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西洋近代の非西洋的起源について〜マーティン・バナール『ブラック・アテナI』(25.11.03)

***これまでのあらすじ***
 文化人類学者で活動家でもあったデヴィッド・グレーバーと考古学者のデヴィッド・ウェングロウの大著『万物の黎明』で主筋とは外れた余談として、18〜19世紀のヨーロッパで(それまでの貴族制からは考えられない)試験で採用された官僚が運営する国家という全く新しい制度が急に発生したのは、(10世紀の宋の時代には同様の制度が確立されていた)中国からの遅ればせの影響ではないかという説が提示されていた。(25年9月の日記参照)
***あらすじおわり***

 自分にとってはまったく新しい論点だったけれど、さて何処から勉強していこうかと思ったところ、同書のまた別の項で言及されてた別の本に(まるで常識と言わんばかりに)またこんな一節があった:
「中国では、道徳・知識に秀でたものが試験によって選ばれ、さらにきびしい訓練・研修を受けたうえで政務にあたるという、因習を排した合理的方法による統治が行われていた。(中略)フランスにおける一八世紀半ばの政治・経済改革、中央集権化や合理化は、そのほとんどとは言わないまでもかなりの部分が、中国に範をとって行われたのである」
そういうことは早く言ってよ!と言いたくても言えないのは、この一節(またしても本筋とは関係ない余談)が記された本が原著1987年・邦訳でも2007年と、とっくに出ていた本だからだ。求めよ、されば与えられん。けれど自分が何を求めてるか知らないうちは、与える側(本の神様?)も与えようがないのであった。
 書影『ブラック・アテナI』。今回のサイト日記の標題の元ネタであるグレーバー『民主主義の非西洋的起源について』と並べて。
というわけでマーティン・バナールブラック・アテナI(片岡幸彦監訳・新評論/版元の紹介ページは見つからなかったので代わりに丸善ジュンク堂のページにリンクしてあります)
全四巻の構想だった(2007年の時点では三巻までの刊行で中断)シリーズ全体に付された副題は「古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ」・第I巻の副題が「古代ギリシアの捏造 1785〜1985」。大がかりな「ブラック・アテナ論争」を呼んだという同書の主旨:現代の西欧文明が自分たちのアイデンティティの祖と仰ぐ古代ギリシャ文明は、語彙も思想も多くを古代エジプトに負っており、そもそもギリシャ自体エジプトの植民地だった・ギリシャ人そのものがアフリカ系の黒人だった―は(特に後半は)少なくとも現時点での僕の関心ではない。ちなみに検索で「ブラック・アテナ」と引くと「ブラック・アテナ トンデモ」という検索候補がサジェストされたりもする。近ごろは「トンデモ」という言葉も逆にうさんくさいこともあるし、古代の言語がどうとか正直そういうことには関わりたくない

 僕の関心はあーでもないこーでもないという古代ギリシャの「実像」よりも、後世に入ってからのバナール言うところの「捏造」(韻を踏んでいる)にある。古代ギリシャ自身も、17世紀くらいまでの西欧も、古代エジプトの思想や哲学の影響を公言していながら、18世紀以降にわかにエジプトを切り捨て成立した「(白人の)ギリシャだけが科学や哲学・合理主義の起源で、西欧だけが正しくそれを継承し近代化を成し遂げた」という物語への、著者の異議申し立てに、だ。
 まずもってプラトンやピタゴラス自身がエジプトから多くを学んでおり、ヘロドトスもギリシャ文化へのエジプトの影響を公言している(という)。キリスト教がローマ・ひいてはヨーロッパの中心となってからもヘルメス主義・新プラトン主義・グノーシス主義として受け継がれたエジプト由来の思想は、ルネッサンス期に開花する。ピコ・デ・ラ・ミランドラをはじめ哲学者たちはエジプトに帰依し、フリーメイソンや薔薇十字団などの結社運動が見ため合理主義的な啓蒙主義を裏から突き動かす。アメリカの1ドル紙幣の裏に(フリーメイソンのシンボルたる)ピラミッドが描かれているのも、ナポレオンがエジプトに遠征しピラミッドの測量を試みたのも事実そうなのだから、1)古代ギリシャ自体がエジプトの思想を継いでいる2)ヨーロッパもエジプトの影響を受けてきた―この二点は受け容れていいのではないだろうか。イスラム数学に多くを負ってもいるコペルニクスが地動説に到達したのも、カンパネラが理想郷を描いた物語のタイトルが『太陽の都』(未読)なのも、上述のとおり(デヴィッズやバナールらの説を信じるなら)中国由来の官僚制の導入に熱心だった時代のフランス国王・ルイ14世が「太陽王」を名乗ったのもエジプトの太陽神崇拝の影響だと、こう並べると流石に何処まで信じていいのか分からないけれど…
 要はそれまで支配的だったキリスト教ベースの哲学や文化・社会を覆し、超越するため、啓蒙主義者たちはエジプトに賭けた(とバナールは主張する)。先に取り上げたWデイヴィッド『万物の黎明』も援用すれば、「新」大陸の「発見」でキリスト教中心のヨーロッパ文化が大きく揺らぎ→当の「新」大陸由来の文化はもとより中国由来の官僚制やイスラム経由のギリシャ科学さらにエジプト思想の導入で一新を図ったとなるだろうか。そのエジプト熱の本質は魔術―(神に定められるのではなく)人が自らの・そして世界の主人として運命をコントロールすることにあった(という)。
 キャプション「今週のまとめ。15〜17世紀:「新」大陸・中国・中東経由ギリシャ・エジプトなどの影響を受け容れ西欧世界の一新を図る。18世紀〜現代:白人のギリシャとそれを継承した西欧だけが合理的・理性的な近代の源流と自賛」に、目のついたフリーメイソンのピラミッド(光ってる)を包むように手で覆い「??」と困惑している羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラスト。
 それが18世紀に入り「ギリシアの奇蹟」と呼ばれるように急にギリシャばかりが神格化される。言い替えるとギリシャ〜ヨーロッパの白人(この頃コーカソイドという名称も考案されている)だけで理性や科学・合理主義を独占し、非白人=エジプトも中東もアフリカも先住民のアメリカもインドも中国も迷信や陋習に囚われた、遅れた地域として排除・断罪した。言うまでもなく、それは産業革命を成し遂げ世界経済のトップに立った西欧の自負(吾々の素晴らしさが非白人に由来しているはずがない)と自己正当化(遅れた非白人たちを優れた白人が支配するのは当然だ)によるものだろう。小国ギリシャがイスラム圏の大国トルコ・ひいてはそれに与したエジプトの支配を脱せんとしたギリシャ独立戦争(1821〜)も、ギリシャ熱に拍車をかけただろう。
 またインド・ヨーロッパ語族の発見が(ギリシャも含むとした)アーリア人至上主義につながり、セム語やハム語(セム族やハム族)が蔑視されるようになる。「ギリシアの奇蹟」はフランスの思想家ルナンの言葉らしいが(23年5月の日記参照)、バナールが主犯として責めるのは後にアーリア人優生思想でとんでもないことになった国・ドイツの学界だ。『ブラック・アテナI』の中盤〜後半はこの「科学的」を自称するギリシャ・ヨーロッパ上げと非ヨーロッパ下げの今から見れば醜態がこれでもかと列挙されるので、正直かなり読み進めにくい。日本は神国だというオカルト的な思想が戦前の日本軍部をいかに席捲していたかとか、進化の過程でアトランティスがどうとかしながら結論として白人が最も優れた人種・どころか非白人は同じ人類ですらない(こちらはナチスに結実する)だとか、そういう「明らかに間違ってるし、動機として邪悪でもある」それこそトンデモを詳らかにした本を読んでる時と同じ腹立たしさと、それでいて笑い飛ばせない共感性羞恥がまあ読む意欲を削ぐこと。
 ちなみに 幸泉哲紀氏が巻末に寄せた解説で引用している当時の英語圏の書評によれば「本書は組み立ても悪く、気の長くなるほど繰り返しが多く、さらに専門的で詳細な史料に覆われており、一般の読者や素人には勧められる書物ではない」早く言ってよ!(本日二回め)

