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この国で最後の「シャン」を見たかもしれない話(25.10.12)

最後の螢を見た僕ら 最初のロケット見た僕ら
さねよしいさ子「子供の十字軍」

 今週のメインとなる「シャン」の話はTwitter(現X)で何度か蒸し返したことがあって、まあそのたび特に反響もなかったのだけど、もしかしたら貴重な記録かも知れないのでサイトのほうにも残しておくことにした。その話は聞き飽きた、というかたがいらしたら申し訳ない。あと1983年以降の天然の「シャン」の目撃情報、ゆるく募集しておきます。

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 最近とつぜん天啓のように気づいたんだけど、日本人がRADIOのことラジオって呼んでる(読んでる)の、英語の発音はレィディオゥーなのに田舎者だからRADIOをベタにローマ字読みしてんのプププとかじゃなくて、さいしょ戦前にドイツ語として入ってきたからではないのか。
 いや、確証はないねんけど
(エセ関西弁)、カルテにクランケと医学用語はドイツ語が多いしリポビタンDが「ディー」じゃなくて「デー」なのもドイツ語、というのは数十年前に北村薫氏のエッセイで読んでたのに、ラジオのことは思いつかなかった。英語とドイツ語で交互に唄ってるクラフトワーク(ドイツ語読みだとクラフトヴェルク)のドイツ語パートだと、たしかに「ラディオ」と発音してるのに、これも数十年、耳に親しく馴染んでたのに深く考えたことがなかった。無知の知!
Kraftwerk - Radioactivity(YouTube/外部リンクが開きます)
あれ?カルテはドイツ語?さらに古くてオランダ語?ターヘル・アナトミア?無知!(確認したところカルテはドイツ語でした)
 キャプション「向こうでは同じ物をさす単語が日本に入ってきた時期によってカルタ(葡)・カルテ(独)カード(英)と違う意味になるのも面白いですよね」に「スペードのA(エース)」のトランプ(カード)を手にした舞村さん(仮名の)イラストを添えて。

 それで思い出したのが「シャン」のことだ。
 昔の俗語・外来語にはドイツ語由来のものが多かったようで、軟派なところでは若い女性のことを「メッチェン(たぶん英語で言うところのメイデン meidenでしょう)」そして美女のことを『シャン」と呼んでいた。
 現在は死語だと思う。だいたいデリカシーのない若い男性などが使っていた俗語らしく「バックシャン」などという派生語があり、こちらのほうが長持ちした可能性はある。バック=後ろから見たら美人という、まあ酷い意味だ。
 死語だと思うと言うだけあって、僕じしん、この「シャン」を現役の言葉としてリアルに使ってるのを見聞きしたことは一度しかない。1982年、ジャッキー・チェンが監督・主演したカンフーアクション映画の金字塔『プロジェクトA』が日本で劇場公開された時のことだ。
 現在のようにアクション映画がインフレのように高度化・複雑化した今では想像しにくいかも知れないけれど『プロジェクトA』は当時は画期的な作品だった。それまで日本で知られていたジャッキー主演作が清朝時代の中国を舞台にカンフーの良い一派と悪い一派、良い一派の放蕩息子ジャッキーが心を入れ替え修業して最後には悪の親玉を倒すという単線的な筋書きだったのに対し、植民地時代の香港を舞台に善玉だけでも海上警察と陸上警察の内輪もめ・それに街の小悪党が三つ巴となり、しかし後半は結束して大悪玉の海賊退治に乗り出す重層的なストーリー。拳で決着をつけるカンフー映画ながら、随所で手榴弾を用いた爆発シーンを見せ場にし、特に最後、ラスボス海賊王の強さを示すために(あ、注意:今週の日記には映画『プロジェクトA』の重大なネタバレがあります(遅い))ジャッキー単独では歯が立たず、良いもん三人プラス1の四人がかりで、しかも殴り合いではなく絨毯でグルグル巻きにした中に手榴弾を放りこむ反則技で、どうにか倒す演出が画期的だった。
 その『プロジェクトA』前半で仕事道具の艦船を海賊に破壊され、失意のうちにライバルの陸上警察に併合されたジャッキーたち水上警察の面々。ユン・ピョウ演じる陸上警察の隊長は、ここぞとばかり配下となった水上警察の面々をいびり倒す。野外訓練中に他所見をして、演習場の横をパラソルなんぞ差して通り過ぎる外国の貴婦人(メッチェンですなあ)たちを品定め、後にテレビ公開された吹替版では見ろ、いい女だな」「お前、どっちを選ぶ?とコソコソおしゃべりしていた水兵ふたりはユン・ピョウ隊長に見とがめられ「見ろ、いい女だな」「お前、どっちを選ぶ?」と百回復唱されられる罰を喰らう。夜中に寝言で「ムニャムニャ…見ろ、いい女だな」とうなされる処までがワンセットの、コミカルなエピソードだ。
 この「見ろよ、いい女だな」「お前、どっちを選ぶ?」(吹替版)が、劇場公開時の日本語字幕ではハクい」「シャンだだった
 ユン・ピョウ隊長に見とがめられハクい」「シャンだを百回。夜中にうなされハクい」「シャンだ。スクリーンに投影できる字幕の字数には限界があり、なるべく簡潔で短い表現が良しとされたためである。ちなみに「ハクい」は「佳人薄命(美人薄命)」から生じた「美人」をさす俗語で(不良っぽい言葉のわりに教養ベースで機知がひらめいてるのが面白い)こちらのほうが使われていた期間の長さは兎も角、後々の時代まで使われた表現ではなかったかと思う。「シャン」はといえば、うわあ「シャン」て現役の言葉として使ってるの初めて見た!と驚いたくらいで、その後この単語を実際の会話として使っている姿を見たことはない。
 とゆうか「バックシャン」みたいな派生形をのぞけば、いや「バックシャン」も「昔はこういう言いかたをした」と間接的な用法しか見たことはないのだが、「シャン」という言葉をそれ以前に見たのも一度きり。1970年に小林信彦氏が書いたジュブナイル小説『怪人オヨヨ大統領』に「シャン」という表現が出てきて、小説内で語り手の小学生・ルミちゃんが(そんな古い言葉を使うなんて、この人たち何歳かしら)と訝しむ扱いだったのだ。ともあれ、それでかろうじて「シャン」(美人のこと)(そして1970年の時点で死語)の存在を知っていたわけで、要するに1982年の『プロジェクトA』は僕が実際に使われてるのを見聞きした、たった二回きりの二回目、もしかしたら日本で「シャン」という言葉が使われた最後・少なくともかなり最後に近い事例ではなかったかと(勝手に)思っている。
 もちろん僕が見聞き出来る範囲など、ごくごく限られているので根拠にとぼしい憶測でしかないが、この文章を読んでいるあなたが「そもそもシャンなんて言葉、初めて知った」と思っているなら、この憶説は憶説なりに信憑性も増すのではないだろうか。逆に1983年以降「シャン」を見たよ、という目撃情報がありましたら、拍手など通じて御教示いただけたら幸いです。

