代わりにごめんと書くくだりはネット広告でも抜粋された笑いどころなのだけれど
 「うちは和食ばっかりだから塩こしょうだけじゃなくてコンソメとか使った味つけ、勉強になります!」と海夢ちゃんが大失敗したオムライスの良いとこしか見ない「ごじょー君」そりゃあ好かれるだろう…(ラ●ウよりはるかに描きやすいし)という図解。」
見た目は気にせず「味つけが美味しい、勉強になる」と素で褒める性格の良さよ…

 そんな『着せ替え人形』にも気になる、ものすごく気になる言葉づかいがある。まあスルーして楽しもうよとも思うのだけど(えー)それでは日記にならないので気になるものとして話を進めよう。「ごじょー君」がこだわる奇麗という言葉だ。
 いつか祖父のように人を感動させる人形師になりたいと願う「ごじょー君」にとって奇麗という言葉は心から美しいと思えた物にしか言えないもので、そう海夢に明かされた時点で、それは彼の理想である雛人形にしか使われたことがない。それが海夢のコスプレ初挑戦となるゴスロリ少女の衣裳を徹夜で作り上げ、イベントデビューを成功させた後の帰りの電車で朦朧となりながら(コスプレした海夢が)とても奇麗でした…と呟きながら寝落ちてしまう。無防備な状態でこぼれた心からの賛美に舞い上がった海夢ちゃんは、コスプレの夢を叶えるため猛烈に頑張ってくれた「ごじょー君」にガチ恋してしまうのだが
 具体的には「はっ!?え!?うそうそ え?好き?てかかなり好き!?しゅき?笑 待って待ってまってめっちゃカワイイじゃん何〜!?ごじょー君しゅき〜〜(はーとはーとはーと)しゅきしゅきしゅきしゅき(はーとはーとはーとはーと)しんど〜〜てかどーしよ どーしていいか分かんないんだけど〜〜〜」マ!?(マジ?)となっている海夢ちゃんの模写を添えて。
面白いのは好きすぎて「しんど〜(しんどい)」と吐露してる処で、やっぱり「ドツボにはまる」は正しいのかも、という冗談はさておき。
 かようにストーリーの根幹に関わる大事な言葉が奇麗でいいのか。
 えーつまりだ、糸へんがつく「綺麗」じゃなくていいのか。
 編集部の方針なのかも知れない。ずっと昔の話(昭和?)だけれど某少年誌に掲載される漫画は漢字に総ルビだったけれど「私」という漢字は一律に「わたくし」と読み仮名を振る方針だったらしく、かなり肝心な場面で「わたくし」とはならんだろうキャラが「私(わたくし)は…!」と言ってるのを読んで大いに心を削がれた記憶がある。
 あるいは作者にとって奇麗が納得のいく表記なのか。しかし個人的に糸へんなしの奇麗は奇の字が別のニュアンスを強めてしまって、どうにも「綺麗」とは思えない表現なんだよなあ…
 けれど悩ましいのは、だったら「綺麗」ならいいのか、ということだ。
 つまり奇麗じゃなく「綺麗」なんて小洒落た言葉を知っていれば、その世界で「綺麗」だと思うものが和人形だけなんて狭いことは、ないのではないか。木の葉の葉脈・すっと伸びた犬の鼻・雨にけぶる公園・白いマグカップの縁が反射する柔らかい光…そうと思えば、世界は水の一滴・自分の手指の爪の一枚まで美しさに満ちている。
 「きれい」あるいは「キレイ」と仮名に開いてしまうと、今度は「クリーン」とか「整った」という意味に侵食されてしまう。奇麗とは、閉じた世界で和人形以外の美しさを知らない「ごじょー君」に相応しい表現なのかも知れなかった。何しろ物語が始まったときの彼は、海を見たことすらないのだ。

 将来いい人形作りたいんなら人形だけ見てちゃ駄目だぞ
 色んな事やって色んなもん見とけよ いつか必ず身になるからな

 海夢と出会って、和人形以外の奇麗を初めて知った「ごじょー君」は、彼女に連れ出され、初めて海を見る。いびつなオムライスの、塩こしょうだけでない美味しさに驚ける彼だ。その世界は少しずつ広がりはじめ(孤独な彼を案じていた祖父の願いどおり)やがて彼は身の回りの多くの事物に「綺麗」を見出すようになるだろう。というか理想的には、世界のすべてが美しいということを。
 その時、初めて見た海が、自分の目の前で笑っていた少女が、自分が思っていた以上に「綺麗」だったことを彼は知るのだろうか…ヤバいヤバい(作品自体はハッピーなのに)急にせつなくなってきたぞ!?

 【今週のまとめ
・言語の運用は難しい。
・しかし、世界の美しさを名指すためにも言葉は選ばれなければならない。
・そして物語から紡ぎ出される感想=また別の物語は「美しい誤読」でも構わない。
 『着せ替え人形』の奇麗に(ごじょー君の現時点での限界とか)そこまで深い意味があるのかと言えば、正直ないとは思うんですけどね。
 「奇麗。」とのたまうジュジュ様。童顔だけど先輩。
 なんとなればコスプレイヤーの先輩で、新参の二人よりはもう少し色々と物事を知ってそうなジュジュ様も、ふつうに奇麗と言っているのだ…やっぱ、編集部の方針なのかなあ。
 とりあえず舞村さん(仮名)は、ラオウをちゃんと描けるようになりたい。や、ならなくてもいいか。

小ネタ拾遺・24年7月(24.07.31)

(24.07.15/海外ロケ)『孤独のグルメ劇場版』はいつもの調子でポン、ポン、ポンとカメラが引くと「腹が…減った」とボヤく井之頭五郎がタクラマカン砂漠に立ち尽くしていてほしい。
 「腹が…減った」とタクラマカン砂漠に立ち尽くすゴローさん(写真トレス)に「何か食わせてやれ」と台詞が重なる。「あいつはカーリマンだ」

(24.07.02)いつも訃報が来て初めて「このひと好きだった(泣)」となるので、たまには生きてる人を言祝ぎたい。7/2はロイ・ビタンの誕生日(1949〜)。そう多く知ってるわけではないけれど、この人のピアノ好きなのよ。まずは映画『ストリート・オブ・ファイヤー』より
Fire Inc - Nowhere Fast(YouTube/外部リンクが開きます)
 本来はブルース・スプリングスティーンの左腕的存在で(右腕は故クラレンス・クレモンズ(〜2011))本人ぜんぜん映っておりませんが、佐野元春「シュガータイム」の元ネタ=「Badlands」を。歌詞がすごく好い。
Bruce Springsteen - Badlands(Phoenix, 78)(同上)
 そして、いかにも王道ロッケンロールな上2曲に対して、蠱惑的な異彩を放ちまくりなデヴィッド・ボウイ「TVC15」。今日はこの三曲(のピアノ)を憶えてってください。Long Live, Professer!
David Bowie - TVC15(外部リンクが開きます)
※Badlandsがシュガータイムの元ネタなだけでなく、サムデイの元ネタはHungry Heart、そしてアンジェリーナの元ネタがBorn to Runだと気づいて、それを受け容れることで大人になった世代ですよ…(しかしポール・ウェラーのド直球プロテスト・ソングInternationalistsまで「個人の気の持ちよう」な「Individualist」に脱色しやがったのは「そういうとこだぞJ-Pop」すぎた…)
(同日追記)Internationalistsと言えば、辺野古基地反対の署名にクイーンのブライアン・メイが賛同して(ややこしいけど「反対に賛成」)話題になったとき、日本語に訳されたインタビューで「僕は国際主義者だからね」とコメントしていて、英語の原文で何と言ったかは分からないけど「国際主義だって!ブライアン・メイは左翼!サヨク!」と鬼の首を取ったような声が巻き起こらなかったの、サヨクはサヨクはと言う割にアンチ左翼のひとは左翼のこと知らないんだなと思ったりはしましたよ。まあブライアン・メイは環境保護とか「地球はひとつなんだからさ」くらいの意味で言った可能性は高いし(ポール・ウェラーはガチに「万国の労働者」的な意味で使ってる)どのみち当時「辺野古基地に反対するブライアン・メイは左翼!サヨク!」みたく言われてたかも知れないけど。
・参考:国際主義(Wikipedia/外部リンクが開きます)

(24.07.03)はい、今年の半夏生は7/1だったので焼きましたわよタコを。コンロの火にかけて使うタコ焼きプレート、買っても使わなかったら勿体ないなーと保険で一番小さなのを選んだため一度に9個しか焼けないうえ当人の要領が悪いのもあって、43個のタコ焼きを2時間かけて調理&消化。とんだスローフードでした。
 左:黒い鋳物のタコ焼き器の上で穴の上まで拡がったタコ焼き原液。上ふたつは外がコンガリ焼けた完成形で穴に収まっている。右:器に並べた完成品のタコ焼き。かつお粉・あおさ・ソースがかかっている。
さすがに一年分のタコを焼いて食べた気分、というか自分で作るタコ焼き、感動的なまでにお安いわけでもないので(自分の金銭感覚だとタコ自体お安くない)来年の半夏生までは慎ましくホットケーキミックスを焼いて過ごします←こっちではけっこう使ってる

