まんがなど
(21.04.25更新)
虹ヶ咲の二次創作を追加。



発行物ご案内
(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
電書化、始めました。
電書へのリンク
こちらから
、著者ページが開きます。

過去日記一覧(随時リカバリ中)

過去日記キーワード検索
終了しました(22.11.19)
Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

小ネタですが本篇更新。三年ぶり。(23.12.24)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

愛と劣情の馬たち(Instagram)

if you have a vote, use it.(save kids)

(24.2.18)メイン日記(週記)更新。人は誰でも表現者、という前提で考える「表現者の幸福とは何か」。思い通りの表現を求め続けた彼に訊いてみましょう。そう、ザッパです。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、またはこちらから。

(24.2.20追記あり)


(24.2.22/すぐ消す)久しぶりにマフラーを巻く。寒の戻りだ。違うか。
(24.2.20)アムネスティ・インターナショナルが、パレスチナへの攻撃停止と支援を要請するメールをイスラエル政府に送るよう呼びかけています。
イスラエル/被占領パレスチナ地域/パレスチナ:ガザへの物資支援を止めるな(外部リンクが開きます)
メールの文例は英文のため、Google翻訳の「ですます」を手直しした程度ですが、一応の和訳を参考までに→ たたんであります。(クリックで開閉します)。
 ちなみに自分は「Immediately stop the inhumane attacks on the Gaza Strip and begin relief operations.(ガザ地区への非人道的な攻撃をただちに停止し、救援活動を開始してください)」という題でメールしました。「Please」ってつけるべきだったかも知れないけど、ちょっと忍耐の限界。3/31までに送ってほしい由。検討を、あるいは勢いで。

(24.2.17/しばらく掲示)北陸の震災を受けて、三条周辺が舞台だった22年のアニメDo It Yourself !! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-(Anime Times/YouTube/外部リンク)が3/1まで全12話チャリティー配信。ふわふわしてるのにネジがきっちり締まってるとでも言いますか、個人的には、前から気になってた店+1回分だけの18きっぷを使う口実とはいえ、本作で主人公たちも食べてたのがダメ押しで三条までカレー食べに行った程度には高評価な作品(ベタ惚れやん…)
 いつぞやの拍手お礼のリサイクル。三条スパイス研究所のビリヤニセット。ビリヤニといってもあっさりめで付属のカレーや漬物と合わせると丁度いい塩梅になるスタイル。好かったです。
視聴自体は無料で、間に入る広告収入全額が新潟への寄付になる由。ひたすら観てて心地よい良作なので、支援も兼ねて是非。
(21.2.9/消さない/適宜書き直し)いつも今度の法案はひどい今度の政策はひどい狼だ狼だと喧しい本サイトですが、でも狼じっさい毎回来て皆(吾々)の牧場を荒らしてるのも事実+この狼は特大かつポイント・オブ・ノーリターン級のまずさだと思い2月下旬に国会提出といわれる「食料供給困難事態対策法案(仮称)」に反対の警鐘を鳴らします。
・参考記事:農家に増産指示、罰金も 食料危機時の対策法案、概要判明(24.2.8/共同通信/外部リンクが開きます)
 実はもう既に「何を言っても無駄なんだろうけど」感でグッタリしてしまっているので(同日23時半)怒る気力があるうち瞬発力で官邸に意見送ったり上記のとおりサイトにも書けて好かったと思う(グッタリしてる「ひつじちゃん」のイラストを添えて)
記事から一番まずい点を抜き出すと政府が供給目標を設定。農家に増産計画の届け出を指示できるとし、従わない場合は20万円以下の罰金を科す
0)そもそも意図的にせよ結果的にせよ政策で食糧自給率を下げてきた張本人である政府が「いざとなったら政府の計画で農家に言うこと聞かせるぞ、えへん」と宣う(のたまう)のがちゃんちゃらおかしい(その供給計画とやらも原発や万博や辺野古基地やマイナンバーカードみたいに自滅的な内容にならないと?)…というのはむしろ末節で
1)政府が繰り返し導入をはかっている緊急事態条項の、いわば裏口からの持ち込みであること
2)しかも(0で述べたように基本無能な政府が)「目標は政府サマが決めるから、実現のための計画はお前らが策定しろ」というの、本来は政府がやるべき公助を子ども食堂に丸投げ+新たに「拒否したら罰金な」が加わってるのがDVみたいで本当にトキシック
3)そんなこと言ったって、もし食料がなくなったら困るのは私や(こうして異を唱えてる)お前自身じゃないかと反論して政府を擁護する(政府サマにたてつくな)向きもあるかも知れないけど、個の生存・個の自由の確保が→なぜか国家による直接の命令・統制・罰則に直結するの「おかしくね?」と一度、立ち止まって考えるべきでは
4)しかもそれが「みんなのため」「国のため」「絆」みたいな美名を帯びながら実際には「私たちみんな(=国家)のために一部の国民は罰則つきの決定権に服従しろ」=「みんな」とは正反対の「分断」を推進している異様さも「そのりくつはおかしい」と
+)気持ちがアッパーな時に書き直しているが、自分(のほう)が間違ってるのではないかという疑念は常にある。Maybe I'm lying. I'm nothing, and nothing will help me.落ち込んでる時のほうが多い。
署名:UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)への資金拠出を見合わせた日本政府【ならびに各国政府】に撤回を求めます(change.org/24.1.28〜/外部リンクが開きます)に賛同しました。2/3のサイト日記で近隣愛と遠心愛って話をちょっとしたけど(まあ皆様お察しのとおり)わりかし後者ベースらしい自分は、かなり怒ってます。・UNRWAのパレスチナ支援・日本参加70周年特設サイト(外部)も一応。経済状況が許せば支援も(←これは月末の自分宛/24.2.4)
日本赤十字社 令和6年能登半島地震災害義援金(石川県)(外部リンク)も始まりました。(24.1.4)
令和6年能登半島地震 緊急支援募金(Yahoo!基金)(外部リンクが開きます)こちらはYahoo!のIDが必要ですが、Tポイントでの寄付も可能です。(24.1.2)

扉絵だけじゃないです。side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
(23.11.1)アムネスティの署名に賛同しました。・ガザ・イスラエル紛争の即時停戦を!(外部リンクが開きます)
(23.10.24)国境なき医師団がイスラエル・パレスチナでの「無差別攻撃の即時停止」と「医療の保護」、「人道性の回復」を求める署名を開始しました(外部リンクが開きます)。署名の取りまとめはChange.orgのようです。
緊急支援も、宛先はガザと確定ではなさそうだけど(おそらくガザが最優先、でも他でも異存はないので)こないだの休日出勤の手当て分を寄付しました。「これが自分の推し活(人類を箱推し)」と思えば「偽善で自分の生活費を削って」みたいな心の疼きも少し軽くなる。
【電書新刊(無料)】3/21の創作同人電子書籍・新作いっせい配信(外部リンク)に合わせて、2016・18・19年のペーパーまんがを一冊にまとめました。Web上では公開済の小ネタ集ですが、再編集で読みやすくなってます。『RIMpack 2016・2018・2019±』(BOOK☆WALKER)無料なのでガッついて宣伝でもないし、気が向いた時にどうぞ。下の画像か、こちらから

RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、こちらから。『読書子に寄す pt.1』電書販売ページへのリンク画像
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08)

猫とザッパとアガンベン〜『ZAPPA』『創造とアナーキー』『ボブという名の猫』(24.2.18)

 少しずつ中国語の勉強も再開してるのですが、その「勉強」。日本語では学習を意味する「勉強」という言葉が、元の中国語では「無理する」「仕方なくする」「我慢してする」みたいな意味らしいと知り、それだけなら言葉って面白いねハハハなんだけど
 用例「仰不要勉強自己(Don't force yourself)(無理しなくていいってば)
半世紀くらい前まで商品を「まける」価格を下げて提供するという意味で使われてた(らしい)表現「勉強する」「もう少し勉強してよ」「せいいっぱい勉強してます」ってコレか!と気づき、ガゼン色めき立つ自分。てゆか逆になんで日本では勉強=学習か。意味がネジ曲がったのか、それとも中国でも勉強=学習だった時代があって、言うなれば呉音と漢音みたいに別々の時期に、ふたつの「勉強」が時間差で日本に定着したのか。一を知ると、逆に二も三も分からないことが増える。
 もっともらしく言えば、知るとは、知の可動域が広がることなのだろう。前にも(わりと最近)こんなことを考えた気がする。←後で思い出した。文末参照。

      *     *     *
 先週の日記で引用したシモーヌ・ヴェイユの「たとえば何処かの国の首都を新たに知ったところで真理に近づけはしない(要約)」で思い出した別の言葉がある。
 Information is not knowledge (情報は知識ではない)
アインシュタインの言葉だそうでThe only source of knowledge is experience.(知識の唯一の源泉は経験だ)と続くらしいのだけれど(本当かなあ)、僕が知ってたのは別の、個人的にはアインシュタインのよりずっと好いと思うバージョンだ。できれば憶えて帰ってほしい:
 Well, information is not knowledge.
 Knowledge is not wisdom.
 Wisdom is not truth.
 Truth is not beauty.
 Beauty is not love.
 Love is not music.
 Music is the best.

(あのね、情報は知識じゃないの
 知識は知恵じゃないし
 知恵は真実とは限らない
 真実と美も違うし
 美と愛も別物だけど
 愛だって音楽じゃない
 一番なのは音楽よね)
音楽が禁じられた世界を描いたフランク・ザッパの大作アルバム『ジョーのガレージ』に登場する一節だ。
 映画館の入口で撮った『ZAPPA』のポスター画像。タバコを咥えたザッパ。
 ※今週の日記(週記)は、この後のザッパの話もアガンベンの話もツイッター(現X)で2022年に「つぶやいた」内容のサルベージ+再編集です。

 その名も『ZAPPA』、文字どおりフランク・ザッパ=実験的な音楽や下品な歌詞(ウッカリ食べた黄色い雪は誰かの小便の跡だったとか…ここには書けない差別的な歌詞も少なくない)・過激な言動と超絶ギターで勇名・悪名をとどろかせた鬼才ミュージシャンのドキュメンタリー映画を観たのは22年の6月。どうせまた「よかった」なんでしょとお思いでしょうが、もちろん良かった(と書いてる当時の自分)
 エイドリアン・ブリュー、テリー・ボジオ、数多くの弟子を輩出した中でも、とくに有名だろうギタリストのスティーヴ・ヴァイが長めに話してるのもまた良かった。
参考:スティーヴ・ヴァイ、フランク・ザッパのツアーは過酷なスケジュールだったため、睡眠中にも曲を学ばなければならなかった(amass/23.8.3/外部リンクが開きます)

 奇想と言うのか、とにかく発想の幅が広くて、かつ発想した音楽をイメージどおりに具現化したい人だった。スタジオでも、ステージでも。楽器でも何でも全ての音源をデジタル化し思いどおりに加工できる、今なら当たり前かも知れないけど40年前には一台一億円したという万能サンプリング機(シンクラヴィア)を導入して一人でアルバムを作ったこともあった。ライブ演奏でも(ヴァイなど)豊富な人材を道具のように酷使したりもしたが、音楽を通して(ヴァイなど)人に惜しみなく与えもし、敬愛されつづけるザッパ。しかし享年わずか53歳とは…
 プルースト(1871-1922/享年51)・ザッパ(1940-1993/享年53)いや、ヒゲと早世と子供時代の喘息以外とくに共通点ない二人だけど色々身につまされる…とプルーストを読みながら泣く舞村さん(仮名)。
 理想の音楽の追求は流通面にも関わる。業界でもいち早く独立レーベルを立ち上げ、好きなように作品をリリースできる環境を手に入れた。そして、せっかく自分は自由でレコード会社の顔色を気にしなくてよいのだからと、80年代初頭にプリンスなどが(猥褻な歌詞で)槍玉にあげられ進められた歌詞検閲との闘いを、わざわざ進んで買って出る。日本では冷笑勢が「ビートルズ(ジョン・レノン)の平和主義を揶揄した」と曲解して広めた「俺はデンタル・フロスの歌を作ったが、それで皆の虫歯がなくなったか?」も、本来は検閲に抗するためのレトリックだったはずだ。
 話を横滑りさせると、プリンスは90年代いよいよ所属レーベルとの関係が悪化し、頬に「SLAVE(奴隷)」と直書きし「Prince(1958-1993)」と墓碑銘のようなジャケットのアルバムを最後に「プリンス」という名前の使用すら止めてしまう。当時は奇行と呼ばれ(The Artist Formally Known as Prince - 元プリンスという新名称は当時ミームになったはずだ)ある意味で中年クライシスの典型症状でもあるけど、映画『ZAPPA』を観ると、また印象が変わってくる。なにしろザッパは言うのだ。音楽家を目指すなら不動産鑑定士の資格を取るべきだ、音楽で食べていかなくてもいいようにと。
 丁度この映画を観た頃、もう評価は不動なんじゃないかと僕でも思うような日本の一流ミュージシャンが、近年は音源制作がままならない、自分が信頼できる技倆の演奏者とアルバムを作ることが予算的にむずかしいと吐露していて(たぶんサブスクによる収益配分の変化などもあるのだろう)ショックだったのを憶えている。プリンス、ザッパ、それにまだ存命のブライアン・イーノとリチャード・D・ジェイムズ(エイフェックス・ツイン)…自分が知るかぎり、この四人は未発表の音源を山ほど持っていると言われる天才鬼才だけど、それもまた視点を変えれば、山ほどの楽曲を制作できてもなお、それを作品=商品として流通に乗せられるかは別という話かも知れない。採算とか損益分岐線とか。
 同時期(つまり2022年)に読んだアガンベンの芸術論を思い出し、表現者にとっての幸せって何だろう、と少し考えてしまった(ようだ、当時の自分は)。
 キャプション「個人的にはイーノ先生には「Windows95の起動音」の報酬だけで一生無理せず好きな音楽だけ作っていける収入があってほしい…買い切り・歩合制どっちだったんだろう←下世話」