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 これで終わりにしても良かったんだけど、最近のニュースを見て、もうひとつ思い出したことがある。
 2004年、アメリカに戦争を仕掛けられていた真最中のイラクで日本人が現地の武装勢力に囚われる事件が発生した。武装勢力は同国のサマワに駐留していた自衛隊の撤退を要求、受け容れられなければ人質を殺害すると発表したが、小泉純一郎首相は「テロには屈しない」として要求を拒否。最終的に人質は無事解放されたが、日本国内では人質にたいする激しいバッシングが起きた。
 このいわゆるイラク日本人人質事件のバッシングで(僕が見聞きした範囲でも、市井の人々の「テレビに出ていた人質の家族の態度が悪い」「解放された人質がタバコを吸っているのが気に入らない。しおらしくしろ」など、なかなか人徳に溢れた意見が多くて日本人の「美質」について大いに悟らされた)当時の国会議員が、人質を反日分子と呼んでいるのをニュースで見て強烈に記憶に残った。
 反日ならまだしも反日「分子」。「シャン」と同様、現役の言葉として僕が見聞きした最初の用例だった気がする。それも同じ日本人を相手に。その語を発したのは、それこそ『プロジェクトA』と同時代に放映されていた夕方のTVバラエティ・漫画家と絵心のあるタレントたちがフリップにポンチ絵を描いて回答する大喜利形式の番組で、タレ目の司会者として人気を博したアナウンサーだった人物で、後に自民党から出馬・当選するも、たしか一期か二期で(二期はなかったと思いたい)政界を去り、中央のテレビ界からも消えたはずだ。別に政治家として小粒だったことを云々するつもりはなくて、むしろ出自は庶民的なアナウンサーが、たまさか手にした国会議員という絶大な立場を(圧倒的な力の不均衡を承知で)国民三人を圧殺するために用いた、それを哀れなこととして憶えている。
 改めて、僕の見聞きの範囲など限られているので「シャン」以上に、それなら他の誰それが言ってたよ、使ってたよという用例はいくらでもあるだろう。それでも国会議員が自国民を「反日分子」と名指しするのは前代未聞・いや過去にはあったが死に絶えていたはずの言葉が復活したようで、「シャン」は最後(?)だったけれど、こちらは今後また「良識ある日本人」の皆様がここぞとばかりに使ってゆく「最初の」用例になりはしないかと、剣呑な気持ちにさせられた。
 紙のメモ帳に描いた羊帽の女の子(ひつじちゃん・着色)に添えてキャプション:いやすんません、今おにぎりに全振りでこっちの文意に沿った絵や画像を用意する余裕がないんですわ…これでご勘弁
 つい先日、ガザに食糧や医療品など必要な物資を届けようと試み、イスラエル軍に拿捕・強制退去させられた「グローバル・スムード船団」(Global Sumud Flotilla)の、世界44ヵ国から参じたメンバーの中に、日本出身オランダ在住の62歳の女性が、ただひとりの日本人として加わっていたと報じられていた。法的にも人道的にも問題のある、この拿捕・収容所への拘留・強制退去について、日本政府は何らの抗議もしていない。この女性に、かつての「反日分子」のようなバッシングが日本国内から起きることを懸念しないでもなかったが、僕の改めて、改めて、狭い、狭い、狭い見聞の範囲では、日本ではなくオランダに戻った彼女について目立った非難の声はあがっていない・そもそも存在すら知られていない感じのように思われる。良いのか悪いのか。良くはないのだろうけど。

