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ごじょー君は綺麗を知らない〜福田晋一『その着せ替え人形は恋をする』(24.08.04)

 改めて言うのも何だけど、日本語って無駄に難しくありません?
 非論理的な慣例の積み重ねで難しくなっちゃった運用が少なくないと言うかさ。いや正直その無駄な難しさを(こそ)こよなく愛してるお前が言うなよって感じではあるのですが。
 まんがの原稿を描く時のBGMに若い人がやってるトーク番組など聴く機会が増えて、リスナーからのメールを読むなどの場面で「え、それ、そう読んじゃうんだ」と思うことが多々あった。たとえば
「因縁(いんえん)の対決」:これはIn-Enの前のnが後のeにかかって「いん-ねん」となるのが正しくて(Saint-Exuperyがサン・テグジュペリ、云々がUn-Un→「うん-ぬん」になるのと同様。しつこく蒸し返すけど「でんでん」は論外)まあ一応スジが通ってはいるけど
「幕間(まくま)」は「まくあい」と読むのが本来なのが、舞台関係者の間でも「まくま」と呼ぶ人が増え、今や使用の割合は半々らしい。そして確かに、これを「まくあい」と読めというのは「そういう決まりだから」以外の説明が難しい。逆に
「見惚れる(みほれる)」は、僕などは「見惚れる(みとれる)」じゃないの?と思っていたけど、調べてみると「見惚れる(みほれる)」のほうが古くからある言い方で、ただ口語=発音として「みとれる」のほうが普及したため古くさくなった「みほれる」を駆逐して「見惚れる=みとれる」の読みが定着したらしい。なるほど「見とれる」には「見蕩れる」という本来の書き方もあった。今後は再び「みほれる」が巻き返すのかも。ややこしい。
 「自惚れる(うぬぼれる)」の「自(うぬ)」なんて他で使わない読み方だよね→関西圏の二人称で「ジブン何言うとんねん(あなたは何を仰有っているのでしょうか)」と言うのと同様、世紀末覇王が二人称で「うぬ」と言う、アレってもしかして「自(うぬ)」だったのかと気づいたり。やっぱりこの難しさがパズルを解くようで愛おしい…というキャプションに世紀末覇王(ラオウ@北斗の拳…ダメだ自分に描けるキャラじゃない)のイラストを添えて
 (そして見「ほ」れる・自「ぼ」れるの違いとか、あるんだろうけど本当に分からん)
 ここ数十年コンピュータにアシストさせた日本語変換が当たり前になったことも、読む側がパッと「音読」できない言葉も、入力する側が容易く(←たとえばコレ。「たやすく」)漢字にできてしまう→ギャップが誤読を生む一因なのではないか。また英語などと違い日本語には単語間のスペースがないことから「あなたはたやすく思うかも知れないが」みたいな文章を視認しやすくするため「あなたは容易く」みたいに漢字にしがちで→音読のさい「あなたは…よういく?あ『たやすく』か」と脳内でモタつくことが考えられる。
 このあたり、冒頭に書いたとおり、日本語って存外むづかしいよなと改めて思ったりしている。その面倒くささにも関わらず日本語を習得してくれる日本語ネイティブでない人たちには、ねぎらいの思いしかない。
 英語も同様に理不尽な難しさがあって(なんでWednesdayがウエンズデイやねんとか)それが世界に植民した時、その難しさを使いこなせる支配者層と、使いこなせない・ただ従わされる被支配者層に人々を分断するのに役立ったという説もあった気がするけどここでは深く追究いたしません…うろ覚えだし、日本の支配者層、日本語の難しさ使いこなせてないもんな!(なのに神国日本とか言いたがる!)(と憎まれ口を叩いてる顔の羊帽の女の子「ひつじちゃん」のカットを添えて。)
 今どきの若いひと(?)のトークで面白かったのは文章で「(笑)」とか「www」と表記されるものを本当に「○○なんだってさ、わら」と「音読」してることだったのだけど、さらに最近は「!(エクスクラメーション・マーク)」や「?(クエスチョン・マーク)」も
「○○なんだって―びっくりびっくりびっくり(!!!)」
「○○なんですか―びっくりハテナびっくりハテナびっくりハテナ(!?!?!?)」
と音読してるのも発見だった。半ばギャグなのかも知れないけど、かわいいな君たち
 かわいいと言えば「ツボにはまる(ツボに入る。好みにドンピシャ来た)」の、さらに度合いが高いことを言いたかったのだろう、
「わたし、○○がドツボにはまっちゃって!!!」
違うぞー、似てるけどソレは違うぞーと思ったけれど「新しい」が「あらたしい」から「あたらしい」に変わったように、「まくま」が「まくあい」に取って代わろうとしているように、「ドツボにはまる」の意味も変わるのかも知れない。もしかしたら、好きすぎて苦しい・助けてみたいな「ドツボにはまる」本来のニュアンスも含めた最上級表現として定着していくのかも。
 マレーシアで見かけた看板の数々とキャプション:追究しないと書いたけどマレーシアで目にしたMUZIUM・RESTORAN・TIKET・BAS・EKSPRES・SENTRALといった表記は英語を「押しつけられた」側の「押しつけられたままでいると思うなよ」という表現だったのかも。違うかも。

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 福田晋一『その着せ替え人形は恋をする』は「着せ替え人形」と書いて「ビスクドール」と読むらしい。ふつうに脳内では「きせかえにんぎょう」と読んでしまう。人気の漫画を周回遅れで少しずつ読んでます。
 人気が出るのも分かる気がする。オタクの欲は果てしなくて「眼鏡っ子」「男の娘」「メイドさん」「幼なじみ」「ツンデレ」「クーデレ」「ヤンデレ」「ケモ耳」「褐色肌」など様々な属性が「しかし主人公(専ら男性)を熱烈に好いてくれる」という一点で開拓(乱獲?)された中、オタクが天敵のように敵視・揶揄してきたリア充=「ギャル」も「優しいギャル」「オタクに優しいギャル」として萌えや欲の対象になった。本作のヒロイン・海夢(まりん)は派手な外見でありながら性格のいい「優しいギャル」「実は本人が熱烈オタクなギャル」で、好きなキャラクターのコスプレをしたい彼女が、クラスに馴染めず埋没していたが(雛人形などを作る)人形師の孫で鋭意修業中=裁縫が得意な「ごじょー君」こと五条新菜(わかな)にベタ惚れしてしまうラブコメディだ。
 スポーツ漫画を読めばそのスポーツが、料理やキャンプなどを題材にした作品を読めばそのジャンルが分かってくるように、本作はコスプレ・コスプレイヤーの世界への入門としても面白い。青年誌の連載らしく、うぶな「ごじょー君」を大いに惑わせる海夢ほか美少女たちの強調されたセクシーさも、まあそういうのが好きな層にアピールしているのだろう。
 けれど本作の読みやすさは「優しいギャル」こと海夢だけでなく登場するキャラにイヤな奴が一人もいない「優しい世界」(←これも流行りのフレーズだけど)なのも主要な要因だろう。みんな違って皆(性格が)いい。いわゆるハーレムものと呼ばれるジャンルだったら、海夢と「ごじょー君」の間に割りこんで来そうな先輩格のコスプレイヤーも「二人を邪魔する気はない」と勝手に気を回してくれるし、師匠である「ごじょー君」の祖父も、海夢のコスプレを手伝うようになって世界の幅が拡がり、人形づくりも上達したと応援してくれる。。
 何より「ごじょー君」本人の人柄がいい。海夢が次々に繰り出すコスプレ対象のキャラを理解するため(まんが・数十話のアニメ全話・18禁ゲームまで)すべて当然のように全篇つきあう(そして小学生向け魔法少女アニメに「がんばれ…がんばれ…」と号泣する)生真面目さは勿論のこと。好きピ(意中の男子)に手料理を食べさせようと張りきった海夢がオムライスの仕上げに大失敗し、ケチャップでハートの代わりにごめんと書くくだりはネット広告でも抜粋された笑いどころなのだけれど
 「うちは和食ばっかりだから塩こしょうだけじゃなくてコンソメとか使った味つけ、勉強になります!」と海夢ちゃんが大失敗したオムライスの良いとこしか見ない「ごじょー君」そりゃあ好かれるだろう…(ラ●ウよりはるかに描きやすいし)という図解。」
見た目は気にせず「味つけが美味しい、勉強になる」と素で褒める性格の良さよ…