 ともあれ。バナール氏自身のエジプト上げも論争を呼ぶ不確かさではあるらしいが、合理的だの科学的だのと自賛する近代ヨーロッパの世界観も相当なもの(しかも差別的)でゲンナリさせられる。その高慢に西欧人として内側から楯突いた意義は大きいと思う。その楯突く相手が異論を許さないアカデミズム=大学制度で、非難の大きな部分がまさにその「異論を許さない(18世紀以降ギリシャ推し以外を閉め出した)」ことであったのが、また論争を大きくしたのかとも思うけれど…
 以後エジプトにたいする関心は継続したり再燃したりはするが、それは西洋の起源ではなく隔絶したエキゾチシズム・オリエンタリズムの対象として、でしかない。
 キャプション「日本でも『王家の紋章』からジョジョや遊戯王・謎のメジェド様ブームまで(僕にはよく分からない)エジプトへの熱い関心は続いていますが…」に「やはりエジプトか私も同行しよう」とキメ顔をする花京院のすごぉく適当なイラスト(ズキュウウウン)を添えて
 ムハンマド・アリ将軍(1769〜1849)統治下で推進された近代化をロシアのピョートル大帝や日本の明治天皇のそれと並列するバナールは「ロシアや日本の場合と同様に(中略)これらの強力な近代化(中略)は、軍隊の近代化と武器の自前調達(が目的で)(略)さまざまな面で弊害を招いたことは否定できない」と釘をさしつつ「しかしこの事業は、短期的に見るならば大成功で(略)一八三〇年代に達するまでに、エジプトは近代的工業生産能力において、イギリスに次ぐ世界第二位の地位を占めるに至ったことは注目に値する」と記している。この近代における成功も、西欧列強中心主義で隠蔽・抹消された事象のひとつらしい。
 こうした西欧一強史観は「コーカソイド」を吾こそ世界の主人なりと思い上がらせる以上に、非白人・非西欧の地域や社会・文化や民族に属する人々にまで「吾々は二流だ」「一流にはなれない」という諦めを内面化させてしまった点で罪深いとバナールは告発している。不幸な(不毛な、とまでは言いますまい)論争よりも、こうした正義感の発露こそ本書の白眉であるかも知れない。

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 個人的な関心領域から、もうひとつ意外だったのは、ギリシャこそ近代西洋文化の原型というとき(科学や哲学と並んで)ギリシャは民主制のふるさとだからという意味があると僕などは思っていた、それも本書で覆されることだ。
 『ブラック・アテナ』が論じるところでは、まずプラトンからしてアテネの民主政を嫌い非民主的なスパルタに肩入れしていたし、哲学者が統治する理想の国家を描いたとされる『国家』(未読)にしても「プラトンの共和国は、国家の構成原理としての労働分割に関する限り、エジプトのカースト制度のアテネ的理想化にすぎない」とはマルクスが『資本論』(未読)で評するところだ(という)。
 逆に何なら読んでんだ、というキャプションに冷や汗を垂らしながら「えと…『要塞都市LA』とか?」とボケる自画像←適当に思いついて書いたけど、あれはあれで名著よ。
前述のカンパネラ『太陽の都』も同様。
 前に軽く示唆した「平等という概念は人類の歴史のなかで比較的あたらしい発想なのではないか」という論点にも通じるし、『万物の黎明』でも言及されていたことなのだけど、昔の人々は平等や民主制というものを、21世紀現在の吾々が思うほど評価してはいなかったようなのだ。

 バナールもソレが主張したかったのだとは思うけれど、歴史学のような学問でさえ、しばしば扱っている過去ではなく論者が現代をどう捉えたいかを残酷に映し出してしまうようだ。言い替えると、Wデヴィッドによるアメリカ先住民の再評価やフェデリーチの中世ヨーロッパ見直し(23年10月の日記参照)・バナール氏のエジプト推しは、過去の捉え直しを提案すると同時に、現代がよしとしている価値観を覆したい欲求のあらわれでもあるだろう
 前にも書いてるし追い討ちはハシタナイけれど、つい50年前には「アジアの中でどうして日本だけがヨーロッパに比肩する近代化を成し遂げたのか」みたいなことが大真面目に論じられていた。そうして提示された日本の地政学的(?)優位も「ギリシアの奇蹟」も、あるいは日本の侵略は解放だったも世界最古の文明が富士山に栄えていたも、過去をどう解釈するかで現代を正当化する・過去をバトルフィールドにした侵略合戦であるのかも知れない。それは時に侵略された相手を二重にも三重にも踏みつけてしまう(二流民族だというレッテルを内面化してしまった非白人の例)、そういう意味でも残酷な話なのだ。

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(追記)15〜17世紀にエジプトがヨーロッパに与えた最大の影響が「魔術(人間による運命のコントロール)」であるならば、いくらエジプトを「正しく」再評価しても、その思想でもって(15〜17世紀に―アメリカのドル紙幣にピラミッドを刻むほど―そうしたように)「現代」を再び覆すのは悲しいけれど困難だろう。フェデリーチが中世の魔術(ウィッチクラフト)について「今の吾々も星占いをするけれど、そうしながら定時出勤のために目覚まし時計で目覚めてる時点で(今の星占いには)何の力もない」と看破しているように。過去を見直すことで現在に異議申し立てをする場合でも、過去を復古させることは(たぶん)できないのだ。歴史を学ぶことに出来るのは、過去に何を失なったか残酷なくらい思い知らされたうえで、過去でも現在でもない新しい未来をつくる手がかりを提供すること(だけ)ではないだろうか。

そんなところに殿はいないぞ(25.11.09)

 もう30年以上前の作品なのでネタバレを許していただこう。『死ぬことと見つけたり』は時代小説作家・隆慶一郎氏の絶筆のひとつ(数本の連載を掛け持ちしたまま亡くなった)で、未完ながら氏の最高傑作と呼ぶに相応しい長篇だ。タイトルのとおり「武士道とは死ぬことを見つけたり」で知られる『葉隠』のふるさと・佐賀鍋島藩を舞台に「いざとなったら切腹すればいいんだから何だって出来る」と藩のため横紙破りな活躍を繰り広げる杢之助と、「殿に諌言して藩を救うと同時に(何しろ殿に逆らうことなので)命じられ切腹するのが武士にとって最高の死に方」と信じるがゆえに「そのためには殿に諌言できるほどの身分すなわち家老まで出世しなければ」と保身(?)のため杢之助の暴走に迷惑顔の求馬が「求馬つきあってくれ」「また馬鹿なことするのか…いつ切腹してもいいように一寸吐いて胃を空にしてから行くわ」みたいなノリで無茶苦茶やらかす物語だ。面白そうでしょお?
 デビュー作『吉原御免状』から網野史学を導入し「道々の輩(ともがら)」を大きくフィーチャーした歴史学的な功績については措く。『死ぬことと見つけたり』下巻冒頭の(鉄砲の達人でもある)杢之助と熊の対決で語られる「熊狩りは人と熊の相互理解であり、このばあい相手をより理解したほうが勝つ」は色々と応用できそうな金言であるし、昨今の熊出没に改めて考えさせられるフレーズでもあるが、それも措く。
 著者自身も恃むところがあったのだろう、絶筆ながら同作は結末までの「あらすじ」が執筆予定として遺されており、これが巻末に収録されている。じっさい同作を未完のまま大河ドラマにして、最終回は佐賀の海なんぞ映しながらNHKの松平アナ(当時)のナレーションで「あらすじ」を紹介して終わればいいのにくらい読んだ当時は思っていた(NHK大河なんて観やしないのに)。その「あらすじ」によれば、杢之助と求馬を頼もしく思いながら同じくらい憎んでもいた「殿」勝茂が亡くなり、跡目争いで生じた内紛を求馬が「三方丸く収める」秘策でかっさばくと同時に自らも責任をとり「死ぬことと見つけたり」の本懐を遂げるのだが、これに先んじて杢之助は補陀落渡海をめざすと称して、なんと「泳ぎで」西の海の彼方に消え去ってしまう。
 求馬と違い最初から出世など考えもせず、下級武士のまま殿に(憎まれながら)頼られるまでになっていた杢之助は、しかし公的な殉死が許される身分でもなかったため、そのような挙に出たのだろう。西の海に泳ぎ去る親友の背中に「よせ杢之助」もはや停められないと知りながらの求馬の叫びがこだまする。
そんなところに殿はいないぞ!!

