まんがなど
(24.07.17更新)
『リトル・キックス e.p.』を追加。



発行物ご案内
(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
電書化、始めました。
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こちらから
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過去日記一覧(随時リカバリ中)

過去日記キーワード検索
終了しました(22.11.19)
Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

小ネタですが本篇更新。三年ぶり。(23.12.24)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

愛と劣情の馬たち(Instagram)

if you have a vote, use it.(save kids)

(24.07.20)メイン日記(週記)更新。ちょっと、かなり苦言。「推し活」は人を救うすごい力も持ってるけど、その力が無自覚に、目も当てられない形で振るわれることもある。無自覚に。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、またはこちらから。

※既定路線に与することの政治性は透明化されがちという7/22の追記を組み入れました。

(24.07.26/すぐ消す/膨らますかも)前回のメイン日記の追記(7/22)に「バイデンの撤退は遅すぎた・そもそも最初から四年間を次世代づくりの根回しに使うべきだった」という主旨のことを書いて、その気持ちは変わってないのだけれど、レベッカ・ソルニットならバイデンはしてなくても、選挙で「選ぶ側」は次に向けた根回しを自発的に進めてたんだよ、それが今ほら顕在化してるよと言うかも知れない…さっそくビヨンセとテイラー・スウィフトが連名でカマラ・ハリス支援に名乗りを上げたというニュースを読んで、そんな風にも考え直しているところ。たしかに「何を突然」じゃないものね二人とも。
暗闇のなかの希望』(ちくま文庫)を読み進め中。まだ旅先。
 レベッカ・ソルニット『暗闇の中の希望』書影と、30円引きのおにぎり写真
この旅行中、名古屋と金沢それぞれの駅前でFREE GAZAのスタンティングに行きあった。時間がなくて(あと暑すぎ)飛び入り参加は出来なかったけど、改めて敬意を表したく。
【電書新作】スポーツ漫画を描いてみませんか?と遠い昔に誘われたことがあって、ハハハ無理ですと丁重にお断りしたけれど「20年後なら描けるかも」と答えていれば良かったか。人は変わるし世界も変わる。『リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、こちらから(外部リンクが開きます)
電書へのリンク

サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、こちらから
サイト内ページへのリンク

(24.07.17/しばらく存置)署名国保料が高すぎる!国の責任で払える保険料にしてください!(中央社保協/Change.org/外部リンクが開きます)誰にも切実な内容だし発起人もキチンとした団体(中央社会保障推進協議会ホームページ←外部リンク)なので、国保ヤバいなと思ってる人は検討を。できれば署名+拡散あたりまで。
扉絵だけじゃないです。side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、こちらから。『読書子に寄す pt.1』電書販売ページへのリンク画像
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)

とても政治的〜推し活について(24.7.20)

 「地元愛が満載の○○県観光ガイドブック」みたいな広告の文言を見て、脳内で「地元愛」に「じもあい」とルビィ、もといルビを振ってしまう程度には『ラブライブ!サンシャイン』のファンなのであった。
 
 二期のTVアニメ+劇場版完結編の後もグループで、あるいは数人ずつのユニットで活動を続け、舞台を異世界に移したスピンオフなども制作・舞台となった静岡県沼津市は「聖地」の成功例のひとつにも挙げられる(※上記のガイドブックは関係のない他県)。その作中に登場するアイドルグループで、演じる声優さんたちが実際にステージ上で歌い踊る9人組「Aquours」が結成9周年をもってグループ一体となってのライブに区切りをつけるというニュースが届いたのが先月だったか。ネット上には悲嘆にくれながら最後まで前向きにメンバーに感謝し応援しよう・いやこれで全て終わったわけではないと健気に励ましあうファンたちの声が溢れた。
 聖地巡礼まではしてないけど、旅行中に沼津駅で乗り換えのときタイアップの「のっぽパン」くらいは買いましたよ…というキャプションと、Aqoursの9人(劇場版の服装)をあしらったティラミス味の「のっぽパン」と、タイアップではない桔梗信玄餅味の「のっぽパン」
 9人組のAqoursにも、数人単位のユニット・あるいはソロ曲・ライバルになる函館のグループ・そのライバルとAqoursの合同ユニットにも好きな曲・ハマった曲が沢山あるのだけど、個人的に好きというより驚いたのは
Aquors - 聖なる日の祈り(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
歌詞はシリーズ全体の歌詞の多くを手がける畑亜貴氏。模範的なクリスマス・ソングの曲調に乗せた「みんなそれぞれの夢に向けて頑張ってるんだから、今はすれ違ってもいい」「今は互いに分かりあえなくてもいい」という言い切りがすごくてビックリした。(最終的には和解できたことを暗示してもいるようだけど、それは各々聴いて判断していただくとして)
 9人が三人ずつに分かれてのユニット曲
AZALEA - LONELY TUNING(YouTube/外部リンク) も驚いた曲(歌詞)のひとつ。私たちがラジオの電波に乗せて、大切なあなたに贈りますという体裁の、そのメッセージがどう聴いても「いま仕事で苦しい人は、どうか無理せずに休んで」という内容だったからだ。やはり作詞は畑亜貴氏。秋元康(呼び捨て)はAKBグループや坂道グループに、こんな歌詞を書いたことがあるのだろうか。いや奴は商売上手だから、あるかも知れないけど(笑。本当にキライなんだな…)。
 さらに昔、ラブライブ!とは似て非なる「ラブプラス」という恋愛シミュレーションゲーム(?)があって。高校生の女の子という設定の同級生・先輩・後輩だれか一人を選んで、デートしたり会話を楽しんだりというゲームらしい(未プレイにつき詳細は知らない)のだけど、それぞれの女の子に「どうしても辛いときに選ぶ(ボタンを押すとかする)と再生されるメッセージ」が用意されていた、という話があった。詳細は知らないが、たぶん絶望しての自棄的な行動を止める呼びかけだったのだろう。
 たかがコンテンツと見下す部外者には分からないかも知れない。けれど物語やコンテンツ・あるいはアイドルや「推し」といった存在には、たとえば疲れ切った人間を人生に踏みとどまらせるだけの力があるし、その力を(押しつけがましくない程度のレアさで)正しく使おうとする志が制作者側にもある(ことがある)ことを、弁護側の証人として申し述べておきたいとは思う―アイドル商法や課金など「萌え」や「推し」の商品化・末端の労働者(キャストやアニメーターとか)の待遇などなど、おそらく問われるべき多くの問題があるにしてもだ

      *     *     *
 弁護側の証言が終わったところで「異議あり」でもないのだけど、そして二次元の架空キャラの話でもないのだけれど、コンテンツ産業・最近は流行り言葉にもなっている(=ビジネスチャンスがあると思われている(あーやだやだ))「推し活」全般の話として、逆にモヤモヤした話をさせてほしい。
 二次元でも架空キャラでもない、実在する人たちによる実在のバンドの話なのだけど、僕は名前を聞いたことがあるかな…?程度にしか覚束ないグループの、メンバーの一人が同性のお相手とパートナー宣誓をした旨をX(SNS)で発表して、たちまち数千単位の「お祝い」のレスポンスがついた。それはいい。あからさまなアンチのコメントは(最初の50件くらいしか見てないけど)見逃すくらいにしか見当たらない(それも「どうでもいい、音楽にしか興味ない」といった、わざわざ言ってる時点で「どうでもよくはない」のだろう遠回しなイヤミくらいだった)のは、まあ悪くはないことなのだろう。けれど同時に
「いつかは結婚もしたいです」
という一行に対して「お二人が結婚できるよう応援します・願っていますと応えるレスポンスもまた、最初の50件かそれ以上を見て1件くらいしかなかった、そのことに強い違和感も禁じえなかった。
 「お祝い」のほとんどは「おめでとうございます」「お幸せに」といったもので、
 また誰かが言ったことのコピペなのか、判で押したように「こんな発表が堂々とできるようになったこと、良い時代になったと思います」「なった」じゃなくて「した」・あるいは今まさにこの当事者が道を切り開くように「しようとしてる」んじゃないの。そもそもまだ「結婚したい」という願いは叶っていないし応援しますと表明する人が50人に一人しかいない、それを「良い時代になった」と自賛しちゃっていいの?
 祝福のつもりなのか「愛のかたちは人それぞれ(祝福します)」というコメントも複数多数あって、気の利いたこと言ったつもりかも知れないけど、結婚してる異性愛カップルには認められる権利が「当然のように認められてない」現状を「かたちは人それぞれ」って言っちゃっていいの?
 そして当のミュージシャンが(これもクリシェなのだろうけど)「これからは幸せは二倍・つらいことは二人で半分こして(頑張っていきたい)」と書いているのに「素敵」と感激してみせて、権利の不均衡・不平等・不公平には何も言わない人たち、感動という幸せだけ(祝福という体裁で)分け前を自分のものにして「つらいことは分かち持とうとしてないの、自覚してます?
 当の当事者のかたは、もっと心が寛いかも知れないけど(なにせ僕は猫の額のように心が狭い)数千件の祝福は、それは嬉しいとしても、ふっと醒めた時すごく悲しい・もしかしたら憤ろしい気持ちになるかも知れない。そんな想像力も「ファン」は持たなくていいの?お客様は神様かも知れないけど、コンテンツを売るほうは(も)人間だって、知ってる?
 
 こういうことを言うと「政治的であることを押しつけられた」と、あるいは「結婚できるように・制度が変わるよう応援します」といった発言を見ると「政治的だ」「音楽に(推し活に?)政治を持ちこむのは良くない」と思うかも知れない。
 違うよ?
 当事者の「結婚したい」という願いを公然と無視することも、明白に政治的なんだよ。「素敵。愛の形はそれぞれ。感激しました。でも異性愛者と同じように結婚したいというあなたの望みには関知しません。カミングアウトできるだけでも良い時代になったと感謝すべきです」というメッセージは間違えようもなく政治的で、とくに数千人が異口同音にそう言うのは、とても、とても政治的なんですよ。
 あなたたちは政治的だ。とくに大多数の「ファン」という集団を成したとき、あなたたちは避けがたく音楽に政治を持ちこんでいる。
 祝福もするなと言うんですか、ではない。それが本当に祝福か考えるべきではないのか、という話をしている。あるいは考えるまでもなく「感じる」ことも出来ないのかと。
 間違いなくオタクのはしくれであり、オタク的なものに何度も人生を救われ・支えられてきた一方で。無邪気に「推し活」を体現する人たちの、こうした「政治性」を、僕は時どき耐えがたいと思う。もちろん、オタクに限った話ではない。

 別に傷心旅行じゃないけれど、明日から少し留守にします。御静聴ありがとう。

 
(24.07.22追記)旅先でネットに接続できたので。先日の日記について(二人称の詰問になってしまったけど「あの人たちはこうなのだ」と突き放して書いたほうが文章としては良かったのかも知れない・自分もまだまだ修行が足りない)現行の制度は、たとえ社会的に構成された人為的なものでも「自然」だと認識されがちなので、異議申し立てだけが「政治的」と思われ、既定路線を良しとする意志表明の政治性は透明化されてしまうのかも…なんてことをアイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』(岩波現代文庫)を読みながら考えたりしています。旅行=読書(笑)。
 人前で堂々と広げて読むには少し恥ずかしい『正義への責任』の文字が大書された書影と、連なるビルの一面にペンキで青空が描かれた某所(旅先)の写真。
関係ないけどバイデンの撤退は四年ほど遅すぎた。当初から「つなぎ」として次代育成に徹すべきだったと僕は思ってます(それがすごく難かったのも分かってはいるけど←詰問調を和らげている)

人間はつらいよ〜ブランドン・クローネンバーグ『インフィニティ・プール』(24.07.14)

きっと何者にもなれないお前たちに告げる(幾原邦彦『輪るピングドラム』)

      *     *     *
 someoneという英語がある。somebodyのほうが、より口語っぽい表現らしい。中学校の英語の授業では「誰か」と習う。「誰でも」または否定構文で「誰も(いない)」はanybody。「誰もいない」「誰でもない」はnobody。
 私にはsomebody(誰か)が必要です、anybody(誰でも)じゃなくて、someboy to love(私が愛したいと願える特定の誰か)が必要なんです、などと言う。
 逆に誰でもよい場合はDoes anybody have any questions?(誰か質問はありませんか、どんな質問でもいんですよ)となる。
 問題はsomeone・somebodyには「成功した、ひとかどの人物」という意味もあることだ。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」でジョン・レノンが「今日びsomeoneになるのも楽じゃない(でも、どうにかなるんじゃないの、どのみち僕には関係ないよ)」と歌ったsomeoneは、どちらの意味だろう―かれ自身は成功者になって、でも40歳で射殺されてしまったわけだが。
 あるいは五年後に滅びてしまう世界で立ち尽くしたデヴィッド・ボウイが「すべての太った人たち、やせた人たち、すべての背の高い人たち、低い人たち、すべてのnobodyな人たち、すべてのsomebodyな人たち」と歌ったのは、どちらだろう。そして「僕は自分にこんなに沢山の人々が必要だなんて考えたことはなかった(I'd never thought that I need so many people)」と続く歌詞は「こんなに沢山の人なんて要らないよ」という意味なのか、それとも「と思っていたけれど、そんなことはなかった(みんな愛すべき人たちだ)」どちらの意味に取れば良いのだろう。
David Bowie - Five Years(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
 いずれにしても。「誰かである」ためには「成功者」でなければならないとは、ずいぶん残酷な話だ。
 man(人間)という英単語が、同時に「男性」を指す(しか指さない)のも「人間」の酷薄さを物語っている。そして世の中では―少なくとも日本では、成功した人間(男性)を、成功して初めて「男になった」などと言う。やってらんないな、と思う。
 吉野朔実氏の短篇の主人公は小学校の授業参観で「しょうらいのゆめ」を訊かれて目立たない人になりたいですと答え、大いに目立ってしまう(『いたいけな瞳』所収「犬」)。どっと周囲が笑う中、その気持ち分かるぜとページのこちら側の僕は思っていた。誰でもない、ただの人間でいい。でも世の中(の、声が大きな連中のあいだ)では、成功者(someone)でないnobodyは、人間(man)ですらないらしい。たまんないな、もう。

      *     *     *
 ブランドン・クローネンバーグ監督の三作目インフィニティ・プール(シネマ・ジャックアンドベティ/24.7.12まで/外部リンクが開きます)終映ギリギリに地元の映画館で観てきました。
 惹句に(ジャックだけに惹句)唯一無二のクローネンバーグワールドへようこそ!とあるのが、ちょっとおかしい。唯一無二ってクローネンバーグさん、息子のブランドンと父親のデヴィッド・クローネンバーグ、二人いるんですけど。なんだか転送ポッドの事故で一体に融合してしまった父子が、気持ち悪い粘液を垂らしながら呻いている姿が目に浮かんでしまう←クローネンバーグ印と言えば、こんな作風なので、たしかに唯一無二感がえぐい…
 キャプション「今週のまとめ(じゃないけど教訓):洋画のR18指定に濃厚な官能描写を期待してはいけません。体感8割〜9割は、わざわざ見せるほどでもない(逆に隠すのが面倒だっただけかもレベルの)おっさんの全裸です」に、うぐ…と戻しそうになってる「ひつじちゃん」(羊帽をかぶった女の子)のイラストを添えて。
(いや8割9割は盛りすぎかも知れんが)
 …今回の新作を観て、少し考えが変わった。おとんと息子、気持ち悪い(褒め言葉)作風は似ているけれど、無二ではない。
 薬剤の副作用で生まれた超能力者が念力で人の頭を爆発させる『スキャナーズ』。映像に脳も身体も乗っ取られた男が、自分の右手と融合した拳銃で自らの頭を吹き飛ばす『ヴィデオドローム』。自動車事故のスピード感が忘れられず、自傷的な暴走行為を繰り返す『クラッシュ』。おとん=デヴィッド・クローネンバーグの作風はハイテク・バイテク(バイオテクノロジー)との融合で、人間が人間でなくなってしまう惨劇を、しかしどこか祝福のように描いてきた。転送ポッドの事故で蝿と一体化した主人公が恐怖ハエ人間と化す『ザ・フライ』でさえ、これはこれでハッピーエンドなのだと監督自身は語っていたという。ハイテク・ホラーから離れて非SF的なサスペンスに徹した『ヒストリー・オブ・バイオレンス』や『イースタン・プロミス』ですら、ギャング世界を生きる主人公は専ら酷薄な暴力で人間を超えたモンスターと化す(それは「人非人」「人でなし」と言うのではないか)。最新作の『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』まで、おとんデヴィッドの作品には「人間を超えたい・そのためなら怪物になってもいい・むしろ怪物になって早く人間をやめたい」という切望がみなぎっている。
 キャプション「こうして一段落で一気呵成に書くといかにも「夢中になったオタク特有の早口」という感じで好い…」に、苦笑している「ひつじちゃん」の挿し絵。
 息子ブランドンが描こうとするものは、似ているようで異なる。
 バイテクで本来はない無用な臓器を体内に培養し(無用なので)切除する、その手術の実況をパフォーマンスとして「展示」するアーティストを描いた(なんでそんな話を考えつけるんだか)父の『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』に対して、息子ブランドンの長篇デビュー作『アンチヴァイラル』はスターやセレブと同じ病気にかかりたいというファンの願望を叶えるため・いわば究極の「ファンサ」としてセレブの罹患した病原体や腫瘍の膿を盗み取り、自分をシャーレにして培養するエージェント(下働き)を描いていた(なんでそんな話を考えつけるんだか)。時期的には『アンチヴァイラル』が先だったので、ひょっとして父、息子の作品にインスパイアされて最新作を構想したのかなと思ったりしたのだが、ともあれ。
 同様にバイテクを駆使したグロテスクでも、父デヴィッドの主人公が身体的にも倫理的にも人間を積極的にやめていくのに対し、息子ブランドンの世界では高度なテクノロジーも人間性の放棄も俗な世間の欲望に利用され、その掃きだめとして主人公は蹂躙されるのだ。
 他人の人格を乗っ取り、ターゲットを仕留めた後は自ら(乗っ取った他人の)命を絶って事件を迷宮入りにする究極の暗殺者を描いた第二作『ポゼッサー』も同様だ。主人公はターゲットを決める上部組織の勝手な意向と・自身の家庭の不和で二重に拘束され、ただ肉体だけが無理やり怪物化させらる苦痛にのたうち回る。
 …あくまで一面的な見かただ。物語には様々な側面と楽しみかたがり、一人の観客(僕)の中ですら、解釈はひとつではない。けれど今回は、この一面的な側面に徹して言う。『インフィニティ・プール』もまた、よく出来た階級差ホラーだった。

