「私はここだ」〜DIC川村記念美術館に行ってきました(24.09.08)
千葉県印旛郡の実家に帰省するついで「佐倉で気になる美術館があるから、寄ってから帰るわ」とメールを入れたら
「ああ川村美術館ね、新聞で読んだ」と返信が。
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【速報】佐倉のDIC川村記念美術館、来年1月休館へ 規模縮小と移転を選択肢に検討し、年内に結論(千葉日報/24.08.27・外部リンクが開きます)
甦るのは新潟に行くたび朝カレーをキメていた万代バスセンターの立ち食い蕎麦屋が、いつもどおりに足を運んだら見たこともないような大行列で、聞いたら前日・土曜日の夜に「あどまちっく天国」で紹介されたとかで「あー、それは仕方ない(僕ですら名前くらいは知っている)あどまちっく天国ではなー」と嘆息した思い出。川村美術館も駆け込み需要で絵よりも人を観る、なんてことになるのかしら…
そうでもなかったです。いや自分が行ったのは平日だったので、土日祝は違うのかも知れないけれど。
そして結論から言うと、個人の趣味は別として(すごく好いとは思いましたが)そりゃあ採算は取れないよねと言いますか、でもあの敷地や建物を他に採算とれる何かに出来るとも思えないので、諦めず(または儲けは諦めて)続けていただきたいかなあ…
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DIC川村記念美術館(公式/外部リンクが開きます)
とりあえず東京駅を起点にした鉄路での路線図を紹介しときます。
僕は京成線を利用しました。京成佐倉駅の南口に出て徒歩10分足らず、無料の送迎マイクロバスが1時間に1本くらいのペースで出ています。バスが停まる場所の直ぐそばにあったハンバーガー屋で昼食。同じ千葉県・八千代(市)の黒毛牛=ヤチクロ(896)なのかな?直径より高さのがあって、ギュッて押しつぶして大口あけて食べるタイプのハンバーガー。ちろん肉が自慢なんだろうけどバンズもシッカリしてて美味でした。ドリンクとサラダつきで1150円。
そうこうするうちバスが来て乗車。降りるとまあ敷地が広い。シダから樹木から丁寧に植えまわされた遊歩道を経て、ありえんような大きな遊水池に出る。優雅に泳ぐ白鳥、いや最近は(夏でも飛び立てないよう)翼を切ってるとかで皇居のお堀なんかでも動物虐待と批判されていますけど、その話は措く。
そしてこの広い敷地を無駄に…もとい贅沢に使った美術館は「とどめ」とばかりに抽象的な現代美術がメインなのでした。個人的には楽しんだけれど、まあ株主が頭を抱えるのも分からないではない。
いや、入ってすぐは具象画が続きます。月並かもですがモネの睡蓮、広く取られた観覧室で遠く離れれば離れるほど、ふつうに美しい水辺の景色に見えるのが面白く。数点あるピカソもそれぞれ作風が違うので、どれが好きか選んだり(複数で行ったら)言いあったりするのも楽しいかと思います。個人的にはフジタが描いた女性がクリムトみたいな黄金のドレスをまとってるのが面白かった。
・この絵でした。いいでしょ。→
企画展:レオナール・フジタとモデルたち(川村美術館2016年/外部リンクが開きます)
ダダやシュールレアリスムの諸作品を挟んで、後はタップリの現代美術。たぶん興行的には
マーク・ロスコの巨大な壁画群と、逆に小さな箱にコラージュを詰め込んだ
ジョゼフ・コーネルが、二大お客を呼べる代表作なのでは。コーネルの名前は柴田元幸さんのエッセイか、彼が訳した誰かのエッセイで知った気がする。柴田元幸的なものが好きな人には刺さるかも。
とはいえメインは(なんだかんだで具象をコラージュした)コーネルよりも、ロスコのような抽象美術。その魅力や楽しみかたをどう提示できるかで、本館の生き残りは決まる気がします。いや、自分も美術まして現代美術は全く分からんちんなのですが、今回は不思議と楽しめたので「いえいえ、当館の現代美術は初心者のお客様でも楽しめますよ!」とアピールする資格は既にあるのかも。
自分の場合、たぶん7月に行った金沢の21世紀博物館・とくに佐々木類氏の作品で開眼するものがあって(
7月の日記参照)。いちど開いた眼がまた閉じる前に行けたのも良かったのだと思います。
大急ぎで説明すると「自分(人間)がこうもありえた姿」「人間が言語を使わずに自分とか人間とは何かを表現しようとしている」あるいは「(いっそ人間が作ったタブローを観てるんじゃなくて)言語を使わない異星人とコミュニケーションしてる」みたいな心持ちで対峙すると、意外と面白いんですわ抽象的な現代美術。
まあ、ただの邪道ですけど(自分には同様に意味不明に聞こえる現代音楽が和音だの調性だの複雑な理論に基づいているように、美術にも何かしらあるのでしょう、
たぶん)
その邪道で川村美術館を楽しめる人が増えて存続に寄与できればとダメモトで。
マーク・ロスコの巨大壁画群を作家自身が望んだレイアウトで再現した
ロスコ・ルーム(川村美術館公式/外部リンクが開きます)←この紹介ページの写真よりも、ずっと暗く抑えられた照明になっていて、異なる世界や、現世と冥界を隔てる境界線の向こうを(
それはすなわち冥界なのでは)に歩み入るような感覚で良かったです。
「眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)」という佐藤弓生の短歌のように。
あるいは、前にも引いてるけど
「あんたがたは、いつも模型(モデル)を造ってる。環状列石(ストーン・サークル)、大伽藍、パイプ・オルガン、加算機械(中略)
今夜の仕掛け(ラン)がうまくいけば、ついに本物があんたの手にはいる」というサイバーパンクSFの台詞のように(ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』)。
