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人間「平等」起源論のアウトライン(25.09.07)(25.09.14追記)

 中島らも氏の文章ではなかったか。なので本当の話か疑わしいのだが、皆がみな高等教育の恩恵に預かれはしなかった時代、とある中学校に数学の天才少年が現われたという。家庭の事情で中退を余儀なくされた彼を担任の教師は「それでも勉強は続けるように」と励まして送り出したという。数十年後、老いた教師の前に、すっかりおじさんになった元教え子が現われたという。色々研鑽した結果、凄い発見をしたかも知れないので見てほしいと言う。細々と数式が書きつけられたノートを見て、老教師はあまりの残酷さに慟哭した。独学で数学を究めた彼が「発見」したのは、そのまま中学に居れば二年か三年で誰もが習う二次方程式を解く公式だったのだ。
 二次方程式の公式。x=2a分の-b±√b^2-4ac
改めて書き起こすとどうにも実話性が疑わしいのだけど個人的には身につまされ、時おり思い出される話だ。
 つまり自分は、適切なルートにさえ乗っていれば完成品として直ぐ手に取れるような法則や概念を、なぜか頑なに自力で発見しようと悪戦苦闘・遠回りしがちなのではないか。人の話を聞かない。自分でなんでも解決しようとする。それでずいぶん痛い目を見てきた。人間としては生きにくいタイプだ。そこまで掘り下げなくていい
 要するに「また例によって、それはもう皆に概念として共有されてるよという話を、自分でイチから組み立てたので御披露」です。今回は簡潔に行きます。と言ってる現時点で既に無駄に長いけど簡潔に行きます。
 
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 先月の日記(参照)でイブン・ハルドゥーン『歴史序説』を取り上げた際、末尾につけたしで「本格的に書くかも知れないし、書かないかも知れない」と思った話を書く。後にマルクスが掘り下げる労働価値説、マキァヴェッリの唱えるヴィルトゥとフォルトゥナ、さらにはスピノザの汎神論などなど…科学≒テクノロジーの発展を除けば、おおよそ人類が21世紀の現在までに思いつくような社会的・政治的な思想「およそ人間に必要な議論」は14世紀の時点で(少なくとも初歩的には)おおむね出揃っていたようにさえ見える―ただひとつ「平等」というアイディアを除いて、という話だ。
 たとえば一番わかりやすいので男女について。イブン・ハルドゥーンも帰依していたイスラム教は一夫多妻を認めているが、これは当時多かった寡婦の救済が目的で、西欧的価値観から見るほど非道い話ではないとか、そういう話はしない。いっけん男性支配のような部族社会でも実権は女性が握っている(とも捉えうる)みたいな「現代」でも著名人男性の性差別的な失言を「妻に叱られました」とか弁明する時に言われる話もしない。イブン・ハルドゥーンが中東で思索を深めていた頃、同時代のイギリスではアダムが耕し、イブが紡いでいた時、誰が領主だったのかという言葉で領主にたいする人民の平等が唱えられた。そうではなくて「なんでアダムが耕し、イブが紡ぐことになってるの?」という意味での「平等」という観念・概念は意外と新しい、わりと近年(数百年スケール)に出現したものではないか。そういう話をしている。

 性差について、人種について、階級について、差異はあるものだけど「差別じゃないよ区別だよ」まさにアッバース朝の将軍が息子に説いたように強者が弱者を庇護するよう社会は補正されているよ、という話ではなく、すべての人間がは本質的に「対等」なのだ・そこから話を始めなければならないという思想を、もっとも雄弁に(←ここで「雄」弁と言われてしまうくらい「差別じゃない区別」とやらは強固に人類を支配している)あらわしているのは、たとえばアーシュラ・K・ル=グウィンの次のような言葉だろう。
本を読むことと、本を書くことは、いかなる点においても、それぞれの性に依存する行為ではありません。(『夜の言葉』)
 アメリカ人だった、そしてファンタジイ愛好家としておそらくは小馬鹿にされてきた彼女は『指輪物語』を生んだイギリスをたぶん多少は理想化して、こうも書いている。
「十二歳のときによいと思ったものであれば、三六歳になっても全く同様に、いや、それ以上にすばらしいものであることは充分に考えられることだ(と知っている)イギリスの読者は、自らが大人であることを弁明する必要がないほど成熟した大人なのである。」(同)
 もちろん「男性はこう書くべき」「女性はこう書くはずだ」というバイアスが作者や読者に働かないわけではない。男性名ジェイムズ・ティプトリー・Jr名義で発表され「こんな話は女には書けないよね」と絶賛された作品が、実は本名アリス・シェルドンの手になると暴露された以後、彼女の作品に「男たちの知らない女」(←彼女の代表作のひとつのタイトルでもある)の凄みを感じずにいることは難しい。漫画『鋼の錬金術師』でデビューした荒川弘(←男性的な筆名)氏も、同様の扱いを受けたのではなかったか。
 にも関わらず、原則論として、人は創作に対峙するとき性別も年齢も貧富も国籍も関係ない存在になりうる―というル=グウィンの思想は「真の作家の勉強とは、ひとりでするものです」「作家としてあなたは自由なのです」と説いた、小学校の作文の時間に架空の世界のことを書いて「あなたが"知っている"ことを書きなさい」と教師に注意され「でも先生、私はこれを"知っている"んです!」と(いま原典が見つからないので、声に出してか内心だけでかは不詳だけど)抗議した、筋金入りの創作者・物語主義者という彼女の出自に裏づけられている。つまり僕は「人は根源的に平等だ・平等たりうる」という概念を、まずは創作論を通して知ったことになる。

 同じ頃か数年後か、やはり創作について考えていたころ知った、別の言葉がこれだ:
「人間の脳はアイデアによって思考するのであり、情報が基本ではない(中略)と彼は示唆する。彼は、一例として、全人類は平等につくられているというアイデアをあげている。私たちの文化を形成するのに大いに寄与したアイデアであるが、これは、事実とか既存の情報を土台にできたものではない。」(強調は引用者)
文中の「彼」とはセオドア・ローザックのことであるらしい。引用していたのはリチャード・ワーマン『情報選択の時代』(たぶん原著1989年/松岡正剛訳1990年)。
 原典では「一例として」という形だったけれど「人間は平等だというアイディアは、既存のエビデンスに基づいてはいないが、実現されるべき理念として現実の社会を大きく変えた」という指摘もまた、当時の自分に大きく響いた。そしてこの「アイディア」はいつ生まれたのだろう・わりと新しいのではないか、という話をしている。
 11世紀シリアの詩人は「土くれより創られし(中略)世の人すべて我が同胞なり」と詠んだけれど、この「同胞」は「平等」をどこまで意識したものだろう。
 14世紀にイギリスで謳われたアダムが耕し、イブが紡いでいた時、誰が領主だったのかは領主と領民の平等を唱える一方で、性差に基づく男女の分業を自明視もしている。
 簡潔に延べるべく(もう相当に苦しいっすよ)現時点での暫定的な結論(推測)だけ言うと、18世紀末にフランス革命で人民の平等が謳われる。だが実は貴族制打破としてブルジョア男性しか視界に入ってなかったソレを、女性や植民地の奴隷たちが正しく簒奪・文字どおりに拡大解釈する形で「全人類の平等」が目標設定された、のではないか。
 具体的には23年10月の日記で取り上げた浜忠雄『ハイチ革命の世界史』が詳らかにしているとおり、1791年のフランス憲法は人民の平等を「植民地には適用されない」ものとして奴隷制を温存。現実に人種差別の禁止を世界で初めて憲法に明記した1804年のハイチ革命は、西欧諸国に叩きつぶされ、以後ハイチは世界最貧国の地位に貶められる。
 また1791年にフランスで「女性および女性市民の権利宣言」を書き男女平等・人種差別撤廃を訴えたオランプ・ドゥ・グージュが反革命の烙印を押されギロチンに送られた経緯は、ヴェイユではなくボーヴォワールのファーストネームを冠したフェミニズム誌シモーヌ VOL.3 特集:オランプ・ドゥ・グージュ(現代書館2020年/外部リンクが開きます)に詳しい。
 雑誌感覚で読めるフェミニズム入門ブック、と副題のついた『シモーヌ VOL.3 特集:オランプ・ドゥ・グージュ』書影。フランス語の書名Les Simonesは発音は同じ「シモーヌ」でも複数形。
 つまり啓蒙思想≒フランス革命がブチあげた「平等」は「その平等には女性や非白人種も入るんだよな」と念押しした非差別者にギロチンや弾圧で応じる、口先だけの紛い物だった。
 それを本物の理念に精練しなおしたのは、先達の遺志を継いで継続された奴隷解放運動や反植民地運動・婦人参政権運動だったに相違ない(ストーンウォール暴動など性的マイノリティの闘争がそれらに続く)。民族による遺伝子の差異などないと証明するような科学の発展と、科学主義の根底にある数量への還元が与した処もあるだろう。フーコー言うところの人を労働「量」に換算する生政治も、逆説的なかたちで平等の理念に裏づけを与えたかも知れない。
 いずれにしても「全人類の平等」は比較的あたらしく勝ち取られた理念・概念で、14世紀にはなかったアドバンテージで、これを死守すること抜きに21世紀の吾々の生存は考えられない。大学に再入学して勉強をやり直すという(それ自体は称揚されるべき)人生の選択に対して、僕じしんは「わざわざ大学に戻って研究したいこともない」と思ってきたけれど、不平等起源論ならぬ平等起源論(人類の平等を比較的あたらしい理念と捉えての成立史)は四年なり何年なりをかけて取り組むに値するテーマかも知れない。いや戻る予定はありませんが