 主人公は6年前に商業デビューして以来、鳴かず飛ばずの売れない小説家。スランプ解消のヒントになるかと、裕福な妻とともに訪れたのは、セレブが集う一方、観光客を嫌う地元民からは厳重に隔離された海辺のリゾート地で…という初期設定。アメリカの裕福な観光客が、中欧の秘境ツアーで返り討ちに遭うイーライ・ロス監督の『ホステル』(21年4月の日記参照)を連想させながら、野生の狼は怖いぞ的な赤頭巾ホラーではなく、本当に怖いのはリゾートで主人公を歓待するセレブたちのほうでした、な青髯タイプだったことが、次第に明らかになる。
 詳細は省く。その詳細こそが本作のハイテク・バイテク・ホラー的な意味でのキモ(キモさ)なのだけど、今回の日記(週記)は一面的なので端折ります。鯨飲暴食に興じては、さらに食べるためわざと吐く古代ローマの退廃的な貴族のように、自分の身体を甦らせては死と暴力の戯れに興じるセレブたちとだけ言っておきましょうか。だが、彼ら彼女らにとって最大のごちそうは、父デヴィッドが描いたような人間の超克ではなく、そんな歓楽の輪に入れない負け犬を(入れるかのように見せかけて)招き入れ、徹底的にいたぶる、きわめて世俗的な階級差ゲームなのだった。
 さすがにコレはネタバレなので伏せるけど、最後に待ち受けていた究極の仕打ちが たたみます。(クリックで開閉します) 精神攻撃で、やー、創作してるひとが、とくに原稿が佳境のひとが観るにはピッタリ…もとい、きわめてつらい。ぜひ観てほしい(笑)
 いや、作家志望者だけじゃない。セレブや勝ち組に憧れて、インフルエンサーの動画に自己を同一化して、自分まで成功者=someoneになったつもりの「経営者目線」の人たちも、観れば少しは身につまされるのではないか。セレブや勝ち組が、セレブや勝ち組であるのは、食い物にする負け犬がいるからで、食い物にするために(いたぶるうえでも)最も効果的な罠は「あなたも私たちの仲間よ」と特権サークルに招き入れ、残酷なゲームに参加させることなのだ。放り出すために。いや、拘束したまま、いたぶり尽くすために。
 これは映画ではなく、現実社会の話でもある。だからね、やめなさいよ、「ヒーローになりたければ俺についてこい」と唆す連中についていくのは。

 こうして見ると、改めて父クローネンバーグは(息子ブランドンが悪意たっぷりに描く)世俗の欲望に最初から興味がないように思われる。そのことが父の作品をグロテスクだが美しい理想譚として僕を(恐怖とともに)惹きつける一方、現世の人間の醜さを暴きたてる息子の仕草からも目が離せない。
 決して何者(someone)になれなかった『インフィニティ・プール』の主人公は最後の最後、人間を超えるのではなく、負け犬として、人間(man)であることすら諦めたnobodyとなることで、ようやく安住の地を得たかのようにも見える。それが物理的には荒れ狂う嵐でしかないのも、監督の突き放した世界観のあらわれだろう。(社会的に)人間であることは、かくもつらい。

小ネタ拾遺・24年6月(24.07.03)

(24.06.01)自分のほうが狭い表現しか知らないだけかも知れない。だけど、海辺のショッピングモールが打ち出したDRAW YOUR NEW BLUE.という広告文の、強烈な異物感。下に小さく日本語で「あなたの夏を、あなたの青で。」と添えられているから、そういうニュアンス受け取ってねって事なんだろうけど、なんかもう不自然。青く染める的なことを言いたいならDRAWじゃなくてPAINTじゃないのとか色々あるんだけど、どうやら一番はBLUEの扱いらしい。
いや、BLUE、名詞もあるようだけど、こういう文脈では形容詞と捉えられるんじゃないかなあ。日本語に置き換えると「あなたの青い色を描こう」を「あなたの青い描こう」と書いちゃった的な違和感。YOUR BLUE ○○(名詞)となるほうが自然だから、電車の中で広告を見るたび叫びたくなるのだ―「パンツ!!」と。
 「DRAW YOUR NEW BLUE…」とポーズを取った「とにかく明るい安村」さん(青いパンツを着用)に「PANTS!!!」と叫び声が加わってる挿し絵。久しぶりのイラストがコレか…というぼやき(キャプション)つき
こういう文脈でPAINTもあまり映える語感じゃないよねと思ったら、普通は名詞あつかいのCOLORを「〜色に染める」と動詞あつかいも出来るらしい→「あなたの夏を、あなたの新しい青色で染めよう」まで補って機械翻訳にかけると「COLOR YOUR SUMMER WITH YOUR NEW BLUE COLOR」となって、最初のカラーは動詞・最後のカラーは名詞なのを洒落てると取るか、COLORやYOURの反復がモタモタしてると取るかは微妙なところ。
あーやだやだ、ちょっと英語分かるよ的に鼻にかけやがってと思うかも知れませんが、別の海辺の、別のイベント広告の世界1500万人が度肝を抜いたにも1500万人「の」じゃないの?(または1500万人が度肝を「抜かれた」)とモニャってしまった自分がいる。このひと日本語でも煩いんです。

(24.06.02)鶴見駅前の「立喰そば ういーん」ついに力尽きてらした…あまりにレトロな外見なで自分も一度しか入ったことなかったけど、中はふつうに味な店。カレー蕎麦、おいしうございました。夕方には売り切れてる500円のカツカレー、食べそびれたなあ。
 中身がらんどうになった「うぃーん」と、在りし日のカレー蕎麦。
(07.03追記)二週間後、「うぃーん」だった痕跡は完全に消えていた。なんだかとっても他人事でなく、おさらば、おさらばよ…元々2階にあったらしい不動産屋が買い取った模様。
 「立ち喰いそば ういーん」と手書きっぽいレタリングで書かれていたファサードが「お部屋さがしは○○○○ショップ」の看板にすげ替えられている。

(24.06.04)先月の小ネタ日記で日本の同性カップルが海外で難民として認定されたことを書いたけれど、日本「から」の難民認定はこれが初めてではなかった由。Xの記事になるので閲覧できない人もいると思いますが、難民支援協会(JAR)のポスト(X/外部リンクが開きます)によれば2021年にもトランスジェンダーの当事者が日本での性別変更にまつわる諸々は迫害のレベルであるとして難民認定されたとのこと。カナダの難民認定の原文(外部リンク)は英語なので後で時間を作って読む←自メモ。6月はLGBTプライド月間。

(24.06.05)処刑台に上げられた王様がギロチンの下で「おいおい、革命の手数料は払ったのかい」と訊いてる図とか、崩れた橋桁を両腕で支えて人々を守るスーパーマンが「キミキミ、手数料も払わず無認可で人命救助かね」と詰問されてる図とかも考えたんですけどね。
 「名古屋入管 人権守れ」「FREE REFUGEES」「ウィシュマさんを忘れない」といったプラカを手に手にし、あぜんとしたり悔し涙を流したりしてる行列の前で「PAY 2500 YEN」と親指と人さし指を輪にしたハンドサインを差し出す手。「愛を知らない愛知県警」と札が下がっている。
祭りやデモ、道路使用に手数料 愛知県警、6月から2500円徴収(中日新聞/24.5.31/外部リンクが開きます)

(24.06.07)お、おう…こう言い切れちゃうのは確かに「天然」な気がするな…撮影地・東京。
 写真。瓦屋根を模した庇の上に「天然鯛焼」の看板
(24.07.03追記)わざわざ写真は上げないけれど、別の場所で見かけた「生どらやき」というのもニュアンスは伝わるが如何なものかと…

(24.06.08/この話してなかったっけ?)映画関心領域(公式/外部リンクが開きます)で脚光を浴びている(?)ルドルフ・ヘス、講談社学術文庫から邦訳が出ている自伝アウシュヴィッツ収容所(外部リンク)を思い出す。ナチの「大義」を微塵も疑わない「忠実な軍官僚」が「運営」を任されたアウシュヴィッツで、猛毒のシアン化合物チクロンBの存在を知り、これで悩みに悩んでいたユダヤ人「処理」の「ノルマ」が「達成」できると「安堵」するくだり(当人、率直に書いたほうが心証が良くなると信じていたらしい)は、正直すぐにはピンと来なかった『イェルサレムのアイヒマン』(アーレント)よりも「うわぁ…こういうタイプの邪悪さ」と直球で得心がいった記憶。いわゆる辞書どおりの意味での確信犯とは違い、確固たる信念より、むしろ確固たる倫理的な問いを一時棚上げすることで「いいじゃないか別に」と進められる暴力。その微妙な手の抜きようをアーレントは凡庸と責めたのではないか(違うかもだけど)。

(24.06.09)些細なことかも知れないけれど「改正」でなく改定の表記。信濃毎日新聞、しばしば本社よりシンセリティがある。僕はバイアスのかかった個人なので「改悪」と呼ぶけれど。・〈社説〉改定入管法施行 さらなる苦境を招く恐れ(24.6.9/外部リンクが開きます)

(24.06.10)ROMってるSNSで一人称がどうのと騒いでて「XX歳を過ぎて一人称が『僕』な奴は○雷」だの何だの。まあ僕もXX歳を過ぎて(一回り半くらい過ぎたかな)一人称が「僕」なので、でも他人を地○よばわりする奴より百億倍マシなんじゃねとか色々思うところはあったのですが
 一人称が「僕」程度で**だ何だ小煩ぇよ…こちとら最痛の一人称「吾々」多用ぞ?と中指を立てる(中指にモザイクかかってる)自画像
(文脈上そうなっちゃうんだもん)(気にしてはいるらしい)

(24.06.11)「冗談じゃないわいな 東京シャンディーランデヴー♪」という何か間違ってるけど何処が間違ってるか気づかれにくい替え歌を思いつくが、さしあたり使い道がない。後で手が出る足が出る。
(同日追記)念のため確認したら、今どきは「おたまじゃくしはカエルの子」ナマズの孫では「ありませんと現代語訳(?)されてるみたい…たまらんなあ…

(24.06.12)えっ『RRR』って現時点でまだ日本全国20以上の映画館で上映中なの?(映画.com/外部リンクが開きます/再上映もあるのかも)。根負けして(何と戦っていたのだ)+そろそろ終映なのかもと勘違いしてキネカ大森のチケット取りました。今夜…→(同日追記)はい、ナートゥダンスを存じ上げてきました。・参考:大ヒット映画「RRR」話題の名字幕「ナートゥをご存じか」は、なぜ「ご存じか」だったのか? 翻訳した2人に聞いてきた(映画.com/23.2.1/外部リンクが開きます)。んー、ほぼ想定どおり映画としては百点満点・でも最後に「あ、ごめん…僕はこのポラーノの広場には居られないんだ…」なところまで(察してくれ)想定どおり。難しいなあ自分、もっと熱烈な賛辞を期待した人ごめんよ…それでも映画としては百点満点で、売店のマサラティーも美味しうございました。キネカ大森、大好きです。

(24.06.13)RRRの余波で色んな(感情移入しそこなった)映画に想いを巡らせ、だもんで全く脈絡はないのですが『シャイニング』の続篇+完結篇として制作された『ドクター・スリープ』は主人公が人生の途中でつまづいて酒に溺れた原因が→ネタバレにつき、たたみます。(クリックで開閉します) べきだったんじゃないかなあと思うのですが。あと一番大事なシーンで着ぐるみ男が出てこないの納得できん。キューブリック版前作の最重要(?)キャラやん!←ひょっとして、ここも畳むべきでした?

(24.06.14)元祖パイカ蕎麦とは何ぞやと思ったら…パイコー(排骨)のことか!
 左からパイカそば・とろとろのパイカ(排骨)アップ・「6月のおすすめ!三陸そば わかめ、もずく、めかぶ!うどん、きしめんにも出来ます!610円」の広告写真。
衣をつけて揚げた状態でなく食べるのは初めてかも(?)。軟骨まで箸でちぎれそうなほどトロトロ柔らかく煮込まれたパイカ、んー牛すじみたいに土手煮やカレーにも合うだろうなあ。6月のおすすめ三陸そばも気になる神保町の東の外れ・美術書などの古書を扱うブックブラザー源喜堂の裏と言えば分かる人は分かるあたりの立ち食い。茨城にはパイカラーメンが看板メニューのラーメン屋もあるらしい。知らなかったことばかりだ。
(24.06.15追記)今回なぜかフットワークが軽くて、さっそく三陸そばも。予想と違って温そばだった!でも食べたら全然アリ(汗だくで)!トッピングのミョウガも好いアクセント。広告(立て看)と海藻のバランスが違うように見えるのは、まあ写真マジックで許せる範囲内。おいしうございました。
 三陸そば写真。手前半分を青いワカメが埋め尽くし、残り半分を1/4ずつメカブとモズクが埋めあう。
名物!とか限定!とか意気ごまない隣のお客さんがふつうに食べてたちくわ天そばも美味しそうだったなあ。

(24.06.16)ハリソン・フォードは前作『インディ・ジョーンズ運命のダイヤル』(未見)でインディ役を引退したんじゃなかったっけ?と思ったら広告で言ってる『インディ・ジョーンズ大いなる円環』というのは映画ではなくゲームの新作らしい。まあ何作か前でシリーズを追うのは降りてしまったので関係はないのだけど、もしも前言撤回で映画の続篇が出来るならタイトルは『インディ・ジョーンズ運命のリダイヤル』がいいなあと…

(24.06.18→07.01)春先に恒例のアナウンスがなく「サイレント廃止か?」と危ぶまれていた青春18きっぷ、
「青春18きっぷ」2024年夏季分は7月10日から発売! JRグループが公式発表(24.06.18/鉄道乗蔵/Yahooニュース/外部リンクが開きます)
例年だと7/1発売なので、少し足下の氷が薄くなってる感はあるけれど、まずは重畳。

(24.06.19)わづか2年ほど御無沙汰していた間に銀座のABCラーメンが撤退しててショック。銀座の一等地になぜかラーメン屋・それもフレンチ修業したシェフが開いたという触れ込み・けれど看板商品=胡麻を効かせた麻醤麺は900円とリーズナブルで他にない味。変わり餃子もビールに合う感じで、いや知らんけど、下戸の自分も嬉しくお相伴に与ってました。
 左:ABCラーメンの麻醤麺と代わり餃子。右:肉汁麺ススムの冷やし排骨麺
新橋の「なぜ蕎麦にラー油」と同じビルに入っていた肉汁麺ススムも撤退を確認。季節限定だった排骨冷やし麺しか写真が残ってないけど、メインの肉汁麺は甘辛の衣がついた揚げ豚肉がどっさりトッピング・生卵を割り入れていただく濃厚な味で、まあ客を選んだというか新橋のメインユーザーぽい中高年層(含む自分)が日参するには胃もたれする感じで難しかったのかなあ。時々むしょうに食べたくなるお店でした。また何処かで逢えるといいね麻醤麺と肉汁麺←僕がというより人類が。
(同日追記)お前もか!と勘違いしてビックリしちゃった。こちらは移転だそうです。昨年はじめに。【移転後・新店】銀座わしたショップ本店に行ってみた(ぐるっぱ/23.02.01/外部リンクが開きます)島ごとに形も硬さも味わいも違う小分けの黒糖ってまだあるのかな。
(07.03追記)ありました<島ごと黒糖。二種類ならべて黒糖ツインズ、なんちて…
右・イリオモテヤマネコのイラストをあしらった西表島の黒糖。左:冠のような独特の被り物をした人のイラストをあしらった多良間島の黒糖
このイラストで多良間島の人が被っている冠?帽子?の正式名称を探しています…(ゆる募+宿題)