(24.07.04)唐突だけどマンジョーの謎が解けた(かも)。レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』に頻出する謎の食べ物(今年1月の日記参照)。タロイモやバナナ、パンノキ(パンの実)みたいに比較的簡単に主食にできる植物を想像していたのですが―
横浜・みなとみらいにあるJICAの食堂の国際色ゆたかなメニューをネットで眺めていたら
港が見えるレストラン Port Terrace Cafe(独立行政法人 国際協力機構/外部リンクが開きます)
14時からの喫茶タイムのお品書きに本日のカレーやタコスチップスなどと並んでフライドマンジョッカ(Fried Mandioca)」なるメニューが。あーこれマンジョーかも、きっとマンジョーだと検索したところ
マンジョッカ・フリット - 魅惑のブラジル料理 写真特集(時事通信社/外部リンクが開きます)
たぶん間違いない。「マンジョッカはタピオカの原料になる芋で、英語名はキャッサバ」そっちでしたかー。
JICAの食堂は世界各地の料理が日替わり&手頃なお値段で試せるだけでなく、日本各地の名物料理も時おり扱ってるようで、さいきん食べた長崎名物トルコライス(写真左/この名称については14年6月の日記参照)と福岡名物ボルガライス(違う。福井。福井名物)の写真(右)を貼っておく。
 左:カレーピラフにトンカツとナポリタンスパがトッピングされた長崎式トルコライスとスープ・小鉢のマカロニサラダ。右:チキンライスを薄焼き卵で覆ってトンカツをトッピングしたボルガライスとスープ・小鉢の葉物サラダ。
アーティフ・アブー・サイフガザ日記』で頻出する中東の揚げ肉団子ファラフェルも日替わりでない常備メニューにあるようなので、そのうち食べてみる予定。マンジョッカも。

      *     *     *
(24.07.07)内訳を確認したら昨年同月より7%電気の使用量を自発的に削減しているのに、請求金額は18%の値上げ。こんな単純な合算でいいのか分からないけど、合わせると25%、先方(供給側)の都合で値上がってることになる。だから何が言いたいか。これから更に暑くなると思うけど「頑張って節電しても電気料金が下がらない」→「私の節電の努力が足りないではないので、騙されて自分を責めてはいけない。強いて言うなら「間違って己を責めず、責めるべき相手をキチンと責める努力」をすべき。「この暑さに対抗するために、吾が社の免疫ケア飲料を買いなさい」と売り込む企業なんかに従うのは、○○に追い銭と知るべし。
 キャプション「てゆか昨年同月→今年今月の電気代の差(割高)分て昨年の今頃あった「燃料費高騰のため電気代を国が減免(ガスも)」を今年なぜかやんぴしちゃった分とほぼほぼ一致なんですよね…まさかその減免やめた分、今年の定額減税で、予算を付け替えただけとか…」に、むかし描いて壮絶にすべった「夏バッティ」さん=映画『ブレードランナー』のラストで雨に打たれ死んでいくロイ・バッティ(ルトガー・ハウアー)の全身に滴る雨滴を汗に変えた(ひどい)イラストを添えて。
しかし「暑くて夕方まで投票に行けない」みたいな声もあるので、もう性別関係なく日傘は自衛で用意しましょう。投票所も勝手に早めに閉まるところがあるので要注意だ。

(24.07.05)都知事選に向けて駅前などで(蓮舫氏支持の)個人個人がプラカを掲げたりして単独スタンティングをしている現状が可視化された・#ひとり街宣Map(外部リンクが開きます)がすごい。もちろん今回の都知事候補で一番まとも(マシ)なのが蓮舫氏なのは間違いないけど、それにも増して「一番マシな候補」に懸ける人々の切実さが新しい形の選挙運動に結実していて、都知事選じたいの結果に関係なく、これは大きく何かが変わるかも知れない。
(追々々記)ひとり街宣のプラカに候補者名を書くのはNG・口頭で「私は○○さん推しなんですけど」と話すのはOKらしいです。
(同日追記)少しだけ冗談を言わせてもらうと+Xへのリンクは少し不本意ですが、このポスト→阿佐ケ谷駅は熱かった!(田村智子/X/24.06.29外部リンクが開きます)の爆上げ写真を見て※岸本聡子・杉並区長の紙を持った手指を逆向きに空目して「えっ福島瑞穂さんの肩を抱いてるの誰の手?怖い画像!?」と慄いた自分、『恐怖の心霊写真集』世代※※…
※※今となっては馬鹿みたいだけど「集合写真で誰のものでもない手だけ肩に置かれててギャー」みたいなオカルトネタがあったのです、昭和って時代には。
※この写真で爆上がるか冷笑するか「誰ひとり分からん…」となるかで組分けが出来そう。他県の市民なのに東京都杉並区の区長が顔で分かる本サイト運営者がどの組かは言うまでもなく。SNSには「このまま組閣してほしい」の声も。
(同日追々記)上記Xの投稿で田村氏と蓮舫氏が指ピースをしてるのは「ラブ」とか「キュンキュンしてね」的な文脈だけでなく、それが伝わった先のアメリカで女性自身の選択による中絶の権利を擁護する人々のサインに転じたことを踏まえての、反セクシズム(性差別主義)で連帯しようのジェスチャーなのだと思います。これは男性も連帯できるもの(じっさい僕はこの文脈をハリウッド男優マーク・ラファロ氏の仕草で知った)。

蓮舫を連呼した20日間〜都知事選ひとり街宣回顧録(Rikken_Jugend/note/24.07.12/外部リンクが開きます)
(さらに追記)岸本聡子氏を杉並区長当選に導いた(と言っても過言ではないかもな)ひとり街宣、そもそもの提唱者は宇都宮けんじ陣営らしい。色々つながってるし、少しずつロールオーバーしていくものなのだろう。

(24.07.12)「多数の有権者が(中略)「オレはオレのままでいいんだよ。オレはオレが大好きなんだ」と口を突き出すようになったことで民主政は終わりに近づいている」という都知事選(の惨状)に対する総括。
民主政の終わり(内田樹の研究室/24.7.12/外部リンクが開きます)
この期に及んで、まだ絶望を口にしたら責められるのかと(しかも「私は絶望していないが、皆が絶望してるせいで見通しは絶望的だ」という狡猾なやりかたで)たまらない気持ちになる一方、デモなどに参加する人たちまで「世界を変えられなくても、世界に自分が変えられないために」というガンジーだかの言葉にすがりつく現状を歯がゆく思っている(どうして「せめて自分は変わるために」と言わないのだろう)自分は吾が意を得たりと感じる部分も多く、そしてこの主張は自らは貴族主義と恃みつつ全力で民主主義を擁護したオルテガ・イ・ガゼットとほぼ同形であって(16年11月の日記参照)、とても「らしい」と思った次第。
(後日追記)こう書いた半月後、当の内田センセのブログがオルテガの名を連呼していて「うんうん、答え合わせ」と思うなど。氏が唱える「天皇制と民主主義の併立」には賛成できないけれど(天皇制、オルテガの理念とは真逆の日本人を内向きに分断させる装置ですやん…)。

      *     *     *
(24.07.08)アジアン食材店でココナツミルクの粉と一緒に買ってきたマッサマンカレーのペースト、添付された日本語訳の作りかたに「タマリンド・ペーストを足す」とあるのを作る段になってから気づいて、これは詰んだか?…いやいや、と「タマリンド・ペースト 代用」で検索したら「梅干しを刻んで入れる」でどうにかなる由。どうにかなったと思います。そうか(もちろん違うんだろうけど)おおむね梅干しみたいな味と思っとけばいいのかタマリンド。今度ペーストではなく清涼飲料のタマリンド・ジュースを飲むときも日本でよくある甘い梅ジュースのたぐいを意識してみよう。

(未発表)「一同、礼」「終了します」 “日本一短い祭り”今年も20秒で終わる(長野放送/Yahoo!ニュース/24.06.24/外部リンクが開きます)「みなさん、楽しんでください」(ヤン・ウェンリー)ですね。

(24.07.09)「それ、ライフハックじゃなくてライフヘックス(hex=呪い)だから!」という駄洒落を思いつくなど。何をしてて思いついたかは恥ずかしいので伏せますが、
Muse - Take a Bow (外部リンクが開きます)
←自分がhexという単語を知ったMuseのこの曲、リリース当時はジョージ・ウォーカー・ブッシュ・ジュニアを勝手に連想していた歌詞が20年後の今となっては地球沸騰化に邁進する吾々(おっと久しぶりに一人称複数形が出たね)全員に当てはまるように思えてきた。愛する国に呪いをかけたお前、地球に対して犯した罪の報いに地獄で焼かれるがいい…

(24.07.10)四半世紀も前のMuseの曲を蒸し返してる奴に言われたくもないだろうけど、最近リメイクの新作が制作発表されたアニメが『グレンダイザー』『らんま1/2』『レイアース』『ベルサイユのばら』『キン肉マン』で、まあ世の中そういうものかも知れない(海の向こうだってデューンにマッドマックスだとは言える)と思いつつ、どうだかなあと思わなくもない。ひょっとして星新一『午後の恐竜』を自発的にやってるのではとまでは思わないにしても。
あとなぜか今ごろ『かつて魔法少女は悪と敵対していた』がアニメ化される(た)の、ファンは嬉しいのかなあ。というか原作未完のまま作者のかたが急逝されて(けっこうショックだった)もう十年になると確認して、時の流れの速さに愕然としている。そりゃあ「ついこないだの話じゃん、よし○○リメイクしよう」となるかも。