 英語には「違う木に向かって吠える(Bark up the wrong tree)」という表現がある。これは子どもの頃に読んだ谷川俊太郎訳の『ピーナッツ』の漫画で知った。本来は狩りの獲物ではなく(なぜか)木に向かって吠えている、という意味らしいのだけれど、まんがではワンワンワンと(例によって二本足で)一本の木に向かって吠えているスヌーピーに、飼い主のチャーリー・ブラウンだか隣人のライナス少年だかが「そっちじゃないよ…こっちの木だよ」と獲物じゃなくて「正しい木」をなぜか教えるという話だった。ともあれ、そういう漫画によって「違う木に向かって吠える」という英語の慣用句を知ったのだった。実地に使ったことはない。とゆうか、今回の日記(週記)が初めてになる。
 関係はないのだけれど、同じくらい子どもの頃『ドラえもん』の漫画で、のび太少年がドラえもんに向かって「どんなもんだ!グウと言ってみろ!」と勝ち誇り、ドラえもんが素直に「グウ!」と例の3の字型の口で言うのを読んだ。「グウの音も出ない」という慣用表現を知ったのは、かなり後のことである。子どもが(も)読むような漫画でも、忖度しない大人の語彙を使うものであるらしい。なんでこんな話をしたかは最後まで読めば分かる(最後まで読まないと分からない)(グウのほうは無関係)
 わざとクレヨン風で子どもっぽく描いたのび太とドラえもん「ぐうと言ってみろ」「ぐう!!」
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【A面】
 何か読むと「呼び水」のように関連する事例・似たような事例が次々あらわれることが少なくない。実はいつでも接しているのだが、関心が向くようになって初めて気づく・気にかかるようになるだけかも知れない。
 前回の日記(週記)で19世紀初頭のエジプトはイギリスに次ぐ世界第二位の生産力の工業国家であったというマーティン・バナール『ブラック・アテナI』の指摘を引用したのを、ご記憶でしょうか。アルゼンチンは19世紀半ばから発展を続け、1929年の大恐慌直前には世界第五位の経済大国だったらしい。
 今週のまとめ(1)。1:自分の住んでるとこ中心目線だと見逃しがちな意外な場所が繁栄していた事例は多々ある。というキャプションに流れ星を指さしてる羊帽の女の子(ひつじちゃん)のイラスト。
 クズネッツという経済学者はコレを受け「世界には四種類の国がある。先進国、途上国、日本(途上国から先進国になった)、アルゼンチン(先進国から途上国になった)だ」と言ったそうだ。たとえば次の記事:
「世界には4つの国しかない」− サイモン・クズネッツ(米)(ITマーケティングNews/外部リンクが開きます)
最後の処を読んで「ん?」と思った以外は簡潔にまとまっていると思います。もちろんこの「ん?」が「違う木」なのだけど、それは後に取っておくとして。
 まあ第一に、今のGAFAMとか植民地主義の時代の列強とか中心にした目線では、意外とゆうか忘れられがちな国が栄えていた(そして凋落した)事例はアルゼンチンだけではない、のではないか。現に既に見たエジプトがある。「ギリシャの奇跡」という語が(先週の週記で主題にした)古代ギリシャで「のみ」科学や哲学・民主主義が生まれたという近代ヨーロッパの神話ではなく、1950年代〜80年の高い成長率を指す(それが2000年代にはEUを揺るがす債務危機に陥った)という話もある。たしか戦後のイタリアも戦後急激に発展し、凋落したのではなかったか(違ってたらすみません)
 つまり世の中には、言いかたは悪いけど「棚からボタ餠」のように経済的な成功に恵まれる国や地域があるらしい。もっと言うと、その後「恵み」を失ない凋落を余儀なくされた国や地域がだ。クズネッツさんは日本が成功した処だけ見て三つめのカテゴリを創設したけれど・本来そこにはエジプトやギリシャ(イタリア?)も入るのではないか・いずれ日本も四番目のカテゴリに入って、二つのカテゴリは「栄えて凋落した国」ひとつでまとまるのではないか。「日本だけが途上国から先進国に成り上がった特別な国」と思い上がってて大丈夫か日本

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 成功に恵まれる、あるいは凋落する国「や地域」と書いたのには理由がある。
 最近知ったのだが、岐阜県岐阜市の柳ケ瀬(やながせ)は現在「日本一のシャッター街」と言われるくらい凋落した(かつて栄えていた)元・繁華街であるらしい。ビックリした。
 というのも昨年二回ほど岐阜市に宿泊して、うち一回はすぐそばに宿を取ってるんですわ。18きっぷで旅行する場合、近隣の名古屋より宿泊費が安いのと(普通列車は乗り放題だから交通費の加算がない)未知の土地への興味、何より21年2月の日記で取り上げた矢部史郎『夢みる名古屋』(めちゃめちゃ面白い本です)でオマケのように「名古屋より岐阜のほうがずっと面白い」と絶賛されていたのが気になって足を運んで、でも中継地点で着くのが夜で朝早く出発だったり、夏は暑くて街を探索どころじゃなかったりで「言うほど素晴らしいかなあ…でもまあ面白いか(土日で閉まってる繊維問屋街でなぜか開いてる古本屋とか素敵でした)」くらいが正直だったのだが、よもやよもや。
 岐阜駅周辺図。駅から1km弱の柳ケ瀬商店街、道一本へだてた反対側の区域に宿を取ってたのに奇跡的に立ち寄る機会がなかった…
・参考:雑居ビルの銭湯にも…“日本一のシャッター商店街” 復活への切り札は『廃墟ツアー』で逆手に取った町おこし(東海テレビ/24.11.7/外部リンクが開きます)
 衰退のトドメとなったデパート高島屋の閉店は2024年ということで『夢みる名古屋』が刊行された2019年にはまだ栄華の残滓が残っていたのかも知れないけれど、ターニングポイントだった路面電車の廃止(岐阜駅からの足が断たれた)は2005年というから、著者の判断の基準は量りがたい。くどいようだけど名古屋に事よせた近代化論じたいはめちゃめちゃ面白いです(大事なことなので二度言いました。『新幹線大爆破』と『トラック野郎』の比較論とか最の高)。あと自分は何処か訪ねる時にもう少し予習しような

 最盛期の柳ケ瀬には映画館は十数軒あったという話で、思い出したのは吾が神奈川県の南端・三浦市のことだ。三浦漁港を擁する街で、まだまだ漁業が盛んだった戦後の一時期には映画館が何軒もあったと伺ったのは、かれこれ30年ちかく前で、でも当時からして隔世の感があった。
 三浦半島の地図。半島の手前で鉄道が終わってるのが痛い。何軒も映画館があった漁港のある南端まで延伸の計画はあったのだが
特に三崎駅を終点とする京浜急行線の延伸計画が中断となったことで、横須賀や横浜・東京(あまりにも遠いけど)通勤者のベッドタウンとなる可能性が断たれたのは大きいのでしょう。僕が御縁がなくなってから(三年ほど逗子に職場があったのです)作家のいしいしんじ氏が一時期は暮らしてらしたとか、いま地図を確認したら30年前にはなかった私設図書館があったり(行きたくなったかこの馬鹿)経済的な繁栄だけが良いことじゃないという観点で考えれば素敵なところであり続けているとは思うのですが話が逸れました(とくに図書館で)。
・参考:コモハウス併設「三浦文庫」(外部リンクが開きます)
 もちろん小樽は今でも観光地として栄えてる組だけど、かつてはニシン漁の水揚げ地として御殿が建つほどに栄えていたというし、食生活の主菜・タンパク源の中心が魚だった時代には栄える場所も栄える理由も違った、それが当たり前だけど面白いし時代が変わると盲点にもなる。
 ちなみにYouTubeで一度こういう関連を閲覧してしまうと「こういうの好きですか?どんどん出しますね」とアルゴリズムだかAIだかに判断されて、あまり見たいでもない寂れた街の紹介動画を次々オススメされて、これも若いころ勤め先のあった茨城県の土浦市・土浦駅前なんかも随分と寂しいことになってるらしい。隣接するつくば市につくばエキスプレスが通うようになったのも、賑わいの中心がシフトする原因だったのかも知れない。