(24.06.20)無くなってから惜しむのでなく、今あるお店も言祝ごう。仲御徒町の「ネパーリ バンシャガリ インドカレーさくら」は普通にナン&インドカレーやビリヤニも供してるけど「ネパールタリセット」としてダルバートも前面に出してるお店。新しめで広々と明るい店内。僕は呑まないけどアルコールも充実っぽい。
 左:「さくら」のネパールタリセット(ノンベジ)。右。かきまぜたところ。刻まれたマトンは骨付きも。
 先月の日記で取り上げた『カレー移民の謎』のとおり、成功したお店のレシピを踏襲して巨大ナン+バターチキンのカレーが広まったなら、同様にこのレベルとポジションのダルバートがスタンダードとして広まるといいなあという丁度よさ。ダル(豆スープ)もマトンカレーも味がしっかりしてるので、初めてダルバートを試すひとも漬け物とか色々まぜて「スパイシーだし味も複雑だけどダルのおかげでマイルドなカレー」として食べやすいんじゃないかなあ。またしばらく新橋〜上野方面からは足が遠のく予定ですが、生き延びてほしいところ。

(24.06.27)と思ったら、また…浅草で好いなと思っていたワンタン麺のお店も閉店を確認してしまった…最後に訪れたのが三年前なので、飲食店の寿命や興亡のサイクル的に仕方ないのかも知れないけれど、浅草という街じたいがジェントリフィケーション(富裕層向けの改変)で昔ながらの趣を急激に失ないつつあると懸念する声もある。
 左から:ワンタン麺・雨の夜の浅草仲見世あたり・雷門の写真
香山哲ベルリンうわの空』の三冊目に「行けるうちに行きたい処を訪れて、いずれ思うように旅できなくなったら、その思い出を大切に反芻しよう」みたいなことが書かれてて、僕なんかはそろそろ後者(反芻)の段階かなあと思い始めているのだけど、それが自身の(体力的あるいは経済的な)衰えだけではなく、訪れる先の側の変貌によることだって十二分にありえるのだよなあと。気候変動も含め。

(24.06.22)そして追悼。あなたのドナルド・サザーランドは何処から?という問いに「ケイト・ブッシュのMVから」と答える人、少なくないのでは。『赤い影』『マッシュ』『SFボディ・スナッチャーズ』…並み居る代表作に引けを取らない、6分56秒の名作。
Kate Bush - Cloudbusting(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
(SFボディ・スナッチャーズをドナルド・サザーランドの代表作のひとつに挙げていいのか分かんなかったけどラストの顔芸が忘れらんなくてさ)見そびれてるフェリーニの『カサノバ』も観なければなあ。

(24.06.23)「ジェネリック海の幸」三銃士を連れてきたよ!
 左から「うな次郎」「ほぼカキフライ」「うにのようなビヨンドとうふ」+中の黒っぽいのまで再現してる「ほぼカキフライ」断面写真。
(昔は「ジェネリック」じゃなく、もっと身もフタもなく「プアマンズ」って言ってたよね…)
なかなか実物にお目にかかれなかった「ほぼカキフライ」中の黒っぽいのまで再現しててイイねイイね!となるなど。魚肉すり身の他にヒラタケの水煮(黒いとこかしら)・こうや豆腐など使ってるようだけど最後は食感(歯触り)がやっぱり違うなあとなるのは「うな次郎」と同じか。「うな次郎」と、うにを模した豆腐は後日ゆっくり食べていきます。

(24.06.28)ブックオフ従業員による架空買い取り疑惑
※このあたりが詳しい→BOOK OFF 400店舗以上が休業(ANN NESW/24.6.27/外部リンクが開きます)
もちろん嘆かわしいし悲しい話だと思うけど、「特に本好きとして許せん」みたいな気持ちは不思議とあんまり湧いてこなくて、むしろ首相も与党も都知事も在沖縄米軍も外務省も公安も県警も大手メディア企業(言いにくしリンク貼らないけど子会社のB○○K☆WALKERの百合の日セールでRIMの電書もコイン還元中)も―要するに社会の天辺でふんぞり返ってる連中が不正も隠蔽も黒塗りお咎めなしで、末端の小売店従業員とかが腐らないわけないじゃん、て気持ちのが強い。こればっかりは「トリクルダウン―上の無法がグズグズ許されてるから下も無法になってる、そういう順番としか思えない。この先どこかで糸が切れて不法と末法の世が来ても(もう来てるのかも知れないけど)「最初に略奪を仕掛けたのは地位の高い連中」って言うよ僕は。過去の歴史でも大体そうなんじゃない?
(同日追記)真夜中に毒を吐いちゃったのでデトックス。春先に名古屋で食べた雪菜毛豆=高菜と枝豆の炒め物が美味しかったのでオリジナルの味を舌が忘れた今ごろになって再現。長ネギは白じゃなくて青いところのが画像的に映えるな(なぜ調理の先に旅先の写真を見返さんの)などと改善点はありつつ、うん、軽めの主菜に悪くない。刻んだニンニクがアクセント。
 左:名古屋で食べた雪菜毛豆。右:自宅で再現した雪菜毛豆・キムチをのっけた白ごはん・お味噌汁。
(同日追々記)高菜は中国語だと「雪菜」か、なんかいいな…枝豆が「毛豆」でプラマイゼロではある(日本語話者の感覚だと…すみません)

(24.06.29)今月の最後も追悼で締めくくってしまい遺憾きわまるのだけど、後述のとおり義理がある。エリック・カルメン、逝去が三月に報じられてました。ラフマニノフをモチーフにした
Eric Carmen - All By Myself (Single Edit)(YouTube/外部リンクが開きます)
があまりに有名だけど、本人名義ではなくソングライターとして誰かに提供した楽曲もあったよなと再確認。
Mike Reno feat. Ann Wilson - Almost Paradise(YouTube/外部リンク)
別名「フットルース 愛のテーマ」でした。自分が描いた同人まんが『楽園の瑕』の英題。直訳じゃなくて(←そんなんする意味ないやん)ちょっとズレた英題をつけるの趣味なんですけど、ほぼ楽園(、でも…)と皮肉な意味で自作の内容にピッタリだったので本来の歌詞の内容とかあまり考えずにつけてしまった。邦題(楽園の瑕)もそうか←ウォン・カーウァイの同名映画いまだに未見、本当にすみません…
BOOK☆WALKERでも読めるけど(←無料)たまには本サイト内のアーカイブにリンクしときます。下の画像か、こちらから

東京都知事選で選挙権を行使できるひとは行使しましょう。

(24.06.30)なんだかだで今期も気に入り毎週つきあってしまってる『爆上戦隊ブンブンジャー』。一匹狼の新キャラ(紫)にそういうの(スカした正義感)大キライと毒づかれ皆そう言うよといなす主人公のタイヤ君(赤)「君みたいなの、いくらでも居るから」と相手のプライドを的確にブッ刺してて、意外と性格悪いか「俺たち(仲間まで)」貶されて結構本気で怒ったのかも…(萌)
(07.03追記)翌週あっさり和解+新メンバーとして正式加入。しかしブンブンジャー、始まった頃はメンバー全員おもしろキャラで、しゃべるだけで爆笑だったのに半年足らずで完全に慣れてしまい「ようやく仲間に直接ありがとうと伝えられるようになったなタイヤ君(しかも自分をでなく、自分が間に合わなかった一般人の巻き添え被害を阻止してくれて「ありがとう…!」なのが爆上げ)と普通に感心できてしまう自分がいて、いや絶対に変な番組なんですけどね…

 

百合は出口か入口か〜陸秋槎『ガーンズバック変換』(24.06.30)

 ロシアの少女(?)デュオt.A.T.uは実際にはそうでもなかったらしい二人を同性愛っぽい演出で売り出した「ビジネス百合」で、とりわけ日本では(TV番組の放映中ドタキャン事件などもあって)あまり好い印象で記憶されてはいないかもだけど、彼女たちが主演した「All The Things She Said」のMVは最後のどんでん返しが鮮やかで、ウソから出たマコトと言うのかな、反LGBTを標榜する人たちへの痛烈なカウンター(閉じこめてるつもりで閉じこめられてるのはどっち?)たり得ていたと思う。
 
ザ・スミスのカヴァーなんかもしてましたね…

      *     *     *
 東京・日本橋に、台湾の誠品書店が東京(日本)支店を出していて、久しぶりに読めもしない中国語(繁体字)の本を買ってしまった…いやコレは頑張って読みたい。スマートフォンの翻訳アプリを使ってでも読もうと宣言しておこう。
 左から『街屋台湾』表紙・開いたところ(見開き右に町家を描いた水彩画・左に建物にまつわるエッセイ)・繁体字の本文と・それを翻訳アプリで日本語化したスクリーンショット
鄭開翔街屋台湾 100間街屋、100種看見台湾的方式!(第2版)』(外部リンクが開きます)
←見本が多く載っている内山書店のページにリンクを張ったけど、うわー、お高い…誠品だと自分がエイヤっと買えるレベルのアレだったんですが、レジに持ってって店員さんがお店のブックカバーをかけるため本体のカバーを外して、裏返して、初めて気づいた「うわー、カバー裏もすごい!」これはお値段も納得だわ…。
 『街屋台湾』。カバー裏に本書収録の街屋イラストの数々がフルカラーで並んでいる
大切に読みます、はい。
 誠品日本橋、もちろんメインは日本の書籍で日本のベストセラーもファッション誌も(えーとマンガは無かったかな)ふつうに並んでるのだけど上記のとおり漢籍(?)もあって、また日本の本も人文系に注力してる印象。『ガザ日記』も此処で一緒に買い上げたのですが
 左:『ガザ日記』(買いました・寄付も兼ね)・右:『プルーストとシーニュ』(こちらは借りました)
 日本橋で通りを挟んで斜向かい・同じCOREDOグループの別建物に「タロー書店」という別系列の書店があって、何それ十字路を挟んでインドカレー店が競合みたいな調整失敗パターンと思ったら、初めて覗いたコチラも存外良かった。岡本太郎を意識した店名から、もっとアート寄りかと思ったらビジネス書籍が平積みのわりと普通の書店で、だけど限られた人文書コーナーの選書も(誠品とは共倒れせず相互補完できる感じで)光ってる印象。先に誠品でドパドパお金を落としてしまったので購入は見送りだったけど、ドゥルーズのプルースト論と、『ゾミア』でお馴染み(未読だけど)ジェームズ・C・スコット反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(みすず書房/外部リンクが開きます)は、そのうち読もうと心でブックマークした次第。いや、前者はさっそく読みはじめてます:
ジル・ドゥルーズプルーストとシーニュ(新訳)』(宇野邦一訳/みすず書房2021年/外部リンクが開きます)
「「シーニュ」という語は、『失われた時』の中で最も頻繁に現れる語の一つである」と言って「シーニュが」「シーニュが」と連呼する内容なのだけど、そんなに頻出して大事な単語なら、何らかの日本語に訳しても良かったんじゃない?『失われた時を求めて』のほうでは日本語に訳されてるんだから(いまパパっと『時』のほうを確認したら大体「しるし」で訳されてる)(まあ『プルーストと「しるし」』より『シーニュ』のほうが謎っぽくて日本ではウケるのかなあ)(あと英語の「サイン」みたいなニュアンスもに匂わせたかったのかも)と多少はツッコミを入れつつ、楽しく読んでます。
 『失われた時を求めて』についてはルネ・ジラールも『欲望の現象学』で長々と語っていて(昨年11月の日記参照)、ジラールとは不倶戴天というか互いに「あんなやつ歯牙にもかけないぞ(ふん!)」みたいな感じだった・でも同様にプルースト大好きだったドゥルーズの目を通した『失われた時』は、予想どおり着眼点がぜんぜん違う。それはもう同じ小説を読んでの感想とは思えないくらい見るところが違って、逆にそれこそが読書の(そして書評を読む)面白さなのだと思う。

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 その作品や作者の「ここが重要」「ここが本質」というポイントを自力で見出せた場合(それが後で確認したらメジャーや権威筋の解釈一致でも・いやそうであれば余計にか)読み勝った・自力でモノにした感が高まり、作品も特別な宝物になるだろう。
 逆に他の誰かの解釈に納得させられてしまうと読み負けた・正解を他人に教えてもらったという憾みが残る。それが作者自身の自作解題なら尚更だ。だもんで中国出身・日本で執筆する陸秋槎氏のSF短篇集ガーンズバック変換(ハヤカワ書房/2023年/外部リンクが開きます)の後書きを読んだ時には「しまったぁ!」となった。いわく
「いわゆるSFの醍醐味とは、パスティーシュではないかと思う。既存の技術と理論、神話と民俗、そして歴史と社会制度に対するパスティーシュこそSFだ。もちろん先行作品にたいするパスティーシュも面白い」
いやいや自分も薄々はそんなこと思ってた気がしますよ?するけれど、ここまで明白に言語化できていなかった。しかしこうして著者自身に種明かしされると、なるほどパスティーシュこそ(SFがという話ではなく)陸秋槎という作家の本質というか本領なのだった。
 書影。『ガーンズバック変換』と『文学少女 対 数学少女』
 紀元前の前漢を舞台にしたデビュー作(曹操が犯人ではない←言わなくてもいいことを…)『元年春之祭』。犯人の動機が青春の絶望を際立たせた『雪が白いとき、かつそのときにかぎり』の鮮烈なリリシズム。短篇連作『文学少女 対 数学少女』は「状況によって名探偵の最適解は正答とイコールでなくてもいい」という割り切りが衝撃だった(←いや、ジャンル内では後期クイーン問題と呼ばれる定番テーマらしいのだけどジブン部外者で知りませんでしたから)。異世界を舞台に少女騎士団のエリート少女たちが連続怪死事件の謎を追う『盟約の少女騎士』の、いくぶん唐突な「謎解き」。どの作品もミステリのミステリ・メタミステリ・メタ物語・言うなればパスティーシュこそが、作者が一番やりたいこと・あるいはどんな発端から始めても作者が辿り着いてしまう問題意識と言われて不自然ではなかった。
 『ガーンズバック変換』でもSFという装いながら「サンクチュアリ」「物語の歌い手」や架空作家の伝記など(この世の中にあって)作者≒語り手であることの意味や意義を問い問われる作品が並んでいる。とくにAIの台頭が人文学者を脅かす「色のない緑」は『三体』への(脅威はむしろ自分たちの中にあるという)アンサーでもあり…というのは話を盛りすぎかも知れないけれど、んー、考えさせられる問題提起でした。色々ヤバいでしょ、AI(電力使いすぎ問題も含め)。

 持ち上げるだけでは詰まらない、というわけでもないけれど、ジャンルや「物語る」という営為自体の意味を問いがちな作者の問題意識は反面、内輪向け空間に閉じていく危うさも内包していて、なんだか日本ネイティブの作家以上に日本的だなーと思わなくもない。
 かつてミステリ界の大先輩であろう北村薫が「すべての小説が大志を語るようになったとき小説は滅びるだろう。だが、あらゆる小説が大志を語らなくなった時もまた、小説は滅びるだろう」と書いたように、適材適所・バランス感覚の問題ではある。けれども韓国のペ・ミョンフン(『タワー』・5月の日記参照)やチョン・セラン(「リセット」・先々週の日記参照)に見られるような「目の前の社会・世界と直結したSF」の可能性を見てしまうと、日本の「物語」は社会に、外の世界に向けて開かれているだろうか・いや閉じているのではないかと、どうしても思ってしまう。それはSFというジャンルに限らずSNS・「外国人観光客は皆サントリーのペット緑茶が飲みたくて来日してはるんどすえ」みたいのが面白いと思ってるCMや等身大ガンダムを飾る万博・哲学や現代思想(「シーニュ」とか)に至るまで、この国の社会全般に感じてしまうことだ。