(24.07.11)SNS(マストドン)で拾った、国連WFP協会を通してパレスチナへの食糧支援に協力している企業。
プリマハム、パレスチナへの食料支援に1,000万円を寄付(食品産業新聞社ニュース/24.02.16/外部リンクが開きます)
パレスチナの緊急支援に関するお知らせ 明治ホールディングス株式会社(24.03.05/外部リンク)
パレスチナへの食糧支援について カゴメ株式会社(24.04.01/同上)
他にもありそうだし、こうした企業にも叩けば出る埃がないとは確言できないけれど、取りあえず何処かをボイコットする(あの外食チェーン店は雇い止めがとか、あの食品企業は社長がセクシストのシンパだとか)とは逆に、積極的に選ぶ理由ができるのは悪くない。
パレスチナ関連ではないけれど
ハンディボトルがステンレスでフッ素フリーなタイガー(20.7.31/外部リンクが開きます)
ブラックサンダーは2022年9月に児童労働フリーのカカオ原料100%達成(ユーラク/2023.03/同上)
あたりを日ごろ選ぶ理由にしています。ブラックサンダーは「うちは中小企業だし使ってるカカオ自体ささやかな量なのでフェアトレードに踏み切れた(苦笑)」とアナウンスしていた記憶。明治のアポロチョコもフェアトレードになってくれれば、より心おきなく買えるのだけど…シュリンクフレーションとかしてない貴重な商品だと思います。

(24.07.13)こんな夢を見た。ずっと昔に行く道を違えて、今はもう逢えなくなってしまった人が隣に座っていた。最近は木工にハマっているのだと言って、柄の部分が白い木材の、折り畳み式のスコップ(ショベル?小さいやつ)をプレゼントしてくれた。二本あって、掘る側の皿みたいな部分に片方は茶色い小さなインゲン豆・もう片方は茶色い皮つきの落花生が盛られている。テーブルの上になぜか塩のボトルも置いてあったので、それにサッと手を伸ばしてみせるボケを二回くりかえして見せたが通じず、そこは「違うでしょ(いま食べるんじゃない)」と突っ込むところでしょと説明したら、三回目でペシッと軽く叩いてくれた。しかし自分はこれを蒔いて育てるのか、どうすんだろ?プランター?と内心で困惑しながら、目が醒める直前ようやく「嬉しいです、ありがとう」と告げることが出来た。And when I awoke, I was alone. This bird has flown.そこで僕は火をつけて…お湯を沸かしてオートミールでも戻しますか。塩だけはあるので。
 白い軟質プラスチックに、青いフタのついた塩のボトル。「南の極み」というオーストラリア海洋産の粗塩。
(念のため言うと、歌の前半みたいなことはなかったです。そういう間柄ではなかった)
・参考:土岐麻子 - Norwegian woods(This Bird Has Flown)(YouTube/公式/外部リンクが開きます)

(24.07.17)持ってもいない会社のクレカの今月の支払額が確定したという釣り(迷惑)メール。自分がAME×(いちおう伏せ字)を持ってる世界線での利用ぶりを知りたい気もしたけれど、スポーツカーや別荘・全自動麻雀卓など湯水のように買い放題とかだと少し怖いので削除削除。

(24.07.18)バングラディッシュで公職採用基準(枠の1/3が独立戦争の「英雄」の子女に優先割当)の是正を求める大学生のデモに警官隊が催涙弾とゴム弾で発砲、6人の死者、国内の全大学封鎖。まだ英語ソースのニュースしか拾えず誤読もあるかもだけど、形は違えど最近の日本の大学まわりで起きてることとと無縁ではなく世界規模で同時進行の出来事のようにも思われ。
(追記)日本語で読める詳報・続報、このあたりかなあ→バングラデシュの学生デモが暴動に発展、公務員採用の優遇措置に反発(BBC NEWS Japan/24.7.20/外部リンクが開きます)
警察暴力vs民衆暴動って構図が今の日本だと権力の手を借りるまでもない世間の自発的抑圧vs…(ここに入る項目がない)って感じだったんだけど、ひとり街宣、他の国でいう「蜂起」コレか!て興奮があったことは否定できません…

(24.07.19)日々精進。画像左・豆腐で「なめろう」はだいぶ無理があった気が(個人の評価です)。右は意外な大当たりで今夏のエースになりそう。こんにゃく麺のコシとツルツル感、実は冷やし中華とすごく相性が良かった(あるいはここまで仕上げた企業努力か)。
 上記のとおり左:豆腐なめろう・右:こんにゃく冷やし中華(月のうさぎ)
豆腐そうめんはイオンで売ってる麺だけ(つゆ・タレなし)が重宝してます。

(24.07.20)一応ヨコハマは晴(だいぶ曇ってる)・台北とKLは曇りなんだけど
気象案内のスクリーンショット。横浜34℃・台北34℃・クアラルンプール33.8℃。
台北みたく元から暑い想定で建物の前面に日陰の通廊を設ける都市設計には、今さら変えられないんだろうな…

(24.07.28)思いつきで「Nekomimi Girl」と検索したら「Nekomimi Ninja Girl」と題されたAIイラストがヒットして、さすがAI、全然ニンジャではなかった…まあ好みの画像だったので保存したけどな、さらばだ…

(24.07.29)反対を押し切って今年の8/6の平和祈念式典にイスラエルを招待する広島市、会場周辺への抗議プラカ持ち込みなどの規制を宣言したらしい。平和や核廃絶への訴えは(とくにそれを守る気もない者が)家元きどりで発言権を独占していいものではないでしょう←クラフトワークへの口撃も念頭においてます。8/1提出予定の緊急署名:広島市政による原爆ドーム周辺での入場規制-表現の自由-圧殺に反対する緊急共同声明(Change.org/外部リンクが開きます)に賛同しました。

(24.07.30)ここ数年の「余裕ある勝ち組の驕った贅沢、いーんじゃなーい?」というブランディングが頭打ちになったかウーバーイーツ、現実には大きな需要を成してるかも知れない「時間的余裕・余力がなくて自炊もままならない層」や「コロナ感染を考えると外出も難しい層」に(広告の)ウイングを広げあぐねて(なぜなら「素晴らしい日本」という幻想を保つため「苦しい人の存在」の可視化はタブーだし、わけても「まだコロナは警戒が必要」は絶対に言ってはいけないことだから)最近は「食材を買いに行ったら百万人めのお客様で胴上げされて帰れなくなるからウーバーイーツ(それって百万分の一の確率だよね)」「炊飯器が煙を吹いて消火栓が作動・ズブ濡れになるからウーバーイーツ(炊飯器リコール案件やん)」等いかにも無理のある路線だったのが、「オリンピック中継をテレビで観るためにウーバーイーツ!わーい」という五輪特需で息を吹き返してて、またスポーツ興業を厭う理由が増えた7月末でした。また来月。

したいこと全部する〜18きっぷ旅行24年夏(後)(24.07.29)

 最高気温33℃で「もう一段階上の猛暑アラートが出たら今日は中止」と言われた能登での災害ボランティア、今週はもう無理なのかも…秋田・山形の水害も心配…
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 空似アワー。左:これは高山本線だったかなぁ…なかせよしみさんの作風を思い出してしまったけど、御本人という可能性は…違うか…
 左:混雑時はリュックを前にしたりして「さわやかな通学を」と呼びかける女学生ふたり。右:観光クーポンぎふ旅コインをアピールする、頭に三角帽みたいなのをかぶった妖精さん。新型コロナ対策実行中を呼びかけるワッペンではマスク着用。
右は春先にも見かけて「クッポさん、こんな処で何してはるんですか」と思ったけど、よく見るまでもなく別人ですね…というかクッポさん、人か?(「テレタビーズ、動物か?」風に)
・参考:おがわさとし - クッポの小さな冒険(電脳マヴォ/外部リンクが開きます)
※なかせさんは丁度いい参照先がなかった…