      *     *     *
 ジョルジョ・アガンベン創造とアナーキー』(岡田温司・中村魁訳/月曜社)は薄くて(アガンベンにしては)とっつきやすげな一冊。冒頭のエッセイは、芸術は「芸術家」と「作品」どちらのものかと考察していて面白い。
 とっつきやす「げ」←とっつきやす「い」とは言ってない…と苦笑する「ひつじちゃん」の挿し絵。
 著者によれば古代ギリシャでは芸術は出来上がった作品に宿るもので、それを作る芸術家自身の身分は低かったという。それが中世ヨーロッパ=トマス・アクィナスの頃になると、世界を創造した神になぞらえ、人間も内なる芸術・自身のうちにある真実や善性を作品としてアウトプット=創造するという考え方に(次第に)移行し、20世紀には芸術は芸術家の行為・パフォーマンスに宿ると認識されるに至る。
 もちろんアガンベンの思索はもっと晦渋なんだけど、芸術の芸術性が作品にあるのだとすれば、芸術家自身は残余に過ぎないから身分が低かったのも分かるし、芸術を遂行する芸術家の行為こそが芸術なのだとしたら、作品こそが抜け殻の残余ということになる(のも理論的には分かる)。まあ無理に二項対立・三項鼎立(古代・中世・現代)にせず都合に応じて使い分ければ良くね?とイイカゲンな自分は思ったりするのだけれど、物語には物語の神様がいる=創作物の価値(芸術性なり何なり)は作家の外にある、という信仰なしに全部「私(たち)」の手柄という姿勢で創作ができるひとたちを僕はちょっとおそろしく思うほうなので、古代の考え方も、あるていど理解できる気もするのだった。
(とはいえ、物語は物語の神様が授けてくれる(アイヌ神謡集で神様が獲物となって人間のもとに来てくれるように)という信仰は、作者の無責任を保証はしなくて、同時に描いたものは自身を通したものであり、描かれたものに作者は全面的に責任を負うとも思っているのだけれど)
 はい、話が逸れました。戻します。

 芸術を作品による独占(古代)から解放し、作者に内から備わっている真実の表出とも考える中世とも訣別し、(ミサがキリストの奇跡の再現ではなく再現前・再演であってそのつど奇跡であるように)芸術もその試み自体が毎回あたらしい芸術なのだとした20世紀的な考えかたは、今度は商業主義と結びついて芸術・芸術家のパフォーマンス・そして商品の三者を同一視するようになった。俗にくだいて言うと「芸術とは芸術家っぽい振る舞いのことで、それはカネになる」。かかる現状をアガンベン先生は嘆いているようだ(たぶん)(晦渋なのよ)。それに対して、じゃあどういうのが望ましい方向なのかを示唆する結語はなかなかに美しい。彼は言う。
「芸術家や詩人というのは「そして実のところあらゆる人間は
「創造する力能ないし能力を所有していて
「あるとき意志の作用によって、あるいは神的な能力を受けて、その能力をはたらかせようと決心する者
「のことではない」

(パラフレーズ:芸術家や詩人だけが創造する力を所有していて、その行使が芸術になるわけではない。創造力は誰でも持ってる)
 芸術家や詩人とは(と言うより、あらゆる人間は)
「むしろ「周囲にある世界を用いると同時に自分の四肢を使用することによってのみ
「自分自身を経験し、みずからを生の形式として構成することができる生きものなのである」

 画家は絵筆を、コントラバス奏者はコントラバスを、そして世界と自分の四肢を用いて、自身の生の形式を表現する。そこで問われているのはキュレーターや、まして販売者にとっての価値ではないだろう。アガンベンは結語する。
「問われているのは「その人物の幸福以外の何ものでもない」
素敵じゃないか。

      *     *     *
 今日の日記(週記)の冒頭に書いた「知るとは、知の可動域が広がること」前にも同じようなことを考えたと思ったら、わりと最近じゃなくて5年くらい前。実話をもとにした『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』という映画だった。薬物依存に苦しむホームレスの青年が猫との出会いで生きる希望を取り戻す話なんだけど、猫がいれば万事快調ではなく、その存在ゆえ窮地に陥ったりもする。ただ、良いことも悪いことも、つまり可能性の幅そのものが広がる。縁とか救いとかって、そういうものかも知れないと感じたのだ。
 ボブが表紙のビッグイシュー日本語版と、せっかくなので最新号の書影。
 オープニング・シーンで最後の状況が提示され「どうしてそうなったか」以下のストーリーで経緯を展開する(多くの)劇映画と同様に、ドキュメンタリー映画『ZAPPA』は彼の晩年・1991年プラハのステージ映像で始まる。「ビロード革命」を成し遂げたチェコの文化特使に任命され、ソ連からの解放を祝うコンサートに招かれたザッパは
参考:フランク・ザッパはチェコの文化特使だった:彼と自由を求めた東欧諸国の深い関係(udiscovermusic.jp/22.4.16/外部リンクが開きます)
ステージで乞われギター演奏を披露する。自分の思い通りに「音楽する」ために流通もバンドメンバーも支配し、時には政府も敵に回したザッパが、そうやって作られた彼の音楽を・あるいは(アガンベン流に言えば)彼の20世紀な芸術家としての振る舞いを支持する人々にほだされ、身上だったコントロールを人生の最後の最後に手放した瞬間だった。僕としては、もう何もつけ加えたいと思わない。少なくとも今は。(しゃべりすぎました…)

 
(24.2.20追記)Information is not knowledgeの伝・オリジナル版に(僕が)あんまり感銘を受けないのって「経験のみが知識にうんぬん」が、光の速さの列車やら落下するエレベーターやら実体験ではない思考実験の数々で理論を構築したアインシュタインにそぐわない(いかにもザッパらしい改変版に比べれば尚更)人となりが伝わってこない、せいではないかと思い当たるなど。実際にそう言ったのだとしても「アインシュタインが言った」は、皮肉だけどknowledgeやましてwisdomにならないinformationの模範例に思えてしまうのだけど、どうでしょう?

ヒトラーvsシモーヌ・ヴェイユ〜『根をもつこと』(24.02.11)

「イギリスが最も偉大なのは孤独であるときだ。そしてフランスは、自国のために戦うとき、フランスらしさを失う。(中略)人類のために戦うフランスは素晴らしいが、自分たちのために戦うフランスは何の価値もない」
アンドレ・マルロー(ブルース・チャトウィンによるインタビューより。チャトウィン『どうして僕はこんなところに』)

1)ブルース・リーvsシモーヌ・ヴェイユ
 人文系出版10社合同の復刊リクエストが今年も(とっくに)始まっている。
書物復権2024 リクエスト締め切りは2月29日(外部リンクが開きます)
毎年ここで各社の候補から気になるものを選んで、なおかつ「他に復刊してほしい本があれば」でシモーヌ・ヴェイユ『ギリシアの泉』(みすず書房)をリクエストしてるのだけど、今年はどうしようかなあ。ちょっと他の本を選ぶ集中力がない(お疲れ)し、たとえばロシアの若者が軍隊で「演習だよ」と言われて派遣された先がウクライナの戦場だった的な話が伝わってくる現在こそ広く読まれてほしい反戦エッセイ「『イリアス』あるいは力の詩篇」(2019年3月の日記参照)コレ自体はちくま学芸文庫か何処かのアンソロジーでも読めた気がする。でも集中力がないので(お疲れ)今パッとネットで探し出せない。やっぱりリクエストしておくべきか。
 書影『根をもつこと』。画像にかかった縞模様はブラインドの影。
シモーヌ・ヴェーユ根をもつこと(山崎庸一郎訳/春秋社/新装版2020/外部リンクが開きます)は冨原眞弓訳・上下巻で岩波文庫からも出ているみたい。ちなみに岩波の表記は「ヴェイユ」。
 「置かれた場所に根をもちなさい」みたいな人生訓かと誤解させる書名や「ぼくらはいま この世界とどうやって繋がればいいのだろうか?過去と未来をつなぐ魂のことば」といった帯の惹句からスピリチュアルな観念論を連想しがちだが、実はヴェイユの著作の中でもかなり政治色や時事性が高い。というのも本書、第二次世界大戦中ドイツの属国となったフランスから逃れたヴェイユがイギリスに置かれた亡命政府の要請に応えて書いた、根こぎにされた祖国をどう取り返すかという具体的なプログラム・提言の書なのだ。

 しかしまずは本書の英訳にあたり添えられたT.S.エリオットの序文を虚心に受け止める必要がある。
「どの程度まで、あるいはいかなる点で彼女に共鳴するか、ないしは意見を異にするかを考えて気を散らしてはいけないのだ。われわれはひたすら、ひとりの天才的な女性、その天才が聖者のそれにも似た一女性の人格におのれをさらさなければいけない」
1952年。英語圏ではまだ知れ渡ってなかったかも知れない、あまりに独自でエキセントリックとさえ思われかねない苛烈な思想家を、初っ端で拒絶されないため必要な予防線でもあったのだろう。けれど同時に、おおよそ書物や思想に、わけてもヴェイユのような存在にふれるとき、折々で思い出すべき心構えでもある。本に自分自身ばかりを読み出そうとしていないか、本の言うことをちゃんと聞いているか。
 としたうえで本文から自分にとっての見どころを抜粋するのは早くもエリオットの助言から逸脱してる気もするのだが、共鳴するか意見を異にするかで気を散らすより前に「おおお」と動揺してしまったのが
「思想の流通がおこなわれる世界、かつ、その思想を広めることをのぞんでいる世界は、週刊、半月刊、月刊の機関誌にのみ権利を有することになる(べきである)人間にものを考えるように求め(←強調は引用者)人間が白痴化することをのぞまないなら、これ以下の間隔はまったく必要とされない」
何を言ってるのか。思想つまりアレは正しいコレは正しくない・何が善で何が悪かといったイシューを人が「考える」には、ひとつのイシューあたり一週間や半月・一ヶ月の時間が必要なんじゃないの、ということではないか。それ以下の間隔で次々イシューを取り扱うとき、吾々は本当に「考えて」いるのか。140字に収まる誰かの意見を、10文字に収まるヘッドラインを鵜呑みにして「感じて」いるだけではないのか。
 『燃えよドラゴン』のブルース・リーDon't think, feel(考えるな、感じろ)」の名言を一撃必殺のパンチのように繰り出したけど
「考えるな、感じろ!(Don't think, feel)」と拳を突き出すブルース・リーの肩を後ろからつかみ「いーや少しは考えさせなさい」と青筋を立てるシモーヌ・ヴェイユの絵(この挿し絵はフィクションであり実在の人物には一切関係ありません)
※似顔絵が下手だと何か怒られたとき「いや別人ですよ?ブルース・リーこんな顔でしたっけ?」と言い訳できるので良い(良くはない)
※そういえば年末年始に千葉の実家に帰省したとき、地元エリア情報など載ってるフリーペーパーで、クロスワードのAからJまでつなげて出来る懸賞応募のキーワードがヒント「今年は辰年。竜にちなんだ映画の名台詞」とあって解いてみたらドントシンクフイールで感心した。さすがエリートを名乗るだけある(外部リンクが開きます)
 逆に吾々は「感じたばかりで済ませるな、考えろ」というメッセージも受け止める時期に来ていないだろうか―そんなことを「感じて」しまったのである。
 終章で蒸し返される「ある瞬間にブラジルの首府がどこかを知らなかったのに、つぎの瞬間にそれを学んだとするなら、彼は一つ余計に知識を得たことになる。だが、なんら以前より真理に近づいたわけではない」という一刺しに始まる、では知識が人を真理に近づける場合と近づけない場合の違いは何だろう?という問題設定も興味深いが、ヴェイユの「回答案」は割愛する。まあ読んだひとは「なるほど賛成するしないじゃなく聖者めいた天才」と慄くことになるでしょう。
 あるいは(現代では小学生でも古代の賢者より物識りだと言われるが)「教室で教えられる太陽は、子供にとって、彼が見る太陽となんらの関係も有しない」(から物識りでも何にもならない)という辛辣なパンチがいいとこに入った日には、(あの向こうに宇宙があるんだな)と少し謙虚な気持ちで朝の青空・日没時の夕焼け・星のない夜空を眺めたり。
 ・ここまで(1)のまとめ:『根をもつこと』―「読む」って何だろう(自分が読みたいことだけじゃなく、ちゃんと著者を受け容れてる?)・「考える」って何だろう(感じてるだけで済ませてないか?)・知識って何だろう、などなど、物を読み考える(そして書く)営みを基本から捉え直す契機が必要だなあと「感じ」させられる読書でした。

