チャヴ化する世界〜亀山陽平監督『銀河特急 ミルキー☆サブウェイ』(25.08.11)
アカネちゃんの
「カナタぁーっ!」が好すぎて(よすぎて)
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第5話「排除くん」│アニメ『銀河特急 ミルキー☆サブウェイ』本編(YouTube/外部リンクが開きます)
日本語・英語・ポルトガル語・スペイン語・韓国語・中国語・タイ語・インドネシア語・フランス語・ヒンディー語・ロシア語の11言語ぜんぶで聞きなおしてしまった←暇なのか←毎話3分半なので言うほど手間ではないが。

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アニメ『銀河特急 ミルキー☆サブウェイ』公式(←ここで全話観られます/YouTube公式チャンネル/外部リンク)
自主制作だった(やはり3分半の)短篇が評価されて三年。続篇にあたる新作はスポンサーもついて上記のとおり11言語で世界同時公開、という流れらしい。もちろん斜に構えた本サイトだから「世界で大絶賛される日本スゲぇ!」みたいな話をしたいわけじゃない。いや、スゴいとは思ってますよ。なんだかんだで日本、コンテンツの発信地としては、まだまだポテンシャルがあるのだと思う。
ただ、今どき「日本スゴい」「日本スゴい」と言いたがる連中は(自分自身の手柄でもないのに)
その対価の回収だけしようってサモしさが見え見えで気障りなんよ。スゴいものを作る人たちは、いや、スゴくなくてソコソコのものでも、価値を生み出す人たちは、粛々と自分たちの仕事(対価を得られるものに限らず)をしている。日本でもタイでもインドネシアでも、たぶんそれは変わらない。それを赤の他人が「褒めろ」と対価を要求している、ようにしか見えない。過去の先人の遺産を食い荒らしてる。今の同時代人の苦労を盗みとってる。
負の資産にしてもそう。いま国内で排外主義の声が高まってるのは、就職氷河期いらい苦しんできた人たちの恨みが…みたいなこと言ってて、それはウソではないかも知れないけれど、それ(困窮した人たちの恨み)を声高に叫んで排外主義を煽ってるのは、さほど困窮してなかった「勝ち組」なんじゃないの?あの芸能人、あのミュージシャン、就職氷河期でワリを食った?
つらい思いをしてきた人たちのルサンチマンと言うより、
ルネ・ジラールが言うように(
2012年2月の日記参照)今まで安泰だった人たちが安泰を脅(おびやか)かされてオタオタして、急に被害者ぶって、んにゃ被害者の代弁者ぶって大声をあげてる、犬笛を吹いてるんじゃないの?困窮する人たちを踏みつけて安泰だったのは自分たちだったかも知れないのにさ、と思ったりするのだが、
盛大に話が逸れた。
『ミルキー☆サブウェイ』に話を戻す。もちろん面白い。周到に作りこまれた世界観と、いかにもユルい主人公たちの立ち振る舞い。毎話3分半とは思えないテンポの良さと、不思議に矛盾しないグダグダ感。でも、この面白さが世界スケールでウケる、少なくとも勝算があると判断されて11言語で同時配信されている事実を、説明はむずかしいけど感慨ぶかく思っている。
と言うのも、言葉の選定が難しいのだが、本作が描くのは、あー忌憚なく言ってしまえば社会の底辺・下層・最下層と呼ばれる若者たちなのだ。今となってはパイロット版にあたる自主制作の前作で、スピード違反のあげく警察の追跡ロボを破壊して逮捕された主人公ふたり。「総長」と呼ばれるアカネちゃんと弱っちいのに妙な侠気があるカナタくんの不良少年少女。他の四人の騒動そっちのけで携帯ゲームに興じているダウナーなサイボーグふたり。
そんな6人が懲役がわりの労働奉仕で車両清掃を命じられたオンボロの銀河列車が、これまたグダグダなプログラム異常で暴走し…というストーリーが、キャラ設定が、なんなら「洗面所の鏡で延々と髪の毛をいじってる男ふたり」みたいなディテールまで、
世界じゅうで「あーあるある」「わかりみ」何なら「なんで日本のアニメが、うちの国(アメリカなりロシアなりフランスなりブラジルなりタイなりインドネシアなりetc)のことが分かるんだ」くらいに共感されてることも、ありえないことではないように思えてしまったのだ。
読んでない小説からの引用は気が引けるけれど
レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』は「
幸福な家庭はどこも似通っている。だが不幸な家庭はそれぞれ別々に不幸だ」という主旨のフレーズで始まるらしい。
本サイトでは何度か言及しているけれど、村上春樹が世界じゅうで受容されたのは、世界じゅうに裕福な層=トレンディな食事をして精神分析やらの話が通じてヤナーチェクだかプッチーニのオペラだかをCDで聴いて…みたいな形で平準化された「どこの国でも似通っている幸福な人たち」が現れたからだ、ハルキを読んでるのは世界中の豊かな階層だけだ、という意地の悪い分析があった。
先々月の日記で紹介した
ディー・レスタリなどが主導したインドネシアの「芳しい文学」も同様のハイソな読者層に支えられていたらしい。同じような文芸ムーブメントは、おそらく世界中で起きていたのではないか。
ハルキ・ムラカミが世界に受容されたと言っても、それは世界中のハイソな金持ちの間でだけだよ、裕福さとは無縁な庶民には全く縁のない話だよ、みたいな悪口には、世界中で裕福な階層は国境や言語をこえて文化的に一体化しているけれど、そうでない庶民・細民・下層の底辺の貧しいひとたちは「それぞれ別々に不幸だ」という前提がありはしなかったろうか。
『ミルキー☆サブウェイ』に感じてしまうのは、不幸・貧しさ(←経済的にも文化的にも)・底辺のほうも「そっちはそっちで」画一化するグローバル化の威力だ。いや、間違いないと思いますよ?10年前には、もうこんなだったもん。

マレーシアの首都・クアラルンプールで「わあ、こっちでもこういうのはこうなんだ」と撮ったんだけど、途中はしばしに見えるヒジャブをかぶった女性の絵をのぞけば、これがタイでもインドネシアでも、パリでもモスクワでもソウルでも、もちろんロサンゼルスでも東京でもおかしくないでしょう。
今週のまとめ1:グローバル化は世界の豊かな階層だけでなく貧しい階層は貧しい階層で画一化しつつある(のかも知れない)。
2:そしてこの豊かでない層の国境を越えた(文化的)画一化でも、日本はそれなりの存在感を示している(ようだ)。
ボウリング場とゲームセンターを融合させた(?ような?)日本発のアミューズメント施設「ROUND 1」がアメリカで大成功しているらしい。週末に車に乗っても行き場がない若者たちの新たな安らぎの場になっているというのだ。
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日本のラウンドワン、衰退する米ショッピングモールの救世主に(Cecilia D'Anastasio・望月崇訳/Bloomberg/2024.05.31/外部リンクが開きます)
↑いくつもある同主旨の記事の中でもパッと見いちばん旧そうな昨年の記事によれば、日本のアニメやゲームコンテンツを愛好する欧米人を「ウィアブー(weeaboo)」と呼ぶらしい←この一文に「オタク」という単語を入れようとして「あ、違うかも」と気づいてやめた。人々や文化を「オタク」「非オタク」に二分するのも今時ないのではないか。これはマンガやアニメ・ゲームといったオタク文化が、自分をオタクと思ってない人たちにまで浸透しきったからで、電車の中でスマートフォンのゲームに没入している中高年・あるいはカバンやリュックに二次元キャラの缶バッジや「ちいかわ」のぬいぐるみを着けた人たちを全員オタクと呼ぶのも最早ちがう気がするからだ。
同様に、グローバル化の前では、少なくとも文化面では「豊かな階層」「貧しい階層」上流下流もまた対立項として二分化できるものではない、のかも知れない。自身はユニクロやGU・ドンキや…えー分からんわ(もっともらしく書いてるけど「へーROUND1て単なるボウリング場」じゃないんだ」と最近ようやく知った世間知らず)プチプラなどで装ってる層もプラダやルイ・ヴィトンが最上級でナイキやアディダスがあって…という「序列」を内面化しているのではないか。
ちょっと話は逸れるけど一等地の大通りにプラダやヴィトン・バレンシアガやアップルストアがショーウィンドウを連ねた威容(異様)は銀座も渋谷も新宿も、知る限り台北もKLも、なのでたぶんパリもモスクワも似たり寄ったりで「つまらん」といえば「つまらん」気もする。一方で、これは日本ローカルかも知れないが「一等地」でない地方都市や町村もまた牛丼チェーンにドラッグストア・ABCマート(靴屋)にパーソナルジムのCHOCOZAP、国道沿いの大戸屋や華屋与兵衛と、どこもかしこも似た風景ばかりで
(参照:
24年5月の日記)
そして両者=画一化された豊かな街と、画一化された豊かでない町を、マクドナルドやバーガーキング・スターバックスが「共通項」として橋渡ししている。つまりは富める者も貧しき者も、オタクも非オタクも、日本人もタイ人もロシア人もブラジル人も、たったひとつの共通の尺度を受容し内面化している。
けれど世界を平準化した同一の尺度は富者と貧者を平等にはしない。むしろ「格付け」として格差をきわだたせる。
『ミルキー☆サブウェイ』やら他のコンテンツを漁るに伴い、必然的に目に入ってくる今どきの言い回し―「解像度」とかその逆の「雑」とか、「○○からしか得られない栄養がある」などなどに加えて、近頃は
「上澄み」という言いようが流行りらしいと知った。こういうのは(700年前の本とか読んでる)自分より皆様のほうが詳しいのかも知れません。○○は上澄みだ(衆に秀でた存在である)とか、○○は優れてるけど上澄みなんだろうな(優れてない有象無象も沢山いるのであろうよ)等々。なるほど便利そうなので使いたくもなるけれど、同時にこれが(一時期流行した)「親ガチャ」と同様、優劣を上下で捉えている+格差を説明するだけでなく(諦めまじりに?)受容も肯定もしている表現にも思えて躊躇う気持ちもある。
存在する物に、それを的確にあらわすは言葉必要だろう。けれどそれは同時に、その存在を強化もする。そして格差を受容・肯定する言葉で、そしていつでも同一尺度の押しつけで割を食うのは、格付けの下のほうに居る者たちと決まっている。