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 こういうことを考えています・考え始めたばかりなので結論も何もありません、というだけの文章なので簡潔に簡潔に…と思ってたはずなのに、まんまと長くなってしまった(as usual)。大急ぎで話を巻き取る
 平等の理念を(ここ数百年という単位での)最近の発明と捉え、その成立史を探りたいと考えるのは「人類よくやった、お手柄お手柄」と自褒めしたいからでは勿論ない。逆に絶えず攻撃口撃を受け、いつ瓦解してもおかしくない砂の壁であるからこそ「平等」史の確立は急務ではないかと考えるからだ。
 そしてもうひとつ「平等」を近代の産物と捉えたとき、その分析を急がなければ(いけないのではないか)と考えるのは、その平等が逆説的・逆接的に生み出している差別もありはしないかと考えてのことだ。「行き過ぎた平等(草)」みたいな世迷い言につきあってやる気はない。そんなのは古くさいバックラッシュのカゴにまとめてポイだ。そうではなくて。
 「すべての人は属性に関係なく平等だ」という、それ自体は素晴らしい理念が「その平等な人間たちが結果として不平等な待遇になっているのは、不利な立場に己を追い込んだ者たちの自己責任だ」という形で、差別の正当化に再度なっていないかと危ぶむ。
 ウォーラーステイン『世界システムとしての資本主義』(24年4月の日記参照)が告発しているように、資本主義者の差別者は女性や貧困国の人々は「機会を提供されても、イニシアティブを発揮してこなかった」その貧しさ自体、彼女ら彼らが劣っていることの証左であり結果なのだと見なしてきた。80年代〜90年代のウォーラーステインはそれを(彼女ら彼らは)「生物学的にも、文化的にも」劣っていると決めつけられた(せいだ)と書いているが、生物学的には対等なのだとする(本来なら反差別に向かうはずの)認識・理解・前提は「その平等を活かせないお前らが悪い」「対等な吾々がどうして救ってやらなきゃいけないんだ」と逆に差別の強化になってはいないかと危ぶむのだ。
 現に「親ガチャ」「国ガチャ」といった言いようは、平等な人類が対等な条件下で引いたガチャの結果は、どんなに理不尽でも受け容れてしかるべきだという(有利な「ガチャ」を引いた強者による)不公正の正当化をもたらしているように見えて仕方がない。人は平等だなど夢にも思わなかった14世紀のイスラーム社会では・なんならレヴィ=ストロースを絶望させるほど完成されたインドのカースト社会ですら(不平等の反面?不平等だからこそ?)空気のように当たり前だと思われていた「弱者への庇護」が、万人が平等とされる現代では大手を振って無視される奇観(奇観・奇景というと辞書では「素晴らしい景色の意味もある」とされるが、むろん素晴らしくなどない)。人に「生きよ」と命ずる生政治が裏口から死政治を通してしまったように、多くの血が流され血まみれで勝ち取られたはずの平等が、逆に差別を正当化している現状が、あるのではないか。

 そしてここまで考えたところで、実は同様の議論を二年前すでに自分は目にしていたのではないかと気づかされる。23年3月の日記で取り上げた佐藤嘉幸・廣瀬純『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(講談社選書メチエ/2017年/外部リンクが開きます)で著者たちが述べている
我々はみな平等だ、と唱える市民運動に対して、プレカリアート運動は、そのような「平等」の下でこそ富者によって貧者の富が収奪されている、と返す
という一節だ。D&Gの『哲学とは何か』が提示したマジョリティであることの恥辱という概念をゼロ年代〜2010年代の日本に敷衍しての言葉だけれど、読んだ当時は重要な指摘らしいとは思ったものの(だからこそ当時の日記=週記に残したのだろう)「ふーん、そんなものかね」というくらいで今回じぶんで考えを進めて同じ?結論に至るまではD&Gや佐藤&廣瀬が書いた意味を心底から体感できてはいなかった気がする。
 キャプション:ただし「マジョリティであることの恥辱」という感覚はパレスチナを巡る自国(先進各国)の態度を見て、良心的な住民の間に急激に共有されつつあるかも知れないね…ありますように?(STOP GENOCIDEと書かれたプラカを掲げて厳しく目を伏せる羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラストを添えて。羊帽の羊の目から零れた涙が「ひつじちゃん」の目元を通ってプラカに滴っている。)
 誰もが「それなら知ってるよ」と言う二次方程式の解の公式に、ようやく自力でたどりついたら案の定、先に辿り着いていた人がいたという話である。先達が辿り着いていたのは「ここ」だったのかと、習ったはずの公式を本当に体感できるのは、自分でも解いて辿り着いてだという話でもある。
 余人はさておき自分の理解はこうも遅いと、誰もが「なんでも正解を知ってるぜ」と言わんばかりのSNSのTLを横目に思うが、たぶんこれからも自分で解決しようとし続ける。
 ものすごく暇ができたら「どうして二次方程式の公式はx=2a分の-b±√b^2-4acなのか」も考えてみたい気もするけれど、たぶんそんな暇は出来ない。そんな暇が出来たら、たぶん新しい料理にでも挑戦したりする。


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(25.09.14追記)
 なんて話をした翌週、あらたに読みはじめたデヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウの共著万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』(原著2021年/酒井隆史訳・光文社2023年/外部リンクが開きます)が冒頭から、ヨーロッパでは「社会的不平等の問題への関心は、一七〇〇年代にあって(中略)新規なものであった」「身分やヒエラルキーは世界の発端からあるものと考えられていた」「なぜ一八世紀(中略)ヨーロッパの知識人たちは(中略)平等という考えに注目するようになったのだろうか?それ以前にはほとんどの人間が、社会的平等が可能であるとさえ考えていなかったことを考えるなら、これはとくに奇妙にみえる」(第二章)と書いていて、まあ「ほらな!」とガッツポーズだったわけです。「みんなココが論点だと考え(はじめ?)てるんだよ!」
 ただし『万物の黎明』著者たちの問題意識は「平等」より「自由」に傾注しているようだと(まだぜんぜん読みはじめですが/読了後に改めて語ることになるでしょうが)断ってはおきます。そのうえで二人のデヴィッド(デヴィッズ?)は、カーニバルによる秩序逆転みたいな例外はあったものの基本的にはむしろ不平等こそ世界の秩序で本質と考えてきた西欧世界に「平等」の概念をもたらしたのは宣教師などがもたらしたアメリカ先住民たちの世界観・社会観だったと提示しています。西部劇のいわゆる「インディアン、ウソツカナイ」的な侮ったイメージとは対照的に実際の彼らは社会のもめごとの多くを議論で解決することから弁舌豊かで、その知的で説得力に満ちた平等観こそが西欧に輸入され近代ヨーロッパの平等観の「元ネタ」になったというのが、つまりデヴィッズの主張。
 先週は主にバック=モースなどの議論から
1)フランス革命などに結実しつつ観念的な理想論(現実にはブルジョア男性だけの独占物だった)「平等」概念をハイチの黒人奴隷が現実化した…ことを後に世界を席捲する平等化運動の起点(のひとつ)としたわけですが、ここに
2)そもそもそのフランス革命などに至った観念的な「平等」思想も北米先住民が「現実」として生きていた平等の輸入という形で始まった…というデヴィッズの説が付け加わったわけです。そしてデヴィッズが『黎明』で註記している
3)中世ヨーロッパにも民衆のあいだに祝祭(カーニヴァル)や叛乱という非日常の形での「平等」観念は存在した…という論点については「それは言うほど非日常でもなかった(けど大勢=体制に破壊された)はずだ」とも取れるシルヴィア・フェデリーチなどの主張を読み直してゆく必要があるでしょう。
 いずれにしても、少なくとも現代の吾々が当然のように(まあ建前であるにはせよ)もっている平等の理念は比較的あたらしい、あらためて「人間平等起源論」をこそ一度だれかがキチンと確立してほしい(その形式的な平等が結果的な不平等の口実になってないかという逆説も含めて)と、先週の錯綜した記述をまとめなおす次第です。

 と同時に、僕じしんはこの「平等」を(クォーター制などの社会・政治制度も大事ですが)むしろ表現の分野での男女や民族・年齢等々の対等性という入口から知った・という話も先週のキモではありました。そして「表現においては(本質的に)性も年齢も民族も関係ない」という理念は先週書いたように創作を通しても得られるけれど、ネット社会の到来も大きかったんじゃないかなあと先週は書き落としたので、あらためて強調したい。
 たぶん皆様いちどは目にしたことがあるんじゃないでしょうか「こうしてパソコンのキーボードを介して通信していたら、私(たち)が犬だなんて誰も気づかないね」みたいなジョーク。言葉や記号・表現といったクッションを間に挟むと、性別だ年齢だ人種だ犬種だ(笑)といったことは、どんどん打ち消されて人は(犬も?)対等になりうる。実際のネット社会は差別や分断を助長する側面も否定しがたくあるけれど、それらを打ち消す効果もある。
 …そこまで考えて、あ、自分が昨年描いたまんが(リトル・キックス)てソレじゃん、て今さら気づいたと(笑)。そもそも見てない・見ても「読んでない」記憶に残ってない人も多いんだろうなーと冷めた気持ちになってはいるけど、ヴァーチャル空間のアバターを介した格闘スポーツでは選手の体格差を一旦リセットできるという実話に、ふだんスポーツに関心のない自分が漫画にしたいと思うほど惹かれたの、そこに(問題もあるのだろうけど)希望もあるんだろうなと「考えるより先に感じてた」のかもなーと少し面白く思っているのです。