 何の話をしているか。現在目線・自分中心視線だと盲点になる理由で栄えた土地は、時代が移って状況が変わると繁栄を失なうこともある、という話だ。
 今週のまとめ(2)。1:自分の住んでるとこ中心目線だと見逃しがちな意外な場所が繁栄していた事例は多々ある(二回目)。2:けれど繁栄していた場所が衰退することも珍しくない。3:繁栄も衰退も時の運。ひつじちゃんのイラストは(1)の使い回し。
 本サイトでは何度か言及してると思うけど、ニコロ・マキァヴェッリは『君主論』で人の運命を決めるのは当人の力量=ヴィルトゥと、外的な条件=フォルトゥナだと説いている。ヴィルトゥは英語のvirtue(徳)、フォルトゥナはfortune(富・運)。印象的だったのは有名なチェーザレ・ボルジアが、強いヴィルトゥを持ちながらローマ教皇だった父の死により後ろ盾を失ない、つまり結局はフォルトゥナの喪失によって破滅したことだ(ったと思います。あんまり昔に読んだので間違ってるかも知れない)。たとえば商店街の衰退にはヴィルトゥの欠落つまり判断ミスもあるだろう、けれど漁業自体の衰退や他路線の開業などは外的条件の変化つまりフォルトゥナの変動が大きすぎたとも言えるのではないか。
 むろんフォルトゥナ=外的条件がモノを言うのは衰退・没落の時だけではない。漁業の繁栄が漁港の街に繁栄をもたらし、国際的なパワーバランスが何処かの国に「奇跡」をもたらす。
 そこで上に挙げた「世界には4つの国しかない」の、とくに日本の没落を懸念する終盤が気になってしまった。もちろん「日本の豊かさは、先人の努力と数々の幸運によってもたらされたもの」と一応「幸運」にも言及がある。けれど結語の「子供たちだけでなく大人までもがテレビゲーム・スマホゲームに熱中している様を見て、この国の将来を憂うのは私だけではあるまい」はどうだろう。いやそれ、違う木に向かって吠えてなくない?(伏線回収)

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【B面】
 いま読んでいる笠井潔氏の大著例外社会 神的暴力と階級/文化/群集』(朝日新聞出版・2009年/外部リンクが開きます)に、思わずのけぞるような一節があった。
「欧米よりも二十年ほど長く続いた日本経済の繁栄の秘密は、新卒一括採用と終身雇用制、賃金と地位の年功序列制、護送船団方式と中小企業の系列化と企業内労働組合、現場労働者の創意や情熱を企業が動員しうるシステム(QC運動など)、その他もろもろの日本式経営システムではなく
出発点における農村の過剰人口に見いだされなければならない

(強調・改行は引用者=舞村)
西欧における資本主義の離陸は蒸気機関などのイノベーションやプロテスタンティズムが生んだ倹約のエートスなどでなく、エンクロージャーによって農村を追われた農民や、アフリカから攫われてきた奴隷・のちには移民労働者など安価に搾取できる使い捨て労働者の潤沢な供給にもとづく、という立場を敷衍して、著者はこう続ける。
「言語や文化を共有しない移民労働者は、単純なマニュアル労働にしか向かない。労働者の創意や自発性までを徹底的に収奪する日本式経営の高度な生産性は、低廉な新規労働力を国内で大量に調達しえたという固有の条件に支えられていた」
 思い出されるのは社会学者・見田宗介まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』(河出書房新社・2008年/外部リンク)だ。2009年に刊行された笠井『例外社会』にも2008年の秋葉原殺傷事件の反響が色濃く見られるが、1968年の連続射殺事件に真正面から対峙した『まなざしの地獄』(いま思うに、かなり前に発表されていた小論を2008年に単行本化したのも秋葉原の事件の反響かも知れない)は犯人の少年が憎しみを向けた東北の郷里が、吾々がイメージしがちな「昔からの閉鎖的な農村共同体」ではなく、そうした共同体が資本主義によって解体された後の個人主義の廃墟だったことを指摘している。併録された「新しい望郷の歌」によれば(最近はあまり聞かないが)かつて極めて日本的な現象と思われがちだった一家心中も、子どもを遺しても村内の誰かが世話してくれるような共同体が崩壊した後に(まず北海道の開拓地から・次いで都会から)発生・増加・定着した新しい現象だったと説く。
 全米図書賞・翻訳部門を受賞した柳美里JR上野駅公園口(2014年→河出文庫2017年/外部)が描いていたのも、東京オリンピックの建設作業員などで高度経済成長時代を支え、すり切れるように使い捨てられていく東北の出稼ぎ労働者だった。(余計なことかも知れないが能登半島の災害で同書を思い出し、大阪万博のため能登の復旧が遅れること・だけでなく復旧が遅れることで生計手段を失なった層がパビリオン建設に「おあつらえ向きに」吸収されていく可能性を個人的には懸念していた)。
 『例外社会』書影。秋葉原殺傷事件の影響もあるけれど同じ前年
レージュ・ド・フランス講義録の邦訳刊行が(83年の急逝により「性の歴史V」までで固定されてた)ミシェル・フーコー像を大きく進展・上書きした(生政治の解像度が上がった)のものも本書執筆の大きな動機だったのかも…
 戦後の復興も繁栄も、共同体を破壊された農村の人々を搾取の原資にすることで成り立っていた(言わずもがな、その「仕上げ」として福島に押しつけられた東京のための原発の津波被害があった)(だとしたら、これらは先人の「努力」などと美化していいものではない)というのは、この国を「三番目のカテゴリ」にした成功にたいする、最も冷たい解釈だ。
 そこまで残酷でなくとも、地の利により植民地化を逃れた・戦後の東西対立においてアメリカの前線基地として重要視された・朝鮮戦争の特需によって潤ったなどなど、外的条件(フォルトゥナ)に繁栄の理由を帰する視点はいくらでもある。
 逆に、これらの対極にあるのが「先人の努力があったから」「日本人は有能だから」と、内的な卓越性(ヴィルトゥ)で成功を説明しようとする立場だろう。さらには過去の成功だけでなく「だから今後も成功するはずだ」と未来まで勝ち取ろうとする声は、安倍政権(とくに第二次安倍政権)の継承者を自認する新内閣のもとで今後ますます大きくなるかも知れない。なので「それは違う」「そんなところに殿はいないぞ」と釘をさしておきたい。
 考えてもみよう、エジプトやギリシャやイタリアが近代や20世紀になって爆発的な繁栄を見せたとき「エジプト人は最古の文明を誇る民族だから」「ソクラテスやアリストテレスを輩出したギリシャ人ですから」「イタリア人はローマ帝国(以下略)」と自賛した人たちがいただろうか。いや、いたかも知れないけれど、それは外からどう見えたか。

 そして売り言葉に買い言葉で言いますけれどね、これから日本が没落して三番目から四番目のカテゴリ、アルゼンチンやギリシャの仲間になるとしたら(「これからなる」じゃなくて、もうとっくに片足か両足か突っ込んでる気もするけれど)それを「時の運」以外に誰かの責に出来るとしたら、ロクに決定権も持たない下っ端労働者や・まして子どもじゃなくて、この社会だか経済だかの舵取りをしてきた社長や大臣や経営コンサルタントがまず責められるべきじゃ、ないんですかねえ?
 これが言いたかっただけの今週かも知れません。さらばじゃ。