もちろん不良を描いた国産コンテンツは沢山ある。いやキチンとつきあったことはないけれど、マンガだけでも山ほどあるだろう。けれど逆にそれらの多くは高校生という概ね就業前の世代を神話化・ファンタジー化したもので、女子高生がアイドルになったりバンドを組んで武道館を制したり山中湖畔の冬キャンプで危うく凍死しかけたりするのの男子版に過ぎなかったのではないか。『ミルキー☆サブウェイ』の主人公にあたるギャルふたりは設定によれば23歳で、同じ行政措置を受けている以上、他の四人も成人世代と見なして問題ないと思われる。
同作を観ていて毎回テンポの良さに大笑いしながら、同時に思い出すのは『トレインスポッティング』『キングスマン』など、同様にドン詰まりに陥った成人済みの若者を描いたイギリス映画だ。もちろん何度も取り上げたブリットポップ=
「他にすることがないから踊って飲んで○○する、そうやってアッという間に燃え尽きていく連中の気持ちが君に分かるか?」と歌うパルプの「コモン・ピープル」も念頭にある。ロンドンで麻薬に溺れるロクデナシたちを描いた『トレインスポッティング』はともかく『キングスマン』は英国紳士道と殺人術を叩きこまれたハイクラス諜報員だったのではと思うかも知れないが、コリン・ファース演じるハイクラス暗殺者にスカウトされ、後半はキメキメのスーツで活躍する主人公もまた、父母の代までくたびれたスウェットで自堕落にテレビを観て暮らす社会的底辺の存在だった。90年代〜ゼロ年代、それらを観たり聴いたりしながら、このイギリスの無惨な光景は、いずれ日本の風景にもなるのだろうと思っていた。
それがとうとう来たか・この分野でも日本が世界に冠する・世界を牽引する・とは言わないまでも「下流仲間」としてソコソコの位置につける時代がついに来た(かも)という感慨を『ミルキー☆ハイウェイ』やラウンドワンの海外進出に抱いている。上手く説明できた気がしないけど、それが今回の日記(週記)の主旨となります。
* * *
価値は労働からしか生まれない・資本主義の利潤(儲け)はすべて労働者の労働からの搾取だというマルクスのテーゼは、少なくとも近頃は「それで必要十分」とは言えないのではないか・今では支出=消費活動も搾取者のかっこうのターゲットで、人々は消費をとおしても資本との(圧倒的に不利な)バトルを強いられているのではないか―
という話は今回は掘り下げそこねた。
社会の下層・底辺を描くことは、底辺に光をあて貧しい者を代弁(表象・リプレゼンテーション)する意味もある。けれど同時に、持たざる者を持てない階層に固定してしまう危険もあるのではないか。
オーウェン・ジョーンズの『
チャヴ』は、イギリスでチャヴと呼ばれる貧しく無力な人たちを描いたコンテンツが、彼ら彼女らに「貧しくなるのも自業自得・愚かで自堕落な連中」というレッテルを押しつけ、格差の固定化・さらなる拡大に与してきたと怒りをもって告発している。それは世界システムとしての資本主義が、女性や発展途上国の人々に無能のレッテルを貼りつけることで搾取を正当化してきたという
ウォーラーステインの告発(
昨年4月の日記参照)と相似のように、僕には見える。
貧しい者も富める者と同じ尺度を押しつけられ、自分には無縁でも良かったプラダやらシャネルやらを、わざわざ仰ぎ見せられる。それは見ため青々とした芝生が他の生態系を破壊する「緑の砂漠」と呼ばれるような、きらびやかな地獄を思わせる。
『ミルキー☆サブウェイ』はテンポの良さと台詞はこびの良さで視聴者をギャハハと笑わせながら、「格差」や「底辺労働者への差別」「構造的不正義」「経済的徴兵制」といったシビアな概念を想起させずにはおかないダークな世界観を、しだいに明白にしつつある。
このまま物語が世界の構造的な不正をえげつなく広げきって視聴者の心に深く問題意識を刻むのか、一人ひとりはチャーミングきわまりない主人公たちが仲良く助けあい(大きな問題は何も解決しないまま)局所的ハッピーエンドに満足して終わるのか、あるいは救いのない悲惨な結末まで「ウケる」「不憫萌え」と嗤われて終わるのか、数週間後の未来さえ今の僕には覚束ない。もちろん作者が企図した展開にもよるが、作者の匙加減ひとつとも言いきれない。
大ヒットした『シムシティ』は都市を設計しパラメータを操作するゲームだが、人口が増えると豊かさと引き換えに人々のストレスは溜まり環境も悪くなる。それを解消するには公園をつくって緑地を増やせばいいシステムになっていて、なのでゲームをプレイしたユーザーは「都市を上手く運営する方法?公園を作ればいいんだよ」と言うようになる。そういう思想で作られたゲームなのだと言う(
斎藤由多加『ハンバーガーを待つ3分間の値段』)
作者は作品にメッセージを込める。だが、どのようなメッセージを引き出すかは受け手しだいでもあるだろう。あまりに面白く、けれど陰鬱な『ミルキー☆ハイウェイ』から最終的に、皆様は何を引き出すのか。緑の砂漠をひっくり返すのか、それとも「よかった探し」のうちに格差を強化して終わるのか。またしても読んだことない別の小説の、たぶん有名な、今度は結語を引いて終わりといたします:
「この世界を覆う死の饗宴の中から(中略)
、そういうものの中からも、いつかは愛が生れ出てくるであろうか?」
救世主と論証〜イブン・ハルドゥーン『歴史序説』(前)(25.08.17)
伝承によればアレクサンダー大王が都アレクサンドリアを建設するにあたり怪物が邪魔をしたという。大王は自ら四方ガラス張りの木箱に入って単身・荒波の海に身を投じ、海底で目撃した恐ろしげな動物をスケッチすると浮上して、地上で絵にそっくりな金属像を作らせた。都の建設予定地に置かれた像を見て怪物は逃げ出し、都は完成にこぎつけた…10世紀の大旅行家・「アラブのヘロドトス」と異名をとるマスウーディが記しているそうな。
14世紀の
イブン・ハルドゥーンは300年前の先達の記述を一蹴する。都の建設を邪魔する怪物?それを容貌の恐ろしさだけで追い返す別の怪物?真っ先に彼が指摘するのは別のことだ。「
すでに一国を統べる王様で、わざわざ自分でそんなリスクを冒しに海底におもむく奴、いる?」支配者への追従と、より英雄らしくあってほしいという願望が逸話を作り、言われたことを鵜呑みにする信じやすさが伝承を流布させる。だがもし現実にそんな王様がいたら
「人々は彼が行なっている冒険から帰るのを、一瞬たりとも待ってはくれないであろう」。
もしかしたら(まして14世紀の知識の範囲で)居ないとは言いきれない怪物の有無ではなく、統治者なり人々なりの社会的な属性からウソを論証する。21世紀・ダラヤの街でアサド政権に抗した人々は、独裁者を賛美する虚言の猛攻に抗する手がかりを700年前の本に求めたのかも知れない。
* * *
…笑い話で「つかむ」はずが、ずいぶん真面目になってしまった。やはり自分は文章があまり上手くはないのだよなあ。マンガのほうが(絵はともかく話運びは)ずっと上手かった気がする。