 サインペンを持った「ひつじちゃん」のイラスト。横には「百合」で始まり「ひつじちゃん」の持ってるペンと同じ赤い線で「パスティーシュ(物語とは何か)」につながっているアミダくじ。
 少し言い訳すると陸氏にとってパスティーシュこそ「ゴール」だと捉えそこなった理由は、彼の作品が持つ、もう一つの強烈な属性があったせいでもある―「百合」。百合ミステリに百合ファンタジイ・そして百合SF。上に挙げた作品のほとんどが、女性(少女)同士のカップルやカップルズを主人公とする、いわゆる百合作品なのだ。ミステリ用語でいうところのレッド・ヘリング(囮の餌)に引っかかったと言うべきだろうか。
 急いで言うと、カップルと言っても恋愛関係とは限らない。むしろ円満な恋愛をしているカップルは作中では少数で、主人公たちは同性の相手に、まだ言語化できてないけど複雑な・もしかしたら愛憎いりみだれる想いを抱いている、そんな状態を著者は好んで描く。とゆうか、そういう状況ばかりを描く作家「でも」あることは確かだ。
 おそらく百合は、作者にとって物語を結晶化させるための最初の芯・核なのだろう。あるいは、その道しか辿れないコースとでも呼ぶべきか。物語が数式で、すべて割り切ったとき終わるとするならば、百合は割るときに必ず使わなければいけない数・使うとこんがらがった巨大な数がスパンと二つに割れるような大きな数で、しかしすべてを割りきった後に「解」として残るのは、パスティーシュ=物語とは何かという、もう一つの素数なのだ(と、傍観者としての僕は推測する)。
 
 それでは「なぜ」百合なのだろう。作家・陸秋槎にとって、あるいは他の多くの作家にとって百合とは何か。
 これも大急ぎで言わなければならないが、非当事者が描き語る「百合」は、実在の女性の同性愛を元にしながら別個に構築された概念・観念で、だからこそ勝手にモデルとして利用した実在の女性の同性愛者にたいするリスペクトを忘れてはならない(百合を扱う作品に大喜びしながら現実の同性愛者を差別するなど、もってのほか)だということは、こうして機会あるたびに念押ししておく必要がある。そのうえで―
 なぜ百合だと、すらすら物語が紡ぎ出されてくるのか。はっきり言おう。これだという答えはない。
 それを踏まえてなお、このジャンルの大いなる先達と言えるだろうBL(やおい・JUNE)の大御所作家が「なぜJUNEなのか」という問いに対して「男性同士のほうが対等な人間関係が描けるから」と答えていたのを思い出す。もちろん、それだけではないだろう(だから「これだ」という答えはないんだってば)けれど、愛にしても憎にしても男女のカップリングだと生じてしまう非対称性を一旦オミット(棚上げ)できるのは、舞台に上がった銃は発射され・手牌はすべて無駄なく「役」に奉仕しなければならない「物語」という形式にとって、しばしば都合が良いのだ。もっと露悪的に言えば「楽」な場合もあるだろう。けれど。
 現実の世界ではどうしても付きまとってしまう異性間の非対称性や不均衡・家父長制や(男女をともに苦しめる)有害な男性性を一旦排除した舞台で展開される人間性の探究は(たとえそれが嫉妬や憎悪の物語ですらあっても)、より深い人間理解につながる可能性も、現実にある不均衡を暴き、批判し、解体する…ことにつながる可能性もある。
 もちろん逆に、作中の百合やBLに異性愛の規範を押しつけようとする反動的な心情もあるだろう。何が「適切でより人を自由にし」何が「不適切でより人を不自由にする」かは簡単に判別できない。それでも。
 百合なりBLなりといった創作上の「遊び」が、内向きの逃避ではなく、何かしら社会に・外の世界につながる突破口になりうることを僕は夢みてしまう。あるいは社会の拘束を解体する「左利き用スパナ」になることを。「なるほど同性愛は社会の不均衡を正してくれるんだ、ひとつ頼むよ当事者さん」ではなく、当事者でもないのに同性愛を妄想や娯楽のタネにしている非当事者にも、何かしら返すべき借りはあるのではないかという話をしている。
 『ガーンズバック変換』の表題作は、ゲーム禁止条例や学校での孤立など現実の日本社会に則した問題を描き、そこからの突破口として百合的な連帯を提示する。それが作家が社会にコネクトした「しるし」なのか、それとも「既存の作品」を元に、あくまでフィクションとして構成された閉じた系なのかは分からない。分からないけれど、日本でも石川県金沢市に住まうという著者が(もちろん御無事であることを祈っていることは言うまでもない)目と鼻の先で展開している現実社会の無能や不均衡を前に…いや、ただただ一人の優れた感受性と表現力をもつ人物が物理的だけでなく、心も折られず健やかであることを祈っている。何ごとかを語るのは、他人に「ひとつ頼むよ」と任せていい問題ではないだろう。
 「『文学少女 対 数学少女』には(創作者として)勇気というか本当に背中を押してもらったのだけど、その「背中を押されて」書いたプロットが一年経ってもドアの外に出せてないので今日のまとめは「何かあるなら自分で描きなさいよ」ですね…」と涙を流す舞村さん(仮名。特にこの半年ほど原稿どこではなかった人)
(確認したら一年じゃなくて二年だった…)

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 今回は短くなるかと思ってマクラを長くしたら、本体もことのほか尺を取ってしまって、まあ思ってる事そこそこ掃き出せたでしょ。
 t.A.T.uがカヴァーしたのとは別の曲だけど、スミスには「子どもの頃はアコギを持ってる奴は皆プロテスト・シンガーだと思いこんでて怖かった」という歌詞もあって、
The Smiths - Shakespeare's Sister(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
んー自分は逆に街頭でひたすら愛を歌う人たちを見るたび「君たちいいかげんプロテスト・ソングくらい歌えよ」と内心ぷんすかしてはいるのでした。

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 ちなt.A.T.uがカヴァー「した」スミスの曲は「誰かが愛してくれるかもとクラブに行って ひとり立ち尽くして 一人で家に帰って 死にたいって泣く君」という歌詞で有名な(?)「How Soon Is Now」で、んー、やっぱり方向性としては間違ってなかったと思うんですよなあ。

「一翻つく」と「二番だし」〜創作について(24.06.24)

 今週の日記(週記)とは関係ないんだけどサワリだけ。アーティフ・アブー・サイフガザ日記 ジェノサイドの記録』(原著2023年/中野真紀子訳・地平社2024年/外部リンクが開きます)、言ってる内容がとにかく正しい(=ガザ虐殺やめろ)とか本書の収益は全額、パレスチナ現地で支援に取り組む団体に寄付されますとか以上に、人が生きてること・一人ひとりが存在し・あるいは存在していたことの「尊厳」とでも呼ぶしかない眩(まばゆ)さが一文一文にみなぎってて、たぶん今もっとも読まれるべき本。まだ読み切ってないし感想もまとまってないので今はこれしか言えない(※インスタには我慢できなくてちょっと書いた)。読んで、そしてあなたも感想を発してほしい←いやハードル上げるなよ…

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 でも今週は創作の話をする。この半年ほど色々あって、ほとんど原稿は進んでないのですが。
 ※注意:チェーホフの短篇「犬を連れた奥さん」のネタバレがあります。
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 ずっと昔から考えていた「創作を麻雀にたとえる」について、改めて考えている。
 麻雀を知らないひとも「ああそうなんだな」と何となく推測してもらうしかないのだけど、物語を発想し、作品に仕上げていく過程は(僕に言わせれば)麻雀というゲームに喩えることが出来る。
)プレイヤーが最初に配られた13枚の牌+次々に配られる牌を取捨選択し、無関係な牌がない完成された状態になった時「和了(あがり)」になる。(=作者はキャラクターや出来事・様々な要素を取捨選択し、すべてが何らかの意味連関をもつよう整えないと作品にならない)チェーホフが言うところの「舞台に登場した銃は発射されなければならない」だ。
 「あの…作者がどうしてもメイドを入れたいって…」と困り果ててるメイドさん(青髪にピンクのストライプのワンピース・白いヘッドドレスとエプロン・ストッキングでお盆を持ち、無駄にハートを振りまいている)を囲んで困惑する野球選手たち「どうすんだストーリー的にこの子」「誰かの妹さんじゃないの?」「それじゃ弱い」「とりあえず監督ってことにするか」「なんで監督がメイド服なんだ?」「さあ…」(変則的なメイド服だな…)
)でも捨て牌がなく揃っただけでは和了(あが)れない。2個ずつのペアだけで出来ている(トイトイ)とか同じ種別で1〜9まで揃う(一萬〜九萬とか。イッキツウカン)とか「役」があって、初めて和了と認められる。より難しい役だったり、複数の役が上乗せされたりすると得点はより高くなる。
)これは創作のほうだと異論のある人も多いだろうけれど「来る牌は(最初の13枚も・その後に一枚ずつ来る牌も)選べない」。たとえば感動する映画を観て「自分もこういう話を作りたい!」と思ったら直ぐ描けるというものではない。基本的に自分が持ってる牌で組み上げていくしかないし、どういう「役」が来るかはコントロールできない(出来るし出来るべきだという流派の人もいると思う)
和了らない役満(40000点くらいの手)より和了るタンヤオ(1000点くらいの手)。これも異論はあるかもですが同人で即売会に出てる時の自分のポリシーでした。リピーターさんを手ぶらで帰らせない、というのもあったし、すごい傑作のイメージを脳内でふくらませてるより小ネタでも描いて出すほうが実力もつくのが(稀にみる天才でもないかぎり)普通だと思います。
 「でも同時に(ペーパー向けの数ページの小ネタでも)次の即売会までの間に隕石か何かの直撃を受けてそれが遺作になっても悔いのないような作品を毎回提出できたらとも思ってましたね…なにしろ師匠(私淑)の教えが「書くに値しないことは書くな」でしたから」と作者代理でドヤる「ひつじちゃん」のカット
…で、まあこの偉そうな語りは
そうは言っても自分、点数計算できないんですけどね(なのでアマチュア=同人どまりだった)がオチなんですけど

      *     *     *
 2)の「役がないと和了れない」って結構重要だなと思っている。
 別の喩えをすると「そもそも」創作は焚き火と同じで、どれだけ薪を積んでも発火点を超える高温がなければ燃え上がることはない。あるいは雪の結晶やコンペイトウと同じで、空気中の塵や鍋に入れた芥子粒が芯になって初めて、そのまわりに分子が集まって大きくなり、角が生えて物語という形になる(なのでストーリーは雪の結晶と同様にフラクタル構造になりやすい)。世界観やキャラクターが出来上がっていても「ネタ」がないとストーリーとして走り出さないことは多々あるのだ。
 けれど/また「そもそも」論とは別に、それを作品として世に出す・人に問うにあたって「役」なしは厳しいという実務的な問題がある。長い前フリを経て、これが今回の本題だ。またまた言い方を(あるいは視点を)変えると創作物語の最もシンプルな定義は「実在しない場所で(←実在する場所のこともあるけど)実在しないキャラクターが実際には起きてないことをする」なのだけど、それは逆に言えば「どこの馬の骨とも知れない、実在もしない誰だかの話にどうしてつきあわなければいけないのか」という問題でもある。
 実はこれは思いこみの問題で「私が思いついた物語には世に問う価値がある」と思いこめる人が作家になるのだとも言えるのだけど、また「これは誰も考えないようなネタだから」も真逆の「皆が描いてる王道のネタだから」も描いて世に問う理由になるくらいテキトウな(だからまさに「思いこみ」の)問題なのだけど、何にせよ物語には「それを世に問うだけの意義」が必要とされる。
 話を麻雀に戻すと、麻雀では(とくに初心者向けの甘めのルールでは)つながりのない余計な牌がないのは最低条件として、何の役がついてなくても字牌と呼ばれる白・發・中や(東南西北についは面倒なので省略)どれかを「中中中」といった具合に三枚揃えれば、それを「ひとつ役がついた」と数えて和了と見なされる。役は翻(ファン・ハン)と呼ぶので「一翻(イーハン)ついた」などと言う。他にも役があれば(リーチ・タンヤオ・イーペイコウ・「中」で四翻みたいに)得点も上がるけど、とりあえず「發發發」や「東東東」だけで和了れるので「急行券」「特急券」なんて言い方もする。

 二次創作というのは、この「特急券で一翻つく」に近いものがあると思う。
 「なんでお前が思いついたアリもしない話につきあわなければならないのか」に対して「だってキャラクターがあの○○だよ」は読ませる根拠たりうるのだ。
 たとえば(「吾々」の次は「喩え」を自粛すべきかも知れないけど)これから暑くなると、任意の作品の推したいCP(カップリング。カップル)の片方がもう片方に「熱中症ってゆっくり言ってみて」とトラップを仕掛ける(引用するのも恥ずかしいけど大真面目に応じると「ねー、チューしよう?」に聞こえるという)四コマなり何なりがネット上で大量発生する。同様にバレンタインには義理チョコに見せかけた本命チョコとか正々堂々本命チョコ宣言とか意中の子にチョコ選びとか手作りを手伝ってほしいと請われて(他の誰かにあげるんだ…)とションボリしながら人がいいのでつきあってたら最後にそのチョコを自分宛てで貰えるとか、いや、細部まで読まなくていいですけど
 1コマ目:山下公園らしき海辺・木陰のベンチでギターを弾いてるナオ(アスセカ)に「ねえナオちゃんナオちゃん」と話しかける緋呂。ナオ「んー?」緋呂「熱中症ってゆっくり言ってみて?」。2コマ目:「……………… ねえ、中止よ?」と真顔で答えるナオ。背後にぼやけて五輪マークのオブジェ。キャプション:これは三年前の自作まんが。中止にならなかったし、その報いを今受けてますね…(まあこいつらの世界線では去年より前に返上・没収・中止なんだけど)
要は「既存のネタとかぶる」ことが(そんなに)厭われない。ピアノコンクールの課題曲みたいなものだから同じネタがいくらあってもいい、などとも言われる。
 むしろ「ミステリーの要素を盛り込みました」とか余分な「役」づけこそ厭われる。「そういうのは一次創作(オリジナル)でやれ」などと言われる。求められるものが違うのだ。
 あるいは料理の「一番だし」「二番だし」に通じるものがあるのかも知れない。「だし」というかフランス料理のブイヨンの話なんですけど、自分で材料をかきあつめて作るのが一番だし(一次創作)なら、そうして誰かが揃えて一度スープを出した材料で出すのが二次創作(二番だし)だ。けれどスープの味が濃いのは二番だしだと言われる。

 いったん話が横すべりするみたいです・今まで:一翻つく話・ここからしばらく:二番だしの話・最後は:一翻つく話に戻ります。(指さし指示する「ひつじちゃん」カットつきで)
 一次創作の場合、様々な材料から抽出できる旨味もまた、単純なものではない。世界観の面白さ・ストーリー展開の妙・美しい描写に痛快なアクション・意外な真相・ラストの余韻・場合によっては社会的なメッセージ…その中でも、とくに漫画は、感情が動かされる瞬間(を描くこと)が重要なものに思われる。個人の見解です。
 そこじゃない、一番の旨味は構成の精緻さだ・キャラクターの魅力だ・謎解きだと意見は色々だろう。けれど、それら(構成・キャラクター・描写…)すべてが、まるでこの瞬間のためにこそ組み上げられたかのように、キャラクターの感情が溢れだし弾ける、それに立ち会って読者も感情を揺さぶられる瞬間が、つまりエモーショナルでカタルシスな場面こそが、読み古した漫画の何度も何度も読み返したくなる部分ではないだろうか。
 この「物語(まんが)は感情表現」というの、漫画家の須藤真澄さんがデビュー単行本の『電氣ブラン』で「私は人の感情というものに興味があります」と書かれてたのを勝手に拡大解釈したものだったりします…と、頬杖ついて思い出にふける自画像
 何度も何度も引用しているように「知識を蓄積しても、それはけっきょく「喜び」とは無関係だった 「喜び」は物語のあれこれの小道具と結びついているが、それ自体ではなく、その中を吹く風なのである」と言われるとき(井辻朱美『夢の仕掛け』)それは音楽の喜びに似ている。音楽が音符を組み上げて和音を織りなして、けれど「それ自体ではなく、その中を吹く」喜びの風を鳴らすように、物語は往々にして人間(登場人物)を音符にして組み上げるものなので、喜びの風=感情を動かされる瞬間は、人物あるいは人物「たち」から噴き出ることが多い。別の言葉で言い換えると「人生の重要な部分は、ほんのわずかな瞬間でしかなく、それはふたつの魂が出会う瞬間だ」(伝ドストエフスキー)となる。もちろん「ふたつの魂」もまた、人間のそれである場合が多い。
 まとめると、一次創作で得られる一番だしには世界観やストーリー展開・アクションや情景描写など様々な旨味があるが、それもこれも(物語の一番の旨味として)一滴か二滴の「キャラ同士の感情が行き交う瞬間」をドリップするためにある・ように思えることが多々ある。
 もうお分かりだろう。すべての材料を煮出し尽くして、世界観もキャラの人となりも出来上がった物語から得られる黄金のドリップは、なるほど二次創作のほうが濃ゆくなっておかしくない。なにしろ銃はもう発射されなくてもいい。ストーリーという構築物に奉仕する範囲内でだけ許されていた感情表現も、もうそんな制限はかかっていないのだ。
 アントン・チェーホフに敬意を表して、彼の超有名な短篇「犬を連れた奥さん」の超有名な結びも引用すると「(今までさんざん物語につきあわせてきましたが)主人公たちにとって一番複雑で大変な人生の本番は、むしろこれからなのでした(要約)」というのは、(人類滅亡とか登場人物全滅などで終わりでもしない限り)あらゆる物語について言えることだし、言えるべきことだと思う。主人公たちがどういう過程で(読み終わった今)目の前にいるような人間になったのかは分かった、そうやって今ようやく出来上がった彼ら彼女らが、これから生きる人生の本番を見せてくれ―二次創作は、そんな切望にまっすぐ応えてくれる表現形式なのかも知れない。
 言い方を変えれば、物語全般が(自分ではない誰かの人生を疑似体験させてくれるという意味で)「人生が一度きりであることへの抗議」(北村薫『空飛ぶ馬』)であるように、二次創作は「物語が一度きりであることへの抗議」なのかも知れない―その最もいじらしく、人間的な側面を見るならば。
 