道徳どまりを擁護する〜亀山陽平監督『銀河特急 ミルキー☆サブウェイ』(答え合わせ篇)(25.09.21)

 アイリス・マリオン・ヤングハンナ・アーレントを敷衍し、次のように書いている。ナチ政権下のドイツには、迫害されるユダヤ人を匿ったり亡命を助けたり、また自身も親衛隊の召集を拒否したりした良心的なドイツ人が沢山いた。善悪を区別する能力を失なわず、己の判断を裏切ることも拒んだ、その行動は称賛に値する―にも関わらず、彼女ら彼らを聖人とも英雄とも呼ぶことは出来ない(アーレント)。なぜなら「それらは、公的なものではなかった」「犯罪(中略)から距離を置こうとしたり、危機に晒された人びとを積極的に助けようとしたりもした」「しかし、そのことを社会の深刻な問題として告発しようとはせず、個人的に自分一人でそうしたのだった」(ヤング)。個々人は法律にしたがい悪意なく行動しているのに結果として弱者を困窮へと追いつめる「構造的不正義」を追及したヤングは、こう結論づける。社会を変えようとしない行動は、政治ではなく道徳的な正しさでしかないと。(正義への責任原著2011年/岡野八代訳2014年→岩波現代文庫2022年/外部リンクが開きます)
 そうですね、手厳しすぎる。道徳どまりだって十分に立派じゃないか。良心的なドイツ人の拒絶は称賛に値すると、罪からは免れているとアーレントも請け合ってはいるのだ。
 でもたとえば昨年の夏に自分が能登に出向いて、ボランティアで瓦礫を拾ったり泥水を掬ったりしたのは(元から道徳的な行動でしかなかったとはいえ)僕から見たら天災に人災を加算したとしか思えない現知事が来年の選挙で再選されるなら、心底から何の政治性も持ちえない道徳的な行動に過ぎなかったと思わずにはいられなくもある。『正義への責任』は18きっぷを利用した一回目のボラ行で携えていた本でもあった。
 電車のシートで撮影。『正義への責任』書影。
・参考:災害公営住宅の整備に遅れ 「建設にめど」15% 能登豪雨1年(毎日新聞/25.09.21/外部リンクが開きます)

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 三年前の自主制作アニメ『ミルキー☆ハイウェイ』が評価され全12回・11カ国語で同時配信となった続篇『銀河特急 ミルキー☆サブウェイ』も無事完結したので、その話。当然ながら全面的なネタバレも含みますので注意。
 いや、ネタバレはイヤだと言うなら、見りゃいいんです。『ハイウェイ』も『サブウェイ』も一話3分半なのだから(『サブウェイ』最終話だけ4分44秒)。
アニメ『銀河特急 ミルキー☆サブウェイ』公式(←ここで全話観られます/YouTube公式チャンネル/外部リンク)
それすら惜しい人は第二話だけでも見るといい。観て「これは」と思えば『ハイウェイ』「第一話」と遡って十分に(3分半×2=7分で十分に!)追いつけるし、「えー何だコレ(もっと観たい)」と思わなかった人には、たぶんあんまりシリーズじたい向いてない。帰るなり、続きの本文だけ読むなりでOKです。
 
…あらためて、この二話・3分半で物語の基本設定に各キャラの雰囲気ほぼ過不足なく、しかも十二分な間やボケを挟みながら語り尽くしてる脚本力に舌を巻く。まだシリーズ中盤だったけど面白すぎて書かずにいられなかった先月の日記で「テンポの良さと不思議に矛盾しないグダグダ感」と絶賛したところだ。
 リョーコちゃん(警察)の訊問を真似して(?)流れるように話を進めると、この先月の日記の時点で提示したのは(まだ未完結で答えは出ていなかった)次のような問いだ:抜群に滑らかな語り口の背後に、社会の「構造的不正義」を仄めかす本作は、最後どう着地するのか。
 1)社会悪を告発して視聴者の心の深くに問題意識を刻みつけるのか
 2)大きな問題は何も解決しないまま局所的ハッピーエンドで満足するのか
 3)救いのない悲惨な結末まで「ウケる」「不憫萌え」と嗤われて終わるのか
作者が作品にどのようなメッセージを盛り込むのか、というよりも(作者は基本的に複合的なメッセージを盛り込むものだ)受け手は何を受け取るのか。「この世界を覆う死の饗宴の(中略)中からも、いつかは愛が生れ出てくるであろうか?」(トーマス・マン『魔の山』/未読)

 シリーズが完走(列車は敢えなく爆散したけどな)した今、劇場版でのカット追加や続篇の話もあるけれど、現時点での「答え」は明白ですね。はい、(2)番です。
 2)大きな問題は何も解決しないまま局所的ハッピーエンドに終わった
 たとえば本作のストーリーを織りなす太い縦糸の一本・列車暴走事件の種明かしもそうだ。
 イラスト。左:『2001年宇宙の旅』より木星を背景にしたディスカバリー号。右:土星に似た輪つき惑星を背景にした『ミルキー☆サブウェイ』の列車。
※自分でも気づいちゃったよ、MILKYにEは要らん…(もう面倒なので直しません)
黒幕AI「オータムちゃん」(『2001年宇宙の旅』で人間抹殺に走ったコンピュータ「HAL」へのオマージュだそうな。そう考えると宇宙にポツンと放り出された列車の細長いシルエットは、頭と尻尾を取ったディスカバリー号のようでもある)の「電車のスムーズな運行ひいては適正な社会にとって最大の障害である犯罪者=社会不適合者たちを独断で始末する」という犯行動機は、社会・わけても資本主義社会が抑圧や搾取のため社会不適合者をわざと生み出している(社会の「適正な運用」のため、むしろ欠かせない燃料であり潤滑油である)という、現実の一枚上手なえげつなさ(※1:文末参照)の前では「そこまで考えが及ばないAIの幼さ・浅知恵」と言わざるを得ない。
 もちろん、そこまで要求するのは酷だ。そこまで透徹した社会観を付与する(される)のは、物語の本分ではない―いや、そうだろうか?世の中には痛快なエンディングを飾りながら「そうは言ってもこの世界(社会)はカス」と啖呵を切る作品だってある。パッと浮かぶのは『ロボコップ』。違うかな。
 ともあれ『ミルキー☆サブウェイ』のエンディングでは、大きな問題は何も解決していない。カートとマックスの能力と善良さが正しく評価される新しい仕事は想像できない(※2)し、アカネとカナタは互いの理解を深めたからこそ互いの身の振り方を改めて問われることになるだろう。そしてマキナはヒエラルヒーの頂点に立つ父親を毛嫌いする感性を持ちながら、その父由来の財力か、さもなくば自動販売機から「液弁」をチョロまかすような不正操作で欲しい物を得る生きかたを改める気配はない。
 では本作は「面白かった」「メロい」で消費され、場合によっては「こんな作品を創れる日本スゲー」と(作品を作ったわけでもない)自分褒めにスリ替えられて終わる作品なのだろうか。
 そうではない
 再度先月の日記を引用すれば、ゲーム「シムシティ」のプレイヤーが「そうか、人を住みよくするには都市を緑化すればいいんだ」と自ずと導かれるように(今の災害的な酷暑を考えるに、なんて先見の明だったことかと慨嘆せざるを得ない)、『ミルキー☆サブウェイ』には視聴者ひとりひとりが「そうか、こうすればいいんだ」と持ち帰れる、贈り物のような福音があった。
 はっきり言う。社会の構造的不正義を背景としてテンコ盛りにした『ミルキー☆サブウェイ』に、その構造を吹き飛ばす手段が提示されなかったこと・むしろ表面的なハッピーエンドで大きな問題がウヤムヤにされたこと・に文句を言うつもりはない(本当だよ)。そこまで物語に求めるのは酷だと弁護側の証人席に立つ。
 けれど、本作を見た人たち(あなただ)が自ずと「そうか」「これからはもっと、人に"ありがとう"って言えばいいんだ」と思えたのでなければ、本作の試みは失敗したことになる。

 本作で列車の暴走と並ぶ、もう一本(二・三本)の太い縦糸は言うまでもなく個々のキャラクタの心理的な成長なのだが、その中でも特に重要な折り返し点となるのは、第6話で「カートとマックス」がダルそうな態度の底に隠していた本心を吐露する場面だ。最初は清掃業や飲食業などマトモ(そう)な職業に就いていたサイボーグの若者ふたりが脱法的半グレ組織の使い走りへと転落した理由を強制的に開示させられ
「最後2人が普通の仕事辞めた理由だけ教えてほしいんだけど!?」
 「
(声を合わせて)誰にも感謝されないからです
 「誰もありがとうとか言ってくれないからです」
 「機械扱いされるのが嫌になって辞めました」