あるいはこういう導入のが良かったかも知れない:岩波文庫から四分冊で出ている
イブン・ハルドゥーン『歴史序説』は、それ自体は歴史の本ではなかった。さらに長大な『歴史』を説くにあたり前提として共有しておきたい地理の話・政治の話・経済の・宗教の・思想の・学問の・詩歌の話・ものごとの考えかたetc…14世紀当時の中東から見渡した「人の世界まるごと」を封じこめた真空パック・14世紀エンサイクロペディア・「読む民博」・読書というより体験・本というタイムトリップ…まあいいや。
もちろん今リアルタイムで学校に通ってるひとでもいいけれど、学校を出て久しい大人や中高年が毎日少しずつ読んで「夏休み(休みじゃないけど)の課題図書」「大人の夏季講習」にするのに相応しい四冊だと思います。そんなふうに思ったのはミシェル・フーコーの講義録(
17年8月の日記参照)に取り組んで以来かも。大人の夏の自由工作=創作に取り組む余裕のないひとでも(自分の話じゃない。SNSでそういう人の嘆きを見かけて、つらい気持ちになっている)まだ本は読めるかも知れないから。
とまれ一読して、14世紀の中東に本をとおして「短期留学」してみて分かるのは、この時点で人間の理性的とか合理的な考え方は(先週の日記でとりあげた今どきの流行り言葉でいえば「上澄み」の人たちの間でだけかも知れないが)おおむね完成されていたということだ。
より現代とかけ離れた叡知の世界を垣間見たい向きには残念かも知れないが、イブン・ハルドゥーンが活写する「イスラームから見た世界」は一方では古代ギリシャ・ローマの科学や哲学=プトレマイオスやアリストテレスを継承し、一方では同じ経典の民としてユダヤ教やキリスト教の系譜にも通じた、けれど唯一神アッラーの教えのもとにそれらを再構成した、(赤の他人ではなく)ヨーロッパ近代のイトコ=オルタナティブか「先達ではあるが一族にとってはやや異端な叔父さん」と位置づけてよさそうだ。
その「先達」ぶりは、たとえば互いに異なる要望をもつ人々の争いの調停者として社会は王権を必要とするのだという(アナキスト志望者は多少落胆させられる)認識がホッブズ『リバイアサン』の先駆のようだとか、
王権の成立は彼を支持する人々(一族)の連帯意識と、イスラームの法に則った正義(大義名分)のどちらが欠けても不可能だという見解が、アリストテレスの「形相と質料」論の政治への応用っぽいのと同時に、後のマキァヴェッリ『君主論』のフォルトゥナ(英語でいうfortune)とヴィルトゥ(virtue)に通じるものがあるとか、
そうして確立された王権も最初に地位を獲得した気概のみが貴族的と言えるのであって、すでに確立された地位を誇るだけの末代は貴族とは呼べないというシビアな断定が、14世紀の時点で既にアンチ保守で、20世紀のオルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』と一緒じゃないかと驚いたり(
16年11月の日記参照)
所得は人間の労働が生み出した価値であって、地中から掘り出された金銀などを富の源泉と考えるのは間違いだという経済哲学は500年後のマルクスの先駆じゃんとか

さらにはイスラームの中でもスーフィーと呼ばれる神秘思想が岡目には後のスピノザの汎神論を予告しているように思えたり、
科学の発展やテクノロジーの進歩を抜きにしたら、この時代(14世紀)すでに社会思想としては大体のネタは出揃った・人間社会は完成された状態にあったのではないか、そんな風に思わされてしまうのだ。どうかすると科学的な認識すら「地球は丸い」という14世紀当時の理解が21世紀の最強国(の一部)(でも政治的に声が大きい)で「いーや世界は平ら」と逆行すらしてるらしいと言われた日には…
* * *
一方、これはイスラーム文化の独自要素かもと思えるのは伝承の真偽(を問う学問)へのウェイトの置きようだ。
周知のとおりイスラームではマホメットが神から直接受けた啓示を書き取った『コーラン』が絶対的な正しさの源泉となるわけだが(次回あたりで述べるように、科学やら何やらが発達しても「コーランのほうが重要」という強烈な割り切りがある)長年に亘る執筆によって同じコーランの中でも矛盾する箇所・マホメットによって取り消された箇所や改定された箇所があって、その真偽を問うことが学問で重要な意味をもつ。そのためコーランや経典(スンナ)を誰が伝承し、それをさらに誰が伝承し…という系譜学と、それぞれの伝承者への評価が学問の大きな比重を占めるらしい。
そうしたイスラーム文化独自の要素を感じさせ、なおかつ不謹慎ながら部外者には可笑しかったのが「マフディー」にまつわる一連だった。
マフディー(救世主)待望論は中東の歴史で脈々とつづいてきたようで、実際にマフディーを名乗るリーダーが現れたり政治運動が起こったり(19世紀スーダンで起きた反英独立運動が高校で習うレベルに有名)、あるいはキリスト教のイエスがマフディーと同一視されたりするらしい。
ところがこの救世主伝説を判定するにあたっても「誰がどういうルートで伝承しているか」が問われる。でもって、その言い回しが容赦ない。いわく
「彼は信頼するに足りるが、伝承については多くの誤りを犯している」
「彼の伝承は未知なるものを含んでいる」
「彼の伝承には混乱が見られる」
「彼は信頼に足るが、著者としては望ましくない」
「彼はその伝承について好意をもって知られていない」
「誰も彼の伝承を無視しないが、私は彼より別な人を好む」
「彼はコーランを読むことについては信頼性はあるが、伝承については完全には信頼できない。
彼は判断について過ちを犯しているが、誠実な人である。彼の伝承は妥当である」
このあたりはまだ優しいほうで
「彼の伝承は妥当であるが、彼にはシーア派的偏見がある」
「彼は信頼できる人であるが、シーア教徒である」
(↑スンナ派の意見)
「私は彼の粗末な独断論のゆえに、彼を典拠者として伝承を伝えることを断念した」
「われわれはいつも○○(人名)
を参照するが、適正でなく、彼を典拠者として伝承を書くことはなかった」
「私はいつも彼を参照するのであるが、かならず犬のように彼を見捨てたものだ」
「彼の記憶については仔細があった」
「記憶力が劣っていたということ以外彼は申し分なかった」
「△△
という名の人はだれも記憶が悪い」
「記憶力の悪くない△△
という名の人をかつて見たことがない」
別の箇所でハルドゥーン自身
「私に言わせれば「ないとは言いきれまい」事実は、それが明白であるとか、そのように理解されねばならないとかいった積極性に欠ける」
と書いていて、こと悪口の技術に関しては14世紀の時点で既に洗練の域に達していたことが伺える。ちょっとイギリス人とか世に言われる京都人の技術と洗練を思い出して(←偏見)(信頼できない)(そのように理解されねばならないとかいった積極性に欠ける)いや話が神に関わるので、余計に厳密なのだろうけど。
その(当時流布していた)マフディー伝説によれば、救世主マフディーは出現後
「五かあるいは七か九(年)
生き続けるであろう」と言われ(
「数字が増えているのは疑わしい」(笑))
「お金を勘定もせずにばらまいてしまうようなカリフが現れるであろう」
「ある者が立ち上がって『おおマフディーよ、私に少しばかりください』と言うと、彼は『どうぞ取りなさいと答えるであろう』」
「ある人がマフディーのところにやって来て、彼に『おおマフディーよ、私に少しばかりお恵みを』と言うであろう。するとマフディーは上衣に持てるだけ入れてやるであろう」
ハルドゥーン先生、歴史学者として厳密だから言う人が違えば同じ話を何度でもするのである。
別の伝承は言う。
「マフディーは不正に満ちていた地上を正義で満たす人である。家畜は野獣の危険なく、大地はその内蔵する宝物を放出するであろう」
「大地に内蔵する宝物とは何ですか。」
「金や銀の延棒みたいなものだ」
なんかマフディー、来てほしい救世主ナンバーワンだなあと嬉しくなってしまい長々と引用してしまったが(しかしその治世は長くて九年しか続かないのである)「所得の源泉は畢竟ひとびとの労働であり、発掘される金銀など本質的でない」と看破していたハルドゥーン先生が、この「金や銀の延棒」伝承をどう思っていたかは詳らかではない。
イブン・ハルドゥーンが指摘するのは「そんな救世主が仮に出現するとして、どこかにポッと現れて、たちまち世界を制覇できると思うか」という点だ。 先にマキァヴェッリの名を出して伏線を張っていたように、誰かが人々を糾合し王の地位まで昇りつめるには当人の正当性(ヴィルトゥ)だけでなく確固たる連帯意識で結ばれた支持層=部族が必要だというのがハルドゥーンの歴史観で、14世紀の千々に乱れた政治状況でマフディーをカリフの地位まで押し上げる後ろ盾がどこにいる?ファーティマ家、ターリブ家、クライシュ族の連帯意識なんてもう何処にも存在しないやん、ハサン家やジャアファル家の残存勢力?せいぜい数千人しか動員できないじゃん?まして(人々が信じるように)
「イフリーキヤのザーブやマグリブのスースなどのようにさい果ての土地や文化果つるところに」マフディーが出現して、どうやって世界を救う運動を巻き起こせるの?と容赦ないのである。