4)金沢
 ボラの翌日は5年ぶりの大阪へ。午前中に金沢で心残りを回収しました。
 まずは喫茶めるつばうで朝食。バタつきトースト、本当はもう1/2枚(三角)があったのだけど「もぐもぐ…あ、写真写真」で取りそこねました。書棚にヨシタケシンスケさんの絵本を発見。
 左:めるつばうで朝食。バスケットにバタつきトーストと、選べる二品カレーとヨーグルト。バスケットの外にアイスコーヒー。右:ヨシタケシンスケ『りんごかもしれない』とアイスコーヒー
いや、もっともらしく「さん」付けしてるけど名前も忘れていたヨシタケシンスケさん。20年くらい前に本屋の店頭で『やっぱり今日でした』という、画集というか一コマまんが集をパラパラめくって「やばい」面白すぎる、こんなアイデアの宝庫を見せつけられてしまったら、自分のまんがを描けなくなってしまうと怖くなり封印した作家さん(たいへん申し訳ない)。ちょうどこの旅行中に横浜そごうで展覧会が始まっており、その後20年どうにか自分のまんがを描いてこれて封印も解いていいだろうと思っていた矢先の金沢での再会。今回の旅行は「持ってる」と思いました。
ヨシタケシンスケかもしれない展(7/23〜9/2/そごう美術館/外部リンクが開きます)
 苔の生えた幹の途中から青々とした葉がこぼれるカエデの樹。煉瓦敷の舗道に落ちたトゲトゲのカエデの実と、水たまりに映る葉影。左右に街路樹が続く木陰の舗道。金沢市。
 兼六園はパス。21世紀美術館はコレクション展のみ観覧。自メモによれば
「雲龍庵」北村辰夫(21世紀美術館/外部リンク)
ゲルハルト・リヒター(参考:「ゲルハルト・リヒターとは?」This is Media/外部リンクが開きます)
ガブリエル・オロスコ(参考:「ガブリエル・オロスコ展」東京都現代美術館/2015/外部)
そして
佐々木類(参考:「植物の記憶 - 佐々木類」(これやん/外部)
が著しく好かったです。ちな北村氏は輪島・佐々木氏は金沢で活動するアーティスト。
 とくに植物のシルエットを封じ込めたガラスの衝立で囲まれる佐々木氏の展示は、今はこうして「植物」と書いてるけど衝立のなかに「包まれてる」間は、それがシダ類なのか拡大した菌類(カビ等)なのか、はたまたクラゲ類なのかも分からず、ただこの美しく透きとおった原始的なものが人間という種の中にも「こうでもありえた」可能性の記憶として刻まれているような、その状態に回帰したい・早く人間をやめたいみたいな感覚に痺れました。
 午前中、金沢に残った理由のひとつが前日に見かけていた(閉まっていた)バクラヴァとトルココーヒーのお店「ハーネ・カフェ」。ネット検索だと午前10時開店とあるけど、11時過ぎに行ったほうが良いでした。
 左:ハーネ・カフェ店頭のメニュー看板。右:トルココーヒーに花の香りのクッキーと、バクラヴァのセット。追加でチーズ入りポアチャ(柔らかいパン)
 心残りがないように、と言いつつコレは逃したなぁと思ったのが、尾山神社のそばにあった昔ながらの食堂。ワニの串揚げにクエのフライ定食と、意外と攻めた内容だったので一度くらい入ってみても好かったかも。
 左:冬に撮影した尾山神社(参考)。中:尾山食堂のメニュー。日替りランチ990円・わに串あげトライアル価格990円(意外にクセがなくて旨いです!)・クエフライ定食(長崎県五島福江より直送!釣り物24kg級です)1980円。右:別の食堂ののぼり「食べ放題・炊き立て白米・名物めった汁。
別の食堂(ホテル併設っぽかった)の店頭に出ていた「炊き立て白米」を最初「白菜」と空目したのはいいとして名物めった汁って何?
 …確認したら、(里芋のかわりに)さつまいもを入れた豚汁、で大体いいらしい。これはいつか自分で作るかもなと思いつつ、さらば金沢。

5)大阪・倉敷・神戸
 今回は行きそびれたけど、大阪・船場センタービルを舞台にした大好きな漫画があるので共有しておきたい。こんなにも美しく物語によって祝福された場所って、なかなか無いよ。
町田洋船場センタービルの漫画(トーチ/無料/外部リンクが開きます)
 行ったのは万博公園。エントランスのガラス風鈴、風情があって好かった。一つふたつ南部鉄の風鈴も入れて違う音色を重ねても面白かったと思うけど。
 左:万博公園・左に観覧車・右にお祭り広場の屋根組を従えた、太陽の塔を背後から。右:エントランス・木の枠組みで出来た回廊の上で揺れさざめくガラス風鈴。
 まっすぐ民博(国立民族学博物館)へ。
 ちなみに僕は新しい一万円札はボイコット中で(五千円も出来れば避けたい)ATMでも千円単位でしか現金を下ろしてないのですが…ひょっとして同様に皆の渋沢ギライでキャッシュレス社会を促進する深謀では…
 赤くとぐろを巻いた羽毛貨(径50cmくらい?)と、隣の貝貨。
ソロモン諸島の羽毛貨を前に色々と考える。300羽ぶんのミツスイの羽根で作られ、男性が妻をもらう時の婚資や、島の掟を破った時の罰金に使われたという。
 なぜか今回はオーストラリアの木彫に魅了されたなあ。白いクチバシを頭ごと上に向けたアヒルとか、ソファのあるキレイな部屋のインテリアに好さそう。蛇も。飾りたい。狩った獣の剥製を飾るより、ずっと文明的なのでは。
 左:鳥や動物をデフォルメしたオーストラリアの木彫像。鳥のばあい羽根を独特の紋様で処理している。右:蛇の木彫二種。ひとつは波打ちながらも押しつぶしたU字のようにコンパクトだけど、もう一つは野放図に他方項にくねりまくっている。
ディンゴ一家。すごくいい。
 胴体を大胆な縞模様で塗ったディンゴ一家の木彫り。子ディンゴが二匹、鼻を突き合わせてるレイアウトも好し。右には巨大な眉のような木製容器「クーラモン」が見切れている
 詩歌をタイポグラフィで図案化する現代アラビア書道も面白かった。日本の徒然草や奥の細道あたり(忘れました)を書いてるものもあったけど、とくに印象に残ったイスラム圏の詩を二つ引いておきます:
「もし愛にふるえる心をあなたに捧げることがないならば、心など何の役に立つだろうか?心など持っていて何になるだろうか?」(13世紀ペルシアの神秘主義詩人ジャラールッディーン・ルーミー)
「土くれより創られし我が身なれば、それがありし何処も我が祖国にて、世の人すべて我が同胞なり」(11世紀シチリア出身のアラブの詩人アブー・アルアラブ・アッシキッリー)

 土くれより創られし吾、続いて鶴橋へ。冷麺を食べ、水キムチとサラダっぽい大根と胡瓜の辛くない(甘酸っぱい)キムチは宿に持ち帰り。
 左:鶴橋・冷麺館の冷麺とおにぎりセット。右:鶴橋で買った水キムチと甘酸っぱいキムチ。
北新地の「まん馬」は20年来(大阪在住のSF作家・堀晃さんが紹介されてたんですよね)足を運んでた「すんどぅーふ」の店で、コロナ禍で一番心配で時々ネットで「よかった、まだある」と確認していたので再訪できてよかった。世に倣って「スンドゥブ」と改名してたけど全然よかった。
 カルビつきスンドゥブ定食
 西に行くならコレだけはという心残り、もう一つは倉敷(岡山県)のミルクセーキ。
 今では元祖ぶっかけうどんでイメージ固定(安定)してる老舗「ふるいち」、昔は夏はかき氷やミルクセーキを供してて夏休みに母方の実家に遊びに行くたび楽しみだったのが、もうなくなってしまって。諦めきれず確認したら大原美術館のそばにある、こちらも老舗の喫茶店エル・グレコで出しているという。今ならフラペチーノと呼ばれるようなカキ氷じたてで卵と練乳の甘味を、数十年ぶりに堪能しました。
 左:エル・グレコのミルクセーキ。中:駅前で食べたカレー。右:マヌル猫のカットが添えられた蟲文庫の紙袋。
美観地区の奥にある古本屋・蟲文庫にも足を延ばす。店名から察せられるとおり生物系・理系の本が多い感じだけど今回はなんか心を惹く本が多くて、どうにか二冊のみに絞る(後述)。
 神戸(兵庫県)は僕がコミティアに出始めたころ別系列であった一次創作系イベント(東京版もあった)の本拠地で、まだ地方遠征とか思いも及ばない頃になくなってしまったんだけど、そのほか西村しのぶ『サード・ガール』の舞台ですとか気にかけつつ、きちんと訪れることが出来なかった地。三宮で下車して元町駅まで歩いてみました。
 左:聖モルガン教会(結婚式場)。中:三宮駅からの眺め。右:カフェのバリスタふう美人さんが側面に描かれた自動販売機。
さんちか(三宮地下街)・旧外国人居留地(「神戸居留地」って缶紅茶があるけどコレか!と現地で気づく)・元町・中華街と効率よく歩けて好かったです。とくに「元町」「中華街」は横浜にもある地名・区域名で気になっていた。開国後に地位を築いた港町という共通点もあるし。中華街(コンパクトにまとまっててチャイナ「スクエア」て感じかも)では店頭売りの北京ダックを食べました。
 神戸中華街の写真2点と、食べる前の北京ダック・食べ途中の北京ダック。

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 いつも旅行の途中どこかで「こんな処で自分はいったい何をしてるんだ」と途方に暮れる感じ(それが旅の醍醐味だよねって倒錯した感情もあるのですが)を今回は憶える暇もなかった。暑すぎたせいかも知れないし、まあ楽しかったせいにしておきましょう。
 本を買ったのは倉敷の蟲文庫と、天王寺で漫画を二冊。鶴橋のイシケン堂(石剣堂)でも何か買いたかったのだけど、入れ違い・7/22で閉店・奈良の店舗と併合だそうです…
 左から『星旅少年(1)』『徳島SFアンソロジー』『水声通信・甦るライプニッツ』『いてもたっても、いられないの』
『水声通信・甦るライプニッツ』は読み途中。ばったん『いてもたってもいられないの』(祥伝社/2021年)は女性の性欲を赤裸々に描く五篇と言いながら、ほぼ全体が性行為そのものでは満たされない欲求(さびしさ?)、とくに後半二篇は「この人が大好きだけど恋愛感情じゃないから人生をともに出来ない」とジェンダーの規範やロマンチック・ラブの観念が逆に枷になってる話で興味ぶかかったです…上に引いたペルシアの詩と、ちょっとつながるでしょ(伏線回収)?
 坂月さかな『星旅少年(1)』(PIE COMICS/2022年)は前に何処かの旅先で見かけて気になっていたシリーズ。星空や鉱石や化石や硝子っぽい系列といえば言いのか、こういう作品は人体に必須な微量元素みたいなもので常に世の中にあってほしいので、少しずつ摂取していこうと思います。
 なかむらあゆみ編『巣 徳島SFアンソロジー』は、最近ではパレスチナ作家の作品紹介などもしているオンラインSF誌KAGUYA Planet(外部リンクが開きます)の企画(他にも京都編・大阪編があるらしい)。SF=そっとふみはずす、をテーマにした地元作家の競作で日常感は高めなのだけど、多くの作品で描かれる、社会の規範やインフラが崩壊ぎみの日常って(とくに地方では顕著なのかも知れない)現実と地続きで、もう現在そのものがSF・それもどうかすればポスト・アポカリプスものの終末SFなんだなと思わされる。ちょうどコレを読んでる最中・横浜に戻る東海道線が熱海の手前で(落雷による信号の故障とかで)30分くらい立ち往生、その後も放り出された途中駅では右往左往する乗客と当日なんだか祭りだかでごった返す人々が混じりあって…数日前もトラブルで停まってたよね東海道?…んーやっぱり「悪い意味で今がもう未来」なのではないか、暢気に旅行なんていつまで出来るか分からない世界線に突入してしまってるのではと実感しました。
 そういう意味では「こんな処で何をしてるんだ」は生活全体の実感かも知れません。なので旅だからといって殊更に感じはしなかったのかも。ま、地べたを祖国・世の人すべてを同胞と思って這いずり回っていきましょう(伏線回収2)。(この項おわり)