(強調は引用者)最後は強制なしに自ら語る場面は痛切をきわめる。二人が就いていた「前の仕事」が「清掃業や飲食業」というのも盛った(削った)話で、実際はもっと過酷な仕事を強いられていたのではという説もあるが、まあ本質ではない。銀河の彼方ではなく今ここに「誰にも感謝されない」「機械扱いされる」職業が存在することを、顧客として・ひょっとしたら当事者として知らない人はいないだろう。
 だから本作を観た一人ひとりが、ふだん少しでも余計に「ありがとう」と言えるようになれば、それは政治的ではないけれど、道徳的な正しさとして、世界を少しは変えられるかも知れない。実を言うと少し前から個人的に、たとえばコンビニの店員さんが日本語ネイティブでない人だった時には特に、「どうも」や「すみません」ではなく「ありがとう」「ありがとうございます」と言うようにしている。自分がそう気にかけているからには、そういう機運は少しずつ社会の中で盛り上がっているのではないかと思われる。
 かくして、サイボーグたちの転落の理由が「感謝されない」だった→それが第7話でマキナの親友チハルに思いがけず「二人ともありがとうね」と言われて動揺し→無償の手助けを申し出て→最後には一丸となってオータムちゃんの計画を阻止するというのが、今さらネタバレなど気にしない、観れば小学生でも分かる『ミルキー☆サブウェイ』の大筋だ。幼稚な話だ、百戦錬磨の不良サイボーグが「ありがとう」と言われないからグレただなんてカワイイ、最終話でまた「ありがとう」と言われてキョドってるのチョロすぎると嗤うことは(そうゆうの嗤える人には)簡単だろう。けれど彼らの「感謝されない」は「機械扱いされる=人間扱いされない」と表裏一体なことは忘れてはいけないし、
 それに第二話のエンディングに「あの」キャンディーズにこんな楽曲あったんだ?と驚いた(つまり人気絶頂の彼女たちが「普通の女の子に戻りたい」と解散したのをリアルタイムで知っている)くらい年寄りになると分かるけどね、どれだけ誰かに「ありがとう」と言えるかって(とくにその残り時間が少なくなってくると)人生の幸福の尺度でもあるんよ
 「(ぎりぎり間に合った世代だから、こういう楽曲なら知ってるぜ…)イキって痺れて固まるー可愛い下着を穿いてるーアイツはアイツは可愛い年下の男の子ー♪」という替え歌に「あんだとテメやんのかコラぁー」と真っ赤になって威嚇するカナタくんと、赤面して目を逸らしてる総長(アカネちゃん)のイラスト。
 本作で今の処あまり注目されていないのは、チハルの「ありがとうね」に誑かされて仲間になったカートが第10話で(誤解から激怒したアカネちゃんに顔面わしづかまれながら)見た目ひよわなカナタくんの活躍をめちゃめちゃ頑張ってくれたと形容する場面だ。あれは彼なりの、全力の「ありがとう」ではなかったろうか。蔑まれ、機械扱いされてきた彼が、正当に感謝されることで、自分も素直に「ありがとう」と言えるようになる。「ありがとう」と言えることは、「ありがとう」と言ってもらえることに負けないくらい幸せで、恵まれたことなのだ。そして「ありがとう」と言うことは、「ありがとう」と言ってもらえることよりも、ずっと自分でコントロールできる。
 なので再度言う。ひととおり観たあと「そうだ、自分も機械扱いされてる人たちに、ありがとうって言おう」と思えたなら本作は成功だろう。「ありがとうで味方になるカートとマックスちょろい(あるいはメロい)」で終わるなら本作は失敗だ。いや最近は「作品を批判するな」「好きな作品を貶されたら傷つく人もいるんだ」という意見もあるらしいから(知らんけど)厳密にいえば、作品ではなく、それは観た各々あながたがの失敗であり、敗北なのだ。

 そして本作のこうした「教訓」が、あくまで一人ひとりでヒッソリ実践できる「道徳どまり」の行動であることは、逆にいいことなのかも知れない。「人にありがとうと言いましょう」なんて規範が個人の枠を超え、集団や制度が賛美し謳い上げ強制される徳目になれば(しかも集団は構造的不正義を温存したまま)どんな悲惨が待っているか。それこそアーレントが憎んだファシズムそのものではないか。だから「私は私の自由で人にありがとうと言う」というのは、社会を変える公共のムーブメントにならない意味で「英雄的ではない」かも知れないが、「誰かにありがとうと言うことを社会や国家・資本やプラットフォームに強制されることを拒否する」という意味では、十分に政治的と言えるのかも知れない。
 ここまで読まれて「あー分かった分かった」「てゆか分かってるって」「ありがとうって言うくらい、あんたに長々あーでもないコーでもないと言われなくても実践してる」と思われたなら、それで全然いい。その道を進んでください。

    ***   ***   ***
※1:たとえば失業者の存在は資本主義社会の効率的な運用をさまたげるバグではなく、必要な時には投入できる労働力をプールし、また同時に「有職」を希少化することで労働市場を産業側に有利な「買い手市場」にするため不可欠な「仕様」に他ならない。さらに(にも関わらず)失業は労働者側の恥としてスティグマ化されていることは、80年代イギリスの失業問題をテーマにしたピーター・ゲイブリエル&ケイト・ブッシュの「Don't Give up」の赤裸々な歌詞に見られるとおりだ。監獄が収監者を更生などさせず、むしろ犯罪者を再生産していること(フーコー)、人種による選別の装置と化していること・また産獄複合体として社会のお荷物どころか低賃金搾取の原資になっている(アメリカ)ことは、ほんらい付記するまでもないだろう。

※2:幅広く公開されているらしい設定資料によれば(僕は敢えて目を通してないけど)、カートとマックスは元軍人であるらしい。兵役を終えた人々が一般社会に復帰したとき、培われたスキルや精神性(判断力や忍耐力などなど)で正しく評価され、あるいは個々に負った苦痛を正しく理解され、蔑まれない一方で、「国家」の名のもとにしか尊敬されない・彼ら彼女らを通して(彼ら彼女ら自身ではなく)国家の威光ばかりが強化される社会構造・を阻止することは可能なのだろうか。最近読んだ『ビッグイシュー』でアーノルド・シュワルツェネッガーの父はナチスに与したオーストリアの復員兵としてPSTDに苦しみ家族に暴力を振るったと読んだ。同じ戦争で同じように敗れた日本でも同じようなことは数多あっただろう。ベトナムで破れ大義を失なったアメリカの復員兵も同様だったことは、シュワルツェネッガーの往時のライバル俳優だったシルヴェスター・スタローンが(成功した自らを強いアメリカと一体化させる前に)『ランボー』で演じたとおりだ。これらの悲惨が近未来の日本で(再び)切実な問題になりはしないかと恐れる。

コロコロ・コミックと朝焼けの仮面ライダー〜デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』(25.09.28)

 まったくの余談から始めさせてもらうと、現在のグアテマラあたりに栄えたマヤ文明・マヤ文化が今に遺している神話ポポル・ヴフ(さらに余談なんだけど往年の洋楽ファン・映画ファンにはヴェルナー・ヘルツォーク監督作品の劇伴をよく担当したドイツのバンド名「ポポル・ヴー」として馴染みがあるかも)は
 特にグアテマラをハイライトした中米〜南米北部(赤道まで)の地図。
人類代表と神々が球技で争い、最初の代表(人類側)が敗れて死んだり、後を継いだ双子の兄弟が神々を討ち果たしたりする話らしい…何その『少年ジャンプ』または『コロコロ・コミック』。僕の知ってるところではボクシング(アマチュア・しかもジュニア)の試合がアトランティスに由来する幻の金属「オリハルコン」を巡って争ったり(車田正美『リングにかけろ』)、よくは知らないけど『コロコロ』に連載された漫画ではベーゴマの選手権が世界征服とか何とかに絡むんじゃなかったっけ(と思って軽く調べたら改造型ベーゴマ=ベイブレードって装着するアタッチメントで攻撃型とか防御型とか体系的なバランス調整が出来たり紐を使わず専用器具でコマを回すことで技巧の平準化ができたり完全に侮れない代物だった)…実際マヤでは球技で貴族が全財産を失なったり、とゆうか戦争の代わりまで果たしていたらしい。1)人類、スゴいのか逆にスゴくないのか分かんない。2)『ポポル・ヴフ』って誰か漫画にしませんかね?

      *     *     *
 と、いうわけでデヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』(原著2021年/酒井隆史訳・光文社2023年/外部リンクが開きます)一番か二番目くらいにどうでもよさげな余談から引用してしまったけれど、とにかく「万物」を標榜するだけに話題が広い。拾えばキリがない。先週38℃くらいの熱が続いて大いに時間を失ない、図書館の返却期限までに読み切れるかなと案じられたけど後半ペースをあげて、どうにか読了。出てからしばらくして「なんかすげー」と話題になったグレーバーの単著『負債論』と違い「あのグレーバーの遺著(共著)」と出た時点から注目されたせいもあるのでしょう、横浜の図書館だと各館一冊ずつ行きわたるほど多く配本されてるので、他所の図書館でも存外待たずに読めるかも知れません。オススメです(むろん買えるひとは買えばよいでしょう)。
 いや本書の要約じたいはワリと簡単なんです:人類の歴史って、そう単純に図式化できるもんじゃないよ
 ホッブズは言った、国家が出来る前の原初の人類はたがいに争う野蛮人だった。ルソーは反論した、いや原初の人びとは平和で幸福な人たちだったけど私的所有が人々を階層化し国家やら何やら不幸の歴史が始まったのだ。いずれにしても原初の人類は、狩猟や採集なんかで日々の糧を得て、そして小規模な集団で物々交換なんかして生きていた。それが農耕が始まり人口が増え、王や国家や官僚制や貨幣経済が始まり、高度な文化・文明と引き換えに人々は自由を失なった…
 その見立ては単純すぎる、農耕=人口=豊かさ=国家=文明をワンセットにして、文明「以前」と「以後」で人類は引き返せないラインを渡ってしまったという図式じたい、国民国家が優勢になりデフォルトになったこの五百年から逆算されたものにすぎない(※文末参照)・実際には農耕を開始して大規模な都市まで建設しても合議制を保ち国家をつくらない・一度は王制を敷いても「あんまりうまくないなコレ」と合議制に戻して何百年も上手くやってた・等々、歴史の「発展(だか自由の喪失だか)」は一直線でも引き返し不可でもなくて、多くの人々が単一の穀物に特化せず農耕もすれば採集も狩猟も交易までして「ひとつの籠に玉子を盛らない」豊かな生活をしていたように、人類は王制も貴族制も合議制も民主制も色々と試しては引き返し、現在の吾々が(自分たちの不自由を逆照射して)思っているより、ずっとバラエティに、ずっと自由にやっていた…というのが本書の要旨だ。
 アナキストを名乗り、自らオキュパイ・ウォール・ストリートなどに参加していたグレーバーは特に「なので現代の吾々だって自由になれるはず」という含みを大いにもたせていただろう。急逝したグレーバーの(そして彼を継いだ共著者ウェングロウの)切なる願いと言ってもいい。
 AIでも出来そうな要旨の抜き出しは、こんな処で良いでしょうか。
 以下は(あまりに多岐に亘る具体例の中から)個人的に「あ、ここ関心領域」と思った二・三を拾います。