この(実は冒頭のアレクサンダー大王の話とも呼応していたわけですが)「社会的にありえない」という粉砕に比べれば、当初マフディーは最初683年(イスラム歴。西暦だと1284年)に出現すると言われたが現れなかったので683年は生れる年で世に現れるのは710年頃だetcと出現しないたび「実は○○年」と後延べされる時点でもう信用できない、などの記述はダメ押しの類いだろう。
けれど人類はこのレベルのウソに21世紀になっても引っかり続けている。自分だって潔白とはいえない。なぜ自分は(人々は)嬉々としてウソに飛びついちゃうんだろうと省みる時、14世紀の書物がけっして「近代文明を知らない迷信の遺物」で片づけられないこともある。
今週のまとめ:14世紀の理性的な判断は21世紀の吾々が理性的でない時より、よっぽど理性的だった。
そうした実証主義・理性的な社会観と、アッラーこそ唯一神なりという信仰は14世紀の碩学のなかで、どう共存可能だったのか、それは来週。女性抑圧とか自爆テロとか(もしかしたら超然と理想を唱えるハルドゥーンの思想にも内包されてるかも知れない)現実の運用で起きている問題は、また別の話。
*** *** ***
(25.08.18追記)科学やテクノロジーを除けば、14世紀にもう社会的には人類は概ねのネタを出し尽くしていたのではないか…と書いたけれど、ひとつだけ例外がある。それは
平等という発想だ。人種や性別にかかわらず、人々はみな平等で対等だという思想は、過去のどんなに洗練され完成された社会制度でも望めなかった、近現代の吾々だけが持つ、譲れないアドバンテージに違いない。
しかし同時にそれは「私とあいつは平等なんだから、あいつが勝手に貧しくなってるのを対等な私が救ってやる謂われはない」という自己責任論ともまた表裏一体ではないだろうか。なんてことを一回場所をつくって書くかも知れないし、これでもう十分と思って書かないかも知れません。
アッバース朝の将軍が地方総督の息子に送る手紙〜イブン・ハルドゥーン『歴史序説』(後)(25.08.24)
いい機会なので前から気になってもいたハラル認証のラーメン屋に入ってみた。池袋。鶏白湯のスープはあっさり目で一緒に入った鶏ひき肉から濃い旨味がジュワっと。サイドメニューのミニ丼はカオマンガイで、ムスリムでも東南・南アジア系なのかも。