したいこと全部する〜18きっぷ旅行24年夏(中)(24.7.28)

3)孤立者の災害ボランティア参加心得〜金沢→輪島
 まあ能登で半日ボランティアするために必要な費用を、横浜から現地までの旅費や宿泊費まで含めて考えると、その分の金額を寄付して家で寝てるほうがコスパとやらはいいのかも知れないので、もっぱら自分の心の安寧(皆がこぞって言うように「親切は健康にいい」)と経験値を積むために行ってきたと考える。分かんないからね、南海トラフとか。
 ※東日本大震災では後方支援とか、現地でも周辺的なこととかしか出来なかったので…

 とはいえ「シロウトが思いつきでTシャツ富士登山→遭難」みたいな事態にならないよう「とにかく倒れたりケガしたりして足手まといにならない」を最低限の目標に準備を進めました。
手続き
 何か伝手や人脈があって行くわけでない、孤立者の飛び込みなので、ふつうに「能登半島 ボランティア」で検索してヒットした
令和6年(2024年)能登半島地震・石川県災害ボランティア情報(外部リンクが開きます)
で、まずは災害ボランティアに登録→週ごとに更新される募集情報を見て、金沢駅に早朝集合・マイクロバスで現地まで向かう「ボラバス型」に応募しました。先回りして言っておくと、当日は高速バス旅行の要領で名簿に名前があることを確認・渡された案内のQRコードをスマートフォンで読み取り、最終登録を行なう方式です。
準備すること・もの
・ボランティア保険に入る:地元の社会福祉協議会で手続き。横浜市の場合は保険料500円。
・破傷風ワクチン:保険が適用されないので自己負担(5000〜1万円くらい)。
 効果が出るまで三週間くらいかかるので、ボラ行こうと思い立ったら早めに。
装備は主にワークマン的なお店で揃えて
・防刃手袋:400円くらい。必須です(軍手では無理)。
・防塵マスク:5枚700円。今回はKF94でも代用可な感じでした。
・安全ゴーグル:350円。メガネの上から装着できるもの。今回は持参したけど使わず済ませました。
・踏み抜き防止インソール:700円。必須です(釘やガラス片など踏む恐れあり)。
 今回はコレと運動靴で済ませてしまったけれど、上も防護する安全靴が欲しいなと強く思いました。
・長袖のインナー:800円。キズ予防に必須。Tシャツを上から着て野球選手スタイルで。
・屋内用スリッパ:330円。今回は使わず済みました。かさばるし、ボラ参加には薄手のでいいかも。
・絆創膏:110円。使わなかったけど必須。
・帽子(キャップ):持ってたものを使用。まあ絶対に必要です(特に夏は)。
・タオル・ウェットティッシュ等も準備。
 自分は氷冷タイプのウェットティッシュを多用しました。
・昼食と十分な飲み物
 飲み物は麦茶・スポドリなどの他に水も用意しておくと(現地でも用意されてはいる)ケガなどの際「まずは洗い流す」ため有用と聞きました。
あと、上記募集ページには無かったけど用意して使わなかったものとして
・懐中電灯:110円
・布テープ:110円
・油性マジックペン:110円
他のボラ参加者が用意していて、あーと思ったのが
・ヘルメット:「帽子で大丈夫ですか」と現地で訊いて「大丈夫です」と確認できたし、実際だいじょぶでしたが、今後(南海トラフとか)考えると、あっていいかも。
・空調服:袖無し型7000円くらい。あると著しく楽だそうです。
あと本部で用意されてるけど「角スコップあるといいな、ほしいな…」と思ってしまった…
 旅費や破傷風ワクチンを除いて、今回の装備はだいたい5千円くらい。洗うものは洗ったうえで今度の旅行のために新調した+今後旅行用には使う機会もそうないだろうスーツケースに薬や水非常食などと一緒に詰めておけば、緊急災害用持ち出しセットの出来上がりという算段でした。
当日
 今回は廉価を最優先でドミトリー泊。前にもボラ参加者が利用してる実績のあるところで、チェックイン前・チェックアウト後の荷物あずかりなどサービスも細やかで結構アリかなと思いました。前日早寝で(というか岐阜を朝5時に出発だったからクタクタではあった)目覚ましが鳴る前に起床。
 左:各種ティーバッグにインスタント・ドリップコーヒーを揃えたセルフのドリンクコーナー。右:淹れたコーヒーと、クリーム玄米ブランで朝5時の朝食。
 突然ですが今回のまとめ:ボランティアも参加者から傷病者を出さないことを最優先に配慮されてます。甘く見てはいけないのだろうけど「自分なんか…」と尻込みするほどではなかった。ボラ怖くない。

 それでも「とにかく倒れない(そして遅刻しない)」を目標にしていたので、拘束時間が最も短い金沢駅6:35集合→輪島市9:30着・15:30発→金沢駅18:30着・流れ解散のコースに応募。
 言い替えると往復6時間はマイクロバスの旅。のと里山海道、前日の高山線とはまた違った絶景で好かったです。ただし輪島市に近づくと減少した車線+かなり道路が傷んでいてガタピシ。市の中心部に入ると箱をつぶすようにひしゃげた家屋が散見される。
 どこの町にもありそうなスーパーや家電量販店・ホームセンターなどが集まった一角の駐車場に設けられた本部に到着。定員15名の参加者は「今日は男性が多い」とのことで女性は1名。2班に分かれ班長や副班長・軽トラの運転手を決める。出来なければ申し出なくて良い。人見知りでもネコをかぶって最低限のコミュニケーションが出来れば大丈夫でした。「よぉー○○ちゃん元気してる?」みたいな排他的なノリはないので安心。ボラ怖くない。
 輪島市の当日の気温は33℃。警戒レベルがもう一段あがったら即終了・15分作業に休憩5分または20分に休10分と小まめな休息を厳命され、作業スタート。午前中はエレベーターがない公営住宅の三階から6人がかりで冷蔵庫を地上に下ろし、軽トラに乗せて移動→新しい住まいになった別棟の二階(やはりエレベーターはない)に運びあげる作業。わりと長めの昼休みを取って、午後は全壊した家屋の下に埋もれた思い出の品を探したいという依頼を受け(探すのはお任せとして)下準備として瓦礫の撤去。金沢の、犀川を渡ってW坂を登った先の寺社町にあるような、光沢のある黒塗りの瓦(かわら)が
 こういうの、と金沢市で撮影した瓦を例示
文字どおり瓦礫となって建物だった敷地一面に敷き詰められている。それを拾い上げ、スコップですくい、ネコ(一輪車)で運んで除けていく。破片とはいえ瓦は重いし、真っ赤に酸化したシャーシみたいな金属スクラップも出てくる。もちろんガラス片も。側溝の上に見かけだけ物が積もって、地面だと思って踏み抜く危険も。踏み抜き防止の鉄板入りインソールだけでなく、やっぱり足の甲まで保護してくれる安全靴があるに越したことはないなと実感しました。この作業が一時間半くらい(休憩を含む)。いやだから「もっと働けよ」みたいに言われても困るって。自己犠牲が売りじゃないんだから…まあ、この炎暑が作業をかなり制限してるなとは思います。ともあれ熱中症もどうにか回避・いい疲労感で割当を終了しました(別の箇所に向かった班ではもう少し手間取った由)。
 左:天然水のペットボトルと、現地で買ったフルーツトマト、この後すごく汚れることになる防刃手袋。右:清潔な簡易トイレの内部。
 用意していたバランス栄養食な昼食の足しに、本部横のスーパーで地もののフルーツトマトを買う。店内でふつうに買い物してる地元の御婦人がたが「コロナの感染がすごいらしい」と話している。男女共用2基・女性専用1基が設置された仮設トイレはウォシュレットもついた清潔なもので(もちろん小まめに清掃もしてるのだろう)現物がどちらか確認しそびれたけど、中にあったパンフによれば電源を天井の太陽電池から取れるタイプもあるらしい。折角だからリンクを張っときますか:
自律式移動型水洗トイレ「サラオ」(Gテクノ株式会社/外部リンクが開きます)
 ボラ参加者、中高年が多めです。あとワークマン系で腕に覚えありな人も多かったみたい(でも自分みたいな日陰ホワイトカラーも紛れてたかも知れない)。昨年は福知山(台風)のボラに行ったよーなんてシニアのかたもいらした。
 休み時間に雑誌くらいの大きさの太陽電池パネルを広げてスマートフォンを充電する人がいたり、『図解・世の中のしくみ』みたいな本を行き帰りのバスの中でも読んでる人がいて知見が広まった。後で調べたら20年くらい前に流行ったタイプの本らしく「生活保護とは」「脳死とは」みたいなトピックから「コミッショナー制度」??スポーツの話題まで、んー、いつの時代もあっていい本かも知れない。人類に紛れたい異星人が地球の勉強をするのに良さそうで一冊ほしくなりました(ま、手に入る縁があればね)
 ハントンライス
 帰路は想定より早く18時前に金沢駅に到着・流れ解散、宿に戻って洗濯機を回す間にシャワー・乾燥機を回す間に近場の洋食屋で金沢名物ハントンライスを己に許す。
 現地で伺った話だと、これからボランティアを募る市町村が減っていくけど輪島市と珠洲市は当面継続・年度いっぱいは必要があるそうです。世話人の社会福祉協議会は軽トラや工具(スコップやバールのようなもの等)・日除けのテントに至るまで自分の財産としては持てずレンタル頼りということで、赤い羽根共同募金から支援を受けているほか、寄付も随時募集中だそうです。