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 冒頭に音源へのリンクを貼ったクラフトワークの「Radioactivity」は「Radioactivity is in the air for you and me」(放射能―それは空気中にある、あなたと私のために)というフレーズで始まるが、近年、とくに3.11以降はその皮肉というかブラックユーモアを素のまま「お出しする」ことが出来なくなり、繰り返す「Radioactivity」の前にいちいち「Stop」と挟んで「Stop radioactivity」(放射能を停めろ)と唄うことがステージ上の慣例となっている。日本のバンド・BUCK-TICKも、代表曲のひとつ「スピード」の「これが最後のチャンス 自爆しよう」というフレーズを2001年9月11日以降は「自爆しよう」を「愛しあおう」と置き換えて唄うようになった。尖った歌詞を唄っていた若い頃の彼らを無責任と責める気になれないのと同様「毒気が抜けてツマラナイ」などとパソコンの前でくつろぎながら言えるものでもないだろう。
 アルバム『放射能』は、元AKBグループで今は声優として活躍されている女性がアイドル時代にテレビのバラエティで、同期の仲間たちが十代やハタチそこそこの女の子らしい「お気に入り」を披露する中「好きなアルバム」としてプレゼンして周囲を困惑させていた映像を、後になって観たことがある。僕も(彼女よりは一回りも二回りも年嵩だけど)十代やハタチの頃は自分が生まれる前のドアーズだのヴェルヴェット・アンダーグラウンドだの聴いていたので親しみが湧く。てゆうか彼女、当人の年齢としては僕より若くして『放射能』を聴いていたわけで(僕が『放射能』にハマったのは、たぶん25を過ぎてから)、一曲目でタイトル曲の「Radioactivity」も上に貼ったとおりシングル向けの際立ったチューンですが、曲の終わりに被さるようにイントロが聞こえていた二曲目も、また素晴らしいのですよ。
Kraftwerk - Radioland(YouTube/外部リンクが開きます)
activityのつかない単なるラジオ(radio)も、そもそもドイツで普及したのはナチスが宣伝放送を国民みんなに聴かせるため開発された廉価タイプによるものだったと思えば「放射能」に劣らず、皮肉で毒のあるテーマと言える。もちろんラジオによる政治的宣伝はナチスの専売特許ではなく、大統領時代のルーズベルトはラジオ談話を積極的に用いたというし、ナチスの脅威に抗するためイギリス国王がラジオ放送で国民を鼓舞したという神話は映画『英国王のスピーチ』で描かれたとおり。何より21世紀の吾々は20世紀後半のルワンダでの虐殺で差別を煽るラジオ局「千の丘ラジオ」の扇動が果たした役割を知っている。
 インターネットの黎明期に「これが何を意味するか分かるかい?放送が認可を受けた放送局の特権じゃなくなって、地球に住む60億人それぞれが、60億の放送局を開けるってことなんだ」と語ったひとがいたという(浜野保樹『イデオロギーとしてのメディア』)。それは60億人それぞれが「千の丘ラジオ」となって「反日分子」みたいな言葉を撒き散らす力を持ち得た、ということでもあると、どうかわきまえていてね。RadiolandならぬRadio"Rim"landがWi-Fiの電波に乗せて(今週)言いたいことは以上です。御静聴ありがとう。

この車両から降りろ!〜□ート製薬「デジアイ」(25.10.19)

 天野祐吉さんというかたがいらした。肩書きは広告批評家。70年代の終わり―糸井重里・林真理子・仲畑貴志といったコピーライターが脚光を浴びだした頃だろうか、その名も『広告批評』という雑誌を立ち上げ、新聞で毎週一回テレビCMを取り上げるコラムを執筆し、そして年末には筑紫哲也氏が司会をつとめていた報道番組にゲスト出演して同年の日本の広告を総括されていた。
 その天野さんが、ある年の年末、筑紫氏の番組で例年どおり日本のCM、視聴者=顧客の関心を惹こうとするあの手この手を紹介したあと、最後に「でも僕が今年いちばん印象に残ったCMはコレなんです」「今まで見たこともないようなCMでした」と取り上げたのは、アメリカのファッション・ブランド「GAP」のコマーシャルを、日本でも同型のまま放映したものだった。僕は人生のかなり早い時期にテレビ受像機という装置を手放し、たまに実家に帰る時くらいしか番組もCMも観る機会がなかったので、1999年だという放映時期が少し信じられない。いや、年末には実家に帰っていたので筑紫さんの番組で天野さんが喋るのを観る機会はあったろうけど、それより前に僕も番組のあいだのCMとしてコレを観て「なんかすごい」と思ったのを憶えているのだ。
 