メニューに「チャーシュー麺」とあり、いやいやハラル認証でチャーシュー(豚)はどうなのよと不安になったが、よくよく見るとチャーシューも鶏らしく(ふつうの鶏白湯ラーメンにも二枚ほど乗っていた)英語だと
Roasted chicken filletでひと安心。とゆうか自分、世の中を信用しなさすぎであった。
神は万事を支配し給う。
*** *** ***
話の一区切りごとに
「神は万事を支配し給う」とか
「神はあらゆるものを所有し給う」「神がひとたび断を下せば、もはや何びともそれを変えることはできない」等々の警句が入る
イブン・ハルドゥーンの文体に思わず引っぱられつつ文庫にして全四巻の『
歴史序説』を読了。いやー面白かった。
ただし読了のタイミングで告白すると、読みだす前に予断で書いていた
「定住民は遊牧民に敗北する史観でしたっけ。違ったかも知れません」(
先月の小ネタ拾遺参照)
はい、全然違いました。自分、予断でモノを言いすぎである。
実際のイブン・ハルドゥーンの歴史観は「勢力(権力や国家)は遊牧世界(田舎)から生じるが、生じた権力や国家は都市を生み、都市は豊かさと引き換えに創立時の勢いを失ない没落する(そしてまた田舎から生じた新たな勢力に取って替わられる)」というもので、イスラム社会においては創立時の「勢い」にアッラーへの信仰も含まれる以上、それ以外・それ以後に都市で生み出された文明も文化も「なければないでいい」奢侈に過ぎないというものだった。
先週も延べたとおり本書は14世紀の中東から見える人の世の総カタログで、ハルドゥーン自身が最終的に「これは無益」と判定する砂占いや錬金術まで(無益でも歴史を把握するため必要な前提と思ったか)懇切丁寧に解説が加えられているが、逆にいえば著者が奉じる価値観においては、当初の信仰(コーランや初期のスンナ)以外は哲学や語学・文芸や科学、なんなら医学まで「究極なければないでいいもの」「田舎では必要ないもの」とされてしまう。
このことは、たとえば科学で得られる成果がイスラーム法=神の教えと一致しているなら神の教えがあれば十分・一致しないなら誤りということで、近代ヨーロッパの科学技術に追い越されイスラーム帝国が没落した一因ではと考える余地はあるけれど今回の日記(週記)では深入りはしません。
自分の関心領域で考えさせられてしまったのは、思考思索の問題だ。
自分が思ったことを上手く言語化しきれないという個人的な事情から、世の哲学や思想には語れない盲点があって・逆にその盲点こそが重要なのに語り落としてきたこと・が・現代の政治腐敗や虐殺や環境破壊の一因ではないかとか、果ては量子力学や不確定性理論などで人類は世界を完全に把握することすら不可能だと証明されてしまっているではないか的なレベルまで「人間の世界把握や表現の限界」は折りにふれ考えずにいられない研究(?)テーマのひとつだ。
だがイブン・ハルドゥーンは信仰の見地から、それが当然だ・それが人間というものだと断言する。
彼に言わせれば人間の五感や理性は当然のように世界の一部しか把握できないもので、天使の理性(天使が把握できる世界)は人間のそれより広く、神の理性(把握できる世界)はさらに広い(というか神だけが、すべてを正しく認識・把握している)。だから、マホメットを引用して彼は言う。
「原因についてあれこれ探索したり、心を留めたりすること(中略)
は、思考の泉が涸れ、どこへもたどりつけず、いかなる真実を掴みえない涸河のようなものである。
〈きっぱり言ってやれ、「アッラーだよ」と。それから後はいくらでも勝手な議論にふけらせておけ〉」
(〈〉内がマホメット=コーランからの引用)
いちおう改めて断っておくと、自分はどこまでも人間の五感や理性の範囲内でどうにかしたい・(創作の神様以外への)信仰のない人間だ。アルコールやドラッグで酩酊=精神を変調させることすら拒絶しているきらいがある(アルコールは身体が受けつけないし、ドラッグは法的に禁じられているのだけど)。それでもなお、人間の枠内に留まっていては認識できないスッキリした道理がある可能性は、余地として確保しておきたいのかも知れない。
今週のまとめ:
世界地理から錬金術まで、14世紀の最インテリに把握できる人の世のすべてを網羅し全四巻(文庫)の書物で語り尽くしたイブン・ハルドゥーンはしかし、それらはほとんど都市の豊かさが生み出した奢侈で、砂漠の遊牧民の中で素朴に生まれたマホメットの=アッラーの教え以外は「なくてもいい」ものだと捉えているようだ。
自分はその信仰に入ることはできないけれど「不完全な人の世・限界ある人の世界認識よりも広い、天使や神の認識領域がある」という彼の説諭には、心を動かされないでもない。
ちなみに著者が描く「人間<天使<神」の構図は、読みながら何げに気になっていた:先週の日記で取り上げたアレクサンダー大王や救世主マフディーの伝説を理知的に斥ける合理性と、(全世界の創造主でありながら歴史の途中で突然マホメットの前に現れた唯一神)アッラーへの信仰を、著者はどう両立させているのだろう?という個人的な疑問への、一応の納得にもなった。
もっとも、コレって何度も何度も取り上げてるジンメルの警句
「私たちは、自分が理解もせず理解も出来ぬもの−因果律、公理、神、性格など−に物を還元した時、初めて物を本当に理解したと感じる」(『愛の断想・日々の断想』岩波文庫)の「そう(神)だよ?何か問題が?」という裏返しでもある。
* * *
アッバース朝トルコ(西暦750〜1258年)の将軍
ターヒル・ブン=アルフサインが地方総督に着任した息子へ送った手紙は、当時のカリフに
「現世に関すること、宗教や行政、ものの見方、政治、国土や人民の改善、政権の保持、カリフへの服従、カリフ帝国の維持などに関して、何一つとして省いていない」と絶賛され、紹介したハルドゥーンも
「この種の政治を扱ったものでは最高のもの」とお墨付きを与える名文だ。じっさい現代の『エグゼクティブの父が新入社員の息子に送る手紙』みたいなビジネス書にしれっと混ぜたら「この手の本ではダントツ」と売れるんじゃないかなあ。岩波文庫だと二巻目で十数ページを占める抜粋は『歴史序説』ぜんたいの中でも白眉のひとつに数えてよい箇所だと思う。いわく
・近しい人も疎遠な人も正義に則って評価せよ。部下を信頼し、ただし監督は怠らず、むしろ彼らに必要なものに配慮し保護することをお前のもっとも重要な任務と考えよ。
・為すべきことは断固として、力強く取りかかれ。ただし思いどおりに良好な結果が得られる確信がない場合は、発令を控えて洞察力と博識豊かな人々に相談せよ。
「お前を尊敬していながら、お前のうちに過ちを見出せば、内密にそれを知らそうとしたり(中略)
お前の注意を促すことを敢えてしようとする部下や親友をもっとも立派だと思え」激怒せず、自制せよ。
・貪欲に走るな。
「一度集められ、宝蔵に貯えられた財産は実を結ばないが、人民の福祉に授け、しかるべきところに人民が困窮しないように与え用いたならば、その財産は成長し、繁茂して、一般民衆は栄える」。老齢に達した人、貧窮者、災難を被った人々、寡婦や孤児に公庫から手当てを与えよ…
…けれど(抜粋してしまうと凄みが伝わらないかも知れない)この手紙の中で一番すげえと思ったのは、こうして喜捨や親切を心がけながら
「お前が恩恵をかけてやった臣下やその他の人のことを憶えておくな」
という一節だ。いや、善行は見返りを求めた途端に「腐る」のは事実で、言ってることは至極もっともだけど、なかなか他で聞かないでしょ、この思い切り。他でも言ってるよ、知ってたしという方は拍手なんかで御教示ください。初めて聞いたよというひとは憶えて帰りましょう
「お前が恩恵をかけてやった臣下やその他の人のことを憶えておくな」。
そして(ここからは将軍でもハルドゥーン先生でもなく、自分の飛躍した思いこみだが)己の善行はすぐに忘れろとキッパリ言えるのは「
お前の善行は神がちゃんと数えている」現世で見返りを得られずとも、天国にきちんと担保されていると思えればこそで、
人に宗教が必要な理由として、これ以上に立派なものはないかも知れない。
もちろん「情けは人のためならず」とか、長い目で見れば互いに助け合う戦略が有効なのだとかいう理論はある。けれど、それでは埋められないスキマや「そうして与えて社会全体が良くなったほうが理論的に最終的には自分にも利なのだとは分かるけど、世の中じっさいにはその報われる最終局面の前に皆が積み上げてた成果を自分(たち)のためだけに横取りする奴らが現れるじゃん、どうすんの?」みたいなのを考えると、そりゃー人間界の認識ではそうなるのが限界だけど、天使や神の領域では善行は善行・悪行は地獄行きで決まってる・神がいるなら
「アッラーだよ」の一言で済む。
「マホメットは「汝らのなかでもっとも弱い者の足並みについて行け」」と言われた」という。
もちろんコレはイスラム教という宗教・それを指針に人々に改宗を強いてきた帝国の(それでも)持つ最良の部分=「上澄み」で、現実の運用には悪辣なところも・その悪辣さゆえに人を従わせてきた部分もあるだろう。
けれどポール・ヴェーヌが
「マルクス主義やキリスト教に、あれほど強烈な魅力があったのは、来たるべき至福の千年を約束したからではありません。イエスズやマルクスが、庶民の幸福を望んでいたからです」と書いたのと(これもまた「上澄み」かも知れないけど至言だと思うのよ:
22年12月の日記参照)同じことがイスラム教にも言えて、かの宗教が世界でこうも受け容れられたのは、やはりかの宗教の神と預言者が「もっとも弱い者」への慈愛を説いていたからではないか、と様々な局面で考える必要があるだろう。
そして神を信じ(られ)ない者は、限界ある人間の言葉で同じ理想を。神ある者には
「アッラーだよ」の一手で済むことを、何手も何十手もかけ、根気づよく言語化し、説いていく必要がある。それが神を信じられない、人の世と物理的な世界しか信じない者の矜持だ。神を信じようが信じまいが、言語は真実を把握し語るためにあったはずだ。シュルレアリストの言語破壊でさえ、破壊を通して言語で真実を表現するための営みだった。真実を目指さなくても、フェイクでも一向に構わないと開き直る、お金とインプレッションを巻き上げるためのインチキな言語もどきをいつまでも弄んでいるんじゃないよ。
* * *
『歴史序説』岩波文庫版・第四巻の後半はまるまる当時の詩歌の紹介に充てられていて、もちろん元のアラビア語の脚韻など理解できなければ詩情も半減なのだろうけど―ちなみに当時すでに詩人が脚韻を踏める言葉を探せるよう(英語で言うtodayとstayとawayみたいな感じ)単語の後ろから引ける字引が作られていたそうな―詩集をベタで読むのは苦しくても(
詩集をベタで読むのは苦しい人の発言)、人が引用した詩句は不思議と馴染みやすく心に残りやすい的な事情が本書でもはたらくのだろうか、けっこう読んでて楽しい。具体的には
「汝に平安あれ 詩人には鳩の歌声も言葉もわかるのだ」とか
「満つる月 朝の太陽 砂丘の大樹 匂う麝香/何と全き 何と輝き 何と茂れる 何とかんばし/まさに一目見て 恋に落ち 恋を失えり」とか。

この写真は必要ないんだけど昨年7月に民博(国立民族学博物館)を訪ねたとき撮った万博公園・太陽の塔の後ろ姿。70年の万博はこの景色と民博を残したけど、今の万博は50年後の人たちに何を残すのかな。
その民博にアラビア書道の巨大な額が二つほど展示されており、その片方が