2)ヒトラーvsシモーヌ・ヴェイユ
 しかし今回の日記は後半も「考えた」に達しない「感じた」程度の感想に終始します。
 あらためて認識したのは、第二次世界大戦中にフランスで生まれた親独のヴィシー政権が少なくとも知識人(インテリ)層あるいは良心的な人間には耐えがたい恥辱だったことだ。昨年『欲望の現象学』を読み返したときも(昨年11月の日記参照)戦後のルネ・ジラールが、自身の唱えるセルバンテス以来の近代の病の終着点であるかのように苦々しく回顧してるのを見て「占領で作られた傀儡政権だし(国民あげてアメリカニズムに寝返った何処かの国と比べて)そこまで悲観することかな」と思ったりしたのだけど、ましてやヴェイユ、ユダヤ人のヴェイユ、英米軍のノルマンディー上陸(1944年6月)を知らずに亡くなった(1943年8月没)最晩年のヴェイユにとってもまた、母国の屈服とナチズムへの追従はフランス・ヨーロッパ・近代の「間違ってたところ」の帰結・総決算に思われたのかも知れない。
 そこからフランスを、そしておそらくヨーロッパ近代そのものを救う「新生フランス」の青写真については割愛する。T.S.エリオットが「賛否は後にして一旦受け容れて!」と予防線を張らずにおれなかった「聖人のような天才」の所業だとだけ仄めかして先を急ごう。

 なぜフランスは、ヨーロッパはナチスの台頭・ヒトラーの出現を許したのか。
 もっともらしく煽るなら、かつて「労働者階級が政権を奪取し生産工程を掌握しようと、各労働者に割り当てられるのが意義を感じられないほど細分化された流れ作業であるかぎり、疎外はなくならない」という痛烈なストレートでマルクシズム(レーニン)のダウンを奪った(自由と社会的抑圧/岩波文庫)ヴェイユは、ヒトラーをどう攻略するのか。
 キャプション:でも現実の桎梏を射貫く炯眼にたいして理想主義すぎる「その桎梏を除去できれば労働は人生唯一の目的にして喜びとなるはず」という信念とはまだ和解できない…(労働は素晴らしい・労働は真理・労働は神聖・そうでしょ?働け、働けとゾンビのように迫るヴェイユを「いやその労働であなた自身ボロボロになったじゃないですか…」と両手で遮る舞村さん(仮名)のイラスト。舞村さんのトレーナーの背中には「働いたら負け」のロゴ)
 そもそも「天才的なひらめきを見せる直観をのぞいては(中略)知的創意にたいする好みも能力も欠けていた」ヒトラーは、その優生思想・アーリア至上主義じたい、困窮の若い日々に彼が憎しみを刷り込まれた対象=ユダヤ人の選民思想から丸々借用したのだ(ヴェイユはわざわざ言及してないけど「千年王国」という発想もそうかも知れない)というのは最初のジャブに過ぎない。ワンツーパンチ。
 現実の脆弱な肉体としてはスターリニズムにもナチズムにも勝てなかった非運の天才が、思想のリングではまたしても一撃で宿敵を沈める。ナチスの独裁者にたいしてヴェイユが放つ看破の一撃は、ヒトラーをヨーロッパ近代への反逆者・進歩する世界の時代錯誤な敵・非理性の怪物とみなす大方の見方に反し、むしろ彼こそがデカルト以来のヨーロッパ近代の正当な嫡子・科学至上主義の完成者だという裁定だ。
 重力あるいは暴力・権力・そして経済力、エネルギー不変の法則に従うように自在に姿を変えながら、要は「力」のみが宇宙を支配する。それを「真理」として受け容れてしまった時点で、ヨーロッパは早晩ヒトラーを生み出す・ヒトラーに行き着くことも受諾したのだ。他ならぬヒトラー自身の勝利宣言を、ヴェイユは『わが闘争』から引用する。月が惑星のまわりを回るように、力のみが弱きものを従える世界で、人間だけが力の法則の例外者として自然を支配できるなんてありえない、人もまた自然の法則・力の支配に奉仕する運命なのだ…(要約)

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 いつも取り上げるたび前半のイーリアス論ばかり話題にしてしまう『ギリシアの泉』だが、その後半にはプラトンやソクラテス以前の「まだ哲学になっていない」と近代以降はいわれる神秘思想の再評価が示唆されている(本サイト日記「ソクラテスの師匠たち」参照)
 ヴェイユのローマ的なもの・カトリック的なもの・そして近代理性への不信と敵対心、それらによって(時には暴力的に)否定された神秘思想や異端への傾倒は、専門家には常識なのかも知れないけれど、いち素人の自分にとっては、まだ分け入ってない森のような、時間が許せば踏み込みたい分野ではある。個人的な話だけれど、笠井潔《矢吹駆シリーズ》最新作煉獄の時(文藝春秋/2022年/外部)を読んでヴェイユそしてスペインや南仏の異端という視点からシリーズ全体を見直す必要があるのかも、とも思い始めている。それは遅ればせながら・そしてカルトやオカルト・陰謀論に陥らないように気を配りつつ、(その建前が至る所で崩壊しはじめているように思えてならない)資本主義や近代国家主義を問い直すチャレンジにもなるだろう。
 ↑このへんは「あ、舞村さん(仮名)またウワゴト言ってるよ」と軽く読み流してくださいね…と苦笑いする「ひつじちゃん」
 …カルトやオカルトと言えば、冒頭に挙げたチャトウィン『どうして僕はこんなところに』にはドイツの作家ユンガーからの、こんな引用もあった。「ヒトラーの非凡さは、二十世紀がカルトの時代だと気づいたことにある。それゆえ、良識ある知性の持ち主には、ヒトラーを理解することも阻止することもできなかった」
 いっけんヴェイユと真逆のことを言ってるみたいだけれど、実は両者は同じことを言ってるのかも知れない。もしユンガーの言う20世紀の本質(カルトの時代であること)が、近代合理主義からの逸脱でなく、その帰結であったなら。西欧の勝利=技術万能・理性至上主義もまた、一種のカルトだったとしたら。
 (と、ドヤって終わるつもりだったけど余談↓)
 「真に勝利したのは、ナチズムではなかったか?」という柿本昭人『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』帯文
 真に勝利したのは、ナチズムではなかったか?という柿本昭人『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』(春秋社/2005年/外部)の問い、アウシュヴィッツという極限状況ですら見られたヨーロッパのムスリム差別を告発する同書の問いは、イスラエルが虐殺する側に回り西欧が加担する今、悲惨なほどに重要性を増している。本サイト20年3月の日記で同書を取り上げた時には、話が逸れてしまって(エリオット言うところの「気を散らして」しまったのだ)同書の核心であるイスラモフォビアの問題にキチンと向き合えなかったという反省がある。
 藤原辰史『ナチスのキッチン』(水声社→共和国)については比較的よく書けた・自分にとっての要点を抜き出せた気がしています。21年2月の日記参照。

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『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』品切れなのか…リクエストしようと思ったら「書物復権」春秋社さんは不参加。重い本だけど古書店か図書館でどうぞ!

WE ARE NOT ALONE〜コン・ダーシャン監督『宇宙探索編集部』(24.2.3)

 WE ARE NOT ALONE(宇宙にいるのは吾々だけではない)は、いわゆるUFO・空飛ぶ円盤・異星人とのファースト・コンタクトを描いたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『未知との遭遇』のキャッチフレーズだった。1977年。ピンクレディーの「UFO」は翌78年のヒット曲だが、同名の日清カップ焼きそばは76年の発売。ちなみにアニメ『UFOロボ・グレンダイザー』は77年放映開始だがパイロット版は75年制作らしく(Wikipedia調べ)ははは、掘り起こせばキリがない。
 「1976年の『UFO戦士ダイアポロン』はUFOと(なぜか)アメフトがモチーフで、主人公がアメフト風ロボで戦ってる間、仲間たちはUFOから支援するみたいな話だった気がしますが、ほら話すとキリがない」というキャプションに「操縦じゃなく主人公がロボと合体・巨大化してロボと内側から一体化して戦う異色作でした」という図解。ダイアポロン、頭部の前面についたヘッドプロテクターがアメリカン。
フィンガーファイブの「恋のアメリカンフットボール」が1974年だからUFOと一緒に(一緒でもないだろうが)アメフトもブームだったのかも知れないけど、だから話を広げるなと言っておるのだ。要するにスピルバーグの映画もUFOというネタ自体、ALONEではなかった。

 ギリシャの太陽神はアポロではありません(←この台詞の直後、救急車で搬送)
 漢字で書くと孔大山、孔子の子孫にあたるというコン・ダーシャンは70〜80年代のUFOブームを当事者としては知りようもない90年生まれ。今年はじめての映画、とゆうか半年くらい映画館に足を運んでなかったのですが『宇宙探索編集部 JOURNEY TO THE WEST』を地元ヨコハマのミニシアターで観てきました。
 北京電影学院(大学院)の卒業制作がスマッシュヒット、といっても世界で770億円の興収を記録したという『流転の地球』のグオ・ファン監督などが支援した本格作品。でもタッチは手作り風。どっちだ。むしろ「長篇デビューが人間ドラマに主眼をおいた異色SFの佳作」という意味で、ダンカン・ジョーンズ監督『月に囚われた男』が好きだった人はまた琴線に触れるかも知れません
 『宇宙探索編集部』パンフと、アポロつながりでアポロチョコ。
 とはいえ話のベクトルは正反対。無機質な月面基地が舞台の『囚われ』とは真逆に『編集部』は北京郊外・オンボロ公営住宅の二階から始まる。数十年前のUFOブームで一世を風靡するも今は暖房費も払えない雑誌『宇宙探索』の事務所。各所でフェイク・ドキュメンタリー風と呼ばれているけど、手持ちカメラで細かく細かく切っていくカット割りが異様にテンポいい。「異様にカット割りのテンポがいいインディペント作品の佳作」という意味で『リバー、流れないでよ』が好きだった人の琴線にも触れるかも知れません
 地球外文明との科学的接触を大真面目に夢みつづける編集長=主人公の宝物「本物の宇宙服」をめぐる冒頭5分のエピソードだけで会員デー料金1100円の元が取れるくらい可笑しい。けれどもちろん映画は始まったばかり。三国志でいう蜀のあたり、田舎の村で謎の怪光が目撃され(日本の狛犬さんみたいな)獅子像の口中にあった取り出せないはずの玉が消えた(村人たちは菩薩が現れたと騒いでいる)という情報を追って「宇宙人の仕業に違いない」主人公と編集部員たちは最後の貯えをはたいて西に向かう←あらすじだけ書き出すと「バカなの?」と思われるかも知れませんが、
 不要かも知れませんが今週は画像が少なくて
寂しいので故宮博物院(台湾)の獅子を参考に。口中に玉はないかわり前脚で押さまえてます(写真)。
空飛ぶ円盤や異星人とのコンタクトを信じ続ける主人公が世間的に残念なひとなのは間違いない。「墜落した円盤の乗組員の遺体を冷凍保存してある」と主張するおじさん(かつて中国に実在したらしい。世間を騒がせた罪で5日間拘留)に「見たければ520元(日本円で1万円強)」と言われ、停めようとする編集部員を振り切り520元を払ってしまう主人公、たしかにUFO雑誌の主幹以外に何かを任せてはいけない人な気がする。
 それはSFなのか、と思う人もいるだろう。正直なところ僕じしんSFを期待して観に行ったわけではなかった(こらこら)。だが話が進むにつれ、主人公の残念さ具合(毒キノコに中たったりする)も周囲のてんやわんや(感心するほど絶妙にテントが丸焼けになったりする)つまりコメディとしての可笑しさはキープしたまま、宇宙人だか菩薩だかは分からないけど何かあるらしい(でもうさんくさい)機運は高まっていく。人里を離れた山中に分け入り、監督はこの珍妙な聖杯探究譚にどうオチをつけるのか?
 「なんかしっちゃかめっちゃかな聖杯探究譚にあぜんとするオチがつく」という意味で、『モンティ・パイソンのホーリーグレイル』やアレハンドロ・ホドロフスキー監督『ホーリー・マウンテン』が忘れられない人にも向いてるかも知れません…