 そんな『着せ替え人形』にも気になる、ものすごく気になる言葉づかいがある。まあスルーして楽しもうよとも思うのだけど(えー)それでは日記にならないので気になるものとして話を進めよう。「ごじょー君」がこだわる奇麗という言葉だ。
 いつか祖父のように人を感動させる人形師になりたいと願う「ごじょー君」にとって奇麗という言葉は心から美しいと思えた物にしか言えないもので、そう海夢に明かされた時点で、それは彼の理想である雛人形にしか使われたことがない。それが海夢のコスプレ初挑戦となるゴスロリ少女の衣裳を徹夜で作り上げ、イベントデビューを成功させた後の帰りの電車で朦朧となりながら(コスプレした海夢が)とても奇麗でした…と呟きながら寝落ちてしまう。無防備な状態でこぼれた心からの賛美に舞い上がった海夢ちゃんは、コスプレの夢を叶えるため猛烈に頑張ってくれた「ごじょー君」にガチ恋してしまうのだが
 具体的には「はっ!?え!?うそうそ え?好き?てかかなり好き!?しゅき?笑 待って待ってまってめっちゃカワイイじゃん何〜!?ごじょー君しゅき〜〜(はーとはーとはーと)しゅきしゅきしゅきしゅき(はーとはーとはーとはーと)しんど〜〜てかどーしよ どーしていいか分かんないんだけど〜〜〜」マ!?(マジ?)となっている海夢ちゃんの模写を添えて。
面白いのは好きすぎて「しんど〜(しんどい)」と吐露してる処で、やっぱり「ドツボにはまる」は正しいのかも、という冗談はさておき。
 かようにストーリーの根幹に関わる大事な言葉が奇麗でいいのか。
 えーつまりだ、糸へんがつく「綺麗」じゃなくていいのか。
 編集部の方針なのかも知れない。ずっと昔の話(昭和?)だけれど某少年誌に掲載される漫画は漢字に総ルビだったけれど「私」という漢字は一律に「わたくし」と読み仮名を振る方針だったらしく、かなり肝心な場面で「わたくし」とはならんだろうキャラが「私(わたくし)は…!」と言ってるのを読んで大いに心を削がれた記憶がある。
 あるいは作者にとって奇麗が納得のいく表記なのか。しかし個人的に糸へんなしの奇麗は奇の字が別のニュアンスを強めてしまって、どうにも「綺麗」とは思えない表現なんだよなあ…
 けれど悩ましいのは、だったら「綺麗」ならいいのか、ということだ。
 つまり奇麗じゃなく「綺麗」なんて小洒落た言葉を知っていれば、その世界で「綺麗」だと思うものが和人形だけなんて狭いことは、ないのではないか。木の葉の葉脈・すっと伸びた犬の鼻・雨にけぶる公園・白いマグカップの縁が反射する柔らかい光…そうと思えば、世界は水の一滴・自分の手指の爪の一枚まで美しさに満ちている。
 「きれい」あるいは「キレイ」と仮名に開いてしまうと、今度は「クリーン」とか「整った」という意味に侵食されてしまう。奇麗とは、閉じた世界で和人形以外の美しさを知らない「ごじょー君」に相応しい表現なのかも知れなかった。何しろ物語が始まったときの彼は、海を見たことすらないのだ。

 将来いい人形作りたいんなら人形だけ見てちゃ駄目だぞ
 色んな事やって色んなもん見とけよ いつか必ず身になるからな

 海夢と出会って、和人形以外の奇麗を初めて知った「ごじょー君」は、彼女に連れ出され、初めて海を見る。いびつなオムライスの、塩こしょうだけでない美味しさに驚ける彼だ。その世界は少しずつ広がりはじめ(孤独な彼を案じていた祖父の願いどおり)やがて彼は身の回りの多くの事物に「綺麗」を見出すようになるだろう。というか理想的には、世界のすべてが美しいということを。
 その時、初めて見た海が、自分の目の前で笑っていた少女が、自分が思っていた以上に「綺麗」だったことを彼は知るのだろうか…ヤバいヤバい(作品自体はハッピーなのに)急にせつなくなってきたぞ!?

 【今週のまとめ
・言語の運用は難しい。
・しかし、世界の美しさを名指すためにも言葉は選ばれなければならない。
・そして物語から紡ぎ出される感想=また別の物語は「美しい誤読」でも構わない。
 『着せ替え人形』の奇麗に(ごじょー君の現時点での限界とか)そこまで深い意味があるのかと言えば、正直ないとは思うんですけどね。
 「奇麗。」とのたまうジュジュ様。童顔だけど先輩。
 なんとなればコスプレイヤーの先輩で、新参の二人よりはもう少し色々と物事を知ってそうなジュジュ様も、ふつうに奇麗と言っているのだ…やっぱ、編集部の方針なのかなあ。
 とりあえず舞村さん(仮名)は、ラオウをちゃんと描けるようになりたい。や、ならなくてもいいか。

ボタンのかけ違え史観(24.08.11)

 日本じゅう望みをあからさまにして日本じゅう傷つき挫けた日があると中島みゆき氏が歌ったのは1985年(「ショウ・タイム」)だったので、その「日」とは40年前の8月15日のことだったのだろう。けれど10年後に聴き直した時には敗戦とバブル崩壊どちらを歌ってるか分からなくなり、40年後の今となっては「日本を取り戻す」と言って10年このかた挫けることを知らず同じ夢を見ようとしつづけているように思えてしまう。
 今週のまとめゼロ:日本が輝くのは一向に構わないのだが「世界の中心で」などと夢みるのを止めて、最近のアニソンが言うように「月並みに輝け」というわけにはいかんのだろうか…と困り眉の舞村さん(仮名)。アニメ『ぼっち・ざ・ロック』のぼっちちゃんを真似てピンクのジャージにエレキを抱えているが、Fで挫折したタイプ。
 などとアニソン・アニメを持ち上げるのはココまで。今週の舞村さん(仮名)はオタクに優しくないギャルなので注意(半分ウソ。ギャルではない)。
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 第二次世界大戦を美少女化した萌えコンテンツがどれくらいあるか、正直よく分からない。いやそもそも戦争の美少女化って何だ、と問いたい向きもあるだろう。たとえば先の戦争で使用された(多くは破壊され沈んだ)軍艦ひとつひとつを擬人化・キャラクター化・美少女化したゲームやアニメが複数ある(ようだ)という話です。連合国と枢軸国に分かれて争った各国を代表させる形で少女たちを集め、別の世界線で活躍させる群像劇もまた、複数ある(らしい)。
 『ストライク・ウィッチーズ』は後者にあたる。パンツじゃないから恥ずかしくないもんというキャッチフレーズで一世を風靡した(?)アニメーションだ。パンツじゃないから恥ずかしくないもんとは何だ、と問いたい向きもあるだろう。すでに読むのを止めたくなってる人もいると思いたいが、順を追って説明する。
 同作の舞台は第二次世界大戦が起きなかった、もうひとつの世界(世界線)。ネウロイと呼ばれる異世界からの敵による攻撃で人類はお互いの戦争どころではなくなり、一丸となって立ち向かっているという設定だ。
 このネウロイに戦力として対抗できるのは魔力で空を飛べる少女たち(ウィッチーズ)のみで、細かい設定は省略するが(成人すると魔力は失なわれるので登場人物が十代の少女たちに限定されることが正当化される)この少女たちが上は各国の軍服として、下半身はズボンもスカートも着用しない下着まる出しの姿で登場する。魔力で飛行モードになると膝から下にジェットエンジンのようなものが装備されるのでズボン類は邪魔になるとか、何かしらのエクスキューズはあったと思うが、だったら短パンなりブルマなり穿けばいいじゃないかと僕も思うが下着まる出しである。で、この下着を作中ではかたくなに「ズボン」と呼ぶ。これはズボンであってパンツではない。パンツじゃないから恥ずかしくない…というのが公式の物語であったように記憶する。
 なんだか同時期の日本政府の「指摘にはあたらない」を連発する答弁のようだが、そちらの問題は(深刻だけど)措く。気にかかったのは別のことだ。
 上記のとおり『ストライク・ウィッチーズ』では各国の少女たちがパンツまる出しで(いや、パンツではなく「ズボン」か)航空隊を編成し、協力しあって戦う。イギリスはブリタニア、フランスはガリア、ドイツはカールスラント…と各国の名前は吾々の世界線のそれとは微妙に異なる。日本(大日本帝国)にあたるのは扶桑皇国だ。よくよく見ると、この主人公のロールを担う日本、もとい扶桑皇国の少女たちだけ「パンモロ」ではないことに気づく。西欧列強の少女たちが色とりどりのパンツ(いや「ズボン」)まる出しなのに対し、日本、もとい扶桑皇国のウィッチーズだけはスクール水着の上に白いセーラー服を着た格好。つまり「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」は日本、もとい扶桑皇国にだけ文字どおりの意味で当てはまるのだ。
 清純であるべき大和撫子をパンツ常時まる出しで描写するとは何ごとかと憤る愛国者・保守層を想定したら言い訳が「これはパンツではなくズボン」「日本ではなく扶桑皇国」では心もとないと考えれば、まあ賢明な(姑息とも言える)措置だったのかも知れない。けれどこのことは同時に「スクール水着で貞淑さを最低限キープしている日本(もとい扶桑皇国)に対し、ふしだらな西欧はパンツまる出し」という屈折した復讐心(コンプレックス)を満足させるものではなかったか。

 ちなみに制作からファンまで含めた広い意味で「公には」日本、もとい扶桑皇国はスクール水着だからパンツじゃありませんという認識がなされたことはない(と思う)。同作のキャラが自衛隊の隊員募集ポスターに使われ(さすがに皆様そろそろ読んでて辛くなってきたとは思いますが話を続けます)「これは下着ではないか」と炎上したさいも、炎上してなお「よく見てください、これはスクール水着です」と弁明されることはなく(まあ言えませんよね「パンツなのは西洋人だけです」とは)「公式設定ではズボンなんです」という釈明に終始したようだ。
自衛官募集ポスターに「セクハラ」批判 コラボ元アニメの「お約束」踏襲したが...(J-CASTニュース/19.3.1/外部リンクが開きます)
 ことは下着に留まらない。
 スポーツものなら「努力は報われる」恋愛ものなら「想いは通じる(あるいは通じない)」そしてヒーローものなら「正義は勝つ」…おおよそ物語には、描きたい夢・はしなくも描き出されてしまう願望がある。
 『ストライク・ウィッチーズ』が描きたかった夢は「この前の戦争は言うなれば不幸なボタンのかけ違えで、不幸な行き違えさえなければ日本(いや扶桑皇国だけど)は西欧列強の一員として正しく位置づけられるだけでなく、その精神的な優位によって一目おかれたはずだ」と要約できる。そしてこの夢は、同作にかぎらず、この国で制作された多くの「別世界線」物語に共通しているように思われる。
 同時期に制作された、死者が出ないスポーツ戦車戦という設定で各国の女子高生が競い合うアニメについては不勉強につき省略する。
 遠く昭和に遡っても、異星の敵の放射性爆撃で瀕死となった地球人類の代表として日本人が戦艦大和で宇宙に飛び立つアニメ、あれも敵と設定されたガミラス帝国は総統デスラー(ヒトラー)を筆頭にナチス・ドイツっぽい人名が並んでいた。特撮ヒーローでも悪の首魁がヒトラー風の軍服にチョビ髭だったり、どうにもドイツを連想させる名前の「鉄十字団」だったりと、ドイツによく似た世界の敵を倒す日本という、言うたら虫のいい設定は珍しくない。ちなみにそれらの戦隊ものや宇宙戦艦が人気を博していた昭和後期は、西部戦線でアメリカ軍がナチスをやっつけるドラマ『コンバット』が毎日夕方に再放送されていた時代でもある。高度成長を果たしアメリカさえ脅かす経済大国に成りおおせた日本は、まるで元から連合国の一員であるかのように(フィクションの中で)世界の平和を武力で守っていた。
 今週のまとめ:「この前の戦争は言うなれば不幸なボタンのかけ違えで、 本来なら日本は先進国の一翼として正しく位置づけられる だけでなく、その精神的な優位によって一目おかれたはずだ」これを「ボタンのかけ違え史観」と仮称・提唱する次第です。(むーとなっている「ひつじちゃん」羊帽の女の子の横顔カットを添えて。)