 地味な色のカジュアル・ウェアをまとった若者たちが唄っているのはドノヴァンの「メローイエロー」、1999年という放映時期が事実なら丁度20年前・1969年の時代もののナンバーだ。この後もGAPは若者たちが新旧のヒット曲を合唱するCMシリーズを続けたけれど、この「メローイエロー」の印象を上回ることは到頭なかった―というのは個人の感想だけど、おそらく天野氏も同意されただろう。
 このCMがどうして(当時の僕や天野氏の目には)異彩を放って見えたのか、説明することは難しい。広告らしい「この商品が」「買って」的なアピールが、まるで希薄に見えることもあるだろう。ちなみに唄われているドノヴァンの歌詞も60年代の終盤、ドラッグの影響で幻覚や幻想を主題にしたサイケデリック・ロックが流行った時代の産物で、要は「まるで意味不明」と評されている。余談に余談を重ねると、ドノヴァンの別のヒット曲「ハーディ・ガーディ・マン」に至っては、デヴィッド・フィンチャー監督が実在したシリアル・キラーを描いた映画『ゾディアック』のテーマ曲に採用され、それが違和感ないくらい不気味なのだった(映画を知ってしまった後で聴くとコンディションの悪い時は本当に体調が悪くなる級なので動画リンクとか貼らないけど、逆に怖いもの見たさ聴きたさの人にはオススメかも)
 しかし改めて、この「メロー・イエロー」CMがもつ、なんなら少々ホラーめいてすらいる異様な魅力を、一目みて「うわ変」と通じないひとに(いや通じるひとにも)説明することは難しい。同作がその後のCMの流れを変えたかどうかも分からない。

 なんでこんな話をマクラにしたかと(はい、例によってマクラです)といえば、まったくベクトルは違うんだけど「もしかしてコレは(コレも)(コレはコレで)時代を画するスゴい広告なんじゃないだろうか」と思わされる広告に、昨晩たまさか遭遇したからだ。とうに泉下の人となった(2013年没)、そして生前には「九条の会」の賛同者でもあったという天野さんが、この広告を見ることがあったら、どのような印象を抱かれたことだろう。
      *     *     *
 まっすぐ本題に進むと、それは電車の一車両の内側にある広告スペースすべてを一企業の一商品がジャックした・買い切ったキャンペーンで、売り出されていたのは(検索避けに一部を伏せ字にするならば)□ート製薬の「液晶ディスプレイの見過ぎで疲れた目に特化した目薬」というコンセプトの新商品だった。
 広告形態の特性上、もう二度と遭遇できないかも知れないので、うろ憶えになるが、すでに薄れつつある記憶を可能な限り書き留めておこう。
 余白を大きくとった横長の白紙の左上に黒字で「あなたが幸せを感じる時は?」みたいな質問文が記されていて、これは車内に貼られたどの広告でも共通している。回答のバリエーションは何種類かあって、白紙の真ん中に大きく黒々と「一日30分の読書」「朝起きて白湯を飲む」「自然な陽光をいっぱいに浴びる」「自分探しの旅に出る」みたいな模範回答が書かれている―が、これが本当の回答ではないのが、その広告の核心だった。
 いかにも世間いっぱんの、建前上の「幸せ」の下には、少し小さく、紫の文字で
一日30分の読書 じゃなくてカラオケ・アプリで熱唱
実際の文面は「じゃなくて」ではなく「の代わりに」「よりも」だったかも知れないけれど、ともあれ
朝起きて白湯を飲む じゃなくて夜通しでドラマを一気見
自然な陽光をいっぱいに浴びる じゃなくて推しのSNSをいっぱいに浴びる
自分探しの旅に出る じゃなくてひたすらエゴサーチ
横長の白紙の下のほうには「41歳・IT関連業務」みたいな肩書きがついて、この「41歳・IT関連業務」の人物が「あなたが幸せを感じる時は?」と問われて「一日30分の読書 じゃなくてカラオケ・アプリで熱唱」と答えている体裁になっている。
 そして紫の字で書かれた「じっさいの幸せ」「本音の幸せ」は、よくよく見れば(よくよく見るまでもなく)どれも液晶モニタを凝視するたぐいの営みで、そんなデジタル疲れ目には、新商品の目薬をと(間接的に?)サジェストしているわけだ。
 上に説明した広告の「30分の読書よりカラオケアプリ」バージョンを再現した手づくり画像。
 なんか「逆に」スゴい広告だと慄いてしまったのは、たまさか僕が車内で読めるよう「本」を持参して、その車両に乗り込んだ―からだけではないだろう。GAPのCMほどではないけれど、この広告も(何がスゴいか)サッパリ分からない人も、おいでかも知れない。簡単に言ってしまうと本広告は「今どきの幸せって、世間一般で言われてるアナログな喜び(A)より、もっとデジタルな液晶モニタごしの喜び(B)ですよね」というメッセージにすんなり同意できない層(世代?)にとっては「ここで一度、デジタル漬けの生きかたを考え直さないか?」という逆の問いかけとして機能してしまうのだ。読書よりもアプリ、日光浴よりSNS、旅よりもエゴサーチ、それでいいのか?囲まれちまってるぞ?と。