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 いろいろ引き合いに出したけど、そしてどれもコジツケな気もしますが(こらこら)「○○に似てる」とか考えなくていい、すぐれてオリジナリティのある好篇でした。少なくとも自分は、冒頭に引いたWE ARE NOT ALONEという言葉を心のなかで何度も反芻せずにはいられなかった。円盤に乗った異星人のことではない。この宇宙のどこかに―ではなく、同じ地球・同じアジアの・ともすれば「習近平の悪の帝国」で済まされがちな隣国にも、こんな残念無念な人(人たち)がいる、それはまあフィクションの主人公なんだけど、いるんだなあ、「私たち」は孤独ではなかったよと、しみじみ嬉しくなってしまったのだ。
 UFOに限ったことではない。今週のまとめ:『宇宙探索編集部』、夢や理想で人生(半生)を棒に振ってしまった(かも)と時に途方に暮れがちな人にオススメかも知れません。
 夢がかなった!だと(自分はそうではないし…)と共感できない、といって夢は夢でした…では単に物悲しい、そういう意味でも「どうオチをつけるのか」本作の落とし加減は絶妙。言い替えれば(たとえば『エブエブ』とかでなく)本作に「招かれた」「この結末に救われた」「この主人公は自分そのものだ」と思えてしまう人は、ちょっと心配な気もしますが…
 
 世の中には、とゆうか時には一人の人間の中にさえ近隣愛と遠心愛があって、家族や身内・仲間を大切にしようと思う気持ちは異物を排除し(もっと悪いことには異物を排除することで身内の結束を高め合う)差別や縁故主義につながる反面、遠い北京の(それも架空のキャラクター!)偏屈おじさんや異星人にまで共感しがちな遠心愛は半径10mの隣人と上手くやっていけないミザントロープと表裏一体だ。しかしそれらは機会を改めて考えることにしましょう。

 物語を牽引する謎の答えに最も肉薄し、いわば皆の一歩先を行く若者(頭に鍋をかぶっているのだが)に主人公が投げかける「もし君が(私より先に)異星人に逢えたなら、訊いてほしい」という問いと、それに応じた鍋少年の答えが忘れたくない好さだった。WE ARE NOT ALONE =WE ARE ALL ALONE。1976年のヒット曲。聴いたことないけど。
 そしてそれまで田舎の木々や牛やロバや畦道ばかり手持ちカメラで捉えていた映画が最後の最後にSFらしい映像を炸裂させる。あーこういうことね(知ってた)かも知れないけれど、何度も繰り返された結末をまた現代にふさわしくリニューアルした、きれいな結末だったと思います。
 ★映画『宇宙探索編集部(ムヴィオラ公式/外部リンクが開きます)

小ネタ拾遺・24年1月(24.1.31)

(24.1.1)実家だと思うようにネット接続できず情報収集もままならないのだけど、地震のあった北陸地方をただただ心配しています。現地の方々の被害がどうか少ないよう。また自分を含め周囲の吾々が共感性の心労に押しつぶされたり、不安や懸念を憎悪に転化させて気持ちを消耗しないよう。無事である人たちの正気は、資源としてこれから必要になるかも知れないので、大事にキープしておきましょう。こんな始まりですが、今年がマシな年でありますよう。

(24.1.3)一昨年は(今が)新しい戦前だというのが話題になったけど、年末年始に帰省した実家でふだんは観る機会のないテレビが「メメントモリ」「メメントモリ」と連呼するのを聞くと、むしろ中世ヨーロッパの暗黒時代がリバイバルした気分になる(いやそれゲームの広告だから)
…と、こんな時にしょうもないヂョークは兎も角、ふがいないが政治の倒壊・社会の液状化に怒る方向の気力は、この十年で使い果たしてしまったらしい。暗いうちは滅びないとも言う。昨年の末ごろからもうずっと、ほの明るい滅びの中にいる。

(24.1.5)また電車で長めの旅に出るので(でも4日で戻ってくる)車内で読むのに、いよいよ『ツァラトゥストラ』の出番かと思う程度には諦めて試合終了ムードなのですが
 2017年9月11日のツイート:#死ぬまでには読みたい本 フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』実は文庫で持ってるのですが「社会の不正に怒る?そんなルサンチマン捨てて超人になろうぜ!」みたいな本ではという勝手な想像(誤解)があり、いま説得されちゃうと困るなあと手を出せずにいる。そろそろ挫けて読んじゃうかも。
この絶好の機会に限って部屋の何処かに埋もれて出てこないのでした。まだまだ解脱はさせないぜという(やだなあ)お告げかも知れません…とりあえず、やはり積んでいた佐々木中『切り取れ、あの祈る手を』が今年最初の読書になりそう←少しめくったら「分からないと思った本を何度も読み返せ」みたいなことが書いてあって、素直だから真に受けて(笑)こちらは一応既読のアガンベン『例外状態』も保険で持ってきます(分からなかったんだね…)。後は旅先で買う。むしろ本を買いに行く。
(24.1.6追記)『切り取れ』読了。中でアガンベンがコテンパンに貶されてて(まあ貶されがちだし、分からないなりに困った人でもあるよなあとは僕も思うけど)『例外状態』まあ気まずい再読ですこと。

(24.1.7)レギュラーとしては※シリーズ初の男子プリキュアと成人プリキュア登場で(※イレギュラーでは前に最終バトルで「強い想いで老若男女みんなプリキュアに変身」という大技をかましたことがあった)攻めてるなぁ20周年と思っていたら、21年目の新作は犬が主人公でプリキュアになると知り、こんな時ですが朝からむせび笑っている。
わんだふるぷりきゅあ(東映アニメーション公式/外部リンクが開きます)
(24.1.31追記)まあ犬キュア以前に「シリーズ初のキュア男子」シリーズ初の鳥キュアでもあったわけですが。

(24.01.08)名古屋に来るたび気になってはいた「チーズそば」など独自メニューが光る立ち食いの駅そばが東京に本店がある「銀座」よもだそば、だったことに初めて気づくなど。朝のワンコイン・いなりずし2個ついたミニカレーそばでも23年8月の日記で紹介した酸味の効いた本格カレー。この店は推せる。
 いなりずし2個とミニカレーそばのセット+カレーのかかったそばを割り箸で持ち上げたクローズアップ写真
焦ってすすりこんだ濃厚なカレーつゆにむせた絶妙なタイミングで有線からケニー・ロギンスの「デンジャー・ゾーン」がかかる。やはり推せる、ゲホゲホ。

(24.01.10)日ごろ歯科の代名詞みたいになった奥歯ディスプレイをコレクションしていると
各地で取りためた奥歯コレクションと、石川県金沢市で見かけた二階の窓ふたつに大きく「歯」「歯」と大書された歯医者画像
率直きわまる「歯」「歯」の文字さえ逆に奥歯に見えてくる(来ません)。中の米が奥歯を上から見た時に、上のフタ(止)が銀とかの被せものに見えてくる(来ません)。キュビズムだ。

(24.01.13/閲覧注意)こんな夢を見た:大きな公園に細い小道があって、左右の植え込みから猫、にゃんこ、とにかく何匹も出てきて自分の足元にすり寄ってくる。こんな沢山の猫に遭遇し、しかもなんだか懐かれるなんて初めてだ。とりあえず写真写真とスマートフォンを取り出しながら小道の先に目をやると、大きく窪んだ広場みたいな処を見下ろす形になっていて、そこはそこでカピバラみたいなのがワンサカ群れている。すげえ、すげえ…でもカピバラ(みたいなの)ってネ○ミの仲間だよなと思い当たったとき、どうして猫がこんなに多いのかという理由にも思い当たり、カピバラの群れの中に小さくてピンクの生まれたばかりの子たちがいるのを見て「うん、これ以上は考えちゃダメなやつだ」と猫をふりほどいてUターンし、夢からも醒めたのでした。結果的に悪夢でした。すまん(閲覧注意って書いたやん)

(24.01.15)目線とゆうか、眼球の位置ひとつ(ふたつ)で関心度が変わる。まんがは楽しいぞ。
ほおづえをついた女子(カケハシ)。目線が上に向いてると「ふーん」と少し他人事に見えるが、正面こちらを見返すように眼球の位置を調整すると「およ?」と注目してるように見える
(焦らず楽しんで描いてます。まあ七夕くらいには)

(24/01.24)他のラーメン屋が(来てくれて)ありがとうと控えめに感謝を伝えたりまた来るぜの一言が聞きたくて(頑張ってます)と遠回しにアピールする中、いや当方は「また来る」どころか日参してもらえる想定ですけどと、はんなり迫る天一に京都スピリットの真髄を見るなど(※偏見)
 「ありがとう」と書かれたラーメンどんぶり・「また来るぜの一言が聞きたくて!」と大書されたガラス窓・そして「明日もお待ちしてます」と書かれた天下一品(京都発祥の特濃ラーメン屋)のどんぶり画像

(24.01.27)ですからセブンイレブン化した北陸のキオスクで食べられなかったコレに、横浜のキオスク(NewDays)の各地おにぎり期間限定フェアでありつけてしまう理不尽。まあ結果オーライとも言えますが。
NewDaysの期間限定「福井県産紅映梅使用・福井梅ととろろ昆布のおにぎり」裏ラベルによれば製造場所は埼玉県みたいです。

(24.01.28)値上げやシュリンクフレーションとは別に安価だった商品そのものが「消える」こともあって、一袋10円×30=300円±α(店によって上下)で耐乏生活の友だった餠太郎30袋パックは、それ自体が少なくとも自分の観測範囲からは消えた。社会が吾々(?)を兵糧攻めして、どんどん包囲網が狭まってる感。

能登の震災で知事や政府が「石川県への観光に補助金を出す」「観光の邪魔になるから被災者は二次避難所になってるホテルから早く出てほしい」などと言ってる件について、昨年8月に書いたことに(最後の一文まで含めて)何も足すことはない→
利権がどうの的な問題もあるけれど、それ以外(以前)の話として「少子化だ…どうしよう←ブライダル産業に補助金を出しましょう!」「市民が知識にアクセスできるよう図書館を←複合施設でエンタメ化して人寄せだ!」「震災で大打撃…これからどうすれば←オリンピックでインバウンド!経済効果!」社会の何を解決しようとしても、経済効果とか産業の活性化とか(いつの間にか)お金もうけの話にすり替わってしまうの、手に触れるものは食べ物でも何でも金(ゴールド)に変わってしまう呪いで飢えに苦しんだミダス王の逸話がドンピシャかもと思う。王様ってバカだね、じゃないんだよ。この国の王様=主権者は僕たち一人一人なのだから(参政権のない人たちは別として)。(23.8.31本サイト日記より)
今朝は東京湾でM4の地震があったけど、いずれ首都圏の僕たちが家屋を奪われる番が来るとして、その時になって「あ、自分は切り捨てられる側なんだ」「切り捨てる側の連中に投票しても、そっちに入れてもらえるわけじゃなかった」「投票から逃げても、切り捨てられる組から逃げられるわけじゃなかった」と悟れるのかしらね。自分は選ばれた側の人間だと思いこむために、また無辜の外国人を文字どおり「切(以下略)」にならないといいけどね。(お察しのとおり冬季でメンタルが最悪です/皆様ご自愛ください/24.1.28)