そのあと実家に帰って、土曜日の午後に家族が観てるテレビのゴルフ中継をのんびり観ているうち、(これも宇宙から観おろしたらケッタイな現象だよなあ)(ホール数も10や14や19や26だったものが次第に淘汰され18ホール・バンカーやグリーンの案配も今の形に定まっていった、その過程じたいボールが必然みたく一つの穴に引き寄せられていく様子に似ていて面白い)(そういう総体として一つの壮大なインスタレーションと言えなくもない)みたいなことを口走り、
「そんなこと言ったら何だってそうじゃない」と笑われたのだが、
まさに何だってそうなのだ。
正確に言うと、何だって
一部はそうなのだ。わざわざ美術館に出向かなくても、目の前の街路にある敷石の並び。コンクリートの巨大な建物に、人々が互いの存在も気に留めず造りだす灯の明滅。人の営みに限らない。植物の精緻な葉のパターン。エノコログサの穂。
植物の造形は純粋に機能上の要請から来るもので、美とか表現は目的ではない。それでもあらゆる事物は「そういう目線」で見ると、「わたしはここだ」という表現に「も」見えてくる。抽象芸術や現代美術に(
投機以外の)意味があるとしたら、他の事物ではそう「も」見えるに留まってる「美や表現」を本当に100%目的に作られたものだから、なのかも知れない。
それが目的ではない事物にも「美や表現」を見出してしまうよう、いわば目を調性するために、美術館の作品群は存在するのかも、という仮説。残響は、横浜に戻ってからも、しばらく続いている。良い美術体験でした。
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【今週のまとめ】
・すべての事物が一部として併せ持ってはいる「美だけ」を取り出すのが美術。
・川村美術館、良かったです。でも採算的には厳しいと思うので惜しむひとは年内に。
以下余談。無料の送迎バスは1時間1本なので、帰りも考えて行動しないと時間をもてあまします。当然ながら考えずに行動してたため、併設の高級レストランでルバーブのケーキとレモンティーをいただく羽目に。それも含めて贅沢な時間でしたが、強く推すわけでもないです(まあ自分の出費は存続に向けた足しになれば…)。
佐倉市は市制70周年だそうで、街に貼り出された記念イベントのポスターは、どうやら佐倉高校の美術部員が描いたものらしく。佐高生、男子の制服は今でも詰め襟なんですね、良き良き(自分が通ってた頃は何とも思ってなかったけど、後に近隣高の出身者から「あれは萌えでしょ」と言われたことがある)ボタンの向きが逆なのは描いた当人も気がついて悶絶してるだろうから、この先輩に免じて見逃してあげてほしい。
佐倉市は19歳以上の市民だと300円で歯科検診が受けられるようで、これも良き。
しかし駅前にあったパチンコ店の看板、
「With Enjoy!」enjoyは動詞だから「With Enjoy
ment」いっそ
「With Joy」でいいんじゃないかなと考えてる時点で、良かったですね(現代美術で宇宙や冥界に行っちゃってた自分の思考も)
平常運転に戻ってるみたいです。
※joyとenjoymentは厳密には意味が違うみたいなんですけどね。
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川村美術館には(現代美術の中では特に入りやすい気がする)ジャクソン・ポロックも。本人の作品
ではなくイギリスのロックバンド、ザ・ストーン・ローゼズのメンバーがポロックを模して描いたレコードジャケットから「入った」ひとも今のアラフォー・アラフィフには少なくないと思うのですが、愛知の美術館が昔こんな展覧会もやってた模様→
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ジャクソン・ポロック×ストーン・ローゼズ!(愛知県美術館/2011.12.02/外部PDFが開きます)
読むことの救い〜アン・ケース/アンガス・ディートン『絶望死のアメリカ』(24.09.15)
好きなミュージシャン・好きな楽曲を手がけたミュージシャンの訃報を知らずに半年とか数年あとで気がつくのは厭なので、悪趣味だなあと思いつつ「今年前半で物故したアーティスト」みたいな記事や動画を観たりする。
先日観た動画は年齢と死因も表示するもので、過去に小ネタでふれたスティーブ・アルビニ(61歳/心臓発作)やエリック・カルメン(75歳/不詳)などの他に、名前は知らなかったけど40代で亡くなったスターが二人いて、双方とも死因が
「Fentanyl」とあって「うわあ」となった。フェンタニル。モルヒネの100倍の鎮痛効果を持つという(ちなみにヘロインは2.5倍)オピオイド=合成麻薬だ。それがアメリカ社会にもたらした壮絶な薬害を、ちょうど本で読んでいたところだった。
1)オピオイド
今週はイタリア現代史を中公新書でおさらいしてから、1978年のモーロ元首相誘拐事件を描いた映画『夜の外側』について語るつもりでしたが、予定を変更します。何ヶ月も前に図書館で予約していた本の順番が回ってきて、それだけ待たされた=僕の先にも待ってる人がいるわけで、早めに返却するため読む本の順番が変わったためです。
アン・ケース/アンガス・ディートン『絶望死のアメリカ 資本主義がめざすべきもの』(原著2020年/松本裕訳・みすず書房2021年/外部リンクが開きます)
絶望死とは自殺に薬物の過剰摂取とアルコール性の肝疾患(つまり「緩慢な自殺」)を合わせた不慮の死・不本意な死の総称で、少なくともいわゆる先進国の中でアメリカだけ、しかも45〜54歳の大卒未満の白人(ヒスパニックも除く)だけ、この絶望死が激増しているというのが本書の主題だ。いや、もちろん違う。その原因を明らかにし、可能ならば解決策を提示するのが本書の使命になる。