 この「ボタンのかけ違え史観」または「もう一度チャンスがあれば日本は世界の中で正しい側に、しかも精神的に優れた者として他国を導く側に立てる」という夢は、残酷なことを言えば「世界一先進的な平和憲法で世界を理念的にリードする日本」という自画像にも通底する願望かも知れない。
 けれど逆に、そんな平和憲法の理念もかなぐり捨てた(現在の)圧倒的な対米追従を説明するものでもある。と思う。
 今となっては多大な想像力を必要とするけれど、戦後の一時期は、ソ連や中国が資本主義の次に来る最も進歩した社会として知識層に持ち上げられることもあった。ファッションデザイナーもあった高橋幸宏氏によるYMOの衣裳=赤い人民服がハイセンスと絶賛された時代もあったのだ。戦後はすぐ東西冷戦で日本はアメリカ側だからアメリカが絶対という観念が一貫して続いていたわけではないことは、現代史を考える上で留意しておいて良いと思う。
 分水嶺はベルリンの壁崩壊→ソ連崩壊による東西冷戦の終結だったのかも知れない。東と西が敵対しあっていた時期よりも、後者の勝利が確定した時期のほうが、尚更そちら=アメリカ至上主義に追随しなければという切迫感が強まったのは納得できる。すでに毛沢東主義の失敗・四人組の失脚などで失墜していた中国の道義的地位が、1989年の天安門事件で決定的に損なわれたことも特筆すべきかも知れない。何より日本自体もバブルの崩壊で、今度は経済戦争でもアメリカ(西欧)に再び「負けた」。負けてますます視野狭窄に陥るのはバクチの負けパターンなのだけれど―
 何より弊害なのは、差別の横行だろう。
 日本人は優秀なので西欧の一員として遇され尊敬すら勝ち得ることができる(はずだ)という史観は、残念ながら日本人「だけが」アジアの中で優れているという形で対外強硬・移民排斥・民族差別を強化する。源氏物語や茶の湯からクロサワの映画・トヨタやソニー・ガンダムやYOASOBIに至るまで、すぐれた日本文化を誇ることが日本「だけが」(優れている)に転じた結果ガラパゴス化でクールジャパンはタコ壺から出られなくなった。そして「日本人は勤勉な努力家だ」「日本人は手先が器用で頭がいい」といった自信が経済的な敗北で損なわれると「日本人は日本人だから素晴らしい」という血統主義が力を増す。世界で唯一無二・数千年の途切れない歴史を有する(ことになっている)天皇制もまた「日本は特別」「日本人は特別だ」という夢を見せつづけ、アイヌや琉球人・国内に在住する多くの外国出身住民との間に壁を作りつづける「根拠」として弊害が大きい。
 なので社会・経済的にも文化的にも(世界の中での)存在感が戦後最安値を更新している今「アメリカ文化の核心たるメジャーリーグ野球でホームランを量産し一目おかれるどころではない大谷翔平選手の大活躍」という物語が日本じゅう(特に広告業界)に甘い夢を見せてしまっているタイミングの悪さにも頭を抱えたくなる気持ちはある。それはもう、天皇制よりもこちらを話のオチとして持ってきたくなるほどに。

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 アニメ『ストライク・ウィッチーズ』第一期では物語の終盤、頭が硬く私欲まみれた上層部を批判する現場という文脈で、使役される少女たちの中でも先輩格にあたる隊長と副官が「もしネウロイの侵略がなかったら今ごろ人類は互いに争っていただろう」と皮肉る場面がある。たぶんそれを聞いて、どうにか途中まで続けていた視聴を止めたのだけど、それを鼻持ちならない欺瞞と考えず「正論」と評価するファンも多かったのだろう。
 各国出身の少女たちからなる航空戦隊の中では、まあ当然のように百合的なカップリング・とは行かないまでも仲のいいコンビが多数生まれる。その組み合わせに日本(扶桑…面倒なので省略)とイギリス、アメリカとイタリア…のように実際の世界線では敵国だった同士が少なくないように見受けられたのは、互いに殺し合った悲しい歴史を改める高邁な理想だと肯定的に捉えたくなる人も居たのではないか…
 けれどその評価は、結集した各国が近代において一方的に世界を「植民する」側だった事実を書き落としている。
 「ボタンのかけ違え史観」が基本的に不適切なのは、あれは何というか不幸な行き違いでした・本来なら吾々は西欧の一員でしたよねと日本の立場で帰属を願う「西欧」自体が、根本的に正義でも何でもない非道な侵略者だったからだ。第二次世界大戦という局所的な「行き違い」でなく、近代とくに19世紀末〜20世紀中葉の歴史ぜんたいの話だ。
 世界「各国」の少女たちが第二次世界大戦当時のクラシックな戦車で平和的な「試合」を行なう別作品のほうが分かりやすいかも知れない―20世紀中葉に自前の戦車を持ちえた「各国は必然的に他国を侵略・植民地化する列強ばかりで、植民された国々が入る余地はない。あの戦争を(ボタンのかけ違えを改め)もう一度やり直したいと願うことは、その前提にある西欧列強のありかたから問わない限り、本当の平和主義にはならない。
 『ストライク・ウィッチーズ』の世界線では、朝鮮半島・中国本土(それに中東など)はネウロイの攻撃によって「消滅した(あるいは砂漠化した)」ことになっているという。かわりに南太平洋にはムー大陸があって、扶桑皇国は資源に困らないという設定を読んで(なぜ扶桑皇国はその領有権を主張できるのだろう?)その虫のよさに、呆れ返らずにいるのは無理だった。
 今週のまとめ2:「ボタンのかけ違え史観」が根本的に間違っているのはボタンのかけ違え以前に列強(加担した日本も含む)の植民地主義を無かったことにしてるためで(もありま)す。というキャプションに「というわけでハイ絵の中だけでも」とパレスチナの旗を手にした自画像。
同作がどれだけ(少女たちの友情という形で)人類の結束や勇気を讚えようと、現実の中東や朝鮮半島・中国本土を武力制圧し搾り取ってきた「先進国」の欺瞞でしかないのは、悲しいけれど明らかだ。

 皮肉なことに20世紀前半の世界では(扶桑皇国ならぬ)現実の日本は、実際に「西欧列強の一員として遇され一目おかれる」存在に成りかけていた。青島で、重慶で、日本が非武装の市民を選択的に攻撃する戦略爆撃の先鞭をつける極東の「優等生(Apt Pupil)」だった経緯は(先日の小ネタでも書いたけど←月末に拾います)12年3月の日記に詳しい。敗戦で(建前上)日本が植民地戦争から「降りる」ことが出来たのは僥倖だったし、今後ますます全力で「降りる」以外に活路はないと考える次第です。

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 逆に言えば日本「だけ」救われっこ「ない」特権的な地位にあるわけでもなく、多くの国が「それぞれに不幸(トルストイ)」な中で苦闘してて、そこから学べることも連帯できることもあるのではと考えはじめています。夏バテしながら岩波新書でミャンマー現代史の勉強中。

消える本屋とYさんのこと〜むんこ『らいか・デイズ』(24.08.18)

Did you exchange walk on part in the war for a lead roll in a cage?
一兵卒として前線を歩くかわりに籠の中の王様気取りで、君は満足したのかい?

(「あなたがここにいてほしい」ピンク・フロイド)

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 「21年間ありがとうございました!!むんこ『らいか・デイズ』最終回と表紙に書かれた『まんがホーム9月号』を、昔ながらの小さな本屋の店頭で見かけ「えっ」となった。
 終わるのか『らいか・デイズ』。というか続いてたんか『らいか・デイズ』。
 十年ひと昔、あるいはふた昔くらい前。同人誌即売会で知己になった作家さんがプロとして寄稿されてたのが縁で、自分では進んで読みに行かないタイプのまんが誌を雑誌単位で読む機会があり、おかげで見聞が広まったのですが、その中の四コマまんがというジャンルで『らいか・デイズ』は花形作品のひとつだった。かく言う自分も後追いで(途中まで)単行本を揃えるくらい面白かった。色々あったり無かったりして十年以上ご無沙汰でいたけれど、うわー終わるのか。というか続いてたのか。つまり、僕が読んでた時期も離れた時期もずっと続いてた『らいか・デイズ』が終わるのか。
 (そんなこと言って、またすぐ続篇が始まったりして)などと思わなかったわけでもない。その日はそのままスルーして帰宅し、後になって「やっぱり最終回の掲載誌くらい買っておくべきでは」と気が変わった。
 それで分かったのは、本屋および本(雑誌)という業種の、なんとなく思ってた以上の衰退ぶりだった。