(24.01.29)・稲作が放出するメタンは人為的排出量の12%に及ぶが、湛水・乾燥を組み合わせた農法でメタン発生を30〜70%抑制できるというGigazineの記事(24.1.27/外部リンクが開きます)。こういう技術を発見・開発して現実世界に実装していくのはロマンであろう。でもあらゆる種類の社会的・経済的な障壁も容易に想像できる。のちのち神様なり星間連合なりに「あの時できたのに、どうしてせんかったの」と問われて「だってだって」と言い訳する姿も。There's a lot of things if I could I'd rearrange,ですなあ。

(24.01.29)私は正しかったのに、という人たちも、世の中がこうなるのを停められはしなかった。どうすれば良かったんだろうと、公衆の面前で人が死に追いやられる国でさびしく思う。

(24.01.30)おにぎり画像だけのがストイックで好いと思っていたが、やむにやまれずInstagramを更新。

(外部リンクが開きます)

私たちのアートを(開花させずに)摘み取っているもの(24.01.27)

 実は自分、特殊能力として「なんでも美少女(美女)に空目する魔眼」の持ち主なのですが
クリーニング屋のピンクと青のペンギンを、ピンク髪の女の子と青髪の女の子に空目する
茶色のクマの手前に白いウサギがいるイラストを、茶髪で色白の女の子に空目する
 先日の金沢で久しぶりにこの魔眼が発動しました(邪眼とも言う)。御査収ください。
野球場へ行こう!というポスターのバッターのユニフォームの濃紺の上半身を女性の髪に、白いパンツの下半身をパースのついた身体に空目する

 渋沢栄一は東急電鉄の創立者でもあったらしい。このところよく利用している東急線の車内には自社広告もふんだんにあるのだが、そのひとつが「人生百年時代のためのファイナンシャル何とかby東急」みたいな投資仲介事業(?)で渋沢の、こんな言葉を引用していた:
「四十、五十は洟垂れ小僧 六十、七十は働き盛り 九十になって迎えが来たら 百まで待てと追い返せ」
なんでこんなに各単語レベルでいちいち偉そうにふんぞり返ってるのかと不愉快に思ったのは自分だけではなかったのかも知れない、一ヶ月くらいで別の広告図案に差し替えられたみたいだけれど(いや分からない、まだ根絶されてないかも※1.31追記/まだ余裕で残存してた)、こういう放言を名言と誉めそやすような階層というか輩(やから)というか、要は大企業の経営者や族議員などの威張りん坊にとって新一万円札の肖像になった人物は「俺たちの栄一」みたいな存在なのだろう。
 すごく厭なのは、それが一国(しかも自分が住んでる)の紙幣だということだ。聖徳太子や伊藤博文、夏目漱石や野口英世、ワシントンやサン・テグジュペリなどなど紙幣の肖像は、善かれあしかれベネディクト・アンダーソン的な国家統合・国民統合の旗印+対外的にも「私たちの国はこういう人物を輩出した(野口やサンテグ)」とアピールするものだったはずだ。福沢諭吉ですら、まだ「吾が国は明治維新の文明開化路線を良しとするよ」「吾々日本国民は経済的な豊かさを目指すよ」「人の上に人をつくらず人の下に人をつくらずだよ」と、そのメッセージ性は国民全体を包括する・善かれあしかれ国民全体に向けられたものだった気がする。
 ※善かれあしかれと二回言ったけど「結婚という制度じたいに疑問はあるが、当面の問題として同性カップルにも異性と同様に結婚の権利が認められる方向に賛同する」のと同様、紙幣なり新聞小説なりテレビ小説なりが国家・国民という「想像の共同体」(アンダーソン)を育む装置として作動することの是非は、今は問わない。

 渋沢栄一の人選には、諭吉にすらあった(気がする)統合や一体感に向けたベクトルが感じられない。むしろ「お金ってのは(渋沢栄一の価値が分かってる)俺たち私たちみたいな選民のためにあるんだ」という囲い込み・分断のシンボルに見えて仕方がない。これもまた、一種の棄民ではないのか。

 ダメ押しというか、蛇足で言う。新しい年号が令和に決まって、万葉集だの「りょうわ」じゃなくて「れいわ」なのは不自然だの不自然じゃないだの喧しかったけれど、ずっと後(令和4年か5年くらい)になって何のことはない、自民党の最有力派閥が経世会(けいせい)だった時に決まった新しい年号は平成(へいせい)で、清和会(せいわ)の時には令和(れいわ)に決まったんだよと気づかされてしまって―因果関係が立証されてるわけではないけれど―なんか真面目に論じるのも馬鹿らしくなってしまった、ということがある。そういう白けた目で遠目に見ると+とりあえず何でも美少女に見える魔眼なみの思いこみがあると、新しい一万円札について一番イヤなことを言った奴が優勝みたいな話で恐縮なのだけど、あの肖像、擬人化ならぬ擬老人化した竹中平蔵に見えてきませんか。

      *     *     *
 ・群馬の森 朝鮮人強制連行追悼碑の撤去に反対する署名(外部リンクが開きます)に賛同しました。「誰でも可」らしいとはいえ、アピール文中にある「群馬の森にゆかりのある」は自分どうなの(資格あるの?)と思ったけれど、これが縁で・ここから始まると思えばいいでしょう。「アーティスト」で自分はお呼びでないかもと思うひともいるだろうけどSNSでアカウントを持ってて完全ROMでなければ(その責任も含めて)あなたは十分に表現者だし、そうでなくとも「私は私として生きてるだけでアートも社会活動も実践している」くらい広義に捉えていいのではないでしょうか。1/26取りまとめ予定らしいので取り急ぎ。

 ちょっと追記すると、ブライアン・イーノが才能について語っている3分くらいの短い動画(7年くらい前の)を偶然さいきん観て
Brian Eno message - Don't get a job(YouTube/いちおう日本語字幕表示可/外部リンクが開きます)
吾々はピカソだのショスタコヴィーチだの傑出した個人=天才(ジーニアス)がいると考えがちだけど、天才はあくまで取り巻く環境=シーンの産物で、ジーニアスが生まれるようなシーン=「シーニアス」を作るのは吾々ひとり一人なのだよ、そのためのギフトも才能も私たち一人一人に異なる形で備わっているのだよというイーノ先生のメッセージが響いたばかりの処に↑上の「アーティスト」署名が来たのもカード占い程度には「啓示」かなと。
 ペイしないけど絵を描けるとか、まして絵を描いてペイしてるとか分かりやすい「才能」だけじゃなくて、たとえば誰にでも気さくに話しかけられるとか(そういう「技能」が僕にはない)オーブンを使って凝った肉料理が作れるとか(そういう以下同文)飲み会の幹事とか魚釣りとか。家庭を運営してる人たちはそれだけで技能を駆使してるし、そこにはギフトも才能も努力で得た「アート」もあるでしょう。
 イーノは優しいからそこまでは明言してないけど、そうした吾々の活動ひとつ一つがシーンを作るアートだとすれば、そこには「自分はアートを通じてどんなシーンを作りたいか」という責任がともなってくる。残念ながら僕は底意地が悪いので「誰でもアーティストを名乗っていい「生きてるだけでアート(技巧であり芸術)だ」と言うとき「だからあなたは今のままで素晴らしい」ではなく「そのアートには社会的な責任もともなうよね」という文脈に導いてしまう。「大量生産のコンビニスイーツや、あるいはコンビニの新商品に一流料理人だかが○×をつけて×をつけられたコンビニの商品開発担当者が泣くのをテレビで消費したりして、本来あなたが持っているギフトや才能を死蔵してないか」くらい辛辣に思ったりしてしまう。
 もう一度いいなおす。商品社会に飲み込まれ、吾々は本来なら発揮しえたギフトや才能を大量生産の規格品と取り替えていないか。

 機械翻訳の日本語字幕だと「??」だけど、短い動画の終わりのほうでブライアン・イーノは「皆がギフトや才能を発揮できるにはベーシック・インカムなんじゃないかなあ」と話してるようです。生計を立てなければいけない、そのために人々はアートのための時間を奪われてしまう。
 電車の車内広告に話を戻すと、こんな文言の出版広告が(版元は異なる)はからずも並んでて、んーと思ってしまったのも最近のことだ:
まじめで一生懸命なあなたに贈る不労所得が得られる投資のすすめ」
頑張ってるあなたに贈る主人公に都合がいい異世界ファンタジー小説」
アーシュラ・K・ル=グウィンは言う。
「不確かで脅威に満ちみちた死と税金の世界から、楽しくてただただ居心地のよい場所へ逃避しようとしているのだとすれば、
 英雄(ヒーロー)は税金を払う必要はなく、死は悪玉の身にしかふりかからない場所
(中略)
 そんな場所に逃避しようとしているのだとすれば、これは、欺瞞からの逃亡などでは毛頭ありません。欺瞞そのものへの逃避です」

 新札のデザインがお金は万民でなく選民のものと囲い込んでいるのではないかという(多少オカルト的な)危惧よりは、もう少し真面目に、皆が(あなたが)クリエイティブであろうとか社会的であろうとか考えられないくらいに「死と税金の世界」で疲れ切ってしまっていることを危惧している。
 あなたが渋沢栄一や竹中平蔵・堀江なんとかや名前は忘れたけどユニクロの社長のような「成功者」でないのは「一生懸命」や「頑張り」が足りないからだ、などと言う気は毛頭ない。そうでなく、ガザで虐殺の危機に晒されている人たち・能登半島で避難所の食事に金を払えと言われてる人たちと引き比べても、私は一生懸命で頑張ってるんです、私に安逸を「贈って」くださいで頭がいっぱいになってる「吾々」の打ちのめされっぷり(あるいは皆そうなんだろうと多寡をくくってる広告担当者の社会認識)ヤバくない?
 実はTwitterがあんなこと(X)になってしまったのも、あそこを頼りにしていた多くの人にダメージだったんじゃないかなあと思ったりしている。どうしたら吾々は今いる無力感の隘路から抜け出せるのだろう?

      *     *     *
 金沢の古本屋で買った5作6冊、ひと月のうちに読了。どれもそれぞれ好かった。別項目を立てて語りたい本もありました。
 残るは地元・石川ローカルの(善くも悪しくも)とんがったグラフ誌。最新号のひとつ前の号(23年5 月発行)が
大勉強 by PHAETON Issue4|死生ってる?(公式/外部リンクが開きます)
まさに今回、被災地となった奥能登・珠洲の取材で、しかも並列した特集が「死生(観)」。
大勉強vol4と5の書影。5にキャプション:こっちの号の表紙モデルが椎名林檎さんなのも「さもありなん」なんですよね…
モデルさんが麗しく着こなしてるトップスひとつで自分の一ヶ月分の家賃であるとか、紹介されてるような奥能登のスポットを実際に訪れるには(まず電車では無理っぽい)どれほどの旅費がかかるのだろうとか、そういうの(つまり「あーあ、いいよなあ金持ちは」みたいなヤッカミ)はいい。さんざん上で述べたような「お金を始めとする余裕がないために想像力が摘まれる悲惨」を思えば、豊かさをテコにした打開案はあってもいい。死についても、どんな時でも死は間の悪いものだし「豊かな(悲惨でない)生があってこそ可能になる豊かな(悲惨でない)死」という感覚も、それが(悲惨でない生も死も)奪われてる被災地は理不尽と正しく回路がつながれば間違いではない。珠洲の焼き物も(珠洲市立珠洲焼資料館(外部リンク)素敵やん…金沢駅からバスで三時間だけど)河原の丸石も、もちろんモデルさんも美しい。
 その一方で死を語る特集の寄稿者が養老孟司氏に浅野にいお氏、いや後者はよく存じ上げないのですが、それに編集長みずから「宮内文書と出口王仁三郎の研究をしています」みたいな人と対談してたりして…あかん…これは残念な案件かも知れん…※宮内文書は昨年7月の日記でも紹介(?)してる安倍昭恵氏も肩入れしてる富士山古代文明のアレなんですわ…