11世紀シチリア出身のアラブ詩人アブー・アルアラブ・アッシキッリーの詩の一節を書き描いた現代の制作者ハサン・マスウーディ(パリ在住)の2008年の作品だった。その詩の文句が
「土くれより創られし我が身なれば、そがありし何処も我が祖国にて、世の人すべて我が同胞なり」
というもので、これはなかなかの境地だなと感銘を受けたのだけれど
(ちなみにもう一つの作品は13世紀イランの詩人ジャーラールッディーン・ルーミーのペルシア語の詩をフランス語を経由してアラビア語に訳したもので
「もし愛にふるえる心をあなたに捧げることがないならば、心など何の役に立つだろうか?心など持っていて何になるだろうか?」というものでした)
この「世の人すべて同胞なり」という千年後の何たらファーストの連中に聞かせたい境地は、当時のコスモポリタニズム(何しろ中東で生まれたイスラム文化はシチリアにもスペインまでにも行き渡っていた)という地上的な社会観の反映だろうか。それとも結局すべては神に帰するという信仰が「すべて同胞」の基盤なのだろうか。なんてことを訪阪の翌年の今になって考えてます。
小ネタ拾遺・25年8月(25.08.31)
(25.08.01)Here Comes、いやHere Come八月。思いだせば悲しいことばかりの月だけど、生き抜くか。
・
七尾旅人 - 八月(YouTube/外部リンクが開きます)
(25.08.02)
「元祖油そば専門店」「給油しますか?」「油そばは健康食」「知る人ぞ知る東京名物」などなど思いつく限り並べ立てたような文言のド真ん中に
シレッと混入した私情(?)にお気づきだろうか…まさに油断大敵。早稲田は面白い街ですね。

看板だけ撮り逃げもどうかと思い入店。別に店内にサインがあるでも奈々様の曲が流れてるでもなく、中はふつうの油そばでした。つまりふつうに美味しかったってことよ。トッピングで青菜が選べればモアベターだったけどなあ(ビタミン不足を気にしてはいるらしい)
(25.08.04)想定外すぎる店名に「ええっ?えええええっ!?」横断歩道の反対側で思わず声を出して笑ってしまった。いや考えてみたら中華食堂が店の理念として和み(なごみ)や和(調和)を掲げることに何の問題もないのだが。そして
よく見ると横にローマ字で「KAZU」と読み仮名が振ってあったのだが。創業者のお名前かしら。

シリーズ・看板だけ撮り逃げでは申し訳ないので入ってみた。ご近所の人たちで(?)賑わう正統派の街中華でした。酢豚定食に「餃子えっと三つ」
「酢豚定食は餃子ふたつついてますよ」あ、そうなんですね。嬉しい890円。
(25.08.05)何を目にしてもエッチなものに見えてしまうのを「心が汚れている」とか言うけれど「元祖・
神保町焼…どんな食べ物だ今まで聞いたことないけど」と閉店後のショーウィンドウを覗きこみ「あ…うん…焼いてますね…」と落胆するのは何て言うんでしょう…

神保町、すぐ近くに誤解させるような名物があるのもいけない。いけなくない。むしろ今も健在みたいで大変よろしい。自分がお抹茶と一緒にいただいたの、かれこれ15年くらい前でした。
大丸やき茶房(神保町・お茶の水)(VISIT CHIYODA/外部リンクが開きます)
「動物由来やアルコール不使用の、ムスリムの方々も楽しめる和菓子セットもご用意」の文言もイケてて(いやまあハラル認証までは受けてないかも知れないが)、お隣の靖○神社とか大好きな人たちにお茶を煎じて飲ませたい。
(25.08.03)ガルブレイスの警句
「政治は、可能性に賭ける芸術ではない。悲惨なことと不快なこと、どちらを選ぶかの苦渋の選択だ」←これは森永卓郎さん(魂よ安かれ)の本でのヴァージョンなんだけど、他のひとの訳でも通常「芸術」とされてるらしい原語の「art」は「技術、技巧」の意味もあるのではと思っている。どちらにしても肝要なのは後半で(
だったら拘泥するなよ)今回ほど悲惨か不快しか選択がない選挙も、自分にとっては珍しかろうと感慨に浸りつつ、これから頑張って白票以外の票を投じて来ますよ。今日は横浜市長選。
※公職選挙法で投票日当日は特定の候補の応援はしていけない(
まあ今回したい候補なんていないのだけど)が悪口は言っていいらしいので書くと、とある候補の
「私は守るべき人を間違えない」というのも、間違う間違わない以前に守るべき「人」とそうでない「人」がいると認識してる時点で
アンタ間違ってないか?と感じたのでペケ。そもそも今どき(今世紀に入ってずっと?)のJ-POPが「君を守る」「君を守る」連呼するのが僕は気に障って仕方ないのだ。「僕は何も持ってないけど君のことを一生守る」(うろ覚え)とか、
どうやって守るんだよ。前々から思ってたけど「
君の推し活を嗤ったりしない」とか「
君が貯めこんだ薄い本も勝手に捨てないと誓うよ」くらい歌ってみせろよ(
いいからサッサと選挙権行使してこい)
(同日追記)投票してきました。今回の御褒美(自腹)は台湾スイーツの芋圓と豆花の盛り合わせ。参院選と同様、人気のVTuberとタイアップした投票証明書については(例によって)あーだったらこーだったら・あーでもないこーでもないとスプーンに天使を山ほど盛った揚げ句いったん判断を保留いたします。
(25.08.12)光沢のある漆黒の地にトゲのある赤いバラ、同じく血の色のように赤い
「わたしは差別に抗う I STAND AGAINST RACISM 日本人ファーストは差別の扇動です。私はこれに抗う。」の文言。前々からネットで目にした見かけたアートワークだけれど、ポスターとして現実の街頭に貼り出されてるのは初めて見た。
作風に好みはあるだろうけど(個人的にはもう少しマイルドなほうが好み)
「薔薇がなくちゃ生きていけない」とか
「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう」とか、もちろんデペッシュ・モードのアレとか(コレよ
コレ←外部リンクが開きます)とか、様々な美しいものがイモヅル式に連想されて良いデザインだと思う。バオバブや羊や気候変動に脅かされて今にも倒れそうな、小さな星の小さなバラとか。
(25.08.10)いま読んでるのが700年前のアラビア人が書いた歴史の本(ただしメチャメチャ面白い)で「もしかしなくても自分、そうとう浮世離れというか世間とズレてる部類なのでは」と流石に自覚して慄いてる自分ゆえ「もしかしなくても
世間的には2021年の東京オリンピックは大成功だったし今の大阪万博も大成功中という認識なのでは」とも気づいてしまい慄きを上塗りしている。半年以上更新できてないWeb拍手のアンケート機能で「今の万博は成功失敗・どっちだと認識してます?」と訊いてみたい気もするけど、
訊いて誰を幸福にもしない気がするし訊くのが怖い。浮世離れは浮世離れなりに「岡目八目」てこともあると思うんだけどなあ。アンケはそのうち「このサイトの文字、小さすぎですか?」みたいなので更新予定です。
(25.08.18)ギー・ドゥボールが40年近く前に書いていた「スペクタクルの社会(≒現代のイメージ戦略社会…くらいの意味)では
問題を隠蔽する必要すらない。『そんな騒ぐことじゃない』と言うだけで人々は目前の危機を見過ごしてくれる」という主旨の一節を久しぶりに読み返して、こうも的確に「えぐる」ことは中々言えないわなと感心している。気候変動、コロナの新株、交通が途絶した万博会場に取り残され一夜を過ごした数千の人々。
(25.08.22)数日前「数千人」規模(それでも大不祥事じゃん)と思ってた、電車が停まって万博会場に取り残されたひと、実際は十倍オーダーの万人単位だったと判明:
・
deftones - locked club [visualizer](YouTube/外部リンクが開きます)
いやコレは「その晩のイメージ映像」じゃなくて、
たまたま今日公開されたデフトーンズの販促ビデオなんだけど(ピッタリすぎてもう)…ヤダよこんな想像以上。
本当の記事→
【速報】帰宅困難者の詳細が判明 万博会場には夜9時半時点で4万9000人いた!夜の間に2万人が”何らかの方法”で帰宅…(以下略)(MBS/Yahoo!ニュース/25.08.22/外部リンクが開きます)
(25.08.14/すぐ消すが/
「焔は消えても痛みは残る」)この唄を、
「日本じゅう望みをあからさまにして 日本じゅう傷つき挫けた日がある」というフレーズを、ずっと8月15日に貼りたかった←実は二年前から合法的に貼れたんだけど気づいてなかった。
「あたし男に生まれればよかったわ だって力づくで男の思うままにならずに済んだかも知れないだけ あたし男に生まれればよかったわ」と歌う「
ファイト」の都合のいいとこだけ切り抜いて働く「男」応援歌みたいなCMに仕立てられても怒らない人たち(みゆきさん本人まで出てたし)には通じないかも知れないけどね。
・
中島みゆき - ショウ・タイム(YouTube/外部リンクが開きます)
当日はサイト更新してる余裕ないかも知れないので前夜のうちに。ちなみに
「焔は消えても痛みは残る」は(みゆきさんではなく)こちらの引用。同じ戦争で父親を亡くした少年の歌、ついでに喰らっとけ。
・
Pink Floyd - GoodBye Blue Sky(同上)
(25.08.15追記)「ショウタイム」は1985年の歌だから
「日本じゅう望みをあからさまにして 日本じゅう傷つき挫けた日がある」は間違いなく先の戦争のことなんだけど、90年代以降に聴くと「これって敗戦のこと?それともバブル崩壊のこと?」と迷わされる…て話は前にもした気がする。
いま読んでる14世紀アラブの思想家イブン・ハルドゥーンはモーセ率いるユダヤの民がシナイ半島をさすらった「40年」とは(モーセの言うことなんか聞けるか俺たちはエジプトに帰りたいんだという世代から・物心ついた頃からモーセの指導が当たり前でしぜんと受け容れてる世代へと)世代がひとつ交替する≒前の時代を忘れる?期間を表していると書いていて、いいタイミングでちょっと考えさせられた。
今年で戦後80年ということは思い上がった戦争で挫けて40年、今度はバブルの鼻先をへし折られて(バブル崩壊は92年と言われてるから多少の誤差はあるけど)また40年。この列島の人たちは懲りずに三たび傲慢な思い上がりの絶頂に達しているように見えて仕方がない。しかも今回は軍事力も経済力も、何の担保もない空っぽな思い上がりに思えて仕方ないのだが。
What d'you say?
(25.08.16)個人レベルではもっと厳しかった時期もあったと思うけど、世相というレベルでは今年の夏が一番ドン底・どん詰まり感が強い(実際には来夏・来々夏とさらにさらに酷くなるんだろうけど)。ヒグマは出るし。10年前の夏だって酷かったと言えば酷かったけど、金曜の夜に国会議事堂の前で安保法制反対を叫んだあと、電車で横浜に取って返して『マッドマックス怒りのデスロード』ギリギリ間に合うかとブルク13(映画館)に駆け込んだら上映時間には間に合ったけど満席でチクショー!となったのなど(前にも観てて二回目を逃したという話)「あの頃はまだ佳かった」としか思えない。今はもう外に立つにも暑すぎる。この時季になお反戦や差別反対などで街頭に立ってる人たちには敬意しかない。
(同日追記)あ、うん、今の世相に物申せばキリがないので連投してしまいましたが(SNSをやめてて佳かった…きっと憤懣の自家中毒になっていただろう)明日からはまた犬のDJに戻ります。歯医者の看板写真ならいくらでもあるんだ←また奥歯かよっ
御静聴ありがとう。
(25.08.13)表に出さないだけで相変わらず歯医者の奥歯ディスプレイを収集しているのですが、最近みかけた物件は単に抽象度が高くて涼しげなデザインねと思ったら、奥歯の上部にあたる部分がハート型で、横には英語で
「Love & Teeth」駄洒落か!(大喜び)