      *     *     *
 あ、そだ。余計な話かも知れないけれど、仁藤夢乃さん(Colabo)は当然のように何度もボラで現地入りしてるらしい。Colaboが新宿でやってた家出少女のシェルター的なバスに「議員だ、視察させろ」とズカズカ乗り込んだうえ女性スタッフにセクハラした馳浩は、後に石川県知事になり、被災地を放ったらかして今年の夏も山遊びに行くとか。部外者だけどColaboに寄付もしてるし、中傷・妨害に乗じた東京都の支援打ち切りでは都庁前の抗議にも応援に行った(豪雨で酷い目に遭った)自分が、どっちの側に着くかといえば「ボランティアに自分も行く」は当然でしたよね……そういう文脈、知らない人も居るかもなので念のため。

したいこと全部する〜18きっぷ旅行24年夏(前)(24.7.27)

 生きてるうちに、は大げさだけど。夏の炎暑も、社会の閉塞も、深刻度が深まる一方に思えて、今年できることも来年は出来ないかも知れない。だったら今したいことは今しよう。そんな風に思って久々にまんがを描き下ろしたし、18きっぷを利用して能登の震災ボランティアにも行ってきました←まあその話は明日(7/28)以降なのですが。

 1)横浜→名古屋→岐阜
 そもそも金沢に行くまでに二日はかかる。ものすごく無理すれば18きっぷ(富山〜金沢は私鉄)でも一日で金沢まで辿り着けるけど、15時間くらいノンストップで電車に乗り続け、翌朝6時半に集合のボランティアに参加できる自信がない。旅行の初日は7時間くらい?かけて岐阜まで行くことで満足することにした。
 ※僕が首尾よく横浜→岐阜まで行った翌日、東海道線(新幹線のほうだった気もするが)はトラブルで大幅な遅延があったと聞く。余裕を持たせておくことも今回の旅程では重視した。
 名古屋は手前の金山で下車。味噌かつでお馴染み「矢場とん」の別形態「むかしの矢場とん」で遅めの昼食。串かつと味噌おでんを主軸にしたお店らしい。土手煮丼(小)に豚汁・ソースと味噌の串かつ一本ずつと、冷やし茹で玉子の味噌おでんで1200円くらい。小さめの丼ものに同じくらいの大きさの汁物・後は小物をという食べかた、台湾で魯肉飯と具の充実したスープ・青菜などで組み立てる食事と似たパターンで、もう「わらじトンかつ・ダブルでドーン!あっ土手煮も」みたいな暴食のできる齢でもないのでありがたい。ありがたいけど、次があったらガッツ麺かな。
 左:むかしの矢場とんでの食事。詳細は地の文のとおり。右:名駅名物のナナちゃん人形。
名古屋にはナナちゃん人形に挨拶するためだけに下車。今回はシンプルなノースリーブの紺のワンピでした。このお召し物、前にも見たかも…と思ったら2019年3月にも見たわ。擬人化イラストも描いてたわ(笑)
 左:2019年のナナちゃん人形。右:名古屋コミティアの「売り子外出中」ノートに描いた、金髪オールバック・擬人化したナナさん。
考えてみたら、あの巨体に合う衣裳、用意だって大変なわけで、再使用もむべなるかなと。
 
 三月に続いて(3月の日記参照)初日は二度目の岐阜泊。駅の西北に広がる問屋街が面白かった。昭和感のあるコンクリビルの壁一面に水色のペンキで青空が描かれている。非現実的な日差しの強さも相まって、なんだか別の国に来たみたい。
 左:問屋街の全面。中:青空をペイントされた壁面。右:内側のアーケード通り。
 日曜日の問屋街なので店の大半はシャッターを下ろしていたが(その中にカンボジア食材店なんてものがあった。ぜひとも覗いてみたかった)逆になぜ開いてる?そもそもなんでこんな処に?という古本屋があって、義務感と冷やかし半々くらいで入ってみたら、文庫の並び一つ取ってもこだわりの見える選書と配架。んーやっぱり面白いのかも知れん、岐阜。
 左:伸びた木の枝の下にたたずむ鹿のペンキ絵。中:カンボジア・マーケット(シャッターは降りている)。右:並んだシャッターの一枚だけ上にあげて営業中の岡本書店。
 ケルアックやアポリネールの文庫が並んだ棚から、この本屋が勧めるのならと前々から気にかけてはいたジーグムント・フロイトモーセと一神教』の古本を。こちらは開いてたベトナム食材店でココナツミルクの粉末と、タマリンドジュースの缶を購入。
 しかし流石は問屋街、軽い夕食を調達と思ったら宿の近くにコンビニが見つからない。炎暑の中、しばらく彷徨って一般客もOKなプロ向け食材店へ。何もかもサイズが大きいガリバー旅行記みたいな店内で、どうにかトマトと絹豆腐(正油なし)・冷凍ドーナツふたつを手に入れ、これが岐阜での夕食に。
 写真二枚。左からココナツミルクの粉末・タマリンドジュースの缶・フロイト『モーセと一神教』の古本・ミニサイズの充填絹豆腐・トマト・冷凍ドーナツ(グレーズがけクルーラーとチョコファッション)

2)岐阜→金沢
 翌朝5時に宿を出て、5:30発の高山本線で富山に向かう。5:30発か6:30発(こちらは富山の少し前の山中の何もない中継駅で3時間待ち)その次の電車は11:45発で富山到着は19時。どうしてこんな不規則なダイヤ、という謎は乗ってみて解けた。高校生が乗ってくるのだ。早い子は始発の岐阜駅から、山の間を走る電車に何時間も揺られて8:00ごろ到着の飛騨高原・もう少し後の飛騨古田と行った駅で次々と下車していく。
 地元の高校生には見慣れた景色かも知れないけれど+たいした写真は残せませんでしたが、山また山・時に川や山をくり抜いた自動車道と並行して走る眺めはなるほど面白い。温泉で名高い下呂の少し先に上呂という駅があって、なるほどと思う。一面に靄をたゆたせている青灰色の水面を過ぎると焼石という駅に停車し、これが本当の(以下略)…
 高山で1時間ほど待ち合わせ。また驚いたことには、ここで何組もの外国人観光客が乗りこんでくる。まあ都会でナイキやディオールのショップを見たり、ユニバーサルスタジオに行くよりは(そっちも行ったかもですが)運賃だけで翠と碧の山中で数時間ライドを選ぶのも遊びかたを心得た人たちかも知れなかった。
 高山本線からの眺め。運転席から見える線路の先。山と緑を背景に、高架道路が走る風景。山と電車の間に、並行して川が走る風景。
 岐阜から富山まで6時間半は18きっぷ・富山から金沢までの1時間を私鉄で1300円くらい。13時半ごろ金沢に着いて、少しだけ街を散策。まあ暑い。暑いけど金沢の街は風の通りがよくて体感かなり楽。
 左:気温32.3℃を示す掲示板。右:「研修があるから未経験でも安心」「週1日もOK 一緒に働こう!」と手に手にフライパンやワインを持って微笑む女性店員さんのイラスト。
前回(1月)に見かけて気になっていたイタリア料理店で後輩(新入店員)を募る美人さんたちにも再会、今回はしっかり写真に残す(笑)。ほら、したいことを躊躇しない旅行ですから。

 宿はすごく久しぶりにドミトリーを利用しました。ネットの口コミで、震災ボラに行った人が使ってて満足だったと書いていたので。自分も心地よく利用できたと思います。そのあたりも含め、詳細は次回に。

とても政治的〜推し活について(24.7.20)

 「地元愛が満載の○○県観光ガイドブック」みたいな広告の文言を見て、脳内で「地元愛」に「じもあい」とルビィ、もといルビを振ってしまう程度には『ラブライブ!サンシャイン』のファンなのであった。
 