 …途中から何だか良さげなことばかり書いてしまったが「二番だし(ブイヨン)のほうが濃ゆい」という二次創作の特徴はポジティブな面ばかりではないとも思っている。いや、創作のことは一旦措いて、同じような現象が社会で起きていないか気にかかり始めている。当事者の声や出来事の一次資料から遠く離れた伝聞だけが拡散されて「濃ゆい」感情がエスカレートする事態が、ネットまわりだけでなく起きていないか。その中傷や流言のメカニズムを解体するのに、物語や創作に関する思索や知見は有効なスパナにならないだろうか。

      *     *     *
 「一翻つく」に話を戻す。それがあれば「和了れる」特急券は「二次創作であること」だけではない。ジャンル意識の強い作家なら「ミステリーなら和了れる」「SFなら一翻つく」人によっては「メガネですね。ヒロインがメガネなら、それだけで特急券です」みたいなこともあるだろう(あるのかな?)。僕は現物にあまり接してないのでテキトウなことは言えないけれど、主人公が現代社会から異世界に転生したら向こうの世界ではケタ違いの能力者で無双する、みたいな話も(なんで向こうの世界に生まれついた人間がケタ違いではダメなんだろうと考えたとき)ひょっとして「転生」というイベント自体が「一翻」なのかも知れないなと思ったりするが、まあ現時点ではそれを検証するために、あのジャンルに踏み込もうという気にはなかなかなれない。
 5年くらい前だろうか。一次創作の同人誌展示・即売会でも最大手の「コミティア」で隣席したベテランの作家さんが、最近の若い作家さんは百合作品で創作活動を始めることが多いみたいだねと話されていた。もちろん氏は一翻とか特急券なんて言いかたはしなかったけれど、百合であれば描く理由・薄い本にして発表する理由になると思ってるようだ―という、少し苦々しげなニュアンスがあったかも知れない。
 「その実在すらしない人物の物語に、発表に値するどんな価値があるのですか?」「百合だからです」というのは、百合というジャンルにも、現実の当事者にも(その平等が確保されているとは言えない社会ではなおのこと)非礼なことだろう。でも作品としてドアの外に出す=いくぶんは下世話な需要と供給の話とは別に、そもそも百合だから物語が降ってきた・百合という枝を掲げたとたんにキラめく塩が寄り集まって結晶になった、そういう意味での「一翻ついた」もある、そのことは自身の経験で知っている。それは多くの先達がBL(JUNE・やおい)というジャンルで体験したことのはずだ。男女のカップルでは結晶化しなかったものが、男性同士・女性同士だと結晶化することはありえた。それはなぜなのか。BLや百合を描く者にとって、BLや百合は何であるのか。
 以上のような話を踏まえたうえで来週の日記(週記)では、ひとりの具体的な百合作家について考えてみたい。言い換えれば今週の話は、全部そのための下準備で(も)あった。マクラだけで長くなりすぎたので、二回に分けることにしたのです。


アポカリプスなう〜『最後の物たちの国で』『ボーンシェイカー』「リセット」『パブリック 図書館の奇跡』(24.06.16)

 ポール・オースター、大きな書店では特設コーナーを作って追悼特集してますね…自分も有言実行で(先月の日記参照)再読しましたさ最後の物たちの国で(原著1987年/柴田元幸訳・白水社1994年→1999年/外部リンクが開きます)。海の向こう―ヨーロッパから見たアメリカか、あるいはその逆か―現代文明も行政機構も崩壊し、窮乏下で遺体さえリサイクルに供出しないと罰せられる極限状況の地に、消息を絶った新聞記者の兄を追って渡った(ミイラ取りがミイラになった)アンナ・ブルームの物語。

 いま読み返すと意外にふつうの話だな…と思ってしまうのは、時代が、と言うより僕自身の世界認識が(他の読書や現実社会での出来事を経て)本作に追いついてしまったからだろう。
 もちろん昔・たとえば1980年代も世界は終末感に包まれていた。ノストラダムスの大予言に惑星直列・ファティマ第三の予言、そして環境破壊や核戦争の恐怖。村上龍は海の向こうで始めた戦争というカオス&殺戮を『コインロッカー・ベイビーズ』の結末で豊かに閉塞した日本に招来し、マッド・マックスが、北斗の拳が、AKIRAがポスト・アポカリプス(文明崩壊「後」)のYou are shock!な暴力世界を紙や銀幕やブラウン管の上に繰り広げていた。けれど、そうではなくて。
 冷戦の終結によって、米ソが核ミサイルを撃ちあうアポカリプスがとりあえず回避され、未来は良くなる一方ではないかと思われた直後から「そんなことはない」やがて来る大リセット「後」のカオスではなく、アポカリプスは世界のいたるところにあったし現在形で今もあるという認識が静かに・あるいは荒々しく世界に割りこんできた。たとえば、本の背を留める糊まで剥がして食べる対独戦争下レニングラードの極限の窮乏を描いたベニオフ卵をめぐる祖父の戦争』(13年4月の日記参照)。戦争に負けたドイツ側の無法状態を描いた深緑野分の『ベルリンは晴れているか』。『ザ・ボーダー』で作者のドン・ウィンズロウを直接ではないけれど小説家引退まで追いつめた中米麻薬社会の荒廃(23年6月の日記参照)。そしてウィンズロウを直接に追いつめたのは「中米の荒廃って結局(自国)アメリカのせいじゃん」という認識だったけれど、そのアメリカが全面的に後ろ盾している、現実のガザでの無法の数々。今世紀に入って世界の各都市で起きた蜂起と鎮圧。恒常化した権力の無法。それにもちろんパンデミック―
 「これは現在と、ごく最近の過去についての小説だ。未来についてじゃない。『アンナ・ブルーム、二十世紀を歩く』―この本に取り組みながら、僕はずっとこのフレーズを頭のなかに持ち歩いていた」本作を1970年代から構想しつづけていたオースターには、当時から世界(の少なくとも一面)がアポカリプスに見えていたのだろう。「僕らは食べ、ワインを飲んで 皆が楽しく過ごしていた―世界の終わりについて話す君以外は」というU2の歌の「君」のように。
U2 - Until The End Of The World(YouTube/外部リンク)
(ちなみにこの「君」は最後の晩餐のイエス、「僕」はイスカリオテのユダを歌っているという)

 言い換えると、世界が追いついてしまった今となっては、本作はそう突出した作品ではないかも知れない。まだパンとワインで楽しくやっている人たちの酔いを醒ますには、他にも多くの「ポストじゃなくて今がアポカリプスだよ」と叫ぶ作品が、何より現実がある(世界の終わりを語り続ける「君」に、たとえばグレタ・トゥーンベリを連想する人も多いのではなかろうか)。
 よし今回はここまで複数形の一人称「吾々」を使わず頑張ってるぞ!とドヤる舞村さん(仮名)のイラスト。(なに安堵しとんねん)
 社会も国家もリセットされた世界を描くポスト・アポカリプスの物語に対し、逆に国家が最強の権力で人々を抑圧するディストピア物語。その代表作であるオーウェルの『一九八四年』がそうであるように、『最後の物たちの国で』も設定やメッセージの辛辣さに反して描写からにじみ出るのは身の回りの世界を慈しむ書き手らしい丁寧な生活感だったりする―というのは著者の意図を汲まない心ない感想だろうか。『一九八四年』のチョコレートや丁子で味つけしたジン、蛇と梯子(イギリスのすごろく)、「僕たちはそのうち暗くないところで逢うことにしよう」という台詞がなんとも言えない詩情をかきたてるように―
 極限の窮乏世界を描いた『最後の物たちの国で』で、そんな世界にまだ図書館があって逃げこんだアンナ・ブルームがそこに住み着いた学者たちと奇妙な同居生活をはじめる展開に、ちょっと「何この夢小説」と思ってしまった(大変もうしわけありません)。図書館に住み着きたい。なんなら滅びた世界でなぜか生き残ってる図書館に住み着きたいというドリーム。
 ここで「いいよね図書館に住む話」と、主人公が図書館で本を読みあさるうち十年くらい経ってしまう『旅のラゴス』や、愛を求める野獣がおそるおそる恋人に図書室をプレゼントし大喜びされるディズニー版美女と野獣』などの話にもつれこみたい誘惑にかられるけれど、アポカリプスの話を続けましょう
 RPG風の選択画面「どちらにすすみますか?・アポカリプス・としょかん」を前に、とりあえずアポカリプスで…と選ぶ、甲冑に身を包んだ「ひつじちゃん」(いつもの羊帽子も金属のヘルメット風)のイラスト。

 『最後の物たちの国で』の(これは『一九八四年』にも通じるのだけど)どこかクラシカルな雰囲気で思い出したのが、シェリー・プリーストの『ボーンシェイカー ぜんまい仕掛けの都市』(原著2009年/市田泉訳・同年ハヤカワ文庫)。クラシカルなはずだよ舞台は19世紀・瘴気ガスの発生で街ぜんたいが封鎖され、ゾンビが跋扈する魔窟と化したシアトルを舞台にした局所的ポスト・アポカリプス小説だ。いや、そう分類するのはこちらの都合で
 『ボーンシェイカー』書影と、アメリカ西海岸のほぼ北端に位置するシアトルを示す地図。
普通に分類するとスチームパンクSFということになるのだろうか、西部劇×SFという意味ではダニエル・クレイグ×ハリソン・フォード主演の怪作映画『カウボーイvsエイリアン』に通じるかも。そして『最後の物たち』同様、こちらは(地下通路から)好きこのんで廃都の中に消え入った息子を追って、母親=女性主人公が(飛行船で空から)乗りこむ物語でもある。いわゆる「茶色いお弁当」のような地味さゆえか、当初アナウンスされていた続篇の邦訳は(短篇以外)途絶えているようだけど、単品としても楽しめる作品でした。

 昨年読んだ『保健室のアン・ウニョン先生』(昨年5月の日記参照)以来、気になって少しずつ読み進めているチョン・セラン。SFやファンタジー・伝奇的なモチーフを多用しながら「すこし不思議」くらいに位置づけてる作家なのか(そのわりにメトキシケイ皮酸エチルヘキシルみたいなヤツと罵ったり、アン・ウニョン先生の最後に出てくる呪物とか、妙にガチな気配があるな)と思っていたら、ゆるふわも書けるけどガチも書くSFの人だったらしい。声をあげます(原著2019年・斎藤真理子訳/亜紀書房2021年・外部リンクが開きます)はガチめのSFを集めた短篇集で、わけても人類滅亡の大危機を描いた「リセット」に驚いた。話せば長いしネタバレになるけれど(そして、まとめてしまうと「そういうの前から知ってるよ」となるかも知れないけれど)
 『アン・ウニョン先生』の上に重ねられた『声をあげます』書影。
すでにつらつら述べてきた、どこか遠い「ポスト」アポカリプスではなく、とっくに眼前に展開していた「アポカリプス・ナウ」を前提に、どうすれば世界の破滅を回避できるかを考察したディザスターSFなのだ。
 「生まれて以来ずっと生きてきた世界が揺らいでいると感じたときに手にする文学がSFだと思う」「SFは共同体の大きな変化について語る文学」とチョン・セランは語る(本書訳者あとがきより)。それは思想や哲学さえ、どうかすれば現実から乖離した内輪のゲームとなりがちな日本の言語環境には不足しがちな直接さで、「地球温暖化を本気で憂慮する世代のアポカリプスもの」には一読の価値があると思います。

      *     *     *
 今回はそっち方面には行かないよ、と言いつつ、やっぱり図書館ドリームの話もしてしまう。
 2018年制作・2020年に日本でも公開されたエミリオ・エステベス監督の映画パブリック 図書館の奇跡』(公式/外部リンクが開きます)は猛烈な寒波に襲われたオハイオ州シンシナティで、行き場をなくしたホームレスの人々が公立図書館に居座り・巻きこまれた司書たちも一丸となって一晩のシェルターを死守する物語だった。
 映画『パブリック』看板と、アメリカ東部・五大湖の南に位置するシンシナティを示す地図
人情味とペーソスに溢れた佳作で、人生の盛りを過ぎた(というか棒に振ってしまった?)男女の、セカンドチャンスありかな?と期待させる関係性も隠し味でちょっと好い。けれど今回の日記的には、たとえゾンビやターミネーターが闊歩してなくても、核戦争や宇宙人の攻撃で政府が粉々に破壊されてなくても―いやむしろ行政もメディアも正常に機能していると自称する社会で、住居を失くした人々が凍死しそうな中、宿もまともに与えられず締め出される状況もまた、局所的なアポカリプスと言えるのではないかと強調しておきたい。
 『最後の物たちの国で』も『ボーンシェイカー』も、対岸や周囲は法治で正常とされる中で、その正常さからネグレクトされたところで局所的にアポカリプスに押し込まれた人たちがいるのが怖い。そして現実の世界では物語の世界よりも更にえげつなく、自称正常な世界(社会)(国家)が局所的なアポカリプスの存在に加担している・むしろそれを繁栄の糧にしている疑いが生じてくるのがつらい。

 皆が楽しくワインを飲む中で、アポカリプスは今だと叫ぶ人たちがいる。
 映画『パブリック』は占拠される側になった司書の主人公も、彼ら彼女らを追い立てる役回りになった刑事も、寒い屋外と紙一重の、薄氷の上の存在であることを多面的に語りかける。こうして文章を打っている今も、首都圏では軽い地震が感じられた。
 いま他人にオースターを読めとは言わないけれど(もっと良い本が沢山あるだろう)自分が踏んでいる薄氷がまさに割れたとき、どうやって人間らしくあり続けるか―その参考になるかという視点で本や物語と向き合ってもいい時期に来ていると思わなくもない。

爬虫類の脳〜マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(下)(24.06.09)

 【これまでのあらすじ・または今回のまとめ】
 20世紀の人類学は、近代社会から見下されてきた非西欧の部族社会が「遅れている」のではなく「別方向に進化」したのだと証することに賭けてきた。無文字社会が神話や社会構造そのものにコンピュータに劣らぬ精緻な構造を実装してきたとするレヴィ=ストロース。かれらは国家文明に「至れなかった」のではなく、その弊害を避けるため意図的に「国家となることに抗した」のだと論じたクラストル。
 21世紀の(?)タウシグは逆に部族社会を駆動する呪術的な原理が、合理的・理性的を自称する現代社会をも支配していると話を巻き返す。
 キャプション「(1)細菌や恐竜は人類に進化できなかった奴ら(笑) (2)いや、それぞれ別個に進化した種で優劣ないよ?からの(3)てゆか人類、脳の中枢に爬虫類が残ってんじゃん という展開に似ているかも知れません…」に、簡略な線画の舞村さん(仮名)の脳の真ん中・大脳辺縁系(爬虫類の脳)を示すイラスト。
 ヴァルター・ベンヤミンの墓標(原著2006年/金子遊+井上里+水野友美子訳・水声社2016年/外部リンクが開きます)は「叢書:人類学の転回」の一冊。どこか特定の地域や集団の習俗や生活を丹念に調査したモノグラフではなく、そこから導き出される理論や観念を、書物やアート・時にはファッションやそれこそセレブリティなど広く(悪くいえば節操なく)題材に加えて総合的に思索するタイプの書物で、はっきり言って自分はそういうの大好物なので危険!危険!と警戒しつつ愉しく読了。
 先週の日記で取り上げた悪魔との契約の話も興味ぶかかったけれど、本書のメインは「嘘はどこまで嘘か」「秘密とは公然の秘密ではないのか」という「欺瞞」をめぐる思索でした。