ミステリならば死体があって凶器は何か・犯人は誰か・犯行動機はと次々に問われていく。本書がまず直接的な凶器として挙げるのが、冒頭にも記したオピオイド汚染だ。ケシ(オピウム)から抽出される天然の誘導体がアヘンやモルヒネ・ヘロインなどのオピエートで、同様の効果をもつ合成体・半合成体をオピオイドと呼ぶ(ただし現在では両方あわせてオピオイドと呼ぶらしい)。この要は合成麻薬を、製薬会社が商品化し、それを行政が認可してしまったために破滅的な薬害が生じた。具体的には薬物の過剰摂取は2017年だけでベトナム戦争より多くのアメリカ人を死なせ、2000年〜17年の累計は二つの世界大戦で死んだアメリカ人の数より多いという。HIV・銃・自動車事故をも上回る死亡率で、そしてその1/3が医師によって合法的に処方されたオピオイドに起因していたと著者たちは指摘する。
かつてイギリスが大清帝国に仕掛けたアヘン戦争を、アメリカでは製薬企業が自国民に仕掛けている、というのは言いすぎだろうか。思い出したのは合衆国の麻薬捜査官ケラーを主人公にした
ドン・ウィンズロウのサーガと呼びたくなる作品群だ(
23年6月の日記参照)。アメリカへの麻薬供給基地であるメキシコで数千ページにわたる血みどろの死闘を繰り広げたケラーが最後に至る結論は、病んでいるのはアメリカのほうで、人々を麻薬に走らせる痛みに向き合わなければ、麻薬問題は解決しないというものだった。またしても答え合わせ。ケラー(ウィンズロウ)が
「肉体的な痛み、感情的な痛み、金銭的な痛み」と呼んだそれに、まさに向き合うのが『絶望死のアメリカ』の、その後の展開となる。
2)社会的な痛み
なぜアメリカでは45〜54歳の(ヒスパニックを除く)低学歴白人層が突出してオピオイドに・ひいては絶望死に走ったのか。供給されたオピオイドは合法的に処方された鎮痛剤で、つまり絶望死の追究は「痛み」の原因をさぐることになる。
あらためて言うけれど、これはアメリカの事例で、日本に直に適用できるものではない。けれど、そのうえで驚かされるのは
「1億人以上のアメリカ人が慢性的な痛みをわずらっている」そして
「アメリカでは中年期の痛みがあまりにも急激に増えたため、高齢者よりも中年のほうが痛みを訴えるというおかしな状況が生まれている」という指摘だ。
そろそろスピードを上げていこう。著者たちが指摘するのは、痛みには(疾病や加齢による関節炎など)肉体的なものだけでなく精神的なものがある(精神的な苦しみが肉体の痛みを引き起こす)ということだ。この複合的な痛みを最も被っているのが、学歴に恵まれない白人層だと言うのだ。ウィンズロウの捜査官ケラーはその病毒をもたらしているのは
「ウォール街」だと告発したが、著者たちの分析は(広い意味では同等の結論になるにせよ)もう少し射程が長い。
貧困=経済的困窮と「絶望」は必ずしもイコールでないと著者たちは主張する。本書の重要なポイントだ。経済的には、より苦しく、不公平・不平等な立場にいる非白人層より、低学歴の白人中年層が絶望しているのはなぜか。彼ら(彼女ら)は産業構造の変化に直撃され、曲がりなりにも工場の正社員といった立場から、日本の派遣労働者と同じような非正規のサービス業に転職を余儀なくされた。給与が低いだけではない。昇進の望みが断たれたこと・自分の主体性やイニシアチブが発揮できない歯車にされたこと=要は仕事のやりがいと自尊心が失なわれ、また会社や地元社会への帰属意識・家族の紐帯も破壊された。
がぜん分析は社会学みを帯びる。まさに社会学の祖のひとり・デュルケームの自殺論を援用し(ただしデュルケームの頃は自殺率が高いのは高学歴者だった)
社会的な紐帯・共同体への帰属意識の途絶、ひいては人生こうあるべきという価値観を打ち砕かれた・その価値観に照らし合わせたら自分は失格者だという自責の念が「絶望死のアメリカ」を生んだと著者たちは結論づけているようだ(
かなり自分の言葉に馴らしちゃってるので「ようだ」と書きます)。いや、結論ではない。分析はまだまだ続く。
3)逸脱か本質か、いずれにしても今の資本主義はおかしい
労働者階級を落伍者の地位に落として絶望させ、あまつさえ合成麻薬で大量死に至らしめた。『絶望死のアメリカ』の「下手人」が企業・というか企業優先の構造なことは明らかだ。
重税を課す役人から奪った金貨を貧しい者たちにバラまく義賊ロビン・フッドに対し、その仇敵の名を取って「
ノッティンガムの代官方式」と著者たちは呼ぶ。格差の拡大・低所得層から一部の富裕層への逆配分・逆トリクルダウン(トリクルアップ?)…日本でもお馴染みの光景・ここしばらく本サイトがしてる表現で言うならズバリ「
資本と結託した国家による搾取」なんですけど、ノーベル経済学賞も受賞している(
言いそびれてたけど、そうなんだそうです)著者たちの分析は、もう少し深い。
独占や寡占・政府へのロビイングを通した利益権益の囲い込み(レントシーキング)・さらには会社負担の社会保障が賃金を奪っていく仕組みなど、など、など、経済学者らしい精緻な分析と提言は省略する。要は今のアメリカの政治や経済の構造が「ノッティンガム方式」=かぎられた富裕層が低所得層の財産を(賃金から社会的尊厳まで)吸い上げていくメカニズムを、条理を尽くして暴いている。
それはおかしい・人道的でないという問題意識は同じでも「健全な資本主義はこうではない」適正に運用される資本主義・自由競争やイノベーションの恩恵は万人に行き渡るのが本当だ、という著者たちの立場は、いいや資本主義は根本的に邪悪で現在の惨状はその本質の必然的な到達点にすぎないという、たとえばウォーラーステイン(
今年4月の日記参照)などの見解とは異なる。でも、ここでどちらが正当か争うこともしない。本書の価値はそこにはないからだ。
4)余談:読むことの救い
今回のまとめ:
0)アメリカでのみ45〜54歳の低学歴白人の絶望死が激増した
(とゆうか絶望死という把握自体の容赦なさよ…)
1)合成麻薬の合法化という未曾有の薬害があった
2)産業構造の変化で賃金のみならず共同体や自尊心も奪われたのが絶望の正体
3)企業や株主が利益を吸い上げるノッティンガム方式が諸悪の根源
人が本を読んで受け取るものは「その本に書いてあること(正しく読めば万人が同じく受け取れること)」「それまでの自身の読書や経験と合わせて引き出せること」があって、後者は人それぞれ異なる。以下はその話になる。