 今まさに自分がしてるのも液晶モニタを前にデジタルな機材で作成した文章をネットに放流する作業そのものなので(それとこれとは)「ちゃうねん」と、いちおう説明したほうがいいだろう。いや、実は「ちゃわない」弱みも幾分かはあって、特にまだSNSに籍を置いて盛んに発言していた頃しばしば自ら苛まれた「弱み」のひとつは「商品を紹介し消費を煽ること以外に表現の手段はないのか」ということだった。
 つまり何かを表現したい、この世界について語ったり伝えたりしたいと思った時。こういう本を読み面白かった、こういう映画を観て感銘を受けた。どこそこに旅行に行って、こんなおいしいものを食べた―どれもこれも商品の紹介・消費の扇動ではないかと暗い気持ちになることが少なくなかった。先週の日記(週記)では「インターネットは放送という行為を、認可を受けた放送局の独占から解放して、地球に住む60億人それぞれが、60億の放送局を開けるようにした」という言葉を「それは差別の扇動も可能にした」という文脈で取り上げたけれど、もうひとつ「実際フタを開けてみたら、60億の放送局は(自分に直接的な利益があるにせよ、ないにせよ)何か商品を売るための"民放"だったか」とウンザリすることも、しばしばだった。
 どのみち人は人と関わらないと生きていけない・酸素を吸って二酸化炭素を吐きだすように何かを受け取って何かを手渡す「やりとり」なしに人生も幸せもありはしない、それはそれで(これほど孤独が好きな僕ですら認めざるを得ない)事実だ。けれどその「やりとり」「人と人の関わり」が大量生産な規格品の購入と消費・とくにプラットフォーム資本主義(23年9月の日記参照)と呼ばれるような寡占資本を必ず仲介しなければならないのはナチュラルではない・少なくとも人の営みとして例外的な、偏った状況ではないか。
 いつから吾々はカラオケ屋に行ったり、ダウンロードしてインストールしたカラオケ・アプリを使ったりしなければ歌を歌うことも出来なくなったのだろう。
 千葉と茨城の県境の田舎に住む母は、編み物をしては作ったセーターやらマフラーやら、あるいは焼いたクッキーやらフルーツケーキやらを乞われるままに周囲に与え、周囲の人たちも家庭菜園や借りた農場で収穫した野菜やら何やらを惜しげもなく与えてくれる、貨幣もプラットフォームも介さない(そして「等価」でない)交換のネットワークの中に暮らしている。そういう生きかたは人間関係のしがらみでもあって、そうしたしがらみが苦手な僕は「お金がないと買えないものしかない」都会の生活に甘んじているわけだけど、そんな僕ですら一時間も二時間もただ歩くために歩いたり、本を読むのと同じくらいの時間それについて考えて文章を書いたり、広告の白紙の真ん中に黒い太字で書かれるような古いタイプの「幸せ」を享受している。
 そうした者から見てしまうと「今どきの幸せは寡占プラットフォームが提供するコンテンツを、お金を買って消費することです」「それで目が疲れたら、さらに疲れ目を癒やす商品を買いなさい」というメッセージで一両が埋め尽くされた電車の車内は、資本主義・貨幣経済という監獄と化した社会の縮図・比喩のように思われた。ジョン・カーペンター監督の映画『ゼイリブ』では地球はすでに異星人の支配下にあり、特殊なサングラスをかけて見ると街じゅうにある広告看板はすべて「OBEY(従え)」という真のメッセージが大書されている(だけ)なのが分かってしまう。その偽装の不徹底ゆえに、僕が昨晩みた車内広告は本来ならば「OBEY」と命じるべきところを「見なさい、この社会はあなたに"OBEY"と絶えず迫っているんですよ」と改めて暴露する機能を果たして(しまって)いた。広告の批評(雑誌)ならぬ(社会)批評の広告。なにせ、広告の主旨としては斥けるべき、昔ながらのアナログな幸せのほうを、大きく、黒々と、太字で書き出していたのだ。
 車内じゅうに「OBEY」と広告が貼られた電車の中でサングラスごしに振り返る羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラストだが、適当に描いた電車内のパースが変なのが遺憾。
 なので、件の広告を見た僕のなかでは、このところ頭の中をしばしばよぎっていた「逃散」という言葉が、ますます大きく浮かび上がっている。昔の人々がよくしたような、『ゾミア』で書かれているような、奴隷や農奴としての労働や苦役・重税つまり「生産の強制」からの逃散ではなく、画一的な消費を迫られることからの逃散だ。

 先に引いた23年9月の日記に限らず「現代においては(老マルクスが説いたような生産の場だけでなく)バウマンが説いたように消費の場こそ搾取の主戦場らしい」とは本サイトで何度も断片的に示唆してきたことだ。
 せっかく広告がテーマなので久しぶりに蒸し返すと―これ実は(誰にも何も言われんかったけど)自分がこのサイトで書いてきた中でも「いいこと指摘できた自分」と恃んでる回だったんだけど、後にサブリミナル広告の妄想?陰謀論?にズブズブはまってしまったウィルソン・ブライアン・キイさん(〜2008)が初期の著作で書かれていた「現代は(いちど買えば満たされる欲求ではなく)買っても買っても満たされない渇望を売る時代」(2020年3月の日記参照)だという洞察は、件の目薬の車内広告が「デジタルな幸せ」として売ろうとする推し活・コンテンツ消費・そして何よりエゴサーチの底なし沼に、またもピッタリではないだろうか。
 キャプション:今週はコレを憶えて帰ってね(俳句)(違う)(季語がない)「現代は買えば満たされるパンみたいな欲求ではなく、買っても買っても満たされない渇望を売る時代」W.B.Key(1921-2008)似顔絵を添えたけど、黒い背広と黄色いシャツの襟が、なんだか袈裟を羽織ったお坊さんみたいになっちゃった。
 だから、ねえ、そろそろ「OBEY」と広告が一面に貼り出された電車を、途中下車する算段も考えませんか。
 もちろん本当に、完全に「物を買うこと」から降りるのは難しいでしょう。だけど「もっと耽溺しろ、争うように愉しめ、目が疲れたら目薬を差してでも、決して充足できないように作られた車輪を回し続けろ」というオーダーに沿わない別ルートを「保険で」「リスク分散で」確保しておくことは、控えめに言っても損ではないと思うのです。編み物をして、ケーキを焼いて。旅に出向いて、白湯を飲んで。陽の光を浴びて。
 そして本を読みましょう。来週から読書週間。