 彼が取り上げるのは南米、アフリカ、それにアジア…世界中で見られる、神がかりの特殊技能者=シャーマンによる病気の「治療」。具体的には治療者が患者の腹部に手を突っ込んで、血だらけの石やら何やらの「病巣」を取り出してみせる。昭和終盤のオカルトブームでも超能力者の透視やスプーン曲げと同じカテゴリで「心霊療法」などと呼ばれていた、このパフォーマンスを、真摯な人類学者たちはトリック・ペテンだと看破してきた。
 だが同時に、人類学者たちが報告するのは「シャーマンの手法の大部分が見せかけであることは、それに関わる者たち全員がよく承知している。それにもかかわらず、シャーマン本人、その患者や友人も、シャーマニズムを信じている(フランツ・ボアズ/強調は舞村)という矛盾した事実だ。多くの証言と自身の調査をもとに、タウシグは言う。トリックではないかという疑念は、むしろ呪術に必須の要素ではないかと。

 「未開の」愚かな人々がトリックに過ぎない呪術を素朴に信じていて、その虚偽を合理的な近代人が暴くのではなく、呪術を信じる人々も、それがどうにも疑わしいことは半ば承知しているのだ―そう考えたとき「未開」の人々と、「合理的な」現代人との境界線は消える。
 非運の思想家ヴァルター・ベンヤミン(19年2月の日記参照)。ユダヤ人として迫害された彼が山越えに失敗し死を遂げたピレネー山脈の中腹に設置された墓標の下に、その遺骨はないという(共同墓地に移されてしまったのだ)。だがその「まやかし」は、聖地としての価値を減ずるものだろうかとタウシグは問う。あるいは(無文字社会で)成人男子のみが参加を許され、女性や子どもは何をしているか知ろうとすることすら死をもって厳しく罰せられる「とされる」儀式が、実際には何をしているか女性たちも概ね知っているものだという話はどうか。同じような「公然の秘密」を、タウシグは現代のNYPD(ニューヨーク市警察)に見出してみせる。
 キャプション「また師匠(私淑)自慢になっちゃうけど、戦争中に岩波文庫のフレイザーを読んで「ここで書かれてゐる呪術的な王つて、今(戦争中)の天皇と同じぢやないか」と思っていた(徴兵におびえる)学生時代の丸谷才一先生、「未開」を扱う人類学を独力で「現代の自社会」に適用してたんだなあと…ま、天皇が現人神だった「現代」ですけど。」+本棚を背景に岩波文庫をひもとく「ひつじちゃん」のイラスト。
 「わたしは(中略)ミシェル・フーコーの侵犯と告解をめぐる議論に必要不可欠な対比をくつがえしたいという誘惑にかられる」とタウシグは語る。本当は本当・嘘は嘘・秘密は秘密と素朴だった「昔」に対し、教会での告白=「秘密であることを保つために公言される必要のある秘密」を基盤にした「近代西洋のセクシュアリテ」は近代西洋の「人間」を生み出した、近代西洋に固有のものだとフーコーは説いたが、でもその「公然の秘密」という様式は「クワキワトルのシャーマニズムと完全に一致している!」
 もとよりキリスト教世界でも(イエスの受肉と復活という最大級の「疑わしいこと」を前に)「不合理ゆえにわれ信ず」などと言う。
 フーコーの晩年の盟友だったポール・ヴェーヌ(22年12月の日記参照)が『ギリシア人は神話を信じたか』という題名だけで頭がぐるぐるしそうな書物で、現代人だって実際に見たことのない北京の存在を「信じてる」じゃないかと指摘しているように。タウシグは「未開」と呼ばれる人々の「非合理的」とされる「トリック」が、合理的とされる現代人の行動様式でもあると看破することで、人類学という学問を前近代という軛から解き放つ。

      *     *     *
 そして「秘密とは、公然の秘密である」「嘘ではないかという疑念は、むしろ呪術を強化する必須要素である」と説く彼は、そうした必須の欺瞞が「本当は本当、嘘は嘘でなければならない」世界秩序への侵犯であることを重視しているようだ。そのことで彼が(インドのカースト制やアフリカの女性器切除まで)すべてを秩序の枠に納めようとするレヴィ=ストロースにも対立し、また(侵犯の重視という観点から)ニーチェやバタイユに親近感を表明している(らしい)ことも、不勉強な自分が今後より解像度を高めていくべきトピックとして心に留めておきたい。
 幽霊が消えるように透きとおりながら涙を流す自画像にキャプション:「ようだ」とか「らしい」とかどうにも煮え切らないのはひとえに不勉強だからよ…
 コロンビアの農村からジャネット・ジャクソンのステージまで縦横無尽に思索を撒き散らかす本書には、不勉強な自分が「そういう風に考えればいいのか」と改めて思い知る、定義のような断章がしばしば現れる。
 たとえば「ものごとの外観の背後にはさらに奥行きのある不思議な現実が横たわるという感覚(中略)その現実を、ここでは宗教と呼ぶことはしないが、聖なるものと呼びたい」という一節は、(当人は呼ばないと言ってるけど)なるほど「結局のとこ、宗教って何?」と問われた時の回答にピッタリだ。※多くの自称「聖なるもの」が示してみせる「背後の不思議」がいっこう奥行きがなく薄ぺらなことは措く。
 あるいは「わたしが“経済”という言葉を使うときには(中略)商品、価格、生産、流通、そして交換のみを表わすのではなく、合理的な思考法の総体を表わしている」「経済とは(略)限りある手段を合理的に配分する科学だ」(強調は舞村)という一節は、デカルトやニュートンによる科学革命が社会に投影されて資本主義を生んだのではなく、逆に効率性という経済的な発想が科学革命を促した可能性、を考えるヒントになる(産業革命は蒸気機関などの道具よりまず人間を機械化したというフェデリーチの指摘―昨年10月の日記など参照)。そして何をするにも―なんなら眠ることでさえ「これだけ回復するにはこれだけ眠らなければ」等々コスト感覚=「合理的な配分」で考えてしまうこともまた、吾々が「経済」に全身を浸されてる証左なのだと、改めて思い知らせてくれる。
 この経済的な思考の外に出ることは、とても難しい。
 それでいて、吾々は非合理的で前近代的な蕩尽や侵犯・贈与の論理にドライブされてもいる。

 僕の見るところタウシグは、人々が経済に浸されてることも、逆に公然の嘘に侵犯されていることも、世界はそうなのだからと全面的に受容しているわけではないと思う。
 本書が書かれた時点で彼はどうやらアメリカに住んでいるようだが、9.11後の世界でなお、「テロとの戦いにおいて経験している恐怖」として彼がベンヤミンの受けた迫害になぞらえて想起をうながすのは(テロの標的を自認するアメリカや、それを模倣した日本ではなく)自国内に要するグアンタナモ湾で直に、そしてエジプトやシリアに「外注」する形で、アメリカのほうが拷問を加えている服役者たちのことだ。
 そして文身や性器切除など「未開」的な身体への執着・を理性が克服したはずの現代で「妊娠中絶、同性婚、ES細胞研究、安楽死、コンドーム、(略)経口避妊薬(略)の販売への盲目的なまでの反対(しかしバイアグラに関してはこの限りではない)(略)が、アメリカの選挙で多くの票をかせぎ、全世界のゆくすえを決めていること」(強調は同上)を「悲痛」と呼ぶ彼は、身体に関する人類学の知見を現代に適用する必要を訴える。
 現代文明に抗するオルターナティブとして相互扶助や反権力・自然との調和といった善なる資質を非西欧社会に求めて理想化するのではなく(トキシックな現代を解毒するために、そうした操作も必要だとは思うのだけど)、呪術やトリック・身体的な強制や妄想的な恐怖といった無文字社会のダークな資質が現代文明にいわば裏口から持ち込まれ、人々を支配する道具になっている様態を暴く―タウシグの思索には、そうした新しい?役割を人類学に担わせていこうという気概が感じられる。
 思い出したのはシオドラ・クローヴァーの『イシ』(今年3月の日記参照)で語られていた、金鉱目当てにカリフォルニアを侵略した白人の側が(平地先住民の慣習を模倣して)殺害した先住民の頭皮を剥いで記念品にしていたという逸話だ。経済的合理性や効率主義を自称しながら、人はいくらでも呪術的に(あるいは「野蛮に」)なれる。ナチスのオカルティズムにアメリカの福音主義・日本の政治家のカルトとの癒着など、再考すべきなのかも知れない。
 『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』書影にキャプション:「お金がすべてなはずの資本主義やネオリベが、不合理な国粋主義やカルト・オカルトと親和性が高いのなぜなんだぜ」の謎に食らいつく手がかりがまたひとつ…
 …本当はベンヤミンの墓標に、呪医たちの心霊療法に、嘘=悪とも言い切れない・憎みきれない魅惑も感じているらしい、タウシグの(あるいは人間存在そのものの)複雑さは上手く拾えなかった。あまり良い要約ではなかった気もする。関心のある人は各自で探究を。

      *     *     *
 「お前ココでソレ言う?」な余計ごとだけど人間が「半信半疑で信じてる」ことには初詣の御利益や心霊療法だけでなく「人間は平等だ」みたいな信念も含まれる可能性がある。「人間は平等だというアイディアには何のエビデンスもないが、世界を変える力を持っていた」(セオドア・ローザック/要約)。それくらい今回の話題は是非を安易には決められないということ。

色のついたお金〜マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(上)(24.06.02)

 「悪魔と契約を結んだ者は、うなるほどの金を手にするが、その金は贅沢品にしか使えない。バター、サングラス、上等なシャツ、酒…」
 南米コロンビアの言い伝えに「最初バターなんだ?」と首をかしげて見せつつ、文化人類学者タウシグは自ら種明かしする。
「黄金色でなめらかで、固体とも液体ともつかないこの物体には、欠かせないものがいくつかある。冷却設備、健康な乳牛、酪農家、そして温暖な気候」…国土が赤道を横切る暑い土地、ましてプランテーションの支配下に置かれ「まともな飲み水はおろか、下水設備もないような」細民たちの世界では、なるほどバターは贅沢の象徴に相応しいのだ。

 ま、バターの話は措こう。おおおと思ったのは「うなるほどの金は、贅沢品にしか使えない」という部分だ。
 悪魔との契約も一旦は措こう。五月の連休で実家に帰ったとき、大谷選手が出ている大リーグの試合をテレビで観ながら、ふと「自分が大谷翔平やレディー・ガガだったら、宝石もリムジンも要らないから最初の一年・なんなら半年くらいでサッサと引退して、後はアパート暮らし+つましく自炊+図書館で本を借りて残りの一生『遊んで』暮らすのになあ」と思いついて「でも、そういう発想の人間はたぶん最初からレディー・ガガみたいにはなれないんだよね」とセルフつっこみを入れるまでワンセットだったのを思い出した。※ちなみに大谷選手はわりと「こっち」に近い性格らしく、練習とゲームくらいしかしないので「セレブに相応しくない」と少しずつ贅沢をするよう矯正されている的な話を実家で聞いた。
 より小規模に言うと、時給の高い仕事に転職すれば差額でどんどん貯金できそうなものだけど、気忙しくて外食が増えたり、ストレスで胃薬や頭痛薬の摂取が増えたり、ちょっといい職場にはちょっといい洋服で出勤しなきゃいけなくなったりで「収入の増加と連動するかのような支出の増加」に気づかされたりする。
 「お金に色はついてない」と言うけれど、「悪銭、身につかず」とも言う。実はお金にはわりと色がついていて、荒稼ぎしたお金は豪遊に、プチセレブな収入はプチセレブな贅沢品に、収入のランクに応じて支出のランクやレイヤーもなんだか決められてしまいがちなのでは、ないだろうか。
 もちろん、収入が増えれば、それに見合った支出が「したくなる」こともあるだろう。それも含め。
 そもそも大谷翔平やレディー・ガガに天文学的なギャラが支払われるためには、彼や彼女ひとりではない多数のスタッフが巨大なメカニズムとして動いている。そこで得られた巨額のマネーは高級ブランドやセレブリティな誇示的消費に「正しく」使われなければいけない―そうやって狭い階層の「経済を回す」―そのためにお金を渡してるのだから。そう考えると、ポストモダンだの新自由主義だの鼻を高くしている吾々の経済活動も、南太平洋のクラ交換と存外あんまり変わってないのかも知れない。
 キャプション「何度も言いますが南太平洋のクラ交換では貰った宝物(貝の飾り)は、貰ったら次の相手にあげなきゃいけないし、そうして回覧板みたいに回せば回すほど宝物としての価値が高まる」と、貝飾りを手にした「ひつじちゃん」が「持ってちゃダメ早く手放して!」と言われ「宝物なのに?」と問い返し「宝物だから!」と言われてるイラスト。
 大企業からの不適切な献金で得た裏金も、選挙区での不適切なバラマキにしか使えないとしたら、与党の代議士たちが(実際には億単位の私財も掠め取り、高級料亭で酒を呑んでいる結構な御身分は忘れて)俺たちだって裏金を自分のためになんか使えてやしない・政治には金がかかるんだと不平顔でいても不思議はない…だんだん話が、一旦は措いた「悪魔との契約」に戻ってきた(笑)

 コロンビアの農村で「悪魔との契約」という伝説が生まれたのはサトウキビやトマトなど商品作物のプランテーションを経営する大資本の参入によって、それまで樹木から得られる果物などで食べるには困らなかった自作農が破壊された1970年代だという。貧しい者たちの中に、悪魔と契約して、とつぜん他の畑の何倍ものサトウキビを一年で収穫する成り上がり者(という説話)が出現するようになった。だがその畑は涸れ果て、翌年から作物が育たなくなる―そして得られた悪銭は貯蓄にも投資にも回せず(「家畜を買ったところで、痩せて死ぬ」)、贅沢品の浪費に蕩尽されてしまう。
 もちろん一方で、えげつない稼ぎを一代限りで終わらせず、贅沢や浪費の世襲化に成功した階層もいる。コロンビアの例で言えば元から大農場の主として君臨しに来た富裕層がそうだろう。成り上がりが固定化すれば財閥・貴族・王族になる。でも、悪魔の裏をかいたつもりの人々の中には、国まるごとを「二度と作物が育たない」涸れた土地に変えてしまう最悪クラスの愚者もいる。いや、今のままでは、とくに地球環境のこと(ああ、バターよ…)を考えると、悪魔が貸し付けた「ぼろもうけ」の取り立てから逃れられる者はいないのかも知れない。

 セレブリティに支払われる巨額のギャランティは、巨額をやりとりするセレブ業界のシステムが与えるものだから、すみやかに高級ブランドやグローバル投資などに循環されなければいけない―いっけん動かしがたい世界の法則のように思えるけれど、それらのお金が元々は、たとえば高級ブランドの服を縫う下請けの下請け・最下層の労働者からの吸い上げ(搾取)の積算だと思えば、もっと循環の枠を大きく取って、セレブリティは世界で最も貧しい人々に直接ギャラを還元しても良い気がする。実際に(もちろん豪邸や高級ブランドは維持しながらとはいえ)寄付や福祉に自身の富を還元させる篤志家もいる。
 「こういうメカニズムで社会は動きがちだ」は「それはもうメカニズムなので動かせない」と必ずしも全一致ではない。逆手に取って、風穴を開ける余地はあると思う(昨年11月の日記など参照)。
 キャプション「今週のまとめ:(1)お金には実際に色がついていて上層のお金は上層だけで循環しがち(2)でもそれは下から吸い上げたものだから本来は下まで循環すべきだったのでは?(3)それが出来ないから悪魔に捕まるのでは?」そして「(4)自分は文章をまとめるのが下手だなあ…」と液タブペンを片手にぼやく舞村さん(仮名)。

 マイケル・タウシグヴァルター・ベンヤミンの墓標(原著2006年/金子遊+井上里+水野友美子訳・水声社2016年/外部リンクが開きます)は「未開」と呼ばれる社会に見出せる呪術的な思考が、実は(彼らを未開とさげすみ合理的と自賛する)資本主義・新自由主義の現代社会をもドライブしていることを示唆する巻き返しの書。後篇に続きます。

小ネタ拾遺〜24年5月(24.5.31)

(24.5.3)【受領は倒るるところに百合をつかむ】ベクトルは違えど往年のビビッド○ーミー並みに鬱陶しいch○c○ZAPのweb広告(しかも動画で45秒くらい続く)だがウィングを広げようと漫画仕立てで登場した新CMを見て、世の中に誰か一人くらい「千代○ 咲19歳の百合イラストを描く馬鹿がいてもいいのではと思った次第…
 「咲ちゃん肌すべすべー腹筋のつき具合もほど良くて(さすがチョコ○ッ○)」とガールフレンドにおなかをさすられ「そ…そうかな?」とうろたえる千代○ 咲19歳 今モテ期です…!?というイラスト。
(追記)漫画路線、第二弾までは出たけど続かなかったみたい。