 すでにお気づきとは思いますが今回『らいか・デイズ』自体の話はあまりしません。

 まずもって横浜駅なんていう大ターミナル駅周辺で手に入らない。
 巨大な駅ビルが林立し地下街も広がって迷宮扱いされる横浜駅だけれど、そもそも書店は思いのほか少ないのだ。いや、少なく「なった」。小さな駅前にあるような昔ながらに戸建ての小さな本屋は、たぶん元からない感じ。駅ビルに入ってるような大型チェーンも軒並み消えてしまった。残った大きな書店は丸善も、コミック専門売り場を有する有隣堂も、四コマ誌は盲点のように手薄で、あるのは萌え系の『きらら』くらいだ。
 駅西口と繁華街の少し横に外れた狭間、ちょっと猥雑な一角に、表はまんが雑誌が面陳で並び、中に入ると成年まんがの単行本に特化してる小さな本屋があったっけ、あそこなら…と行ってみたら「センベロ」みたいな今ふうの飲み屋に替わっていた。顧客として利用したことはほぼ無かったけど、あの(若干いかがわしい)本屋、なくなったのか。
 (写真つきで)近ごろ金沢が御無沙汰な書店好きのかた向けに、いちおう報告しておくと、金沢駅を出て市場方面に向かってすぐ・道路の左手にある実はわりかしいかがわしい品揃えの本屋、まあ正月も7月も用はなくて入らなかったけど健在でした(…この情報、本当に必要だったかな)
 横浜駅周辺、今はイオンに建て替わったダイエーに昔は2フロアも書店があったとか、専門店『まんがの森』があった頃まで遡るとキリがないのでやめる。やめるけど、建て替わったイオンにも、駅の反対側に出来た新しいビルにも、今どき大きめの商業施設には面白いくらい書店の姿がない。新しいほうのビルは下2フロアが飲食店で、その上にはクリニックモールが出来てるの、今どきらしくて興味ぶかいし、自分も首尾よく歳を取れればそっちのが切実になるのかもだけど、まあ措く。
 もうひとつ実感したのは、ならばと廻ったコンビニから雑誌が消えたことだ。雑誌コーナー自体なくなった店も見た。無理もあるまい。とくに新型コロナが追い討ちとなって、コンビニは雑誌の立ち読みで長時間滞留する場所ではなくなった。
 娯楽の形式も変わったのだろう。移動中の無聊は、ほとんどスマホで治まる時代だ。もしかしたら四コマ誌だって、とっくに電子化でスマホの画面に収まってるのかも知れない。
 『まちカドまぞく』(きらら系)なんかA5の単行本でもメガネを外さないと細かい台詞が読めない(もしくは両腕を全力で伸ばす)自分は、四コマ誌を電書・ましてスマホでとか、とてもとてもなのですが…※本サイトの特にまんが関連が大きさ的に読みづらいひと、ごめんよ…
 けっきょく最初に見かけた、別の街の小さな本屋で入手。そして台風に直撃される(笑)。

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 途中まで揃えていた『らいか・デイズ』の単行本は、2011年3月の東日本大震災のときに手放した。
 避難所に支援物資としてまんがを送ろうというネットでの呼びかけに応じて、これも途中まで揃えていた『ワンピース』のアラバスタ篇が終わるとこまで(いい切り方でしょ)などと一緒に寄贈したんです。気軽に読めてクスクス笑いが止まらず、スルメのように繰り返し咀嚼できる作品なので、何かを楽しむにも気力が要るような疲弊した時には悪くないはずだと考え、一緒に詰めて箱で送った。
 集まった物資の仕分けは東京で、手伝いにも一度か二度は足を運んだと思う。呼びかけが新聞にも小さな記事で取り上げられ、発起人だった漫画家のYさんが思いつきで「ぬいぐるみも受け付けます」と口走ったために、寄付というと集まってくる使えない古着のように、まんがではなく圧倒的な中古ぬいぐるみの山が出来ていた。
 一事が万事でもないけれど、色々と不用意で困った人だったのかも知れない。僕自身も含め人は大概「困った人」で、その方向性が違うだけな気もするが。いろんなことが長続きせず、人間関係の構築が苦手な僕とは、正反対のタイプだったのだろう。少しお話を伺うだけでも、人脈の広さや、経験から得てきた知見が垣間見えて有意義ではあった。
 その一方で、人脈をつかむ活動力・ネットでも「論客」として一目おかれる発信力は裏を返せば舌禍につながり、何かで炎上して反省しましたネットでの発信はやめますと宣言しては、半年もせぬ内に素知らぬ顔で出戻っていた。そして最初の単行本が高く評価されて以降は新しい代表作となるような作品が続かず、生計のための仕事に追われながら漫画家に戻りたい、まずは新しい短篇を描きたいと繰り返すうち、数年前に急逝してしまった。

 作家であることは、人生のすべてではない。
 久しぶりに引用するけど「どんな風に喧嘩するかとか、寿司屋に行って何を食べるかとか(中略)ひととおりそういうことをやってみて、「なんだ、これならべつに文章なんてわざわざ書く必要もないや」と思えばそれは最高にハッピーだし」(村上春樹『村上朝日堂』)というのは本当なのだと思う。別のひとの言葉を引くなら、作家が書けなくなるのは同じことしか書けなくなるためではなくて、いくら書いても現実に勝てない・現実と同じでしかないと、物語が現実とは別の乾坤を打ち立てられると信じられなくなった時だという(ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)。
 物語の力を信じることが(まだ)出来ても、それが読み手に受容・需要されるだろうという希望が損なわれることもある。自分はもう若くない・いま人気の「絵師」たちは自分の子どもくらい若いのだと気づいてしまったら尚更だ。そうした場合でも(僕みたいに)個人の楽しみで描きつづけることは出来るけれど、商業的にも栄光を取り戻さなければとハードルが上がれば話は別だ。
 いずれにしても書けない(描けない)のに「作家であること」に執着しつづけるのは苦しいことだろう。
 Yさんが作家でいたい、作家として復帰したいと言っていた(言いながら人脈の中でのおしゃべりを続けた)実情は分からない。どれくらい本気で描きたがっていたのか、苦しんでいたのか、あるいは苦悩も自己アピールだったのかも。本当に描くことに戻りたいなら、ネットでの発信を止めればいいのにとは思う(思った)けれど。
 SNSに限らない。作家として、タレントとして、アスリートや何なら議員や知事として世に出て、言うなれば出場券(出場権)を確保して、残りの半生はコメンテーターとして(収入なり認知なり)存在の糧を得る人たちがメディアには溢れている。わりと本気で疑問なんですけどね、なんで専門家でもない有名なだけの素人に社会問題をジャッジさせるの?
 これは今の日本に限った話ではなくて、半世紀以上前からフランスのギー・ドゥボールが「メディア的身分を得れば誰もが自分が最初有名になった専門分野とはまったく異なる活動で輝かしい存在になれる」と風刺しています。(『スペクタクルの社会についての注解』現代思潮新社)。くわえタバコで眉をひそめる中年ドゥボールの似顔絵つきで
 …今ここで書いてることは全部、僕じしんにも跳ね返ってくるのかも知れない。「お前だって社会や政治について専門家でもないのにピーチクパーチクと」「未完になってる作品や滞ってる原稿はどうなってるんだよ」
 なので(なので?)創作とは別に時間を取られることが出来てしまうこと、わざわざ別乾坤を打ち立てて何か言う迂遠なことをせず、直に何か言ったりデモや何かに出向くこと自体、否定はできない。逆にこれだけ切迫した時代に創作コミュニティの中で萌えだけ追求してられるのも問題ではあるだろう。この一、二年であの作家・この漫画家がいわゆる「暇アノン」(ミソジニーのデマゴーグにあっさり帰依してしまう残念なひと)だった・失望したという話が仄聞されるけど、失望も何も今までだってその作家たちは安保法制や最低賃金・外国人差別などに声をあげては来なかったのと違うか

 …話が逸れた。いや当初から『らいか・デイズ』からは逸れっぱなしだけど。
 Yさんは自ら左派を名乗り、社会に物言うタイプの作家だった。もしかしたらネットの論客でありつづける後半生で本人も満足だったのかも知れない。けれどもしポーズでなく、作家である幸福が忘れらないまま不本意に召されたのだとしたら、
 その不本意な生の途絶を悼む。作家であることは人生のすべてではないけれど、人生の一番大事な部分と呼べる程度には(当人にとって)価値のあることだから。
 ようやく言語化できた。とりあえず僕が生きてる間は、僕がYさんを記憶に留めておこう。他の多くの、気が済んで・または不本意にも・あるいは両方半々で、描くことを止めた作家さんたちのことも。
 今週のまとめ:人が作家でいられる時間は無限ではないので、描けるうちに描きたいことを描いたほうがいいですよ。言うたら僕などは、あなたたちが描く時間を少しでも伸ばすためにプラカを掲げて国会前に立ち続けたのだから。(「描いて」と大書されたプラカを両手で頭上に差し上げた舞村さん(仮名)の絵を添えて)
 一方で、作家であることを全うした『らいか・デイズ』の完結を寿ぐ。20年かけた作品を完走させるって、すごいことですよ。
 まんがタイム9月号、『らいか・デイズ』最終話自体は8ページと
比較的あっさりめだけど、植田まさし(ええええっ)ひらのあゆ・クール教信者さんなどなどが寄せた来華ちゃんトリビュートイラストはある意味で貴重かも…(書影画像を添えて)
ちなみに植田まさし画の来華ちゃんだけど、髪に$みたいな謎の飾りはついてない。そりゃそうか。

      *     *     *
追記:「スペクタクルは(中略)危険が取り巻いていることを隠さない。海洋汚染と熱帯雨林破壊(略)放射能(略)スペクタクルは単に、それらは重要ではないと結論付けるだけである」というわけでギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』は資本主義の現代社会が本質的に隠蔽と切り離せないことの暴露として読みごたえあり。同内容の前著『スペクタクルの社会』とは別の本(より深まっている)なので注意。

小ネタ〜花園で提灯チャレンジ(24.08.22)