 二期のTVアニメ+劇場版完結編の後もグループで、あるいは数人ずつのユニットで活動を続け、舞台を異世界に移したスピンオフなども制作・舞台となった静岡県沼津市は「聖地」の成功例のひとつにも挙げられる(※上記のガイドブックは関係のない他県)。その作中に登場するアイドルグループで、演じる声優さんたちが実際にステージ上で歌い踊る9人組「Aquours」が結成9周年をもってグループ一体となってのライブに区切りをつけるというニュースが届いたのが先月だったか。ネット上には悲嘆にくれながら最後まで前向きにメンバーに感謝し応援しよう・いやこれで全て終わったわけではないと健気に励ましあうファンたちの声が溢れた。
 聖地巡礼まではしてないけど、旅行中に沼津駅で乗り換えのときタイアップの「のっぽパン」くらいは買いましたよ…というキャプションと、Aqoursの9人(劇場版の服装)をあしらったティラミス味の「のっぽパン」と、タイアップではない桔梗信玄餅味の「のっぽパン」
 9人組のAqoursにも、数人単位のユニット・あるいはソロ曲・ライバルになる函館のグループ・そのライバルとAqoursの合同ユニットにも好きな曲・ハマった曲が沢山あるのだけど、個人的に好きというより驚いたのは
Aquors - 聖なる日の祈り(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
歌詞はシリーズ全体の歌詞の多くを手がける畑亜貴氏。模範的なクリスマス・ソングの曲調に乗せた「みんなそれぞれの夢に向けて頑張ってるんだから、今はすれ違ってもいい」「今は互いに分かりあえなくてもいい」という言い切りがすごくてビックリした。(最終的には和解できたことを暗示してもいるようだけど、それは各々聴いて判断していただくとして)
 9人が三人ずつに分かれてのユニット曲
AZALEA - LONELY TUNING(YouTube/外部リンク) も驚いた曲(歌詞)のひとつ。私たちがラジオの電波に乗せて、大切なあなたに贈りますという体裁の、そのメッセージがどう聴いても「いま仕事で苦しい人は、どうか無理せずに休んで」という内容だったからだ。やはり作詞は畑亜貴氏。秋元康(呼び捨て)はAKBグループや坂道グループに、こんな歌詞を書いたことがあるのだろうか。いや奴は商売上手だから、あるかも知れないけど(笑。本当にキライなんだな…)。
 さらに昔、ラブライブ!とは似て非なる「ラブプラス」という恋愛シミュレーションゲーム(?)があって。高校生の女の子という設定の同級生・先輩・後輩だれか一人を選んで、デートしたり会話を楽しんだりというゲームらしい(未プレイにつき詳細は知らない)のだけど、それぞれの女の子に「どうしても辛いときに選ぶ(ボタンを押すとかする)と再生されるメッセージ」が用意されていた、という話があった。詳細は知らないが、たぶん絶望しての自棄的な行動を止める呼びかけだったのだろう。
 たかがコンテンツと見下す部外者には分からないかも知れない。けれど物語やコンテンツ・あるいはアイドルや「推し」といった存在には、たとえば疲れ切った人間を人生に踏みとどまらせるだけの力があるし、その力を(押しつけがましくない程度のレアさで)正しく使おうとする志が制作者側にもある(ことがある)ことを、弁護側の証人として申し述べておきたいとは思う―アイドル商法や課金など「萌え」や「推し」の商品化・末端の労働者(キャストやアニメーターとか)の待遇などなど、おそらく問われるべき多くの問題があるにしてもだ

      *     *     *
 弁護側の証言が終わったところで「異議あり」でもないのだけど、そして二次元の架空キャラの話でもないのだけれど、コンテンツ産業・最近は流行り言葉にもなっている(=ビジネスチャンスがあると思われている(あーやだやだ))「推し活」全般の話として、逆にモヤモヤした話をさせてほしい。
 二次元でも架空キャラでもない、実在する人たちによる実在のバンドの話なのだけど、僕は名前を聞いたことがあるかな…?程度にしか覚束ないグループの、メンバーの一人が同性のお相手とパートナー宣誓をした旨をX(SNS)で発表して、たちまち数千単位の「お祝い」のレスポンスがついた。それはいい。あからさまなアンチのコメントは(最初の50件くらいしか見てないけど)見逃すくらいにしか見当たらない(それも「どうでもいい、音楽にしか興味ない」といった、わざわざ言ってる時点で「どうでもよくはない」のだろう遠回しなイヤミくらいだった)のは、まあ悪くはないことなのだろう。けれど同時に
「いつかは結婚もしたいです」
という一行に対して「お二人が結婚できるよう応援します・願っていますと応えるレスポンスもまた、最初の50件かそれ以上を見て1件くらいしかなかった、そのことに強い違和感も禁じえなかった。
 「お祝い」のほとんどは「おめでとうございます」「お幸せに」といったもので、
 また誰かが言ったことのコピペなのか、判で押したように「こんな発表が堂々とできるようになったこと、良い時代になったと思います」「なった」じゃなくて「した」・あるいは今まさにこの当事者が道を切り開くように「しようとしてる」んじゃないの。そもそもまだ「結婚したい」という願いは叶っていないし応援しますと表明する人が50人に一人しかいない、それを「良い時代になった」と自賛しちゃっていいの?
 祝福のつもりなのか「愛のかたちは人それぞれ(祝福します)」というコメントも複数多数あって、気の利いたこと言ったつもりかも知れないけど、結婚してる異性愛カップルには認められる権利が「当然のように認められてない」現状を「かたちは人それぞれ」って言っちゃっていいの?
 そして当のミュージシャンが(これもクリシェなのだろうけど)「これからは幸せは二倍・つらいことは二人で半分こして(頑張っていきたい)」と書いているのに「素敵」と感激してみせて、権利の不均衡・不平等・不公平には何も言わない人たち、感動という幸せだけ(祝福という体裁で)分け前を自分のものにして「つらいことは分かち持とうとしてないの、自覚してます?
 当の当事者のかたは、もっと心が寛いかも知れないけど(なにせ僕は猫の額のように心が狭い)数千件の祝福は、それは嬉しいとしても、ふっと醒めた時すごく悲しい・もしかしたら憤ろしい気持ちになるかも知れない。そんな想像力も「ファン」は持たなくていいの?お客様は神様かも知れないけど、コンテンツを売るほうは(も)人間だって、知ってる?
 
 こういうことを言うと「政治的であることを押しつけられた」と、あるいは「結婚できるように・制度が変わるよう応援します」といった発言を見ると「政治的だ」「音楽に(推し活に?)政治を持ちこむのは良くない」と思うかも知れない。
 違うよ?
 当事者の「結婚したい」という願いを公然と無視することも、明白に政治的なんだよ。「素敵。愛の形はそれぞれ。感激しました。でも異性愛者と同じように結婚したいというあなたの望みには関知しません。カミングアウトできるだけでも良い時代になったと感謝すべきです」というメッセージは間違えようもなく政治的で、とくに数千人が異口同音にそう言うのは、とても、とても政治的なんですよ。
 あなたたちは政治的だ。とくに大多数の「ファン」という集団を成したとき、あなたたちは避けがたく音楽に政治を持ちこんでいる。
 祝福もするなと言うんですか、ではない。それが本当に祝福か考えるべきではないのか、という話をしている。あるいは考えるまでもなく「感じる」ことも出来ないのかと。
 間違いなくオタクのはしくれであり、オタク的なものに何度も人生を救われ・支えられてきた一方で。無邪気に「推し活」を体現する人たちの、こうした「政治性」を、僕は時どき耐えがたいと思う。もちろん、オタクに限った話ではない。

 別に傷心旅行じゃないけれど、明日から少し留守にします。御静聴ありがとう。

      *     *     *
(24.07.22追記)旅先でネットに接続できたので。先日の日記について(二人称の詰問になってしまったけど「あの人たちはこうなのだ」と突き放して書いたほうが文章としては良かったのかも知れない・自分もまだまだ修行が足りない)現行の制度は、たとえ社会的に構成された人為的なものでも「自然」だと認識されがちなので、異議申し立てだけが「政治的」と思われ、既定路線を良しとする意志表明の政治性は透明化されてしまうのかも…なんてことをアイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』(岩波現代文庫)を読みながら考えたりしています。旅行=読書(笑)。
 人前で堂々と広げて読むには少し恥ずかしい『正義への責任』の文字が大書された書影と、連なるビルの一面にペンキで青空が描かれた某所(旅先)の写真。
関係ないけどバイデンの撤退は四年ほど遅すぎた。当初から「つなぎ」として次代育成に徹すべきだったと僕は思ってます(それがすごく難かったのも分かってはいるけど←詰問調を和らげている)

人間はつらいよ〜ブランドン・クローネンバーグ『インフィニティ・プール』(24.07.14)

きっと何者にもなれないお前たちに告げる(幾原邦彦『輪るピングドラム』)