これまで考えてた「
資本主義と差別(お金が万人を平等にしてもよさそうな資本主義・新自由主義と差別が実際には親和性が高い謎)」
が一応ひと段落ついて(
先月の日記参照)、最近うっすら考えてるのは共同体のことだ。まだガスがモヤモヤ凝縮されてない感じで、星のいくつも光り出してはいないのだけど:
だもんで『絶望死のアメリカ』で感じ入ってしまったのは、経済学者ふたりが「お金の問題じゃない(もっと貧しくても絶望死していない層もある)」と繰り返していることだった。
はっきり言えば、僕は共同体や社会的紐帯に対する適応度がいちじるしく低い(
16年7月の日記参照)。ちなみにアルコールにも全く適応できず現在に至っているのだが、最近の「ノンアルコールでもいいから皆で呑もう」という広告キャンペーンに「いやそもそも皆で呑みたくないんだ」なんならアルコールより「皆」のほうが辛いんだ、というくらい集団に適応できない。
その僕ですら、共同体に一体化できない・仕事で自分をアイデンティファイできない(本書は「かつての労働者が『俺は炭坑夫だ』と名乗っていたのと、今の労働者が『俺はAmazonに居る』と自称するのでは意味が全く違う」と表現している)・そして生涯のパートナーや何より子どもや孫を持てない―本書が説く「絶望」の痛みは分かる気がしてしまう。
ウサギは淋しいと死んでしまうという俗説はどうも事実ではないらしく、本当は淋しいと死んでしまうのは人間なのだろう。アメリカの剥奪された層の孤独を救うのにSNSは心もとないと本書の著者たちは捉えているけれど、日本ではソコソコ命綱たりえているのでは…と電車の中でも彼処でもスマートフォンに見入っている人たちを見ると思えなくもない。
かく言う自分も(今はもっぱら閲覧ばかりとはいえ)SNSを閲覧しない日はないし、こうして読む人が特定できない・読まれてるのかさえ分からない個人サイトでの発信を続けているのも「別のかたちで」共同体や社会的紐帯にしがみついてる姿なのだろう。
実を言うなら読書もそうだ。もうひとつ「答え合わせ」をするなら、かくも現実の人間関係が苦手な自分を救ってくれた「
人は共同体に属せずにはいられないが、その共同体はたとえば平安時代の歌人とか、遠く離れた一方的に読むだけの存在であってもいい(大意)」という言葉は、今でも僕が(勝手に)師匠と私淑している人の書いたものだった。というか今にして思えば、そういうことを言ってくれる人だから師匠に選んだのだ。
* * *
読書は人の高収入や社会的地位、まして長寿を保証してはくれないと思うけど(まあ前者ふたつは僕自身で反証済み)絶望の緩和剤になるとも言いきれないけれど―孤独を救う・家族や職場や飲み会で結ばれる紐帯の替わりにはなると思う。
陰鬱な主題にも関わらず『
絶望死のアメリカ』を読むことが(身構えたほど)苦しくないのは―もちろん対岸の火事という側面もあるのだろうけど―絶望や死を主題にしてもなお、学問の喜び・解き明かすこと・それを読むことの喜びに満ちあふれているから、ではなかったか。
その学問の喜びは専ら「社会学の喜び」だったと僕は思うのだけど、もちろん引き出せるものは読む人によって違うだろう。各々の関心や問題意識(場合によっては抱えてる苦しみ)によって異なる意義を引き出せる本で、なので大急ぎで図書館に返して、次のひとにバトンを渡したいと思う。より良い意味を同書から引き出せる人は、アメリカではない対岸のこの国にも必要なはずなので。
なぜなら
5)この国には、この国の絶望がある
アメリカの絶望は他の先進国には見られないものだと著者たちは嘆くけれど、日本の自殺率はそんなアメリカの二倍に匹敵する。
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諸外国の自殺死亡率(厚生労働省/外部リンクが開きます)
フェンタニルのような合成麻薬(比喩)ではない痛みの緩和策が必要なのは、たぶん日本も変わらない。
「正史」の試みとして〜マルコ・ベロッキオ監督『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』(24.09.22)
電車の中に貼られる書籍の広告で「テキトウなのに上手くいくイタリア人(に学ぶ)」みたいな、それこそテキトウ極まる案件にゲンナリするなど。なんか「待ち合わせに遅れても気にしない」とかイイカゲンな見出しに混じって「一度会っただけの相手でもコネにする」的な文言があって、相手に与えたり親切にできる・ではなく「もらう」ことしか考えてないあたり、いかにもだよねと内心でケチをつけていたのですが、まあそれは措く。
現実の戦後イタリア史を遠目に眺めると、もちろんクレプトクラシー(泥棒政治)と呼ばれるような汚濁にまみれた側面もあるのだけど(
昨年6月の日記参照)、むしろ「一生懸命なのに上手くいかないイタリア政治」みたいな側面も少なからずあるようで―
はい、神奈川県では終わってしまったけれど関東だと栃木・群馬、それに和歌山以西では10月以降の上映もまだまだある『
夜の外側』、1978年イタリアで極左テロ組織「赤い旅団」によって元首相アルド・モーロが誘拐・55日にわたって監禁された事件を描く前後編6時間の大作でした。
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『夜の外側』ザジフィルム公式サイト(外部リンクが開きます)
個人的には「元」も中棒もつかない「
モロ首相誘拐」という言葉だけは(同時期の
「サスペリア…決して一人では観ないでください…」や
「たたりじゃ…八つ墓村のたたりじゃあ…」「志村ぁ…後ろ、後ろぉ!」と一緒くたの禍々しいものとして、や、最後のは当時からギャグだったけど)記憶に残ってる世代でもある。近年ぼんやり気になってるイタリア現代史(上に書いたような腐敗など今の日本に通じるところが多い―