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SUPER JUNKY MONKEY - Love & Peace Hard Core (Live)(YouTube/外部リンクが開きます)
(25.08.09)
実は今期はウルトラマンも観ている。なんだろう特撮、大人向けドラマには不足しがちな?直球の倫理観・正義感があって「侵略者の常套手段はターゲットにした星の住民同士に不和の種を蒔き、争いで自滅するのを高見の見物で愉しむこと」←「その手に乗るか吾々人類は互いの違いも認めあって、思い通りにはならないぞ!」とか「人々の悲鳴から得られる燃料ギャーソリン(←このあたりはお子様向け)ククク地球には沢山あって最高だな…」←「だったら吾々ヒーローが皆の悲鳴を停めてやる、むしろ皆の声援でヒーローがパワーをもらうぜ!」とかとか、観てて人類としての初心に帰るんですわ。
前作『ウルトラマンアーク』たまたま最後の二話くらいだけ観て、マンに変身する高校生みたいな(設定23歳でした)主人公・をサポートする科特隊的&こちらも高校の学級委員みたいな(25歳でした)マジメ眼鏡くんの「
僕が君を守ります(科学的に)」な立ち位置に
著しいBLの波動を感じてしまって(怒られろ)(人類の初心どこ行った)
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ウルトラマンアーク - キャラクター(テレ東公式/外部リンクが開きます)
いい機会なんで新作『オメガ』は第一話から追ってるのですが
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ウルトラマンオメガ - キャラクター(同上)
こっちはこっちで主人公ふたりに、いやそういう関係になれとか二次創作的なこと何にもなしにバディしてる現状だけで何だか十分おなかいっぱいだよ
(違うんです)(本当に怒られろ)。
記憶を失なった状態で地球に落ちてきて、人間(仮の姿)らしい振る舞いも、ヒーロー(マン)としての属性や使命も徐々に身につけ回復してゆく主人公「変身ヤダ。おなかへるんだもん」トボけた味わいがあっていいです+たぶん過去作で積み上げられてるだろうマン(メン)や怪獣の系譜とか気にせず、登場人物たちと同じ速度で少しずつ明らかになる世界観を知れるのがいい。あと自分なんかには『太陽にほえろ』ロッキー刑事役な木之元亮さん、ウルトラ界隈では過去作で科特隊のキャップを務めたりその後も度々ゲスト出演したりで独自にレジェンド的存在なんですね。そういう機微が今ごろ知れるのも面白い。いや世の中「あの人は今w」←「なに言ってんの全然活躍中だよ」という人は沢山いらっしゃるのでしょう。音楽なんかでもそう。
(25.08.21)『魔女の宅急便』原作で知られる角野栄子氏には『スパゲッティが食べたいよう』という童話もあって、レストランに住みついて皆のゴチソウをチョロまかしていたオバケが女の子のスパゲッティを奪おうとして逆にやりこめられ→諭されて初めて自分で料理(スパゲッティ)する喜びを知るみたいな話なんだけど、彼(オバケ)の流儀はそれぞれのメニューの一番おいしい部分をサッと横取りすることで、曰く
「コーヒーなら最初の一口。海老フライならカリカリした尻尾」。まだコーヒーのほうは分からなかった子ども時分にそう読んで以来、自分の中では海老天の尻尾も、フライのそれに準じる格付けだという話を無性にしておきたくなった。おやすみなさい。※もちろんゴツすぎて食べれないタイプの尻尾は除く。
・
第8話「海老天の尻尾」│アニメ『銀河特急 ミルキー☆サブウェイ』本編(YouTube/外部リンクが開きます)
(25.08.20)
今年の三月に「機会があれば…」とスルーして半年。ようやく「
たぬきは飲み物。」(池袋)に入ってみました。先行の姉妹店「なぜ蕎麦にラー油を入れるのか」と同じく歯ごたえのある太蕎麦に実は甘味の強いおつゆ、ラー蕎麦と(あ、三月には「温麺かも」などと推測してましたがコチラも冷蕎麦でした)どう差をつけていくのかと天地を返すように混ぜてすすりこむと…あ!ラー油じゃなくてワサビが効いてる!新しい!(
いや蕎麦としてはそっちが本道)。ぶつ切りの白ネギに衣をまとわせた豪勢な自称「揚げ玉(無料)」に、え?固ゆでの卵黄だけ?(卵白どうしたの)と化かされたのはクチナシか何かで黄色く着色したウズラの茹で玉子。そして信楽焼のタヌキを模した器のコダワリ感。

基本のタヌキそば790円に玉丼をセットして990円、この玉丼もかき揚げ風に衣をつけた玉子の天ぷら丼で中の黄身はとろんと半熟。どこまでも他と同じにはしない気概や佳し。半年よりは早くリピートすると思うので(けっこう気に入ったとはいえ池袋は他に外食の誘惑が多すぎる…)ドロンしないでほしい処。
(25.08.17)新型コロナの増加傾向などを鑑み(参考:
神奈川県衛生研究所←外部リンクが開きます)久しぶりに鼻うがい薬の詰替分を買ってくる。知ってました?実はこの洗浄液、流行りだした当初は「片方の鼻の穴から流しこんで反対の鼻の穴からピューと出します」だったのが今は少し仕様が変わって「鼻穴から流し込んで口から出してください」と
ハイスペック化。いや、ハイスペックを要求されてるのは使う私らのほうなんですけど。