 あ、はい、日記タイトルで既に何がしたかったのか明かしてはいるけれど「このAI生成画像が再現したかった元の有名な絵画は何でしょう」という…
 A:ノースリーブの白いワンピースを着た小学生くらいの少女ふたりが百合の花束をはさんで向かい合っている。B:少女たちのワンピースが長袖になり花園の中にいるロングショットに変わる。C:膝丈ワンピースの裾から出た少女たちの足が黒タイツになり、花園の花が百合っぽい白一色になる。D:花園の中でランタンが光り、向かい合った少女の片方も手に器型のキャンドル?を掲げ持っている
AやBでピンと来たひとは変人の可能性が高いけど、CやDで案外と分かるかも知れない。だとしたら、人間のパターン認識能力って、やっぱりAIよりスゴイんじゃないかしら。

 Web上でどうこう出来るサービスは逆に何となく忌避感があるので、ローカルで作業できるAI画像作成環境がMacにも対応してると知ってダウンロードしてみました。まあ面白い。けど「ははは、全然じゃんAI」というタイプの面白さ止まりなのは、たぶん自分がまだ使い方を分かってないからでしょう。
 「1 girl, black straight hair, cat ear, glasses, waving at viewr, smile(女子1・ストレートの黒髪・猫耳メガネ・微笑んでこちらに手を振っている)」みたいなプロンプト(命令)を入力すると、それらしい画像を生成してくれる。いや、なかなかしてくれない。
 「花園の中で、ワンピースの少女ふたり」と入力したら上記(作例A)のとおりノースリーブが出てきたので、いやいや元絵(後で明かす)は長袖だったと「long sleeve」を指定・俯瞰のほうがソレっぽいと「from above」を指定(作例E)。元絵の花は「カーネーション、百合、バラ」だったよなと(もう絵のタイトル明かしてるようなものですが)指定したら思ってたのと違う・だけでなく女の子が一人いなくなる(作例F)。花の指定を諦めて、花園全体を「dark flower garden」にすると結構ソレっぽくなる(作例G)。ワンピースを膝丈に・黒のタイツを加えるとだいぶイメージ近くなるけど、また女の子が一人になる(作例H)。
 作例E〜H。説明のとおり。
 どうにか女の子を二人に戻すが(作例I)「dark garden」は色合いだけ暗くしたいのに正面からの画像だと夜空が入ってしまうので、再び俯瞰に戻すと女の子の片方がなぜか黒ワンピースになる(作例J)。あるいは突然親子になる(作例K・L)。黒タイツどこ行った。
 作例I〜L。説明のとおり。
 ちなみに西洋絵画っぽくと指定すれば元絵に近くは出来るはずなので、萌え絵で再現しようとしてるのは単に趣味です。AIに参照させる絵柄のモデルというのがあって(よく「私の絵は学習させないでくださいと銘記して自分の創作を守りましょう」と言ってるのはそういうこと)別のモデルを選ぶと
 作例M〜P。説明は下記のとおり
絵柄からグッと変わるのですが(作例M)、なぜか「お嬢様とメイド(しかも庭仕事用かズボンぽい)」になったり(作例N)、三人に増えたり(作例O)、ただもうイチャつきだしたり(作例P)色々また難しい。

 このへんで正解を発表します。要はこのひと、イギリスの画家サージェント1885年の絵画カーネーション、リリー、リリー、ローズ(Wikipedia/外部リンクが開きます)をAIで再現しようと試行錯誤したらしい。ははは似てない、ぜんぜん似てないよ!
 途中で「そうだ、元絵では女の子たちが日本の提灯(paper lanterns)を持ってるんだった」と思い出したのが運の尽き。「holding paper lanterns in their hands(提灯を手に持っている)」「bring paper lanterns(提灯を運んでいる)」どう説明しようと「提灯ですね、承知しやしたぁ!」と背景に提灯を描くばかりで、女の子の手に提灯を持たせることが出来ない。まあ元絵でも提灯は背景「にも」あるんだけど。そしてよく見ると
 作例Q〜T。説明のとおり。
手に手に「paper lanterns」じゃなくて「paper」だけをholdしてる(作例Q〜T)。自分、ChatGPTもSiriもオッケーGoogleも面倒がって使ったことないのですが、AI,こんなに人の話を聞いてくれないモノ(者?)なんすかね?
 いや、たった今、思いつきでまた別の有名な絵をAIに描いてもらったんだけど(作例1・2・3)
 作例1〜3。ウェーブした黒髪にピンクの服の女性が、草原で目覚め、丘の上の家を見上げている
作例1のポーズが奇蹟的に似はした(3も頑張ってる)ものの、十枚くらい生成してもらって遂に「丘の上の家を見上げる」で元絵みたいな構図を案出することは出来なかった(ちなみに正解はワイエスクリスティーナの世界―外部リンクが開きます)…いや、もちろん元絵を画像として読み込んで○○風(萌え絵ふうとか)に変換することは出来そうだし簡単なんだろうけど、それではつまらないんだよ。元絵が何を描いてるかの説明文をAIに書き起こさせ、それをプロンプトにしてAIに絵を描かせる、それはちょっと面白いかも知れない。

 面白いといえば
 作例Dのアップ。説明のとおり。
 上にあげた作例D、paper lanternだと手に取ってくれないのに業を煮やして、ただのlanternにしたら手にキャンドルを入れる器みたいな灯を初めてholdingしてくれたの、ちょっと面白かった。
 こちらをちらと振り向いたあと、背を向け、手を繋いで画面奥に歩み去っていく女の子ふたりを、四枚の画像で表現。
 サージェントが絵を描いたときも、モデルになった子どもたちがすぐ退屈してしまって大変だったらしい。服の色を変えたり、勝手にいなくなったり、もしかしたら飽きてたかも知れないAIの女の子たちも家に返して、今回のお遊びはここまで。

      *     *     *
 けどまあ正直「あなたの観光地での自撮り写真から目障りな他の観光客を消して、さらに背景の空に花火や虹を加えちゃいます!」なんてAIアプリの広告を見ると「むしろ自分が自宅でポーズ決めた自撮り写真に(ゲッティイメージあたりにあるだろう)観光地の写真を合成して済ませて、観光地の余計な人間をひとり減らしたら」と思ったりする程度には、AIというよかAIをもてはやす人たちに非好意的ではあります。

 【追記】後で気づいたけどコレ、なんか着想もノリもオチのつけかたも「デイリーポータルZ」っぽいですね…不覚(?)
 【追記2】のネタあんまり引っ張らないほうが良いとは思うんだけど、(AIに指示して描いてもらう)クリスティーナの世界、めちゃめちゃ難しい…試せば試すほど遠ざかる…
 (荒涼とした丘のふもとで目覚めた女性が丘の天辺の屋敷を見上げている、という元絵を再現するはずが)作例1:丘は緑が生い茂っちゃってるしクリスチーナ近すぎ。作例2:丘の上の屋敷なぜか和風だしクリスチーナもよく見ると着物。作例3:丘も屋敷もなくなって突然『風と共に去りぬ』のラストシーンみたいな夕焼けの後ろ姿になっている
最初のほうが余程よかった…みんな一体どんなプロンプト書いてんだ…(みんなは「クリスティーナの世界」プロンプトで描くなんてしてないんだよ!)

今すぐ出来るし、すべき地震対策(24.08.25)

「凶暴そうに見えれば殺していいなら 殺されるべきなのは私たちのほうだろう」
―"Continuing story of Bungalow Bill" The Beatles(John Lennon)
 先にもう書いておく今週の結論:巨大地震に備えた今から出来る最大の対策は差別をやめる一択でしょうがよ。何かつうとデマや中傷とばしてさ、いざというとき多数派の暴力で加害者にならない自信あるの?(厳しい顔で腕組みをした「ひつじちゃん(羊帽をかぶった女の子)」のイラストを添えて)
 今まで十年くらい考えてきたこと、最近ようやく言語化できたことも含めて一度(もう一度?)まとめておこうと思います。「いま日本がやってる外国人差別って産獄複合体に似てるよねという気づき」「むしろヤバいのは多数派の暴力」「怖ければ差別していいわけじゃない」あたりを書ける処まで。

 0)悠長なマクラ:巨大地震が来るとしたら
 校長先生ふうに言うと、南海だか何だか巨大地震に備えてください的なアナウンスが流れてからネット上の皆さんが「それ個々人に丸投げすることか?政府は何してんだよ」と声をあげるまでに48時間(くらい)かかりました。生死を分ける48時間かも知れません。だから今回ココでは「差別をやめろ」に終始するけど、今すぐできる巨大地震対策のひとつは「次の自民党総裁じゃない、別の政権に替えろ」でもあります。でもその話は皆様に任せる。
 コメ不足のニュースも相まって人々が買い占めに走ってる・いや皆「いい機会だから少し補充しただけ、買い占めとか別の奴らじゃない、ひでえよな大衆って」と思ってるて話もあるけど。あ、数日だか数週間だか生き残れるだけの備蓄を用意できるんだ、用意しようと思えるんだ、失なうものがある人たちはスゴイなと思った僕の頭に浮かんでいたのは
朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり
という論語の一節だった(完全あきらめモード)。また次のステージに上がれば別だけど、今まで色々「なんで社会はこうなん?」と考えていたこと、ウォーラーステインの『史的システムとしての資本主義』(岩波文庫/4月の日記参照)で、わりと気が済んでしまった感はあるんですよね。
 なので心残りとして夜中に頭をよぎったのは「ホログラム宇宙論について、もう少し理解したかった」具体的には順番に
・超ひも理論や11次元宇宙論を解説したブライアン・グリーンの『エレガントな宇宙
・わりと誤解されて世に定着したマルチバース理論(正しい理論のほうがずっとビックリする)を解説したレオナルド・サスキンド宇宙のランドスケープ
・そしてホーキングと論争するうちホログラム宇宙論に到達しちゃった同じくサスキンドの『ブラックホール戦争
この三冊を用意できれば避難所生活も耐えれるのではないか(バカなの?)
…要するに「地震が起きるのが直ぐなら、準備なんて間に合うわけがない」
 まあ「のりたま」だけは業務用を用意してるから大丈夫だけどな(何ひとつだいじょばない)。大きさ比較用の懐中時計を添えた業務用のりたま(大袋)の画像つきで。
そのうえで。