 吾々は経済的に時間的に貧しくて(マイルドに言うと「余裕がなさすぎて」)社会も自身の生活も改善できない隘路に陥っていないかという話をしてきた(してきたんですよ)一方で、経済的あるいは時間的な豊かさで臨んだ「美しい生活」が「幸福な世界」に向かわず一線を超えて残念なほうに向かってしまう、どうしたらいいんだろうと眉をハの字にしています。まとまらなくてスミマセン。

月光泉である!(24.01.21)

 『悲しき南回帰線』を読んでいて「??」となったのが、南米先住民の主食としてレヴィ=ストロースがしきりと言及している「マンジョー」なる食べ物。文脈からしてパンノミやバナナ、タロイモみたいなものらしいのだけど南米留学経験のある義姉に訊いても思い当たるものがないという。
 もちろん読んでる最中に検索はしたのです。電車の中、スマートフォンで。「マンジョー(検索)」。
 マンジョーの検索結果(スクリーンショット)。「マンジョウの検索結果も表示しています」で選択肢「検索結果をマンジョーに絞り込む」実際の検索結果はここに同名のフランスの街?村?の地図が挟まりますと「ひつじちゃん」の解説(とスペースが空いたので埋め草に「君たちキウイ・パパイヤ・マンジョーだね(誤)」という駄洒落)を挟んで「マンジョウ」も含めた最初の検索結果「マンジョウ(万上)キッコーマン株式会社」まで画像引用。
まずマンジョウの検索結果も表示しています。マンジョーだけで検索しますか?」と出る。どうもマンジョウは醤油メーカー・キッコーマンのブランド名らしい(マンジョウ本みりんとか言いますよね)。もちろん要らないので検索結果をマンジョーのみに絞りこんでも
 検索結果。マンジョーのみに絞り込んでも(やはりマンジョー(仏)の地図を挟んで)マンジョー梅酒がトップに登場。「マンジョー 南米」で検索するも「キッコーマン 南米挑戦ストーリー」以下「他の人はこちらも検索:キッコーマン 海外拠点・キッコーマン 海外 味・醤油 海外 歴史・キッコーマン 北米…
「マンジョー梅酒」を筆頭に、どうもキッコーマン関連のものしか出てこない。業を煮やして「マンジョー 南米」とダメ推しするとキッコーマン 南米進出の歴史。以下「他の人はこちらも検索:キッコーマン 海外拠点・キッコーマン 海外 味・醤油 海外 歴史・キッコーマン 北米…」ぬえええい、どうあってもマンジョウ(キッ○ー○ン←いや今ごろ伏せ字にしても)に話を持っていく気か。
 なんでも検索ですぐ分かる時代、などと言われるけれど存外アテにならないのが検索。
 本を読んでて・(実家で)テレビを観てて・もちろんネットをブラウズしていて、何か気になる・知らないことを目にするたび小まめに検索しているのだけど、たとえばSNSで誰かが引用していた「懐かしの広告コピー」が面白かった+聞いたことなかったのでコピペ→検索をかけたら
 「我らねこ族4000年の夢…キャットフードにかつをぶしついた」の検索結果・約1件「かつをぶし○○屋:【公式】鰹節と天然だし素材の専門店(含まれない検索ワード:我ら・ねこ・族・年・夢…・キャットフード)」
いや「かつをぶし」しか合ってないし。「我ら」「ねこ」「年」「夢」「キャットフード」一切ふくまれてないし(あ、ということは「4000」は含まれてるのか?)。かつをぶし○○屋に含むところはないけれど、この内容で「1件」に絞り込まれてもなあ。
 まさかこの○○屋が「鰹節問屋で積んだ経験をもとに選りすぐった」キャットフードも売ってます、という大逆転ホームランでもありますまい。マンジョー(南米)のほうは他の訳でもおいおい調べてみるとして「キャットフードにかつをぶし」については篤学の士の御教示をゆるく募ります。

      *     *     *
 検索は話半分につきあうとして。地図アプリには大変お世話になっている。中世の三大発明(ほぼほぼ東洋からの輸入?)活版印刷と火薬と羅針盤の21世紀版は地図アプリとインターネット、火薬は何だろう…ドローン?それともフェイクニュースやフェイクトゥルース?…なんて与太はさておき。
 馴染みのない場所にホイホイ行けるのはいいことだ。そう、iPhoneと通勤定期があればね(間に何か余計なものが入ってますけど??)。デヴィッド・ボウイを被写体にした写真展(2023年10月26日の日記参照)が目当てで足を伸ばしてみた武蔵小山周辺、ちょっと面白かったです。だいたい山手線を池袋〜上野までU字型に(つまりOの字の上のほうの田端とかには縁がない)・あとは蒲田とか大森とか浅草とか神保町とか国会前とか(笑)限られた場所しか出没してない自分には未知の場所。
 地図。山手線の輪を目黒から西南に出たあたり。品川〜大崎間=山手線のU字の底と、渋谷から自由が丘方面を西南西に進む東急線の間に武蔵小山・西小山・戸越銀座といった場所がある。武蔵小山〜西小山が徒歩10
分。
 戸越銀座というのが、昔ながらの東京の風情ある商店街という位置づけなのかな?しばしば名前を聞くけれど、隣接した(鉄道としては別路線)武蔵小山のほうが自分には面白いかも。
 左:まっすぐ伸びる武蔵小山のアーケード街。中:グリーンカレーとガパオのセット。右:チキンのイスラム風カレー(ゲーンマッサマンガイ)
 駅の東から戸越銀座のほうに真っ直ぐ延びているアーケードはブックオフ・ハードオフなど△△OFF系の店が揃ってる、そんな商店街。アーケードに行かず駅南を歩くと直近のタイ料理店、いい按配に(地元としての)日本に馴染んだ食堂で店頭に写真が貼り出されたマッサマンカレーにも惹かれたものの、店内メニューの「チキンのイスラム風カレー」も魅惑的と後者を注文。よくよく見ると「チキンのイスラム風カレー」現地名称が「ゲーンマッサマンガイ」…同じものですね…
 林試の森公園の写真。美しい樹木と、真っ白に敷き詰められた枯れ葉。
武蔵小山駅から駅裏っぽい風情のある北側を少し歩くと・林試の森公園(東京都公園協会/外部リンクが開きます)。平らかな場所にひたすら樹木が林立する(中の開けたところではキャッチボールとかしてたかなあ)素敵な場所でした。公園マニアでもなく、たまたま近辺に足を運ぶでもなければ縁のない場所かも知れないけれど、縁があったら立ち寄るのも佳いかも。

 さて地図アプリの話。
 ある金曜の晩は目黒でラーメンを食べたあとも漂泊の想い止みがたく、目黒から学芸大学(駅)へと延びる「目黒通り」を経由して西小山まで歩いてみようとなった。途中で静まり返った小道に左折。有料駐車場くらいしか他にランドマークのない、初めて歩く道の途中に「月光泉」なる目印が。
 野方ホープのラーメンと温野菜・月光泉の所在を示す地図アプリのスクリーンショット。
少し前まで目黒の繁華な呑み屋通りに居たせいもある。なんだろう月光泉。カクテルグラスを青白く満たす液体を、月の光に見立てた隠れ家ふうバーのたぐいかしらんと、呑めもしないのにロマンチックな気分になって細い道をずんずん進むと「あー…こういうのか」日を改めて、客人として訪ねてみようと思ったその場所は

 月光泉(銭湯)の外見。「サウナ」「ゆず湯」などの文言。近隣に「月光町児童遊園」(地図スクリーンショット)
はい、公衆浴場、銭湯でした。近隣に「月光町児童遊園」なる施設もあって「月光」が町名だと思えば何の不思議もなかったが、それにしたって小粋じゃないですか。月光町に月光泉(銭湯)。
 ごくふつうの銭湯です。売り物は無料のサウナと、サウナで火照った身体に心地いい(はずの)左右から浴びせられる冷水シャワーですが(閲覧注意・男性ヌード↓)
 もうもうと真っ白な蒸気が立ちこめるサウナに「あ無理、肉に火が通っちゃう」左右から浴びせられる冷水に「これも無理、刑務所の拷問みたい」と尻込みする舞村さん(仮名。全裸)。お前みたいなのは銭湯に来るな(本当にすみません…)
今まで少しだけ体験したことのあるサウナが、いわば乾式であることを初めて知った。湿式というか、高熱の湯気(蒸気?)がもうもうと立ちこめるサウナ、一歩踏み入ることさえ出来ませんでした。大丈夫、むしろソレ貴重!という猛者もいらっしゃると思うので、そういうかたには有益な情報と思いたい。ふつうに体を洗い、ふつうに湯に浸かり、フルーツ牛乳をいただいてきました。入浴料520円。50円で一回づかいのボディシャンプー。貸しタオル無料。
 左画像:月光泉から西小山に向かう道。左右に一車線の車道・中央に一段盛り上がった歩道が通る。右画像:西小山の東京銭湯・外見。
月光泉は武蔵小山と西小山・二つの駅から(だいたい)等距離で徒歩10分。両駅をまっすぐ結ぶ直線を底辺とした三角形の頂点にあると思し召せ。そこから西小山の駅のほうに向かう道は途中から、左右に一車線ずつの車道を従え大体おなじ横幅の歩道が一段高くなって通っている(逆に分かりにくいかも知れませんが、鎌倉の鶴ケ岡八幡に向かう歩道の感じです)。かつてこの一帯が文化住宅とか、そんな感じで呼ばれた時代があったのだなと偲ばせる景色です。
 現在の西小山は武蔵小山よりさらに生活感のあるところで、駅前にも銭湯が。大型スーパー・サミットの向かいという絶好の位置取りのコチラ・東京浴場(公式/外部リンクが開きます)は壁一面に本棚が並ぶまんがコーナーがあったり、定期的な催しがあったりで盛り上げてるみたい。そう多く銭湯に行ってるわけじゃないけど、小中学生があんなに多い銭湯は初めてでした。こんな東京もあるんだなあ…こちらは大きな樽のような水風呂が名物ポジション。シャンプー・ボディーシャンプー無料、貸しタオル50円。
 アジア食材店でバスマティ米を買ったり、業務スーパー(武蔵小山にもあるけど)で諸々仕入れたり、もうじきまた通勤圏が変わるので一期一会ではあるけれど西小山、残された時間で仲良くできたらなと思います。武蔵小山も。
      *     *     *

 検索の話。ネットで知らない名前を目にしたり、小説を読んでて主人公が「ボスフォラス海峡にはロシア兵が沢山いるので手前のマルマラ海で上陸して陸路ルーマニアに」向かったりするたび(『ザ・キープ』読了しました)いちいちスマートフォンで検索・確認するのですが―ひとつ気に障る、とゆか軽く凹むのは主にイラストや二次創作を見るために「キャラ名」「カップリング名」で検索をかけると決まって
「○○(キャラ名) きらい」「○○△△(カップリング名) きらい」
複合検索でサジェストされるのはそういう検索結果(つまり「きらい」という言明)が多いからだろうと推察するのだけど「あのキャラきらい」「あのカップリング、私の推しじゃないから許せない」そんなことばかり言ってる唇、寒くありません?
 そのキャラやカップリングが人を性別や容姿・年齢で差別したわけでも、地震被災者やケアワーカーに手厚くだって出来る税金チョロまかして住民の反対を押し切った基地建設や中抜き博覧会に固執してるわけでもないでしょうに。自分が受けつけないカップリングを「地雷」とか。好きなもの以外は地雷扱いする狭量さが「好き」の純度を保証するとも思えないのだけど、保証できたとして何になるとも思うのだけど。
 まあ人はそれぞれ。他人の心の持ちようにまでケチをつけるのも時間の無駄なので多くは言わないけれど
 「生姜好きのための餃子」で検索するとサジェストされる検索候補「生姜好きのための餃子」「生姜好きのための餃子 まずい」「生姜好きのための餃子 値段」スクリーンショットと、冷凍食品「生姜好きのためのギョーザ」(味の素)のパッケージ写真
「生姜好きのためのギョーザ(冷凍食品)」まで生姜好きのための餃子 まずいと言わずにおれない人、何なのだろう。生姜好きだがコレは美味しくない許せん、という人はともかく「生姜じたい好きでもない、生姜好きのための餃子はまずい」って人は「あなたのための餃子ではない」てだけですからね…どんなカップリングもまあ地雷とまでは思わない僕は、ふつうにおいしく食べてます。

アーシュラのKはクローバーのK〜クロード・レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』(24.01.14)