そのとおりやると口下から胸元までビショビショになるので、仕様変更後は主に入浴時に鼻洗浄しています。全裸で鼻の穴に流し込み用ボトルをつっこみ、口から液体がダラー。
公安警察や願いをかなえる魔神などに一番踏みこまれたくない場面かも知れません。
(25.08.23)街なかに避けがたく林立する電気関連のボックスを、台北でキャンバスに見立てて美麗な絵で飾ったりしてるのが(四つ辻のは交通安全の啓発イラストになっている)まあコントロール社会の一端でもあるんだろうけど何しろ眼福で好きだったのだけど、行政の許可関連で簡単にそうもペイントとか施せないっぽい日本で(観光客向けのウォーキング案内板みたいになってる処も見るには見たな)しょうがないからソレっぽい和風の衝立で隠しているのも、これはこれで「らしい」美と諧謔(ペーソス?)で愛おしくなってしまった。隣にある消防団の車庫まで、大きな衝立で隠している。細い歩道を隔てて対面に、同系統の意匠で装った割烹のお店。

双方の比較文化論・制度論・社会論まで話を広げるつもりはない(それには資料が少なすぎる)。
【就任の御挨拶】立ち寄ったケバブ屋で
「社長!ソースは甘いの、辛いの?」と訊かれたので、いつの間にか社長になっていたようです。そんな日本語おぼえなくていいのに…と思いながらも、知ったからには
今日から社長です。よしなに。
(25.08.24)
就任後の初業務としてケバブサンドを食す日曜の昼。ちなみにソースは辛口、社長ですから。
(25.08.24)
スリランカ人ナヴィーンさんとなおみ夫妻の高裁裁判を支援し-ナヴィーンさんに在留特別許可を求める署名とカンパのお願い(change.org/外部リンクが開きます)に賛同しました。
「裁判の判決は8月26日と迫っていますが、判決日を過ぎても、できるだけ多くの方のご賛同を、集めたいと思います」とのことで取り急ぎ拡散のお手伝い。裁判費用等の支援(カンパ)も受付中。
※08.31までサイトのトップで掲示。よくあることなんだけど〆切(8/24)の翌日とつぜん署名数が十倍になり、んー、ここまでの規模はないにしても本当によくあることで、目標額を達成しないと不成立のクラウドファンディングで成立が決まったとたん参加者が増えるとか。自分の意思表明が事態を動かしてしまう責任への恐れ・
以外の要因が他にあると信じてはいますが、まあ「なぜもっと早く」とかは当事者以外が無責任に言うことではない。
(25.08.25)勝手に「ガチ台湾」と呼んでるヨコハマ伊勢佐木、シネマ・ジャックアンドベティがある通りの食堂。これまでセットメニューの雲呑スープと魯肉飯ばかり食べてきたけどメニューに排骨飯があるのに気づいて挑戦。メインは揚げた排骨だけど、ごはんに魯肉と高菜・茹で青菜が乗った(煮玉子も)嬉しい現地スタイル。店舗の年季の入りかたから自分が気づかなかっただけで相当むかしからあった食堂なんだけど、こうして本場そのものの食事ができて、おまけにコレだけ暑いと「もう台湾に行く必要ねぇな」
とは思わないし逆に旅情は募るけど、んー、あるいは街インドもガチネパールも通りに林立し・
そしてこんなに暑い今「
日本印度化計画」(
昔そういう歌があった)もまた完遂とは言わないまでも順調に着実に達成中と言えなくはないだろうか。

ちなみに同店、台湾菜がメインだけど東北(中国のほう)らしい串焼きも供していてホルモン串を一緒に注文。スパイシーな香草に味噌っぽい味つけも加わって美味しかった。串がアルコールに合うのでしょう、さいきん伊勢佐木町は「東北」「大東北」を名乗るお店が増えてきたかも。近くには新規開店のインドネシア食堂も発見、さいきん池袋や西早稲田周辺に心を奪われがちだけど地元ヨコハマも味わっていきたい。
(25.08.28)XでJICAが大炎上中で、ポストの桁数だけで「あ、これは流れに乗らないほうがいいやつ」と分かる数十万オーダー、ちょっとだけ覗いたら「あ、これは完全に逆らいたい流れ」と思ったのでJICAの話。横浜・みなとみらいに一般にも開放してる社食みたいなイメージのJICAの食堂があるのは何度もした話。ここの週代わりで供されている世界各地の料理と、近年の松屋が力を入れてる期間限定エスニック・メニューは廉価で世界気分を味わえるので、よく釣られているのだけど、かなりの確率で感銘を受けるのは「
いかにトマトという食材が世界の食のランドスケープを一新したか」なんですわ個人的に。
たとえばコレは来週のメニュー:
Port Terrace Cafe・9/1〜9/7のメニュー(外部リンクがPDFで開きます)
世界中の人たちが「これ、私らの郷土食」と満面の笑みで出してくる料理が、いわゆる「新」大陸起源の酸味とコクをベースにしている面白さ。その席捲ぶり、同じ「新大陸」原産の唐辛子に匹敵するのでは。それを言ったら、あージャガイモもか。タピオカもか。『トマトの世界史』または『新大陸がもたらした食物史』みたいな本があれば(たぶんあるでしょう)読んでみたい気がする。
(25.08.29)仕事のある平日は昼食いつも自分でお弁当を用意してる(エヘン)と言いながら、用意したお弁当を自宅に置き忘れて始まった8月(
先月の小ネタ拾遺最後のほう参照)。その後はお弁当を用意し持参しつづけつつ〆日の今日は目覚ましが鳴っても目が醒めなくて朝食しか作れず、月初と月末だけコンビニ昼食とキレイに決まりました?

でも逆に毎日ランチがコレで良ければ(実はそんなに困らないしドラッグストアなら100円くらい)朝20分余計に寝てられるんだよな…もしかして来月あたり生きかた変えちゃう?飲み物(冷たいコーヒー)は前日から冷蔵庫に仕込んでたのでヌカリなく。
(25.08.30)↑上の昼食ネタでキレイに終わると思ったら。
会員にはメール通知されてると思うけど、映画配信の
JAIHO(外部リンクが開きます)が
10/31でサービス終了らしい。ここ数ヶ月は自分も、休日すら何か見る余裕がなくて会員籍だけ保持して休会状態だったので忸怩たる気持ちもあり。流石にこの時期に新規入会一ヶ月無料はやってないようだけど+いつの間にか月額990円に上がってるけど(休会前は770円だった気が)非ハリウッド・メジャーの作品が充実した佳いサービスでした。たぶんこの先「あーJAIHOがあった頃」と記憶に残るよ。
本サイトで前に軽く紹介したタイのホラー映画『プロミス・戦慄の約束』やラブコメ『フリーランス』、なかなか観る機会のないブータン映画『ヘマヘマ』など、いずれも各国各地それぞれのローカル性も味わえる・だからこそ遠い日本で観られることが嬉しい物語が一方で(ブータンの山奥の神話的世界すら)グローバル経済や経済文化に否応なく接続されている現実が伺えて「世界はひとつ(
こんな形でひとつになりたくはなかったかもだが)」も痛感させられたもの。
今はフランス映画特集や好きなひとは好きでしょうピーター・グリーナウェイ監督の一連の作品に加え、僕じしんも題名だけ知ってた80〜90年代初頭の(キョンシーとか流行ってた頃の)香港ホラー『鬼打鬼』『人嚇鬼』『人嚇人』などがラインナップにあって気になってるところです。
とりあえず『ヘマヘマ』について二年前に書いた本サイト内の記事にリンクを張っておきます(
画像はタダの画像でリンクになっていません注意)
・23年5月の日記(週記)
天国は地上にはない〜映画『ヘマヘマ 待っている間に歌を』

元記事にも書いたけど、人の過ちのひとつとしてレイプ描写があるので映画のほう、苦手なひとは閲覧注意です。
(同日追記)上記『ヘマヘマ』の感想日記(週記)から、何しろ僕には僕の文章が面白いので(笑。達者な文章ではないかも知れないけど、何しろ関心領域や価値観がジャストフィットだから←
当たり前だろ本人だ)いくつか近辺の文章を読み直してたら無料動画『GYAO!』のサ終が23年3月と知れた。『GYAO!』にもお世話になりました。
23年3月の小ネタ拾遺参照。