 ・ライプニッツと官僚制について
 最新の発掘成果を含む膨大な例証によって今のような国家「以外」を掘り起こす本書の狙いからは若干外れてしまうけれど、個人的に気にかかったのは第二章で(わりと余談として)サラッと触れられている西欧における官僚制の定着の話だ。
 ドイツの哲学者ライプニッツ(1646〜1716)は「モナド」などの概念を提出し、微積分法の発見をニュートンと争ったなどのエピソードで知られる才人だが、中国の『易経』に関心をもち二進法の研究をしたり、中国の思想や制度のヨーロッパへの導入を説いたとも言われている。
 二人のデヴィッドが指摘するのは1)ライプニッツの中国への関心は彼ひとりの独創ではなく、彼も時代の子であるからには当時のヨーロッパ知的界隈(二人はこんな言いかたしてないけど)が全般的に持っていた中国への関心の反映ではないか・そして2)この中国への関心は、当時のヨーロッパの政治界隈への官僚制の導入と果たして無関係だったのだろうか、ということだ。
「一八世紀から一九世紀にかけて、ヨーロッパの諸政府はいずれも、ほぼ均一の言語と文化を有する人びとを適切に統率すべきであり、その政府は試験に合格したメンバーで構成される教養ある官僚によって運営されるべき、という考えを徐々に採用するようになった。これはおどろくべき事態であろう。というのも、それまでのヨーロッパ史にあって、このようなシステムは、それにわずかに似たようなものですらまったく存在しなかったからだ。ところが、それとほぼ同一のシステムが、中国にはすでに長年にわたって存在していたのである」
 日本における近世を江戸時代(1603?〜)に始まるとすれば、ヨーロッパにおける「近世」も大体同時期にあたるのだけれど、中国では先んじて宋(960〜1279)の時代に官僚制が完成し・いわゆる「近世」の域に達していた、とは東洋史の泰斗・宮崎市定氏もよく指摘するところだ。これは余談なのだけど『万物の黎明』の著者たちは、10世紀中国でも18世紀のドイツでも、官僚の採用試験てのは古語や死語で書かれた古典文学に精通しているかが問われ、採用されて初めて「練習、見習い、インフォーマルな指導」で実務を学ぶ・これはもしかしたら後期インカでも同様(会計職に就くために秘教的知が問われた)だったし、現代でも公務員採用試験で実務には無関係な「合理的選択理論とかデリダの理論」の問題を出されるのと変わんない(たまんねぇよなあ)と言ってるのが面白い。いや、面白くはないのか。ブルシット・ジョブ。
 中国の科挙だと最終段階の殿試では政策に関する小論文もあったはずだけど些事なので措く。17世紀ヨーロッパに話を戻すと、中国の影響で官僚制が導入された仮説はサッと飛ばされ、そもそも平等や自由といった発想じたいが宣教師などを通じて伝わった「新大陸」アメリカ大陸の先住民から到来したものではなかったか、というのは本書の要旨に関わる仮説のひとつだ(先々週の日記文末を参照)。
 ちなみに官僚制とは、19世紀のマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』でフランス共和制の息の根を停めた真犯人として指摘しているものだ。「とてつもない官僚組織と軍事組織(中略)重層的で人工的な国家機構(中略)50万人もの大勢の役人のほかに、また別に50万人の軍隊(中略)この恐ろしい寄生体が、フランス社会の体に(中略)巻きついて、その毛穴をすべてふさいでいる」(23年1月の日記参照)。平等という発想が実は裏口から差別を正当化していないか、という先々週の問題意識については後述する。
 いずれにしても=官僚制にせよ平等の観念にせよ、ヨーロッパが独自に発明した・あるいは古代ギリシャで一度(「奇跡的に」)発明されたものをヨーロッパ人が再発明したという神話じたい、西欧文明が覇権をとった現代から逆算されたものにすぎない・かも知れない、このことは21世紀以降の常識になっていくべき事のように思われる。今後(露命のある間は)気にかけ追究していきたいテーマのひとつです。
 ちなみに現代の官僚制が(ヨーロッパ経由で)中国に起源を持つとして、まあいないとは思うけど「やっぱり中国が諸悪のぉー」などと言い出す馬鹿には『万物の黎明』の、この言葉が相応しいでしょう:(穀物栽培のおかげで(略)国家が台頭したというのは)中世ペルシアでの微積分の発達が原子爆弾の発明につながったというのとかわらない(強調は引用者)

 ・平等の罠と不平等の起源について
 不平等の起源(ルソー)について問うのは無意味だ・人類の歴史は平等→不平等と一直線に不可逆的に進んだものではなく、もっと錯綜してるし逆走(王権から平等へ)も山ほどあった、というのが繰り返し本書の要旨なのだけど、それを踏まえたうえで。
 先にも(先々週にも)書いたとおり、ことに新自由主義の現代においては形式的な平等が「平等なのに差がついたのだから自己責任」と差別を正当化する逆効果が生じていないか、という疑念がある。『万物の黎明』ではカリフォルニア州の北西部・オレゴン州のはじまる山脈のすぐ南に住んでいたユロックの人々を、ヴェーバーが説いた(資本主義を生んだ)プロテスタントに通じる「所有的個人主義者」と捉えている。「人間は生まれながらにして平等であり、自己規律や自己犠牲、厳しい労働によってひとかどの人間になれるかどうかは個人次第である」
 別のところで著者たちは言う。
「貨幣も行政管理も非人格的(強調は原典)な等価性というおなじ原理にもとづいている。ここで強調したいのは、最悪の暴力的な不平等が、初発には、このような法的平等のフィクションから生じる(この強調は引用者)ことがいかに多いかという点である。おなじ法律、おなじ権利、おなじ責任(中略)平等が、人間(そして物)を交換可能なものにし、その結果、支配者やその取り巻きが、非従属者のそれぞれに固有の状況を考慮することなく非人格的要求をつきつけることが可能になったという事実である」とは、その思想を要約した言葉だ。
 20世紀半ばに悲劇的な生を終えたフランツ・シュタイナーは集団の中で力ある者=家長だったり首長だったりが孤児や寡婦・難民や逃亡者など困窮した人々を歓待する(それ自体は麗しい)習慣が、やがて見返りを求めない歓待から→受け入れの代償としての奉仕となり、戦時捕虜に対してしか行なわれなかったような人格の剥奪ひいては支配に転じたと「不平等の起源」を説いているようだ。
 このあたりと「取替え可能」であることを現代人の宿痾と看破したアルフォンソ・リンギスの議論(23年5月の日記参照)を自分の中で接続できないか考えている。

 それはそれとして、場合によっては人は敢えて進んで「取替え可能」な存在になることもある、という例証で挙げられているマレーシア半島、主としてマレーシア山地に居住する狩猟採集民=セマン族に言及した箇所は、日本語で本書を読む読者のおそらく誰もが目を疑う箇所だろう。
「外部の観察者たちがたとえばセマン族の狩猟隊のメンバーを、まるで仮面ライダーのショッカーのように、ほとんど交換可能なものと[だれもかれも区別できない]してみなす傾向があるというだけでなく(中略)むしろセマン自身、じぶんたちは等しくあるべきだと感じているということである(もちろん、すべての面においてというのは、ばかげている。「ここぞ」というような重要な点においてである)」
今「仮面ライダー」って言いました?「ショッカー」って言いました?この箇所、註も何もついてないんだけど、訳者のおふざけなのだろうか、それとも本当に「仮面ライダーのショッカー」と書いてるのだろうか。1970年代、T-REXとして来日したマーク・ボランが日本で観たテレビ番組に感銘を受け『ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー』(Zinc Alloy & Hidden Riders of Tomorrow)というアルバムを出した故事もある。ポケモンや、それこそベイブレード(世界大会が開かれてるようです)のように仮面ライダー(Hidden Rider)も存外ワールドワイドに知られた存在なのだろうか。ショッカーも。