小ネタ拾遺・25年10月(25.11.01)

(25.09.30)いつかこの人が歴史に裁かれる時には、この一事をもって弁護側の席に就いてもいい。本人Instagramより首脳会談のため訪れた韓国で、2001年に新大久保駅で線路に転落した人を助けようとして落命されたイ・スヒョンさんの墓前に献花する石破茂首相(25.09.30/外部リンクが開きます)。
(25.10.01追記)もちろん、あれを一番「うまい」パフォーマンスを選びおってと斜に構えることだって可能なんだけど、彼の後を襲おうという与党の次期総裁候補がそれすら出来そうにない、能登の地震で政治家として何もせず赤十字の募金箱を笑顔で子どもに差し出すだの、子ども食堂に押しかけて自分の誕生日だからと言って自分にケーキを振る舞わせるだの、お前ら社会人ですらないじゃんという連中ばかりで、んー今まで石破首相にも現在の総裁候補にもあまり言及してこなかったけど(言及する気力すらなかった)(正直ああいう与党・こういう世の中を選んできた皆様が今度は「這いずり回って世界を救ってみせろ」よとしか思えない)まあともかく月初から荒くれている。
(同日追々記)月初から毒を吐いてしまったので若干マイルドに言い直すと、「日本人の我慢強さを実感する。1年前とおんなじ茶番劇を、おんなじ政局談議つきで見せられて、ストもデモも起きない」「にわかに脚光を浴びる視察先。スーパー、保育園、学童保育、こども食堂。かえって、ふだん軽んじているものが、浮かび上がる」自民総裁選をめぐって、そこそこ舌鋒するどい朝日新聞のコラム「素粒子」(25.09.29/外部リンクが開きます)それがどうしてこう…と最後の一行でズコーと滑ったのは、滑った僕が特別に偏屈なのか?みんなコレでいいのか?いいならコレでいい皆でこの社会をなんとかしてくれ、出来るんだろ?

(25.10.11)まあ建前上この連休はB☆Wで実質半額のうちの冊子とか読んでねと宣伝すべき処ですが(セールでした)(僕じしんが僕の作品を味方しなくてどうするよ)現実にはむしろ、石破首相の退任所感を未読するに値する時間かも知れない。
戦後80年、歴史認識は「引き継ぐ」石破茂首相の所感全文(朝日新聞/25.10.10/外部リンクが開きます)
防衛庁長官・防衛大臣を歴任し、党内きってのタカ派として知られた同氏が「戦後50年・60年・70年の首相談話ではあまり触れられてこなかった"なぜあの戦争を避けることができなかったか"」「国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか」論じた所感に(その限界も含め)、元連合軍ヨーロッパ方面最高司令官の肩書きで米大統領となったアイゼンハワーが、いわゆる「産軍複合体」の台頭に警鐘を鳴らした退任演説(1961年)を想起したひとも少なくないでしょう。3.11の後に地元広島から発信していたらしいWebジャーナリストのかたが、詳細な註をほどこした全文も併せてどうぞ:
アイゼンハワーの離任(退任)演説(豊島耕一訳)(哲野イサクの地方見聞録/外部リンクが開きます)
(25.10.12追記)石破首相の退任スピーチ、対外侵略への反省や(戦争の原因として)天皇への言及がないと批判の声もあがってるけど、私見では何より欠けててまずいのは国民(民衆)こそが熱烈に軍拡や戦争を支持したという指摘で、けれど構造的に首相の立場で「お前らのせいだよ」と国民を責めることは出来ないのも分かるので、それは国民(民衆)が自ら言わなきゃいけないことなんだけど、件のスピーチにアレが足りないコレが足りないと言い立ててる人たちも(僕の狭い狭い観測の範囲では)「自分たちの責任」は言う人が見られないので、こうしてヒッソリ火中の栗を拾う次第。
(同時追々記)おそろしいことだけど政権なり何なりをひっくり返すには今のマジョリティ、大谷選手の活躍に喝采したりノーベル化学賞を現在アメリカ国籍の人物が取っても「生まれは日本なので日本人の快挙」と快哉を叫ぶことにも疑問を感じない「ふつうの日本人」までもが「今の政権ではダメだ」となるしかないんだけど(現に前の政権交替はそうだった)前回はともかく今度「自民じゃダメだ」と唱える大多数が何に飛びつくか考えると、まあわりと悲観的。