 1)今すぐ出来る・すべき巨大地震対策として「差別をやめろ」
 どこかで災害が起きると発生する「外国人窃盗団が」という話(ボランティア先の能登でも聞いた)。これまで川崎で在日韓国人・朝鮮人をターゲットにしてきたヘイトスピーカーが(条例で差別しにくくなって)「ブルーオーシャン」として飛びついた感のある川口市のクルド人差別。もちろん小池百合子都知事が関東大震災での朝鮮人虐殺に(あの石原慎太郎でさえ送っていた)追悼文を送らない件。それに「お墨付き」をもらった形での9/1当日のヘイト集会。そうゆうの全部、もっと大きな災害が来たとき「何か起きてしまう」下準備になりかねない。まずは差別をやめるべき。

 2)今の日本の外国人差別は民営版の産獄複合体みたいだ
 哲学や現代思想・社会史や経済史の大家みたいな人たちの本を、それこそ超ひも理論やホログラム宇宙論と同じ「なんかすごいことを読みたい」好奇心で分からんながらに読んできて、すごく勇気づけられたことがある。スプーンの上に天使が何人乗っかれるか的に浮世離れしてそうな彼らの多くが、その主著で「どうして差別するのか」「差別の本質は何か」真剣に考えていると知れたことだ。
 本サイトの日記でも何度かに分けて書いてきたのを、いい機会なのでまとめておく:
 みんな差別のことを考えてる(似てない似顔絵つきで) ルネ・ジラール「疫病や社会の崩壊で私は生き残れるという根拠がなくなった時、私は大丈夫だ(なぜなら奴らが先に死ぬべきだから)と思いたくて人は差別に走る」 ドゥルーズ=ガタリ「差別者はお前ら出て行けと口では言いながら、自分たちの中で劣位の者として被差別者を「自分たち」の枠内の閉じこめ、出て行かせて(さえ)くれない」 ミシェル・フーコー「生産のため人々に生きることを強制するようになった生権力は、それを強制できる根拠として、生きるに値しない者は死ぬけどなと言うために差別(被差別者)が必要不可欠だったのです」 ウォーラーステイン「資本主義は搾取のシステムなので、搾取される劣位の者を常に産出する必要がある。それが現代的な差別の正体。」
 学術を越えた社会活動として監獄の人権問題に取り組んだフーコーが「監獄は犯罪者を更生させず、むしろ再生産している」と批判した(らしい)(その辺あまり読めてない)(あるじゃん心残り)ことと関連して、さいきん気づいたこと。特にアメリカで問題になっている産獄複合体、刑務所が収容者をむしろ(フーコーが言ったように)犯罪者としてのカテゴリから抜け出せないループに閉じこめて、民間委託と結託しての安価な囚人労働という形で搾取している問題。
 外国人が不法滞在とか犯罪者とかスティグマ化・ラベリングされ「逆らったら強制退去させられてしまう」と足元を見られて不当な低賃金労働に従事させられてる(被災地や原発など危険な場所でも)日本の話、檻のない産獄複合体をマジョリティと呼ばれる市民が自発的に作ってるって話じゃないの、という疑問が湧く。(自分はニブいので順を追ってウォーラーステインとかまで読んで、ようやく得た気づき)
 これに限らず、他の国では政府が警察や軍隊を使ってする弾圧めいたことを、一般市民が自発的にやる日本て印象が強いのだけど、どうなんでしょう。巨大地震が起きた時の暴発を危惧する所以です。
 ※退去を恐れるがゆえに守りに入りがちな「インネパ」カレー店の悩みについて今年5月の日記も参照のこと。

 3)分断が怖い〜五年かけて、ようやく言語化できたこと
 ニブいと言えば。2019年の三月に品川の東京入管で病人が出たのに、駆けつけた救急車を局員の一存で返してしまう現場を目の当たりにして(20年1月の日記参照)。←いま振り返ると文章化するのにも一年かかってて(当時のTwitterで逐一「実況」はしてた)、だけれどなお、その時も言語化できなかったことが、事件から5年かけて、やっと言語化できそうなので書いておく。
 もちろん入管の対応は怖かった。棒で殴るとか物理的ではないけれど「何もしない暴力」だからね。ウィシュマさんが死に追いやられた時と同じ。「死ぬに任せる(フーコー)」暴力。
 でも同じくらい怖かったのは、病気になったクルドの人の家族や友人知人が押しかけて、支援者や僕みたいにTwitterで見た日本人や在日朝鮮人のかたも馳せ参じて。「ここに半々くらいで日本人(在日のかたも)が居て良かった」もし抗議に集まったのがクルドの人たちだけだったら、そんな「分断」がここで生じなくて良かったと安堵する気持ちが強かった。もっと大きな何か(emergency)があった時、クルド人なり何なりのエスニック・グループが孤立して、分断された形で集団としてemarge(出現)するのは怖いと思ったのだ。
 五年前には上手く言語化できなかった話をしています。
 言語化できなかったのは「分断が怖いって、要するに自分も『あの人たち』を恐れてるんじゃないの」いや違うねん、そうじゃないねん「じゃあ何なの」の先が説明できなかったから。
 それがようやく出来そうな気がする。
 第一に「そりゃあ怖いよ。意志疎通できない別集団として『あの人たち』が立ち上がってしまったら、たぶん僕だって反射的に身構えちゃうと思う」「でもそれは理性で克服しなきゃいけない恐怖だよと、ようやく言語化できた。これについては4)で話します。
 そして第二に「でも日本が『日本人と他民族(Us and Them)』に分断されると想定したら、日本人の自分が恐れなきゃいけないのは、むしろ多数派の日本人から仕掛ける犯罪や暴力だろう(何せ歴史的にも実例があるし)」ということだ。
 たとえば(繰り返しだと思うけど)イスラム教が喜捨を信者の義務に定めてることもあって、災害が起きると迅速にかつ粘り強く支援に馳せ参じるエスニック・グループの人たちがいる。また(これも繰り返しだけど)日本人の側にも「外国籍の岐阜県民」として漏れない支援を目指す、みたいな方針を打ち出す自治体もある。何度も何度も何度も何度も、本サイトで書いてるように、他者は他者として、それでも分断を少なくしていく、それは今すぐ出来ることだし、しなければいけないことだと思う。

 4)怖ければ差別していいってもんじゃない
 前に東京の職場で一緒だった人が、まあ「ふつうの日本人」日本の電車は正確でが口癖のひとで(横浜から通勤してた僕は二日か三日に一度は帰りの東海道線が遅延してたけど)他の同僚にヨーロッパ旅行の話をしてたのが
イギリスに比べてフランスは黒人が多くて怖かった(笑)」(完)
何を見たとか何処が良かったとか一切なしで、それしか言うことがない人間が外国旅行なんか行くなよと内心で思ったのだけど。
 改めて思うのは「怖い」「怖い(笑)」が「差別してもいい」エクスキューズになってないかってことだ。トランス差別も、そういう面あるでしょ。更衣室や風呂場に、そういう人たちが入ってきたら「怖い」。だから「差別していい」。あるいは「これは差別じゃない」いや差別ですよ
 これは恥を忍んでする自分の話。もう十年以上前になるのか、あまり娯楽にお金を使えない自分が頑張って2013年の東京国際LGBT映画祭に足を運んだ(15年9月の日記参照)。面白かったなあ。
 上記の日記では、僕が足を運んだ日のメイン長篇『ウィル・ユー・スティル・ラブ・ミー・トゥモロー』について書いたけど、併映の中篇『ママってばアルゼンチン?』(ひどい邦題)も面白かった。年ごろの長女に突然レスビアンなのとカミングアウトされ、ぶっ倒れてしまったアルゼンチンの保守的なお母さんが(駆けつけた次女が「なに話したの姉さん、まさか私のドラッグじゃないわよね」でもうダメだった)それでも娘の味方になろうと猛勉強、ママ友に「それは違うの、つまりフロイトの理論によればね」と付け焼き刃の教養を披露…でも肝心の娘は失恋してしまいというビタースウィートなコメディで…話が逸れた。
 恥ずかしかったのは(もう一本の男性カップルを描いた短篇も好かった)コメディ寄りのラインナップで幸福感に包まれながらスクリーンに見入る一方、時々「今ここでは異性愛者の自分のほうが少数者なんだ」という自覚に冷んやりした感覚を憶えてしまったことだ(※まだ「シスジェンダーの異性愛者」まで解像度が高くなかった。まあそれも含め)。「こんなところに異性愛者がいるぞ!」とタコ殴りにされたり、まして「キャー襲われたらどうしよう」みたいに思ったわけじゃない。それでも自分がその場で少数者だと思っただけで感じる居心地の悪さ的なものはあるのだと知った。性的な、あるいは民族的なマイノリティの人たちは、こんな居心地の悪さ(場合によってはもっと深刻な恐怖や脅威)を感じているのか、も、と想像が及んだ意味では、よい勉強だったのかも知れない。
 あの人たちは騒がしい、あの人たちは不潔だ、何を考えてるか分からない、私たちを嫌って、憎んでいるんじゃないか―そんなふうに少数派の人たちを「怖がって」いる人たちは、向こうも同じように、こちらを恐れているかも知れないとまで想像を巡らせたことがあるだろうか。そして場合によっては、多数派の吾々のほうが、よほど脅威だと
 「だって怖かったんだもの」は差別や、まして虐殺の言い訳にはならない。百年前の日本人はそれで(奴らは井戸に毒を入れている・怖い)で大量虐殺「する側」になった。

 5)次にまた同じことが起きるとは言わない
 でも今度は、百年前とは全く別の、予想もつかない形での暴力の噴出があるかも知れない。その予防になるのは、まずは前提になる差別をやめておくことしかないと思う。8/15前にあの話をしておきたかったように(先々週の日記参照)、9月1日の前に、この話をしておきたかった。