マイノリティに変成する〜『黒人理性批判』『サハマンション』『荒潮』(25.11.24)

 「アフリカ・アメリカ人のキリスト教を苛[さいな]む問いは、キリストは本当に黒人の代わりに死んでくれるのか、という問いである」(『黒人理性批判』)
 今回また例によって前半、キチンと筋道たてて説明を試みたら晦渋になっちゃった(お前ほんとカイジュウ好きだな!円谷プロか!←そのカイジュウではない)ので、いいからサッサと本題に入れというかたはココを踏んでみな、跳ぶぜ…

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 フランスの「現代」思想コンビ(現代といっても半世紀前なのですが)ドゥルーズ=ガタリは、と言うより難解をもって鳴らす彼らの著作を他の何物でもなく「資本主義廃絶のプログラム」として読み解いた佐藤嘉幸・廣瀬純『三つの革命』(講談社選書メチエ/2017年/外部リンクが開きます)の主張が本当ならば、20世紀前半の共産主義革命を再構築した『アンチ・オイディプス』・世紀後半の第三世界の独立運動やマイノリティの権利運動を評価した『千のプラトー』に続く最後の共著『哲学とは何か』はマイノリティへの自らの搾取を「マジョリティであることの恥辱」として受け止めること、さらにマジョリティが「動物に変成」すなわち自らをマイノリティとして再構築することを説いた、らしい。
 23年3月の日記ではこの「マイノリティへの自己変成」を吾がこととしては実感できず「マジョリティの恥辱」(こちらなら分かる)にのみ言及していたのだけれど、このドゥルーズ=ガタリ(佐藤=廣瀬)すなわちマジョリティ側の問題提起への、当のマイノリティ側からの応答アシル・ムベンベ黒人理性批判(原著2013年→宇野邦一訳・講談社現代選書メチエ2024年/外部リンクが開きます)だ。
 いや、本当に応答なのだ。仏領だったカメルーンに生まれた著者はフーコーやドゥルーズ=ガタリ、ラカンにバタイユとフランス思想を縦横に駆使しながら、たとえば今月はじめの日記参照で紹介した(やはりマジョリティであるイギリス白人の)マーティン・バナールが軽くふれるに留めていた「近代ヨーロッパ人の白人至上主義(←こちらの「内部」告発がバナールの本命だった)が、いかに非白人の自己認識まで『自分たちは二流だ』と歪めてきたか」を、貶められた「黒人」の側から精緻に論証する。
 ムベンベ氏(1957〜)がフーコー(1926〜84)の肩を抱いて二人おなじアングルでニカッと笑ってるイラストにキャプション「いや似てない別に似てない、メガネと坊主頭が同じだけだから(互いに面識あったかも知らんて)」
 言い替えるとドゥルーズ=ガタリの訳者でもある宇野邦一氏が邦訳を買って出るまで日本で手つかずだっただけあって、前半かなり難渋でもある。けれど後半ぐいぐい加速がかかる。とくに、時間や主客まで入り乱れ幻想的な叙述を繰り広げるエイモス・チュツオーラなどアフリカ小説が描く世界を、近代ヨーロッパの合理的価値観に席捲される「前の」人類の自由な発想・いわば魂の起源(ふるさと)ではなく、そのヨーロッパの苛酷な植民地支配によって粉々にされてしまった自我の表出(そう読むしかなかったのだけど誤読だったらすみません)として捉え直すくだりは、現代思想とか知ったこっちゃないがチュツオーラの作品は好きなひとにも、今まで慣れ親しんだ幻想文学の読み直しを余儀なくさせるだろう。
 「チュツオーラ、個人的にはブライアン・イーノとデヴィッド・バーンが同名のアルバムを出してた影響で『ブッシュ・オブ・ゴースツ』は読んでるけど三倍すごいと言われてる『やし酒飲み』は未読なんですよね…これは読めという啓示?」と『ブッシュ・オブ・ゴースツ』のアルバムジャケットっぽい抽象模様を背景に考えてる自画像。
 そして「近代と人種主義は同時に発生した」と看破する著者が、だからこそ抑圧され自我を粉々にされてきた黒人の側にこそ、今の歪んだ社会をくつがえす契機があると訴える終盤は圧倒的だ。「私たちが想像しなければならないのは人間的なものの政治であり、それは根本として相似するもの(※同じ人間どうし)の政治であるが、これはまさに私たちがそのとき共有するものが諸々の差異である、という文脈においてのことである」(※部と強調は引用者)という反グローバリズムともいえる鼓舞が、まさに多数の文化に細分可能なのに「黒人」と一絡げにされてきたアフリカを梃子の支点にしていることは真摯に受け止める必要がある。なんとなれば著者ムベンベは、近代このかたアフリカが・あるいは「新」大陸に強制移送させられた「黒人」たちが嘗めてきた暴力や抑圧は、けれど黒人だけのものではないと説いているのだ。
 フランス領アフリカ出身の現代思想家の先達=フランツ・ファノンが宗主国に虐げられた自国チュニジアを表現した著作のタイトルを引いてムベンベは言う。「新たな「地に呪われたる者」とは、権利をもつ権利を拒まれた者たち、動いてはならないと決めつけられた者たち、収容所、臨時滞在センター(中略)留置場所など、あらゆる種類の監禁施設で生きる羽目になる者たちである。それは弾圧された者、移送された者、追放された者、不法滞在者、その他あらゆる「身分証明のない」(者である)そもそも序章で彼は、本著が導き出すテーマ、テーゼとして「人間存在の(略)モノへの変換、デジタルデータとコードへの変換」「さまざまな秩序の毀損、自己決定のあらゆる能力の剥奪、そしてとりわけ可能性の二つの母体である未来と時間の剥奪」21世紀・誰もが代替可能になった新自由主義・グローバル資本主義の席捲を「世界の黒人化」と呼ぶのである。アフリカ黒人が被ってきた人権の剥奪・自由の逸失は、もはや1%の富裕層「以外の」すべての人々が直面する「吾がこと」であると。ドゥルーズ=ガタリ(佐藤=廣瀬)が言挙げしてきた「マイノリティへの変成」を、こうしてムベンベは抑圧を受けてきた「先輩」の側から裏づける。

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【ここまでのまとめ】
1)フーコーやドゥルーズ=ガタリなどが白人マジョリティの側から「オレたち西洋近代ってロクでもないな!」と内部告発してきたものを、ムベンベは虐待されてきたアフリカの側から「うんうん、本当にロクでもなかったよ」と裏づける。
2)そしてD=G(佐藤=廣瀬)が訴えた「マイノリティへの変成」を、ムベンベは「むしろ望まなくてもそうなるね(全人類的な自由や人権の剥奪=世界の黒人化)」と請け合う。

 『千のプラトー』期のDGが第三世界やフェミニストなどの権利「獲得」「拡大」に着目していたとすれば、『哲学とは何か』は21世紀には同じマイノリティの人権「剥奪」こそが哲学(この世界をどう捉えるか)の焦点になるという予言の書だったのかも知れない。だとすれば、その極限は、たとえばガザで繰り広げられている光景だろうか。「黒人化する世界」の極限にあるのが「ガザ化する世界」でないと、誰に言えるだろう。