(25.10.02)国産米の価格高騰の思わぬ副作用として、今まで少し贅沢のつもりで買っていたジャスミン米・バスマティ米などが、さほど変わらぬお値段になってしまった。後者(長粒米)の贅沢感が薄れたと言うより、米を買って食べる生活そのものが贅沢になりつつある以外の何物でもなくて慄くのだけれど。長粒米はもちろん汁系のカレーやタイカレー、炒めごはんなどにも合うけど、余裕がない時は市販のラーメンスープに挽き肉やキノコ、適当な野菜を加えて煮立ててぶっかけるだけで、手抜き&エスニック(?)な一食に。
左:担々スープごはん・右:醤油とんこつスープごはん。
もちろん長粒米をオートミールに置き換えてもいい<スープごはんの場合。「そうなってくるとラーメンスープが割高だなぁ」という気持ちになってきたら、それが生活の始まりってもんだ。
ちなみに長粒米は湯取り法(ぐらぐら沸かしたお湯にザッとお米を入れて最初くっつかないよう念入りに掻き回して、10分ゆでたらザルにゴパーッとあけて、火にかけたままの鍋に戻して少し水分を飛ばしたら、火を止めてフタをしてまた10分で出来上がり)生米250gが140g強のごはん四食分になる。パラパラしてるから140gでジャポニカ米150g〜160g分くらい容積があるので、ダイエットに向いてるかも知れません。

(25.10.05)自分で買ってるから知ってるんだけど、コストコみたいな会員制でない・誰でも入れる食料品店でたぶん一番廉価な冷凍ハッシュドポテト(ハッシュブラウン)て「ハラル認証」を取得してるんですよね。でも製造元はベルギーで、ヨーロッパ産のジャガイモを使用したもの。思うにコレは多様性だ何だじゃなくて純粋に、ベルギー国内の市場だけではペイしない、世界的に販路を広げたいという局面でハラル認証を取得しとけばグンと受容者層が拡がるって適応策なんですよね。現に結果こうして日本にまで販路が伸びてるわけだし。こういう形のグローバル化もあることは、少し考えの隅に置いといたほうがいいと思うのだ。ヴィーガン用の味覇があるってことは、それが商品として成立しうるくらい需要が見込めるんだ、とかね。
 ベルギー直輸入・ヨーロッパ産ポテト使用の冷凍ハッシュブラウンのパッケージ表画像。隣に裏面に示されたHARAL FOOD COUNCIL OF EUROPEの文字があるハラル認証マーク画像。

(25.10.07/小ネタって長さじゃねぇぞ)ジュディス・バトラー欲望の主体(原著1987年/大河内泰樹ほか訳・堀之内出版2019年/外部リンクが開きます)ほぼ読了。19世紀ドイツ思想の巨人ヘーゲル(未読)が20世紀フランスの哲学者たちによって、いかに「我有化」つまり独自な切り取りや敷衍や読み替えをされてきたか縷々たどった博士論文(加筆)で、当然サッパリ分からない(堂々と言うことか)。でも長く生きてれば、どんな本でも切り取れる処はあるもので、「欲望は満足に対する欲求でも、愛の要求でもなく、愛の要求から満足に対する激しい熱望を抜き取ったことから結果する差異、それらの分裂Spaltungの現象である」というラカン(未読!)からの引用と、それに加えたバトラーの注釈「欲求は満足よりもむしろ愛の証明を求める」「そして、欲望は(中略)それが実際には欲していないものを追いかけ、それが最終的には獲得できないものをいつも欲している」は、そう名指されてはいないけれど、まるでプルースト『失われた時を求めて』を読み解いた言葉のようだと思ってしまった。どこかの本でドゥルーズが、これは名指しで「(この主人公たちは)愛ゆえに嫉妬するのでなく、嫉妬するために愛する」と評したプルーストである。『欲望の主体』にはサルトル(未読!!)によるプルースト評もあって、それは僕の読後感とはあまりに違うので略すけど、プルーストを名指してない文章で「人が現実で完全な自己を実現させることは不可能だが、小説はその実現不可能なさまを描くことで世界を完全にわがものにできる」と書いてる(ような)のも、あの長大な小説の要約のようで、他にもジラールとかフーコーとか、様々な思想家が「我有化」したプルーストを、誰か新書なり文芸フリマの新刊なりで網羅してみませんかねえ。
 『欲望の主体』タイトル部分。電車の中で読むには絶妙に恥ずかしい標題…
プルーストには関心ないけど、今の世の中どうしてこうなんだとお嘆きの向きには、こんな切り取りはどうでしょう―重要なのは、強者と弱者、主人と奴隷は、共通の基盤を持たないということである。両者は共通の「人間性」や、文化規範の体形の一部として理解されてはならない」(強調は舞村)―ミシェル・フーコー『思考集成IV』を引いての、バトラーによる注釈です。分かりあえると思うな、牙を剥け!(我有化)