 ・ル=グウィン、サパティスタ、女性の地位について
 今回とくに貼れる画像がないので昔撮った芙蓉の写真でも。
 本書には『風の十二方位』に集録されたアーシュラ・K・ル=グウィンの短篇「オメラスから去る人々」に言及している箇所があって、改めて(北米先住民の研究に生涯を捧げた)アルフレッド・クローヴァーならびにシオドラ・クローヴァーの娘としてのル=グウィン(KはクローヴァーのK)という捉え直しが必要かと考えさせられた。『指輪物語』的な西欧ファンタジーならもういいやと思って実は敬遠していた『ゲド戦記』、北米先住民というか非ヨーロッパ的な神話や世界観の継承を意識しつつ読んでみるべきではないかと、これは個人的な宿題です(こんだけル=グウィンに言及しながら今シレッと明かされる『ゲド戦記』未読!)。
 そしてここに挟んでいいのか分からないけど、現代の新自由主義・ハイパー国家資本主義に抗する非西欧の自由や平等・合議制が現代でも無効でない証左として(ポポル・ヴフと同じくマヤ文化の系譜を継ぐ)サパティスタ民族解放軍の活動が挙げられる。個人的には「戦国時代にあって加賀の一向一揆は百年以上も自治を続けた」という話を(空振りに終わるかも知れないけれど)自分なりに一度、勉強すべきかも知れないと思っている。
 『国家に抗する社会』で斯界に多大なインパクトを与えた先達クラストルについても(未開→国家の不可逆性を脱せてないという批判とともに)女性の扱いが酷いと容赦ないグレーバーらしく、『万物の黎明』とくに終盤では未解読の線文字Aで知られるクレタ島のミケーネ文明が女性上位であったこと、そもそも数学的・幾何学的な知や彫刻などの美は選ばれた男性が思索によってヒョイと創案できたものだろうか・むしろ織物やビーズ細工のように手を使った実践的な営みを通じて女性たちが長い時間をかけて案出したものではなかったかという主張が目を引く。フェミニズムに(揶揄でない)関心をもつ人たちにとって、本書は福音の始まり・反撃の梃子(テコ)になる「左利き用スパナ」(ル=グウィン『夜の言葉』)となりうる一冊でもあるだろう。せっかくなので本書が引用しているル=グウィンの言葉を孫引きして、(今回もまた)とっちらかった週記を終えようと思います:
わたしたちには、学識者や詭弁家にそそのかされた悪い習慣がある。幸福をなにか愚かなものと考える習慣である(強調は引用者)

    ***   ***   ***
※)「国家が優勢になりデフォルトになったのは、ここ五百年」とは(読み間違えがなければ)本書の記述に則ったものだが、それとて五百年かけて優勢にデフォルトになったという意味であり、本書で献辞が捧げられてもいるジェームズ・C・スコットなどは中国南部〜東南アジアに展開した国家に属さない領域「ゾミア」を20世紀・第二次世界大戦後のモータリゼーションの浸透までは優勢を保っていたと捉えている。

小ネタ拾遺・25年9月(25.10.05)

(25.09.01)「見るからに怖ければ殺していいなら、私らのほうが殺されても文句言えなかったよね」とジョン・レノンが歌ったのは同じイギリス人の虎狩り(の言い訳)を批判してのことだったらしいが
The Beatles - The Continuing Story Of Bungalow Bill (YouTube/外部リンクが開きます)
今この国でアフリカやクルド出身の移民が「怖い」からと排斥の声をあげている人たちは、そうやって人種で人をくくっていいのなら、かつて震災に乗じて自国内の朝鮮人や中国人を官民一体で虐殺した・それを「日本人だって死んだ(それは災害による死者だったけど)のだからガタガタ言うな、ちゃんと一緒に追悼してんだから(死んだ理由がぜんぜん違うんだけど)」と開き直る日本人のほうが「見るからに怖い(かも)」と、少しは考えたことがあるのだろうか。9月1日はそれを再認識する節目の日だ。ましてこの国の人たちは100年前も「だってあいつらは怖いから」という名目で殺したのだ。今「ふつうの日本人」が言うのと同じように。

(25.09.02)かつてtwitter(現X)でヒッソリと滑った小ネタ『君の一族と私の一族は、もともと一つの王家だったのだ…地上(横浜)に降りたとき二つ(戸部と黄金町)に分かれたがね』に
 画像左:「こってり?あっさり?いや、こっさりです」旭川発こっさりしょうゆなるラーメン屋の貼り紙。右:家系ラーメン「あってり」なる看板。
11年後の続篇。「こっさりは滅びぬ、何度でも甦るさ!見た目こってり、食べてあっさりこそ人類の(以下略)」
 見た目こってり、食べてあっさり「こっさり」塩ラーメンなる二郎系?のポスター。期間限定9/1〜11/30。
ネタにした看板等のお店は可能なかぎり撮り逃げに終わらせず実食するという先月から採用した新しいポリシー(11月末まで猶予があるので)もう少し涼しくなるまで履行はMATTE KUDASAI…
(同日追記)甦った「こっさり」の「食べてあっさり」については「特製しょうが醤」=ショウガ特有のサッパリ感と食欲増進効果(んー旨かった、けれどまだ食べたい気がするぞ…なるほど「食べてあっさり」てコレか)に頼むところ大なのではと推測している。
 ポスター下部。「アクセントの特製しょうが醤で旨味が倍増」の他「家系ベースのスープに野菜200gの甘味と背脂をふんだんに使用した後引く旨さ」なる文言あり。

(25.09.04)デフトーンズ今回の新譜で(現時点で)いちばん気に入ってる曲・のビデオが
 
 BUCK-TICKの過去ビデオ(35年くらい前?)とコンセプトほぼ一致でむしょうに並べたくなった。「JUPITER」「ドレス」など手がけた星野さんの楽曲(確認したら詞も書いてた)。
 
ありがちな環境映像と言われればソコまでだけど、どっちも曲が異様に佳い。こういう映像ちょっと作ってみたい人生だった。

(25.09.06)せっかくデフトーンズの話題が出たので(いや自分が出したんだけどな/月末に拾う)アメリカでいろんなミュージシャンの音態模写を配信してるマルチプレイヤーAnthony Vincentさんの「もしCREEPが(レディオヘッドじゃなくて)デフトーンズの曲だったら
Anthony Vincent - Creep in the Style of Deftones(YouTube/外部リンクが開きます)
同じくVincentさんの「MUSEの曲だったら」(笑)
Radiohead - Creep (in the style of Muse)(同上)
こういう物真似は元ネタとなるミュージシャンへの解像度が高いほど反比例して「言うほど似てなくね?」となるかも知れないので、デフトーンズよりMUSEより一番よく知らないリンキン・パークの模写を自分は「よく出来てるなあ」と感動すら覚えた(そしてしんみりしてしまった)けれど、熱烈なファンの感想は違うかも。違ったらごめんなさい。
「ワンダーウォール」が(オアシスじゃなくて)リンキン・パークの曲だったら(同上)
ちなみに本邦では河村隆一の模写に特化した芸人さんが居るらしいのも一応しってます。Genesis of mindとか、そんな感じのやつ→
もしもファミマの入店音がLUNA SEAだったら(たむちゅーぶ/YouTube/外部リンク)

(25.09.07)先月末の予告どおり、伊勢佐木町(横浜)に昨年オープンしていたインドネシア料理店へ。看板には南十字星、インドネシアは国土の半分以上が赤道以南だと再確認させられる。ナシゴレンやミーゴレン、サテや近年「世界一おいしい料理」にも名乗りを上げたルンダンなどある中で
 左:店名=JJS食堂(店主が幼少期に通ったJakarta Japanese Schoolから採った由)に南十字星をあしらった看板。右:クルプックが載ったオポールアヤム(アチャール添え)に追いアチャール、お通しのモツ煮込み。
お値段的にも入門者向けらしいオポールアヤムを注文。鶏肉のココナッツミルク煮込みで、タイカレーを彷彿とさせつつ辛味レス。載っていたクルプック(えびせん)の原料はタピオカ=近ごろ何度か話題にしたマンジョッカ粉(キャッサバ)で、うーん地球の反対側からよく来たね。それをまた離れた日本で食べてる不思議。別注文した追いアチャールと、夜は席料300円でお通しが。この晩はスパイシーなモツ煮込みでした。アイスクリームを添えたバナナの天ぷら「ピーサンゴレン」も気になったなあ。

(25.09.09/重陽)いや別に和食も戴きますから。「台湾やネパールやインドネシアの料理を食べてたら、今さら和食なんて可笑しくって」なんて夢にも思ってないから。てゆか基本まいにち納豆たべてるよ…今晩は基本を外して外食で(おえんがー)大○屋へ。「おっ」と思った焼き秋刀魚ダブル定食は皆「おっ」と思ったらしい、早々に売り切れということで鯖の味噌煮。お味噌汁を冷や汁に替えました。
 鯖の味噌煮定食。味噌だれに底を浸したホウレンソウ、壺漬け、白ごはん。お味噌汁はオプションで冷や汁に交換。
昨年は色々と疲れていて(?)食べそびれた秋刀魚、今年は自分でも買って焼いて食べたい気分。いや気分じゃなくて今年は買って焼いて食べるぞ。You only live once.