(中略)われわれがなぜ愚かだというのだ」
「あなたがたはエイグゥイェグイ族のように、体に絵を描いていないからですよ」
(中略)
自然の状態のままでいるものは、畜生と変りがない(中略)人間である証拠には体に絵を描いているものなのだ。

1)嫌われる理由
 私は旅行や探検が嫌いだと訳されたり紹介されたりする冒頭の一文を皮肉ったわけでもないのだろうが。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』をあの本は嫌いと瞬殺したのは、南米・チリに留学経験のある義姉だった。数十年前、実兄の婚約者として引き合わされたばかりの頃だ。先日里帰りで顔を合わせた際(数十年ぶりに)その真意を質すと「調査対象の先住民を、あいつら貴重な宝物や工芸品を二束三文なプラスチックのガラクタと取り替えちゃうんだぜと馬鹿にしてるのが許せん(大意)お、おう…
 義姉に気兼ねしたわけではないけど(そして著者が交換に差し出すのは正確にはビーズで、相手の好みに合う色や大きさのビーズをかき集めるためスペインの市場あたりで結構苦労するのだけど)なんやかんやで積んでいた構造主義人類学の古典を愚弟はようやく昨年の暮れに読了。率直に申し上げる…本当にイヤな本でした
 ちなみに僕が読んだ室淳介訳・講談社学芸文庫版は『悲しき南回帰線』が邦題(今はこう呼ばれることのが多い)で、冒頭の一文は旅といい、探検家といい、私の性(しょう)にはあわないと訳されている。これすらイケすかない気取ったポーズ(旅行記の冒頭で何言ってやんでえ)とは言わないけれど、とにかく語り手の性格が悪い。万事にケチをつけてばかりいる。
 それでも終盤ちょっとイイ感じに着地するかなと思いきや、最後二章もかけたイスラム教の悪口に心をひしがれる。いや「何事につけ古いものが良い」という彼の立場では一番古い仏教が素晴らしくて、一番新しいイスラム教が一番ダメと言いたくなるのは分かる。宗教の政治や生活への介入にたいする批判(的分析)も一応スジが通ってはいる。ただそれをキリスト教徒が、キリスト教の名のもとに自分たちが行なってきたことを棚に上げて言うかと腹は立ってくる。それは彼の本国たるフランスが公正の名の下にイスラム文化を抑圧する「ライシテ」の外から見たときの納得の行かなさに似ている。その公平、不公平じゃない?という。
 「人間は発端においてしか、真に偉大なものを創造しない。」と『悲しき南回帰線』で断言してる頃のレヴィ=ストロース(似顔絵)。あ、うん、そこまで確信もって言われると…
※まあそれを言ったらフランスがライシテの名の下に(自分たちより小さな)イスラム共同体の慣習(ヒジャブ)を禁じるのに反発を覚えるけど、イランでイスラム共同体が(自分たちより小さな)個々の女性のヒジャブ拒否を暴力で罰するのも許せんという僕(舞村(仮名))の立場も「どっちなんだよ」かも知れないが…どっちなんだよと言われれば取り敢えず「壁と卵なら割られる卵の味方主義」。
 あるいはインドのカルカッタでカーストの最下層の貧しい人々を前にして「彼らと人間的な交流は不可能だ」と言い切る冷たさ。本書の主題である南米の先住民族にたいしても、その集団は先細りで「救いようがない」と断じてしまう。ヒューマニズムは偽善で欺瞞かも知れないけれど、もう少し情があってもいいんじゃないかと思ってしまう。

 2)社会という解決(と、その蹉跌)
 だからそんな冷淡にも見える彼が「進歩的な西洋」から取り残された人々に全く違った形で栄光(?尊厳?名誉?)を取り戻したことは興味ぶかい(とゆうか性格が悪いだのケチョンケチョンに言ってスミマセン)。簡単に言うと、古代や「未開」は単純で素朴(よくもあしくも)プリミティブで・近代現代になればなるほど精緻さ複雑さが増して高度になる=「人類は進歩している」という通念をひっくり返したのだ。
 たしかに近代現代の吾々は発達した交通機関や電子機器に囲まれ、豊かな生活を誇っている。けれどそれは蒸気機関など機械を発明する方向に知性感性が動いたからで、考えていること自体は「未開」社会とさほどレベルが変わらない。むしろ使う場所が違っただけで、吾々が自動織機や電子回路に投影してるような複雑精妙なメカニズムを、かつての人々は神話や身の回りの装飾品・社会構造に投影した。「野生の思考」は素朴どころか、コンピュータのように精緻なメカニズムなのだというのが、彼が洞察し、生涯をかけて探究したことだった。
 ※実際、彼がいわゆる構造主義人類学を確立するのに駆使したのは数学であり、協力を仰いだのも数学者で、その神話研究の限界もデータを解析するためのコンピュータの未発達だったという。
 フーコーの分厚い伝記(書影)も書いてるエリボンがレヴィ=ストロースにインタビューした『遠近の回想』(書影)。悲しきよりは性格が良さげです。古書店・古本市などで(比較的)手ごろに入手できると思います。
 そして非西欧の人々が、化学肥料や化石燃料の導入による経済の発展ではなく矛盾に直面したときに、社会学的な方法だけで解決を見出したことは、栄光でもあり蹉跌でもあった(と、著者は言っている)(ようだ)。化学が公害を、炭素の排出が温暖化を生んだように、社会というメカニズムによる「解決」が=つまり後進性ではなく社会改造という高度な業が限界に達した結果が、インドの容赦ないカースト制と下層階級の貧困であり、先住民族の滅亡の危機なのだとしたら(もちろん後者には西欧による「アメリカン・ホロコースト(23年10月の日記参照)」と呼ばれる虐殺や収奪があるにせよ)―
 社会学的な方法による解決・の蹉跌は、近代だ進歩だ、後進的なインドやまして南米の「未開」な無文字社会と吾々は違う、と勝ち誇る吾々だって他人事ではない。現に吾々が誇る「民主主義」も「資本主義」すらも、パレスチナで能登半島で、永田町でウォール街で、機能不全を起こしてはいないか。被災地への介入が歴史的なレベルで立ち遅れる中、東証株価だけ最高値をマークする現状は、経済だってまともに機能しているとは思えない。

 3)アーシュラのKは
 今週のまとめ ・吾々が機械の高度化で暮らしの向上をはかったように、無文字社会は社会自体のメカニズムを高度化した(「後進的」と馬鹿にしたもんじゃない)・けれど技術の発展が公害を生んだように、社会学的な解決も長期的には「悲しき」結果になりうる(吾々の「社会」も他人事ではない)
 余談的な位置づけではあるけれどわたしの仮説が正確であるとすれば、文字による伝達の第一の役目は、隷属を容易にすることであると洞察するとき、彼は『国家に抗する社会』のクラストルや、「貨幣は交換ではなく徴税のために発明された」というドゥルーズ=ガタリの資本主義批判を予告している(ように見える)。これだけ「文字」に頼り切ってる自分などが敢えてこの糾弾を引用するストレスを分かってほしい。

 で、以下もまた余談なのだけど。
 インドやイスラム圏にまでクチバシを挟みながらも、やはり本書の白眉は南米先住民が織りなした精緻な「構造」の抽出だ。幾何学的センスがないので上手く要約できないのだけど、カドエヴォ族の紋様が繰り返しとランダムさ=相反する二つの要素を巧みに織りあわせ、トランプの絵札のように開けたシンメトリーを描き出す:
 トランプの絵札のような対角線を活かしたシンメトリーが美しいカドエヴォ族の紋様。壺や布などの装飾にしたり顔に彫ったりする。
それと同じ原理が「交互制の上に築かれた社会機構と階級制の上に立った社会機構」の複合体として「対角線で分断され、左右相称に切断され、左右等分に分かれ、斜めに切られ」る構造を社会の上にも生み出している―という分析は、(「文字」を連ねることと並んで)物語の創作を半生の趣味にしてきた自分などには、羨望を覚えるくらい美しく見える。
 北欧の潜水服(だったと思う)・アフリカの黄金仮面・ガルーダを飾った東南アジアの天井・アフリカの仮面・ちょっと何処だか思い出せない驚くほどビラビラの多い男性用衣服
 大阪の民博(国立民族学博物館)などで世界の多様な住居や服飾・生活の形態を垣間みた時に感じる「なのに自分が描く異世界の、なんてコンベンショナルで貧しいことか」という嘆きと同じだ。とりわけ今のこの国では、ファンタジーと呼ばれるジャンルほど想像力や独創性・探究心と無縁なコピペに成り下がったものはない
 「とにかく性格が悪くてケチをつけてばかりいる」レヴィ=ストロースのこと言えないのと違う?と「ひつじちゃん」に釘をさされ、ギクリとする舞村さん(仮名。少しでも金沢にお金を落とそうと旅先で散髪しました)の図
 レヴィ=ストロースが現実世界から抽出したような社会構造の精妙さを、フィクションの世界で設定に活かした物語はないものか…
 あるじゃないか。社会を「男女」「朝の種族・宵の種族」という2×2の要素で等分することで、男女四人で一夫婦(夫夫婦婦?)という婚姻形態を編み出した、アーシュラ・K・ル=グウィンの惑星O(オー)の物語が。
社会という魔法2016年4月の日記参照)
 あれこそSFながら、性別を変えるテクノロジーも科学的なギミックも使わず、まさに社会学的な方法だけで異世界を作り上げる構造主義の仕事だった。加えて言えば、男女・朝宵ふたつの対立軸が対角線のように交わる構図は、トランプの絵札にも似たカドエヴォ族の紋様を連想させる。
 そしてそれは、考えてみたら不思議ではなかった。
 『悲しき南回帰線』で彗星のように現れたレヴィ=ストロースはしかし、先達のない処にとつぜん出現したわけではない。自身を導いた文化人類学の先人として彼が敬意を表している中に、マルセル・モースなどと並んで、いたのだ。ル=グウィンの母(父ではなく母だった)シオドーラ・クローバーが。というかアーシュラ・K・ル=グウィンのKはクローバー(Ursula Kroeber Le Guin)。彼女のSFやファンタジーもまた、何もない処からとつぜん出現したわけではなかったのだ。

      *     *     *
 そんなわけで、長年これも手を出せずに来たクローバーのイシ 北米最後の野生インディアン』(行方昭夫訳/岩波現代文庫/外部リンクが開きます)も、読んでおきたいリストに改めて追加(機会があれば読む→機会を見つけて読むにランクアップ)。
 レヴィ=ストロースが北米のホピ族について書いてるらしいのも気になっており、少なくとも読む本がなくなって退屈することは無さそうな2024年です。

黄金と乳香と没薬(24.01.08)

 もともとは昨年の暮れに金沢を再訪するつもりだった。前回は5年前だったか10年前だったか、行ってない間に一箱200円くらい(一本10円か)のスティック香を焚くようになり、手元にフランキンセンス(乳香)とミルラ(没薬)のお香があったので「これで金沢で金箔をトッピングしたカステラでも買えば黄金と乳香と没薬が揃うな…クリスマスにはピッタリだ」と東方の三賢者みたいなことを考えたのである。
 あとは「坂田靖子さんゆかりの金沢でタマリンドジュースを飲むのも乙だろう」と。
 写真:小津端うめさんに戴いた坂田靖子「タマリンド水」柄のトートと、タマリンドのジュース缶。
※黄金はともかく単に名前でない具体物として(乳香と)没薬への関心が生じたキッカケは、現代アメリカで中東に赴く兵士に恋人がミルラを贈るリー・カーペンターの小説『11日間』だった。2016年4月の日記参照。
※坂田靖子氏の短篇「タマリンド水」に登場するのは強烈な酸味をもつ調味料であって、アジア食材店で買える甘いジュースではないのだが…
 それが出立の直前、東京発・金沢行きの深夜高速バスが雪で欠航となった。予約していた宿に申し訳ないと直前キャンセルの連絡を入れ、けれど帰路はゆっくり普通列車でと考えて購入していた18きっぷはチケット屋に転売できる時期を過ぎていた。もともと北陸新幹線の東京・金沢間ルート開通で東京方面から長尾・富山を経由して18きっぷで行くことは不可能になっていた(第三セクターの普通列車はある)のに加え、24年3月からは新幹線が金沢から敦賀方面へも延伸する。横浜から名古屋を経由して金沢へというルートも利用するには最後のチャンスと、年明け最初の連休に再チャレンジを決め、金沢の(別の)宿を改めて予約した。
 そこで元日の地震だった。
 図解。2015年の北陸新幹線開業で東京→長野から日本海に出て金沢に到達する18きっぷルートが断たれ、東京→名古屋→米原から金沢に向かう18きっぷルートも24年3月の新幹線・金沢−敦賀間の延伸で断たれる。
 能登半島の北に突き出たほう=輪島市や珠洲市の状況は、皆様のほうがご存知だろう。
 けれど金沢に限っては、1/2だか3日だったか、現地で行きたいと思っていた古本屋さんの「本棚が一つ倒れた程度で大きな被害もなかったので通常どおり営業を再開する」というアナウンスがあり、本屋の本棚が無事なら壊滅的な被害でもないだろうという予断があった。コンビニから物がなくなったのも最初期だけで、大きな余震が追い打ちで来なければ、行って迷惑になることもないと踏んだ。要するに「人々が救助を待ち、劣悪な(ほぼほぼ政治の責任である)環境での避難所生活を余儀なくされている目と鼻の先に遊びに行く後ろめたさ」以外に、行かない理由がなかった。
 