 『82年生まれ、キム・ジヨン』(スマンしんどそうなので未読)が大ヒットしたチョ・ナムジュサハマンション(原著2019年/斎藤真理子訳・筑摩書房2021年/外部リンクが開きます)は私企業が囲い込んで独立国家となった『タウン』、いわば正社員にあたるL層と(待遇的に)非正規雇用に相当しそうなL2層・そしてL2ですらない最下層からなる格差社会にして管理社会を、最下層たちが吹きだまる「サハマンション」を軸に描く物語だ。
 つまり生真面目に分類すれば「近未来SF」に位置づけることが出来る。同じ韓国の、こちらは一棟つうても674階あるマンションが単体で国家(的なもの)と化したペ・ミョンフン『タワー』(24年5月の日記参照)と同じ箱に入れられそうだ。サハマンション、SFでいいのかよ?同時に頭に浮かんだのは、こちらは中国のSF=ハオ・ジンファンの「北京 折りたたみの都市」(20年6月の日記参照)であり、そしてこれはSFではないがマレーシア映画『brother ブラザー 富都のふたり』(今年2月の日記参照)だった。
 SFでないものまで含めてしまった、これらの作品の共通点は何か。過密都市・またはその過密を集約したような一棟の高層建築が物語の主舞台になること。その建物は『サハマンション』や『富都のふたり』に顕著なように、国籍を喪失した者・市民権を剥奪された非正規滞在者たちが摘発をおそれながら雨粒をしのぐ最後の逃げ場所であること(ここでムベンベが「世界の黒人化」として国籍喪失者に力点を置いていたことが思い出されたい)。非正規滞在者への弾圧と蔑視は、もちろん吾が国でも現実の問題だ。つまり上記にあげた作品群の、もうひとつの共通点として、SFとも取れる設定を用いながら、現在の社会の問題(格差社会・管理社会・企業支配・なにより人権剥奪)と地続きのテーマを直に扱っていることが挙げられる。
 書影。『黒人理性批判』(左)と『サハマンション』(右)
【再度ここまでのまとめ】
3)ムベンベが説く「いやでも黒人化する世界」を、韓国や中国やマレーシア(台湾合作)=アジアの作家たちは敏感に作品に反映させている・ようにも見える。
4)それらの作品は近未来(でもある現代)を社会学的な「構造的不正義」として捉え、排除され遺棄されるマイノリティの視点から描いている。
 こうした作品が、僕の知らないところで、この国(日本)でも生まれているのだろうか。いちおう言っておくと、こうしたテーマを作品に昇華させることは、作者としての僕の手には余る。自分以外の誰かに期待する。いや別に日本の作家がものしなくても、現にこうして他の国の作家がものして呉れているのだから、それを享受すればいいのだけど。国籍じゃなくて、同じ階層(同じ問題意識の持ち主)で結託すれば。

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 興味ぶかいのは「黒人化」「マイノリティへの生成」というムベンベやDGの社会哲学的な主題を逆転写することで、上に挙げた作品=『サハマンション』や「折りたたみ北京」・『富都のふたり』を読み解く文芸的・文学部的な試みが「そうか、これらの作品を特に切実にしているのは、自分たちをマイノリティに寄せていく作り手や受け手の意識(または意識の変化)なんだ」と気づけることだ。
 現在のテクノロジーや社会問題を十年か百年か進んだ形で描くことで社会批評的なSFを描くことはできる。けれど『サハマンション』を『サハマンション』に(そして「折りたたみ北京」や『富都のふたり』の姉妹に)しているのは、そこではない。
 たとえば故・伊藤計劃氏が残した近未来SF―『虐殺器官』や『ハーモニー』が現代=すでにあるヤバい未来を鋭く作中に盛りこんだ、すぐれて社会批評的な作品であることは疑うべくもない。けれど、その主人公たちは(たとえば最後に現代から爪弾きされた例外的な存在であることが明かされるとしても←ややネタバレ)基本的に女性であっても「タフガイ」で、そこに読み手じしんのマイノリティ性・フラジリティ(フラジャイルさ)を見出すには、かなりな想像力の跳躍を必要とする。
 『三体』の劉慈欣が激賞し、『あなたの人生の物語』のテッド・チャンが英訳したという陳楸帆荒潮(原著2013年/中原尚哉訳・早川書房2020年/外部リンクが開きます)も・現代世界への社会学的な批評を含んだSF・超管理社会と超格差社会を独立国家のような閉域に集約という意味で『サハマンション』〜『富都』と同じ箱に入れても良さそうな作品、に見えなくもない。(いみじくも台湾の呉明益が『複眼人』で着目したのと同じ)廃棄物問題をモチーフにした点でも、環境アセスメントの名目で第三世界を食い物にするグローバル企業の手管も、鋭い社会への警鐘たりえている。その着想の豊かさ・解像度の高さ・スケールの大きさに「おいおい、これはサハマンションなどを軽く凌駕するのでは」と最初は思ってしまう。
 上の書影(黒人理性批判・サハマンション)のさらに右に『荒潮』が並んでいたことが明かされる引きの書影。
 なので『荒潮』が、そのスケールの大きさゆえに、一面では『サハマンション』を軽く凌駕しながら、一面では『サハマンション』の「刺さりよう」には匹敵し得ない(個人の感想です)ことは、創作論として興味ぶかいことだった。皮肉なことに、解像度を高め、スケールを大きくすることで、物語は「よくある壮大なエンターテインメント」に「終わってしまう」こともあるらしい。いちばん辛辣かも知れない言いかたをすると「なんかマーベル映画みたい」。主人公の米米は脱法のゴミ収集で労働基準法ナニそれで酷使される非正規移民の少女―というスタート時点では「マイノリティへの生成」の鑑のような設定だが、彼女がやがて世界の命運すら左右する存在に変じていくさまは(マーベル映画のブラック・ウィドウこと)スカーレット・ヨハンソンが超能力ヒロインを演じた『LUCY』と変わらない。あれはあれで面白い映画だったけれど「ただの」面白い映画だったなあというのは、次々供給されるゴチソウに口が驕った発言だろうか。
 皮肉なことに「よし社会問題か、盛りこんでやろうじゃないの」と腕まくりしてモリモリ盛りこみすぎた作品は、情報量やエンターテインメント性では(こう言うと下げてるみたいだけどエンターテインメント性って、とっても大事かつ得がたいものですよ?)勝っても「刺さる」切実さでは、ずっと素朴で駆使できる「技」もささやかな・けれど抑圧される無念・排除される憤りに寄り添った小規模なディストピアに勝てないことも、あるらしいのだ。
 過ぎたるは及ばざるがごとし。もちろん「過ぎたる」を目指すならば、それでもよい。けれど社会と物語を上手く、切実につなげるには、その饒舌さが逆に妨げとなることも、あるのだろう。せっかく引き合いに出したドゥルーズの言葉を最後のオチにするならば動きすぎてはいけないことが、創作においても、あるのかも知れない。なんか下げちゃってごめんね、荒潮。面白いは面白かったんだよ…

小ネタ拾遺・25年11月(25.11.30)

(25.11.02)少し前の記事だけど「7月の参院選の結果、消費税減税を公約した議員が衆参両院で多数になりました。1989年に消費税が実施されてから、36年の歴史の中で初めてのことです。(中略)消費税減税を公約した政党・議員には公約を守る責任があります」(赤旗10/19号)消費税を下げろという主題もだけど「いや公約を守れし」という真っ当すぎるのに世間では「守るわけないよ」と諦められがちな主張を押し通すことから始めるべきではないかとも思う。
(同時刻追記)実家のテレビで高市新政権の防衛予算増大を取り上げ、まあ論調は批判的なんだけど、識者が「仮にこれが消費税の負担になった場合XX%の負担に…」いやなんで防衛費増額を消費税で賄うような喩えで話を進めてるんだよ。その気はないと思うんだけど外堀を埋められてるみたいでヤだ。
(追々記)翌朝のニュースはOTC類似薬が保険適用外になるかもという話題。3千億円くらいの医療費削減になるというのだけど、こういう時にこそ「米国の言い値で買うステルス戦闘機X機分と同じ値段です」と言い添えてみたらどうか。
・参考:日本配備開始のF35B戦闘機 運用・維持に1機856億円(赤旗2025.8.26)

(25.11.03)実家で貰ってきたスキヤキの残りにルウを割り入れた変則カレー(または残ったスキヤキの変則処理)。ゆるくキャンプする漫画でそんな話ばかりしてるのを読んで一度してみたかったのです。人生で大切なことの結構かなりな部分は漫画が教えてくれる。
 牛肉とクタクタになった白菜・糸こんにゃくがソレらしいスキヤキカレー(コロッケ添え)。楕円形のカレー皿の外に元ネタになった『ゆるキャン』の書影がチラ見え。