今年2月の日記など参照)で有数のトピックでもある。それでいて、自分の調べ方が悪いせいもあり、なかなか「こうか!」とスッキリした全体像がつかめない同事件の(同じ監督による)二度目の映画化・それも6時間の大作とあり、これなら…と飛びついた次第。
…
そう甘いものではなかった。映画は「これでモーロ事件ひいてはイタリア現代史が全部わかる!」というものではなく、むしろ「
観るとイタリア現代史をもっと知りたくなる」
入口として最適の映画でした?(
とほほほ)というわけで、とりあえず
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伊藤武『イタリア現代史 第二次世界大戦からベルルスコーニ後まで』(中公新書2016年/外部リンク)
を読了。その書評という形で、こちらの記事もよくまとまってます→
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【書評】伊藤武著『イタリア現代史』(松本左保/2016.10.5/東京財団制作研究所/外部)
政治史というより政党史(政局史?)寄りという後者の評はそのとおりだけど、逆にモーロ事件の前後の状況を知るにはうってつけで、そのあたりも踏まえて概略を述べると
第二次世界大戦後、西側の自由主義(資本主義)と東側の共産主義(社会主義)どちらを範と仰ぐかに、工業が発展し豊かな北部と農業中心の貧しい南部という対立軸が掛け合わされる複雑な状況にあったイタリアで、数十年にわたる長期政権を築いたのがバチカンとも誼みを通じる中道のキリスト教民主党。ただしその権力基盤は不安定で、常に他党との連立で政権を維持してきた一方、党内でも右派と左派の対立をかかえこみ、さらに汚職に侵食され…という状況で、上記『現代史』によれば7時間に及ぶ演説で党内政治の中心に打って出た「やり手」だったのが本作の主人公となるアルド・モーロ。「元」首相というから権力の座から退いたのかと思いきや、なお党内の最有力政治家で、イタリアでは象徴以上の権限をもつ大統領の座も伺っていたという。
その彼が主導したのが長らく政権からは追放されていた共産党との連立で、これが共産党から「破門」されていた過激路線の赤い旅団を刺激し、民衆にも労働運動にも支持を得られず孤立・爆破や誘拐や暗殺などに走っていた彼ら彼女らのテロ行為の頂点としてモーロ誘拐に至った…という「正史」に基づき本篇は展開する。
言い替えると、(同様に共産党との連携を嫌った)極右が極左を操っていた等々の陰謀論は捨象される。
それだけでなく・モーロを父と仰ぎ解放に尽力する法務大臣コッシーガ・病身を推して表に裏に手を尽くすローマ教皇パウロ六世・家長を奪われた一家を取りまとめ気丈に振る舞うモーロ夫人そして・赤い旅団の中で自らの大義に疑念を芽生えさせていく女性テロリスト…と善意の人々・人々の善意ばかりを物語の中心に描く構成は、日本配給の公式サイトや予告篇に寄せられた
「メロドラマ」というコメントの所以かも知れない。
とくに印象的なのはパウロ六世で、個人的にはこのひと今まで「ファティマ第三の予言の内容(一説によれば最後の審判)を聞かされてショックで失神した」という風聞しか存じ上げなかったのだけど(
その存じ上げかたはちょっと)モーロ解放を呼びかけるため、主イエスがゴルゴタの丘まで自らが架けられる十字架を背負って歩いた行為を再現するパフォーマンスを企図する。しかし最晩年(同1978年に病没)で冒頭から点滴のチューブをつながれた彼は重い十字架を背負えず「もう少し軽い十字架はないか」しまいには手に持つような小さい台座つきの十字架を携えて歩くことさえ厳しく、他の高位聖職者が十字架を背負うさまを空しくテレビで眺めて終わる。
その直後、寓意(空想・ファンタジー)として描かれるのは他ならぬモーロが、赤い旅団との交渉を拒絶し彼を見捨てた自党の閣僚たちの前で十字架を背負い、よろめき膝をつく姿で、ストーリーとしては「正史」の確立をめざしながら(?)手法的には寓意や幻想・ブラックユーモアまで駆使するのが本作の狙いらしい。
その手法的な冒険の際たるものは、やはり冒頭だろう。『夜の外側』は55日目に解放・救出されたモーロが病院のベッドで公職からの引退を表明する場面で始まるのだ。これが大胆な冒険なのは、単に事件がどう収束するかを示す「ネタバレ」だからではない。というのも、ザジ・フィルムの公式サイトが巧みに伏せきってることに気づいた人も多いと思うが、
★これから観る人の興を削がないため一応たたみます。(クリックで開閉します)。
現実にあったのは単なる「誘拐」ではなく「暗殺」事件で、モーロは解放も救出もされず、55日後に発見されたのは、射殺された彼の遺体だったからだ(たたんでる部分に書いておくと、いよいよ殺害の直前に最後の告解と聖体拝領をさせてやるため赤い旅団が聖職者を誘拐し目隠しで連れてきて、また目隠しで返す挿話は驚きだった)。つまり冒頭の救出劇は単なる幻想で、最後に再び繰り返されモーロの無事を願うコッシーガの願望に過ぎなかったことが明らかになる。知らない人が観たら「えっ、最終的に助かるんじゃないの」と騙される…というのではない。日本でも、ましてイタリア人で事件の顛末を「知らない」人など少数だろう。そうではなくて史実はどうあれ「この映画では」助かるのではないか(とくに2009年以降は映画史的にありえない話ではない)という期待が、結末が分かりきってるはずの物語に最後まで緊張感を与えつづける。えげつない「釣り」であると同時に「どうしてこうならなかったのか」と考えさせる狙いでもあるのだろう。
そして「モーロが助かっていた、ありうべき世界」という理想を一番内側に内包しつつ、その外側の物語も
事態を悲劇に終わらせまいと尽力する善意の人々という「正史」でイタリア現代史を包む試みだったのかも知れない。法務大臣のコッシーガ(演じてる人の終盤の憔悴芸とでも呼びたくなるような顔貌の変容がすさまじい)は事件発生の当初から、事態がどのように展開してもいいように三種類の辞表を用意して事に臨み、最後にその一通を実際「使う」のだが、現実のコッシーガはその後イタリアの大統領に就任し、長年にわたり最高権力の座であくどい交渉や工作もしてのける(と『イタリア現代史』で知った)し、引退後の晩年には2001年の9.11事件はアメリカの自作自演だと唱えたりもしていたという(Wikipedia調べ)。