 駅構内の看板。「ふっくら大粒、冷めても美味しい百満足の食べごたえ。石川の新しいお米 ひゃくまん穀(米新品種「ひゃくまん穀」推進普及委員会)」の文言に、目鼻が「へのへのもへじ」風に「ひゃくまん」で笑顔になっているおかめさんのイラスト。)
石川の新しいお米「ひゃくまん穀」の看板。「ひゃくまん」で御満悦の笑顔になっているおかめさんが実に好い。秋田のあきたこまちさん・千葉のふさこがねさんに続く第三のお米ヒロインになれるかな。
 CAFE DE H外見と、海老だしココナッツカレー・プリン添え。
金沢駅構内にもプリンなど洋菓子の売り場を出しているCAFE DE Hが香林坊に出してるカフェ。こちらの売りはパティシエ考案のチョコレートを隠し味にしたカレー。ココナッツミルクにカカオマスとビターチョコレート、県産の食材を使用して柚子胡椒がアクセントの季節メニューを食べたけど、レギュラーで推してる能登豚のカレーも気になりました。
 「とんバラの宇宙軒食堂」外見と、特製タレをかけまわした豚バラと千切りキャベツ、お味噌汁に漬け物とごはん、別注文の納豆。
事前に地図で名前だけ見て気になっていた宇宙軒食堂、ザ・食堂!な感じで嬉しかった。こうゆうところでサイドに納豆を注文できるようになった自分も。とんバラ定食、おいしゅうございました。
 「Omanju Cafe souan」外見と、断熱で二重構造のガラス器のホット加賀棒茶茶ラテ・クマをかたどったおまんじゅうと、白地にミツバチのおまんじゅう。
地図で目を引いたといえば、もうひとつ「オマンジュウカフェ」。注文ごとに蒸し器で熱々にして供するおまんじゅうも、二重構造の断熱グラスに淹れたホットの加賀棒茶ラテも大変よろしく、ゆったりした店内も居心地よかったけれど、高校生か大学生くらいの女子客たちがキャッキャウフフする中おじさん(おじいさん)が「もりのくまさん(つぶあん)と可愛いみつばち(キャラメルミルクあん)」を注文するのは少し勇気が要ったかも。
 ターバンカレー外見と、楕円形の平らな銀皿に濃い色のカレーライス・千切りキャベツとトンカツ・ハンバーグ・ソーセージ2本を盛り合わせたLセットカレー中。
昭和47年創業・いわゆる金沢カレーの草分けと思われるターバンカレーは変わらず健在。Lセットカレー中は「これが中?(さすが中といえどもL…)というボリューム。今回は名物のハントンライスを食べる余裕がなかったので、代わりに盛りだくさんと思ったのだけど大変でした。でもペロリ。うまい。

 自分にとって金沢の象徴のひとつかも、加賀てまり「毬屋」の店頭ディスプレイ。
ずっと変わらないものと、どんどん移ろうもの、そして変わらないと思っていたのに気がつくとなくなっているものがある。それは何処の街でも同じなのだろうけど。
 在りし日の「あかいお目々」と、セブンのとろろ昆布巻きおにぎり。
正方形の小さな匣に4×4=16の小さな兎型の真っ白い(そして名前のとおり紅で両の目を入れられた)菓子がならぶ「あかいお目々」は金沢に来るたび自分用のおみやげに好んで買い求めていたものだけれど、製造販売元の菓匠はあるもののラインナップから消えていた。まあ造形的な完成度にたいし味はなんだかビオフェルミンみたいだったから致し方なしとは言え、若干のさみしさは否めず。
 それより落胆させられたのは、駅のコンビニ。昔で言うキヨスク≒関東だとNewDays・東海だとベルマート(?)にあたるHeart-inがセブンイレブンに統合され、北陸を訪れるたび楽しみだった昆布巻おにぎりへの熱量があからさまに下がった。かつては白とろろ・黒とろろ・それにシート型の昆布の三種類で具材もそれぞれ違ったものが、ゆかりごはんを黒とろろで包んだ一種類だけ。無念きわまる。
 本屋も限りない生殺与奪…じゃないや有為転変をこの街で見てきた。
 そもそも最初か二回目かの訪問で、そのころはLibroがあったと思うのだけど、音楽書のコーナーで洋ロックやJポップのバンドスコアと和綴じの謡曲の本が同じ棚に並んでいたりするのを見て、さすが金沢・江戸屋敷とファッションストリートが道一本へだてて併存する街だと感心したのを憶えている。そのLibroもあっと言うまになくなって、あれやこれや。
 金沢駅の東口から近江町市場に向かうまっすぐな道の途中、ちょっと左に逸れたところに長くあったブック宮丸が十年ほど前に閉店し、自分のランドマークがひとつ消えた・寂しいなと思っていたら今回の訪問で、近江町市場の向かいのメルサという昔からある商業施設の地下一階に移転してるのを偶然(たぶんもっと前から移転してたのでしょう)発見。余裕がなくて本を吟味する時間がなく、今回は素通りしたのだけど嬉しい再会だった。
 古本屋「オヨヨ書林」せせらぎ通り店の外観と、古本屋で買った本。詳細は以下のとおり。
 三軒の古本屋で二冊ずつ、合計6冊の本を買いました。J・ゴンダインド思想史』これはまあ昔の中公文庫なので手堅かろうと。ジャンニ・ロダーリ緑の髪のパオリーノ』は創作論の名著(少なくとも僕には導きになった)『ファンタジーの文法』の著者による実作。イタロ・カルヴィーノむずかしい愛』にもファンタジーというか、寓話的なものを期待。F・ポール・ウィルソンザ・キープ』は80年代に映画化されていた(未見)第二次世界大戦中とある城塞(キープ)で駐屯したドイツ軍を怪異が襲うモダンホラー。そしてリチャード・ドーキンス遺伝子の川』。グールドに義理だてして(?)敬遠してきたドーキンスだけど案外これで寝返ったりして。(??)
 いずれも面白そうな本が買えたので満足とは言うものの、もっとこうガッツリ金沢にお金を落とすつもりだったのだが…と思っていたら
 喫茶めるつばう外観と、シナモンキャロットのマフィン・ヨーグルトとコーヒー。そしてグラフ誌「大勉強」2冊。
メルツバウという戦間期ドイツの芸術運動の名前を課した喫茶店も(名前だけで)行ってみたい場所のひとつにキープしておいたのが、予想以上にメルツバウな?ところで、やっぱりゆったりした店内に所狭しと芸術やサブカルチャー関係の本が並んでいる。壁の一箇所にYMOのソリッドステートサヴァイヴァーとデヴィッド・ボウイのヒーローズそしてアラディン・セインのLPが絵画のように飾られていて「この喫茶店、好き!!!」と即決したのですが(笑。コーヒーもマフィンもおいしゅうございました…)LPの上にディスプレイされていたのが「大勉強」という地元・石川を拠点にしたグラフ誌。
大勉強(公式/外部リンクが開きます)
LPくらいデカくてゴツくて、昔のRCAのLPくらいのお値段(具体的には1700〜2200円くらい)。中身も石川のローカル性を大事にしつつハイセンスで、ちょっとトンがってる。まあ今の自分は「今は一番トンがってることは一番トンがってはいない(二番目くらい。今はコンプライアンスとか人権とか配慮したほうが尖鋭的)」くらいの気分なので、読みこめば少しコンフリクトはあるかも知れないけれど、それも含めて今年とそれ以降の自分の糧になる気がして、いい金沢土産ができた気が。

 野菜の柿の葉ずし。左かられんこん・茄子・みょうが・しいたけ・山菜。そしてスーパーで買った「えびす寒天」30%引き
昆布巻きおにぎりより地域グルメ的にはメジャーかも知れない柿の葉ずし。今回はベジタリアンなのを。こういうのも悪くないです。
 今回は回れた場所がとても限られていて「この街の人たちはふだんの食材をどこで買ってるのだ?」と疑問に思うくらい◯ーカドーとか◯エツとか◯いばすけっと等の店に出会えない中、竪町の外れで唯一くらい出会えた地元スーパーで見つけた「えびす寒天」は火を通した溶き卵(中華スープの具みたいなやつ)を甘じょっぱい寒天に封じこめた地方食で、うーん、石巻や気仙沼つまり宮城のほうで具材は違うんだけど寒天お惣菜文化があったと記憶するので、このあたりにも未知の大陸があるのかも知れません。
 人生のある時期から金沢は、そう何度も来られる場所ではない→来るたびに今回が最後かもというつもりで気が済むまで・心残りがないくらいに満喫する街で、前回も前々回もそういう感じだったのだけど、今回は本当に駆け足+限られたところしか回れない訪問で、けれどいい意味で心残りができたと思う。
 今まで味わい尽くした(つもり)のとは別のつきあいかたが、ほの見えた気がするし(たとえば今回は行った喫茶店やカフェ、どこも「ここですごくゆっくり過ごしてもいい」と思えるところで、喫茶店やカフェでそんな気持ちになれたのは今までにないことだった)手に入れたグラフ誌は自分が行ったこともない石川のスポットを列挙しているようだし、今回も町中華「チュー」には行きそびれたのだった(メルサ店が二日つづけて臨時休業だったの、震災の影響でなければいいのだけれど…)
 町中華「チュー」メルサ店の外観と、臨時休業のポップ。

 金沢丸越百貨店(メルサ)の看板。文言は下記のとおり
「謹んで地震災害のお見舞いを申し上げます このたびの大規模地震により被害を受けられました皆様に心よりお見舞い申しあげますとともに早期の復旧をお祈り申し上げます」そんなメルサ店頭の掲示を見て得心したのは、これは商店から顧客へのお見舞いなのだけど、もちろんこの街も有形無形のダメージを(とくに今回僕が足を運べなかった海側などは)受けてるだろうけど、現時点の金沢は被災地というより被災地の最も近くで大過なかった大きな都市で、むしろ県内の被災地を支える立場・全国からやってくる支援の中継地点に自身を位置づけたのかも知れないと。
 犀川を渡りやってきて、片町の交差点を左に折れて被災地に向かう、広島から来た自衛隊のカーキ色の車両を何台も何台も見た。
 自分が泊まった宿の駐車場に大阪や栃木・宮城といった所から来た消防車や給水車が入れ替わり立ち替わりし、どうやら現地入りする前夜の運転手や隊員の休憩地・宿泊地になっていたらしいことも。
 まるで無力な僕は、ただそれを眺めて、責務を果たす役回りになった人たちの健闘を願うしかなかった。

 輪島塗りの箸と、半額のお惣菜。
いちおう金沢駅の土産物売り場で、選んで輪島産の塗り箸を買うくらいのことはした。けれど輪島塗りの箸も、自分の初登板が帰路の中継地になった(18きっぷだと帰るのに二日かかる)名古屋で、もう金沢じゃないんだから景気良くお金を落としたりしないよ!とばかりに駅そばのスーパーで買い漁った半額弁当と半額お惣菜だとは予想もしなかったろうな、ごめんよ…(いや食事に貴賎はないのだけど)

(同日追記/まあ乳香と没薬は「を、配合したお香」ですからね…)
 黄金(金箔バウムクーヘン・税込756円)/乳香(フランキンセンス香・箱200円くらい)/没薬(ミルラ香・箱200円くらい)。黄金は高い。

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