(24.5.6)恥ずかしながら訂正。北陸新幹線の開業・延伸に伴うJR普通線の廃止によって18きっぷで金沢方面に向かうルートは完全に断たれた…というのは間違いだったらしい。かくかくしかじかと岐阜出身の父に話したところ高山本線で富山まで行けない?
 路線図。説明は下記のとおり。
調べてみたら、行ける、行けますよ岐阜から富山までJRの普通列車で。ジョルダンで「横浜〜金沢」を検索しても出てこないルートだけど、分割して「岐阜〜猪谷(高山南線)」「猪谷〜(高山北線)」で問い合わせると、たしかに出てくる。
 とりあえず現時点では・岐阜11:45→15:31高山(待ち30分)16:02→17:05猪谷17:21→18:23富山というダイヤが最も効率的。富山から金沢までは第三セクターで1時間1300円くらい。20時すぎの金沢に駆け込んでもいいし、富山で一泊してもいい。ずっと山の中だから景色も面白いよとは父の言。んー、夏の18きっぷ旅行は熱くて(暑くて、と一発で出なかったけど間違いではない気もする)無理と思ってたけど、ワンチャンないでも無いかも。もちろん能登半島のその先まで行けるのが一番だけども。
(24.5.7追記)念のため確認したら始発前後の朝5時に横浜を出たら18きっぷ=特急未使用でも11時半には岐阜に着くので理論的には一日で横浜から富山まで行けるんだけど、それは旅行じゃなくてエクストリーム・スポーツのたぐいだから(乗車13時間くらい)…
あと土日限定らしいけど岐阜にちょっと気になる本屋が・本屋メガホン(外部リンクが開きます)。

(24.5.9)この札幌の本屋も気になってます。ゲストハウス兼シェルター兼、本屋兼食堂。
ここが安心できる社会のサンプルになればいい ― UNTAPPED HOSTELの場づくり(北海道マガジン・KAI/外部リンクが開きます)
生涯にもう一度くらい小樽を歩きたいし、札幌から夜行バスで函館にも行ってみたいんですよね(言うだけならタダだけど、それ横浜・福島間くらい距離があって水曜どうでしょうで大泉さんとミスターがボロボロになったやつじゃん…)
(追記)札幌→函館バス旅は、むしろ「帰路は函館空港から東京に」とすると新千歳→東京の三倍くらい航空運賃がかかるのがネック。そうそう、そんな感じで前にも挫折した気がしてきた。

(24.5.07)たまには御礼も。本サイトを見てるとは限らないので届かないかもですが
 キャプション「ブックウォーカーのGWセールでRIMの冊子を御購入くださったかた、ありがとうございました。猫夫人も御満悦」に、手を振る軟玉と肩に乗ってまんざらでもなさそうに尻尾を振る猫夫人(こんな時でも描いてたまんが)
コイン50%還元は好いですね、BWは個人出版のばあい販売価格の半分が著者の取り分なので、著者にも半分・買った人にも戻りが半分、ビスケット一枚半分こ・ポッキンアイスの誓いだ…税はまるまる国が取ってくけどな!ともあれ感謝。読んで少しでもお楽しみいただければ尚更。

(24.5.10)うう…ニルヴァーナらを手掛けた名エンジニアのスティーヴ・アルビニが61歳で逝去。その功績を辿る(uDiscoverMusic/24.5.9/外部リンクが開きます)個人的にはゴッドスピードユー!ブラックエンペラーの名盤『ヤンキーUXO』が真っ先に浮かぶし、ボブ・ディランの原曲を粉々に粉砕したP.J.ハーヴェイのカヴァー「追憶のハイウェイ61」(ほかアルバム全部)も捨てがたいけど、たぶん万人が認める代表作(録音)を貼ります↓「爆音を世界一クリアに録るエンジニア」という矛盾した(?)才能、分かりますでしょうか。
Pixies - Bone Machine(外部リンクが開きます)
自身ミュージシャンとしても無二の存在で、日本でも向井秀徳氏(ナンバーガール)など強く影響を受けていたのではないかしら。「MANGA SICK」とか、すごくアルビニっぽいと思います。
(追記)自メモとして音楽サイト・uDiscoverMusicの記事をもうひとつ。
スティーヴ・アルビニからニルヴァーナに充てたメッセージ。『In Utero』制作前の手紙が公開(24.5.10/外部リンクが開きます)
「余計なリミックスはしない」「余分なギャラは求めない」こと音楽に関しては(いっそ傲慢なくらいに)高潔で廉直な人柄が伝わってきます。

(24.5.10)最初からシュレッダーを準備してのパフォーマンス、「挑発」「逆ギレ」「愚弄」と呼ぶべき行為を毎日新聞はイスラエル側に立った見出しで報じるのか。しかも日本は当該の議題(パレスチナの国連加盟)賛成してるのに、それより病院爆撃するイスラエルと学生の平和的なデモを武装権力が制圧するアメリカ側につくんだ、ふーん。
怒りのイスラエル大使 演説中に国連憲章をシュレッダーで細断(外部リンクが開きます)
日本の歴史を多少なりとも知ってるひとの多くが我が代表堂々と退場すを思い出すはずだけど、あれも(侵略戦争に転げ落ちていく)自国政府を翼賛する「新聞社」が言ったことですよな…
僕はそっち側に与したくない。自由なうちは声を上げるし、自由でなくなったら身を潜める。提出期限は5/14で終わっちゃったけど
#freepalestine イスラエル代表を平和記念式典に招待しないよう広島市に要請します!(Change.org/広島パレスチナともしび連帯共同体/外部リンクが開きます)署名しました。
まあ武器輸出や環境省のあれこれ(あれが「環境省」とか真理省なみのサタイアだよな)など見るに、そろそろこの国の行政が平和式典を主催する資格じたい危うい気もするのだけど。

(24.5.12)アメリカのメジャーなミュージシャンで初めて、ガザ停戦を求める学生への連帯を曲で表明したマックルモアの「Hind's Hall」に、YouTubeのコメントだけでも世界中―中東はもちろんバングラディッシュ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、韓国、それに日本などなど―から賛同の声が寄せられている。
 
曲の背景や歌詞の大意はこちら参照:トム・モレロが、「マックルモアの新曲は、レイジ以来最もレイジな曲」とコメント(中略)中村明美の「ニューヨーク通信」(rockin'on.com/24.5.9/外部リンクが開きます)
バックグラウンドに中東全域で愛されているレバノンの女性歌手ファイルーズの代表曲「Ana La Habibi」をサンプリングしているのもリスペクトが感じられます。

(24.5.11)子どもには選挙権も自己決定権もないから、大人は「どうしたら子どもたちが健やかに幸せになれるか」までコミで社会を作らなきゃいけないんだよ。今ごろになって「自民党にお灸を据える」とか言ってるひと、そのへん分かってる?本当に分かってる?…そんな悲しみが、圧倒的なカタルシスとないまぜで打ち寄せる全57ページ。最後の場面の夜明けの街路、歩道橋にガソリンスタンドとファミレスの既視感。たぶん日本のどこでもおかしくない光景だ。
蚊帳りく[特別読切] 勉強はきっとウチらに平等だ!(となりのヤングジャンプ/24.5.10/外部リンクが開きます)
ちなみに花火の黄色は…即座に検索したけど伏せる。伏せるけど、最初に名古屋市科学館のページがヒットして流石と思ったよな(笑。こちら(外部リンク))

(24.5.14)アルバム単位では唯一まともに聴いた『スリラー』の一曲目だから安直といえば安直なのですが、彼の楽曲で自分が一番好きなのは結局コレなのでは?と思いつつ40年くらい気づかなかった
Michael Jackson - Wanna Be Startin' Somethin'(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
3:14あたりでヘッドフォンの右から聞こえる「愛してます」という日本語に酷似した音声。空耳じゃなくて本当にそう言ってる可能性もあるかも…

(24.5.18/加筆少々)日本から逃れた同性カップルがカナダで難民認定というニュース。日本「からの」難民?と目を疑ったひと・とくに百合だBLだとコンテンツの同性愛を消費するだけで「自分は同性愛に理解がある」と取り違え&現実に対して何のアクションも意見表明もしてないひとは、この国で起きてる差別や偏見・「圧」・マイクロアグレッション・制度的にあるいは制度外的に勝手な「裁量」で被る不利益が、難民認定されるくらいの「迫害」だという事実に少しはたじろいでほしい。
もう一度言う。日本はとうとう難民を海外に送り出す側の国になってしまった。それも非民主的な独裁や軍事政権ではなく官民一体の=民衆の自発的な迫害によって。この帰結に、少しはたじろげ。
※当たりが強くなってしまったけれど「権利は一切みとめない」と「コンテンツとして同性愛を消費する」をつなぐ接続詞は「のに(逆説)」ではなく「うえ(順接)」となりうることを少し考えたほうがいいと思う。先月のエイプリルフールなどで同性愛ネタにキャッキャしてた層も。
※○○難民という言葉の軽々しい使用も、今まで以上に自重すべきではないかと。
※これは別の話ですが共同親権とか上川陽子外相の不適切発言とかも、なんなら迫害レベルと思いますよ。上川氏は法相時代のウィシュマさん事件での対応・振る舞いが邪悪だったので、邪悪の上塗りに驚きはないけれど。
(24.07.03追記)日本「からの」難民認定、これが初めてではなかった。2021年にも。やっぱり性差別。6月の日記参照。

24.5.19/すぐ消す)地元ミニシアターでスイスの至宝(だそうです)ダニエル・シュミット監督のデ ジャ ヴュ デジタルリマスター版(シネマ・ジャックアンドベティ/5/24まで/外部リンクが開きます)(1987年)を鑑賞。とにかく主人公がハンサム+斜めに登る路面電車から山上の古城(押韻)・雨宿りする古びた農家まで、ひたすら眼福。物語の鍵となる謎めいた女性が(上記サイトでがっつりネタバレしてますが)キャロル・ブーケなのも嬉しかった。彼女がヒロイン=いわゆる「ボンドガール」をつとめた『007/ユア・アイズ・オンリー』シリーズの中でも(たぶん)異色で大好きなんですよね。とゆうか隣に美女(ブーケ)を載せたボンドが最新装備のスーパーカーではなくオンボロの2CVで、それこそ驚いたニワトリがバタバタ跳ねるような田舎の山道でカーチェイス・そしてラストは古代ローマの海底遺跡で「007なのに実質カリオストロの城」。ちなみにルパンと違ってボンドはいつもどおり最後はくっついちゃうんだけど、演じたロジャー・ムーアのほうが「自分みたいな中年男がこんな若い女性と結ばれるの無理。もう辞めたい」とシリーズ降板を決意したとか…「え、そんなテキトウでいいの」なアヴァンタイトルは御愛嬌。

(24.5.21)階数と階級が比例して一個の社会と化したJ.G.バラードハイ・ライズ』の「超高層」マンションが読んでみたら48階建てくらいで「低っ」と驚いたのだけど(すみません)(1975年作だから仕方ない?)韓国で国産SF隆盛の先駆けとなったらしいペ・ミョンフンタワー(原著2009年/斎藤真理子訳・河出書房新社2022年/外部リンクが開きます)は独立国家と化した674階建てビル・逆に地上1階とか基礎部分にかかる荷重ってどうなのとか(しかも321階に象がいるとか)考えるな自分よ、こういうのが欲しかったんだろう?
 『タワー』書影とキャプション:と言いながら、ここに『ハイ・ライズ』を並べられないカッコ悪さよ…(持ってるのに)#部屋が片づかない
名著(18年12月の日記参照)『目の眩んだ者たちの国家』に寄せられたエッセイ「誰が答えるのか?」でも明らかなように「人々の行動を隅々まで支配しながら(それ自体は)コネや無責任で機能不全を起こしている」現代システムへの不信をベースにしつつ、小説では末端の当事者たちの人間性を対置して仄かな希望を示唆する。とくに独立した短篇としても読めそうな「タクラマカン配達事故」は2009年に描かれた希望が(ネタバレになるので伏せますが)吾々自身の愚かさのせいで無残に打ち砕かれた2024年の今だからこそ輝くし、かつてあった理想を諦めてはいけないのかも。個人的には高層版モンタギューとカピュレットのような「エレベーター機動演習」の顛末にもホロリ。
(追記)『タワー』末尾に収録されたボーナストラック(?)、ありふれた紙コップ入りのコーヒー(テイクアウト)が共同体を崩壊させる「カフェ・ビーンズ・トーキング」がまたエグい。「高度に発達したSFは社会学と区別がつかない」シビれた。

(24.5.24)韓国といえば、事件から十年ということでテレビか何処かでセウォル号のことをやってたらしい。あれがいかに酷い事故で制度も無茶苦茶だったかと(それは確かに事実だったにせよ)声高に話す日本人が、だけどいま自分の国で起きてる袴田事件や入管で起きた一つではない死亡事件については何も語ろうとしないの、やっぱりちょっとおかしいし実はレイシズムなんじゃないかと疑ってもいる。
(同日追記)と、つぶやいた直後に目に飛び込んできたコレ…政府が「ない」と説明してきた浮島丸事件の「乗船者名簿」、やはりあった!(布施祐仁/note/24.5.23/外部リンクが開きます)

(24.5.25)目覚まし。まず朝6時にiPhoneの弱い感じのアラームをかけて二度寝を満喫したあと7時に強めのアラームで起床(←この時点で既にダメ人間)・いよいよ出かけるよ身支度だよの朝8時には標準のアラーム音よりなぜか大きめ爆音めで鳴る
David Bowie - Modern Love(YouTube公式/外部リンクが開きます)
でダメ押しの活を入れている+いつもイントロの「♪どぅぃどぅどぅっどぅチキチキ♪どぅぃどぅどぅっどぅチキチキ…ばばん!!でアラームを停めてるから失念してたけど、その後この曲の歌い出しって外出したくない 家にこもって色々かたづけたいなんですよな…よく今まで惑わされず(ファンとしては裏切りとも言えるが)きちんと外出できてたなあ自分…

(24.5.27)小分けして冷凍しといた白ごはんと間違えて、同じく冷凍してあった刻みタマネギ(それがまた同じくらいの量だったんだわ)をレンチンする程度には疲れ果ててます。来月は持ち直すというか、生活の基礎を固め直したく。

どっちの日本に住みたいか〜室橋裕和『カレー移民の謎』(24.05.19)

 名前のとおり薄荷=ペパーミントにユーカリプタス・湿布薬でお馴染みサリチル酸メチルの原料となるウィンターグリーンなどをブレンドし、頭痛や肩こり・風邪や軽い火傷などにも効くという萬應白花油(万能ハッカ油)は台湾だとコンビニで買える定番商品だけど、日本ではAmaz○nですら入手しにくく、店頭では7〜8年前に新宿のアジア食材店で一度みかけたきりだった。いつも長粒米などを買っている地元ヨコハマの同様の食材店で入荷が確認できたのは自分の知るかぎり初めてのことだ。
 ジャスミン米のパック(右)と和興白花油(右)。キャプション「白花油は犬猫には良くないらしいので御注意(愛はつらいものよ)」
※後述する大久保では、もっと入手が容易かも知れない。
※台湾で主流の「萬應」ではなく香港以南で流通しているという「和興白花油」でした。
 同店の同じ棚ではサリチル酸メチルを主体にしたフィリピンのマッサージオイルをしばらく置いていたが、定着しなかったのだろう。白花油は定着してくれると嬉しい一方、これも温暖化・じわじわ日本が南アジアの仲間入りしつつある徴ではと思わないでもなく。
 こちらは昨日今日の新店じゃない、ワンタンと魯肉飯(この店の表記だと「滷肉飯」)がメインの、つまりは台湾食堂に入ってみたのも最近。店内のつくりまで完全に台湾の「ざっかけない」感じで
 左:瑞芳(台湾)の雲呑湯と魯肉飯65元。右:伊勢佐木町(横浜)2024年のワンタンスープと滷肉飯980円。右のほうが大ぶりでサラダもあり・滷肉飯は煮玉子半分つき
 「白花油もあるし雲呑湯と魯肉飯も現地に近い雰囲気で食べられる…もうこれで妥協しとけば?というお告げでないことを願いつつ(出来ればせめて後いちどくらい本物の台湾に行きたい)
 もちろん受け手である僕自身の意識が「そっち」向きになったので、このワンタン屋のように今まで見過ごしていたものが目に入るようになった側面もあるだろう。けれど事実としてアジア系の食材店などは増えてもいるはずだ。
【ここで(早いけど)今週のまとめ(仮)】ごちゃごちゃ雑多なアジアへの(再)編入と、西欧ブランドに追随する路線の継続。日本のグローバル化は相反するベクトルの綱引きなのかも。