(25.11.04)「私はみんなに、どんどん書きなさいというアドバイスを送りたい。なぜなら、書くという行為は、人生という家に部屋をひとつ付け足すようなものだからだ」ヘンリー・ヒッチングこの星の忘れられない本屋の話(原著2016年/浅尾敦則訳・ポプラ社2017年/外部リンクが開きます)は世界の作家15人を語り部にした、本屋をめぐるエッセイ集。北京の本屋で「外国人お断り」とされたカーテンの奥に積まれたホチキス留めのコピー紙の山は…というイーユン・リーの話、少女だった彼女がむさぼるように読んだ「それ」を、だいたい同世代の僕も父が一時期(日本語版を)購読してたこともあって読んでいた(個人的)面白さ。そして反体制を訴える著書のサイン会でデモへの参加を呼びかけたエジプトの作家アラー・アル・アスワーニー「私を憶えていますか?あなたの呼びかけを聞いて、このデモにみんなで参加することを決めたんです」という若者たちに逆に鼓舞され、ついにはムバラク政権打倒の一員となる「蛇を退治するときは……」は全編の白眉だろう(個人の意見です)。
 木のベンチの上に置かれた『この星の忘れられない本屋の話』書影
ちなみに一風かわったタイトルは警察に蹴散らされ「今回はこれだけで十分な成果だろう」と立ち去りかけた著者たちの前に現われて、風のように消え去った清掃車の主の言葉蛇を退治するときはよ、完全に息の根を止めなきゃだめだぜ。あんたが殺(や)られる前に蛇を殺っちまうこったに由来している。その言葉にハッとなった人々は、一度は追い払われた広場へと引き返す。未読の本をこれから愉しみたいひとには興ざめなネタバレかも知れないけれど、いつかこの知恵がこの国でも役に立つかも知れないので備忘のために記しておく次第です。

(25.11.06)社会学者のバウマンによれば、人々を無作為に看守「役」と囚人「役」に分けた「だけ」で前者が後者に拷問や虐待を始めたという、いわゆるスタンフォード監獄実験を近年ポーランドの芸術家が再実験したところ、正反対に両者は相互理解につとめ円満な関係が打ち立てられたらしい。20年代にテイラー主義を生んだ労働者への規律の強制も、後に別の実験で服従的要素を取り除いたほうが効率が高まる結果を示したとか。実はこれには仕掛けがあって(もっともスタンフォードの実験にも「仕込み」や「ヤラセ」があったとも言うが)
 『社会学の使い方』書影。
それぞれの「再」実験では「これは看守役と囚人役がヤバい関係になってしまう実験の再テストなんです」「これはテイラー主義を…」と最初から知らせていたというのだ。それで被験者たちは「そうはなるものか」と寛容や自発性を発揮したと。なぁんだ、と思うかも知れないが、言いかえれば「それは差別です」「公正ではありませんから、続けてるとヤバいことになりますよ」等々アナウンスしていくことは無意味ではない(それで人の行動を変えうる)と感じたのですが如何か。二人の弟子(?)を相手にした2014年のインタビュー『社会学の使い方』(伊藤茂訳・青土社2016年)にあった話から敷衍。

(25.11.08)JR大塚駅そば・ビルの2階にある「宇野書店」は「街の本屋さん」を謳う小さな手書き看板から正直さほどの期待もなく階段を登ったのだけど、登ってびっくり入口で靴を脱いで上がるしくみの店内は緑の人工芝が敷き詰められた中、余裕をもってレイアウトされた木の棚に人文系の書物や岩波文庫・岩波少年文庫・講談社学術文庫などが一揃い。現代日本のいわゆる論客みたいな人たちの著書が並んだ平積みに、途中で「宇野」書店て(読んだことないけど)(すみませんねえ)宇野常寛さんの個人書店かと突然気づく。
・参考記事:#今月の本屋さん 宇野書店(東京都・大塚)(PIE International/25.8.05/外部リンクが開きます)
記事に使用された写真は今年8月・オープン前の内覧会のもので招待客でごった返してますが、今はいい具合に落ち着いてます(落ち着きすぎてちょっと心配。近くのラーメン屋とかには行列が出来てるのになあ)。キャッシュレスのセルフレジで無人の店内には座れる場所と丸座布団がいくつも配されており、ちょうど良かったので自分が持ってるのとは別の文庫で出ているフロイト『モーセと一神教』(昨年10月の日記参照)(今年3/15の小ネタもお読みいただくと分かるとおり同書に関しては自分の理解にとんと自信がないのよ)の解説だけパラパラと、立ち読みならぬ座り読み。それとは別に未読だった網野善彦氏の文庫をピッして持ち帰りました。
 福島亮太氏選書フェアのリーフレットと、網野善彦『歴史を考えるヒント』書影。網野氏の「この」本は福島氏のリスト外(つまり宇野店主のセレクトかと…)
今は「福島亮太氏が選ぶ100冊」と銘打ってマクルーハンから人工知能・哲学から脳科学・『今すぐソーシャルメディアのアカウントを削除すべき10の理由』なんて挑発的な書名の本まで(わははは)選書されたフェアを開催中。自由に持ち帰れるリーフレット形式の100冊リスト(すべて選者のコメントつき)だけでも、近場のひとは取りに行く価値あり?ちなみに網野氏からはちくま文庫の『日本の歴史をよみなおす(全)』が選ばれていました。

(25.11.14)特に今週は最悪の落ち込みで(理由はお察しください)ここ数日はこのリリックビデオでかろうじて正気を保っていた…いや、もしかして
 
かろうじて保っていたのは、つねひごろ必死で死守しているのは「いかん、このままでは正気に戻ってしまう」というアレだったかも知れない。こんな世の中が正気なら、むしろ正気でいられるほうがおかしかないかい?←正気を逸しかけてる人の発想

(25.11.15)池袋に通う日々も終わりが見えてきたので、気になる食べ物を可能なかぎり食べとこうと思った矢先、前々から気にしつつ後回しにしていた西早稲田の「熱干麺」が売りの中華居酒屋(?)の閉店を知る。だから看板に「見た目はシンプルですが」とか書いちゃダメなんだよう!餃子も大ぶりだったらしい。無念。
 置き去りにされた「熱干麺」の看板。紹介文にいわく:本場・武漢名物「熱干麺(ねかんめん)」とは?中国・湖北省武漢市のソウルフード、「熱干麺」は、中国でも非常に人気のあるご当地麺料理です。ゆでた中華麺を冷ましてから、ごま風味豊かな特製タレとよく混ぜて食べる、汁なし和え麺スタイルの一品です。香ばしい芝麻醤(ごまダレ)に、少量の辣油やにんにく、刻みネギなどを合わせた奥深い味わいが特徴で、一度食べたらやみつきになる美味しさ。見た目はシンプルですが、コクと香りが広がる「やみつき系麺料理」です。「ラーメンでも担々麺でもない」新感覚の中華麺を、ぜひ一度お試しください!
今年5/25の小ネタで紹介した市ヶ谷のラグメン(ウイグル料理)のお店も今月のはじめ閉店(ワンチャン改装…ではなさそうだった)を確認。外食は(も?)難しいのかも、とくにニッチなのは。
重要な訂正】市ヶ谷のウイグル料理店、すっかり閉店感を醸し出してて勘違いしましたがリニューアルだったようです。
シルクロード ウイグル料理 キャラバン(外部リンクが開きます)
店名が微調整されたかも。前はラグメンの写真がどーん!だった看板もシルクロードっぽい感じに。
 ラグメン写真を全面に打ち出した以前の店頭看板と、砂漠にラクダをフィーチャーした今の店頭看板。「ウイグル料理」ロゴのフォントはそのまま。
今にして思えば改装工事中だった時に、外国から来たっぽい別の通行人が「あちゃー閉店」みたいな感じでスマホ写真を撮ってたのにも釣られた感ある。復活を知らないまま帰国されてないと好いが…ちなみに西早稲田の熱干麺は厨房設備まで廃物として外に出されていたので復活はなさそうだけど、ワンチャン、ワンチャンあるかな…