現実の世界でも、ある一局面では善行を為した人が、時間的・空間的スケールを大きくとって広い目で見ると残念だったり有害でさえあったりするのが通例かも知れない。けれど、そこまで目を向けてしまうとニヒリズムで打ち消されてしまう、限られた局面では発揮された善意や気高さもあるのだろう。
何度か言うてると思いますけど、
ベネディクト・アンダーソン『
想像の共同体』では近代ヨーロッパで「国民」という想像の共同体を人々の心の中に形成するために、新聞の連載小説が役に立ったという話があって。善くも悪しくも。国家的なものを悪と考えれば(僕もしばしば考えます)悪しくなのだろうけど。同書を読んで数年後ふいに、日本のテレビ小説というのがまさにソレだなと思い当たってビックリした憶えがある。だってそうでしょ、無名の主人公を描く現代劇もあるけれど、多くは明治維新後の日本で○○の先駆者とか○○の創立者(の妻)とか立志伝中の人物を描いたものだ。これはあくまで憶測というより見方だけれど、『夜の外側』も善かれあしかれイタリア国民の自画像を描きたい作品ではなかったかと。※あしき側面については勉強不足もあり今は触れません…と言いつつ一つだけ挙げると、翻弄される善意の人々を中心に描くことで(原因のあった)悪が責任者のいない天災のように見えてしまうのは日本の「正史」的ドラマが戦争を描くときと同じかも。
ともあれ。
事件や現代イタリア史・あるいはテロリズムとりわけ70年代の極左テロリズムについて知る契機になる、だけでなく、それをどう描くか・観客にどういう(国民的)物語を提示するかという(それを狙ったと仮定しての話ですが)手法的な側面でも見ごたえある作品でした。
映画のコッシーガさん、自分の拙ない絵では表現できないくらい最後ボロボロなんだけど今「あ…もう一押しで『レッド』(後述)でボコボコにされた人になっちゃう感じのヤバさだ」と気がついてしまった…というわけで
【余談1・ぜんぜん勉強中】
70年代の極左テロリズムについては・イタリアの赤い旅団を描いた本作・(直接ではないけど)ドイツのバーダー・マインホフを背景にしたルカ・グァダニーノ監督の2018年リメイク版『サスペリア』、そして日本の連合赤軍を描いた
山本直樹の漫画『
レッド』くらいが自分の乏しい観測範囲なのですが、実は今回『夜の外側』を観た後に、これもやっぱり人生の宿題として片づけておかなきゃなーと通読した『レッド』
めちゃめちゃしんどかった…
最終的に内ゲバで殺される人たちに最初から殺される順番の番号が振られてて毎話「殺されるまで後○○日」とキャプションで念押しされるのだけど、いよいよ巻数も極まり冬の雪山で「総括」の名のもとにリンチで殺されていく人たち、それまで闊達に笑いもボケもし、直前の番号の誰かが殺される時にはリンチに加わってさえいた登場人物たちが殴打で顔を風船のように腫れ上がらせた肉塊と化していく・なんなら美女も可愛らしい女性も読後はその変わり果てた姿しか脳裏に浮かんでこない地獄を体験したので、優れた作品と知りつつ正直オススメはできないのですが、民衆や労働運動からとっくに乖離したテロリストたちが陰惨な暴力を「プロレタリアとの連帯」で正当化するさまは『夜の外側』でも赤い旅団の内部の理屈として描かれていて、つながってるんだなあと思った次第。自分は読まなきゃいけない作品だったけどオススメはしません(大事なことなので二度言いました)
ちなグァダニーノ版『サスペリア』は極左テロに対抗して…というわけでもないのだろうけどベルリンで古(いにしえ)の魔女信仰を復活させようと残虐な儀式を営む女たちが、アメリカという西から来た良き魔女=スージー・バニヨンに成敗される話と受け取ったのですが(つまり権威的家父長的な体制・極左・魔女たちの三つ巴をバニヨンが止揚する?)
【余談2・ぜんぜん勉強中】
70年代イタリアで吹き荒れていたテロも極左の専売特許ではなく、極右も爆破や暗殺それに社会運動への暴力も多く働いていて、とくに破門されたフリーメイソン組織P2(ロッジP2)は閣僚や財界の大物・ベルルスコーニなどまで巻き込んだ陰謀論の主役として暗い影を落としている(
先月の日記で軽く触れたギー・ドゥボールなども透徹した論客だけどモーロ事件の黒幕はP2という立場)。
ルイス・ミゲル・ローシャの小説『
P2』(原著2006年/木村裕美訳・新潮社2010年)はモーロ事件も、パウロ六世(本作では頑迷な人物として描かれる)を継いだ即位後わずか33日で急逝したヨハネ・パウロI世の死も、実はP2が黒幕だったという開巻早々に示唆される設定を上回る興趣はついに最後の一行(続篇への良い「引き」になっているが邦訳は未刊行)まで得られない、小説としては残念めな(出オチな)お話だけど、P2にまつわる風説の概説としては悪くない前後編でした。
なお余談の余談なのですが、P2をさらに裏で操ってるアメリカのCIAについて「アメリカにとって不都合な指導者を排除するのに仕損じたことはない」とあって、チリのアジェンデ政権転覆など思い起こしていたら「
唯一の例外はフィデル・カストロだった」なるほど、そうゆう考え方もあるかと。
小ネタ拾遺・24年9月(24.09.30)
(24.9.06)7月=まんがも描いたし旅行も行った!8月=無理…本を読むだけで精一杯…からの9月=本当に無理…本すら読めない…で着実に弱ってます。まだ前半だし巻き返したいけど、ダメだった場合はダメです。(
追記:ダメでした)
(24.09.02)FUJI ROCKにも来ていたみたい、オーストラリアの三人組。素顔を隠す仮面とジャンル横断な音楽性を支える高度な演奏力、方向性は全く違うけどCLOWN COREにも通じるものが???