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 インドカレーを売りにしながらネパールの国旗を掲げる、いわゆる「インネパ」料理店も近年の台頭いちじるしい存在かも知れない。その呼称になんとなく軽侮のニュアンスが透けて見える(気がする)ように、甘口のバターチキンに巨大化したナン・それもチーズナンやあんこナンなどの変わり種といった路線は「本格的でない」「イージーな客におもねっている」「安かろう悪かろう」的に見下げられる傾向も、ないとは言えないだろう。
 偏見も半分・だがファンでも歯がゆく感じる実情も半分はあるらしい。「巨大ナンにバターチキン・オレンジ色のドレッシングがかかったサラダ…もとより地元ネパールの料理でないし、かといって本格インドからも逸脱したメニューをコピペのように供する店が、どうしてこんなに増えたのか」その経緯を長らくタイに居住・帰国後は新大久保を拠点にして移民取材を中心に執筆するルポライターが丁寧に解きほぐしたのが
室橋裕和カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』(集英社新書/2024年/外部リンクが開きます)
 まずはラス・ビハリ・ボースが監修した新宿中村屋のインドカレーや、銀座ナイルのムルギーカレーに始まる(イギリス経由でない)インド直系のカレー史が面白い。
 出てくるなり「しっかり混ぜて」と言われる銀座ナイルレストランのムルギーカレー。美味しいけど、たしかに見るからにナンで食べる「インドカレー」ではない。
 ナンとタンドリーチキンを主体とした吾々がよく知る「インドカレー」はムガール帝国の宮廷料理=ムグライ料理をベースに銀座(のちに新宿)「アショカ」が供したのが嚆矢だという。あるいは「バターチキンカレーの祖」六本木モティなどレジェンド級の名店が作り上げていった「インドカレー」のスタイルが、2000年代を機にネパール人たちによって一気に拡がる。

 カースト制の意識が強く残り、コックはコックの仕事に徹する(以外しない)インド人に比べ、厨房から接客・掃除まで何でもこなせることも、ネパール人がスタッフとして重宝された一因らしい。規制緩和により外国人でも500万円の出資で会社を作れるようになり、数人集めれば開業が容易にもなった。そうして独立したネパール店主たちは、自分たちが勤めていた元店のスタイルを意識的に模倣した。
 時には元店のカラフルなメニュー表まで、そのままコピーすることもあるそうだ。安易と批判もされながら(大手ハンバーガーや牛丼店のようなフランチャイズ形式でもないのに)チェーン店のように激似したスタイルがコピペされる理由のひとつは、実は日本の入管行政だった。カトマンズのような都会でなく農村部からそのまま日本に来る若者には、まともなコック業の経験もなく現場に入ってから見様見真似で調理を憶える者も少なくないという。これはネパールの側での教育・大きな意味での政治や行政の問題だ。けれど彼らがたとえば地元ネパールの料理を前面に出すなどの冒険をおそれ、ひたすら前例を遵守するのは、1〜3年という短いスパンで更新される居住許可の審査に通るためには確実に収益を出さねばならない・失敗が許されないという不安があるためだと本書は指摘する。
 タンドールもそうだ。名前のとおりタンドリーチキン・それにナンの調理にも欠かせない大型の窯タンドールは、より簡単なチャパティなどが主流のインド本国を超えて日本で大々的に普及・定着した。その理由として挙げられるのは、入管の審査で提出する店内設備の写真にタンドールがあればキチンとした店だという判断材料に「なるのではないか」という(実は明確な規定ではない)予断だ。お店の近くでよく見かけるチラシ配りも、それで客を呼び込むだけでなく、審査のため「やっておくに越したことはない」実績づくりの側面が強いらしい。
 同様の「これが日本では受けるのだろう」という予断がメニューを固定化し、ナンを巨大化し、無理な価格切り下げにつながる。カナとかダルバートと呼ばれるネパール本来の家庭的な料理はダル(豆)のスープをライス(バート)にかけ回し、カレーやらアチャール(漬け物)やらをどんどん混ぜ込んで食べるもので、今「ミールス」と呼ばれ大人気の南インド風メニューに雰囲気は近いし(豆スープがベースなので味はもっと素朴)いっけん地味だがクセになる味わいが知られさえすれば一気に、それこそ「ビリヤニ」や「ガパオライス」のように一気に普及する可能性はあると思うのだけど…
 日本国内・各地のダルバート(写真みっつ)。矢印はダル。好きが高じて日本人が開いたお店も。
(とゆうかネパール式インドカレーを愛好してきた層にもボリュームたっぷりのチーズナンを食べきれなくなり、野菜主体のダルバートに乗り換えたくなる日はきっと来る(泣))
 著者みずからネパール本国まで足を延ばした取材記も興味ぶかい。ムグライ料理の語源が(タージ・マハールの写真とともに)教科書で習うムガール帝国であるように、日本の「インネパ」店に多くの働き手を送り出しているガルコット地方は別の読みかたではグルカ=独特の形状と殺傷力で知られる「グルカナイフ」を操る精鋭グルカ兵を輩出した地でもあるとか。読み手の関心によって異なる見どころが味わえる、それこそよく混ぜたカレーのような好著と言えましょう…とか上手そうなことを言うと「終わり」っぽいけど、今週の日記(週記)はもう少し続く。

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 おかしいなあって思う。みんながんばってるのにね(『カレー移民の謎』)
 排外主義者みたく移民の人たちを蔑視しないし、逆に「可哀想なひとたち」と極度に憐れんだりもしない…そうスタンスを明確にし「ドロドロした部分もあって、そこをほじくり返されるのは本意ではなかったかもしれないが」と気にかけつつ彼ら彼女らのしたたかなところ・逆に弱いところなどもフラットに綴る著者だけど、それでも日本の入管行政・移民政策はおかしいという認識に、ならないほうが不自然なのだろう。
 同じ著者のルポ コロナ禍の移民たち(明石書店2021年/外部リンク/今回あまり言及できないけど、これも好著)を続けざまに読んだタイミングで
 絵的にはナンやカレーを横に並べたかったところですが『カレー移民の謎』『コロナ禍の移民たち』本だけ並べた写真。後者は図書館のシールつき。
YouTubeのオススメ動画にゲストとして著者・室橋氏の姿が。
【新大久保】東京最大級の移民街に潜入、若い女性客が集うコリアンタウンの知られざる実態とは《村田らむの日本DEEP探訪#7》(楽待・YouTube/外部リンクが開きます)
【移民の街】円安の波で出稼ぎの外国人が苦境に?多様な人種が集う「新大久保」のリアル《村田らむの日本DEEP探訪#8》(同上)
DEEP・アングラと呼んで何かと話を「ヤバい」方向に持っていきたがる(?)ホストに随所で「今はそんなことない」「地元の日本人とも協力しあってやっている」と釘を差す室橋氏、二本目の最後のほうで「新宿・大久保じたい江戸時代に地方から出てきた武士が集住して出来た街(百人町の地名の由来は鉄砲百人隊だそうな)、戦後も各地から人が流入してきた=同じ他所者どうしじゃないかと言う日本人住民も多い」でまとめる動画、いい塩梅だと思いました。また、コリアン・ネパール人・フィリピン人・ベトナム人…さまざまな民族が入り混じった大久保のにぎわいに、ビジネスとして日本人も参入したらいいのに・日本人ならではの細やかなサービスは需要があるはずだという見解に、移民たちのバイタリティに対して引っ込み思案な日本人たちへの歯がゆさが見え隠れするのも面白い。
 (外国人は騒音が…というテンプレの苦情に対し、日本人が安らぐ「閑静な住宅街」を南アジアの人々はむしろ怖がる・騒がしいほうが安心するのだという指摘は目ウロコだし、たぶん人一倍に集団の騒がしさが気に障ってしまう僕などは寂しかったりもするのだが、それはまた別の話)

 2021年に出版された『コロナ禍の移民たち』は、さまざまな自助努力で苦境をやり過ごし、逆に日本人が消極的な間に新大久保などの条件のいい不動産を積極的に買って出た移民たちは「コロナ禍に打ち勝った」と結論づける。だが彼ら彼女らに扉を閉ざし続ける日本社会そのものを前にはどうだったか。
 外国人が日本社会の一員になるのは実質的に難しい」「いつかは帰る人って扱いなんですよね…3年後の『カレー移民の謎』は「グリーンカードや国籍が取りやすく、出生地主義なので子供が生まれたら国籍が取れる」カナダやアメリカにカレー移民たちの心が移りつつある現状をレポートして結ばれる。
 日本に定着し永住権を取得した人たちすら、税金の滞納などを理由に追放しようという改悪入管法。
 外国人を「いつか帰る」扱いすることで、刹那的になり荒むのは「来る」外国人ばかりではない。受け容れる(というか受け容れないのに利用だけする)側の日本人も「インネパは贋物」と見下しながら安いランチはちゃっかり利用する利巧者のつもりで、見下してるコピペ食品にしかありつけない貧しさに閉じこめられてはいないだろうか。もちろんカレーだけでなく社会全般の話をしている。
 僕の見立てでは、少なからぬ人たちが、これからもっと貧しくなる。そのとき頼りになるのは多額の広告費が上乗せされたアメリカやヨーロッパのブランド品やコンビニスイーツではないと思うのだけど。
 個人的には地元の「インネパ」は贔屓のお店だしチーズナンも大好きです、というキャプションと、近所の「インネパ」店の豪勢なランチ写真二枚。それぞれ二種のカレーにタンドリーチキン・オレンジのドレッシングがかかったサラダにデザートのヨーグルト・そしてナン(片方はチーズナン)
【今週のまとめ(2)】やや軽侮のように「インネパ」と呼ばれるカレー屋が今後急速に(ダルバート屋に生まれ変わるなど発展的な形でなく)担い手であるネパール移民ごと姿を消すとしたら、衰退してるのは日本のほうかも知れない
【今週のまとめ(3)】何につけ「二流」「まがいもの」と小馬鹿にしながら「安いから」「タダだから」「安易に欲を満たしてくれるから」と依存するのは止めましょう。利巧なようで不毛な生きかたです。

 
 そして上に紹介したYouTube動画によると、コロナ以来、訪ねていない大阪・西成に関帝廟が出来たとか。大手リゾートによる再開発より、そっちのが僕には好ましいので一度は再訪してみたい。

(24.5.21追記)部屋で探して見つからないと思った物品が、諦めて外でスペアを買ってきた途端ひょんな処から出てくるように―「見かけない」と書いて文章をアップした途端に見つかるんだなあ。横浜中華街でも見つけました、和興白花油。真っ赤や金色の縁起物っぽい飾りを商ってる=あまり自分には御縁なさげなお店のショーウィンドウの端っこに「あ、醤油膏(とろみがあって甘辛な台湾の醤油)が業○スーパーより50円ほど安い」と入ったら、醤油膏ほか食材を並べた棚の下のほうにタイガーバームなんかと並んで白花油が。流石は中華街。別系統のやはり万能アロマオイル・緑油精もあったので気が向いたら今度はそちらを買い求めるかも。

Ain't that peculiar〜ポール・オースター追悼(24.5.6)

 またひとつの時代が過ぎ去った感。90〜ゼロ年代くらいの一時期、「本が好き」みたいに自らをアイデンティファイする人々にとって、ポール・オースターは取り敢えず読んでおくべき作家の一人・もしかしたら筆頭だったかも知れない。当時の僕も(たぶん多少は背伸びして)その流れに乗ろうとした一人ではあった。

 『ミスター・ヴァーティゴ(Mr.Vertigo)』は英語のペーパーバックで挑戦した記憶があるのだけど、途中で挫折して最後は邦訳で読み終えたような気もする。孤児の主人公が謎の人物ヴァーティゴ氏に拾われ「ain't」という言いかたはやめなさいと矯正される場面があった。
 まず学校では習わない、でも洋楽などには頻出する表現だ。イット・エイント・イージー。エイント・ザット・ピキュリアー。エイント・ノー・キュアー・フォー・ザ・サマータイム・ブルース。イット・エイント・ミー、ベイブ、ノーノーノー。
Bob Dylan - It Ain't Me Babe(Official Audio)(YouTube/外部リンクが開きます)
ボブ・ディランのLike a Rolling StoneのクライマックスにYou ain't got nothing, you got nothing to lose(何も持ってないお前さんに、失なう物があるもんか)とあるように主語が何人称でも、何ならbe動詞や一般動詞かすら気にせず否定は全部ain'tで通せる、こんな便利なものをなぜ、もっと使わないのだろうと中学生の頃から僕はひそかに思っていた。
 ダメな理由というかニュアンスが氷解したのは柴田元幸氏による邦訳を見た時だ。ain'tを使うなのくだりは、こう訳されていた−「じゃねえよ」ではなく「じゃないよ」と言いなさい。適切な訳ってすごい。なるほどねえと納得した。カジュアルな会話や私信・SNSの「つぶやき」などでは使うけど、公の場では推奨されない、みたいな位置づけらしい。

 いや、柴田氏ではなくオースターの話。
 柴田氏が訳し、紹介するような英米文学の「今」に追随しようという気概も「若いころは自分も頑張ってた」という思い出になった頃、思わぬところでオースターの名に再会したのは数年前のことだ。
 最初は売れない詩人としてスタートしたオースターが小説家として成功する前(その駆け出し時代の文章をまとめた『空腹の技法』という文庫は、ややもすると抽象的な後の小説より取っつきやすい面もあり、リリカルで好ましい一冊だったように思う)パリ暮らしをしていた一時期、英語圏ではまだそれほど知られていなかったフランスの文化人類学者ピエール・クラストルの文章に惚れこみ、英訳の出版を模索していたというのだ。
ピエール・クラストルとポール・オースターの「出会い」(洛北出版/外部リンクが開きます)
 本サイトでも何度か言及したように思うけど、未開で文明に達しなかったと捉えられてきた部族社会は、逆に文明≒国家の破壊的な力を敢えて避けた「国家に抗する社会」だったというコペルニクス的な洞察を、詩的な文章で遺した夭折の学者だ。たとえば30年前だったらオースターに挑戦していたような(本に真実や生きるよすがを求めるような)本好きが、今だったら手を伸ばしてるかも知れない 高島鈴布団の中から蜂起せよ(人文書院2022年/外部リンク)みたいな本がクラストルにも言及してるので「あー、あの」と手を打つひとも居ると思いたい。
 いや、クラストルでなくオースターの話。
 書影。『空腹の技法』(新潮文庫)と、「はじめてのクラストル」と帯の巻かれた『社会は国家をもたぬよう努めてきた〜クラストルは語る』(洛北出版)
 上で「抽象的」と書いたのは明らかな「誤訳」で、具体的な描写もいくらでもある、けれど何とも言えない不思議なズレかたをした小説を書く人だったように思う。それを的確に表現する語彙が少なくとも今の自分の中に見つからないのだけど―
 コロナ禍の初期、すごく社会が終末的な暗さに澱んでいた時期、その雰囲気に相応しい本として再読したいと思ったのが『サラエボ旅行案内』と、オースターの最後の物たちの国で(白水社Uブックス/1999年/品切/外部リンク)の二冊だった。
 前者についてはWikipediaの記事(外部リンク)を読んでもらったほうが早いと思う。後者は、曖昧とか抽象的とかネジがズレてるとか、それこそヴァーティゴ(めまい)のようなと呼びたくなる作風が削ぎ落とされ、(そういう荒涼感も実はずっと伏流していた気もするけれど)ひどくシビアな筆致で描かれたポスト・アポカリプス世界の物語だった。
 オースターの訃報は、その後も果たせていない再読を早くという、時の催促かも知れない。暗い時期すら通り越して、なるほどこれが「明るい滅び」かと思わされる今だからこそ。

 彼の逝去を悼む。そして彼の作品を愛好していた(僕も含めた)人たちみんなを悼む。僕たちを構成しているのは僕たちが愛好する事物や人々・作品であり、それらが少しずつこの世から取り去られるたび、僕たちも少しずつ、その部分から向こう側に籍を移しているのだ。いつもいつも言うことだけれど、弔鐘は他ならぬ吾々のために鳴っている。さよならオースター、さよならオースターを食べて生きた僕たち。その身体が枯れ果て、心を構成するものが全て向こう側に移ってしまった時、僕たちは向こう側でまた逢えるだろう。…何を言ってるんだって感じですが、(死してなお)かくもヘンテコな考えに人を走らせる作家だったと言えるかも知れません。

 金沢で治部煮を食べながら、食堂のカウンターでページをめくっていた『ミスター・ヴァーティゴ』は英語だったか日本語だったか、もう思い出せない。オースターの作品も、ストーリーや細部は忘れ、ただ読んでる最中しあわせだった感触ばかりが残っている。Pleasures remain, so does the pain. Words are meaningless and forgettable.って本当かも。いや、それもまた別の話だけど。

 

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