(25.09.10)窓の暗さで察するに目覚ましが鳴る何時間も前に半覚醒して「ムニャムニャ…でも大丈夫、今日は土曜日だ」と思った一瞬後「いや、まだ水曜だし」と完全覚醒するのも「悪夢」というのだろうか。せめて仮面ライダーになりたい、とまでは言わんが。

(25.09.12)片仮名ではナンジトツ、あるいはナンジートゥなどと表記されるミャンマーの冷たい混ぜうどん(米粉)は底に隠れたタレごとワシャワシャかき混ぜると後を引く辛ウマさ。きな粉がまたええねんな。100円のサイドメニューから今回は「カモ血」を選択、なんとなく血のソーセージみたいのを想像してたら添えられたスープの中に…あ、これか!
 右:うどんのような太さの白い米麺に輪切りの茹で卵・スナックみたいな豆のてんぷら・肉みそ・きなこ(!)など盛られたナンジトツはレモンとタマネギ添え。横の透明なスープに沈んでいたのが左画像のカモ血。レバーみたいな色の柔らかそうな塊。
中国や日本でも血豆腐と呼ばれ供されるらしい。ぷるんと柔らかくて味は血そのもので「薬喰い」という言葉を思い出し、少し神妙な気持ちになったかな…?
(25.09.13追記)きな粉、たんぱく質を補う知恵なんでしょうね。味をまろやかにする工夫でもある。
(25.09.13追々記)カモ血をいただいて「薬喰い」(獣肉全般を呼んだもので意味合いは少し違う)とともに「なむあみだぶつ」という言葉が浮かんだのだけど、そう頭の中で唱えてしまうのがミャンマーの現状を鑑みて適切かと躊躇もしてしまった。まあ、かの国でメジャーなのは上座部仏教であり阿弥陀仏はあまり関係ないのかも知れないが。
・参考1)仏教国ミャンマーを揺るがすクーデター 失望と民主化の芽生え〜藏本龍介准教授インタビュー(東大新聞オンライン/24.2.11/外部リンクが開きます)
・参考2)上座部仏教と阿弥陀如来(Wikipedia「阿弥陀如来」/外部リンク/私は何をしているのだ)
地には平和(ルカ18−38)というだけのことが、どうしてこんなに難しいのか。
(25.09.14追々々記)自分が暢気にナンジトツをいただいてた同じ日に・ミャンマー西部で国軍が空爆、高校生ら22人死亡 学生寮で就寝中か(朝日新聞/25.9.12/外部リンクが開きます)こんなことが起きてて「畜生め」と言うのはここまで愚かでも残酷でもない動物の皆様に失礼なのだが、兎に角やりきれない。

(25.09.14)近ごろ世の険悪化を嘆く方向に話を持ってきがちな本サイトの中のひとですが、相変わらず暢気なボンボン気質ではあるので「たぶん日本語ネイティブだけが(現実には無関係な)アルジェリアナイジェリアをペア扱いしている可笑しさ」みたいな感じでスリランカ名物「でびるちきん」とジャマイカ名物「じゃあくちきん」を並べてフフッとなっている。ん、前者は本当に悪魔のように辛いからデビルチキンで、後者は邪悪なほど辛いわけではなくでもピリ辛・オールスパイスを中心に用いた味つけを「ジャーク」と呼ぶらしい。ケチュア語で干し肉を意味する「チャルク」が転じた「ジャーキー」はまた別の語源らしい。来週から松屋でジャークチキン定食。
(25.09.15追記)どうせならメニューが被れば食べ比べできて面白いのにと思ったら本当にかぶったかも
・松屋(全国):外交メニュージャマイカ編!「ジャークチキン」新発売(9/16〜23?/外部リンクが開きます)
・JICAポートテラスカフェ(横浜):今週のエスニック・ジャマイカ風ジャークポーク(9/15〜21/外部PDFが開きます)
中華街で中秋節限定の金華ハム入り五目月餅(翠香園)が売り出されるのは入れ違い9/23あたりからなので遠来のかたに買い出しと合わせてとは言えないのがつらいけど、近郊で機会のある(そして日本風にアレンジされたジャマイカ料理の食べ比べに興味ある)人は参考までに。

(25.09.16)1)プラスチックが経年劣化で突然「もう限界です」みたいに折れたりするのは洗濯バサミなどで体験している人も多いと思う。2)音楽プレイヤーならプラグを挿すところ・ノートパソコンなら折られる継ぎ目と、機器は負荷のかかる部分から壊れがちなのも皆様たぶん御存知でしょう。両方を合わせると冷蔵庫で麦茶を冷やすポットが「なるほどーココからかぁ」と妙に感心してしまった。
 左:半透明の筒に白い蓋をかぶせた冷茶ポット。右:蓋を持ち上げ		「ぱこっ」と外す用・ツマミのように飛び出た部分が根元から折れた画像。
そしてコレが意外にクリティカルに不便なんですわ。いい機会なので買い替えました。200円くらいだし。

(25.09.17/近況報告)ここ二日ほど38℃くらいの発熱が続いて、ついに新型コロナに捕まったかと検査を受けたらインフルエンザもコロナも陰性(抗原検査だけど)あと、頭痛や身体の節々の痛みもそれほどではなくて「ほな新型コロナとちゃうかー」でも熱だけが下がらない。ひょっとして体温計がおかしいのかと新しいのを買ってみたけど測定結果はほぼ同じ。
 左:新型コロナ・インフルエンザとも陰性の検査結果。右:二つ並べた新旧の体温計。旧いほうが38℃・新しいほうが37.9℃
 もう少し発熱が続くようなら離れて暮らしてる家族にも一報入れとくべきかと思う一方(突然本サイトの更新が停まったら、まあそういうことよ)一昨日の夜にあまりの痛みで体温を測ったら38.5℃だった・今まで熱を測るとかしてこなかったけど慢性的に頭や身体の節々は痛んでた…まさか「まあこんなもんだろう」と思って今までも発熱は続いていたとか…
(同日追記)熱、一時37℃くらいまで下がったけれど晩になって再び38℃に。処方されたカロナール、いつも自分で使ってるイブプロフェンに切り替えたほうがいいのかなと思う一方、これってストレスが原因ではと冗談なかばに思っている。だとしたら当分このままかも。
日本政府、パレスチナ国家承認を見送りへ 首相は国際会議欠席見通し(朝日新聞/25.09.17/外部リンクが開きます)
(25.09.18)一晩+二日ほど続いた38℃の発熱も今朝は37℃を切り、労働に復帰。帰宅する頃には平熱復帰しましたが、まあ病み上がりもあって日中の仕事はボロボロでした。9/15発売のビッグイシュー511号(公式/外部リンクが開きます)の表紙+巻頭インタビューはアーノルド・シュワルツェネッガー。かつてカリフォルニア州知事を務めたこと程度は知っていたが、任期中に同州の温室効果ガス排出量25%削減を成し遂げるなどゴリゴリの環境派なのは不勉強で存じ上げなかった。
同じくドイツ系、同じく不動産投資で財を成し、同じく若い男性層から絶大な支持を受ける…米憲法が「米国外生まれの大統領候補」を禁じていなければ、ひとつ年上のドナルド・トランプの代わりにシュワさんが大…大統領「候補」くらいにはなっている世界線もあったのかも知れない。現実にはドナルド・トランプやジョージ・ウォーカー・ブッシュ・ジュニア、シュワ氏と同じく俳優出身のロナルド・レーガンを大統領に押し上げた勢力が黙ってはいなかったかも知れないが。
体温計と、シュワルツェネッガーを表紙に配したビッグイシュー最新号。
(まだ病み上がりなので早く寝なきゃなのだけど同日追記)んで、まあどうでもいいことなんだけどさあ、ビッグイシュー誌が描き出すシュワ氏に比べて、かつてはライバルだった?シルヴェスター・スタローンの墜落ぶりよと。MAGAに飛びつきドナルド・トランプを礼賛する以前に『ランボー』の完結篇が酷くて酷くて。俳優復帰後のシュワ氏が腕力では解決できない悲哀を表現しようと(首尾はともかく)試行錯誤している(21年4月の日記参照)のに対し、隣国人を悪魔化して復讐のカタルシスに酔うために罪もない娘を犠牲に仕立てて男泣きがええい気持ち悪い。いくら殺しても「痛快」で許される悪魔に擬せられた「隣国人」が、シュワ氏(とキャメロン)の『ターミネーター・ニューフェイト』ではアメリカにない救いがある国と目された、同じメキシコなのも不思議な符合。スタローンが尻尾を振るトランプが壁で隔てようとした(してる)国。
(追々記)ほーらすぐ寝ないから『ミルキー☆サブウェイ』の最終回に間に合っちゃって、こんな時間だし熱がまた37.2℃まで上がってる…「ミルキー☆サブウェイって一話3分半でしょ?」最終話は4分半だったの!「それにしたって、たかが4分半…」それを5回も6回もリピート再生しちゃったの!イブプロフェン飲んで寝ます…

(25.09.20)咳が出そうで出ないという「咳が停まらないゲホゲホ」とは別の苦しさ。たぶん病毒を身体の外に排出するだけの体力がないんでしょうな…処方された補中益気湯の効能から逆算するに。さすがに38℃の域には戻らないけど少しでも油断すると37℃を越える感じ。トローチを買いに薬局に向かうのに金曜夜の繁華街を突っ切ると、飲み騒いでる人たちとは住んでる世界が違う・てゆか最初から乗ってる人生のレールが違ったんだなと改めて(改めてなんだ)実感する。オーオー・アイム・アン・エイリアン、アイアム・ア・リーガル・エイリアン。
 Jon Stewart's Post-Kimmel Primer on Free Speech in the Glorious Trump Era | The Daily Show(YouTube/外部リンクが開きます)
保守論客が殺害され、やれ犯人はサヨクだトランスジェンダーだと騒ぎたてたあげく案の定じっさいは保守の内ゲバだった件で、保守ども大概にしなよと釘をさしたTV司会者が圧力で馘首されたアメリカ。それを受けての別の司会者の全力おべっかと腹芸、20分を越える動画なんだけど(日本語字幕で)見入ってしまった。言いたいことは沢山あるけど、相変わらずの体調なのでココらでドロン。