(25.10.10)近年の韓流・華流ミステリやサスペンスを読んでいて、語り手=一人称の主人公が女性であることに数十ページ気づかなかった体験を一度ならずしている。叙述トリック…ではなくて、もちろん読む側の思い込みのせいだ。探偵なら男だろう、保険の勧誘員は女性でも保険調査員は男性だろう、取材のため南極に住んでみる物好きなんて男に決まってる(21年3月の日記参照)…ネタバレになるので当然タイトルは申し上げられないけど、怪しい借金取りのゴロツキが探偵の「わたし」を同類だと思い込み女にもこの稼業のやつがいるとは初耳だなとうそぶくのを読んで、それでもなお「男の主人公を見て、おいおい女が来たぜと言うのか、すごいトキシックな侮蔑表現だな」と思い込んで数行を読み進め「あ、違う、本当に女なんだ」とようやく気がつき(すでに40頁目)トキシックなジェンダー偏見にどっぷり浸かってるのは怪しいゴロツキじゃなくて読んでる自分だったと改めて恥じ入るのでした。ミステリを読んでいて犯人が自分だったたぐいの読書体験。
(同日追記)当然そういうのは男に決まってるという読む側の偏見が、つまり「読者自身が犯人だと名指されるミステリ」という概念で(後になって)思い出されたのは、生きるため男だと偽ったことでどんどん追いつめられていく女性を描いたブレヒトの演劇『セツアンの善人』。僕がよく引き合いに出す「世界を滅ぼすかどうか判断するため使わされた天使たち」というモチーフを外枠にした物語でもあった。

(25.10.13)
ガザは孤独ではない。

 爆撃、飢餓、渇き、病気が同居している

オマル・ハマドオマルの日記(最所篤子 編訳・海と月社2025年/外部リンクが開きます)は読み進めるのが苦しい一冊。誰の遺体か特定すら出来ないバラバラの肉片を75kgずつビニール袋に入れて、各々の家族の亡骸として分配しあう地獄の日々。何もせず傍観する全世界を呪詛しながら、ケイト・ブランシェットの授賞式でのパレスチナ支持のパフォーマンスや、日本の有志の支援には感謝の言葉をあげずにいられない悲しみ。それを安全な場所で読む苦しさ。
 書影。左『オマルの日記』・右『レイラの最後の10分18秒』
そんな苦悶と絶望の言葉の中からでも(失なわれた喜びとして)本に言及した箇所があればチェックし、手にして見聞を広めたくなる己の度しがたさ。トルコの女性作家エリフ・シャファクの名を本書で知って、引き合いに出されているのとは別の小説だけど、邦訳のある『レイラの最後の10分38秒』を次に読む本にセットしたところです。
(25.10.21)じゅうぶんに知ることも優位に立つこともできない世界においては、無料で得られるただひとつの喜びが音楽なのだ…『オマルの日記』でも言及されていた「トルコで最も読まれている女性作家」エリフ・シャファクの代表作レイラの最後の10分38秒(原著2019年/北田絵里子訳・早川書房2020年/外部リンクが開きます)読了。ひとりの娼婦の生涯と死を通してセックスワーカー・移民・トランスジェンダーなど男権社会の周縁で虐げられた者たちの「時に血より濃い水の友情」を描く英ブッカー賞・オンダーチェ賞(いつの間にか賞になってたよオンダーチェさん)最終候補作。痛々しい描写も多々あるけれど、それも含めて2020年代の今まちがいなく読むに値する・もしかしたら「読むべき」一冊かも知れません。
 エリフ・シャファクは『この星の忘れられない本屋の話』という、これも日本語で読めるアンソロジーにも寄稿しているそうで、来週からの読書週間にどうでしょう皆さん。
『オマルの日記』(こちらも読了)ではアフガニスタンの作家カーレイド・ホッセイニの『カイト・ランナー』という小説も大規模な虐殺が始まる前の愛読書として挙げられており、こちらもそのうち読むつもり。
(25.11.01追記)エリフ・シャファク『レイラの最後の10分38秒』10/21に取り上げた時には書き落としていたけれど・トランスジェンダーの登場人物が小さからぬ役割と存在感を示す・その描写が(いわゆるピンクウォッシュに利用される「豊かなゲイ」の表象とは真逆の)トランスジェンダーの置かれる貧困・差別・セックスワークや場末のショービジネスなどの「賎業」に伝統的かつ構造的に押しこめられてきたことを否応なく踏まえていること、において近年のアジア映画『ジョイランド 私の願い』『モンキーマン』(24年11月の日記参照)あるいは『brother/ブラザー 富都のふたり』(今年2月の日記参照)と足並みを揃えていることに、まだ上手く言語化できない(なので書きそびれていた)思うところあり。またしても「アジアはひとつではない・けれどつながっている」(池澤夏樹)かも知れない。日本はどうか。

(25.10.26/小ネタ/すぐ消す)速報:着る毛布、早くも登板。これはもうTシャツなど売れる時季ではないなあ…と思いつつ掲示は続けますが→
ふだんづかいできる反差別Tシャツがあると自分が便利なので作りました。

(25.11.01追記)決して安い買い物ではないので期待してはいなかったけど、数人は関心を示したり購入してくださったりして心強い。別にこのTシャツでなくても「反差別を思う人たちが、それを表現・表明することがカジュアルになればいい」その裾野になれればと思ってます。

 

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