(25.11.16)400年の時を経て今なお、この果物を食べようとすると「柿は痰の毒」という言葉と逸話が脳裏をよぎるので、残るものと残らず儚く消え去るもの、人の営みってなんだろうなと思ったりする。まあ食べちゃうんだけど。三成もこんな形で記憶されるとは予想しなかったに違いない。
 スーパーのクシャクシャ感のあるポリ袋の上に、無造作に置いた感じな柿の写真。
滝田栄がタイトルロールを演じた往年のNHK大河『徳川家康』では鹿賀丈史氏が石田三成を演じていて、短い出番ながら野心家のギラギラした眼光が印象的だった。同ドラマの前半では、これも短い出番だったと思うが織田信長に抜擢された役所広司が絶賛され、翌年(大河ではないが)一年通しのNHK時代劇『宮本武蔵』の主演に。武蔵に役所・又八が奥田瑛二・おつう古手川祐子・朱美に池上季実子というパーフェクトな配役だった。400年前と、40年前の話。

(25.11.17)近所のあちこちにビラが貼られていた朝鮮学校(中・高)の交流イベントに、ちょっとだけお邪魔。出遅れて校内に準備された「YOUは知ってる?在日コリアンのこと」「見て、聞いて、感じよう!朝鮮の文化と歴史」などの展示には間に合わなかった(ダメダメじゃん)分かも知れない、折りたたみ式の長机とパイプ椅子で軽食(トッポッキとウィンナーを交互に串にさしてコチュジャンソースをかけた「ソトッ」とカルビスープ)に舌鼓しながら生徒たち自ら司会・出演しての「大声コンテスト」「腕立て伏せ(以下同文)」などの余興に手を叩いて笑っていたら、もちろんアイデンティティの違いは重要で尊重しなければいけないのだけど、それと同じくらい「同じだな」あー「ふつうの十代の子たちだと感じずにおれなかった。
 なんか十年前に家族で旅行したマレーシアで、現地のひとに「あなたたちはコリアンか」と訊かれたのを思い出す。そりゃそうだよ、アジアの反対側(?)から見たら区別なんてつかないし、まして中高生。隣り合った同じ土地に住んで、同じようなコンビニやら何やらに出入りして、同じようなコンテンツを見て日々笑ったりしてるんだもん。サービス精神たっぷりにおどけてみせる陽気さも、たぶんその陽気なしぐさの一枚下には夢も憧れも屈託もある「ふつうの」子たち。違いを尊重するのと同時に、同じさも尊重する、そういうふうには出来ないものだろうか。
 左・街に貼られた「神奈川朝鮮中高級学校・文化交流祭」のビラ。中・カルビスープと「ソトッ」。右・「日本人ファースト」を謳う政党のポスター
だもんでそんな「ふつう」の子たちが路地を入って高台の上の学校に通うには、必ず通らなければいけないだろう道の塀に、威風堂々てな感じに胸を張る党首(男)の写真と並んで「日本人ファースト」とゴチック体で大書された政党のポスターが毎朝毎夕いやでも目に入るよう貼られているのには「なるほどコレが“大和魂“ね」「“サムライ”の流儀か」「ずいぶんと“男らしい”もんだな」と嫌悪感をぬぐえなかった。てゆか愚かなくせに(愚かだからか)傲慢な同胞が本当にすまない。

(25.11.18)年の後半に入って気が緩んだか、もう不用意に増やさないはずの本を何度も買い増してしまっている。昨年の今ごろに買ったアンソロジー鬱の本(点滅社/外部リンクが開きます)を久しぶりに読み返していたら(お察しください)、寄稿者の一人が「心身の低迷期には『菜根譚』が効くぜぇ…」と書いていて、推奨されてたのとは違う訳だけど入手しやすい岩波文庫版を落手。元は中国・明代末の書物。漢方薬のように、じんわり効いてくれますようにと本に手を合わせる。
 書影:『鬱の本』と『菜根譚』そして『われら』。
実は恥ずかしながら未読だったザミャーチンわれら』も一緒に購入。こちらはアーシュラ・K・ル=グウィン『夜の言葉』で推奨の一冊=つまり数十年は後回しにしていた(ごめんなさい)、1920年代・旧ソ連のディストピアSF。積年の不義理をあと一ヶ月半ほど延ばし、年末はこれら文庫を供にして軽い(けど濃ゆい)荷物の電車旅に出る予定。

(25.11.22)有言実行。9月の小ネタで「涼しくなったら食べるよ」と宣言した期間限定「見た目こってり・食べてあっさり こっさり」塩ラーメン、期間ギリギリで食べてきました。
 左:こっさり(見た目こってり、食べてあっさり)を謳う「塩壱郎ラーメン」店頭ポスター写真。右:実物。チャーシュー1枚・おろし生姜と謎の白い物体(脂じゃなきゃいいけど)がトッピングされ野菜たっぷり・白いスープの塩壱郎ラーメン。最後の追いめしつき。
器は予想よりコンパクトだったんだけど実食すると「で、どうでした?こってり?あっさり?」「…がっつりでした」というボリューム。でもガッカリではなかったよ!とはいえ大目の野菜とお店オリジナル・トッピングし放題の生姜(幅5ミリ・長さ3センチくらいに刻まれてる)がありがたいお年頃。腹ごなしに二万歩あるく金曜の夜でした。

(25.11.23)なぜかオススメされた「逆再生芸人」とでも呼ぶべき動画を見て
逆再生で1500m走ったら、笑っちゃうぐらいキモい動画ができました!!(和泉朝陽のわくわくぱ〜く/YouTube/外部リンクが開きます)
数十年来の謎が解けたというか(最近こんな話ばかりしてますね?)ただただ異様さに圧倒されてたドラマ『ツイン・ピークス(パイロット版)』のラストシーン=小人とローラ・パーマー(似の従妹)の異世界から来たような不自然な発話も、なんのことはない逆再生だったのか
Twin Peaks - Red Room Full Scene HD(YouTube/外部リンクが開きます)
んにゃ「私たちは音楽が大気を満たし鳥たちが素敵な歌を唄う場所から来た」「ときどき腕が後ろに反り返ってしまうの」のインパクトは薄れそうにないけれど、ともあれ真相に気づけてよかったですね、舞村さん(仮名)?

(25.11.26)「6匹の猫を全部見つけられますか?」ってゆうゲームアプリのネット広告なんですけど
 「6匹の猫を全部見つけられますか?」というゲームアプリの広告。白地に白い×(うっすら灰色で影がついている)の視認性が極端に低い。
猫よりこの広告を消す×印を見つけるのの難易度が高すぎやしませんかねえ!?

(25.11.27)どうせ開業たって10年以上先だしJR蒲田と京急蒲田を結ぶ通称「蒲蒲線」には、どちらかの駅の発車ジングルをカルチャー・クラブにしてほしい以外とくに要望はない。強いて言えば車体の色もレッド・ゴールド&グリーン、レッド・ゴールド&グリィーィィーン♪に、してほしいかな。
Culture Club - Karma Chameleon (Official Music Video)(YouTube/外部リンクが開きます)

(25.11.30)よほど疲れていたのだろう、明晰夢を立て続けに10回くらい見る。いや、明晰夢とゆうか「目が醒めると自分の寝室を知らないおじさんが黒い仔犬(かわいい)を散歩させながら通り過ぎるところで、部屋を出ようとするおじさんの背中に分かった!あなた幻覚(夢)ですね?と問いかけて(本当に)目が醒める」みたいなのを10回くらい。帰宅したけど冷蔵庫の配置が違う、これも幻覚(夢)だとか。らせん階段に女の子がびっしり横たわってて上に行きたいんだけど登ったらロリータ服の子とかスカートの中まる見えになっちゃうな、まずいなやめとこうと別の道を歩いてたら「11月23日は『いい兄さんの日』」と看板が出てて、あ、なんか今すごく街にあふれてる「女の子」たち全員「男の娘」だな、そしてこれも夢だな(笑)だって今日はもう11月25日だもんと夢の中で思ったり…23日でも25日でもなく30日でした。また来月。

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2512  2510→  記事一覧  ホーム