 6)国家と他民族(未解決案件)
 いちおう護憲派なのですがね。よく言われる天皇をどうする(第一章)以外に、最近は日本国憲法の第三章を見て溜め息が出ることが多い。
 第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
 第十三条 すべて国民は、個人として尊重される
(以下略)
 第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて
(以下略)…
(強調は引用者)。つまり世界で最も進歩的だとか言われる憲法もまた、自国内にいる「国民でない者」については吾関せずのブラックホールみたいな部分がある。※ただし第十六条以降では「何人も」と国籍を問わない表現が為されているし
 第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。(以下略)
 第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。のように、わりと評判は良くない「○○は、これを○○」構文で、国籍に関係ない権利が保障されてると見て良いのだろう。
 もちろん、国はその住民の生存をまず優先するってのは分かるんですけど、その「住民」を「国民」ひいては「民族」に限ることの弊害は、とくに日本では顕著だと思う。しょうもないスポーツの国籍がどうちゃら騒ぎから、もっと深刻な差別までソコでしょ。
 上のフーコー要約でも仄めかしたように、人に生きて労働せよと促す(こう書くととても聖書的)国家が、人に死をもたらす差別の蝶番になってる、そのメカニズムを解明・(理論的にだけでも)解体できないかなってのが、自分が社会について知りたいことの「次のステージ」なのかも知れません。そのへんまで射程に入れて…まあ分からない本を胡麻化し胡麻化し読んでます。

 付録)上記図版の出典
・ジラール『身代わりの山羊』(法政大学出版局)p25 (12年2月の日記参照)
・ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー(中)』(河出文庫2010)p34 (15年2月の日記参照)
・フーコー『社会は防衛しなければならない』(筑摩書房2007)p253 (17年8月の日記参照)
・ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(岩波文庫2022)p124 (今年4月の日記参照)
上の三つは過去にも何度か「まとめ」としてセットで紹介してますが、元ネタのページ数まで入れてるのは初めてかも+今回のが(日記の内容も併せ)当面の「決定版」になれば良いなと思ってま。

小池百合子知事はなぜ追悼文送らない? 法大前総長の田中優子さんら批判 関東大震災虐殺を否定なら「根拠を」(東京新聞/24.8.23・外部リンクが開きます)

小ネタ拾遺・24年8月(24.08.31)

(24.08.05)大昔のドイツのグループNEU!を連想させる名前に釣られた(←たぶん無関係)おじさんなど眼中にもなさそうなデビューしたて?のガールズバンド。ゴリゴリのベースが(17歳ですってよ)えげつないほどカッコいい。読みは「ネキ」だそうです。
NEK! - MAZE (Official Music Video)(YouTube/公式/外部リンクが開きます)

(24.08.03)温暖化へのささやかな抵抗として・使うほど地球に木が生える検索エンジン「Ecosia」(GIZMODE/24.7.28/外部リンクが開きます)まずはiPhoneにインストール→画面下に常駐させてみました。
 AppStoreからダウンロードしたEcosiaを常駐させた、iPhoneの画面下部のスクリーンショット。
使い勝手はGoogleと遜色なし/妙なプロモーションが上位に来ないっぽい意味では、むしろ好いかも。デスクトップMacで検索環境をEcosiaに移すには現在使ってるSafariからブラウザ自体を変える必要があって少し面倒だけど、ぼちぼち直せればと思ってます。
(追記)iPhoneの場合、ブラウザ(Safari)からの検索もエンジン設定で簡単に切り替えできる。デスクトップはどうかな。

(24.08.04)先月の日記で「昨年同時期はあったのに今年はやんぴになった」と書いた燃料費高騰にともなう国の補助、8月使用・9月検針分から(昨年の6割弱ですが)一時的に復活します。
・参考:国による電気・ガス料金支援について(東京電力/24.7.29更新/外部リンクが開きます)
再生エネルギーを使った新電力会社を含め、他の会社でも適用時期・補助額は同様のはず。つまり8月分料金の〆が終わったら少し電気代は楽になるはず、なので節約のために健康を損なう人が少しでも減れば…と願う。

(24.08.05)ちょままま、マジか。Bangladesh PM Sheikh Hasina resigns and flees country as protesters storm palaceバングラデシュで抗議者が官邸を急襲、ハシナ首相は辞任・亡命(BBC/外部リンクが開きます)…先月の日記で抗議にふれた行きがかり上、学生デモへの過剰弾圧に抗議するアムネスティの署名(24.7.31/外部リンクが開きます)に賛同して、ここ(本サイト)にもリンクを貼ろうとしてた矢先だったので驚いている。身構えとけ、瓦解する時は一瞬だぞとか思うことは多々あるけど、いや、弾圧側の「ゴム弾」という単語に'19年の香港(昨年11月の日記参照)、さらに遡っては来年で100周年になるエイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』オデッサの階段などが思い出されて…

(24.08.12)東京外語大学が運営してるTUFS media 日本語で読む世界のメディア(外部リンクが開きます)、学生や卒業生による各国紙の翻訳は一ヶ月くらいタイムラグがあって速報性は薄いのだけどアジア・中東の感覚を知りたくて時々眺めている。バングラデシュのProthom Alo紙のコラム何もしないことがなぜ重要な仕事なの?(24.7.7/外部リンク)は「適度に休んでこそ仕事も捗る」みたいな主張半分で、や、それも正論なのだけど、やっぱり残り半分で説かれるすべての人が現在、一息つくことを望んでいる」「心の重荷が軽減して、よく寝られるようになる。様々な身体合併症を避けられる効能の方が目に優しい(笑)
ちな最新のバングラデシュ情勢はグラミン銀行の創設でノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏を最高顧問にバングラデシュ暫定政権発足 治安の安定化最優先(NHKニュース/24.8.9/外部リンク)だそうです…すげーと思う反面、お隣ミャンマーで同様に期待を背負って登極したアウンサン・スーチーが上手く行かなかった経緯を今ちょうど岩波新書で読んでるので、うう、良い方向に向かいますように(どっちの国もだよ)…

(24.08.07)本には読み時があって、とゆうか、その本が本来テーマにしてる以外のことを勝手に期待して臨むと「ピンと来なかった」で終わりがち…という話は前もしたかも。思い立って再読したコーンフォードソクラテス以前以後(岩波文庫/外部リンクが開きます)初読時よりは読めた気がする。それまでの自然哲学と一線を画し「人の幸福(善)」の追究のみにフォーカスしたソクラテス・の後を継いだプラトンが師の人間主義を(そのために師が切り捨てた)世界の中に位置づけるために、ピタゴラスの数学的神秘主義を裏口から?取り入れたという解釈が面白い。なるほどプラトンのイデア・とくに三角形のイデアって、言われてみればピタゴラスっぽいかも??
 書影:ソクラテス以前以後
終盤のアリストテレスは少し飛躍があって再々読に期待だけれど(また読む日が来るんか)彼のたとえば「潜勢力」などのタームが、ドゥルーズやアガンベンなど現代思想でも重要な使われかたをしていると知り、良くも悪しくも奥だか根だかが深いな西欧哲学…

(24.08.08)倉敷の古本屋で入手した『水声通信 甦るライプニッツ』(2007)つつがなく読了。近代人ライプニッツの思索の源流(一部)が中世ヨーロッパを経由して10世紀ペルシアの哲学者イブン・シーナー(アヴィセンナ)まで遡れること・またラ氏が遠い伝聞として取り入れた中国思想も当時の中国では乱世と王朝の交替を背景に「現実はひとつか」問うような議論があったこと・などを座談会で山内志朗氏が語っていて
 水声通信(ライプニッツ特集)と世界哲学史1〜3を並べた書影にキャプション:今回の『水声通信』にも寄稿してる佐々木能章氏の『ライプニッツ術』が読んでる間(※だけ)ものすごく頭が良くなった気がする本で、生きてるうちにアレも一度再読できたら幸せだなと…
山内氏も編者に名を連ねている、ちくま新書『世界哲学史』の「哲学が古代ギリシャと近代ヨーロッパだけのものじゃないと証す」コンセプトが生まれてきた経緯がほの見えた気がしました。『世界哲学史』ちょうどライプニッツあたりで読み停まっているので頑張らねば。
 あと、そうした諸々→ライプニッツな系譜の行き着く先として(同じドイツの)ベンヤミンが特等席を与えられており、彼ひとりで言わば「もうひとつの思想史」を背負って立ってる、実は現代思想の最重要パーソンの一人なんだなと改めて。

(24.8.06)お前がもたらしたKI**が消えることはない。
(和訳) OMD エノラ・ゲイの悲劇 - Orchestral Manoeuvres In The Dark - Enola Gay(YouTube/外部リンクが開きます)

(24.08.09)広島・長崎は言うに及ばず近現代史のあらゆる局面で「戦略爆撃が戦争を終結させたことはない」点については荒井信一『空爆の歴史』(岩波新書)を要約・敷衍した12年前(12年3月)の日記で過不足なく言い尽くしているので、リンクを張って掘り返すに…とどめたかった、けど、
 敵の軍事施設をピンポイントで破壊するのは技術的に困難なので、攻撃が容易な市街地を標的に非武装の住民を殺戮することで「戦果を謳う」無差別爆撃の嚆矢が日本の青島爆撃(1914年)だった=つまり日本は紛れもなく、その愚劣なゲームの主要プレイヤーの一員だったことを特記するとともに
 12年後の今は「軍事施設のピンポイント攻撃は技術的に困難→非武装住民を無差別攻撃」が「技術的困難はクリアした→よし、非武装住民をピンポイントで殺戮だ!」「待て待て待て、何でそっちになる」という最悪の段階に進んだことを新要素として付け加えておきたい。ガザで行なわれていることだ。
 かつての東京や広島・長崎がB29や原子爆弾という新製品をアピールするスペクタクルだったという『空爆の歴史』の議論を踏まえると、現在のガザの非道もまた、同じような力を自国内のまつろわぬ非武装市民に向けて行使したい(たとえ殺戮でなくても監視とか)と願う各国の政府に「うちの技術ならココまで出来まっせ」と見せつける、おぞましいショーケースでもあるのかも知れない…と妄想がたくましくなってしまう。
・参考(一例):イスラエル軍はGoogle・MicrosoftからAIツールを調達、ガザ地区住民の監視情報をAmazonのクラウドサービスに保存(+972MAGAZINE/24.8.4/英語/外部リンクが開きます)
 長崎市のイスラエル不招待に対するG7各国の式典ボイコットは、かの国々が結局はまだ同じゲームをプレーし続けていることを、はしなくも明示したと言える。これを機に「日本はそのゲーム80年前に(名目上)降りたし、今後ますます(実質的に)降りますけど」と言えるのが理想だし、日本の企業が技術協力などのかたちで、この愚劣なゲームver2023〜に加担しないことを、改めて強く望む。もちろん国家として、かの国が売りたい技術の顧客にも、なられては困る。