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Glass Beams - Full Performance (Live on KEXP)(KEXP/YouTube/24.8.23/外部リンクが開きます)
(24.09.09)重陽。
9/22の日記でも参照した
伊藤武『イタリア現代史』(中公新書2016年/外部リンクが開きます)。読み始めて早々に遭遇したのが戦後すぐの政党名「
凡人党」。なんだそりゃと調べたところ
Fronte dell'Uomo Qualunque(略称UQ)英語だとThe Common Man's FrontもしくはFront of the Ordinary Manとのことで、そりゃまあ普通の人々=凡人かも知れないが。残念ながら反共・反反ファシズムの右翼保守政党だったそうで、まあそれが自称「普通」なのは何処の国でも同じなのかも。
モーロ元首相の誘拐事件を描いた大作映画『
夜の外側』でもバスの中で「こんなひどい事件、ムッソリーニの頃なら起きなかったよ…あーあ
ベニトが恋しいねぇ」
と聞こえよがしに嘆いてみせる戦中世代の高齢者がいて、こういうひとイタリアにも居るんだな…と思いました(※ベニト=ムッソリーニのファーストネーム)
(24.09.11)ふだん足を運ばない西横浜でオープン前の6月末から気になっていた中華料理屋。まだ暑いけどようやく訪問&看板メニューを確認。排骨担々麺で排骨あとのせって初めて見た&食べた。最後までサクサク感がキープされ、たしかに理に適ってるかも。そして中々のボリューム。
食為天という店名は、調べてみたら漢書の
「民以食為天」(孟子)に由来するようで、民は食を以て天と為す=
人間ごはんが美味しければ幸せなのよ=当店が
幸せにしちゃうからね(
愛の呪文?)くらいの意味合いなんだろうけど・元々(?)
食に窮したら民は蜂起するぞ(食も供給できずに何が天命だ天子だ)という権力者への戒め的ニュアンスでもあるらしく、これは善し悪し両面あるんだろうけど令和日本の吾々は随分と「天」に従順なようで、どうせ僕たち皆すぐ忘れちゃうんだろうけど3秒か5秒くらい考えてみてもいいんじゃない?何でこうなんだろうって。
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コメ不足 農水省前で消費者などが安定供給求める 約200人参加(TBS NEWS DIG/24.09.10/外部リンクが開きます)うーん、200人。
(24.09.14)今日の単語:
deplore(遺憾に思う/強く非難する)―
「私の地元でドナルド・トランプが集会を開くそうで、そんな悲しいことは無視したかったのですが、会場の建物に私の名前がついてるので黙っていられません…(大意)
」に始まる
リンダ・ロンシュタットのInstagram投稿(24.9.11/外部リンクが開きます)こんなイケてる文言で英語の勉強(復習)が出来るの、最の高だな…
(24.09.15)進まない勉強の話。十年くらい前の台湾の刑事ドラマ『*(やまいだれに否)子英雄 Black and White』を全話YouTubeで観られるんだけど、字幕が中国語と英語だけで、中国語は当然初心者(以下)には難しいし、英語は機械翻訳が今ひとつ(主語を取り違えたりする)で一話につき二回ずつ全集中で観なきゃいけなくて最初の数話で停まってます…話じたいは無茶無茶おもしろいし(原題は「チンピラとヒーロー」で、硬派な真面目刑事とヘラヘラ軟派な転任刑事のデコボコものなんだけど、架空の新ドラッグ蔓延とか三合会の跡取り娘とか謎の情報提供者とか事態は錯綜するばかり…)舞台が台南らしいので全履修できたら聖地巡礼とか夢はふくらむのですが…
とりあえずカッチョいい主題歌だけリンクしとこう:
Perfect Stranger (Black & White OST)(YouTube/外部リンクが開きます)
(24.09.21)秋は名のみの風の熱さよだし今はキノコも温室栽培で季節の味覚でもないんだけど、いっこ80円の全粒粉パンにエリンギの頭と舞茸を挟んでハンバーガー風に。世間は遥か彼方で荒くれてゐる。
(24.09.19)
「レバノン連日の爆発、20人死亡 「日本製の無線機」、450人超負傷―対ヒズボラでイスラエル関与か」(時事通信/24.9.19/外部リンクが開きます)
「ヒズボラが反発するのは必至」じゃなくて日本政府は抗議や、せめて遺憾の意くらい表明すべきでないの。
(追記)作戦を(作戦というか無差別テロやん)アメリカも承認したポケベル爆弾で日本や台湾のメーカー名が隠れみのに使われたって、アメリカやヨーロッパのメーカーを釣り餌に使うのはダメだけど台湾や日本が評判落としたり怨みを買うのはいいよ・アイツらアメリカ様に文句言えない立場だし捨て駒だよってことではないのか。
(23.09.21)いや中国での悲しい事件(亡くなった子は日本と中国のミックスだとか…)が世論をどれくらい殺伐とさせてるか半ば遁世してる自分には詳らかでないのだけど、報復や憎悪を煽る言葉に、それこそ「正義の暴走」とか呼ばれるものが含まれてないか自ら顧みることは必要ではないかと思います。あと能登半島の豪雨がただただ心配。
(24.09.22)中国で日中双方にルーツを持つ児童が殺害された事件について、憎悪の連鎖を懸念する父親の悲痛な手記がXに転載されている。背景の解説があるマストドン(フェディバース≒Xの代替SNS)の投稿にリンクを張っておきます。投稿(ポスト)内のリンクから当該のX投稿を(Xのアカウントがなくても)閲覧できます。
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アカウント「しゆ(死にたいけど生きてる)」さんの投稿(24.9.21/外部リンクが開きます)
当該の手紙画像からテキストを選択・コピーできるので機械翻訳の助けを借りて全文どうにか読む。繁体字への変換も適宜すると理解しやすい文字(単語)もわりとある。
件のX投稿に数百の(中国語の)哀悼のコメントが寄せられている中、ごく少数「この手紙が本物だというエビデンスはない」みたいな投稿(中国語)も見つけてしまい、両国それぞれで平和を願う人たちと同じくらい、反目を願う人たちも(たぶん)双子のように似ているのだなと思う。
(24.09.24)ちょうど能登で活動中だった仁藤夢乃氏(Colabo)のレポートを観ています(現在64まで公開中)。下に貼った次の動画(62)で現地の市議のかたの、今回の豪雨による土砂災害で水道管がつぶれて断水の危険に晒されているという話にうええとなる。要らん大量の水のせいで必要なキレイな水が止められる残酷さ…
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『夜の街から』vol.61:2024年9月21日 6回目の能登での活動 大雨で被害が拡大しています(一般社団法人Colabo/YouTube/外部リンクが開きます)
「能登の支援で何か」と考えたとき、(もちろん活動は能登だけじゃないんだけど)Colaboへの寄付もアリなんじゃないかと考えてるところ。前にも書いたけど国会議員として新宿でのColaboの活動を妨害した馳浩が現在石川県知事で職務放棄している一方、厭がらせされた側のColaboが現地支援を続けてるのも酷い皮肉で、こちらは人災。
(24.09.25)
うまい棒 10/1より12円→15円に価格改定のお知らせ(株式会社やおきん公式/24.9.24/外部PDFが開きます)で思い出したけど、実は久しぶりに「おかしのまちおか」で見かけた餠太郎30個入りも300円→480円とけっこう劇的に値上げしていた。「まあ仕方ないよね、原料のお米じたい高騰してるし」いえ、餠太郎の原材料は小麦粉なんですけど(豆知識)…
(24.09.27)実世界が荒れ狂っててソレどころではなかった(ない)けれど、シリーズ後半に入って戦隊の一人が異星人だったと判明したのはいいとして(
いいんだ?)