(25.09.20)「懐かしの黄色いカレー(辛みマイルド)」なる惹句と給食っぽい銀色のトレーに盛られた商品写真に、これはもしかして新潟名物・万代バスカレーの代替になってしまうのではと入店。果たして出てきたものは、よし、違う(なんで嬉しそうなんだよ)。店頭の広告写真はいわゆる「写真はイメージです」だったらしく、実物はかなり茶色め。なにより味も舌ざわりも違う。逆に、どうかすると自分的「三大カレー」最初の椅子を優先的に与えてしまうほど実は好きかも知れない万代バスカレーへの愛着を再確認してしまった。東急線の駅そばチェーン「しぶそば」の挑戦メニュー。保険で頼んだ「かきちく」(半月型に断ち切ったかき揚げと、長いちくわ天)塩でいただく衣がサクサクでおいしかったです。
 左:「懐かしの黄色いカレー 辛みマイルド・590円という店頭広告。右:広告よりはだいぶ茶色い現物。トッピングに半月型に切り割ったかき揚げと、ちくわ天。
これなら自分で作って冷凍してある豆カレーのほうが美味しいや、と言うと何だ自慢かとなりそうだけど、事実だから仕方ない。でも、冷凍カレーを戻して仕上げて炊いた(湯取りした)ごはんと合わせるだけの余力も平日はなかった。公休日の今日は逆に家から一歩出る力も出ず、久しぶりの支出ゼロデーに。咳は少し出るようになりました(※咳きこめないくらい弱ってた←為念)
 自分で作った豆カレー。トマトソースをディップした目玉焼きと、ハッシュ℃ポテトをトッピング。
※いま直感で選ぶ三大カレーは万代バスカレーと地元横浜「バーグ」のスタミナカレー(生)・それに鎌倉「キャラウェイ」のチーズカレー。勝負やランキングでなく、自分の個人史での「これを食べて来れて幸せだったカレー」。でも各々おいしいよ。

(25.09.22/小ネタ/すぐ消す)『ミルキー☆サブウェイ』のせいで多少キャンディーズづいてるせいか、いや・日本政府、パレスチナ国家承認を見送りへ(朝日/25.09.17/外部リンクが開きます)・イスラエル外相が日本に謝意(時事/25.09.19/外部リンク)のコンボには当然のごとく煮えくり返っていたのだけれど、これに対する
見送る日本に「今がその時」国家承認呼びかけ 駐日パレスチナ大使(25.09.22/同)の見出しが「今がその時♪躊躇わーなーいでー♪」とスゲぇ美声で脳内補完されてフフッとなってしまった(スミマセン)お菓子食って涙が出そう(本当にスミマセン)
キャンディーズ - アン・ドゥ・トロワ(YouTube/外部リンクが開きます)
 しかし実際のとこ、あんだけ世界の評判とか、世界で尊敬されることばかり気にしてる…もとい、和をもって尊しと為す皆さんなのに・現在パレスチナ国家を承認している国々(と、承認していない国々)の地図(Wikipedia/外部リンクが開きます)に見る吾が国堂々の孤立っぷりを不安に思ったりはしないのかしら(韓国と台湾はまだ仲間で良かったな…?)。わりと本当に「♪もう戻ーれーない もう戻ーれーない(ハモり)」瀬戸際だと思うのだけど。
(前にも貼ったかも知れないけど)いちおう貼っておこう署名:
世界につづけ-パレスチナ国家承認(change.org/外部リンクが開きます)
(同日追記/速報)もう面倒なのでリンクは貼らないけど+「何を今さら」「てゆかどの口で」とか思うことは多々あるけどイギリス・フランス・ポルトガルがパレスチナ承認側へ。Wikipediaの世界地図(実は色合い上カナダとオーストラリアの寝返りが大きかった)も早速塗りかえられてて「仕事早っ!」と驚いている。

(25.09.25)たった五文字の地名の中に、行政単位が三つも紛れ込んでいる「市」谷本「村」「町」。靖「国」通りまで入れたら四つだ。こういうの、お前好きだろ?と言われた気がしてすす、好きなんかじゃないと(市ヶ谷だけに)思ったけど念のため記録(ツンデレ)。東京都新宿区。
 夜の案内板。「市谷本村町(靖国通り)」左に進むと市ヶ谷駅・右に進むと曙橋。

(25.09.27)数十年つづいた排骨担々麺の草分け的な名店・亜寿加(あすか)を潰して再開発した渋谷の大規模施設が「日本一あたらしい廃墟」などと揶揄される閑散ぶりらしいが、よくよく追跡記事など読んでみるとオフィス部門は賑わっており、商業部門も今後の巻き返しが期待されるので半分成功などとも分析される模様(ただし世の中の「期待」では海洋水面がどうとかの根拠をもって今夏は酷暑が和らぐと「期待」されてたし、理由は知らないが「そろそろ例年の酷暑も終わるでしょ」と「期待」する声を耳にしたりはしている)まあ当該施設が失敗するなら学生時代から通った老舗を奪われた僕の呪いだと思うので、人を呪えば穴二つ・そういう呪いは簡単に叶ってはいけないのである(どうせ叶うなら、もっと大きな呪…いや何でもない←そっちも叶ってる可能性があって怖い)。
 ちなみに亜寿加で働いていた人たちが同じく渋谷では元店の近く・さくら坂を登った中ほどに「蓮華の五徳」・神保町に「五ノ井」という継承店をそれぞれ出していて、先日は久しぶりに五ノ井へ。実は7月に訪ねた時は夜8時前に「排骨完売・本日の営業は終了いたしました 店主」なる貼り紙にスゴスゴ立ち去っているので、まあ半年に一度くらいしか足を運べない隣県民が余計な心配をしなくてよい程度には繁盛しているのでしょう。亜寿加の代から数十年・一杯目はサービスだった白ごはんが有料になって今が踏んばり時なのかも知れないけれど、おめでとう6周年。
 左:7月に撮った「排骨完売」の貼り紙・下に「ありがとう!6(周年)」の文字も見切れている。右:冷やし排骨担々麺に白ごはんザーサイ載せ・別に頼んだ青菜。
いつもの冷やし排骨担々麺を頬張ってると「○○番ですー」とデリバリーを取りに来た人がちらほら。お店の側からしても(コロナ禍以降は特に)こうしたデリバリーは生命線なのだなと知れば「○○イーツで、いーんじゃなぁーい」みたいな広告は気障りでもデリ産業の隆盛じたいを一概に否定は出来ない気がする。ただし、そうした一人は時間のかかる注文があと五分くらいかかると言われて「その間に一件ほかを廻ってきます」と気忙しく出て行ったので(頑張って稼ぎなよ)(昼間オレタチ会ったらお互いに「いらっしゃいませ」なんてな)いわゆるギグワーカーの人たちが「誰にもありがとうと言われない」「機械扱いされる」ような蔑視を受けない社会であってほしいと思う。もちろん子ども食堂みたく「讃えられてもやりがい搾取」でなく給与面や福利厚生も、制度的に。

(25.09.27)まだ出てない本を求めて(9/30発売)8000歩も歩いてしまった。いや途中の千歩くらいは菊名の図書館に本を返しに寄ったのだけど。通勤定期があるのをいいことに、久しぶりに綱島の街を冷やかして楽しかった。もう少し涼しくなれば、夜のお散歩に最適な季節。

(25.09.30)「少しでも地獄の刑期を減らしたくてよ(地獄行き確定なのは仕方ないけど、安○○三や麻○○郎と同んなじ処で息する時間は一秒でも減らしたい)とか「いや自分のばあい傲慢や怠惰で色んな人を傷つけてきた半生を少しでも罪滅ぼしをしなくちゃだから(これは本当にそう)」などと嘯きつつ、人に道を訊かれては教え、電車の乗り方を訊かれては教え、狭い道で向こうから自転車が来たら停まって譲り、電車の座席を妊娠してる女性に譲り、妊娠してなさそうだけど見るからに体調限界そうな人にも譲り、外食のあとの食器を下げやすいよう一つに重ね(これはコミティアで仲良くしてくださった飲食業の作家さんに教えていただいた)いつの間にか地上で還元されるポイントが貯まっていたらしい。月の〆日だし明日から節制と言うことでと夕食に定食を頂いてる間にヤバいくらいの大雨に見舞われ、とゆうか支払いのレジで店外を見て初めて気がつき「うわぁ…」と狼狽えていたら、店の傘を「使ってください」と貸してもらった。もちろん日本人にも良い人がいるのは知ってるけど(たまに見かけて内心で・あるいは遠くから気づかれないよう「グッジョブ」と親指を立てたりしている)、どう見ても聞いても(流暢な日本語を話すけれども)アジア系・外国ルーツの給仕さん。独断でパッと物置の奥から出してきてくれたから店内でも信頼されてるポジションなのだろう。いや本当に助かりました。
 池袋・黄金のハートをもった給仕さんのいる洋食屋のチキン南蛮・豚焼き肉盛り合わせ定食画像
 来月から節制の誓いは一日保留・明日は傘を返しがてら同じ店でまた何か頂こうと思いつつ、また何かあった時また誰かに助けてもらえるよう、帰りの電車でさっそく座席を妊娠してる女性に譲る。池袋・某キッチンの店員さんにもイイことありますように。また来月。

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