      *     *     *
 someoneという英語がある。somebodyのほうが、より口語っぽい表現らしい。中学校の英語の授業では「誰か」と習う。「誰でも」または否定構文で「誰も(いない)」はanybody。「誰もいない」「誰でもない」はnobody。
 私にはsomebody(誰か)が必要です、anybody(誰でも)じゃなくて、someboy to love(私が愛したいと願える特定の誰か)が必要なんです、などと言う。
 逆に誰でもよい場合はDoes anybody have any questions?(誰か質問はありませんか、どんな質問でもいんですよ)となる。
 問題はsomeone・somebodyには「成功した、ひとかどの人物」という意味もあることだ。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」でジョン・レノンが「今日びsomeoneになるのも楽じゃない(でも、どうにかなるんじゃないの、どのみち僕には関係ないよ)」と歌ったsomeoneは、どちらの意味だろう―かれ自身は成功者になって、でも40歳で射殺されてしまったわけだが。
 あるいは五年後に滅びてしまう世界で立ち尽くしたデヴィッド・ボウイが「すべての太った人たち、やせた人たち、すべての背の高い人たち、低い人たち、すべてのnobodyな人たち、すべてのsomebodyな人たち」と歌ったのは、どちらだろう。そして「僕は自分にこんなに沢山の人々が必要だなんて考えたことはなかった(I'd never thought that I need so many people)」と続く歌詞は「こんなに沢山の人なんて要らないよ」という意味なのか、それとも「と思っていたけれど、そんなことはなかった(みんな愛すべき人たちだ)」どちらの意味に取れば良いのだろう。
David Bowie - Five Years(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
 いずれにしても。「誰かである」ためには「成功者」でなければならないとは、ずいぶん残酷な話だ。
 man(人間)という英単語が、同時に「男性」を指す(しか指さない)のも「人間」の酷薄さを物語っている。そして世の中では―少なくとも日本では、成功した人間(男性)を、成功して初めて「男になった」などと言う。やってらんないな、と思う。
 吉野朔実氏の短篇の主人公は小学校の授業参観で「しょうらいのゆめ」を訊かれて目立たない人になりたいですと答え、大いに目立ってしまう(『いたいけな瞳』所収「犬」)。どっと周囲が笑う中、その気持ち分かるぜとページのこちら側の僕は思っていた。誰でもない、ただの人間でいい。でも世の中(の、声が大きな連中のあいだ)では、成功者(someone)でないnobodyは、人間(man)ですらないらしい。たまんないな、もう。

      *     *     *
 ブランドン・クローネンバーグ監督の三作目インフィニティ・プール(シネマ・ジャックアンドベティ/24.7.12まで/外部リンクが開きます)終映ギリギリに地元の映画館で観てきました。
 惹句に(ジャックだけに惹句)唯一無二のクローネンバーグワールドへようこそ!とあるのが、ちょっとおかしい。唯一無二ってクローネンバーグさん、息子のブランドンと父親のデヴィッド・クローネンバーグ、二人いるんですけど。なんだか転送ポッドの事故で一体に融合してしまった父子が、気持ち悪い粘液を垂らしながら呻いている姿が目に浮かんでしまう←クローネンバーグ印と言えば、こんな作風なので、たしかに唯一無二感がえぐい…
 キャプション「今週のまとめ(じゃないけど教訓):洋画のR18指定に濃厚な官能描写を期待してはいけません。体感8割〜9割は、わざわざ見せるほどでもない(逆に隠すのが面倒だっただけかもレベルの)おっさんの全裸です」に、うぐ…と戻しそうになってる「ひつじちゃん」(羊帽をかぶった女の子)のイラストを添えて。
(いや8割9割は盛りすぎかも知れんが)
 …今回の新作を観て、少し考えが変わった。おとんと息子、気持ち悪い(褒め言葉)作風は似ているけれど、無二ではない。
 薬剤の副作用で生まれた超能力者が念力で人の頭を爆発させる『スキャナーズ』。映像に脳も身体も乗っ取られた男が、自分の右手と融合した拳銃で自らの頭を吹き飛ばす『ヴィデオドローム』。自動車事故のスピード感が忘れられず、自傷的な暴走行為を繰り返す『クラッシュ』。おとん=デヴィッド・クローネンバーグの作風はハイテク・バイテク(バイオテクノロジー)との融合で、人間が人間でなくなってしまう惨劇を、しかしどこか祝福のように描いてきた。転送ポッドの事故で蝿と一体化した主人公が恐怖ハエ人間と化す『ザ・フライ』でさえ、これはこれでハッピーエンドなのだと監督自身は語っていたという。ハイテク・ホラーから離れて非SF的なサスペンスに徹した『ヒストリー・オブ・バイオレンス』や『イースタン・プロミス』ですら、ギャング世界を生きる主人公は専ら酷薄な暴力で人間を超えたモンスターと化す(それは「人非人」「人でなし」と言うのではないか)。最新作の『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』まで、おとんデヴィッドの作品には「人間を超えたい・そのためなら怪物になってもいい・むしろ怪物になって早く人間をやめたい」という切望がみなぎっている。
 キャプション「こうして一段落で一気呵成に書くといかにも「夢中になったオタク特有の早口」という感じで好い…」に、苦笑している「ひつじちゃん」の挿し絵。
 息子ブランドンが描こうとするものは、似ているようで異なる。
 バイテクで本来はない無用な臓器を体内に培養し(無用なので)切除する、その手術の実況をパフォーマンスとして「展示」するアーティストを描いた(なんでそんな話を考えつけるんだか)父の『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』に対して、息子ブランドンの長篇デビュー作『アンチヴァイラル』はスターやセレブと同じ病気にかかりたいというファンの願望を叶えるため・いわば究極の「ファンサ」としてセレブの罹患した病原体や腫瘍の膿を盗み取り、自分をシャーレにして培養するエージェント(下働き)を描いていた(なんでそんな話を考えつけるんだか)。時期的には『アンチヴァイラル』が先だったので、ひょっとして父、息子の作品にインスパイアされて最新作を構想したのかなと思ったりしたのだが、ともあれ。
 同様にバイテクを駆使したグロテスクでも、父デヴィッドの主人公が身体的にも倫理的にも人間を積極的にやめていくのに対し、息子ブランドンの世界では高度なテクノロジーも人間性の放棄も俗な世間の欲望に利用され、その掃きだめとして主人公は蹂躙されるのだ。
 他人の人格を乗っ取り、ターゲットを仕留めた後は自ら(乗っ取った他人の)命を絶って事件を迷宮入りにする究極の暗殺者を描いた第二作『ポゼッサー』も同様だ。主人公はターゲットを決める上部組織の勝手な意向と・自身の家庭の不和で二重に拘束され、ただ肉体だけが無理やり怪物化させらる苦痛にのたうち回る。
 …あくまで一面的な見かただ。物語には様々な側面と楽しみかたがり、一人の観客(僕)の中ですら、解釈はひとつではない。けれど今回は、この一面的な側面に徹して言う。『インフィニティ・プール』もまた、よく出来た階級差ホラーだった。

 主人公は6年前に商業デビューして以来、鳴かず飛ばずの売れない小説家。スランプ解消のヒントになるかと、裕福な妻とともに訪れたのは、セレブが集う一方、観光客を嫌う地元民からは厳重に隔離された海辺のリゾート地で…という初期設定。アメリカの裕福な観光客が、中欧の秘境ツアーで返り討ちに遭うイーライ・ロス監督の『ホステル』(21年4月の日記参照)を連想させながら、野生の狼は怖いぞ的な赤頭巾ホラーではなく、本当に怖いのはリゾートで主人公を歓待するセレブたちのほうでした、な青髯タイプだったことが、次第に明らかになる。
 詳細は省く。その詳細こそが本作のハイテク・バイテク・ホラー的な意味でのキモ(キモさ)なのだけど、今回の日記(週記)は一面的なので端折ります。鯨飲暴食に興じては、さらに食べるためわざと吐く古代ローマの退廃的な貴族のように、自分の身体を甦らせては死と暴力の戯れに興じるセレブたちとだけ言っておきましょうか。だが、彼ら彼女らにとって最大のごちそうは、父デヴィッドが描いたような人間の超克ではなく、そんな歓楽の輪に入れない負け犬を(入れるかのように見せかけて)招き入れ、徹底的にいたぶる、きわめて世俗的な階級差ゲームなのだった。
 さすがにコレはネタバレなので伏せるけど、最後に待ち受けていた究極の仕打ちが たたみます。(クリックで開閉します) 精神攻撃で、やー、創作してるひとが、とくに原稿が佳境のひとが観るにはピッタリ…もとい、きわめてつらい。ぜひ観てほしい(笑)
 いや、作家志望者だけじゃない。セレブや勝ち組に憧れて、インフルエンサーの動画に自己を同一化して、自分まで成功者=someoneになったつもりの「経営者目線」の人たちも、観れば少しは身につまされるのではないか。セレブや勝ち組が、セレブや勝ち組であるのは、食い物にする負け犬がいるからで、食い物にするために(いたぶるうえでも)最も効果的な罠は「あなたも私たちの仲間よ」と特権サークルに招き入れ、残酷なゲームに参加させることなのだ。放り出すために。いや、拘束したまま、いたぶり尽くすために。
 これは映画ではなく、現実社会の話でもある。だからね、やめなさいよ、「ヒーローになりたければ俺についてこい」と唆す連中についていくのは。

 こうして見ると、改めて父クローネンバーグは(息子ブランドンが悪意たっぷりに描く)世俗の欲望に最初から興味がないように思われる。そのことが父の作品をグロテスクだが美しい理想譚として僕を(恐怖とともに)惹きつける一方、現世の人間の醜さを暴きたてる息子の仕草からも目が離せない。
 決して何者(someone)になれなかった『インフィニティ・プール』の主人公は最後の最後、人間を超えるのではなく、負け犬として、人間(man)であることすら諦めたnobodyとなることで、ようやく安住の地を得たかのようにも見える。それが物理的には荒れ狂う嵐でしかないのも、監督の突き放した世界観のあらわれだろう。(社会的に)人間であることは、かくもつらい。

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