(24.08.10)昨日の小ネタについて、こちら(本サイト)ではたぶん言ってなかった(Xになる前のTwitterで書いてたと思う)ことを補足で記すと、かのカエサルがかの『ガリア戦記』で「進軍したけど敵軍に遭遇できなかったので、近隣の村落を破壊して帰った」ことを「戦果」として高らかに報告してる件(あんまりインパクトが強くて他は何を書いてたかサッパリ憶えてない)空爆の発明を待つまでもなく、古代ローマの昔から戦争は汚いゲームだったという第一級の証言(自白)なんですわ…
今年(令和6年)の長崎平和宣言(長崎市/24.8.9/外部リンク)に賛同しました。過去の長崎平和宣言、昭和48年から全部読める(同上/外部)って知ってた?

(24.08.15)実はMacklemoreのHIND'S HALL(YouTube/公式/外部リンクが開きます)を初めて聴いたとき、言ってることは全面的にまっとうだけど「(今すぐイスラエルの虐殺をやめさせろ、でないと)バイデン、秋になってもお前には投票しないぞ」てフレーズはトランプ陣営が喜んで(そこだけ切り取って)鬼リピするだろうなて懸念もしてたので、民主党が頭をすげ替えて本当に良かったし、ある意味で歌(ラップ)が遂行的な予言になった・少なくとも流れに竿をさしたとは言える・結果的にやっぱり全面的に間違ってなかったことになって安堵する気持ちはある。

(24.08.16)アメリカの大統領選、両党の「副」大統領候補がこんなに注目されるのも珍しいのでは。民主党でハリスに抜擢されたウォルズ(ウォルツ)氏はミネソタ州知事として中絶の権利を保障・脱炭素の分野でも(参考:「米ミネソタ州、2040年までに州内電力会社に100%カーボンフリーの電力供給を義務付けへ」ジェトロ/24.2.13/外部リンクが開きます)他州に先駆けるなど、共和党の路線に真っ向から対立する人物。一方、先んじて共和党の副大統領候補とされてきたヴァンス氏もトランプ路線を煮詰めたような人物らしく…こちらについては一目して噴いちゃったフェディバース(X代替の分散型SNS)に上がってたアンチ画像をリンクしておきます(Gregg Gonsalves/Mastodon/24.8.9/外部リンクが開きます)。はははは。
※いちおう説明しておくと女性の中絶の権利を認める(プロチョイス)派のキャッチフレーズが「My body, my choice(私の身体のことは私が決める)」なのです。
※日本のあの党やこの党の総裁選・代表選についてはもう這いずり回って世界を救ってみせろ(ナムリス)としか…

(24.08.17)昨日の台風、一番ヤバい時の風雨を頭に載せた小さなタオルで凌ごうとしてる人を(傘が壊れてしまったらしい)見かねて有無を言わさず自分の傘に入れ、50mくらい先のコンビニまで送り届けるソコソコのファインプレー(自賛)。
 東京アメッシュのスクリーンショット。水色→青→赤を通り越し紫になった豪雨の只中に居ました。
 まあかく言う自分も、第一波の風雨が予報警報ほどではなかったから出先から駅までも勝ち逃げできるかと甘く見て途中まんまと捕まったのですが「さっき少し賑やかなあたりでマクドか大戸屋にでも入って時間をつぶすんだった」という後悔が「でも、それで上手く第二波もやり過ごしてたら、ジブンこのひとを助けられんかったわけだし」と思い直すことも出来たので結果的に良かったんじゃないでしょうか。というか逆に僕に日ごろの罪滅ぼしのチャンスを与えるために、先方の傘が壊れたとも言えるわけで…
 その後また別のひとが駅蕎麦で入口の券売機から音を立てて釣り銭が出てるのに気づかず入店しちゃってたのを見て、追っかけてお店に入り「いま券を買ったひと、お釣り忘れてますよー」と声をかけるなどして、また功徳を積み増しした。そういう日だったらしい。

(24.08.18)何の準備も出来てないのに引越センターのトラックと作業員4人が来てしまう(しかも午後)自分にしてはわりと新機軸な悪夢で(どーすんの)(しょうがない、この4人には出前の寿司でも奢るか)と思ってるあたりで目が醒める。朝5時前なので二度寝してもいいでしょうか。
(10分後追記)あ、夢の理由わかった…寝る前に読んだ四コマまんがが引っ越しネタだったせいだ…夢は記憶の整理、分かりやすすぎる…

(24.08.19)アラン・ドロン追悼…は11年前の自分に任せた。1967年の映画『冒険者たち』について書いた、2013年12月の日記です。この時は書かなかったけど、この映画でのドロンの最後の台詞になる「うそつきめ!(笑)」がまた、潰えたと知りながら夢を見ようとする悲しさに満ちていて愛おしいのよ…
ロベール・アンリコは最近観た『オー!』(1968)も生きかた下手の強がり路線で味わい深かった。ジャン・ポール・ベルモンド演じる主人公の運命を見届けるジャーナリストが(後の)マーク・ストロングに似た顔の俳優さんだったのも。

(24.08.20)涼味おろし温玉そうめん。耐熱容器に最初から150ccキチンと量って水を入れ、生玉子を落とし20秒ずつレンチンを2〜3回・様子を見ながら繰り返し温泉玉子を作る。水(お湯)も捨てずに一緒に冷まし、冷蔵庫で冷やしておく。。大根を適量おろして水気をしぼる。おそうめん一把(50g)を規定どおり茹で、水道水で冷まして揉み洗い・ぬめりを取ったら氷水で冷やす。大体からまってるので、ほぐしつつ一口分ずつ氷水から引き上げ、軽く水気を切りつつ食べる器に移す。先に作った温泉玉子の水150ccと合わせて「かけつゆ」の濃度になる量、濃縮めんつゆを器の素麺にかけまわし、温玉と水を加えて軽く混ぜ、大根おろし・あれば薬味や漬け物などトッピングしていただく。写真を撮るときは見栄えのためランチョンマットなど用意しておくとベター。足りなければ他に何か食べる。
 おろし温玉そうめん・出来上がり写真。

(24.08.21)SHERLOCKよりエレメンタリー派だった自分にとっては田中敦子さん=ワトソン(ルーシー・リュウ)でもありました。謹んで。
 右からルーシー・リュウ、じゃーねと台詞を添えてマーモ(ドキドキプリキュア)、剣を背負った『KUBO』のサル、このへんに少佐(光学迷彩)として点線で囲まれたシルエットだけ。
(同日追記)松岡正剛氏の訃報も。千夜千冊の完結以降は残念な消化試合という印象で(すみません)今は褒めるのが難しい人かも知れませんが、自分は多くを学んだなあ。役人たちが飛びついた壮大げな伽藍より、ラグビーは後ろにボールを投げないと前に進めないとか、字を書くとき人は自分がつむぐ線の尖端が(指に隠れて)見えないとか、テルミンは少し手を離さないと音が出ないとか、引き算みたく逃げ去っていくもの(フラジャリティ)への一貫した関心を、あらためて読み直したいところです。

(24.08.24)先月の日記で予告(?)した横浜そごうのヨシタケシンスケかもしれない展(公式/外部リンクが開きます)すごかった…まずは入ってすぐ、システム手帖のノートに描かれたスケッチ・アイディアメモが圧巻。KJ法もビックリだ。
 スマートフォンより少し大きいくらいのシステム手帖のノートにクッキリした黒の細ペンで描かれたスケッチ・アイディアメモが壁一面に整然と貼り出され、人々が眺めている。
会場内は圧倒的お子さま連れで盛況。中高年男性で「じごくのトゲトゲイス」に座って喜んでるの、自分が行ったときは自分だけだったかも。
 鬼ふたりが「ようこそじごくへ」「せっかくだからすわってください」と仏頂面でいざなう絵本のネタ「じごくのトゲトゲイス」を実物化したオブジェ。「西日」と題された初老サラリーおじさんの木製オブジェはライティングでデスクに西日が差してるよう。空調のパネル?の横に貼られた「コレなんだろうね?」という付箋。
横浜では9/2まで。そのあと沖縄・岡山で開催らしいので興味あるかたは是非。
(24.08.26追記)なんて書いた矢先・「微うつ」歴50年の異変…ヨシタケシンスケさんと「助けてボタン」(朝日新聞/24.08.24/外部リンクが開きます)。有料記事なので途中までしか読めないのだけど、改めて、クリエイティブだったりパワフルだったりと不安や絶望・うつは全く両立できるのですよな…だから「昨日あんなにはしゃいでたのに今日うつとか恥ずかしい(あるいは逆)」とか思わんでいいと思う次第(でも思っちゃうのが人間なので「そういう自分を受け容れる)。せめて自身の弱さを知った分、柔らかい人間になれるといいですよね。

(24.08.28)なんか自信たっぷりで、こんな症例もあるのかな?と丸め込まれそうになった誤字。仕事ばかりで遊ばない、ジャックは今に…的な。皆様ご自愛。また来月。
 本の表4の解説文のアップ「無遊病者」。
※狙ったわけじゃないけど(すげー働き者だった)某ジャックさんの本…某ジャック…ジャック・誰ダ?
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