「甘いもので糖分を補給しないとネコ耳(?)が出てしまう」高橋留美子の短篇みたいな設定(鼻血が出ると犬に変身してしまうとかありましたよね)をブチかましてくる爆上戦隊ブンブンジャー、(最初からどうかしてたけど)やっぱりどうかしてる。
そして8:30からのキュアニャミーこと今まで家ネコだった猫屋敷ユキさんが公園デビュー、頼れる姐御としてネコ会議に溶けこんだ(人間以外の友達も出来た)のを見て、半年後にはプリキュアでなくなり人語も話せなくなる結末に向け準備が始まったみたいで早くも淋しい…
(24.09.13)暴走トロッコのブレーキは何処だレール切替のレバーは何処だって時に「
どの目隠しが一番バエると思いますか?」と問うような、ハズレしかないクジ引きには全く興味がないのだけれど、「ハーバー」でお馴染みの「ありあけ」がまた便乗して進次郎サブレーとか売り出すのかと予想するだけで憂鬱にはなる神奈川県民。
参考(前科):
新総理就任記念:菅どらやき・菅サブレー他(ありあけ公式/2020年/外部リンクが開きます)
ありあけ、新型コロナの時は売上が赤十字に寄付される福袋・ロシア侵攻の時にはウクライナはちみつを使って人道支援に寄付されるロールケーキ販売と色々イイこともするんだけど、んー、よくもあしくも純朴というかナイーヴ(もっと的確な呼び方ゆる募)なんだよなあ…
(同日追記)ありあけ、神奈川県の新型コロナワクチン接種の初回インセンティブが(少なくとも大規模会場では)同社のムーンガレットで公益に貢献したとも言えるし行政と懇ろで上手いことやった(別に無料供出したわけでもないだろうから)企業だとも言えて、なんか、なんかサ、スタアが被災地支援やチャリティに熱心だけど汚職政治家とも昵懇みたいな歯がゆさがあるんですよな…
ムーンガレット、醤油の甘辛さが斬新で面白いなと思ったんだけどキャラメル味にリニューアルしちゃったみたいで残念→参考:
横濱ムーンガレット・キャラメルウォールナッツ(
「日本伝統のハレの食べもの「餠」」みたいな言い方もイヤらしい…と言いつつリンクを貼ってる自分、ありあけが憎いのか応援してるのかどっちだ??)
(24.09.27追記)先日実家に帰ったさい政局を占うテレビ番組を一緒に見ながら「
石破さん?ないない」
と家族の前で自信たっぷりに断言した舞村さん(仮名)
は己の不明を恥じております。一人で抱えて悶々とするのもメンタルに悪いので吐き出させてもらった!別に支持する気はない!…次からは「ないない、
分かんないけど」と付け加えることにしよう…
(24.09.28)無料で読める部分を見るかぎり、ずいぶん無邪気に褒めそやしてるみたいですが、その地方回りも「戦術」もボランティアじゃないよね、お金かかってるよねと思うと…
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躍進の高市氏、地方回りとネット戦術奏功 石丸氏支援者がSNS拡散(朝日新聞/24.9.27/外部リンクが開きます)
「政治には金がかかる」というけれど、選挙で選ばれる・再選されること自体に振り向けられちゃってる資源は少なくないのかも知れない。良い政策を提案・実行して信頼を得る本来の形でなく、とにかく名前を売る宣伝活動に。
ある種の組織は、ある時点を過ぎると本来の存立目的が手段のひとつに、組織の存続自体が主目的になる―とは学生時代に社会学を学んで自分なりに導き出した(その後も引きずって現在に至る)研究テーマなんだけど、とりわけ政党はその傾向があるのかも。自民党の総裁選も、立民の代表選も、組織内の都合が自閉した回路みたいになってて、本来なら目的であろう支持者の意向が置いてきぼりな感が際立った。この話は年内に煮詰めて蒸し返すかも知れません。
(24.09.29)週末の人出で賑わう桜木町・皆様が「横浜」「みなとみらい」で連想するランドマークタワーや観覧車に臨む駅前広場で、勝共連合のノボリを掲げた人々が堂々と街宣とチラシ配りをしていて、え、その名前でお天道さまの下に出られるの?という驚きとともに(高市氏の「躍進」などと併せ)色々と水泡に帰してしまった無力感・メンタルの低下に、ただでさえ撫で肩の肩を落とす午後でした。また来月。
【電書新作】スポーツ漫画を描いてみませんか?と遠い昔に誘われたことがあって、ハハハ無理ですと丁重にお断りしたけれど「20年後なら描けるかも」と答えていれば良かったか。人は変わるし世界も変わる。『
リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、
こちらから(外部リンクが開きます)
サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、
こちらから。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『
読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、
こちらから。
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)